宣言通り、瀬名は昼休みになると屋上へ来るようになった。
まだまだ入学したばかりの五月、クラスメイトと交流を深めなくていいのだろうか。心配だが、本人がそうするのだから仕方ない。桃輔自身も「またか」なんて顔をしていられたのも最初だけで、瀬名と過ごす時間は正直悪くなかった。
音楽の趣味が合うのはやはり大きい。瀬名の気に入りの曲の中には、まだ知らないものもあった。世界が広がるのは心が躍る感覚になって、どうにも抗えない。
「水沢はほんと詳しいんだな」
「サブスク様様っす。笹原先輩はミディアムテンポの曲が好きなんすか?」
「あー、だな。色々聴くけど、特にそういうのが好きかも。歌詞も切なくて、ブルージーなのが好き」
「ブルージー?」
「物悲しいとか、切ないとかそんな感じ」
スマートフォンで流す平成のジェイポップをBGMに、弁当を食べながら音楽の話をする。それがふたりの昼休みの定番になりつつある。
「あ、そうだ。今日は先輩にお願いがあって」
「なんだ?」
先に弁当を食べ終えた瀬名が、ブレザーのポケットからスマートフォンを取り出した。
「連絡先、教えてほしいです」
「あー……」
たしかに交換していなかったな、と言われてから思い至った。毎日顔を合わせているのに。そんなことを考えていると、瀬名が不安そうに眉尻を下げた。断られると思ったのだろうか。
「もしかして……ダメっすか?」
「そんな顔すんなって。いいよ全然。LINEでいい?」
「マジっすか、やった」
桃輔もスマートフォンを手に取って、メッセージアプリをタップする。すぐに専用の画面を表示したのだが、瀬名のほうがなにか手間取っているようだ。
「どうした?」
「あー……ちょっとアイコン変なのにしちゃってたの忘れてて」
「変なのって?」
「ほんと見せられないヤツです、今変えます」
そんなの別に気にしなくていいのに。現に今の今まで、そのアイコンで過ごしていただろうに。自分にだけ隠されているみたいで、なんだか面白くない。
「別にいいじゃん。なあ、見たい」
「わ、ダメですってば!」
覗いてやろうと手を伸ばしてみると、瀬名は背が高いのを利用してスマートフォンを高い位置に掲げた。ますます面白くない。ついには立ち上がろうとした桃輔だったが、アイコンの変更はタッチの差で完了してしまったようだ。
「よし、オッケーです」
「うーわ、つまんねー……」
くちびるを尖らせつつ、IDの交換を行う。新しく変えたらしい瀬名のアイコンは、猫のイラストだった。元のアイコンはやはり気になるが、もうひとつの共通点を見つけられたかもしれない。
「水沢って、もしかして猫好き? 俺も好きでさ、アイコン猫にしてる」
手元を覗くと、言うより先に桃輔のアイコンをタップして見つめていたようだ。そこに写っているのは、昨年撮ったキジトラの仔猫。もうずっと変えないままでいる。
「かわいいだろ? 昨年、ここの近くの公園にいた子でさ。しばらくご飯あげたりしてたんだけどなー……急にいなくなった。どっかで元気にしてるといいんだけど」
「……元気にしてますよ、きっと」
「ん、だよな。俺もそう信じてる」
妙に真剣な表情で、アイコンを見つめたまま瀬名はそう言った。どうしたのだろう、そんなにこの猫が気に入ったのだろうか。
「そんなに猫好きなのか? この子の写真、まだあるけど送る?」
「いいんすか? 欲しいです」
「はは、めっちゃ好きじゃん。家で飼ってたりする?」
「飼ってますよ。家族みんな猫好きで」
「マジか、いいな。俺も飼いたいけど、父親がアレルギーでさ……はい、送った。なあ、水沢んちの猫の写真も見たい」
「えっ」
「ん?」
「あー、写真はー……ないんすよね」
「いや絶対嘘だろ」
猫好きだという新たな共通点が見つかって、柄にもなくテンションが上がっていたのだが。瀬名はなぜか見え透いた嘘をついた。猫が好きで飼ってもいるのに、写真を撮らないなんてことがあるだろうか。自分なら絶対に、毎日大量に撮ってしまうけど。
訝しみながら顔を覗きこむと、瀬名はなんだか苦しそうな表情でそっぽを向いた。
「なんだよー、なんか隠してる?」
「う……なんでもないっす。写真はない、っす」
