鮫島さんは否定形で全肯定。



 ──週末ということもあり、『つるや商店街』にはそれなりの人通りがあった。

 日用品を買う近隣住民。
 食べ歩きを楽しむ学生。
 観光客らしき人の姿も見受けられる。

 雷華と未空は「勝手知ったる」といった様子で海斗の後ろをついて行くが、翠だけはきょろきょろと周囲を見回していた。

「八千草は、来るの初めてなのか?」

 歩くペースに気を配りつつ、海斗が尋ねる。
 翠は無言で、こくんと頷いた。

「そうか。気になる店があったら遠慮なく言ってくれ。初めて訪れた人の視点も知りたいから」

 翠は小さく「うん」と答え、再び眼鏡の奥の瞳をきょろきょろと動かし始めた。



 程なくして、最初の目的地である店に辿り着いた。
 店先に並ぶ艶やかなナス、トマト、ピーマン。「特売」の文字が掲げられたキャベツやネギ。
 海斗御用達の八百屋、『くまだ青果店』だ。

「あら、いらっしゃい。今日は随分とお早いお買い物だね」

 海斗の顔を見るなり、エプロン姿の中年女性が声をかけてくる。海斗は軽く頭を下げ、

「こんにちは、おかみさん。実は今日は買い物ではなく、取材に伺いました」

 と、今回訪問した理由について説明した。
 おかみは嬉しそうに頷き、校内の発表で紹介することを快諾してくれた。

 早速、事前に決めていた質問内容に沿ってインタビューをしていく。
 店を構えて何年になるのか。
 一日の客の数や、よく売れる商品について。
 どうして質の良いものを安く提供できるのか、などだ。

「うちには同じ商店街で店出してる人がよく仕入れに来るんだよ。あそこのクレープ屋のいちごもバナナも、斜向かいの定食屋のキャベツやほうれん草も、パン屋のフルーツサンドのキウイも、みんなうちの店で買って行ったものさ。良いものを安く売って、他の店の食材になって、それがまた安くて美味しければ、お客さんがたくさん来てくれるだろう? 結果、商店街全体が活気付くし、うちにもお客さんが増える。商品の値段を上げることは簡単だけど、それじゃあお客さんの喜ぶ顔や、商店街全体の賑わいは手に入らないのさ」

 おかみの言葉に、海斗たちは感銘を受ける。
 きっと他の店も同じような気持ちで商いをしているから、この商店街にはまた来たくなる温かさがあるのだろう。

「ありがとうございます。大変参考になりました。翠ちゃんは、何か聞きたいことはある?」

 ずっと黙ったままの翠に、未空が投げかける。
 翠は「えっと」と暫く目を泳がせてから、

「こ……このお店は、何色ですか?」

 そう、控えめに言った。
 おかみが「えっ?」と聞き返すと、翠はさらに声を小さくして、

「イメージカラーです……おかみさんが思う、この店の雰囲気に合う色が知りたいな、なんて…………いや、きもいですよねごめんなさい。もう黙ります……」

 ただでさえ狭い肩幅をさらに縮こませ、俯く。
 しかし、おかみは「あはは!」と笑い、

「イメージカラーね。考えたこともなかったけど……強いて言うなら、緑かな。フレッシュで優しくて、瑞々しい色。うちにピッタリだろ? 八百屋だし」

 そう、楽しげに答えた。
 それを聞くなり、雷華と未空は嬉しそうに顔を見合わせる。

「翠、良い質問ね!」
「うんうん。さすが、イラストレーターならではの視点だよ」
「そうだな。他の店でも、同じように聞いてみようか」

 海斗も、そう続ける。
 三人の反応に、翠はぽかんと目を見開いてから……

「……あ、ありがとう」

 と、恥ずかしそうに呟いた。


 こうして、一軒目の取材は無事に終わった……
 と、思われたのだが。

「さて……海斗くん。今日もいつものやつ、やっていく?」

 おかみが、拳をにぎにぎと動かしながら不敵な笑みを浮かべる。
 未空が「いつもの?」と首を傾げるので、海斗は説明する。

「じゃんけんして勝ったら、冷凍パイナップルか冷凍チョコバナナをおまけでもらえるんだ。ここで買い物する時にはいつもやっている。って、今日は何も買っていないのにいいんですか?」
「もちろん。うちの店を学校で紹介してくれるんなら、これくらい安いもんさ。普通にあげてもいいけど……それじゃあつまらないだろう?」

 言いながら、おかみは拳を高く掲げる。
 まるで歴戦の武闘家のようなオーラが、その小太りな身体からゆらりと放たれる。

「そうですね……では、今日も正々堂々、やらせてもらいます」

 対する海斗も拳を引き姿勢を低くする。
 こちらも熟練の拳闘士のようなオーラを放ち始める。

 ただのじゃんけんに、この気合いの入れ様。
 未空は苦笑いするが、隣で雷華がうずうずしているのに気が付き、

「……雷華もやりたいの?」
「うんっ。冷凍パイン欲しい!」

 目を輝かせ、何度も頷く雷華。
 おかみはニヤリと笑い、腕をぐるぐる回す。

「いいねぇ。なら、全員相手してあげるよ。まずは海斗くんから……いくよ!」

 その掛け声の直後、二人は更なるオーラを放ち……


「「──最初はグー!!」」


 戦いの火蓋が、今、切られた。
 
 


 ──などと大層な雰囲気を作っておきながら、戦いは一瞬で終わった。

 手を振るおかみに未空はぺこりと頭を下げ、青果店を後にする。
 その手には、戦利品の冷凍パインが握られていた。カットしたパイナップルに割り箸を刺し、アイスキャンディーのように凍らせたものだ。

「……温森くんと雷華ちゃんが負けるの、キャラクターとして『解釈通り』って感じ」

 そう呟く翠の手には、やはり割り箸に刺した冷凍チョコバナナが握られている。
 そのセリフの通り、じゃんけんに勝ったのは未空と翠の二人だけだった。
 羨ましさと恨めしさを込めた目で翠を睨み、雷華は「どーいうイミよ!」と抗議する。

「仕方がない、勝負の世界に負けは付き物だ。俺は明日も買い出しに来るが、一緒にもう一戦挑まないか? 鮫島」
「もうやらないわよ!」

 負けた者同士、傷を舐め合おうとする海斗のセリフをばっさり否定する雷華。
 よほど食べたかったのか、悔し涙を浮かべる彼女に、未空が「一口いる?」と言いかけた……その時。

「おい、坊主。こっちこっち」

 どこからか、そんな声が聞こえた。
 明らかに自分に向けた声であることを察し、海斗は周囲を見回す……と、狭い路地の隙間に、見知った顔が挟まっているのを見つけた。

 鉢巻のように額に巻いたタオル。
 黒い前掛け。熊のようにずんぐりした身体。

 今しがた取材した『くまだ青果店』のおかみの夫……つまり、店主である。

「大将。店にいないと思ったら、こんなところで何してるんですか?」

 海斗が近付くと、店主は「しーっ」と人さし指を立て、

「かーちゃんに見つからないように、静かにこっちへ来てくれ」

 何やら切羽詰まった様子で、ひそひそと言う。
 海斗は女子三人と顔を見合わせてから、暗い路地に足を踏み入れた。

「お前ら、この商店街の取材に来たんだってな」
「なんだ、聞こえていたんですか」
「商店街をあちこち回るなら、一つ頼みがある。猫がいないか、見てきて欲しいんだ」

 海斗が「猫?」と聞き返すと、店主は深く頷く。

「ずんぐり太った三毛猫だ。先週、うちの店の裏にある空のダンボールを寝床にしているのを見つけてな。具合が悪いのか怪我でもしているのか、俺が近付いても逃げる素振りもなかった。数日経っても退かねぇから、流石に動物病院に相談しようかと考えていたら、何も知らねぇかーちゃんが三日前にダンボールをまとめて処分しちまってよ。以来すっかり姿を見せなくなっちまったから、ちょっと心配してんだ」
「なるほど。怪我や病気かもしれないなら、確かに心配ですね」
「だろ? もちろん商店街にとっちゃ猫も鳩もカラスも害獣だから、居座られるのは困るんだが、調子が悪いんなら話は別だ。どっか別の、迷惑にならねぇ場所で寝られていればいいが、店の仕事ほっぽり出して探しに行くわけにもいかねーし、どうしようかと思っていたところだ」

