その日の夕方のことだ。学生や会社員の姿も増えだした、十八時半を過ぎた頃。ひとりの高校生が、自動ドアの開くスピードと競うかのように駆けこんできた。膝に手をつき息を整え、すぐに辺りを見渡し始める。
 よほど欲しい本があるのだろう。必死な様子に涼もすぐに気づき、手を貸したくなったのだが。ジャージ姿の少年は、近くにいた他の店員に声をかけた。だが、それにほっと胸を撫でおろしたのも束の間。聞こえてきた雑誌名に、レジへと向かいかけていた足はぴたりと止まってしまった。

「この辺のコンビニとか全部回って探したんすけど、どこにも置いてなくて!」
「そうでしたか……申し上げにくいのですが、当店の入荷分も昼には完売してしまいまして……」

 少年が探している漫画雑誌は、隔週の水曜日に発売されているものだ。国民的人気の漫画もいくつか連載されていて、売り上げは毎回好調。今週も例に漏れず――いや、こうなることを見越して多めに発注しても、昼には完売という驚異の売れ行きだった。
 無いものは売りようがない。本を求める者にきちんと行き渡ってほしくても、こればかりはどうしようもない。
 それでも涼は、ぐっと床を踏みしめたままの足をそろそろとターンさせる。放っておけない、そう感じてしまったからだ。
 がっくりと項垂れて、くぐったばかりの自動ドアへととぼとぼ戻る少年を勇気と共に追いかけ、肩をたたく。

「なあ」
「へ……え、っと」
「あー……お前、まだ時間ある?」
「はい?」
「オレ、もうすぐ終わるんだけどさ」

 振り返った少年は、涼の姿を見てやはり驚いたように目を見開いた。この反応をされたなら、いつもだったら誰かに引き継ぐところだが。今回ばかりは引くわけにいかない。逃げたくなった自分を鼓舞するように、涼は小さく下くちびるを噛む。

「ちょっと待ってろ。な?」
「え、っと。何でですか?」
「あのさ、オレもあの……」

 そこまで言いかけたところで、タイミング悪くレジからヘルプの声が掛かった。目の前の少年と、会計を待つ客たち。天秤にかけるものでもないが、選択肢はひとつしかない。
 涼は「ぜってー待ってろよ!」と少年に念を押し、次の瞬間には駆けるようにレジへと向かった。

「えー……なに?」

 少年は、視線で涼を追いかけながら呆然と立ち尽くす。退店する他の客が身を縮こませて脇をすり抜けたので、申し訳なさそうに頭を下げて外へと出た。
 それを視界の端に捉えながら、涼の胸にはまだ少しの躊躇と、確かな使命感があった。
 この少年を救えるのは、自分しかいないのだ。


 十九時過ぎ。暮れた空の下に裏口から出て、涼は疲れた体を解くようにほうっと息をついた。それからすぐ店の前に出て、辺りを見渡す。道路の向かいにある公園の前に、先ほどの高校生の姿があった。ちゃんと待ってくれていたことにほっとしつつ、涼に気づき姿勢を正す彼の様子に、口の中で苦笑を漏らす。
 涼の出で立ちは、黄味がかった金に黒が混じる髪を、後ろでちいさく結んだツーブロック。耳には一目ではいくつあるか分からないほどたくさんのピアスを飾って、涼やかな目元の眼光は鋭い。服装も、派手なシャツや刺繍が施されたジャケットなんかを好んでいる。
 百人いれば百人がヤンキーだと評するだろうことを、涼自身がよく分かっている。

「急に悪かったな」
「いえ、大丈夫、っす」

 もしかするとこの高校生は、喧嘩を吹っかけられたと勘違いしているのだろうか。強張った体から、途切れ途切れの声が発せられている。自分のせいだと思うと可哀想で、一刻も早く誤解を解いてやりたい。

「はい、これ」
「え? えっと」
「探してたんだろ? やる」

 前置きもなく、手に持っていた紙袋を少年へ渡す。思わずと言ったように受け取ってはくれたが、頭の上にハテナの浮かんだ顔が涼と渡されたものを交互に見比べている。それさ、と中身は探していた漫画誌であることを告げれば、今度は慌てだした少年によって涼の手に返ってきてしまった。

「オレは昼休みに全部読んだから」
「え! いやいや駄目です!」
「なんで? 読まなくていいのか?」
「う、読みたい、ですけど……もらうのはちょっと」
「そう?」
「そうです」
「ふーん。でもあげる」
「えー……だってそこまでしてもらう義理ないですし……」

