望月さんと私、そして山本さんと理絵ちゃんの四人でダブルデートをすることになったのは、理絵ちゃんとの電話中に彼女が放った一言がきっかけだった。

「私、望月さんが香世ちゃんにどんな顔するのか見てみたいな」

 冷静で論理的な彼女は、稀に一般人の私には理解不能な発言をすることがある。

「いくら何でもそれはちょっと。
 それに知っている人がいたら、二人のときとは違う対応をすると思うけど」
「そうかなぁ。
 じゃあ実際にダブルデートで確かめてみようよ」

 スマホの向こうで彼女はしれっと自分の欲する目的へと誘導する。
 やれやれ、と私は天を仰いだ。

 彼女の提案に乗るか、乗らないか、どうするか。

 しばらく考えた結果、彼女との関係を長期的に良好なまま維持する観点から、理絵ちゃんの希望に応えることにした。

 ついでに悪趣味かもしれないけど、私以外の人と一緒にいる望月さんと、理絵ちゃんの前で山本さんがどんな顔をするのか少し興味があった。


 四人で行くことになった場所は池袋にあるプラネタリウムだ。
 カップルシートがあるらしい。
 行程と行き先を決めたのは山本さんと理絵ちゃんペアで、池袋でランチを食べてからプラネタリウムに行くというコースに決まった。

 当日お昼少し前に、F駅前で待ち合わせをする。
 私が駅に着くと理絵ちゃんは既に着ていて、私の少し後に望月さんが来て、山本さんは待ち合わせ時間に5分遅れでやってきた。

 この日の望月さんは、白いTシャツの上に黒いジレを羽織り、黒いスキニーを履いていた。

 相変わらず服のセンスがいいなぁと見惚れてしまう。

 電車の中は少し混んでいて、私と望月さんは、山本さんと理絵ちゃんペアと少し離れてドアの横付近に位置していた。

 望月さんは、いつもどおり優しい瞳で私を見ながら話をしてくれて、私も安心して彼を見上げて喋っていた。

 よく言えば自分たちの世界に入っていた。
 電車が急停車して倒れそうになったときも「大丈夫?」と片手で支えてくれて、私はニコニコしてしまう。

 そういえば理絵ちゃんたちはどこにいるっけと思って目で探すと、何と彼女は瞬きの少ない目でこちらを凝視していたのだった。

 その眼差しの鋭さ、無駄遣いだよと突っ込まずにいられない。
 彼女は口角は上がっているものの、目が笑っていなかった。

 よく見ると山本さんもこちらを見て観察状態に入っている。
 このカップルは本気だった。

 望月さんも彼らがこちらを観察していることに気づき、シッシッと二人を追い払うジェスチャーをして、照れたように彼らから目を逸らした。

 池袋の駅からランチのお店に向かう途中、前を歩く山本さんと理絵ちゃんは、私たちが後ろにいることを忘れているのではないかと思うほど身体を密着させて歩いていた。

 私は何となく気恥ずかしくなり、見ていられなくて、行きかう人たちをキョロキョロと見回しながらゆっくり歩く。

 東京は人が多くて、良くも悪くもみんな周りを見ていないみたいだった。
 自分のことにしか興味がないから、私たちを見ることもない。

 だから理絵ちゃんたちも自分たちの世界に入っているだけなのだ。

 それに慣れていない私が戸惑っているだけで。


 カジュアルフレンチのお店に到着する。
 このお店が理絵ちゃんセレクトだと分かったのは、低糖質のランチを謳ったメニューを見たときだった。
 さすがダイエットコーチの娘。
 これは安心して食べられるぞと思い、意気込んでメニューを吟味し始めた。

 料理を頼んだ後、山本さんがさっそく私と望月さんに突っ込んでくる。
「で、二人はどのくらいデートしたりしてるの?」
 飲んでいた水を吹きそうになった。
 望月さんは顔を赤くしている。

