〝青天の霹靂〟

空は晴れているのに雷が落ちるような、そんな思いがけない突然の衝撃のこと。

だけど昨今の異常とも言える気象を見れば、晴れた空の下で雷が落ちることなんて珍しくもなんともないんじゃないかと思える。

「俺、再来週からエジプトに行くから」

そう。

「同棲は解消ってことで」

36歳の女が二年付き合った彼氏にあっさりフラれるなんて、きっとありふれたできごとだ。
ショックを受けるようなことじゃない。



二週間後の土曜日・十九時。
「あはは! やるじゃんマサシ! おもしろ」
人生の中で三本の指には入りそうなアンハッピーな事件を、大衆居酒屋で明るく笑い飛ばされている。
「一ミリもおもしろくないんですけど」
濃い目のハイボールに口をつけながら、私は顔をしかめる。
「だってエジプトだよ? のんちゃんピラミッド見損ねたね〜」
〝ピラミッドを見損ねた女・のんちゃん〟こと坂下希望(さかしたのぞみ)とは私のこと。
「ピラミッドなんて他人のお墓でしょ。お墓くらい墓参りで飽きるほど見てるし」
「夢が無ーい」
そしてこの、ビールジョッキ片手に上機嫌な女は間山侑芽(まやまゆめ)・32歳。
「すごかったんだから。元々持ち物が少ないタイプだったけど、二週間でさっさと荷物まとめて実家に送って『じゃ、行ってきます』って」
まるでなんでもないことみたいに。
「えーでもさ、のんちゃんから聞いてたマサシなら全然意外じゃない行動って感じだよ。のんちゃん好みの変わり者」
〝マサシ〟は今ごろ飛行機で空の上を飛んでいるであろう私の元カレ高木誠志(たかぎまさし)、一つ年下の35歳だった。
侑芽には会わせる機会が無かったけど、いつも惚気や愚痴を聞いてもらっていたから自然に『マサシ』と呼ばれるようになっていた。
「理系の研究職なんて文系の私たちには理解できないんだよ」
「そんなこと言ったら、私のまわりの変わり者の筆頭は侑芽だよ。〝デザイナーの頭の中は凡人の私には理解できない〟っていつも思わされる」

彼女はフリーランスのグラフィックデザイナー、私は印刷会社の経理事務。
職業だけでいえばどう考えてもジャンルが違う。
無難を絵に描いたような無地で統一したコンサバ系と、アンティークな雰囲気でありとあらゆる種類の犬が描かれた個性的なワンピースという今日の服装からも違いは明らかだ。

「じゃあ、私が変わり者選手権優勝で、のんちゃんの好きな人ナンバーワンだ」
「……そういうことにしといてあげる」
不敵な笑みを浮かべる侑芽に眉間に若干シワを寄せて、グラスとジョッキで乾杯する。
「ぽっと出のマサシなんかにのんちゃんは譲れないからね」
「ぽっと出って。これでも二年付き合ったんだから」
瞬間的に誠志との思い出が頭に浮かんで、思わず小さなため息がこぼれる。
「好きだった?」
少し心配そうな苦笑いの侑芽。
「まあね」
「今日は朝までマサシの愚痴聞くよ。この間行った店良かったから、二軒目はそこにしよ」
「まだ一杯目なのにもう二軒目の話?」
私が呆れて言ったら侑芽がケラケラ笑うから、つられて私も笑う。

タイプも、微妙に年齢も違う私と侑芽が知り合ったのはデザインの専門学校。土曜日だけの週一社会人向けコースだった。
私は今の会社に就職して三年目の社会人、彼女は当時まだ大学三年生だったけど、就活のためのダブルスクールとして通っていた。
24歳の私と20歳の侑芽。
今にして思えば若かったけど、根っこの部分は今と変わらない。
デザインソフトの使い方をかじれば事務の仕事で役に立つかもしれないくらいに思っていた私と、はっきりとグラフィックデザイナーを目指していた侑芽。
あの頃から自分というものを持っていて、まっすぐ前を見ている彼女はどこかまぶしかった。
だから、気づけば干支が一周していた今でも、こんな風に一緒に飲んで笑っていられる関係になれたことが不思議でたまらない。

二十三時三十分。
「三軒目行こうよ〜! 朝までって言ったじゃん!」
二軒目のバーを出たところで、侑芽は相変わらず上機嫌だ。
「元気だね。さすが四歳若いだけある」
「のんちゃ〜ん! 三十過ぎての四個差なんて誤差だよ誤差」
それは正しいかもしれないし、ときに正しくないかもしれない。
「じゃあ、ひさびさにうちで飲む?」
彼のいない日に、何度か侑芽とうちで飲んだことがある。
「え、いいの?」
「だって、ちょうど片付いてるし」
「わーい! サンキューマサシー!」
「ちょっとー」
誠志の名前に私が不機嫌さをあらわにすると、侑芽はなぜか「ふふっ」と笑う。
「のんちゃん私ね、うれしいんだよ」
「何が? まさか私がフラれたこと?」
「ちがうよー。のんちゃんが今でもこういうときに真っ先に私に声かけてくれることが。のんちゃんの親友でいられることが」
思わず侑芽の顔を見る。
「酔ってる?」
「ちょっとね。でも本気で思ってるよ。だからやっぱりサンキューマサシだね」
「もー! それやめて」
気恥ずかしくってなかなか侑芽みたいには言えないけど、侑芽が親友でいてくれて良かったって思ってるのは私の方だよ。
「あーあ。ピラミッドは興味ないけど、スフィンクスはちょっと見たかったかも」
「スフィンクスかあ。じゃあ沖縄行こ! シーサー見ようシーサー」
「えー? なんかスケールちっちゃくない?」
「あ、沖縄に失礼! 沖縄の人に謝ってくださーい」
「……すみませんでした」
中身のない会話にふたりでプッと吹き出す。
「くだらない」