 そこまで言うと、店主はパンッと手を合わせて、

「頼むっ。取材ついでにここいらを軽ーく見て回るだけでいい。『親方』がいないか気にかけておいてくれ。もちろんタダとは言わねぇ。冷凍パインだろうがチョコバナナだろうが、食いたいものなんでもやるから」
「……親方、とは?」
「あぁ、俺が猫につけたあだ名だ。身体がデカくて、顔もVシネ俳優みたいにイカついんだ。ひと目見ればすぐに『親方』だってわかるはずだぜ」

 などと、得意げに猫の特徴を語る店主。
 あだ名まで付けるとは、よほど愛着が湧いているようだ。面倒見の良い大将らしいなと、海斗は思う。

 こんな話を聞かされては、海斗も猫が心配になった。
 加えて、雷華に冷凍パインを振る舞える大義名分を得られるならば、もはや断る理由もなかった。

「わかりました。それらしい猫がいないか、気にかけておきます。また後で報告しますね」

 海斗は店主の熱い感謝を受けながら、路地裏から元の大通りへと戻った。

「何の話だったの?」

 未空に尋ねられ、海斗は三人に一通り説明する。

「……というわけなんだ。商店街を回るついでに、猫がいないか気にかけてもらいたい。もちろん……」

 報酬もあるぞ。
 そう言いかけたところで、翠が静かに手を上げる。

「待って。八百屋のおじさんは、『太った三毛猫』だって言っていたんだよね?」

 神妙な面持ちで尋ねる翠に、海斗は「あぁ」と頷く。
 翠はそのまま考え込むように俯くと、

「……その猫、お腹に赤ちゃんがいるのかもしれない」

 と、思いがけないセリフを呟いた。
 雷華は「え?!」と声を上げ、翠に詰め寄る。

「赤ちゃんって、その猫オスなんじゃないの? 『親方』って呼ばれているんだし……」
「それは怖い顔のせいでしょ? 三毛猫がオスである確率は三万分の一と言われている。つまり、三毛猫のほとんどがメス。そして、妊娠したメスは出産が近付くと静かな場所に寝床を作る習性がある。単純に太っている可能性もあるけど、ずんぐりしているというのも……」
「妊娠していて、お腹が大きくなっていた、ってこと?」

 途中から言葉を継ぐ未空に、翠は頷く。

「すごいな、八千草。猫について詳しいのか?」

 海斗が尋ねると、翠は首を振り、

「ううん。うちも猫を飼っているから、たまたま知っているだけ。猫は基本的に安産な動物だと言われているけど、出産間近で寝床を追われてしまったなら心配。どこかで無事に産んでいるといいけど……」

 その時、雷華が居ても立っても居られない様子で駆け出した。

「早く探しに行こ! 『親方』が困っているかもしれない!」
「待って」

 駆ける雷華の背中を、翠が止める。

「闇雲に探し回ってもだめ。猫が好きそうな場所を選ぶべき。あと、猫を見なかったか、あちこちで聞いた方がいい」

 冷静かつ効率的な捜索方法だと、海斗も思う。
 雷華は足を止め、翠を見つめると、

「……わかった。先頭は、翠に任せるわ」

 そう言って、自身を落ち着かせるように息を吐いた。
 
 


 四人は翠を先頭に、『つるや商店街』のメインストリートを進む。
 左右に並ぶ様々な店舗の間には、猫なら難なく通れそうな細い路地がいくつもあった。

 これは想像以上に捜索が難航するかもしれないと、海斗は路地の一つを覗きながら目を細める。

「この辺りはゲームセンターがあるし、騒がしいから猫は避けるかも。静かな、食べ物屋さんの近くを探した方がいい。匂いにつられて寄って来るかもしれないし、同じような空き箱を寝床にしている可能性もある」

 翠の冷静な指摘に一同は納得し、賑やかな店舗を避けるように先へと急いだ。
 途中、雷華の母親が店主を務めるパン屋『ハンマーヘッド』の前を通りかかるが、雷華が無言で通過したため、海斗も未空も何も言わないことにした。

 しばらく進み、食べ物屋が並ぶ比較的静かな場所へ辿り着いた時、

「……おい、これって……」

 海斗が、惣菜屋の前で足を止めた。
 そこには、『のら猫に餌をあげないでください!』という貼り紙が掲げられていた。

 最近貼られたものなのか、手書きの紙はまだ綺麗な状態だ。海斗が時々利用している店だが、いつから貼られているのかわからなかった。

「この辺に猫が来ているんだね。もしかすると、『親方』も……?」

 貼り紙を眺め、未空が呟く。
 海斗は惣菜屋のカウンターに向かい、店員に話しかけた。

「こんにちは。ちょっと聞いてもいいですか?」
「あぁ、いつものお兄さんじゃない。いらっしゃい」
「そこの貼り紙についてなんですが、この店にはよく猫が来るんですか?」

 コロッケやハムカツが陳列されたショーケースカウンターの向こうで、女性の店員がため息混じりに答える。

「そうなのよ。うちって、買ってすぐ食べられるものを売っているでしょ? 店先で食べて行く学生さんや観光客を見て猫が寄ってくるの。特にさつま揚げとかの練り物は、魚でできているからってお客さんがちぎって食べさせたりして……」
「その中に、太った三毛猫はいた?!」

 店員の言葉半ばで、雷華が身を乗り出し尋ねる。
 店員は記憶を辿るように宙を仰いで、

「あぁ、いたねぇ。ずんぐりしたコワモテの三毛が。他の猫がいても、そいつが来ると逃げちまうんだよ。ありゃボス猫かもしれないね。そういう風格があったから」
「ボス猫……」

 間違いない、『親方』だ。

「その猫を最後に見たのはいつですか?」
「そういえば、ここ一週間くらいは見かけていないね。貼り紙をしてからは餌をやる人も減ったし、諦めて来なくなったのかも」
「他のお店で見たという話は聞いたことありますか?」
「さぁ……その猫のことはわからないけど、うちみたいに食べ歩きができるものを売っている店はどこも野良が集まりやすいみたいだよ。案外、どこかの店が市に問い合わせて駆除依頼でもしたのかもね」
「そんな……」

 顔を青ざめさせる雷華。
 海斗は礼を述べ、雷華と共に惣菜屋から離れた。

「どうしよう。『親方』、駆除されてるかもしれないって……」

 未空と翠の元へ戻るなり、声を震わせる雷華。
 彼女の『放っておけない精神』は見知らぬ猫相手にも多分に発揮されるようだ。

 海斗が励まそうと口を開きかけるが、その前に、翠が「大丈夫」と返す。

「その心配はない。行政が猫を捕獲したり、処分したりすることはできないから。ボランティア団体が保護することならあるかもしれないけど」

 その落ち着いた言葉を聞き、雷華は表情に明るさを取り戻す。
 海斗は未空と顔を見合わせ、一つ頷くと、

「野良猫が集まる店は他にもあるみたいだ。引き続き、聞いて回ろう」

 そう言って、再び商店街を進み始めた。



 その後の聞き込みで、『親方』らしき野良猫を目撃したという店が他にもあった。

 行動圏内を捉えていることを確信しつつさらに進むと、店頭でだんごを焼いている和菓子屋が見えて来た。
 その店先で、店員らしき女性が何かを拾っている。どうやらゴミ箱が倒れ、散らばった中身を掃除しているようだ。

 海斗が「大丈夫ですか?」と声をかけながらゴミ拾いを手伝うと、女性は「ありがとうございます」と礼を述べた。

「すみません、助かりました。実はさっき猫が来て、ゴミ箱を倒して行ったんです」

 それを聞き、雷華は身を乗り出す。

「どんな猫でしたか?!」
「えっと……真っ黒な猫でしたが、それが何か?」

 残念ながら『親方』ではないようだが、海斗はもう少し情報を聞き出すことにする。

「ここにはよく野良猫が来るのですか?」
「えぇ。お客さんが店先で食べた団子の串をこのゴミ箱へ捨てて行くんですけど、野良猫がひっくり返して、団子がくっついた串を咥えて行くんです」
「なるほど……実はある猫を探しているのですが、これまでに身体の大きな三毛猫を見た覚えはありますか?」
「あぁ、ありますあります、顔の怖い大きな三毛猫! 最近は見かけないけど、一時期は毎日のように来ていましたよ。いつの間にかゴミ箱を倒していて、気付いた時には串を咥えて、そこの路地へササーッと逃げちゃって……」

