事件は予測できないから事件なのだ。
 あらかじめ分かっているものなんてただの予定に過ぎないのだから。

 それは、私と望月さんが同じシフトに入っているアルバイト中に起こった。

 望月さんのファンの女性は彼のシフトのときに来店する。
 その日も彼のファンのお客様は多かった。

 彼がおろしハンバーグセットをあるファンの女性に運んだときだった。

 その女性はひとりで来店していた。
 彼女は料理を運んできた望月さんに対し、甘い声で話しかけた。

「望月君、いつになったら私とデートしてくれるの?」

 望月さんはハンバーグの乗った鉄板をゆっくりとテーブルの上に置き終わった後、冷静に、でも気持ちを込めて答えた。

「お客様、そのご要望に応えることはできかねます。
 大変申し訳ございません」

 彼は、ひどく残念そうな顔をして美しいお辞儀をした。

 望月さんに断られた女性は、急に顔をこわばらせたかと思うと、今しがたテーブルに置かれたばかりの鉄板を、彼に向かって突如躊躇なくひっくり返した。

 他にも、ドリンクバーで入れられたホットコーヒー、セットのライスやサラダまでも巻き添えを食って彼に投げつけられる。

 ガチャーン。
 バシャッ。
 ガシャン。
 パリンッ。

「熱っ!」
「どうしてできないの!
 私はこんなに望月君のことを愛しているのに。
 ねぇ、なんで!」

 派手な不協和音と女性のわめき声が店内に響き渡る。

 何が起きたのかすぐには分からなかったが、キッチンにいた私たちも突然の大きな音と声に驚き、作業の手を一斉に止めた。

 私は様子が気になり、居ても立っても居られず、キッチンからホールに飛び出した(ここまでの出来事は、後からホール担当のスタッフに教えてもらった)。

 ホールに出ると、店内は静まり返り、居合わせた全員の視線が望月さんとその女性に注がれていた。

 彼女は三十代後半から四十代前半くらいの歳だろうか。
 綺麗な人だった。
 ゆるやかな巻き髪は崩れていなかったし、控えめなラメが光る爪先も欠けてはいなかった。

 少なくとも私よりは見た目だけで普通にモテそうな女性だった。
 だからこそ、その行動が余計に奇異な印象を与える。

 望月さんはとっさに顔を両腕で覆ったようで、幸い顔に怪我はしていなかったが、彼の白いスタンドカラーのジャケットは、コーヒーやハンバーグソースなどが激しく飛び散っており、茶色に染まって汚されていた。

 その女性はさらに立ち上がり、自分の洋服が汚れるのも構わず、彼に思い切り抱きついた。

 十五センチ近く身長差のある望月さんの顔を至近距離で見上げ、上目遣いで見つめる。

「ねぇ、望月君、私を見て。お願い」

 女性は猫なで声だったが、望月さんは彼女の視線に目を合わせない。

 彼は何度も経験しているかのように、女性の行動にまったく動揺することなく、落ち着いた様子で

「みなさんは下がっていてください。
 俺が、俺だけで対応しますから」

 と、顔だけを他のホールスタッフに向け、柔らかいが反論を許さない声色でそう言い、伸ばした腕で制止した。

 そこへ店長が登場した。

「望月、何があった」
「店長も下がっていてください!」
 望月さんが叫ぶ。

「だめだ、望月。
 おい、誰か警察を呼んでくれ。
 お客様、どうかなさいましたか」

 店長が同時に三方向と話をしながら、望月さんに抱きついていた女性をあっという間に鮮やかな手さばきで引き剥がし、彼と彼女の間に割って入った。

 いつの間にかキッチンから私の後ろに出てきていたキャプテンシェフが、警察に通報するため、キッチンの中へ慌ただしく戻っていく。

 引き剥がされた女性は再び望月さんに抱きつこうとする。

 そのとき私は、このシフトに入っている女性スタッフが自分だけであることに気づき、身体が勝手に動いて彼女を羽交い絞めにしていた。

「やめて! 離して!」

 私から逃れようと彼女が渾身の力で暴れる。
 絶対に離すもんかと全身に力を込めた。
 こっちには脂肪という名のお肉の力があるのだ。

 私の身体の前面と女性の背中が密着して熱を帯びる。

 この他人の体温がおりてくる感じ、前にもどこかで、と頭を巡らせ、今女性とともに形式上対峙している望月さんだと思い至った私は、自分の内側からも何かが発熱するのを感じた。

