名指しされた伝馬は見るからに呆気に取られていて微動だにしない。その戸惑ったような顔つきはどうすればよいかと真面目に逡巡しているようだ。もう一人名指しされた勇太は言われた通りに「吸って! 吐いて!」と腕をでっかく広げて、古矢に負けず劣らず元気いっぱいに深呼吸をしている。
「綾野君いいね!」
と、古矢も親指でグーッドと示しながら、周りの迷惑も顧みずにフルパワーで深呼吸の動作を繰り返している。
「……」
一成はドアを開けたまま、石のように立ち尽くした。一体いつからここで何をどうしてお前たちが深呼吸なんかやっているんだと、5W1Yが頭の中で炸裂して状況を把握するのに数秒かかった。しかし職員室にいる他の教師たちが努めて大人の態度で見過ごしている中、古矢の席の向かい側にいる理博がこの上なく不機嫌そうに睨みつけているのが視界に入った。その手には愛用の算盤が見えて、おもむろに机から浮き上がったのに気が付き、一成は我を取り戻して古矢たちの元にすっ飛んで行った。
「どうしたんだ、お前たち」
まず古矢は無視して、伝馬と勇太に話を聞く。
「あの、先生に用事があって……」
「シンコキューしていました!」
と、それぞれ説明する。
「お帰り一成! 待ちくたびれたよ!」
古矢は腰に両手をやり爽やかに出迎える。
「暇だから、一成が来るまでみんなで体操して待っていることにしたんだ!」
謎に胸を張る。
「――そうですか」
一成は懸命にボコボコに言い返したくなる気持ちを抑えて、また教え子二人に聞いた。
「そんなに待ったのか?」
「……あの、そんなには……」
「全然待ってないです!」
伝馬は言いにくそうに、勇太はあっけらかんと口にする。
「そうなんだ! だから深呼吸から始めたんだ!」
古矢は天真爛漫に言い添える。話が全然繋がっていないぞと一成は突っ込みたかったが、算盤を握りしめて口からシャーとヘビのように威嚇しそうな理博の表情が視界にちらついて鬱陶しい。古矢との会話は適当に打ち切って、改めて伝馬と勇太に向いた。
「で、用件は何だ」
「あ、えーと、この前のプリントなんですけれど」
「はい! 俺また忘れちゃって! すみません!」
勇太が明るく右手を上げる。
ああ、と一成は思い出した。提出期限が三日前のプリントだ。忘れたら今日までに出すよう伝えた。確か忘れたのは約一名。
「さっき思い出したんです! ゴハン食べたら気がついちゃって!」
「提出するのは明日でもいいですか?」
全く悪びれない勇太をフォローするように伝馬が話を進める。伝馬はきちんとプリントを出しているが、忘れてしまった勇太のために一緒に職員室まで来たのだろう。本当に仲が良いんだなと一成は感心した。おそらく自然体すぎる勇太を助けるために付いてきたに違いない。一成は自分の机に文庫本を置きながら、優しいなと思った。
「明日でもいいぞ」
「やったあ!」
両手で無邪気にバンザイする勇太に、伝馬が慌てて「勇太!」と声をかける。しかし当人には届いていない。
「忘れるなよ、綾野」
「はいはーい!!」
「返事は一度でいい」
一成は教師らしく注意するが、何だか小言を喰らわす喧し屋のような気分になってちょっと気が滅入った。「大丈夫! 元気なのは良いことだ!」と古矢が横から口を出してきたので、いい加減にその首を締めたくなった。
「話はそれだけか」
「――はい、ありがとうございます」
伝馬が小さく頭を下げる。お前がプリントを忘れたわけじゃないだろうと一成は苦笑いしながら椅子を引いて座った。伝馬につられて勇太も「すみませんでした!」と笑顔で言ってきたので、もう教室に戻れと二人に手を振った。
「あの、先生」
伝馬は一成の机の上をちらっと見た。何かが気になっている様子である。何だと一成は伝馬が見ている先を目で追う。
「この本がどうかしたのか」
図書室で借りた文庫本である。
伝馬は目線を下げて、じっと見つめている。
「興味があるのか」
どうしてそんなに凝視しているのかがわからない。
「先に読むか。貸すぞ」
ちょうどいい渡りに船だと思った。七生には悪いが、やはり読むのに気が乗らなかった。伝馬が読みたいのなら、七生には自分が説明して本の貸し出し人を変更すればいいだけの話だ。
「いえ、興味があるっていうか……」
伝馬はようやく目を上げて、一成を向いた。
「先生は、こういう本を読むんですか?」
まるでテストの正解を聞くような口調で真剣に聞いてくる。
「まあな。読みたくなったらな」
伝馬の言う「こういう本」の意味合いがよく掴めないが、本は読みたい時に読むのが一番没頭できると一成は考えている。だから今の気持ちでこの本を読むのは難しかった。
「俺も読んでみます」
伝馬は素早く言った。
「先生が読んだら、次に貸して下さい。お願いします」
だからお前が先に読めと一成は言いかけたが、強情そうに結ばれた口元を見てやめた。言い出したら頑固に聞かない伝馬の性格は、あの相談室での一件から一成の脳裏にがっつりと刻み込まれている。
「遅くなるが、それでもいいのか」
「大丈夫です」
伝馬は嬉しそうに表情を崩す。その隣で勇太も覗き込むようにして文庫本を見ているが、タイトルの意味でもわからないのか左右に首を振っている。
「先生、ところでこの本を書いた人は何て読むんですか?」
伝馬は文庫本の表紙の下に記されている作者名をきちんと読もうと目を細めている。「俺もわかんない!」と勇太も投げ出す。一成はふっと息をついた。俺も最初は読めなかったと思い出した。