 言って、女性は店の横に続く狭い路地を指さす。『親方』らしき猫の行き先について、ここまで具体的な情報を得るのは初めてだった。

 四人は礼を述べ和菓子屋を後にすると、さっそくその路地へ入った。
 人ひとり通るのがやっとな狭さだが、猫が通るにはちょうど良い抜け道のように思えた。

「……この先に、『親方』の住処があるのかしら」

 室外機を避けながら、雷華が呟く。
 確証はないが、少しずつ『親方』に近付いているような気がした。
 だから海斗は、

「毎回こっちに逃げたなら、きっと『親方』にとって安全だと思える場所があるのだろう。そこに新しい寝床を構えているかもしれない」

 と、願望を混じりの言葉を雷華へ返した。

 路地を抜けた先にあったのは、商店街のアーケードの陰に位置する、静かな小道だった。
 先ほど話を聞いた和菓子屋の真裏に出たようで、裏口と思しき扉がある。
 その裏口の前に何かが落ちているのに気が付き、雷華は拾い上げた。

「これって……団子の串?」
「さっきゴミ箱を倒したっていう黒猫が置いていったのかな?」

 未空が横から覗き込みながら言った、その直後。

「ふぁ……っくしゅん! っくしゅ! ひぇっくしょん!」

 これまでにない激しさで、雷華がくしゃみを連発した。
 隣で未空が「大丈夫?」と呼びかけるが、それに対する返事もくしゃみに変わる。

「やっぱり、薄着したせいで風邪が悪化したんじゃ……」

 と、海斗は着ているパーカーのファスナーを開け、雷華に着せようとするが、

「……待って」

 翠が、何かに気付いたように声を上げる。
 そして、未だくしゃみをする雷華に駆け寄ると、

「雷華ちゃんて、もしかして…………猫アレルギーなんじゃない?」

 そう問いかけた。
 予想外の指摘に、海斗と未空だけでなく雷華本人も「え?」と聞き返す。

「電車で髪を結ってくれた時、雷華ちゃん、何回もくしゃみしていたよね。わたし、猫飼ってるって言ったでしょ。今朝、猫がわたしの枕元で寝ていたから、髪に猫の毛が付いていたのかもしれない。だからくしゃみしているのかなって、少し気になってた」
「雷華……猫アレルギーだったっけ?」

 長年の親友である未空が尋ねるも、雷華は「わかんな……は、っくしゅ!」と答える。
 その手から落ちた団子の串には、確かに猫の毛らしきものが付着していた。

 ……と、そこで。
 海斗の脳裏に、一つの仮説が浮かぶ。

「そういえば……鮫島がくしゃみをするのって、決まってあのトートバッグを持っている時だったよな」

「トートバッグ?」と首を傾げる未空に、海斗は「ほら」と続ける。

「いつもパンを持ってくるのに使っていたアレだよ。今朝も俺の家に持って来た時にくしゃみしていた。ということは……」

 そこまで聞いて、未空にも同じ仮説が浮かんだらしい。
 雷華の方をバッと振り向くと、肩に手を乗せ、尋ねる。

「雷華。あのトートバッグって、いつもどこから持って来てたの?」
「ど、どこって……朝、お母さんに渡されるのを、そのまま持って来てただけだけど」
「雷華の家、猫いないよね?」
「うん。一度も飼ったことない」

 海斗と未空は視線を交わし、頷く。
 そして、

「ここからなら裏手側から回った方が早い。こっち!」

 未空は小道を駆け出し、皆を先導する。
 目的地を悟った海斗と、何一つピンと来ていない雷華と翠がその後をついて行く。

 その場所へは、一分もしない内に辿り着いた。
 とある店舗の裏口にあたる場所。
 辺りには、バターの香ばしい匂いが立ち込めている。

「ここ……パン屋さん?」

 最後尾を走っていた翠がようやく追いつき、肩で息をしながら呟く。
 すると、


「──ら、雷華? こんなところで何しているの?」


 という声と共に、路地から一人の女性が現れた。

 三角巾を被った長い茶髪。
 ぱっちりとした瞳にはどこか少女らしさが残り、年齢不詳な美しさを醸し出している。

 海斗も、未空も知っている顔。
 しかし、この場において最も知っている雷華が代表して、その女性の正体を叫んだ。


「お、お母さん……!」


 そう。現れた女性はパン屋『ハンマーヘッド』の店主にして雷華の母親、鮫島風子だった。

 唯一知らない翠が「……お母さん?」と首を傾げるので、未空が説明する。

「ここは雷華のお母さんがやっているパン屋の裏口なの。お久しぶりです、風子さん」
「未空ちゃん……それに海斗くんも。あれ、うちには取材に来ないんじゃなかったの?」

 いるはずのない娘とその友人に遭遇し、動揺した様子の風子。
 海斗は一歩踏み出し、彼女に問いかける。

「風子さん。今、後ろに隠したのって……キャットフードじゃないですか?」

 ビクッと肩を震わせ、あからさまに動揺する風子。やはり母娘、こういう時の表情は雷華とそっくりだ。
 そんなことを考えながら、海斗はいよいよ核心に触れる。

「俺たち、猫を探しているんです。身体の大きな三毛猫なんですが……この店に、匿っていたりしませんか?」

 雷華と翠から「え……?」と声が上がる。
 全員の視線を一身に受け、風子は「あ、えぇと……」と暫し狼狽えてから、

「……隠していても仕方がないよね。あなたたちが探しているのは、この子たちのことかな?」

 言いながら、店の裏口にある物置きに手をかける。

「……たち?」

 翠の呟きと、引き戸を開ける音が重なる。
 やがて、物置きの中に見えたのは……

 鋭い目付きの三毛猫と、その母乳をまさぐるように吸う、三匹の子猫だった。
 
 


 ──三日前。

 風子が物置きを開けると、店のチラシを保管しているダンボール箱の中に猫がいた。
 どうやら、閉め忘れた戸の隙間から入り込んだらしい。

 風子は驚いて声を上げるも、猫はまんじりとも動かない。
 その日は雨の予報で、追い出すのも忍びなくなり、風子はとりあえずそっとしておいた。

 が、次の日も猫はその場所を寝床にしていた。
 これ以上居座られては困るので、明日もまだいるようなら出て行ってもらおうと決心した、次の日……
 つまり、昨日。

 物置きを開けると──猫が三匹、増えていた。


「……と、いうわけなの。近所の動物病院はお休みだったし、店を留守にして面倒見るわけにもいかなくて……とりあえず赤ちゃんたちが元気そうだったから、時々こうして様子を見て、休み明けにでも病院へ連れて行こうって考えていたのよ」

 と、親猫にキャットフードをあげながら、風子が言う。
 白・黒・茶色の体毛に、睨み付けるような目付きを見て、海斗たちはその猫が『親方』であることを確信した。

 子猫たちは母乳をお腹いっぱい飲み満足したのか、タオルが敷かれたダンボール箱の中でうとうとしている。
 なんとも愛らしい姿に、未空と翠は夢中で箱を覗き込んだ。

「それにしても、まさか雷華が猫アレルギーだったなんて……飼ったことないから気が付かなかったわ。朝、この子にエサをあげてから雷華に渡すパンを用意していたから、知らない内に毛が付いていたのかも。ごめんね」
「あたしのことより……ひ、ふぇっくしゅ! この子たち、これからどうするつもりよ?」

 他の面々が子猫を覗き込む中、一人離れた場所から声を張る雷華。
 風子は「うーん」と首を傾げ、黙々と餌を食らう『親方』を見つめる。

「本当はうちで飼おうと思っていたのよ。ここまで面倒見てしまったのだから、野良に帰すのは無責任だし、商店街としても野良猫が増えたら困るでしょう? でも、雷華が猫アレルギーならそれは無理ね。誰か飼ってくれそうな人を探すか、保護猫について調べてみようかしら」

 そこで、子猫をじっと見つめていた翠が小さく手を上げ、

「それなら……わたしが、この子たちの里親を探しましょうか?」

 なんて、思いがけない立候補をするので、一同驚く。

「八千草、あてでもあるのか?」
「うん。絵師の名義でやってるSNSのフォロワー、三万人いるんだけど、わたしがよく猫の絵を描いているから猫好きの人が多くて。中には保護活動をやっている人もいるから、呼びかけたら力になってくれると思う」
「さっ、三万人?!」
「さっすが『奴奈川すだち』先生ね! ちなみに、あたしも昨日フォローしたわ!」
「あまり大きな声でペンネーム言わないで!」

 何故か得意げな雷華に、翠が慌てて叫ぶ。
 そのやり取りを眺め、風子は嬉しそうに笑い、

「それじゃあ、ぜひお力をお借りしようかしら。奴奈川すだちさん」
「翠です。八千草翠」
「翠ちゃんね。これからいろいろ相談させてほしいから、連絡先交換してもいいかしら?」
「あっ、ちょっとお母さん! あたしもまだ交換していないのにずるい! 翠、早くこっち来て連絡先教えて! ついでに子猫の写真送って!」

 そう言って、スマホを取り出す雷華。
 翠は半眼になりながらも「はいはい」と立ち上がり、スマホを用意する。
 風子は笑みを浮かべ、隣にしゃがむ海斗と未空に目を向ける。

「ふふ。雷華には昔から未空ちゃんしかお友だちがいないと思っていたけど、頼もしいお友だちが随分増えたのね。安心したわ」

 ……いや、自分に関しては『友だち』ではなく『隊員その一』らしいですよ?