 女性の口元からは、ほのかにアルコールの匂いがする。

 テーブルを見ると、底の方にビールと思われる液体がついたグラスが二つ置いてあった。
 酔っ払いか。
 女性に気づかれないように舌打ちをする。

 彼女は私より身長が高く、細身なのに意外と力が強かった。
 ワインレッド色のエナメルのハイヒールを履いているのに、ぐらつかず器用に力を込めてくる。

 対して、ぽっちゃり体型で履き古した白いスニーカーを履いていた私は、せめて安定感と力の強さだけは負けたくなかった。

 羽交い絞めにした女性の肩越しに望月さんを見ていると、自分もこの女性と同化しているかのような気分になってくる。

 望月さんは、彼女のことを決して毛嫌いするような目つきではなく、むしろ哀れむような目で眺めている。

 今、この女性は何を思っているのだろう。

 彼女の後ろ姿しか見えないので表情から感情を読み取ることはできないが、私なら自分があんな目で彼に見られているかと思うと、それだけで傷つきそうだった。

 好きな人に同情されるくらいなら、嫌われた方がずっとマシだから。

「店長、警察に任せるだけではダメなんです!
 それでは何の解決にもならないんです!」

 望月さんが店長に対して何かを懸命に訴えている。
 彼の表情はひどく険しく、鬼気迫っていた。

 そんな望月さんを見て、羽交い絞めにしていた女性の暴れる力も少し緩む。

 彼女もそうだが、望月さんも何かに取り憑かれているみたいだ。

 ここまで感情を露わにしている彼に、いつものにこやかな彼との連続性をどうしても感じることができなかった。

 女性に近づこうとする彼を、慌てて店長が後ろから羽交い絞めにして止める。

「やめろ、望月」

 店長の声には答えず、望月さんは哀願するように女性に問いかける。

「お客様、どうして私が困るようなことをなさるのですか?」

 彼は多分、心底、彼女の本心を知りたかっただけなのだ。

「だって望月君が、私のことを見てくれないからでしょう!
 私だって、こんなことしたくなかったのに……」

 女性は身体に力を入れて、駄々をこねる子どものように泣き叫んだ。

 その足元で彼女の投げた白いコーヒーカップが、ハンバーグの鉄板にぶつかったのか真っ二つに割れていた。

 望月さんは彼女の答えを聞いて、眉間に深い皺を寄せたまま、黙って唇をきつく噛みしめていた。
 彼が同時に握りしめている拳は、今にも爆発しそうなくらいに手の甲の血管が青く浮き上がっている。

 次に彼が口を開いたとき、真っ赤に充血した薄い唇は、コントロールを失ったように小刻みに震えていた。

 望月さんは独り言のようにつぶやいた。

「言いたくありませんでしたが、私はお客様をお客様としてしか見ることが出来ません。
 私の恋愛対象になることは、まずありえません……」 

 彼の女性に対する明確な拒絶だったが、望月さんの目は虚ろで、どこを見ているのか判断しかねた。

 そしてその言葉は、彼の届けたかった人の耳には届いていないようだった。

 悲しいかな、女性がなおも何か、望月さんを非難する言葉を発して暴れようとしたところを、ちょうど駆けつけた警察官が飛び込んできて、私ごと女性を数人で一気に取り押さえた。

「君、よく頑張ったね。
 もう手を離してもいいよ」

 警察官に言われ、ようやく全身の力を抜いて自由の身になる。
 大きく息を吐く。
 身体中の筋肉が強ばっていて、なかなか思いどおりに動かない。

 女性はそのまま店の外へ連行されていく。
 きっと彼女がここへ来ることはもう二度とないだろう。

 店内に安堵の空気がゆっくりと広がった。
 店長は羽交い絞めにしたままだった望月さんの腕をそっと離す。

 その場に残った警察官が、店長と望月さんに「被害届は出されますか?」とたずねる。

「店としては出します」
 店長が答えた。
「いえ、私は出しま……」

「望月、お前が被害届を出さないと他のスタッフに迷惑だ。
 またあの女性が同じことを起こさないとも限らないんだぞ。
 分かっているのか?」

 被害届を出さないと言いかけた望月さんに対し、店長がぴしゃりと諫める。
 彼は何も言わなかった。

 暴行罪もしくは傷害罪の被害者は彼だけだ。
 店は直接の被害者ではないので、その罪に関しては被害届を出せない。
 望月さんが被害届を出さなければ、警察は捜査を開始しないだろう。