「お前は知らなくていいよ」
 望月さんが焦っているのは新鮮だ。
 望月さんは彼のことを「お前」って呼ぶんだ。
 よっぽど山本さんと仲がいいんだな。

「何でだよ。
 オレには知る権利あると思うけど」
 山本さんがニヤニヤしながら望月さんに反論する。

「いや、別に言うほどまだ行ってないし。
 じゃあ何、宏樹はどれくらいで松本さんと会ってるわけ?」
 逆に望月さんが山本さんに質問する。
「そうだなぁ、週一くらい?」
「バイトで会うのはカウントせずにですか?」
 私もたずねる。

「うん、そうだよ。
 デートの場所は都内が多いかな」
 理絵ちゃんが答える。
 もし私がそんなに頻度で会っていたら、心臓と洋服が持たない。

「俺たちはバイトの帰りに一緒に帰って話をしているからね」

 望月さんがそう言って私を見る。
 私はうなずく。

 どこかに出かけるというよりもそっちの方が個人的には好きだったりする。

 もちろん、まだまだデートに対する私の恐怖感が強いこともその理由かもしれない。
 ドライブデートのときみたいに、他人の視線が気になってしまう。

 そしてあの、誰か知り合いに見られるかもしれないというスリルを感じながら公園でキスをするのがたまらないのだ。

 ものすごくキスが甘く感じて止められなくなる。

「うわ、今の優雨の目、やらしかった」
 山本さんが茶化してくる。
「やらしくないわ。
 ちょっと松本さん、宏樹止めてよ」

 望月さんが理絵ちゃんに助けを求めると、彼女はひんやりした声で山本さんに告げた。
「宏樹、恥ずかしいからやめてくれる」
「ハイ、ごめんなさい」
 小さく山本さんが返事をし、私と望月さんはお店の迷惑にならないように笑いをかみ殺した。

 ランチのメニューが前菜から順に運ばれてくる。
 このお店のパンは、見るからにふわっふわで、そこにホイップバターをつけて食べると口の中で溶けてなくなってしまうほど美味しかった。
 私は目の前のパンを食べることに集中し、無言になる。

 久しぶりのパン。
 香ばしい薫り、その柔らかさに余計に感動してしまう。
 ああ、炭水化物が恋しい。
「ううっ、美味しい」
 感動しながら食べていたら、
「よかったね」
 望月さんがニコニコしながら私の顔を眺めていた。

 さらにその様子を例の二人が再び楽しそうに観察する。
 望月さんは彼らに対して「君たちも自分の恋人の顔を見なさい」と呆れた様子でたしなめた。

 お会計のとき、望月さんと
「雨宮さんはいいからね」
「ありがとうございます」
 というやり取りを交わしていると、山本さんが目ざとく見つけてきた。

「優雨がカッコいいことしてる。
 オレもやろうっと。
 理絵、ここは俺が払うから」
 山本さんが望月さんの真似をする。

 普段二人は割り勘らしい。
 山本さんに変な借りを作りたくないという彼女の強いこだわりなのだそうだ。
 理絵ちゃんは「さすが望月さん、女性のエスコートが上手ね」と感心していたが、私は内心穏やかではない。

 実は、デートのときはいつも会計はすべて望月さん持ちなのだ。

 その都度払いますと伝えているのだけれど、望月さんは「大学生が高校生に払わせるわけにはいかないの。その代わり、またうちに来てピアノ弾いてよ」と言うので、分かりましたと答えるしかないのだった。
 早く望月さんの家でピアノを弾いて借りを返したい。


 プラネタリウムに到着すると、夏休みの午後のせいか、学生カップルや中高校生が友達同士で来ているような組み合わせが多く、かなり混雑していた。

 入場チケットは大学生組がすでに予約をしてくれていたようだ。
 発券したチケットを、望月さんが包み込むような目を向けながら手渡してくれたので、私は両手で受け取った。