 とは言えず、海斗は未空に返答を任せることにする。
 しかし……

 いつもならコミュ力全開でにこやかに答えるであろう未空が、一瞬下唇を強く噛み締めたことに海斗は気が付く。
 それを疑問に思うが、どうしたのかと声をかける前に、

「……えぇ、そうですね。最近の雷華は、すごく楽しそうですよ」

 未空の顔に、いつもの完璧な笑顔が戻ったので、それ以上深くは考えなかった。
 未空の返答に、風子は「うふふ」と笑い、

「それはよかった。頑固な子だからこれからも迷惑かけるかもしれないけど、仲良くしてもらえると嬉しいわ。海斗くんも、困っていることがあれば遠慮なく言ってね。力になるから」

 と、まるで少女のように屈託なく笑う。
 その笑顔に雷華の面影を感じ、海斗は微笑んで、

「……はい。いつもありがとうございます、風子さん」

 日頃の感謝を、あらためて伝えた。

 


 ──それから、『くまだ青果店』の店主に顛末を報告し、四人は約束の報酬を受け取った。


「んんーっ。ひと仕事終えた後の冷凍パインは格別ね!」

 と、満面の笑みで頬張る雷華。
 彼女の満足そうな姿に、海斗は思わず笑みを溢す。

「結局、取材どころじゃなくなっちゃったね。お昼時でどこも忙しそうだし、取材はまた今度にしよっか」

 本日二本目の冷凍パインを齧りながら、未空が苦笑いする。
 彼女の言う通り、商店街のメインストリートには人通りが増えていた。
 さらに言えば、『親方』を見つけたという達成感に満たされてしまったため、今から「取材しよう」という気にもならない雰囲気であった。

「……しかし、今日は八千草に助けられてばかりだったな。八千草がいなければ、『親方』は発見出来なかったはずだ」

 冷凍チョコバナナの最後の一口を飲み込み、海斗が言う。
 取材のため、そして打ち解けるために来てもらったが、結局は翠に頼りっぱなしであった。

 海斗の言葉に賛同するように、未空も頷く。

「うんうん。雷華のお母さんも『頼もしいお友だち』って言ってたよ。ほんと、翠ちゃんが来てくれてよかった」
「んっふっふ。あたしたちはもう親公認の仲。連絡先も交換したし、完全にお友だちね!」

 と、雷華が少々重い発言をするが、翠は慌てて手を振り、

「た、頼もしいだなんてそんな……たまたま猫に詳しかっただけだし」
「いいや。『親方』がメスで妊娠している可能性があることも、鮫島が猫アレルギーであることも、言い当てたのは八千草だ。知識があったとしても、状況を観察する力がなければこの結論には至らなかっただろう」
「そうだね。翠ちゃんって周りをよく見ているなって、一緒にいてすごく感じたよ。落ち着いているし、とても頼もしかった」
「そういう観察力が画力に直結しているのかもな。普段から周囲の事象を注意深く見ているからこそ、リアリティのあるイラストが描けるのだろう」

 海斗が腕を組みながらそう分析するが、それを聞いた翠は立ち止まり、

「…………違う」

 と、酷く低い声で呟く。
 三人も思わず足を止め、翠の方を振り返る。

「……違うよ。わたしは、本当に……ダメダメ人間なの」

 冷凍チョコバナナの串を、きゅっと握りしめ……
 雑踏に紛れてしまいそうな声で、翠は言う。

「……わたしね、本当はイラストレーターじゃなくて、漫画家になりたいの。前にイラストの仕事をもらった編集さんがチャンスをくれたから、学校も行かずに漫画を描き上げたんだけど……『登場人物の言動や心理描写にリアリティがない』って、ボツにされちゃった。だから全然、観察力なんてないよ」

 その言葉に、海斗はハッとなる。
 今朝、彼女を取材に誘った時、『実際に見て描いた方がリアリティが出る』という説得に反応していたのは、こうした背景があったからなのだろう。

「人物のリアルな心情を描くことなんてできるはずなかった。だって、ずっと独りだったんだもん。ドジでノロマで、すぐ転ぶポンコツ。だから……小学生の頃からずっと仲間外れだった」

 暗い表情で俯く翠。
 未空が「仲間外れって?」と聞き返すと……翠は、独り言のように、過去を語り始めた。


「……ケイドロもドッジボールも、わたしのせいで負けるから、仲間に入れてもらえなかった。
 でも絵だけは描けたから、『翠ちゃんは漫画描いておいて』って、教室に一人残って描いてた。
 毎日、毎日、毎日、毎日。
 ゲームに出てくるモンスターを百種類ぜんぶ描くまで帰っちゃだめ、なんて言われたこともあった。
 だけど完成した絵を見せると、みんな喜んでくれた。
『すごい』って褒めてくれた。
 それが嬉しくて、毎日描いた。
 ただ黙々と、独りで」


 微かに震える、翠の声。
 当時の彼女の気持ちを考えるだけで、海斗は胸が強く締め付けられた。

 独りでいる寂しさは、痛い程にわかる。
 そしてそれは……雷華も同じだった。

「……本当に、絵しか描いてこなかった。それ以外、なにもできないから。今日はたまたまうまくいっただけ。一緒にいれば、いつかあなたたちにも必ず迷惑をかける。人と話すのも、運動も、細かな作業も苦手なわたしが生きていくには、絵しかないの。将来、一人でも食べていけるように、もっと練習しなきゃ。そのために、学校も辞める。でも、安心して。今回の発表に必要な絵だけは描く。だから……」
「だから、何?」

 俯く翠の言葉を、雷華が遮る。
 そのまま、雷華は翠の顔を覗き込み、

「だから、漫画は諦めるし、もうあたしたちとは関わらない、なんて言わないわよね?」

 そう、問いかけた。
 図星だったのか、翠はぐっと言葉を詰まらせる。

 黙り込む翠に、雷華は……ふっと笑って、

「あたし、思うんだけどさ。翠を『ダメ人間』ってキャラ付けしているのって、他でもない翠自身なんじゃない?」

 そんなことを言うので、翠は「え……?」と聞き返す。
 雷華は「だって」と続けて、

「気付いてた? あんた猫を探している間、一回も転ばなかったのよ? 話し方も堂々として落ち着いていた。それって、自分が『ダメ人間』だっていう設定を忘れていたからじゃない?」

 それを聞き、海斗は納得する。

 雷華の言う通り、猫を捜索している最中の翠は、『ダメ人間』からはかけ離れた頼もしさを発揮していた。
 要するに翠は、自身を『ダメ人間』なのだと思い込むあまり、無意識の内に『ダメ人間』らしい言動を取っていたのだろう。

 傍から見れば滑稽な思い込みだが、つい先日まで「イエスマンでいるべきだ」と思い込んでいた海斗には、翠の気持ちが深く理解できた。
 これ以上、他者に否定され傷付かないように、先回りして自分で自分を否定する……一種の防衛反応なのだ。

 その事実を指摘され、翠は首をふるふると横に振る。

「ちがう……わたしは、本当にポンコツな『ダメ人間』で……!」
「ていうか、『ダメ人間』でもいいよ。本当にポンコツだとしても、それが翠なんでしょ? だったらなおさら、それはあたしたちから離れる理由にはならないわ」
「……どういうこと?」
「そういうところもひっくるめて、翠と仲良くなりたいってこと。運動音痴な人や、蝶々結びができない人は友だちになっちゃいけないなんて決まりがどこにあるの?」

