翌日、小珠はいくらかすっきりとした気分で朝を迎えることができた。
 市へ向かう途中、茶店に寄った。それまでにこにこと他の客と談笑していた二口女が、小珠の顔を見るなりまた、ささっと店の奥へ逃げてしまおうとする。その背中に向かって謝罪を投げかけた。

「――二口女さん、騙しててごめんなさい」

 二口女は振り返らない。ただ、ぴたりと動きを止めた。

「私、酷いことをしましたよね。でも、二口女さんと話して楽しかったのは本当です。でないと、何度もここへ来ません」
「…………」
「私、この町を良くしたいと思っています。私の思いは行動で示します。見ていてほしいです」

 二口女は何も言わず、店の奥へと戻っていく。
 言いたいことは言った。小珠は、店へは入らず市へ向かって歩き始める。

「野菜売りの小珠ちゃんじゃねーかぁ! 二口女姉さんと喧嘩かぁ?」
「仲直りするなら早い方がいいわよぉお~ん?」

 床几に座って団子を食べている小豆洗いとろくろ首が後ろから冗談っぽく声をかけてくれる。小珠は苦笑し、「頑張ります」と呟いた。


 市に着き、いつものように店を開いているからかさ小僧に声をかける。

「許可出たよ」
「………………はぁ?」
「私たちのお屋敷に、からかさ小僧が来る許可」

 からかさ小僧が目を丸くする。まさか本当に行くことになるとは思っていなかったらしい。続いてぶるぶる小刻みに震え始めた。

「お、おれ、殺されねえよな……?」
「そんな酷いことをする人たちじゃないよ」
「屋敷に着いた途端ぐさっと……なんてこと」
「させないから大丈夫!」

 発言から、からかさ小僧の狐の一族への印象が窺える。一体どんな怖い存在に見えているのだろうと複雑な気持ちになった。

「どんな格好で行けばいいんでい?」
「……? そのままでいいんじゃない?」

 そもそも、からかさ小僧は人間で言う衣服を着ていない。格好と言われても、と不思議に思う。

「他所の家へ行く時は菅笠(すげがさ)を被るんでい」

 からかさ小僧がごそごそと小さな鞄の中から小さな菅笠を出して頭の上に乗せる。

「これどうだ? 庶民的すぎるか?」
「いいじゃないかな。かっこいいよ」
「そ、そうか……」

 からかさ小僧がお洒落をするのが意外でまじまじと見つめて褒めると、彼は照れたように頬を赤らめる。
 いつもは野狐二体と三人で帰っているが、今日はからかさ小僧もいるので四人になる。市から帰る時騒がしそう、と小珠は想像して少し笑った。


 ◆


「でっけえ……」

 狐の一族の屋敷を見上げて、からかさ小僧は圧倒されているようだった。無理もない。威圧感のある大きな門と、朱塗りの屋根。今では慣れたものだが、小珠も最初来た頃は、こんな立派な屋敷の中に入るのかと気が引けた。

「噂には聞いてたけど、やっぱでけーな」

 からかさ小僧がぴょんぴょん跳ねながら興味深そうに呟く。
 ゆっくりと自動で門が開き、その先に、ずらりと野狐たちが並んでいた。野狐たちが並んで作った道の向こう側に、立派な着物を着た空狐が立っている。

「ようこそお越しくださいました」

 空狐が近付いてくると、からかさ小僧はさっと青ざめ、頭を低くした。そのあまりの勢いのせいで頭の上に乗せていた菅笠が遠くに吹っ飛んでいく。

「こここここちらこそ恐悦至極に存じます」
「だ、大丈夫だよからかさ小僧。そんなに緊張しなくて」
「馬鹿野郎、あのお狐様たちだぞ!? 無礼なことをしたら一瞬で――」
「――〝馬鹿野郎〟?」

 空狐が美しい笑顔を貼り付けながら、低い声でからかさ小僧に問う。一瞬にして場の空気が冷えた気がした。

「今、貴方、小珠様に向かって〝馬鹿野郎〟と言いましたか?」
「ひぃいいいっ!! もっ、もっ、申し訳ございません!!」

 空狐の顔があまりに怖いので、慌ててからかさ小僧を庇うように前に立つ。

「空狐さん、からかさ小僧は友達なんです。今のはただの軽口ですよ」
「小珠様が良いのなら良いのですが。言葉には気を付けていただきたいですね」

 空狐の釘を刺すような言葉に、背後のからかさ小僧がぶるっと震えた気配がした。
 これは前途多難だ、と小珠は思う。狐の一族への印象を改めてもらうために呼んだのに、より怖がらせてしまっている気がする。
 その時、空狐の後ろからからんころんと下駄の音を立てながら、金狐と銀狐がやってきた。

