お互いが好きだと分かった上で過ごす日々は、驚くほど穏やかで平和な心持ちだった。

 朝起きて、ご飯を食べて、夏休みの宿題をして、ご飯を食べて、ピアノを弾いて、おやつを食べて、家族とご飯を食べながらテレビを見て、スマホに来るメッセージを返信して、インターネットのニュースを見て、お風呂に入って寝るという何の変哲もない夏休みの一日を繰り返しているのは、それまでと同じ。

 ただ決定的に違うことは、私と望月さんは付き合っていて、望月さんも私もお互いが好きだということを知っているということ。

 望月さんに彼を好きな気持ちを隠さなくていいし、彼が私と同じように私のことを好きでいてくれている。

 たったこれだけで世界の見え方がこんなにも違う。

 身体中が染みわたるような安心感に包まれたまま一日が終わっていく。
 これはとても贅沢なことだ。
 胸の中でその幸せをそっと噛みしめ、甘さを味わう。

 望月さんと私は、アルバイトがやりづらくなることを懸念して、理絵ちゃんと山本さんを除いた関係者には付き合っていることを隠しておくことにした。
 だからアルバイト中も表面上はこれまでと何も変わらない。

 シフトの曜日も変わらないし、一緒のシフトでもバラバラの時間に店に来て、帰りは出待ちファンの前を私は足早に通り過ぎる。

 でも、いつもと変わらないようで、誰にも分からないぐらいに少しだけ違う。

 望月さんが「雨宮さん、抹茶パフェお願い」とカウンターからキッチンに顔を出してオーダーを通すその言葉は実は敬語ではなくなっているし、「雨宮さん」って呼びかけるときの声のニュアンスがすごく甘いと感じながら「はぁい」と機嫌よく返事をして、彼とほんの一刻目を合わせるのだ。

 あの、目尻に笑い皺のある、涙袋が艶っぽい瞳と。

 望月さんのファンには、もっとスイーツメニューを注文してほしいと心の底から願っている。

 帰り道は店から離れたところで手を繋ぐ。

 いつもの公園に寄って話をする。
 私と望月さんは身長差が二十センチ以上あるから、必然的に彼の顔を見上げて上目遣いになる。

 彼は私の頭を撫でながら、私のすべてを好きだと言ってくれている目で、特別優しい視線を私だけに降らせてくれる。

 彼の柔らかい視線は、流れ星よりもずっと私の願いを叶えてくれる。

 屋外なので、人目を気にしつつ軽いキスをする。

 でも一回だけでは終われなくて、唇が離れたと思った瞬間にまた重なるのを繰り返した後、名残惜しい気持ちで帰路につく。

 そして望月さんは、私を私の家まで送ってくれる。

 今まで感じたことのない幸せを短時間で大量に浴びすぎて、真面目に気が変になりそうになる。
 

 風呂上がりに自分の全身を鏡で見たとき、水族館で望月さんと一緒にいたところを他の女性からヒソヒソと話をされたことを思い出した。
 そのときの彼女たちは私のことではなくて望月さんのイケメン具合を話していたのだろう。

 でも、比較対象として隣にいる私がぽっちゃりだと、彼に更なる迷惑をかけることになるのではないか。

 望月さん本人は気にしないのかもしれないけれど、それだけは避けなければと強く決意した。

 このまま何もしないわけにはいかない。
 よし、ダイエットしよう。

 きっと痩せれば迷惑をかけなくて済む。
 自分自身も卑屈にならなくて済む。

 それに、と私は考える。
 やっぱり望月さんに魅力的な身体だと思われたい。

 確かに、この世には私みたいなぽっちゃり体型が好きな男性もいることは理解しているけれど、たるんだ身体つきより痩せて引き締まった身体つきの方が一般的には好ましいと思われているだろうし、望月さんもそう思っているのではないだろうか。