 どれだけ言っても、それではありがたくと受け取る気にはなれないようだ。かと言って、涼も一度差し出したものをひっこめる気はさらさらない。
 改めてその手に紙袋を押しつけながら、よく見知ったその服装に覚えがあるのだと伝える。

「そのジャージ、虹野(にじの)高校の野球部だよな?」
「あ、はい。そうです」
「オレもそこの高校出身なんだ。後輩になんかしてやりたくなった、って理由じゃ駄目?」
「えー……二、三年の先輩にもそんな優しくされたことないっす」

 困っている少年の様子がよく伝わってくる。どうしたものかと唸りながら、涼はすぐそばの自動販売機へと足を向ける。ブラックの缶コーヒーをひとつと、スポーツドリンクのペットボトルを一本購入した。そのうちのひとつ、スポーツドリンクを少年へと手渡す。

「やる」
「いやいや、だからもらえませんて」
「これは今、お前の時間を取ってる分。部活のあとって喉乾くだろ。なあ、そこの公園行かね?」
「う……ありがとうございます?」
「ふは、疑問形」

 余計に困らせることをしていると分かっている。それでもどうしても放っておけない。本を求めてやって来たこの少年を、助けてやりたかった。
 また返って来そうになるドリンクを頑なに拒む。断り続けるのも悪いとでも思ったのだろうか。じゃあ、とそれは受け取ってくれたので、涼は安堵にひとつ息をついた。


 ふたり連れ立って、もう人っ子ひとり遊んでいない公園に入る。並んでベンチに腰を下ろすと、丁寧に「いただきます」と言って少年はドリンクの蓋を開けた。どういたしましてと言えば今度は小さく会釈が返り、まっすぐな子だな、との印象を持つ。
 短く整えられた髪、よく焼けた肌に精悍な顔立ち。174センチほどの涼が見上げる背は、18センチはあるだろうか。大きくて、それでいてまとう空気は朗らかな色だ。
 涼も缶コーヒーをひとくち飲み、濃青を含んだオレンジの空を見上げる。すると隣から「ふう」と聞こえてきた。昨日も今日も、きっと明日からもこの少年は、その大きな体で真摯に野球に打ちこむのだろう。たった数分の会話でそんな姿まで見えるような、一日を携えた美しい呼吸だった。

「本もらう気になった?」
「いえ。ジュースもらっちゃったんで、余計もらえないっすね」
「頑固すぎん?」
「んー……店員さんのほうが頑固だと思います」
「そうか?」
「っす」

 こんなリズミカルな会話はいつぶりだろう。思いがけず楽しくて、涼はついまた笑ってしまった。
 貸して、と少年の手から紙袋を受け取り、中の本を取り出す。

「オレもこれ毎号読んでんだけどさ、一号抜けただけで話についていけなくなるだろ」
「はい」
「それってやっぱさ、悲しいじゃん。うちに駆けこんできた時、必死な顔してるの見たからさ。同じ本の読者として、読んでほしいなって思った。そんだけ」
「…………」
「ちなみに、もうどこ行っても売ってねぇと思うぞ」
「え。そうなんですか?」
「今回のはシールの付録ついててさ、ほらこれ。これ目当てにひとりで何冊も買ってるヤツもいるから、全国的に売り切れだろうな」
「マジっすか……」
「そう。だからやる。オレ、1回読んだら処分するタイプだし」
「えー……」

 どちらにしろ捨ててしまうのだと伝えると、少年もさすがに悩みだした。いい傾向だ。
 うんうんと頭を悩ませているのを横目に、公園内に設置されたごみ箱へ缶を捨て、涼はベンチに座り直す。少年が顔を上げ、こちらを向いた。
 月光が照らし出す瞳に、自分の影が映っている。

「オレの高校ん時のダチも野球部でさ。それで余計にほっとけなかったのかも」
「へえ。そうなんすね」
「うん。そのジャージとかバッグ、懐かしいわ」

 数少ない高校時代の友人がふと思い出されたのも、また本当のことだった。虹野高校の野球部でピッチャーをしていたその男は、今は海の向こうにいるけれど。懐かしさが胸に去来して、余計にこの少年を救いたかったのかもしれない。

「背格好も似てんなって思ったけど、話してみたらさすがに中身は全然違うな。アイツは大型犬って感じだったし」
「犬?」
「うん。ゴールデンレトリバーとか、そういうの」
「人懐っこい感じっすか?」
「そうそう。みんなに好かれるヤツだったよ」
「いいっすね。そういう人がチームにいると、全体の士気が上がるんで」