「空狐はん、あかんやないですか。今回の主旨忘れはったんですか?」
「そうですよ。今日はからかさ小僧はんに目一杯楽しんでもろて、仲良くなりましょ~いう会やろ? 既にそない喧嘩腰でどないしますのん」

 金狐と銀狐の方が意外とからかさ小僧に対して友好的だ。

「ほな、からかさ小僧はん。付いてきてもろてええですか」

 銀狐が歩き始め、小珠と空狐もその後に続く。からかさ小僧も小珠の後ろをびくびくと身を低くしながら付いてきた。
 屋敷には玄関を上がってすぐ、訪問客を応接する間がある。小珠の部屋よりは少し狭い畳の間だ。
 部屋に入ると、外に青く輝く山が見えた。――おかしい、と気付く。向こうに山などないはずだ。誰かが幻影を見せているのだろう。しかし、幻影にしては本当にくっきりとしていて、まるで本物の山の景色のようだ。

「夏は外が蒸し暑く景色を楽しめませんでしょう。今宵はからかさ小僧さんにお楽しみいただけるよう、酒も用意してあります」

 空狐が合図すると、野狐、気狐たちが一斉にぞろぞろと列を作って部屋にやってきて、台の上に高級そうな酒と食事を置いていく。
 からかさ小僧は現実感がないようでぼうっと立ち尽くしてその様子を見ていた。

「北の遊び倒れ、東の着倒れ、西の食い倒れ、南の飲み倒れ――と言いますように、きつね町の南方は呑兵衛の地域だと聞いておりますので」
「の、呑兵衛て……」

 からかさ小僧が空狐の言い草に苦笑いする。
 小珠は夜の外出を禁じられているので夕方以降南へ向かったことはない。強いて言うなら、瑞狐祭りのあの夜くらいだ。
 しかし確かに、聞くところによると南の妖怪たちは酒が好物らしく、夜になると酒屋に集まって呑むことが多いらしい。実際からかさ小僧も、飲み過ぎて二日酔いになり市へ来なかった日があった。
 からかさ小僧の好みを考慮した面白い迎え方だ。小珠は内心、これを提案してくれた空狐に感謝した。

「食事の後は湯を用意してあります」
「お、おれ、桶持ってきてねえけど……」
「新しいものがありますので、お気になさらず。こちらにいる野狐たちがお体を清めてくださるでしょう」

 空狐が野狐たちを紹介するが、野狐たちはやはり無言だ。
 その愛想の無さを見て、からかさ小僧の表情が固まる。ただでさえ狐の一族が怖いというのに、無言の野狐たちと湯に向かうのは恐ろしいことだろう。喋らないのは野狐の性質だ。しかし、初めてであれば愛想がないと感じてもおかしくない。それに、野狐たちは背が高く威圧感もある。からかさ小僧一人では可哀想だと思った。

「からかさ小僧、私も一緒に入ろうか?」

 気を使ってそう提案した。しかし、小珠の発言により何故かぴしっと場の空気が張り詰める。
 変なことを言っただろうか、ときょろきょろと周りを見回す。隣の空狐は怖い顔をしていて、後ろの銀狐も心なしか顔が強張っている。金狐は無表情だ。

「小珠様、それはどういう意味でしょうか?」

 空狐がにこりと柔らかい笑みを浮かべて問うてくる。その声が何だか恐ろしく、ひゅっと息を吸った。

「からかさ小僧が緊張しないよう、私が一緒にいてあげた方がいいかと思い……」
「この者の眼前で衣服を脱ぐと?」

 何がいけなかったのか、必死に思考を巡らせる。そういえば小珠のいた村の湯屋とは違い、この屋敷では頑なに男女が湯に入る時間帯がずらされている。もしかすると、男と女は明確に分けるべきものなのかもしれない。

「すみません。まさかこのお屋敷で混浴がそれほどの禁忌だったとは思わず……私の村の湯屋では混浴が一般的だったので……」

 空狐の威圧感に負けて声が弱々しくなってしまう。

「禁忌というわけではないのですが」
「でも、よくないことでしたか」
「絶対に駄目です」
「では、やめておきます……」

 空狐が即答してきたので大人しく断念する。
 後ろで銀狐が何故かぶふっと噴き出すのを、空狐が軽く睨み付けていた。