ダブルデートの後、優雨とのデートは、理絵ちゃんたちと同じように都内に出かけることが多くなった。
 会う頻度も増した。
 ついこの間までは心臓と洋服が持たないという言い訳をして怖気づいていたのに、あのダブルデートを経てデートへの恐怖感がなくなったのは思わぬ副産物だった。
 山本さんと理絵ちゃんのいちゃつく姿にあてられて、もっと優雨に会う時間がほしいと思っていたら、彼も同じ気持ちだったらしい。

 私たちはあえて人の多いところへと流れていく。
 出発場所のF駅さえ気をつければ、電車の中も、行先の都内も、みんな見知らぬ人な上に、それぞれ自分のことだけを考えて過ごしている人たちばかりだ。

 周りの人に興味がなく忙しそうにしている。
 人の多いところは直線で歩くことすら大変で、視野を狭くしないと歩くことさえ難しい。

 だからこそ埋もれることができて安心した。

 優雨のことだけを見ていればそれでよくて、他人の目が気にならない。
 我ながら自意識過剰だけど、芸能人が海外に行く気持ちが分かった。

 私、笑えている。

 優雨と私のバランスを比べる人を気にすることなく、優雨をチラチラ見る人を気にすることなく。
 誰のことも気にせず、優雨のためだけに。

「今日のお店、ずっと行ってみたかったんだ。
 楽しみ」
 目的地に向かう電車の中で私は笑った。
「そりゃよかった」
 そう言った優雨の目尻の笑いじわが愛しい。

 電車の窓の外では、飛ぶように景色が流れていき、ひとつひとつの景色を認識しようとしても脳内の処理が追いつかない。

 逆に、バイトの後に公園で話をする時間が減っていった。
 それは、そのときに話さなくても、その週末、都内に出かけるときに話してしまうから。

 一緒に過ごす時間が多くなっていくにつれて、私の敬語がなくなったこともあってか、優雨との距離がその分近づいている気がする。

 私と優雨の身長の差は二十センチ以上あるけれど、最近はそんなにその差を感じない。

「ねえ優雨、ギュッてして」
「いいよ」

 デートの帰り、夜の公園で、呼吸が苦しくなるくらい抱きしめられる。

「ちょっと。苦しいよ」
 笑いながらそう言うと、彼が心臓を抱きすくめるかのような目を伏せて、素早く自分の顔を私に近づけ、深く唇を重ねた。

 もうすぐ、高二の夏休みが終わる。

 柔らかくてあたたかい彼を全身で感じながら、遠くでひぐらしが寂しげに鳴いているのを静かに聞いていた。


 それは九月に入ってのデートで、カフェでお茶をしているときが最初だった。

 優雨が何気なく私の外見に関して放った言葉が、喉に刺さった小骨のように気になっていた。

「ねぇ、髪の毛巻いたりしないの?」
「メイクはしないの?」
「洋服一緒に買いに行こうか?」

 もちろん、そのどれもが柔らかい口調だったけれど、だからこそ逆にそれらの発言の本心を測りかねた。

「どうしてですか?」

 毎回驚いてたずねる。
 久しぶりに敬語に戻ってしまう。

 ソイラテを飲んでいたストローを口から離してしまい、その勢いで氷と一緒にストローがグラスの中で頼りなげに回る。 

 確かに、付き合うきっかけになった最初のデートのとき以外、髪型は凝ったヘアスタイルにはしていないし、まだ高校生で、母がメイクを許してくれないのでしていない。

 でもそれは私の問題だし、優雨には関係なかった。

 家に帰ってひとりになってからよく考えてみても、そのことで優雨に対して何か迷惑をかけているとはどうしても思えない。

 私の疑問に対する彼の回答は毎回ほぼ同じで、
「もっと可愛くなれるから、その姿を見てみたいと思ったんだよね」
 といったようなものだったけれど、釈然としなかった。

 洋服については「俺がプレゼントするよ」と言われ、それ以上は断れなかったので一緒に買いに行ってみた。

 部屋にかかっているフレアスカートと袖の一部がシースルーになっているリボン付きのカットソーに視線を向ける。

 確かに優雨の買ってくれたこの洋服は、見ているだけでも可愛い。
 フェミニンでキュートな服。
 自分だけで買いに行ったら、絶対選ばない種類の服だった。

 優雨に連れて行かれた店で試着を勧められ、着るだけならと思って着てみると、予想外に自分の雰囲気にピタリとハマっており、自分で言うのも何だが文句なしに似合っていた。

 しかもサイズまで合っていて驚きを隠せない。
 標準体重から大きく外れている私に合うサイズの服を置いている店はそんなに多くないのだが、なぜそんな店を彼が知っているのかも分からなかった。

