地元でも古き伝統校として名高い吾妻学園の入学式は、春爛漫に咲き誇る桜に囲まれた校舎内で催される。

 その学園の新入生として入学する伝馬は真新しい学生服に身を包んでマラソン選手のごとく走っていた。入学式に保護者として参列するのをワクワクして待っていた両親は、その前日に前祝いと称して大好きな生牡蠣を食べて揃ってお腹を壊し寝込んだ。どうも中ったらしい。食あたりになったら嫌だからと食べなかった伝馬だけが無事で、たった一人で仕方なく入学式に臨むことになった。しかも当日は父親が車で送迎してくれるはずだったのだが、布団の上でお腹を押さえて唸る父親に運転できるわけがなく、急いで自転車を出して乗った瞬間にタイヤがパンクするという不幸が重なった。タクシーを呼びなさいという母親の呻き声に、伝馬は入学式を欠席して救急車を呼ぼうとした。だが両親から、自分たちは大丈夫だから入学式に急ぎなさいと、全く大丈夫ではない調子で言われ、ちょっと悩んだ末に走って行くことにした。タクシーを待つ時間ももったいなく、それほど学校から離れているわけでもない。しかも伝馬は運動神経が良く、走るのは得意な方だ。走れば何とか式が始まる時間にはギリギリ間に合うと判断して、とにかく走った。走れメロスの実写版のように走った。結果、開始時間十数分前に校門に到着した。

 荒々しく深呼吸しながら、額にかいた汗を手のひらでぬぐう。入学式と達筆にでかでかと書かれた看板が設置されてある校門前には、当たり前だが誰の姿も見えない。もう全員校舎の中だろう。新しい高校生活が始まるんだという感動もそっちのけで、とりあえず教室へ駆け込もうと校舎へ向かって走った。

 目前に見えてきたのは豪快に咲いている桜だった。

 生徒たちが出入りする昇降口から校舎に沿って桜の木が植えられている。今咲かなければいつ咲くんだとばかりに満開で、可憐なピンク色一色に染まっている。

 伝馬は思わず歩調をゆるめて、桜並木を眺めた。綺麗だった。幹はどっしりとして太く、しなやかな枝にはふんだんに花がついている。互いの枝がぶつからないような間隔で木は成長していて、見事に桜の花を咲かせている一連の光景は、まるで一種の晴れ姿のようだった。

 伝馬は入学式に間に合わないかもしれないという現実を一瞬忘れて、桜に手招きされるようにぶらっと校舎沿いに奥へ行こうとした。

「おい」

 いきなり背後から声をかけられた。

 その強面風な声色に、伝馬はハッと我に返って慌てて振り返る。

 ちょうど桜色に染まる花弁がふわりと散ってきた。そこに男性が一人、仁王立ちでいた。

 伝馬は誰だろうと訝しみながら、相手をよく見る。一言で言えば、とてもカッコいい男性だった。背は高く、手足も長い。スポーツ選手のような体形の良さだ。白いワイシャツに黒織柄(くろおりがら)のネクタイを締めて、ブルーグレイのスーツを着ている。伝馬のような十代の若者から見ても、嫌味なしにすごく似合っていると思った。

 そのまま視線を顔へ向ける。これまた男らしくてカッコ良かった。警察や法曹、推理ドラマに出演していそうな雰囲気の顔立ちをしている。演じる役はもちろん主役だ。きっと口数は少ない。けれど責任感は強く、問題を解決してくれる。そういう印象だ。年齢はおそらく二十代。

 ――誰だろう。

 ここにいるということは、学校に関係する人物だろう。よくよく見れば男性が着ているのはフォーマルなスーツだ。入学式などの公式行事に列席するための服装である。フォーマルスーツを身につけた二十代の男性。ということは。

「おい」

 再び、男性は声をかける。

 じっと観察するように見ていた伝馬は、その声の調子と吊り上がった(まなじり)に鋭い眼光で、男性が苛立っているというのがわかった。

「お前、ここで何をしている」

 警察ドラマなら、刑事が容疑者に詰問(きつもん)するシーンである。ちょっとだけムカッとした伝馬は、負けずに礼儀正しく言い返した。

「俺、不審者じゃないです」
「そんなことはわかっている」

 男性はニコリともしない。

「俺が聞きたいのは、お前はこれからどこに行くつもりなんだということだ」

 両腕を組んで立っている男性もまた不遜(ふそん)な態度である。だがそれが堂々としていて、実に(さま)になっている。

 ー―かっこいい。相手への反発心も下がって、伝馬はちょっと素直になった。

「教室へ行きます。俺これから入学式で……」

 そうだ、桜を見ている場合じゃなかったと伝馬は恥ずかしくなって俯く。一人息子の高校入学祝いで、生牡蠣を食べてお腹を壊して式に参列できない不幸な両親のためにも、ちゃんと式に出席しなければ。伝馬は男性に入学式のことを聞こうと顔をあげた。

 その時、ひらひらと桜の花が散り落ちてきた。桃色よりももっと深くて濃い色。紅色を薄くしたような色。一つ、二つ、三つと枝から離れて、男性の前をくるりくるりと舞いながら地面に横たわる。数秒の出来事なのに、なぜか伝馬にはスローモーションで頭の中に流れた。

 綺麗だと思った。桜の花弁が。

 桜の花弁の散る姿が似合うと思った。男性に。

 後で思い返せば、自分は見惚れていたのだ。だから何も言えなくなったのだと気づいた。