「遅い!」

 弐瓶教授のお部屋の扉を開けたら、まずは怒られた。――あっ、そう。努力はしたんだけどさ。走ってくればよかった? 俺が扉を閉めようとしたら「ちょ、ちょっと!」と焦られてしまったので、今度は注意深くゆっくりと開けてみる。

 「もう、最近の若いもんってば『怒られてるな』って思うとすーぐ拗ねるよね。こちとら首をぐんぐんとながーく伸ばして待ってんのにさーあ?」

 お部屋の中のどこに隠されていたのか、非常用の食品や水やらがあちこちに積まれていた。俺以上に用意周到な人がいたじゃん。

 これが弐瓶教授一人の分とするならば、ざっと見た感じ、一ヶ月は外出せずにこの中に閉じこもっていられるだろう。普通はこんなものなのかな。まるで大災害が起こることを予測していたかのような備蓄量。

 「電車に乗れるような状況じゃなくて」

 ラジオがBGMのようにつけっぱなしにされている。
 スマホは先ほどから通話もメッセージのやりとりもできないが、パソコンでの通信はできているらしく、弐瓶教授の視線はずっとモニターに釘付け。呼び出しておいてそちらが優先か。まあ、今の状況から鑑みるに、どっかの知り合いと連絡を取り合っているのかもしれない。ここだって安全とは言い切れないだろう。

 「知ってる。タクシーは?」
 「……電車がダメなら、誰でもタクシーに乗ろうとするでしょう。タクシー乗り場も大変なことになってましたよ。バスも身動きできないでしょうし」

 扉で隔てられた外のスペースにこれまではパソコン一台につき一人の付属品のようにくっついていた弐瓶教授のファンの方々は、この事態とあって誰もいない。そうだよな。護衛のあいつらには家族がいる。いくらモブとはいえ。どれだけ姫を大事に想っていても、家に帰るだろう。家族の待つ家にさ。それが正しい行動だ。

 どんなに張り切っても姫とは家族になれない。それなら今いる家族を大事にするべきだよな。俺にはいないが。姫が帰らせた可能性もあるか。

 ところで姫こと弐瓶教授は帰らなくていいの?

 「あららららら。みなさん大変ねぇ。てことは、ここまで歩き?」
 「はい。そうですよ」

 不細工どもから毎度の如く浴びせられていた攻撃的な視線は、なければないでそれはそれで寂しいものだと気付いた。これは気付かなくてもよかったな。俺はここにいた奴らの顔なんて覚えていない。名前も知らない。どこに住んでいるかなんてわからない。興味もない。あちらがどれだけ俺を憎もうとも、俺は気にしちゃいないし。住む世界が違う。

 「あららら。それはそれは。そこのお水、飲んでいいよん」

 そこのお水、と指差された先には五年の長期保存ができる水のペットボトルが置かれている。言われてみるとのどが渇いているような気がしてきた。実感する前に水分を補給したほうがいい、とはよく言われていることだ。許可もいただいたことだし、一番手前にあったペットボトルを掴み、ふたを開けて一口飲む。

 「話ってなんですか?」

 いただいたペットボトルのふたを閉めてから、さっそく本題に入る。お待たせしてしまっていたらしいし。俺のほうから話を振っておけば拗ねていないっていうアピールにもなるじゃん。俺を呼び出した内容がお怒り系統なら、忘れてもらうのがありがたいわけで。怒られたいわけではないよ。怒られたくて来る人、そうそういないでしょ。まあ、弐瓶教授から怒られても、チワワがきゃんきゃん吠えているようにしか見えないな。迫力があるのは胸部だけ。権力はあっても、暴力では勝てない。

 「マヒロさんと連絡が取れなくて」

 そりゃあそうだろ。返事が来たら怖いよ。霊界と通信できちゃってることになるし。あちらまでスマホは持って行けない。弐瓶教授は情報工学の教授だが、そんな芸当はできないだろ。そういう研究をしているんじゃあないもんな。それに、死んだ人間と会話できるのであればマヒロさんとではなくて一色京壱と会話したいよな。弐瓶教授の場合。

 さて、どう答えるか。

 「気付いた時に返事してくれたらいいのに、秒で返事をくれるんだよ? なのに、既読がつかないわ、通話にも出てくれないわで、ユニちゃんが嫌われちゃったかと思っちゃうじゃーん? スマホまた壊しちゃったのん?」

 嫌ってはいない。食事の場でも弐瓶教授の話題はたびたび上がっていたし。スマホ破壊路線でいくのはありか。

 でも、なんでわざわざ俺をここまで呼び出したのか。別に俺がここまで来る必要はないじゃん。なら、どこに行こうとしていたのかって聞かれると行き場はないけれど。

 「それならさっきの、俺への電話で聞けばいいじゃないですか。来させたのは何故ですか?」

 弐瓶教授は、俺にも見えるようにパソコンのモニターをぐるっとこちらに向けてくる。各地の被害を伝えるネットニュースの記事だ。ラジオでも繰り返し、行方不明者への呼びかけが続いていた。