今日みたいな日は慰めてほしかったわけじゃない。
彼を悪く言って欲しかったわけでもない。
私の身に降りかかった最悪なできごとを、ただただ一緒に笑って欲しかったんだ。



侑芽と飲んだ日からさらに三週間後。
「のんちゃん、ネットの契約ってどうなってる?」
窓から陽の射すダンボールだらけのマンションの一室で、彼女に聞かれる。
「Wi–Fi。パスワード教えるよ」
「私結構重いデータのやり取りするからできれば有線にしたいんだ。別で契約しちゃっていい?」
急展開で、私と誠志が暮らしていたマンションに侑芽が引っ越してきた。
「お、昆布(こんぶ)先輩。その箱気に入っちゃったか。うんうん、似合ってるよ」
そしてニコニコ顔の侑芽の足元で満足げな表情で空き箱に収まった黒猫一匹。名前は昆布。十歳・メス。

あの夜、私たちは部屋の広さと物の量が釣り合っていないマンションの一室で朝まで飲んでいた。
カーペットに座り込んで、ソファを背もたれに。
ローテーブルの上にはお酒の缶や空き瓶やおつまみが広げられていた。
記憶も随分とおぼろげだけど、カラスの鳴き声なんかが聞こえていたから、朝五時くらいだったと思う。
『私たちってもう十二年のつき合いなんだよね。干支が一周してる』
『干支? のんちゃんて、そういう渋い表現好きだよね』
こういうところに歳の差が出るのかもしれない。
『ねえでものんちゃんどうするの?』
『何が?』
『この部屋。一人暮らしには広すぎない? 引っ越すの?』
それがここ最近の一番の頭痛の種。
『ちょっと引っ越しづらい事情ができちゃったのよね』
『事情?』
私はため息を添えて、侑芽に事情を話した。
『母方の祖母がね、老人ホームに入るの』
侑芽は真剣な表情で聞いていた。
『それで、彼女が飼ってる猫をどうするかって話になってるんだけど』
『猫!?』
猫って言葉に侑芽の目がギラリと輝いた気がする。
『でね、うちの両親は仕事で留守にしがちで飼うのは難しいって言ってて』
『もしかして、のんちゃん猫飼うの!?』
興奮気味な侑芽に「まあまあ落ち着いて」と手のひらを向けた。
『このマンション、ペット可だし、両親は誠志と別れたなんて思ってないから『希望の家で飼えないかしら』って言われちゃって』
両親は当然、私と誠志が結婚すると思っている。引っ越すなんて全く想像していないはずだ。
『正直、ここの家賃をずっとひとりで払っていくのは収入的に厳しいんだけど、ペット可の部屋をいますぐ探して引っ越す時間もとれそうになくて』
会社の決算前であいにく仕事が忙しい。
『のんちゃんが飼えなかったら、猫はどうなるの?』
『飼える親戚を探すか知り合いをあたるか……行き先が見つからなければ保護団体かな』
『え……』
見たこともない猫の話に、侑芽は悲しげな顔をした。
『十年前からおばあちゃん家で触れ合ってた子だもん、私だってできれば飼いたいの。だけど、生き物を飼うって現実問題として家賃以外にもお金がかかるし、私は昼間は留守にしてるし』
金銭的な問題と、寂しい思いをさせてしまうんじゃないか、緊急の対応ができないんじゃないか……という懸念が、「引き取る」と即答できない理由だ。
『……ひとりじゃ家賃が高くて、昼間は留守……』
侑芽はお酒の缶を握ってぶつくさとつぶやいている。
それからしばらく無言になったかと思ったら。
『わかった!』
『何? 急に大きな声出して』
『私が一緒に暮らす!』
『は?』
これまでに侑芽に言われたことの中で、一番突飛かもしれない。
『だって私なら在宅ワークだから昼間もお世話できるし、それなりに稼いでるから家賃もにゃんこの餌代も病院代も大丈夫だよ』
侑芽の目がギラギラしている。
『侑芽、猫が飼いたいだけでしょ』
〝にゃんこ〟のワードにすべてがあらわれている。
『それの何が悪いの? 引っ越してる時間は無いんでしょ? 大事なにゃんこなんでしょ?』
それを言われてしまうと……。
侑芽はらんらんとした目で私を見つめる。
『とりあえず、酔いがさめてから冷静に話そうか』
侑芽の圧に負けずにそう言えた冷静な自分を褒めてあげたい。
だけど結局翌日の話し合いで、侑芽と二人で暮らすことがベストな選択だという結論に至った。

「先輩ってなんで昆布? かわいいけど」
言いながら、侑芽は昆布を抱き上げた。
黒猫は侑芽の一週間前にこの家にやって来た。だから侑芽にとっては先輩らしい。
「黒いからでしょ。その子の先輩も黒猫だったけど、名前はノリスケだったよ」
「黒い海藻シリーズか。昆布に後輩がいたらワカメだったね」
「ひじきじゃない?」
「のんちゃんセンスいい〜」
「思ってないくせに」

昆布を抱いてイタズラっぽく笑う侑芽が窓からの陽射しでキラキラ輝いてる。
その楽しそうな表情を見ていると、たしかにこれがベストな選択だったんじゃないかって思えてくる。