「それは、ふかみ……」
「深水榮先生だ!!」
唐突に古矢が話に割り込んできた。
「綾野君いいね!」
と、古矢も親指でグーッドと示しながら、周りの迷惑も顧みずにフルパワーで深呼吸の動作を繰り返している。
「……」
一成はドアを開けたまま、石のように立ち尽くした。一体いつからここで何をどうしてお前たちが深呼吸なんかやっているんだと、5W1Yが頭の中で炸裂して状況を把握するのに数秒かかった。しかし職員室にいる他の教師たちが努めて大人の態度で見過ごしている中、古矢の席の向かい側にいる理博がこの上なく不機嫌そうに睨みつけているのが視界に入った。その手には愛用の算盤が見えて、おもむろに机から浮き上がったのに気が付き、一成は我を取り戻して古矢たちの元にすっ飛んで行った。
「どうしたんだ、お前たち」
まず古矢は無視して、伝馬と勇太に話を聞く。
「あの、先生に用事があって……」
「シンコキューしていました!」
と、それぞれ説明する。
「お帰り一成! 待ちくたびれたよ!」
古矢は腰に両手をやり爽やかに出迎える。
「暇だから、一成が来るまでみんなで体操して待っていることにしたんだ!」
謎に胸を張る。
「――そうですか」
一成は懸命にボコボコに言い返したくなる気持ちを抑えて、また教え子二人に聞いた。
「そんなに待ったのか?」
「……あの、そんなには……」
「全然待ってないです!」
伝馬は言いにくそうに、勇太はあっけらかんと口にする。
「そうなんだ! だから深呼吸から始めたんだ!」
古矢は天真爛漫に言い添える。話が全然繋がっていないぞと一成は突っ込みたかったが、算盤を握りしめて口からシャーとヘビのように威嚇しそうな理博の表情が視界にちらついて鬱陶しい。古矢との会話は適当に打ち切って、改めて伝馬と勇太に向いた。
「で、用件は何だ」
「あ、えーと、この前のプリントなんですけれど」
「はい! 俺また忘れちゃって! すみません!」
勇太が明るく右手を上げる。
ああ、と一成は思い出した。提出期限が三日前のプリントだ。忘れたら今日までに出すよう伝えた。確か忘れたのは約一名。
「さっき思い出したんです! ゴハン食べたら気がついちゃって!」
「提出するのは明日でもいいですか?」
全く悪びれない勇太をフォローするように伝馬が話を進める。伝馬はきちんとプリントを出しているが、忘れてしまった勇太のために一緒に職員室まで来たのだろう。本当に仲が良いんだなと一成は感心した。おそらく自然体すぎる勇太を助けるために付いてきたに違いない。一成は自分の机に文庫本を置きながら、優しいなと思った。
「明日でもいいぞ」
「やったあ!」
両手で無邪気にバンザイする勇太に、伝馬が慌てて「勇太!」と声をかける。しかし当人には届いていない。
「忘れるなよ、綾野」
「はいはーい!!」
「返事は一度でいい」
一成は教師らしく注意するが、何だか小言を喰らわす喧し屋のような気分になってちょっと気が滅入った。「大丈夫! 元気なのは良いことだ!」と古矢が横から口を出してきたので、いい加減にその首を締めたくなった。
「話はそれだけか」
「――はい、ありがとうございます」
伝馬が小さく頭を下げる。お前がプリントを忘れたわけじゃないだろうと一成は苦笑いしながら椅子を引いて座った。伝馬につられて勇太も「すみませんでした!」と笑顔で言ってきたので、もう教室に戻れと二人に手を振った。
「あの、先生」
伝馬は一成の机の上をちらっと見た。何かが気になっている様子である。何だと一成は伝馬が見ている先を目で追う。
「この本がどうかしたのか」
図書室で借りた文庫本である。
伝馬は目線を下げて、じっと見つめている。
「興味があるのか」
どうしてそんなに凝視しているのかがわからない。
「先に読むか。貸すぞ」
ちょうどいい渡りに船だと思った。七生には悪いが、やはり読むのに気が乗らなかった。伝馬が読みたいのなら、七生には自分が説明して本の貸し出し人を変更すればいいだけの話だ。
「いえ、興味があるっていうか……」
伝馬はようやく目を上げて、一成を向いた。
「先生は、こういう本を読むんですか?」
まるでテストの正解を聞くような口調で真剣に聞いてくる。
「まあな。読みたくなったらな」
伝馬の言う「こういう本」の意味合いがよく掴めないが、本は読みたい時に読むのが一番没頭できると一成は考えている。だから今の気持ちでこの本を読むのは難しかった。
「俺も読んでみます」
伝馬は素早く言った。
「先生が読んだら、次に貸して下さい。お願いします」
だからお前が先に読めと一成は言いかけたが、強情そうに結ばれた口元を見てやめた。言い出したら頑固に聞かない伝馬の性格は、あの相談室での一件から一成の脳裏にがっつりと刻み込まれている。
「遅くなるが、それでもいいのか」
「大丈夫です」
伝馬は嬉しそうに表情を崩す。その隣で勇太も覗き込むようにして文庫本を見ているが、タイトルの意味でもわからないのか左右に首を振っている。
「先生、ところでこの本を書いた人は何て読むんですか?」
伝馬は文庫本の表紙の下に記されている作者名をきちんと読もうと目を細めている。「俺もわかんない!」と勇太も投げ出す。一成はふっと息をついた。俺も最初は読めなかったと思い出した。
「それは、ふかみ……」
「深水榮先生だ!!」
唐突に古矢が話に割り込んできた。