 「これを見てどう思う?」

 前兆なくトウキョーを襲った直下型地震により、交通網は完全に麻痺してしまった。

 「どう思う? と聞かれましても」
 「ここに来るまでにも見てきたと思うけどけど」
 「はい。特に駅はひどかったですよ。フェス会場かってぐらい、人でごった返してました」

 フェス会場に行ったことはないから、あくまでたとえね。

 「ふーん?」

 モニターを元の位置に戻しながら、アヒル口になる弐瓶教授。おそらくはずっとこの場所にいたんだろう。

 「君から私に言わなきゃいけないこと、思い当たらない?」

 雑だな。……なんだろう。愛の告白?
 ここで弐瓶教授に告白したらなんて答えられるかな。俺としては弐瓶教授が彼女になってくれるんなら嬉しい。彼女ならね。結婚するとなると違う。マヒロさんと違って、料理している姿は想像がつかない。一色京壱のこともある。毎日毎晩死んだ人間の話をされたらつらい。しかも知っている人間ではなくて知らない人間なのがまた。

 この人はずっと過去を見ていて、幸せな家庭がどうのみたいな価値観とはもっとも遠い場所にいる。自ら歩み寄ろうとはしない。

 「君から言ってくるかと思って、知らないふりをしていたけどけど、言わないかあ、そうかそうか」

 ああ。
 なんだ。

 「地震が起きる直前、君のおばあさまから私に電話があったのん。私とマヒロさんが仲良くしていたのを知っているから、真っ先に教えてくれたのねん」

 返事が来ない理由を知っているのか。
 俺の反応を窺っていたってこと? 女さんこわ。趣味が悪くない?

 「揺れが始まったのは電話の最中。もちろんこっちも揺れたよん」
 「俺は不忍池にいました」
 「あっ、そう、そうなのねん。その荷物を持って、先に避難してたってわけね」

 ドラムバッグをあごで指してくるので「違います」と否定した。なんでだよ。地震が起きることがわかっていたみたいな言い方をするじゃん。そんなわけないだろ。わかっているんだったら、それこそこの部屋に置かれている非常食ぐらい用意しておくよ。あと、避難場所の確保ね。あてはないけれども探す努力はする。

 「揺れが収まってから、私は研究室のみんなに『家に帰る』ように指示して、君に電話をかけた」
 「それでみなさんいらっしゃらないんですね」
 「マヒロさんのこと、君からも聞きたいしねん」
 「……ああ」
 「マヒロさんとタイムマシンの話をする時は、いっつもこうして中から鍵をかけてたよーん。彼奴(あやつ)らの中にスパイがいないとは言い切れないじゃーん。万が一、突入してこられても困るじゃんじゃん?」

 つまりは今、この研究室は俺と弐瓶教授しかいない。もし誰かが戻ってきたとしても、この部屋までは入ってこられない。邪魔されないってことね。いいじゃん。こういう状況を待っていたよ。できればこんな緊急事態になってからよりも、もっと世界が平和だった頃のほうがよかったな。

 「本当は宇宙人だって話は、知ってた?」

 うん?

 弐瓶教授はネタではなく本気で言っているようだ。モニターではなく、俺の目をまっすぐに見つめていた。ここは話を合わせておこう。

 「マヒロさんは、宇宙人」
 「そうそう。宇宙の果てからやってきて、人類を滅亡させるのが、彼女の目的」

 人類滅亡。弐瓶教授はマヒロさんに協力する代わりにタイムマシンに関する情報を聞き出していた。だから、俺よりマヒロさん――というか、マヒロさんのフリをしていた宇宙人に詳しいのだろう。俺や祖母は、マヒロさんを真尋さんとして見ていたわけだし。宇宙人という可能性は、考えていなかったな。言っていたっけ。タイムマシンを持っていたのも、宇宙人だからってことなのか?
 確かに人間としておかしなところはいくつかあったよ。行方不明になる前の真尋さんと印象が違うっていうか。でも、見た目は真尋さんなわけじゃん。

 「俺と二人きりの世界を作る、みたいな話もしてました?」
 「してたよーん。赤ちゃんができてからは『延期!』とも言ってた」

 だいたい俺にした話と同じ話をしている。それぐらい弐瓶教授とも仲がよろしかったってことね。だったらなおさら、なんで死んだのさ。

 「マヒロさんに擬態していた宇宙人の遺体はこちらで詳しく調べさせてもらうよん。ちょうど明日、Xanaduにも行くじゃーん? うちよりあっちのほうが、生命工学だし、専門だよねん。向こうのスタッフが四方谷家にお伺いして、丁寧にXanaduまで運んでくれるっぽいから、安心していいよん」