 最初ほどは、怖がられてはいない。そんな気がしたからか、涼は日頃より饒舌になる。さっきから会話のテンポも心地よかった。
 動物に例えてしまう涼の癖を笑ったり訝ることもしない少年は、けれど微笑んでいた頬をきゅっと引き締めて尋ねる。

「ちなみになんすけど」
「ん?」
「俺はどんなですか? お友達とは全然違うってさっき言ってましたけど」
「あー……」

 友人とこの少年の共通点は、虹野高校の野球部、それから大きな背。話してみても、その程度だ。
 涼みたいな人間にも懐っこかった友人は、そつなく何でもこなせるヒーローのような男だった。少年はと言えば、どんな人間かなんてもちろんこの数分で推し量れるものではないし、そんなことをするのは失礼だとすら思う。自分だって、そういった偏見みたいなものに苦しんだ過去があるから尚更。
 それでも、どう感じたかと答えを求められるのなら。そこに涼の癖を用いれば、答えは自ずと生まれてきた。

「白くま」
「……え?」
「だから、白くま」
「白くま? ……ふは、何すかそれ。初めて言われました」
「マジ? わりと最初から思ってた」
「えー、俺すげー焼けてますけど。普通の熊は違うんすか?」
「全然違う。熊ってさ、凶暴なイメージあんじゃん。まあ白くまも肉食だし、すげー強いけど。見た目で和らぐっつうか。マスコット感?」
「……ますます俺と結びつかない気がするんすけど」

 少年自身が白くまから連想できるイメージは、どうやら自己評価とはかけ離れているらしい。それでも涼にしてみれば、的確に例えられたとさえ感じている。
 イラストになるとふわふわとしたタッチで描かれることが多い白くま、もといホッキョクグマは、本来の性質よりそういったおっとりとした柔らかなイメージがポピュラーだ。

「頑固だなってさっき言ったけどさ。それ、要はお前の優しさだろ? もらっちゃっていいのかな、悪いなって。そういうとことか。あと、歳の割に話し方が落ち着いてるところとか。おおらかな感じする」
「おおらか」
「うん」

 涼が頷くと、少年は体から力を抜くようにしてベンチの背にもたれかかった。それからくすくすと笑い始め、また居住まいを正す。

「えっと、じゃあこの雑誌、貸してもらってもいいすか?」
「駄目」
「えー……」
「捨てるって言ってんじゃん。返されても困る」
「それはそうかもっすけど……」

 けれど少年は、まだ“もらわないこと”を諦めていないらしかった。頑なな優しさはここまでくれば愛嬌にすら感じられ、涼は笑わずにいられない。
 どうしたらこの少年は受け取ってくれるのだろう。難解なクイズのようでもあって、もはや楽しくなってきている。

「うーん。じゃあさ、交換条件とかどう?」
「あ、それいいっすね! 俺なんでもします!」
「なんでもするとか気安く言わないほうがいいぞ」
「う……だって読みたいんで」
「ふは、素直で結構」

 なるほど、優しくておおらかで、慎重なはずなのに少し軽率。少年へ感じる新たな一面を脳に書き留めながら、涼はひらめく。
 これならどうだ。その優しさを、こちらももらうことが出来る。お互いに利があれば、少年も受け取りやすいだろう。きっと名案だ。

「これ、毎号買ってんだよな?」
「はい」
「じゃあさ、次号からうちの店に買いに来てよ」
「……え?」
「今日みたいに早く売り切れることも、割とあるからな。白くまくん用に取り置きもしとく」
「え……そんなんでいいんすか?」
「一冊売り上げ確定じゃん。ウィンウィンてやつ」

 少年にとって、なかなかの好条件なはずだ。今回みたいに買いそびれる事態も回避できる。
 自信があった涼は、自分の膝についた頬杖で少年の笑顔を待った。

「そ、それでお願いします!」
「よっしゃ。交渉成立な。じゃあほら、これ」
「ありがとうございます……うわー、本当にいいんすか?」
「いいって。もう遠慮すんのナシな」
「っす」

 やっと受け取ってくれた少年は、感嘆の声を漏らしながら一度空に掲げて、それから膝に乗せたその表紙を目を細めながら撫でた。その光景は、涼が何よりも見たかったものだ。
 一冊の本に描かれる世界は果てがない。その夢のような景色が少年の前にも広がることが、その手伝いを出来たことが、胸から光がこみ上げる心地を涼にもたらすのだ。
 人との繋がりは、もう諦めてしまった。それでも本当は優しくありたいのが、涼が押しこめた真の心だった。


