女装した俺が、先輩に気に入られた件について。


 ◇

 八月。夏休み、蝉の鳴き声がうるさくて、うだるような暑さが俺を襲った。
 首元にまとわりつく髪は鬱陶しくて、そこから熱が発生する。黒髪ロングのさらさらウィッグを装着しているからだ。

 ……あー今日も暑い。

 片方の髪を耳にかけて少しでも首元の熱を逃すようにする。

 タイミングよく吹いた風によって、ふわりと髪は攫われる。

 ──あっ、涼しい……。

 膝下まである白いワンピースはほどよくなびいて、女らしさを強調する。

 通りすがる男子は、ちらちらと俺の顔を見ている。中には鼻の下を伸ばしながらでれでれとして、その表情を隣にいた彼女に注意されている。

 まさか俺が〝男〟だとも知らずに。

 ……今日もすごい視線の数だなぁ。

 心の中で本音が漏れて、思わずにやけそうになる表情をぐっと堪えると、目の前だけを真っ直ぐ見て歩いた。

 俺、矢野朝陽(やのあさひ)。性別は男子。趣味は休日に女装をして街を練り歩くこと。趣味っていうと、少し語弊があるかもしれないが、要は自分に自信をつけるためにしているといってもいいかもしれない。 もちろん異性が恋愛対象だ。

 男である俺がなぜ休日に〝女装〟をしているのかといえば、それは──

「──あれ? 矢野くん」

 何の脈絡もなく呼ばれた俺の名前に、身体が勝手に反応して立ち止まり振り返る。

 視界に映り込んだのは、太陽の光が当たっていつもより明るく見える茶色い髪と、その隙間から覗くピアスが二つ。切れ長の目は真っ直ぐこちらを向いていて、無地のTシャツにズボンとラフだけれど、おしゃれに見えるのはそれだけ実物が整っているから。

「あ、夏樹先輩」

 そこにいたのは、見覚えのある人物だった。

 高校の一つ上の夏樹孝明(なつきたかあき)先輩。
 俺が通っている高校は男子校で上級生と仲良くなるなんてことは部活に入らない限り滅多にないが、俺と夏樹先輩は生徒会で一緒だ。

 だから当然、お互いを知っているわけで。

「矢野くんとこんなところで会うなんて珍しいね」

 ──だが俺は、ハッとした。

 なぜならば、俺は今、女装をしているからだ。

 それなのに夏樹先輩は俺のことを知ってて声をかけたらしい。
 その証拠に今も俺のことを名前で呼んだ。

「矢野くん?」

 ほら、また。一度ならず二度までも。確実に俺だと思って声をかけている。

 けれど、ここで返事をすれば今の俺が矢野だってことになるし、女装して歩いてたなんて学校で言いふらされたら笑い物扱いされてしまう。

 ああでもさっき、〝夏樹先輩〟って言っちゃったし……いやでも今ならまだ誤魔化せるかもしれない。

 俺は好奇の目に晒されて三年間過ごすためにこんなことをしているわけじゃない。

 だから、負けるな俺!

