期末テストが終わり、今日から夏休みに入ろうとしていた。

 冷房は外気に負けないようにフル回転して、冷気を教室中に満たしている。

 終業式後のホームルームを学年最速で終わらせた担任からおそるおそる通知表を受け取った私は、深く安堵した。

 中間テストの貯金が活きた。
 何を隠そう、期末テストでいくつか赤点をとってしまったのだ。

 片想いと勉強の両立ってどうやるのかを、あらかじめ理絵ちゃんに聞いておくべきだった。

 そのことに気づいたのは期末テストの最終日で、時すでに遅し。
 解答用紙の空欄がまぶしかったのは夏だからではない。

 気を抜くとあの望月さんの口元が脳裏をよぎり、胸の奥が疼くような何ともいえない気持ちになってしまい、勉強どころではなかった。

 二学期はがんばろう。
 未来の自分に努力を誓った。
 通知表をリュックの中に乱暴にしまい、ざわめく教室をするりと後にした。

 理絵ちゃんの教室に向かっている途中、慌ててその教室から一番に飛び出してきた葉山君とぶつかりそうになる。

「雨宮さん、ちょうどよかった」
「どうかした?」

「花火大会、一緒に行かない?」

 唐突に誘いを受けた。
 去年は確か理絵ちゃんと二人で行ったんだった。
 今年は山本さんがいるから彼女と一緒に行くことはないだろうな。

 そこまで考えてから「いいよ」と軽い気持ちで承諾した。
 断る理由は特になかった。

「じゃ、詳細はまた連絡するね」
 彼は急いでいるらしく、表情も変えずにそのままどこかに走り去った。

 彼の切っていった風がふわりと私の上に舞い降りた感覚が面白くて「まるで魔法をかけられたみたいだな」とのんきにファンタジーなことを考えていた。

 葉山君の後ろ姿を見ながら、ところであんなに急いでどこに行くのだろうと首を傾げる。

「香世ちゃん、お待たせ」
 いつの間にか理絵ちゃんが後ろに立っていた。

「下校放送、葉山君の声だね」
 彼女に促され耳をすますと、若干息の乱れた彼の声が下校時刻を告げていた。

 放送部だったのか。

 前に彼から飴をもらったことを思い出す。
 彼の声は男子にしては高めで、爽やかなアルトの聞き取りやすい声が心地よかった。

「さっき、葉山君に花火大会に誘われたから行くことにした」
「いいんじゃない。
 香世ちゃんが行きたいなら」

 彼女が私の話を否定することは普段ほとんどない。
 望月さんを好きになった話をしたときの彼女が特別だったのだ。

 そして、今みたいな話をしても、決して望月さんを持ち出したりしてくることはなく、私の決断を尊重してくれる。

 他にも、あの話はどうなったとかこちらから言わない限り、報告を急かすこともない。

 以前、風邪を引いた望月さんに連絡を取るべきかどうか相談したときも、事後に何も聞かれなかった。
 それをいいことに、お見舞いに行ったことを話していない。

 ただ、彼女は話さなくても、重要な部分はきっと私の態度から感じ取っている。
 私が期末テストに集中できなかった事実も理由もおそらく。

 冗談めかしてエスパーだと言わなくても、彼女くらいの観察力さえあれば何でも見抜けるのだろう。

 葉山君から花火大会に誘われたときに即答しなかったのは、望月さんのことをとっさに考えたからだった。

 でも期末テストで懲りた私は、あれ以上の刺激を今は望んでいなかった。

 しばらくは十分だ。
 もう少し薄れてからでも遅くない。

 それにきっとすでに誰かが彼を誘っているだろう。
 先約があると断られるのなら、誘わない方がマシだった。

 校舎を出た私たちは、熱風と太陽光線に包まれ足早に帰路についた。
 今日も最高気温は体温超えを記録するらしい。
 自分の腕に触れて気温より温度が低いことを確認しながら、絶えず吹きつけてくる熱風に顔をしかめた。


 花火大会当日、葉山君とは午後七時にF駅で待ち合わせをしていた。
 浴衣に下駄だといつものようには歩けないので早めに家を出る。

 バスに乗るか考えるが、ぎゅうぎゅう詰めの車内で息苦しさを感じるより歩いていくことを選択した。
  
 からん、ころん。
 耳慣れない軽やかな音が自分から響いてきて、歩いているだけで楽しくなってくる。

 そのまま駅まで歩き続けて待ち合わせ場所まで来たが、葉山君がどこにいるかすぐには分からない。
 立ち止まって周りを見回し、彼を見つけたとき、自分が緊張してきたことは予想外だった。