 眼鏡の向こうの翠の目が、はっと大きく見開かれる。
 それは翠にとって、一番必要としていたセリフなのではないかと、海斗は思う。

 本当なら、友だちになるのに条件などいらないはずなのだ。
 不器用でも、鈍臭くても、それでも一緒にいたいと思えるのが友だちであろう。
 そんな当たり前のことを、翠は恐らく初めて投げかけられたのだ。

 翠は、ぱちくりと瞬きをして、掠れた声で聞き返す。

「な……なんで? なんで、仲良くなりたいって思うの?」
「うーん。面白いから?」
「お、おもしろい?」
「うん。翠ってあたしと全然タイプが違うし、あんな絵が描けるなんて世界がどんな風に見えてるのかなーって思うし、大人しそうな顔して意外とえっちなんだなーって……」
「うわぁあああ! それはもうやめて!」

 顔から湯気を噴き出しながら、手をバタバタさせる翠。
 しかし雷華は、不敵に笑い、

「んふふ。普段は無表情なのにこうして取り乱すのも面白いわ。例え家に引きこもろうとも、あたしは何度でもこのネタであんたを引き摺り出すから。逃げられると思わないことね!」

 と、感動的なセリフをすべて台無しにする。
 やはり組長の素質があるなと海斗は思うが、

「だから……次の取材も、必ず来てよね。そうしたら、『登場人物の心情のリアリティ』ってやつの勉強にもなるでしょ? あたし、翠が描く漫画、読んでみたいもん。一回の失敗で諦めるなんてもったいないわよ」

 という雷華のセリフを聞き、海斗は未空と顔を見合わせ、笑う。
 強引なところもあるが、やはり雷華はどこまでもお節介で、思いやり深い性格だ。

 泣きそうな顔で唇を噛み締めている翠に、海斗は肩を竦め、言う。

「組長もこう言っていることだし、本当に嫌じゃなければ、また取材に同行してくれると嬉しい。八千草に紹介したい店が、まだまだたくさんあるんだ」
「って、組長じゃない! 隊長!」
「組長だろう。脅すような言い方ばかりして」
「してないっ!」
「してる」
「してないったらしてない!」
「……そうだな、鮫島はただ八千草とお友だちになりたくて必死だっただけだもんな」
「なっ……別に必死じゃないし!」
「八千草をなんとか連れ出したくて、わざと悪者のような役回りを演じていたんだよな?」
「違うわよ! 弱み握って無理矢理言うこと聞かせようとしただけ!」
「やっぱり組長じゃないか」
「ちがーうっ!」

 ……という、まるで生産性のない会話を繰り広げる二人。
 もはやお馴染みとなりつつあるやり取りに、未空が呆れ切ったため息をつく横で、

「……変なの。仲が良いのか悪いのか、まるでわからない。いつもこんなかんじなの?」

 否定と肯定の奇妙な応酬に、翠は狐に摘まれたような顔をする。
 その顔を見て、未空は翠に雷華の呪いについて話していなかったことを思い出し、

「……翠ちゃん。実はね──」

 せっかくの機会なので、未空は雷華にかけられた『否定の呪い』について説明した。



「──まさか、そんな呪いがあるなんて……」

 話を聞き終えた翠は、いまだ否定と肯定の不毛なやりとりを続ける雷華たちをぽかんと見つめる。
 至極当然な反応に、未空は苦笑いをして、

「信じられないよね、こんな話。それこそリアリティがないし……」
「面白い」
「え?」

 翠の眼鏡の端がきらんっと光ったように見え、未空は目を点にする。

「現実は漫画よりも奇なり……二人を観察すれば、トリッキーかつリアリティのあるラブコメ作品が描けるかもしれない……」

 そんなことをぶつぶつ呟くと、翠はスタスタと雷華に近付き、


「雷華ちゃん。わたしと、お友だちになってほしい」


 すっ、と手を差し出しながら。
 あっさり、友だち宣言をした。

 その変わり身の早さに、呆然とする未空と海斗。
 当の雷華は、漫画云々の呟きが聞こえなかったのか、瞳を潤ませながら差し出された手をバッと取り、

「うんっ! 一緒に服買いに行ったり、映えスポットで写真撮ったり、通話で夜通し恋バナしたりしようね!」
「それは嫌」
「えぇぇー?!」

 彼女なりの『友だちらしい付き合い』をバッサリ拒否られ、絶望する雷華。
 しかし海斗は、無表情に見える翠の顔に、ほんの少し照れが滲んでいることに気が付く。
 どうやら、『漫画のため』というのは口実らしい。

『雷華のような人がいてくれるなら、学校に行ってみてもいいかもしれない』

 きっとそんな希望が翠の中で生まれ、その手を取る勇気になったのだろう。

 少々乱暴なやり方ではあったが……翠の心の扉を開くことができたようだ。

 海斗は、『お友だち作り隊』の隊員その一として、

「……とりあえず、作戦は成功、かな」

 そう呟き、嬉しそうに笑う隊長を、静かに祝福するのだった。
 
 


「──『日本呪術大全』……『世界の呪い全書』……『絵画から読み解く呪いの歴史』……」

 五月上旬。ゴールデンウィークの真っ只中。
 海斗は、学校の図書室で、ずらりと並ぶ本の背表紙と睨み合っていた。

『親方』の大捜索をした翌週、海斗たちはあらためて『つるや商店街』を取材した。
 その数日後から大型連休に突入したが、他のグループに比べ発表の準備がだいぶ遅れているため、休日も学校に集まり準備を進めることにしたのだ。

 発表の方法は、『つるや商店街』のマップを黒板に貼り出し、それを元に説明していく形に決まった。
 つまり、マップと台本、両方の制作を急ピッチで進める必要がある。

 そこで未空は、効率化を図るため、二手に分かれて作業することを提案した。
 翠と雷華で模造紙にマップを描き、海斗と未空で台本を書くのだ。

 では何故、台本制作担当の海斗が図書室の本を眺めているのかと言えば、未空が「ちょっと席外すね」と図書室を出て行ったため、暫しの(いとま)を得ている、というわけだった。


 窓からは、心地よい初夏の風と共に、運動部の掛け声が聞こえて来る。
 部活動に所属していない者は、きっと今ごろ遊びに出かけていることだろう。こんな連休に高校の図書室を利用している生徒は、海斗たち以外にいなかった。

 だから海斗は、これ幸いと言わんばかりに、『呪い』に関する書籍を隅から隅まで眺め、参考になりそうなものがないか探していた。
 連日、『深水(みすみ)神社』の呪いについてネットで検索をしているが、有力な情報は見つかっていない。
 それどころか、『呪い』と検索するだけで怪しげな占いの案内やパワーストーンを販売するサイトばかりが出てくるので、すっかり辟易していた。
 いっそ書籍の方が純度の高い情報が得られるのではと思い、図書室で探すことにしたのだ。

 しかし、それも既に空振り気味だった。
『呪い』に纏わる真面目な書籍はごく僅かで、胡散臭い体験談をまとめたホラーものや、子ども騙しなおまじないの本ばかりが並んでいた。

 その内の一つ、『今日から使える! 恋に効くおまじないベスト100』などと書かれたファンシーな本を手に取り、海斗は苦笑いする。

「『好きな子と隣の席になれるおまじない』……『告白が成功するおまじない』……」

 こんなの、今どき小学生ですら読まないのではないか?
 やはり公共の大きな図書館に行くべきか……

 と、小さくため息をつくと、

「……温森くん、おまじないに興味があるの?」

 背後からそんな声がし、海斗はビクッと肩を震わせる。
 振り返ると、そこにいたのは……
 眼鏡越しに海斗を見上げる、翠だった。

「八千草……どうした? 鮫島と一緒にマップを描いていたんじゃないのか?」

『親方』の大捜索をした日以来、彼女は休むことなく登校し、発表の準備にも参加していた。今は雷華と共に、図書室の机でマップの制作を進めているはずだった。つい先ほどまで、雷華の楽しげな声が聞こえていたのだが……いつの間に背後にいたのだろうか。

 海斗の問いかけに、翠は首を横に振る。

「雷華ちゃんは、髪を結ぶゴムをロッカーへ取りに行った。わたしとお揃いにするんだって」

 そう言われ、翠の髪型をあらためて見てみると、いつもの三つ編みおさげではなくツインテールになっていた。ただでさえ幼い雰囲気を持つ翠が、さらに幼い愛らしさを醸し出している。
 察するに、雷華が結ったのだろう。新たにできた友だちに構いたくて仕方がないらしい。
 あまりしつこくしすぎて、翠が負担に感じていないかと海斗は心配になるが、