 こういうとき、彼のことが好きだなとしみじみ思う。

 些細な動作に丁寧さを感じて嬉しくなる。
 それは動作の相手である私を大切に扱っていますよというサインだから。

 彼がアルバイト中にお客としてサーブを受けたことはないけれど、きっと彼のファンはこんな気持ちになるから店に通ってくるのだろう。
 この様子を再び理絵ちゃんが凝視していたが、気にしないことにした。

 入場チケットのチェックを終えて入口を抜けると、ドームに繫がる地面や壁に蓄光して光る粒子が一面に埋め込まれており、まるで星空の中を歩いているかのように別世界へと誘ってくれる。

 予約してくれていたのは、プレミアムシートという柔らかいソファーの上で星を見ることができる席だった。

 ソファーにはペンギンとアザラシのぬいぐるみが置いてあったので、嬉々として抱きしめる。
 ソファーもぬいぐるみもマシュマロのようにしっとりとした肌ざわりだった。
 何だか自分に似ていなくもない。

 ナレーションの透明感ある声が不思議と夜空の風景に合っていて心地いい。
 ピアノの音色をBGMにして、普段は見ることのできない場所の幻想的な夜空を見上げる。

 少し横の方の星座を見るために視線をずらしたとき、隣にいる望月さんがペンギンのぬいぐるみを抱いて夜空を見上げている姿が目に入った。

 その横顔を、星よりも綺麗だなと眺めてしまう。

 ドームに満天の星が現れる。
「星空は、見ている私たちの心を、その美しさで静かに満たしてくれる」
 ナレーションが語る。

 私も望月さんを見ているだけで心が満たされていく。

 好きなピアノの音色と透明感あるナレーションの声が絶妙に調和した空間で壮大な夜空を見ていると、夢と現実の区別が徐々に曖昧になっていく。

 自分の境界線が宇宙に溶けていってしまいそうだった。
 一体感を感じて自分がどこにいるのか分からなくなる。

 私の隣に望月さんがいることも、付き合っていることも、あまりに夢心地で幸せすぎて、日常の中で時々地に足がついていないような気持ちになることがあるからだろうか。

 このプログラムが終わってしまったら、その夢が醒めてしまいそうで急に恐怖に襲われた。
 思わずアザラシのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめる。

 そんなことが起きるわけがないと頭の片隅では理解していても、一度生まれた恐怖の種は私の中に残ったまま消えてくれることはなかった。

「星空は長い時間をかけて変化しており、これからも大小の爆発を繰り返しながら、絶えず変化し続けていくのです」
 最後のナレーションが告げられ、ゆっくりと場内が明るくなっていく。

 隣の望月さんが私の顔をのぞき込む。
「綺麗だったね」

 いつもどおりの甘い笑顔を向けられた。

 私と理絵ちゃんは
「幻想的だったね」
「音楽もよかったね」
 と話しながら大学生組より先に歩く。
 プラネタリウムを出て近場にあるベンチに自然と座った。

 山本さんが飲み物を買いに行く二人をじゃんけんで決めようと言い出す。
「こういうのって、どっちかのカップルが行くんじゃなくて?」
 私は疑問を挟んだが、
「じゃんけんぽーん」
 山本さんの掛け声でかき消された。

「私、カフェオレね」
「俺も同じやつ」
 勝ち組の理絵ちゃんと望月さんが注文する。

「分かりましたー」
 言い出しっぺの山本さんが不満顔で応え、私と二人でコーヒーショップに向かうことになった。
 いい機会だったので、気になっていたことを山本さんに聞いてみることにする。

「山本さんと理絵ちゃんは、いつからどうやって呼び名を変えたんですか?」
「どうだったかなあ。
 いつの間にかって感じだったと思うけど」
 はっきりとしたきっかけはないらしい。

「理絵ちゃんは、山本さんって呼ぶこともありますよね?」
 学校では「宏樹」と呼んでないことを思い出してそうたずねると、彼は苦笑いした。
「あれはね、理絵が怒っているときと、オレがいない場所で俺のことを話すときはそう呼ぶらしいよ」