 葉山君の私服が、黒いTシャツ、ジーパン、スニーカーというシンプルな出で立ちだったのが意外で新鮮だった。

 壁にもたれかかってスマホをいじっている彼は、スタイルがよく見えて知らない人みたいだった。

「葉山君……足、長くない?」

 そんな言葉が口をついて出た。
 腰の位置が普通の人より高い気がする。

「全然そんなことないよ。
 それより待ち合わせ場所にやってきて、開口一番がその発言ってどうなの」
 葉山君がおかしそうに吹き出す。

「あはは、ごめん」
 笑ってごまかす。

 確かになんでそう思ったのだろう。
 制服のときはそんな風に思ったことなんて一度もなかったのに。

「雨宮さんは浴衣似合ってるね。可愛い」
「必殺、女子力三割増しの浴衣ですから」

 照れ隠しでピースサインをする。
 母がヘアアレンジをしてくれた慣れない髪型の後れ毛が首筋に当たって、妙にくすぐったい。

 紺地に白い朝顔柄の浴衣と赤い帯というこの組み合わせは気に入っていて、昔から着ている。
 何より浴衣自体、寸胴体型が一番似合うので、ぽっちゃり体型の私がバランスよく見えるところがいい。

 彼は私の足元を気にして、目的地までの交通手段に電車を提案してくれたが、私は歩いていくことを選択した。
 おそらく電車は帰宅ラッシュと花火客でごった返しているだろう。
 それに軽やかな音でなるべく長く歩いていたかった。

「じゃあ、行こっか」

 さっと私の左手を握って葉山君は歩き出した。
 今日だけは望月さんのことを忘れて過ごそうと心に決めた。

 彼が、歩幅の狭い私に合わせて歩いてくれる。
 道行く人も私たちと同じ方向に歩いていた。
 目的地は多分みんな同じで、あたりの空気は心なしか浮足立っていた。

「足、大丈夫?」

 私の顔をのぞき込む葉山君の顔がいつもより近いと感じたのは、下駄を履いているからだった。
 この下駄はよく見る相右近型とは違い、母が昔からこだわって所有している高右近型というヒール部分が高めのちょっと珍しいものになっている。
 そのせいで彼と私の視線の高さがほとんど一緒だった。

「うん、大丈夫」
 下を向いて鼻緒の感触をわざと確かめ、返事を返した。

 花火大会の会場に近づくにつれ、どんどん人が増えてきて、歩道が歩きづらくなってきていた。
 手を繋いでいる葉山君との距離が離れはじめている。

 葉山君にそのことを言わなくちゃと思ったそのとき、彼が繋いでいた手を離し、代わりにその手を私の腰に回して自分の方に引き寄せた。

 向き合うと唇が触れそうになるくらい近づいて、危うく悲鳴を上げそうになった。

 誰かにほんの少し背中を押されるようなことがあれば、彼との間に事故が起こってもおかしくなかった。
 必死で顔を違う方向に向ける。

「歩きづらいから、ゆっくり歩こう」

 葉山君が声を掛けてくれたが、その声の息づかいが肌ではっきり分かるくらいの距離感に、右手に持っていた巾着の紐を両手で強く握りしめた。

 タイミングよく露店が立ち並ぶ道に差し掛かったようで、香ばしいタレの香りが鼻をくすぐる。

「あ、食べ物の匂いがしてきた。
 何を食べようかなあ」

 気を紛らわせるためにあえて大きな声でそう言ったが、その言葉が自分の中の食欲スイッチを入れたらしく、私はすぐに真剣な眼つきで露店に書いてある食べ物の名前に目を走らせていた。

 食べ物のことになると途端に意識を切り替えられる自分に今日だけは花丸を上げたい気分だった。

「雨宮さん、食べることが好きなんだね」
「そうだよ、体型見れば分かるでしょ。
 今日みたいな日は、普段食べないようなものを屋台で買って、歩きながら外で食べたりするのが格別に美味しいの」

 露店には露店の良さがある。
 そのことについて説明しようとしたが、次の葉山君の言葉にすべてを持っていかれた。

「じゃあ、僕のことも食べてみる?」

 私の腰を抱いている手に力が入って、耳のすぐそばで吐息と共に声が聞こえた。

「冗談だよ」
 彼が苦笑した。
 脈絡なく放り込まれた言葉の真意は見えない。

「葉山君、未成年の飲酒は法律で禁」
「いや、お酒飲んでないから!
 それじゃあ、まず手始めにベタな焼きそばを食べよう」

 彼はそう言うと、いつの間にか歩行者天国になっていた車道に出て、再び私の左手を繋いだかと思うと、焼きそばの露店に向かって歩きだした。

 急に広くなった道の上で、私の下駄の音が不規則に鳴っている。

 気持ちが変にぐらついて揺れていた。

 露店の照明が昼間の太陽のように夜道を照らしているせいだろう。
 変なテンションになっているのはきっと私たちだけではないと思い込む。

 結局、焼きそばに始まり、かき氷、りんご飴を食べたところで花火が始まった。
 射的や金魚すくいをしなかったのが私の趣向の跡だ。

 暗闇に次々と上がっていく花火が瞬く間に消えていく。
 その儚さゆえか、誰といつ見ても綺麗だと感じる。
 このひとときを一緒にいる人とだけ共有できるその刹那さがいい。
 打ち上がる音が時間差で身体の真ん中に響く。