 それは延期しないのか。元々、そのXanaduの見学はマヒロさんの希望で「オルタネーター計画の本丸を見に行きたいぞ!」って話だったけれども、まさか死んだ状態で連れていくことになるとはな。ますますこのタイミングで自殺したのが謎だ。見に行ってからでよかったじゃん。

 「祖母は、なんて?」

 この俺よりも宇宙人を真尋さんと信じ込んでいた祖母から、マヒロさんを回収できるもん? それとも、マヒロさんのほうから祖母には打ち明けていたんかな。そういう風には見えなかった。

 「……快諾してくれたよーん」

 少し間があった。まあ、祖母がどう答えたとしても、俺とは無関係の存在になってしまったから、いいか。四方谷家に戻ることはない。ないよ。もう俺は決めた。

 「そのXanaduの見学って、今この状況でも行けるもんですか? こっちこそ延期じゃあないですか?」

 弐瓶教授は、もう一度、モニターを俺が見えるように回転させた。その画面を見る。ネットニュースだ。記事は英語で書かれていて、真ん中には写真がデカデカと貼り付けられている。

 「こっちが地震でグラグラしていた頃、諸外国にはドッカンドッカンと星が降ってきていた。しかも、軍事施設を狙い撃ちして」

 は?

 「星?」
 「隕石だよ隕石。これが、宇宙の果てからやってきた侵略者と無関係なのかって話よねん」

 宇宙人の次は侵略者ときた。同一人物のことを指しているのだとすれば、マヒロさんが侵略者だったって話になる。行方不明になった義理の母親に扮して俺の目の前に現れて、俺の日常を完膚なきまでに破壊していった侵略者。スケールが小さいような気はするが、俺には大ダメージだった。おかげで当面の住むところに困るわけだから。

 「落ちてきたのは、彼女が死んでからじゃあないですか」

 俺が口を挟むと、弐瓶教授は「死んだから落ちてきた」と切り返してきた。どういうこと?

 「これは生前の彼女から私が聞いた話なんだけどけど。侵略者の故郷には例の予言の通り『恐怖の大王』がいて、各惑星の侵略担当が死んだら、その『恐怖の大王』が直接手を下すんだってよん。聞いてなかったのかにゃ?」

 なんだそれ。初耳なんだけど。

 「例の予言ってなんですか?」
 「えっ、そこから?」

 大層驚かれてしまったのでこの世界の常識なのかもしれない。その『恐怖の大王』がどうのっての。……思い出すしかないか。

 「世紀末に流行ったじゃーん。1999年7の月、ってやーつ。空から『恐怖の大王』がやってきて、アンゴルモアの大王を蘇らせて、支配するっていう予言」
 「聞いたことあるようなないような。というか、俺、1999年7月生まれですよ?」

 弐瓶教授が「若っ」と呟いた。教授だからそこそこ行っているんだろうけれども、弐瓶教授も十分お若いですよ。

 「じゃあ、人類が大混乱するってわかっていて、マヒロさんは首を吊ったんですか?」

 その予言の話と、弐瓶教授がマヒロさんから聞いたという話をまとめると、そうなる。俺に断られて、ヤケクソになって首を吊って、その上司の『恐怖の大王』とやらが動いたってことじゃん。マヒロさんは俺とふたりきりの世界を作りたかったんじゃないのか。

 腹が減ったのか、弐瓶教授は手近にあった非常食の封を切って中身をパキッと割る。その割れた固形物の長さを見比べて、短いほうを俺の目の前に差し出した。受け取っていいのかな。チラッとその目を見やると、さっさと取りなさいと言わんばかりに眉間にしわを寄せられてしまった。受け取る。

 「異星人が本当は何を考えていて、何がしたかったのか、私にはさっぱりわかりまへん。滅亡させるって言ってみたり、子どもを育てたいからと手のひらを返したり。近くにいた君にわからないんだったら、私がわかるわけないじゃーん?」

 口の中の水分を全部吸い取ってくれそうな固形物だったので、先に水分を摂ってからいただくことにする。

 「……期待してなかったけどけど、美味しくないね。ユニちゃん、こういう時だからこそ美味しいものが食べたいのん!」

 そう言ってペッペッとゴミ箱に吐き出している弐瓶教授。いただいておいてはっきりとまずいとは言いたくないので、もそもそと噛み砕いてから水で流し込んだ。ラジオから垂れ流しにされ続けている情報によると、一般路も高速もあの混雑が解消されるのには時間がかかる。瓦礫や倒木やらで通れなくなっている道も多い。スーパーやコンビニから食品が消えても、安定して供給されるようになるには時間がかかるだろう。俺にだって美味しい食品を手に入れたい気持ちはあるけれど。急いで向かったところで何もないんじゃん?