 コーヒーショップで、私はソイラテ、彼はブラックコーヒーを頼み、じゃんけん勝ち組の注文をした後、飲み物ができ上がるのを待つ。

「そういや、雨宮さんと優雨は、まだ名字で呼び合っているよね。
 雨宮さんは敬語のままだし」

 彼から聞かれ、私はうつむく。
 最近、自分の中で一番気になっていることだ。

「きっかけがつかめなくて。
 突然変えるのも不自然だし」
「なるほどね。
 よし、お兄さんに任しときな」
 彼の眼鏡が光った。

 ベンチに戻り、四人でたわいない話をしている最中、彼は望月さんにしれっとたずねた。
「優雨と雨宮さんは、いつ呼び名を変えるの?」
 ソイラテを吹きそうになった。
 本日二回目だ。
 この人、いつもストレート過ぎないか。

 望月さんもカフェラテを吹きそうになって、山本さんを無言で睨む。
「だって、せっかく付き合ってるのに、まだ雨宮さんも敬語だし、何か二人の間に距離感があるなぁって」
 言い訳っぽく山本さんが説明する。

「余計なお世話だわ」
 放っておいてくれと言わんばかりに望月さんはそっぽを向いた。

 山本さん、これ失敗じゃん。
 下手くそ。
 心の中で悪態をついた。


 山本さんと理絵ちゃんペアと別れた帰り道、私と望月さんはいつもの公園に寄って話をする。
 辺りはもう既に暗くなっていた。

「雨宮さん、呼び名のこと気にしてる?」

 望月さんからその話を切り出され、私は昼間の山本さんに感謝する。
「正直言うと、気になります」
 ここぞとばかりに素直な気持ちを伝える。

「俺はそんなに気にしてなくて。
 ごめんね」

 謝られると、悪いことをしているみたいで、何だか気が引けてきた。

「いえ、こちらこそすみません。
 私、下の名前を呼び捨てで呼ばれるのが憧れだったので」

 ドラマや漫画の中で、恋人同士が親しげに呼び捨てで名前を呼び合っている姿をうらやましく感じていた。
 自分に恋人ができたら絶対やりたいことのひとつに入っていた。

 家族ですら呼ばない「香世子」という呼び方。

 名前にコンプレックスがある私にとって、そう呼ばれることはこれ以上ない特別な行為だった。

「雨宮さんさ、こないだ俺の家にお見舞いに来てくれたとき、最後に俺のこと『優雨』って呼んだでしょ」

 急にあの日の話を話題に振られ、しかも本人にはどうせ聞こえてないだろうと高を括っていたことを持ち出されて、ぐっと言葉に詰まる。

「起きていたんですか」
「気づいてなかったの?
 俺、自分の部屋のドアのところに立って、三曲とも聴いてたよ」

 そうだったのか。
 絶対に一曲目の途中で寝たと確信していた。

「気づきませんでした」
「夢中で弾いてたもんね」

 しかし、いや待てよと思い出す。

「でも、私が帰る直前に寝たふりしたの、そっちですよね?」
「確かにそうだった」
 あははと笑いながらごまかされた。

「ねぇ、俺のこと、『優雨』って呼びたい?」

 彼の両手で顔を挟まれながら聞かれた。
 心の裏側まで見透かすような目で見つめられる。

「呼びたい、です」
 彼の目をまっすぐ見つめ返す。

「いいよ。
 じゃあ呼んで?」
「今ですか?」
 心の準備が間に合わない。

「呼ばなかったら、俺が先に呼んじゃうよ?」
「え?」
 彼は、私の耳元に唇が触れる距離で囁いた。

「かよこ」

 深く響く、ダークチョコレート色のベルベットのようになめらかな、低くて甘い声。
 私がずっと、呼ばれたかった名前。

「優雨」

 上ずった声で彼の下の名前を呼ぶ。
 あのときとは違う、しっかりした声で、彼に聞こえるように。

 でも、結果的に彼が私をそう呼んだのは、これが最初で最後になった。