「……ひ、人違いじゃ、ないですか」

 俺は、この場を乗り切るためにシラを切ることにした。

 少し高めの声が嫌いだったけれど、こういうときに役に立つ。

「何言ってんの、矢野くんでしょ」

 それなのに夏樹先輩は、疑う素振りひとつも見せずに俺の名前を呼び続ける。

「いやっ、あの、何を言われてるかさっぱり……」

 誤魔化してみるが、身体の中は心臓ばっくばくで。

「俺もこの状況にびっくり」

 どうしよう、どうしよう。このままではきっと一分もしないうちに証拠さえ掴まれそうだ。そうなったら俺の高校生活は日陰のものとなるだろう。

「ねえ、矢野く──」

 そうなれば、残す道はひとつしかない。

「わっ、私、ほんとに知りませんから……!」

 夏樹先輩の声を遮った。

 慣れない〝私〟呼びに思わず赤面しながら、夏樹先輩に背を向けて走った。

「あっ、ちょっ……」

 背後で慌てる声が聞こえたけれど、追いかけて来る足音は聞こえなくて。

 けれど、怖くて振り向けなかった。

 代わりに俺は、走った。

 運動部ではない俺が、走ることに慣れていなくてすぐに息があがる。それでも走って走って、夏樹先輩が見えなくなるまで逃げたんだ──。

 ◇

 夏休みが終わって、早くも一週間が過ぎた。

「生徒会ってもっと楽かと思ってたのにやる事多すぎるじゃん」

 放課後、十六時過ぎ。生徒会の雑務は毎日のようにある。日によって量は増減するが、体育祭や文化祭などイベント等を目前にすると生徒会の雑務は多くなる。

「口ばっかり動かしてないで手も動かして」

 山崎昴(やまさきすばる)先輩は、基本穏やかで怒ったことなんて一度もない。二年生で成績優秀でスポーツ万能な完璧といっても過言ではない人。

「山崎も手伝ってくれよー」

 副会長の武田尚弥(たけだなおや)先輩。雑務をこなすよりはるかにおしゃべりの方が多くて、面倒くさがりで。どうして副会長になったんだろうってたまに思う。

「おい、タケ。あんまり山﨑困らせるなって」

 そして二人目の副会長の夏樹孝明(なつきたかあき)先輩。何度か先生に髪色で注意を受けているらしいが、髪が茶色いのは地毛らしい。そしてチャラそうに見えるが根は真面目で、優しくて、よく笑う人だ。

 他にも書記と会計と人数を合わせると七人にもなる。その中で俺は書記をやっている。主に話し合いでの記入等を任されている。

 男子校は当然男だけで、女子は一人もいない。
 それなのに数日前に夏樹先輩に女装を見られた俺。

 あれから気まずくて俺からは一言も話せてない。
 危機的状況の俺は、目の前のプリントどころではなくなって、シャープペンを握りしめたまま、頭を抱える。

「矢野くん?」

 すると、目の前から声が聞こえた。

 それと同時に頭に触れた、何か。

 ハッとして顔を上げると、夏樹先輩の伸ばしたままになっている腕が視界に映り込む。
 だから今、俺の頭に触れているのは間違いなく先輩の手のひらだと気づく。

「ぼーっとしてるけど、どうかした?」

 あの日と同じ、真っ直ぐ向けられる瞳。

 一度も逸れることはなく、俺を見据える。

「えっ、あ、いえ……」

 俺は、慌てて目を逸らす。

 どうしよう、俺。まともに夏樹先輩のこと見れないし話せない。このままあと一年も生徒会仲間として過ごさないといけないのか? そんなの羞恥でしかないってのに……!

「なぁ千葉、俺の作業手伝ってくれねー?」
「何言ってるんですか。それは先輩の仕事ですよ」
「なんだよ、おいっ。後輩のくせに生意気だなぁ」

 俺が悩んでいる一方でふざけ合う武田先輩ともう一人の書記、千葉くん。
 生徒会ってもっと規則に厳しくてピリピリしてそうなイメージだったのに現実は全然そんなことなくて、むしろ緩すぎる。

 ……まぁ、その方がありがたいけれど。

「矢野くん」

 おもむろにコソッと聞こえた声。

 それは前からではなく、横からで。

 顔を上げると、すぐそばに夏樹先輩がいた。

「ちょっと時間ある?」

 長テーブルとパイプ椅子に手をついて、俺を囲むように立っている先輩。

「え、今ですか……?」
「うん」
「えと、でも今は……」
「この前のことで話があるんだよね」

 夏樹先輩は、なんの躊躇いもなくそう言った。

 〝この前〟のことで急速に手繰り寄せられた記憶はたったひとつしかなくて。

 どうしよう。誤魔化す? でもここで? テンパって俺の声ボリュームが大きくなりそうだし、そうなれば他の人に聞かれるかもしれないし。かといって断ったところで先輩が食い下がるようには見えないし……