 「どれが好きなんだ?」と尋ねれば、会話はひとしきり弾んだ。
 いちばんの気に入りの作品は、偶然にもふたり同じだった。付録になっているシールもその作品のものだったので、これだけでも返すと少年は慌てたが、涼は頑として受け取らなかった。少年が困った顔をするので、それじゃあ一枚だけちょうだいとまた交換条件のように言えば、ほっとしたような笑顔が返る。

「もちろんっす! えっと、店員さんはどのキャラが好きっすか?」
「んー……その漫画は選べねぇくらい全部好きなんだよな。白くまくんが選んでよ」
「そうなんすね、じゃあ……これにしようかな。えーっと、剥がしていいんすか?」
「うん、ここに貼って」
「ここ? いいんすか?」
「おう」

 涼はジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。カバーも何もしていない裸の状態だからか、少年は躊躇いを見せる。だが涼は本もこういったものも、素のままで愛用するのが好きだった。どうしたってついてしまう細かな傷でさえ、積み重ねた日々が表れているように感じられるからだ。さすがに割れたら困るので画面にこそ保護シートを貼っているが、だから気に病んでもらう必要はひとつもない。
 いいから、と乞えば、少年はじゃあ……と一枚のシールを台紙から剥がした。人間の言葉を話す、作中でも重要なポジションにある茅色の猫のキャラクターだ。

「猫みたいですよね」
「そうだな、コイツは猫だぞ」
「あ、そうじゃなくて。お兄さんがっす」
「……オレ?」
「最初はあの、怖いかもって思ったんですけど……すみません」

 聞けば白くまみたいだと伝えた時から、じゃあこの人は、とずっと考えていたらしい。どこか言いづらそうな仕草で伝えられる第一印象に、傷つく心は涼にはなかった。慣れている反応だからではない。この大らかで優しい少年だからだと、そう感じられる。

「ううん、平気」
「よかった。あの、話したらコロコロ印象変わったり、すごい優しいし。ニッて笑うとことかも、猫みたいだなって!」

 すごく優しい、との評価に、心臓が甘く脈を打つ。そのたった一拍で、体中に血液が駆け巡るみたいだ。その感覚は頬まで上がってきて、じんわりと熱を持つ。なんだか恥ずかしくてそっと片手で隠しながらも、滲むような喜びに顔が緩んでしまう。
 悟られまいと、涼は必死で誤魔化す。

「ふは、猫なぁ。初めて言われたわ」
「そうなんすか?」
「うん。白くまと猫かぁ……小説とか漫画でもねぇと、出逢わなそうな組み合わせだな」

 そう言いながら立ち上がると、倣うように少年も続く。本をしっかりと抱えこむ姿を、横目に眩く眺める。物語を描くように、涼の心は静かに躍りはじめる。
 猫と北極に生息する白くまは、自然界で出逢うことはまずない。動物園や水族館の中でだって、対面することはないだろう。
 けれど自分たちは、こうして出逢った。気に入りの漫画や高校くらいしか共通点はないが、この出逢いを大事にしてみたいと考えてしまう。
 少年が探し求めた漫画雑誌が、奇跡的にどこかのコンビニに残っていたなら。三毛音書店に駆けこんでこなかったら。そうだとしたって、涼が勇気をふり絞れなければ――
 今日起きたことがひとつでも欠けたら、きっとなかった。もしかすると白くまと猫と同じくらい、奇跡的な出逢いかもしれないから。


「あ、あの!」
「ん?」
「えっと、名前、聞いてもいいですか?」

 それならまずは、と問おうとしたものが、先に涼へ向けられる。どこか悔しくて、それでいてあたたかい心地に、涼はまた何度目かの笑顔を零した。

「涼だよ。猫田涼」
「猫田さん? うわ、イメージにバッチリですね。猫田涼、さん……うん、覚えました」
「白くまくんは? 名前、なんていうの」
「俺っすか? 俺は――」

 公園の出口へと歩く涼を追ってくる少年に、涼も問い返す。
 軽やかな足が公園の砂を擦る音が、やけに耳の奥まで響く、不思議な夜だ。

熊崎(くまさき)大地(だいち)っす!」
「熊崎? そっちこそバッチリじゃん」
「あは、絶対言われると思いました!」
「やっぱり?」
「皆にはクマって呼ばれてるんで、猫田さんもよかったら」
「あー、オレも? マジで?」
「はい。是非」
「……ん。わかった」

 あだ名で呼ぶなんて、不用意に距離を詰めるようでいけない。確かに理性と本望がせめぎ合ったのに、判断力が鈍ってしまったのかもしれない。今日で終わりじゃない出逢いが、次があるさようならがもういつぶりかも分からなくて。涼はつい頷いてしまった。


