「ねえ、一成。今週の土曜日は暇?」

 数学の授業が終わり、後ろの席から七生が聞いてきた。

「この前言っていたミステリーの最新刊が出るんだ。授業が終わったら一緒に本屋行かない?」
「あー、あれ土曜日に発売なんだ」

 次の科目である古典の教科書をカバンから取り出していた一成は思い出す。友人の七生は現在ミステリー小説にハマっており、好き作家の最新作が文庫版で発売されるとあって、ここ数日間とてもウキウキしていた。

「七生は楽しみにしていたもんな。良かったな」
「うん」

 七生は幸せと言わんばかりに、色男の雛形のような顔全体をゆるませる。

「でも、すぐにその本を読みたいんじゃないのか? 俺が一緒にいたら邪魔だろう」
「大丈夫、本屋でお別れするから。一成さ、最近本に目覚めたとか言っていたから。一緒にどうかなって思って」

 一成はちょっとだけ口角を上げる。七生が自分の言葉を覚えていてくれたのは嬉しいが、心待ちにしていた本を買いに本屋へ行こうと誘ってくれたのも、また気持ちがほっこりとなる。早く買いに行ってすぐに読みたいだろうに、本を読むようになったというだけで七生的にはめちゃくちゃ嬉しいんだろうなと、ほころんだ表情を見て思った。

「せっかく誘ってくれて悪いが」

 一成は机の上に教科書を置いて、肩越しに振り返る。

「土曜日は速攻で家に帰らないとダメなんだ。ちょっと用事があって」

 すまなそうに目線を落とす。七生は明るく右手を振った。

「あ、全然いいよ。今思いついただけだから」

 屈託なく笑う友人に、一成の表情が少しだけ翳った。

 半分嘘で、半分本当。

 吾妻学園は私立なので、土曜日も午前中だけ授業がある。午後には終了なので、生徒たちは部活動に励み、特に用事がなければ家へ帰る。一成はいまだにどこにも入部しておらず、担任の順慶には冗談気味に、柔道部に入るかと言われたが、いやいいですと拒否った。文学部に入った七生からも、俺と一緒にブンガクやってみる? と気軽に誘われたが、今一乗り気にはなれなかった。

「ごめん、七生」

 心から頭を下げる。

「え、いいって。そんな大したことじゃないから」

 逆に七生が慌てる。

「ただ誘ってみただけだよ。用事の方が大事だよ」

 うんと、一成は顎を引いた。確かに大事な大事な用だ。自分にとっては。けれど、少々胸が痛んだ。

「なんか、一成さ」

 七生は雰囲気を変えるように身を乗り出して、一成を悪戯っぽく見つめる。

「最近、なんていうか、弾んでいるよね。なんかこう、夢中になっているものがあるっていうか」
「え……そうかな」

 一成はぎくりとして、七生からそそくさと視線を逸らす。いきなり気持ちの中を覗き込まれたようで飛び上がりそうになった。

「……変に見えるのかな」
「違うよ、楽しそうだってこと」

 七生はくすくすと笑う。

「俺が大好きな作家の新刊に狂喜乱舞しているのと一緒。やっぱり嬉しいし楽しいよねえ」

 ぺたりと頬に両手を添えて夢見るような口調で言う。

 ちょうど次の授業を告げるチャイムが鳴った。

 どやどやと古典の教師が入ってきて、一成は力が抜けたように前を向いた。

 ――楽しそうに見えるんだ。

 なにげなく首の付け根の奥に手をやる。学生服で隠れている場所。

 ごくっと息を呑む。

 七生の言う通り、確かに夢中になっている。楽しくて――興奮して――

 ―—どうにかなってしまいそう――