「めちゃくちゃ可愛いね。
 すごく似合う。
 いいと思う」

 彼はとろけるような笑顔で褒めてくれた。

 彼の審美眼は間違っていない。
 いやむしろ、とても正しい。
 自分でも似合うと感じたぐらいだから。

 ただ、彼が、私の外見にこだわり始めたという事実が、思いのほかとても引っかかった。

 彼好みの私になることについてはそこまで嫌悪感を感じない。

 でも、そのままの私を受け入れてもらえないのかなという諦めのような気持ちが、紙にインクが沁み込むようにじわじわと私の中で湧いてきて、どこまでも広がっていってしまう。

 霞がかった月がぼんやり光る夜だった。
 月がとても遠く感じる。
 その光は、私のところまで全然届かない。


 新学期が始まっていた。
 酷暑はほんの少しだけ鳴りを潜め、蒸気のような熱気が和らいだはいいものの、相変わらず外に数分いただけで汗の噴き出すような暑さが続いている。

 昼休み、いつものように食堂で理絵ちゃんとお弁当を食べていた。

 頭の中にもやがかかっているかのように思考がぼんやりする。

「……香世ちゃん!」
「えっ、何?」
「今の話聞いてた?」
「ごめん」

 理絵ちゃんに謝り、ダイエット対策として持ち歩いているレモン風味の無糖の炭酸水を一口飲んだ。
 最近こればかり飲んでいる。
 こないだも一ダース買い占めたばかりだった。
 強めの炭酸が喉の奥で痛いくらいに弾ける。

「何かあったの?」

 彼女から心配そうな目を向けられたが、左右に首を振った。

 ダブルデートのときに彼女と山本さんが密着して歩いていた姿が思い浮かび、ラブラブな理絵ちゃんには何となく悩みを言いづらかった。

「夏休み明けにあった実力テストで疲れているだけだよ」

 珍しく彼女に対して貼りつけた愛想笑いをしている自分に悪態をつきたくなる。

 お腹は全然空いてこないし、何ならさっき何を口に運んで食べていたかすら思い出せなかった。


 理絵ちゃんに言えない、優雨に対して気になっていることが二つある。

 ひとつ目は、彼が「好きだよ」となかなか言ってくれないことだ。

 もちろん、理解はしている。
 彼の態度や視線、腕や唇は、いつでも私のことを好きだと伝えてくれていることに。
 それでもちゃんと言葉で聞きたいと思ってしまうのは私のわがままなのだろうか。

 ある日の夜、生理前でホルモンバランスが崩れていたせいか、どうしようもなく気分が沈み、メッセージでつい聞いてしまったことがあった。

『私のこと、好き?』
『もちろん』
『ちゃんとはっきり言って』
『どうしたの?
 好きだよ』

 言葉で希望どおり伝えてもらったはずなのに、なぜか深い闇の色をした不安だけが現れ、心を覆いつくしていく。

 私が安心して飽きてしまうまで、彼にずっと「好きだよ」と言い続けてほしい。
 そうすればきっと、今日みたいな辛い夜もぐっすり眠れるから。

 強い光がまぶしいスマホから顔を上げて、自分の部屋の窓辺を見た。
 カーテンはきっちりと閉まっていて、月の光は入ってこない。

「優雨、好き。大好き。愛してる」

 枕元に鎮座するベルーガのぬいぐるみに向かってつぶやく。
 彼には届かない。
 でも言葉は現実化する。

 口にすればするほど彼への気持ちが加速していって止まらない。


 放課後、理絵ちゃんと帰りづらいなと感じ、ひとりで帰ろうかどうしようか迷ってしまい、リュックを背負ったまま自分の席から動けず、スマホを手に持って固まったまま自席に座っていた。

 身体に力が入らない。

「香世ちゃん!」
 理絵ちゃんが私の名前を廊下から小さく叫ぶ。
「理絵ちゃん。
 ごめん、今行くね」

 ゆっくり自分の席を立ち上がって、今日はやけにリュックが重いけど何でだろうと思った矢先、目の前が真っ暗になった。

 その後のことは覚えていない。


 私の気になっているふたつ目のこと。

 それは、優雨が私のことを名前で呼んでくれないことだ。

 名前で呼んでくれたのはあのダブルデートの帰りのときだけだったし、それまでは結構「雨宮さん」と呼んでくれていたのに、それ以降はぱたりと私の名字も名前も呼ぶことがなくなった。

 もちろんアルバイト中は「雨宮さん」「望月さん」と呼び合っている。
 だからこそ、切り替えて私は「優雨」と呼んでいる。

 でも、彼は私を「かよこ」と呼ばない。

 どうしてだろう。

 何かしてしまったせいなのかなと考えたけれど、彼を見ているとその態度からは私のことを嫌いになったわけでもなさそうだし、「好き?」と聞けば「好きだよ」と返してくれる。

 そしてそれが口先だけはないことは、彼の目を見れば一目瞭然だった。

 じゃあ、理由は何なのだ。

 徐々に膨らんでいく風船のような疑問だった。
 膨らめば膨らむほど理由をたずねるのが怖くなる。

 それに針を刺したくなくて、私は風船を見えないところに隠してやり過ごしている。
 こんなことで悩んでいることを誰かに知られたくなかった。

 きっと、幸せな悩みね、って鼻で笑われてしまうだけだから。