 「食って大事よねん。失ってわかるありがたみ?」

 もそもそした固形物だけでは物足りなかったのか、弐瓶教授はカップ麺の蓋を開けてお湯を注ぎ始めた。全て座ったままできるような位置で配置しているようだ。失ってわかるもの、結構あるよ。悪いことばっかりでもないけれど。たとえば、そうだな。俺は父親がいなくなってから、いたことへのありがたみを感じはしなかったな。

 俺はソファーに腰掛ける。最初に弐瓶教授と直でお会いした時には、俺の隣にマヒロさんが座っていた、大きめのソファー。横になって寝られるぐらいの広さはある。

 「ああ、ドーナツが食べたいな……」

 カップ麺を待ちながらドーナツのことを考えているのは、世界中探しても弐瓶教授ぐらいだよ。

 どこを通っている路線かは電車に詳しくないから知らないけれど、線路が断線したってニュースも飛び込んできた。ちょくちょく余震があるらしい。この建物がぜんっぜん揺れねェせいで気付かなかった。どっかの有名な建造物が倒れたり、液状化現象が起こったりと外は大騒ぎだってのに。次から次へと報道しなければならないニュースが飛び込んできて、ラジオのキャスターは息つく暇もない。

 「ここに泊まっていいよん」
 「えっ?」

 ここに?
 え、ここに???

 「何か不満でも?」
 「いや?」

 弐瓶教授は箸を割ると、カップ麺の中身をぐるぐるとかき混ぜ始めた。

 追い出された身だし。帰るべきところがないので、寝泊まりしていいなら助かる。というか、弐瓶教授的にはいいの? この俺を泊めても?

 「なんでドーナツが好きなんですか?」

 特にやることもないから雑談をしよう。弐瓶教授が乗っかってくれそうな話題で。

 「京壱くん家に初めて遊びに行った時に出てきたドーナツが、あの砂糖をまぶしたドーナツだったのん!」

 割り箸で麺を持ち上げたのに離して、目を輝かせながら京壱くんこと一色京壱の話をする。一色京壱くんはこんなに可愛い人にこれだけ愛されているのにどうして死んでしまったんでしょうね。

 「弐瓶教授は、高校二年生の頃に飛び降りた京壱くんへ会うために、タイムマシンの研究をなさっているんですよね?」
 「そうだよーん」
 「京壱くんは彼氏?」

 これだけご執心なのだからよっぽどのラブラブカップルだったんではないかな、と思っての暫定『彼氏』だったけれど、意外にも「彼氏じゃないのん。幼馴染み」と否定された。そうなの?

 「付き合っていたわけじゃあなくて?」
 「昔っからゲームしたり、京壱くんがカードにハマったらこっちも集めたりしてたなあ。懐かし!」
 「わざわざ過去に戻りたいのって、その京壱くんと付き合うため?」
 「だから幼馴染みなんだってば。そういう彼氏ぃとか彼女ぉとか、そういうのじゃないのん」

 なんだか難しい。当時男子高校生だった京壱くんは、こんな可愛い子がそばにいて、家にまで上がってきてくれるのに、ただゲームだけして解散だったってわけ?

 「京壱くんのほうからは何も?」
 「何も、って?」

 麺を咀嚼しながらキョトンとされてしまった。思春期の男の子とめちゃくちゃスタイル抜群なとんでもなく可愛い女の子が一つ屋根の下にいるのに、幼馴染みから関係性が発展しないなんてことあるの?

 「弐瓶教授、これまで彼氏がいたことは?」
 「ないよん。私は京壱くん一筋なんだってば」
 「で、京壱くんは彼氏じゃあなくて幼馴染み」
 「何回確認するのん?」

 怪しまれたな。むっとしてから、カップ麺のスープを飲み始めている。カップ麺のスープって身体に悪いっていうから飲まないほうがよくないか。長生きできない。

 「京壱くんとは付き合いたくないんですか?」

 うーん、と天井を仰ぎ見て「京壱くんがそう望むなら、かな」と答えてくる。健全な男子高校生なら、こんな美人から告白されたら断らないでしょ。断る理由ないじゃん。即答でオーケーするよ。まあ、そうはならなかったから今があるのだろう。

 「俺と練習しときませんか?」
 「何を?」

 なんだろうね?

 「なんだと思います?」

 俺は弐瓶教授と二人きりになれるようなシチュエーションを期待していた。今、まさにそうなっている。それなら、するしかないじゃん。弐瓶教授だって、俺がそういう人間だってわかっているでしょ? わからないのだとしたら、リサーチ不足だろ。

 「しましょうよ。俺と」