 首が痛くなるほど空を見上げていたが、たゆたう花火の煙が空を覆い、月はまったく見えなかった。


 花火を最後まで見てから会場を後にしたので、F駅まで帰って来るのに行きの二倍以上の時間がかかった。
 歩きすぎて鼻緒というより股関節と膝が痛い。

 夜も遅い時間だったので、葉山君が私の家の近くまで送ると言ってくれ、さすがの私もお言葉に甘えることにした。

 花火会場のときから、というより、待ち合わせてからずっとそのままだったが、何の意識もせずに彼と手を繋いで歩いていた。

 それがすごく自然に感じたから。

 だから、もうすぐ家が見えてくるというところで、こちらに向かって人が歩いて来るまでは、そのことに何の疑問も持っていなかった。

 しかし、徐々に近づいてくる人影が見知った人物であることに気づいた私は、呼吸が止まりそうになった。

 望月さんだった。

 彼がこちらに気がついた後、私たちの間で繋がれた手に視線を移し、ハッとした表情になって立ち止まった。

 葉山君の手を反射的に振り払う。

「彼氏?」

 気まずそうに望月さんがたずねてくる。

「違います!
 ただの友達です」

 葉山君には悪いと思いながらも明確に否定する。
 葉山君がどんな顔をしているのか私には分からなかったし、知りたくなかった。

 誰も言葉を発せられない固まった空気の中で、一瞬のようにも永遠のようにも感じた。

 この場から離れるきっかけがほしくて
「望月さん、おやすみなさい」
 そう言って足早に歩き去った。

 からからから。
 下駄の音がもの悲しく響く。
 かっかっかっ。
 いつの間にか走り出していた。

「雨宮さん、ちょっと待って」
 葉山君が私の後ろを追いかけてくる。

 家の前までたどり着き、急いで家の中に入ろうとした。
 門戸の取っ手に手をかける。
 一刻も早くひとりになりたかった。

「あのさ」
 葉山君が呼び止めるように声を掛ける。

「何」
 背を向けたまま応える。

 望月さんに葉山君と一緒にいるところを見られて、これまでにないほど心が乱れていた。
 防御反応なのか、葉山君への態度が無意識に硬くなる。

「あの人、雨宮さんの好きな人?」

 振り返って彼の顔を見る。

「だから何。
 葉山君には関係ないでしょ」

「関係あるよ。
 だって僕、雨宮さんのことが好きだから」

 今までなんとなく雰囲気で感じ取っていたことを、はっきりと告げられる。
 告白をするのもされるのもこれまで経験したことがなかった。

 葉山君のことは嫌いじゃない。
 むしろ、私にとって希望の光だ。

 本当ならすごく嬉しいはずだった。
 もし、この場面じゃなければ。
 もしも三十分前の出来事だったら。

 同じ葉山君に対してもまったく違う態度を取っていただろう。

 しかし、今の私には、彼の気持ちを受け止める余裕など一ミリも持ち合わせていなかった。

「でも、私は!」

 葉山君の気持ちに流されないよう必死で踏みとどまるかのように叫んでいた。

「うん、あの人のことが好きなんだよね」

 彼がにこやかな顔で二の句を継ぐ。

 ねえ、どうして笑顔なの、笑う場面じゃないのに、と思った途端、彼の表情で胸やけがした。

 分かってるなら言わないでよという言葉が喉の奥まで出かかって、何とか押し黙った。

 私は自分のことしか考えていない、ずるい女だ。
 自分の狡猾さに嫌気がさしてくる。

 葉山君も何も言わない。
 二人の間を静寂が貫いていく。

 遠くで犬の鳴き声が聞こえて、また静かになる。
 どのくらいの時間が経ったのだろう。

「雨宮さんが誰を好きだとしても、僕は雨宮さんを好きでいる。
 これからも」

 独り言のように葉山君が言った。

「…………どうして?」

 時間をかけてようやく口に出せたのは、その四文字だけだった。

「僕、諦め悪いんだよね。
 大丈夫。
 雨宮さんには絶対迷惑かけないから」

 満面の笑みで彼はそう言い切り、そしてゆっくり近づいてきて、私の前髪を右手でそっとかき上げ、背伸びをして額に口づけた。

 額から唇を離した葉山君と目が合い、彼が生まれたての赤ん坊を見るような目をしていたので、私は真空状態に放り出される。

 気がつくと、踵を返して走り去る葉山君の後ろ姿を眺めている自分がいた。

「雨宮さんが好きな人とまだ結ばれたわけじゃないんでしょ?
 僕にも抽象的には可能性があるってことだよね」

 最後に彼から言われた言葉が、こだまのように頭の中で反響している。

 胸が苦しいのは帯のせいだ。
 早くほどいて楽になりたい。

 家の門の石柱に手をついて前かがみに寄りかかる。
 でも家に入れない。
 今だけは誰にも、家族にも顔を合わせたくなかった。

 感情の雫が後から後からこぼれて浴衣を濡らしていく。
 濡れた朝顔は暗闇に溶けることなく白く浮き上がった。