「嘘下手くそか」
ため息を吐いたところで、昼休みの終わりを報せるチャイムが鳴った。
「もう行かなきゃっすね」
「あ、お前逃げるつもりだろ」
これ幸いと立ち上がった瀬名は、おかしそうに笑いながら肩を竦めた。そんな些細な仕草さえなぜか様になる、不思議なヤツだ。
「今日のところは諦めてやるけど、いつか猫の写真見せろよな」
「はい、その時が来たら必ず」
「やっぱあるんじゃん、写真」
「あ」
「ふ、変なヤツ」
“その時が来たら”だなんて妙な言い方だな、と思いつつ約束をする。屋上からの階段を下りたところで、じゃあなと手を振って別れた。
翌日。今日も昼休みになると瀬名がやって来た。
「まーた来たな」
「来ますよ、もちろん」
いつものように音楽を聴いて、他愛もない話をする。階段下の窓を開けたらいい風が入ってきた。流れてくるメロディに合わせてつい口遊んだら、瀬名がじいっと見てくるものだから少し恥ずかしかった。
昼休み終了のチャイムが鳴り、階段を下りる。「ちゃんと授業出ろよ」なんてたまには先輩ぶってみたら、瀬名はどこかいたずらっぽい笑顔を覗かせた。手に持っていた教科書をひらひらと振ってみせる。
「この後音楽なんすよね」
「へえ、そっか。音楽室?」
「っす。なんで、途中まで一緒にいいすか」
「おう。てか、いいも悪いもねえだろ。方向同じなんだし」
音楽室は今いる場所の隣の棟にある。ここからだと、三年の教室の廊下を通るのが早い。
考えてみれば、瀬名と一緒に歩くのは初めてだ。ほんの少しの距離でも、不思議な心地がする。
「先輩は次の授業なんすか?」
「んー、英語じゃね? 多分」
「はは、多分」
三年の教室が並ぶちょうど真ん中あたりに、音楽室へと続く渡り廊下はある。あと数歩でそこへ到達するというところで、桃輔は床を擦るように歩いていた足を止めた。急に立ち止まったものだから、隣を歩いていた瀬名が二歩ほど先でこちらを振り返る。そのすき間を大きな一歩で埋めて、背を屈めて桃輔の顔を覗きこんできた。
「先輩? どしたの?」
「…………」
「おーい、笹原先輩?」
オレのこと見えてる? と言いながら、目の前で瀬名が手を振ってくる。見えている、見えているのだけれど、なんと答えればいいか分からないのだ。
廊下の先に桜輔がいる。桜輔のクラス、二組の前だ。そちらに背を向けている瀬名は、まだ気づいていないようだ。すぐそこに、真の一目惚れの相手がいることに。
「あー、あのさ」
「っ、先輩?」
桃輔は思わず、瀬名の両腕を掴んだ。肩をぴくりと跳ねさせた瀬名が、丸くした目で見つめてくる。
瀬名が桜輔の存在を知ったら、憧れの相手はあっちだと気づいたら。昼休みになってももう、自分の元には通ってこないだろう。だって意味がない。いくら顔の作りが同じでも、双子の弟になんて用はないはずだ。
それを考えると、胸のところがきゅうと痛むような感覚がする。
別に寂しいわけじゃない。そうだ、そんなんじゃない。ただ、そう、面白くないだけだ。
突然現れて、大事なことに気づかず人違いをしたままで、散々振り回されたのに。それじゃあさよならとあっけなく去られるのは、そう、面白くないだけ。付き合ってやった対価にもう少しくらい騙したって、きっと赦されるはずだ。
「あのさ、水沢ってなんか部活やってんだっけ」
「入ってないっす」
「そっか」
桜輔は弓道部に入っているが、部活での接点はなし。あの人望の割に生徒会にも所属していないから、全校生徒の前に立つこともない。しばらくは桜輔の存在を知らないままでいられるだろう。
ひとり考えこんでいると、またチャイムが鳴った。五時間目の五分前を報せている。
「先輩、オレそろそろ行きますね」
「あ、うん」
渡り廊下のほうへと瀬名が歩き出す。そのまま見送るつもりだったが、背中に向かってつい叫ぶ。半ば無意識だった。
「……瀬名!」
「え……先輩、今オレの名前……」
弾かれたように瀬名が振り返る。
なぜだろう、今そう呼んでみたくなった。瀬名の意識をしっかりと、自分に向けさせたかったのかもしれない。
「なんだよ、嫌だった?」
「っ、嫌なわけない、すげー嬉しい」