「……す、少しだけなら」
「うん、よかった」

 先輩は優しい声を落としたあと、長テーブルとパイプ椅子についていた手をのけて、

「山崎ー、俺と矢野くんジュース買ってくるからちょっと抜けるわ」

 山崎先輩に軽々と嘘をついてみせるから俺はギョッとして顔をあげるが、嘘をついた当の本人は悪びれる様子なんか見られなくて。

 大丈夫なのかなぁ……とこっちが不安になる。

「分かった、気をつけて」

 が、その不安は杞憂に終わる。

 会長は先輩の言葉を疑うこともせずに信用した。

「じゃー行こっか」

 その言葉を聞いて緊張しながら席から立ち上がると、「ずりぃ! 俺の分も買って来てくれ!」と武田先輩が駄々をこねて夏樹先輩に詰め寄った。

 二人とも身長が高い。俺なんて170センチもないのに、先輩たち何なの……。どうやったらあんなに背が伸びるの。

「あー、はいはい。分かったから、タケそんなくっつくな」

 武田先輩を鬱陶しそうに引き剥がすと、

「そんな嫌な顔すんなよ! 傷つくだろ!」

 と、夏樹先輩に指をさしながら文句を言う。

「矢野くん、行こ」

 夏樹先輩はそれを無視して俺に話しかけるから後ろの方で武田先輩はぎゃーぎゃー騒ぎ立てていた。

「放置したままでいいんですか?」
「うん、どうせいつものことだから」

 けろりと笑って告げられたのだ。


 ***


「矢野くんは、何か飲む?」
「あ、俺、自分で……」
「ううんいいよ。何飲む?」
「……じ、じゃあ、アイスティーで」

 控えめに声を落とすと「ん」と先輩は軽く微笑んで、自販機でお目当てのものを押した。

「はいこれ」
「あ、ありがとうございます」
「タケはどうしよっかな。炭酸苦手って言ってたけど炭酸でいいか」

 考えることが面倒くさくなったのか、夏樹先輩は適当にボタンを押した。

「……武田先輩、炭酸苦手なんですか?」
「そうだよ。なんか舌がピリピリするとか言ってた」

 自分のジュースを買ったあと、先輩はキャップを開けてひと口飲んだあと、

「で、本題はこっちなんだけど、この前のあれって矢野くんだよね」

 さらりと突きつけられた現実に肩が跳ねる。

 あれほど違うと言ってもなお、あのときの女装を俺だと断言した夏樹先輩。いや、そもそも、女装ではなくただの女子だと認識することもできたはずなのに、なぜ俺だと……

「えっと……」

 ──違う。俺じゃない、と一言言えば納得してくれるかもしれない。

 そう思って顔を上げると、からかっているわけでもなく、バカにしているわけでもない、真っ直ぐな瞳が俺を見据えていた。

 夏樹先輩のこの目に俺は、なぜか弱くて。

「……はい、そうです」

 もうここまでくれば嘘はつけそうになかった。

「なんで女装してたの?」

 二つ目の問いが現れる。

「えっと、それは……」
「俺もあのときはびっくりしたけどさ、何か理由あるのかなって思って」

 と、先輩が言う。

 夏樹先輩は、俺のことを笑ったりからかったりするわけではなさそうだ。

「……なんで、夏樹先輩」
「ん?」
「いや、だって、普通なら女装する男子なんてきもいってバカなんじゃないかって思うじゃないですか……」
「んー、普通とか一般的とか分からないけど、だからといって矢野くんに変わりはないじゃん」

 こうなることは全然、予想できていなかった。
 確実に俺の噂が学校全体に及ぶんだと思っていた。

 だから、目の前の出来事に動揺を隠せなくて。

 そんな俺に先輩は──

「矢野くんが人一倍頑張り屋だってこと俺、知ってるし」

 ──微笑みながら。

「それに矢野くんは、一度引き受けたものは投げ出さずに最後までちゃんと自分でやりとげるってことも知ってるよ」

 ──ちょっと得意げに。

「だから、矢野くんを軽蔑するなんて絶対にないから」

 ──真っ直ぐ向けられた瞳は、キラキラとしていて。

 ああ俺、泣きそうだ。
 ふと、そう思ってしまったんだ。

「俺、自分の顔がコンプレックスなんです。中学のときは周りによく可愛いって言われてて……」

 ゆっくりと俺は口を開いた。

「そのことを姉に打ち明けると、『自分の顔を嫌いになるんじゃなくて武器にすればいい』って言われたんです。それで着なくなった洋服を俺にくれたり化粧もされたり。当然最初は何で女装なんだろうって思ったんです。顔がコンプレックスなのに」

 わざわざ女装しても、それはさらにコンプレックスが悪化するだけだと思っていた。

「女装した格好で街を歩いてたらたくさんの視線を向けられていることに気づいて、少し怖くなって俯きかけたとき姉が、『堂々と胸張って前だけ向きなさい。朝陽は朝陽だよ』って言ってくれて……それから少しずつ慣れてきて、一人でも街を歩くようになったんです。段々と自信がついてきたのか俯くことはなくなって、今では堂々とすることができて」