 刑事ドラマが好きでよく観ている私は、なんとなくそんなことを推測する。

「結局どうされるんです?」
 警察官がしびれを切らす。
「……すみません、やっぱり出します」

 望月さんは、うつむきながら涙声でそう答えた後、頬を伝う涙を拭うこともなく、その場に崩れ落ちた。

「また救えなかった……」

 彼は手の甲に軽い熱傷を負っていたがそれを気に留める様子もなく顔を覆って泣きじゃくっていた。

 私を含めた他のスタッフが、そんな様子の彼に声を掛けることは、とてもじゃないけどできなかった。


 その後、間髪入れず実況見分が始まり、私たちスタッフは店内に残っていたお客さんを全員外に出し、そのまま店終いをした。

 実況見分終了後、店長と望月さんは被害者取り調べのため、いわゆる覆面パトカーの警察車両に乗せられ、最寄りの警察署に行ってしまった。

 不気味なほど静まり返った店内で、誰ひとり声を発しなかった。

 私はキッチンに戻り、作りかけだったフレンチトーストを片づける。
 他にもすっかり冷めてしまった調理途中の食材を、無表情でどんどんごみ箱に投げ入れる。

 あの彼女に何かを言うつもりはないが、食べ物が結果的に粗末になってしまったことに文句を言いたくてたまらなかった。

 望月さんが運んできたおろしハンバーグ。
 サラダにライス。
 ドリンクバーのコーヒー。

 他のお客さんのために準備していたたくさんの料理たち。
 そのすべてが彼女ひとりのために無駄になった。
 キッチン担当として単純にやるせなかった。

「雨宮、大丈夫か」
 キャプテンシェフが私の様子を心配して声を掛けてくれる。
「大丈夫です。
 ありがとうございます」
「これ、ちょうど出来上がったところだったから、もったいないし二人で食べてしまおうや」
「サイコロステーキ、いいんですか?」

 ステーキメニューは看板メニューで、価格が最も高いのだ。
「ゴミ箱に入るか、俺たちの胃に入るかの違いだけだからな」
「じゃあいただきます」

 キャプテンシェフの優しさが嬉しくて、冷めたサイコロステーキをいくつか口に運んでみたが、ゴムのようにいつまでたっても噛み切れないそれを飲み込むので精いっぱいだった。

 ロッカールームの奥にある女子更衣室でコック服を脱いだとき、女性のつけていた香水が私にも移ったらしく、かすかなフローラルノートが私の周囲だけで香り立つ。

 今頃になって香ってきたフローラルノートは、妙に鼻について、心をひどくざわめかせた。

 その日、店長と望月さんは店には戻ってこなかった。
 

 この事件はローカルニュースとして報道され、次の日から目に見えてお客さんが減った。

 意外だったのは、来店する望月さんファンの数もびっくりするくらい減ったことだ。
 それでもゼロにならないあたり、望月さんの底力が発揮されている。

 ホールスタッフが噂していたのは、最後に望月さんが女性に発した言葉が、他のファンにもトドメを刺したのではないかということだった。

 確かにあの言葉は、彼のファンと同じように彼に好意を抱いていた私の心にも深く突き刺さり、今もそのままだ。

 抜きたくても抜けない。

 文中の語句を変えれば「バイト仲間はバイト仲間としてしか見ることが出来ません」となる。
 おそらく私に向かって言われてもいたのだ。
 こんなところに気づいてしまう自分が恨めしかった。

 客足が減って落ち込んでいるかと思われた店長は、いつかはこういう事態が起こることを予測していたようだった。

「望月が入る前の状態に戻ったってだけだな。
 どうせそのうち客足は戻るし、望月目当ての客も戻ってくるぞ。
 こういうときこそ、いつもどおり仕事をしよう」
 そう言って、私たちを鼓舞した。

 望月さんはと言うと、事件があってもアルバイトを休むことは決してなかった。

 いつもどおり店にやってきて(出待ちファンが少なくなったので、正面の通常入口から出入りするようにはなったけど)、いつもどおり丁寧な仕事をし、いつもどおり天使のような微笑みを携えつつアイスクリームをトッピングしていた。

 彼のファンがひとりもいない日であったとしても。

 私や他のスタッフは、そんな望月さんを見て逆にとても心配をしていた。

 あんなに衝撃的なことがあったのに依然と変わりなく笑っている彼は、何だか張りぼてのような気がして、触ると壊れてしまいそうな印象を受ける。

 それでもその心配をみんなが口にできなかったのは、彼からそういう心配をすることを許さないオーラが醸し出されていたからだ。

 スタッフの中にはそれまでと同じように接する者もいたし、腫れ物に触るような接し方をする者もいた。

 私は望月さんがあの事件の日から何となく怖かったし、どう接していいかまったく分からなくなっていたので、話をしないでいいのならしたくなかった。

 彼と同じシフトの日は、やはり早足で帰る準備をし、望月さんと一緒に帰ることはしなかった。

 その理由は、あの事件の前と後で実は変化していたけれど、彼に説明するきっかけも必要性もよく分からずにいた。