 私は、望月さんのために久しぶりのダイエットを開始することにした。
 大好きなものを我慢してでも今回こそは必ず成功する必要がある。

 いや、違う。

 私の一番好きなものは、いつの間にか食べることではなくて、望月さんに変わっていた。

 だから私は、大好きなもののために頑張るのだ。

 今回自己流はやめて、おとなしく専門家である理絵ちゃんのお母さんにお願いして、筋トレとストレッチの方法を教えてもらった。

「お母さん、今日からご飯とかパン食べないから、全部お豆腐に変えて。
 もちろんおやつも要らない」
「あら、香世ちゃん惜しい。
 今日はパンを既に焼いちゃったの」

 確かに焼き上がった香ばしいパンの薫りがリビング中に充満していた。
 母はパン教室に一時期通っていて、今でも休日に時々パンを焼いている。
 プロに教わったとおりに作るので、出来上がってくるパンは日にちが経っても柔らかく美味しい。

「しょうがないなぁ。
 ダイエットは明日からにする。
 今日はパン食べる」

 頑張れ、私。

 あっさり誘惑に負けたけれど、でも焼き立てパンには屈服するしかない。
 明日からはパンも食べられない。
 今日はその分食べておかなくちゃ、と、いつもより多めに頬張った。


「雨宮さん、今度、都内のホテルでやってるスイーツビュッフェに行かない?」
「スイーツビュッフェ、ですか」

 実は甘党だったらしい望月さんが、見るからにウキウキした笑顔でデートの提案をしてくれる。

 きっと美しいホテルスイーツは望月さんにさぞかしよく似合うだろう。
 そんな姿を見ながら自分も趣を凝らしたスイーツを食べたいだけ食べられるなんて、最高に幸福な時間だ。

 しかし、頭の中の考えとは裏腹に、私の表情はどんどん曇ってしまう。

 望月さんのためのダイエットなのに、よもや本人から誘惑を受けてしまった。

 美味しいスイーツは当然食べたい。
 でも痩せたい。
 シーソーのように気持ちが揺れ動く。
 どちらを優先するか決めかねた。

 スイーツ食べ放題は、ダイエット中の人間にとって天敵中の天敵だ。
 上限がないということは自らで食欲を律せられるかが問われている。

 要は意志力が試される。

 だけど、美しくて可憐なスイーツを目の前にして、自分がそれらを皿に盛る手を止められるのか、かなり疑わしかった。

「あれ、どうしたの?」
「……今、ダイエットしてて」

 ここは正直に伝える。
 隠し通すことは難しい。

「そっか。じゃあ、やめとく?」
 心なしか、彼がシュンとしてうなだれているように見える。

「いえ、行きます」
 私は美味しいスイーツを優先することにした。
「よかった」

 大好きな望月さんの誘いを断るなんて絶対にしたくなかった。
 せっかく提案してくれたのに、がっかりさせたくない。

 量を調整すれば大丈夫。
 お上品にゆっくり食べればいい。
 そして、飲み物の紅茶やコーヒーを無糖のまま多く飲めばいけるはず。
 未来の自分の選択にすべてを賭けた。
 頼むから耐えろ、耐えてくれと祈るしかない。


「ホテルスイーツ、美味しかったね」

 店を出て手を繋いで歩きながら、望月さんがそう言った。
 瞳を輝かせて満足そうな顔をしている彼が可愛い。

「ええ、本当に楽しめましたね……」

 青ざめている私とは対照的だ。

 ホテルスイーツ。
 それは、一口でも食べてしまえば、その後は食べれば食べるほど、もっともっと欲しくなっていくもの。

 高品質な材料が使用されており、うっとりするほど色や形が洗練されていて、香りもかぐわしい。
 口に含めば自然と笑みがこぼれてしまう甘さ。
 上品な味。
 すぐに溶けてなくなってしまう儚さ。
 誰もが彼女に恋してしまうおとぎ話のお姫さまのようだった。

「今日と明日で調整すればいいんだ。
 きっと、大丈夫大丈夫……」

 帰宅して、家の中でブツブツと私はつぶやき続けた。
 明日は絶食だな。
 ダイエッターの道のりは長く険しい。