「雷華ちゃん、髪もネクタイも靴紐もぜんぶ結んでくれる。全自動結び機みたい。便利」

 ……と、なかなかにドライな発言をする翠。
 二人の友情の温度差が気になるところではあるが、今のところは上手く共生できているらしい。
 海斗はやや複雑な気持ちになりながら「そうか」と答えた。

「そんなことより……温森くん、そんな本読んで、どうするの?」

 翠にそう問われ、海斗はハッとなる。その手には、ファンシーなおまじない本が握られたままだ。
 それを元の場所にしまいながら、海斗は弁明する。

「いや、これは、おまじないに興味があるとかではなく……」
「……なく?」

 小首を傾げ、続きを促す翠。
 はぐらかそうか、なんて考えが一瞬頭をよぎるが、海斗はもう『事勿れ主義』だった自分とは決別していた。
 意を決し、翠を見つめ返すと、

「実は…………鮫島の『否定の呪い』を解く方法がないか、調べているんだ」

 そう、正直に答えた。

「鮫島、男子を否定してしまうせいで女子からも距離を置かれているだろう? 中学でもずっとそうだったみたいなんだ。だから、八千草も身をもって知っていると思うが、友だち一人増やすのにもかなり空回りしている」
「……確かに」
「人一倍友だち想いなのに、ずっとこのままなんて辛すぎるだろ。男子と普通に話せるようになれば、女子相手に身構えることもなくなると思うんだ」

 そして海斗は、以前雷華に掴まれた胸ぐらの辺りにそっと手を当て、

「……鮫島は、『イエスマン』だった俺を変えてくれた。だから俺も……あいつの呪いを、解いてやりたい」

 自分に言い聞かせるように言った。
 その表情に、翠は何かを察したように「ふむ」と唸り、

「……協力する」

 短く、しかしはっきりと、そう答えた。
 海斗は驚き、「え?」と聞き返す。

「……わたしも、雷華ちゃんに救われた。あの日、家から無理矢理連れ出してくれなかったら、わたしはきっといまも独りで絵を描いていたと思う」
「八千草……」
「雷華ちゃんは、わたしを『ダメ人間』にしているのはわたし自身なんだって、気付かせてくれた。未空ちゃんも、温森くんも、こんなわたしを受け入れてくれた。だから、協力したい。雷華ちゃんを困らせる呪いを、わたしも解いてあげたい。久しぶりにできた……友だちだから」

 消え入りそうな程の、か細い声。
 声が小さいのは今に始まったことではないが、以前のような自信のなさによるものではなく、単純に照れているだけのようだ。

 雷華のことを『全自動結び機』などと呼んでいたが、あれも照れ隠しだったのだろう。
 翠の気持ちがわかり、海斗は思わず口元を緩め、

「……今のセリフ、鮫島に聞かせたら、泣いて喜ぶと思うぞ?」

 と、揶揄い半分に言う。
 それに、翠は白い頬を少し染め、

「……絶対に言わない」

 雷華の反応を想像したのか、眉を寄せながら、迷惑そうに呟いた。
 海斗は「冗談だ」と笑い、話を本題へと移す。

「鮫島が呪いにかかったのは、座橋市にある『深水神社』だ。縁結びで有名な場所のようだが、俺の調べ方が悪いのか、『呪い』に纏わる情報がなかなか出てこない。まずは八千草の方でも、その神社について調べてみてほしい」
「わかった。わたしも調べてみる。でも、もし呪いの解き方が見つからなかったら……」

 すっ。
 と、細い指で、海斗の背後の本棚をさし、

「『呪いを解く』んじゃなくて……新たな呪いで『上書きする』のも、アリだと思う」

 ……と、思いもよらぬ提案をした。
 海斗は、目から鱗と言わんばかりに瞬きをする。

「その発想はなかった……要するに、『異性と普通に話せる呪い』で上書きすればいい、ということだな?」
「そう。雷華ちゃんは、縁結びの神さまを怒らせたから、男の子との恋愛が困難になる呪いをかけられた。つまり、恋愛スキルにデバフがかかっている状態。なら、それを補うためのバフの呪文をかけて、ステータス異常を回復させればいい」
「おぉ……すごい。八千草、天才だな」

 ゲーム脳な説明に、海斗は感心と驚きの声を上げる。RPGのプレイ経験がそれなりにある海斗には非常にわかりやすい例えであった。
 先日の『親方』大捜索の一件でもそうだったが、彼女には物事を多角的に見ることのできる『目』が備わっているらしい。

 海斗の賞賛に以前なら謙遜していた翠だが、今日は「それほどでも」と得意げに返し、

「差し当たって、その辺の本にあるおまじないを試してみるのも手だと思う。おまじないの起源は、黒魔術だとも言われている。眉唾物がほとんどだろうけど、中にはちゃんとした効力を持つ『本物』が紛れているかもしれない」

 翠の言葉に、海斗は振り返り、今一度本棚を見つめる。
 そして、先ほどしまった『恋に効くおまじないベスト100』を取り出し、パラパラとめくるが……

 ……いや、さすがにこれは子ども騙しすぎると思うぞ?

 と、言おうとしたところで、

「あっ、いたいた。もう、こんなところで何話してるの?」

 翠の後ろから、雷華がひょこっと顔を覗かせた。
 
 


 突然の雷華の出現に、海斗は思わず本をパァンッ! と閉じた。

「お、おう、鮫島。戻ったのか」
「戻ったのか、じゃないわよ。何してんのかって聞いてんの」

 そう尋ねる雷華の髪は……翠と同じく、ツインテールに結われていた。
 幼い愛らしさを放つ翠とは異なり、雷華のツインテール姿にはアイドルのような華やかさがあった。人気グループのセンターで歌っていても違和感がない。なんなら、今この場で一曲披露してもらいたいくらいだ。

 先日のポニーテールもそうだが、髪型一つでここまで目を奪われるとは……俺って実は、髪型フェチなんだろうか?

 そんなことを考え、海斗が返事を忘れていると、

「おまじないの本を見ていたの。ほら」

 代わりに翠が、海斗の手から本を奪いながら答えた。
 雷華は訝しげな顔をして聞き返す。

「おまじないィ?」
「そう。雷華ちゃんともっと仲良くなるための、友情運アップのおまじないを探していた」

 なんて、雷華にとって効果抜群な殺し文句を放つ。
 案の定、雷華は目をキラッと輝かせ、

「ほんと?! んもう、そんなことしなくても既に仲良しじゃない! 髪型もお揃いだし!」
「でも、もっと仲良しになりたい」
「うへへー。そこまで言うなら試してみてもいいわよ。どんなおまじないなの?」

 ここまで、僅か二十秒。
 雷華が現れてからこの短時間で、翠は彼女におまじないをかける場を整えてしまった。

 もちろん、友情運アップのおまじないというのは詭弁だ。
 何故なら、翠が手にしている本には恋愛向けのおまじないしか載っていないのだから。

(八千草……なんて恐ろし……否、なんて心強いんだ)

 味方にいるとこの上なくありがたいが、決して敵には回したくないタイプである。

 海斗はごくりと喉を鳴らしつつ、翠の芝居に乗ることにする。
 翠は表紙のタイトルが見えないように本をめくり……一つのページに目を止めた。

「……うん、これを試してみよう」

 恐らく、恋愛運アップのおまじないを見つけたのだろう。
 翠は本から顔を上げ、

「このおまじないには、人柱(ひとばしら)が必要。温森くん、お願い」
「人柱……?」

 流れるように指名され、戦慄の声を上げる海斗。
 おかしい。タイトルには『今日から使える!』と書いてあったはずだ。生け贄が必要なおまじないが今日から使えていいわけがない。それともこの本の著者にとって、生け贄の調達などは日常茶飯事なのだろうか?