 自分の過去を誰かに打ち明けたのはいつ以来だろうと、少し照れくさくなり、

「顔がコンプレックスなのに、女装して自信がつくって変な話なんですけど」

 と、俺は笑い飛ばすが、先輩はバカにしたりからかったりそんなことせずに、「そんなことがあったんだね」と先輩は穏やかな声で言った。

「矢野くんが今、話してくれたことってほんとは言いたくないことだったんだよね。それなのに俺に話してくれてありがとう」

 女装は誰にも認められないと思っていた。
 バカにされると思っていた。
「矢野くんの過去を知れて嬉しかったよ」

 一生、女装をして生きようとは思っていなかった。自分の顔がコンプレックスで、人よりも自信がなくて。どうしても自分に自信がほしかった。

 それだけ、だったのに。

 夏樹先輩に自分自身を肯定されて。

 ──素直に嬉しいと思ったんだ。

「でも、ひとつだけ俺と約束してほしいな」
「……約束、ですか?」
「女装するなら俺の前だけにしてほしい」
「…………へ?」

 いや、ちょっと待って。先輩、今なんて言った?

 〝女装するなら俺の前だけにしてほしい〟

「だからね、俺がそばにいるときだけ女装してほしいってこと。一人で街に行こうとしないで女装するときは連絡してよ。俺、すぐ駆けつけるからさ」
「いやっ、あの、なんで……」
「なんでも。絶対だからね」

 理由を聞いてもそれしか言ってくれず、困惑したままの俺。だけど、夏樹先輩はそんなのお構いなしに、「タケたち待ってると思うし戻ろ」と言って俺の横を通り過ぎていく。

 全然、理解が追いつかなくて俺はその場に立ち尽くす。

 俺の前だけで、って夏樹先輩の前だけ女装しろってこと……?

 なんかそれって──

「おーい、矢野くん?」

 聞こえた声にハッとすると、夏樹先輩の真っ直ぐ向けられる瞳とぶつかって、その瞬間顔が熱くなる。

「顔、赤いけどどうかした?」

 それって〝独占欲〟みたい。

 そんなふうに思う自分が恥ずかしくなって。

「なななっ、何でも、ありません……っ!」

 慌てて誤魔化すと、歩き出す俺。

 けれど、手足が同じタイミングで出てしまう。それはまるで壊れたロボットのようだ。

「なんでもないって顔してないけど」

 俺の隣を歩く先輩が、いきなりひょこっと顔を覗かせる。

「こっ、これはただ暑かっただけです!」

 そうだ。顔が、身体が、暑いのは、この真夏のせい。きっとそうに違いない。

 それなのに。

「ふーん、そっか」

 先輩は全く信用した素振りも見せずに、ふはっと吹き出して笑うから、

「しばらくこっち見ないでください!」

 隣にいる先輩に顔が見えないように、横を向いて歩いた。
 
 ──これは、女装した俺と先輩のお話だ。

 ◇

「矢野、おはよー」

 友達の鳥羽彰(とばあきら)が登校してきた。

「おはよう」

 高校に入ってできた一番目の友達で、唯一俺が女装をすることを知っている人物。
 なぜ俺が鳥羽にだけそれを話したかといえば、彼はアニメ好きで、コスプレが趣味だとか。それで俺も女装を打ち明けたわけだけど。

「夏休み中アレしたの?」

 誰が聞いているか分からないから教室では鳥羽は女装のことをアレと呼ぶ。

「うん、そりゃあもちろん」
「じゃあなんでそんな元気ないわけ」

 かばんの中から教科書を出しながら、ちら、と俺の方へ視線を向ける鳥羽。
 だてに友達をやっているわけじゃないらしい。俺の小さな変化を読み取ったのだろう。

「元気ないわけじゃないんだけどさー……」
「じゃあ、何かあったの?」

 手を止めて全神経を俺に向ける鳥羽。

 〝何か〟は間違いなく。

「……まあ、あったけど」

 右と左を確認した鳥羽は、俺に顔を寄せて、「何があったの」と耳に手を当てて聞く準備万端だということをアピールする。

「……実はさ、夏樹先輩に俺が女装してるってバレちゃったんだよね」
「夏樹先輩って生徒会副会長の?」
「うん、そう。副会長」
「あの先輩に?」
「うん」
「まじで」
「だからそう言ってるでしょ」

 鳥羽は信じられない、とでも言いたげな顔で俺をしばらく見つめたあと、「なんでバレたの?」と疑問をぶつける。

「なんでってそりゃあ──…」

 ……あれ、なんで先輩に女装していたあれが俺だってバレたんだろう。

「分かんない」

 気の抜けたように俺の口からぽつりとこぼれる。

 すると、なんで、とでも言いたげな表情を浮かべて俺を見つめる鳥羽。