 公園を出て、「それじゃあ。オレこっちだから」と涼は少年――大地へ手を振った。また、と振り返してくれた大地が、けれどすぐに涼を引き留める。

「猫田さん!」
「んー?」

 涼の元へと駆け寄りながら、がさごそとバッグを探り始める。取り出されたのは、棒つきのキャンディーだ。見慣れたパッケージは、涼自身もよく購入するものだった。

「もらいものなんすけど。よかったらどうぞ」
「いいのか?」
「はい」
「じゃあ、ありがたく」

 恐らく、雑誌をもらったことを、まだどこか申し訳なく思っているのだろう。その感覚は正直なところ、涼にだって理解できる。それならば、受け取ることで少しでも大地の心を軽くしてあげたい。
 お前ほんといいヤツだな。そう言って、さっそくキャンディーの包装を剥がし口に含む。

「ウィンウィンだったのに、ウィンウィンウィンになったな」

 指で大地と自分を示しながら、得をしてしまったと涼は肩をすくめる。けれど大地は、目をきょとんと丸くして見せた。
 大きくて逞しい体に、幼い表情が華やぐ。

「まだ全然、俺のが得してますよ」
「そんなことねぇだろ。オレ、この飴もともと好きだし」
「それでも俺が百、勝ってるんで」
「百?」
「まあ猫田さんが喜んでくれたなら、九十九.五くらいにはなったかもっすけど」
「……ふ、あは! お前面白いな!」

 こんな風に笑いが弾けることこそ、いつぶりだろうか。三百円ちょっとの雑誌で百も得したと思ってくれたならなによりで、そうやって喜ばれることで涼こそもっともっと満たされているというのに。
 大地の見せる愛嬌が、涼の奥深くで強張っている心に、ひと筋の光を射すかのようだ。
 それに促されるように、涼は大地をひらひらと手招いた。どうしたのかと不思議そうに、大地は首を傾げる。いいからこっちとひと言添えれば、内緒話を受け取るように大きな背が曲げられた。
 一年生のようだから、二十二歳の涼の六つ下の少年。歳がこのくらい離れると、かわいく感じてしまうものなのだろうか。心の赴くままに、大地の頭をぽんぽんと撫でる。

「……え?」
「ありがとな」
「…………」
「あれ? おーい、クマ?」

 いい子だと褒めるような感覚だった。けれど大地の動きがピシャリと止まってしまう。
 さすがに馴れ馴れしかっただろうか。遠慮の薄くなっている自分に驚き、後悔する。距離感を見誤ってしまったのかもしれない。
 腰を折り恐る恐る覗きこむと、大地は慌てたように視線を地面に逃がし、顔を手で覆ってしまった。

「うわ~……」
「え。もしかして照れてる?」
「……言わないで欲しかったっす」
「ごめんごめん。じゃあ取り消す」
「言ったことは消えないっす……」
「ふは、そうだな。でもなんで?」
「だって! この歳で撫でられるとかもう無いし!」

 大地と出逢ってからのほんの少しの時間で、自分という人間が脱皮したかのように変わっているのを自覚している。だが本当は、この少年に自分はどう映っているのだろうと気が気じゃない。近づきすぎるな、傷つくことになる――危険を知らせるシグナルも、本当は鳴りっぱなしだ。
 戸惑うけれど、怖いけれど。このまま嫌われなかったらいいのに。
 そんなことを願っても、人の心なんて他人にはもちろん、当の本人にだって容易く分かるものでもない。涼が現在進行形で、自身に驚いているように。
 けれど願わくば、この少年にとっても今日という日が、少なくとも悪い日じゃなければいい。そう思える理由にほんの一ミリでも自分がなれたら、それは正直最高だ。
 おずおずと上がった大地の顔は、月明りと外灯の下では色までは分からない。だが不快ではなさそうに見受けられ、ほっと胸をなでおろす。

「でもほんと、ありがとな」
「いえ、俺のほうこそありがとうございます」
「ふ、キリがないな」
「そうっすね」

 なにやってんだろうなと笑い、じゃあ本当に帰るわと改めて手を振る。
 じゃあまた今度、はいまた、と言い合える。胸のあたりが甘く冷たく鳴った。
 

「次は再来週か」

 しばらく歩いて振り返った先、まだ大地の背中が見えてぽつり呟く。
 深入りは警戒を――分かっている。だけど優しくしたい、その本音こそよく知っている。
 ちぐはぐな心は、今日は後者に軍配が上がる。帰りに寄ったコンビニで、気分のいい涼は缶ビールを一本購入した。