 ファンシーな表紙とは裏腹に、底知れぬ黒魔術の匂いを感じ、海斗は震える。
 人柱だなんて、一体何をされるのか……そう怯えていると、

「まず、背中をこっちに向けて」

 翠が、淡々と指示する。説明もなくおっ始めるつもりらしい。背中を向けるなんて怖すぎる。何をされるのか見えないじゃないか。

「黙ってないでさっさと背中見せなさいよ! あたしと翠の友情のために!」

 痺れを切らした雷華が海斗の肩をガッと掴み、無理矢理身体を反転させる。

 あわれ、『お友だち作り隊』隊員その一は、お友だちができた途端、用済みとばかりに隊長から生け贄になるよう命じられたのだった──

 ……などという下手なモノローグを脳内に流しながら、海斗は背中を向け、腹を括る。
 何をされるのかわからない恐怖はあるが、自分が人柱になることで雷華の呪いが上書きされるなら、まぁいいかと思えた。

「それで? ここからどうするの?」
「まずは……」

 ごにょごにょとおまじないのやり方を共有する雷華と翠。
 そして、準備が整ったのか、雷華は海斗の背後に立ち……

「…………いくわよ」

 ごくっ。
 と、喉が鳴ったように聞こえた──その直後。

「……ひっ」

 背中にこそばゆい感覚が走り、海斗は情けない声を上げた。
 雷華が海斗の背中を、指でなぞり始めたのだ。
 それも……撫でるように優しい、緩慢な手付きで。

「そうそう。大きく、ゆっくりと描いて……あと四回、それをやって」

 翠の指示が聞こえる。
 指の軌道が二周目に差し掛かった時、その形がハートマークをなぞらえていることを海斗は悟る。

 しかし、そんなことはもはやどうでもよかった。
 薄いワイシャツ越しに細い指で、つぅ……っと撫でられる感触に、ゾクゾクとした震えが止まらなくなっているから。

 誰かにこんな風に背中を触られるのは初めてだった。
 だから、自分がこんなに背中が弱いのだということも、初めて知った。
 しかも、この焦らすような緩慢な刺激が、雷華によって齎されているのだと思うと……殊更こそばゆいような、妙な気持ちになった。

(これは……ある意味、拷問だ)

 しかし、雷華の呪いを上書きできるというなら、ここは耐えるしかない。

 ムズムズとした疼きを震えながら我慢していると、雷華が五周目のハートマークを描き終え、海斗の背中から指を離した。

 ようやく解放された。

 そう思い、ほっと身体の力を抜くと……
 雷華の手が、海斗の両肩にそっと置かれる。
 そのまま、彼の耳元に唇を寄せて、


「な……仲良くなぁれっ。にゃんにゃんきゅん……っ☆」


 ……という、訳の分からない呪文が囁かれた。

 耳にかかる吐息。
 鼓膜を直に震わす、可愛らしい声。

 海斗は、もう……限界だった。

「ぐぅ……っ!」

 囁かれた方の耳を押さえながら、膝から崩れ落ちる海斗。
 耳から入り込んだ甘い痺れが全身を駆け巡り、鼓動をバクバクと揺さぶっていた。

 それを見下ろし、翠が淡々と言う。

「温森くん、腰砕けになってる場合じゃないよ。雷華ちゃんに何か言ってみて」

 腰砕けって言うな。

 そう言い返してやる余裕もない程に、腰砕けだった。

 海斗は顔が上気しているのを自覚しながら、雷華の方を振り返り、

「…………今日は、天気がいいな、鮫島」

 と、当たり障りのない言葉を投げかけた。
 もちろん、雷華の『否定の呪い』が上書きされたのかを試すための言葉だ。
 今日は雲一つない晴天。普通なら否定する余地もないはずである。

 さぁ、身体を張ってかけた恋愛運アップのおまじない。
 その効果や如何に。

 海斗が、固唾を飲んで雷華の返事を待つと……
 彼女は、いつものように眉を寄せ、

「どこが? ぜんっぜんいい天気じゃないし」

 そう、全否定した。
 おまじないは失敗に終わったようだ。

「言われた通りにやったけど、翠との友情はさらにパワーアップしたかな? あたしはなんとなくそんな気がするけど……翠はどう?」

 脱力する海斗をよそに、雷華はわくわくした様子で尋ねる。
 それに、翠は真顔で首を振り、

「うーん、『いつも喧嘩ばかりしちゃう彼と素直に話せるようになるおまじない』……雷華ちゃんにぴったりだと思ったけど、効かなかったみたい」
「えっ?! ちょ、どういうこと?! 話が違うじゃない!」

 翠の言葉に、詰め寄る雷華。
 そのままヒートアップしそうだったので、海斗は保護者である未空に助けを求めることにする──が。

「……あれ? そういえば、弓弦は……?」

 図書室を見回すが、姿が見えない。
 どうやらまだ帰って来ていないようだ。

「友情運アップのおまじないは?!」
「ひぃ……」

 などとやり取りする二人を尻目に、海斗はこっそり図書室を出て、未空を探すことにした。
 
 


 未空の行き先の可能性としてまず頭に浮かんだのが、教室だ。
 台本を作るのに必要な資料を、自席やロッカーに取りに行ったのかもしれない。

 階段を上り、渡り廊下を抜け、一年B組の教室に辿り着くが……しかし引き戸を開けた先に、未空の姿はなかった。

 であれば、昼食でも買いに出かけたのだろうか?
 ちょうど昼時だ、外の運動部も休憩に入ったのか掛け声が止んでいる。
 ……いや、未空に限って、そんな個人的な理由で単独行動を取るとは考え難い。

 なら、どこかで体調を崩し、戻れなくなっている、とか……?

 海斗が最悪のケースを予測し、焦り始めた……その時。


「…………好きだ!」


 どこからかそんな声が聞こえ、海斗は足を止めた。

 男子生徒の声だろうか。
 一階の方から響いているようだ。

 海斗は足音を立てないよう階段へ近付き、耳をそば立てる。
 すると、続けてこんな声が聞こえてきた。

「俺、弓弦のことが好きだ。よかったら、付き合ってほしい」

 思わず息を止める海斗。
 この階段の下で、今まさに、誰かが未空に告白をしているらしい。
 恐らくこの声の主に呼び出され、未空は席を外していたのだろう。

「えっと……私たちってクラスも違うし、話したことないよね? どうして好意を抱いてくれたの?」

 続けて、未空の声。
 いけないと思いつつ、海斗はそのまま会話を聞く。

「最初は、鮫島のことが好きだったんだ。見た目がすごくタイプでさ。でも、性格がヤバイって噂を聞いて、ちょっとないなぁって。それで、気付いたんだ。鮫島といつも一緒にいる弓弦もよく見たらすごく美人だって。鮫島と違って常にニコニコしているし、物腰も柔らかで優しそうだし、付き合うなら弓弦が良いと思ったんだ」

 勝手に盗み聞きをしておきながら、海斗はそのセリフに眉を顰める。
 好意を抱いた経緯を正直に話しただけなのだろうが、未空にも雷華にも失礼な物言いである。

 男子生徒の告白に、未空は少し間を置いてから、

「……ごめんなさい。君の気持ちには答えられない。私の親友を……雷華を悪く言う人とは、付き合えないから」

 嫌味のない声で告げた。
 見ていなくとも、あの完璧な微笑が目に浮かぶ。

 玉砕した男子生徒の「えっ、あの……」という情けない声を残し、未空が階段を上ってくる足音が聞こえる。
 海斗は咄嗟に隠れようとするが、すぐ近くの教室は鍵がかかっており、入ることができず……

「……あれ、温森くん?」

 階段を上ってきた未空に、あえなく発見されてしまった。
 海斗は内心冷や汗を流しながら、

「……弓弦。こんなところにいたのか。なかなか帰って来ないから心配した」

 平静を装い言うが、上手くない芝居だった。
 未空は、くすりと笑って、

「もしかして、今の聞いてた?」
「……すまん。たまたま居合わせて、つい」
「盗み聞きなんて、あまり褒められた趣味じゃないね」
「……返す言葉もない」
「あはは。うそうそ、冗談だよ。探しに来てくれてありがとう。戻ろうか」

 ショートボブの黒髪を揺らし、爽やかに言う未空。
 そのまま図書室へ向け歩き出すので、海斗も隣をついて行った。

「サッカー部のマネージャーやってる子に呼び出されてね。会わせたい人がいるって言うから、しばらく待っていたら、サッカー部の男子が現れて……さっきの流れ、ってわけ」

 渡り廊下を歩きながら、未空が困ったように笑う。
 つまりは、未空に好意を抱いたサッカー部員が、未空を呼び出すよう女子マネージャーに頼んだのだろう。

「……失礼なやつだったな。弓弦にも、鮫島にも」

 告白の言葉を思い出し、海斗が呟く。
 それに、未空は驚いたように海斗を見上げ……嬉しそうに目を細めた。

「やっぱり、そう思う?」
「あぁ。随分と上から目線な告白だった」
「……うん。温森くんがそう言ってくれて、なんだか安心した。好きって言ってくれているのに腹を立てるなんて、私って心が狭いのかなぁって、ちょっと自己嫌悪してたから」
「いや、あれは怒っていい場面だった。鮫島を悪く言うのも理解できないし、何より『鮫島が駄目なら弓弦』みたいな移り気な思考も、不誠実極まりない。弓弦に失礼すぎるだろう」

 声に、思わず熱がこもった。
 そんな海斗の顔を、未空はまじまじと見つめ、

「……温森くん、本当に変わったね」
「え? 何が?」
「知り合ったばかりの頃は、他人と深く関わろうとしなかったじゃない? それが、今では私や雷華のためにこんなに怒ってくれるんだなぁって。ちょっと嬉しくなっちゃった」
「それは……」

 雷華に、『呪い』を解いてもらったから。

 そのことを、海斗はあらためて認識するが、口にはしなかった。
 何故なら、未空が話題をすり替えようとしていることに気付いたから。

 未空はいつもそうだった。
 気配り上手で、面倒見が良くて、自分のことは二の次。
 それは、未空の長所と言えるのかもしれないが……こんな時くらい、もっと自分の気持ちを出してくれても良いのにと、海斗は思った。
 だから、

「確かに俺の感性も変わったかもしれないが……そうでなくとも、さっきのあれは怒っていいと思うぞ」

 今一度、未空の気持ちに寄り添おうと話を戻す。
 未空は困ったような顔をしてから、何かを思い出すように天井を仰ぎ、

「まぁ……これが初めてじゃないからね。最初は雷華が好きだったけど、望み薄だとわかったから私に切り替えた、みたいなパターン」
「……最低だな」
「仕方ないよ。いいの。私は……『予備の二番目』だから」

 その言葉に、海斗は違和感を覚え、

「……予備の、二番目?」

 おうむ返しで聞き返すが……
 未空は、からっと爽やかに笑い、

「なんでもない。今の話、雷華には内緒ね。さて、あの二人は仲良くマップを描いているかな?」

 そう言って、図書室の扉を開けるので……
 海斗は、それ以上追求することができなかった。
 
 


 ──連休の残りも、四人は学校の図書室に集まり、発表の準備を進めた。
 そうして、『つるや商店街』のマップの下書きと、台本の草案が書き上がった。


「なんとか連休中に、たたき台まではできたね」

 未空が、書類を整理しながら言う。
 その向かいの席で、雷華は大きく伸びをし、

「うーん、休みも明日で終わりかぁ。全然遊べなかったなぁ」

 と、机にべたっと伏せた。

 ……いや、八千草の髪型を好き放題変えたり、八千草と一緒にいろんなおまじないを試したり、八千草が描いた絵で塗り絵をしたりと、毎日楽しく遊んでいなかったか?

 というツッコミは本気の否定で返されるに決まっているので、海斗の胸に秘めることにした。

「残すは、『つるや旅館』の取材のみだな。予定通り、来週末で大丈夫そうか? 弓弦」

 書類の整理を手伝いながら、隣に座る未空に尋ねる。
 旅館にとって、ゴールデンウィークは最も忙しい時期の一つだ。迷惑にならないよう、取材をするのは連休明けにしようと事前に話していた。

 海斗の問いかけに、未空は頷く。

「うん。と言っても、お客さんのチェックアウトとチェックインの合間を縫うような感じになるから、あまりゆっくりできないけど……ごめんね」
「いやいや、あんな立派な旅館に入らせてもらえるだけでありがたいんだ。長居するつもりは毛頭ないよ」

 そう話す向かいで、翠が呟くように言う。

「未空ちゃんちに、取材……なんか緊張する」
「ふふん、緊張するからって参加拒否してもムダだからね。えっちな絵を描いてることバラされたくなかったら、今回も大人しく同行しなさい!」

 出た。鮫島組長の脅し文句。
 友情運アップのおまじないをかける前に、この脅迫気質を改めた方がよっぽど仲良くなれるんじゃないか?

 という真っ当なアドバイスを、海斗がどう伝えようか悩んでいると、

「雷華ちゃん、毎回それ言うけど……それって裏を返せば、雷華ちゃんがえっちな絵をめちゃくちゃチェックしている、ってことだよね?」

 そう、翠が反撃するので、雷華は「へっ?」と顔を引き攣らせる。

「べっ、別に、めちゃくちゃチェックしているわけじゃ……!」
「わたし、知ってるよ。わたしをフォローしている雷華ちゃんのアカウントがどれなのか。わたし以外の絵師さんのイラストや漫画も、けっこうえっちなのに『いいね』してるよね」
「はぁ?! そっ、そんなのしてないし!」
「好きな作品の傾向を見るに、雷華ちゃんて……ちょっとM?」
「なっ、何言って……そんなことない! 絶対にない!!」

 顔を真っ赤にし、声を荒らげる雷華。他に生徒がいないとはいえ、図書室には相応しくないボリュームだ。
 未空は注意することを諦めたのか、やれやれと首を振り、海斗は……雷華がどんなイラストをチェックしているのかちょっと気になるな、などと考えていた。

 その胸中を知ってか知らずか、翠はニヤリと笑うと、

「ふふ……次こういう脅し方をしたら、雷華ちゃんのアカウントを温森くんに教えるから」

 と、海斗を指さした。
「なんで俺なんだ」と言うより早く、雷華が顔をさらに赤くし、

「そっ……それだけは絶対にだめぇっ!」

 目に涙を浮かべながら叫んだ。
 海斗は見るに堪え兼ね、二人の前に手を掲げる。

「二人とも、それくらいにしろ。脅し合いからは争いしか生まれないぞ。ほら、仲直りのおまじないをしよう。小指を繋いで、スキップしながら十回その場で回るんだ」
「やらないわよ、そんなこと!」

 この連休ですっかりおまじないに詳しくなった海斗の提案は、残念ながらぴしゃりと否定された。
 ならば、と海斗は翠に目を向け、

「だいたい、もうそんな脅しをかけなくとも……八千草は来てくれるだろう?」

 そう、決定的な一言を告げる。
 翠は少したじろぐが、観念したように俯き、

「……そりゃあ、行くよ。だって……わたしも、グループの一員だから」

 恥ずかしそうに、そう答えた。
 その途端、雷華はがばっ、と翠に抱きつく。

「もうっ、翠ってば! それならそうと最初から言いなさいよ!」
「いや、誰も行かないとは言ってないし……」

 嬉しそうに身体を押し付ける雷華と、迷惑そうな顔をする翠。
 その奇妙な友情関係に、海斗がなんとも言えない顔をしていると、

「あはは。どうやら無事に仲直りできたみたいだね。それじゃあ、私はお先に」

 と、未空が鞄を手に席を立った。
 そのまま図書室を出て行こうとするので、雷華が止める。

「待って、未空。一緒に帰ろうよ」
「帰って旅館の手伝いしなきゃいけないからさ。今日は先に帰るよ」
「じゃあ明日は? 明日、『親方』と子猫たちが里親に引き取られるの。みんなで最後のお別れをしたいから、未空も一緒に……」

 それは、海斗にとっても初耳だった。
 三毛猫の『親方』とその子猫が、ついに明日、『ハンマーヘッド』を去るらしい。

 雷華の誘いに、未空は一瞬迷うような表情を見せるが……すぐにその首を横に振って、

「行きたいのはやまやまだけど……明日も旅館が忙しいからさ。ほんとごめん。私の分も『親方』たちにさよならを言ってきて。翠ちゃん、雷華のこと、よろしくね」

 そのままひらりと手を振ると、廊下の向こうへ去って行った。

 その後ろ姿を、雷華は寂しそうに見つめる。
 一方の翠は、わなわなと身体を震わせ、

「うそ……明日、わたし一人で、雷華ちゃんの相手をするの……?」

 と、怯えたように呟くので、海斗は肩を叩くような気持ちで、

「俺で良ければ同行するぞ。最後に『親方』の顔も見たいしな」

 そう申し出る。
 翠はキランッと眼鏡を光らせ、「ほんと?」と嬉しそうに言うが、

「はぁ? あんたは呼んでないわよ! 勝手に決めないで!」

 海斗を指さし、雷華が言う。
 否定された海斗よりも、翠の方ががっかりした様子で「そんなぁ……」と声を上げ、雷華と二人で過ごす休日に不安を滲ませた。