瀬名は大きな手で口元を覆って、廊下へと視線を逃がしている。かわいいところあるじゃん、なんて思う自分に桃輔は静かに驚く。からかいたくなって、瀬名へと一歩近づく。
「別にお前も呼んでくれていいけど。俺のこと、名字じゃなくて、名前で」
名字でも問題はないけれど、笹原なのは桜輔だってそうだ。名前のほうが、自分だけを呼んでくれてる気がしていい。とは言え、言った後から居心地が悪くなってきた。だってこんなの、甘えているみたいではないか? 「別にいいけど」なんて言い方が、ツンデレのテンプレみたいでこっぱずかしい。時間を巻き戻せるならぜひやり直したい。徐々に消え入りそうな声になってしまった。だが瀬名は、それを丁寧に拾ってくれる。
「……マジすか」
「……まあ、うん」
「じゃあ……桃輔先輩?」
「……モモでもいいよ。ダチとかもそう呼ぶし。まあ、お前の好きなほうで」
「うわー、嬉しいっす。じゃあ……モモ先輩、って呼びます」
「ん、わかった」
「やば、嬉しい。えっと、じゃあ、遅れるんで。本当に行きます」
「おう、また明日な」
「はい。あ、LINEするかもなんで、また後でって言ってほしいっす」
「ふはっ。はいはい、また後でな」
何度も振り返る瀬名に、桃輔もその度に手を振る。つい顔が緩んでしまうのが分かって、誤魔化すみたいに片手をポケットに突っこんだ。
部活にも委員会にも所属していないから、後輩との交流そのものが初めてだ。だから真新しい経験に、胸が浮ついているだけ。鼓動がはやくなっている理由は、ただそれだけだ。
「モモ」
感情のありかを確認していると、突然後ろから声をかけられた。桃輔は振り返るのと同時に、一歩後ろへと距離を取る。
学校では必要以上に話しかけるなと言ってあるのに。はいはい、と軽く了承したくせに、そんな約束は知らないと言わんばかりに澄ました顔で立っている。
双子の兄・桜輔は、そういう男だった。
「桜輔……なんか用かよ」
「さっきの一年生? 仲良さそうだったね」
「……はあ」
ため息を吐き、桃輔は渡り廊下のほうをもう一度見やる。瀬名の姿はすでにない。桜輔を見られずに済んだようだ。安堵の息を音もなく吐く。
とは言え桜輔にだって、瀬名の存在を知られたくはなかった。そもそも、仲がいい兄弟ではない。幼少期の頃こそいつでも一緒に遊んでいたが、徐々に生じた能力の差に劣等感ばかりを覚え、桜輔とは距離を置くようになった。友人や後輩のことまで、逐一話すはずがないのだ。
「桜輔に関係ないだろ、ほっとけよ」
「そんなに冷たくしなくても。なあモモ、俺はモモと……」
「もう教室入んなきゃやべえぞ」
「…………」
桜輔の言葉を遮る。だが分かっている、桜輔がなにを言いかけたのか。子どもの頃のような関係に戻りたいのだろう。こちらにそんな気は更々ないのに。
返事も待たずに教室のほうへと歩き出し、だがもうひと言、と思い立ち振り返る。
「桜輔」
「なに?」
桜輔はまだ元の場所に立っていた。名前を呼んだだけなのに、嬉しそうに一音あがったトーンにむしゃくしゃする。
「あのさ、さっきのヤツに話しかけたりすんなよ」
「どうして?」
「どうしてもだよ」
瀬名に関わるなよと釘を刺す。瀬名の目に映らないようにしても、桜輔のほうからアクションを取られたら終わりだからだ。
「……そう。分かった」
先ほどとは打って変わって、声色が下がったのがよく分かる。それもまた、無性にイライラしてしまう。伏せられた目をなんだか見ていられなくて、逃げるように自分の教室へと入った。
その夜。
夕飯も風呂も手短に済ませ、冷蔵庫に常備されているアイスティーを大きめのグラスに注ぐ。部屋に籠って思う存分ギターに触れるための準備だ。そこに桜輔が帰ってきた。時計を見ると、十九時半過ぎ。帰宅部でたまにバイトをしている桃輔はもっと遅い日もあるが、部活をしている桜輔の帰宅は大体この時間だ。
「オウくんおかえり」
「ただいま」
「ほら、モモくんもちゃんとおかえりって言いなさい」
「はいはいおかえりー」
母の出迎えに笑顔を返す桜輔の隣をすり抜け、階段を上がる。上手くやれば顔を合わせずに済むのだが、今日はのんびりしすぎたようだ。
グラスを呷りながら二階の自室に入り、どかりと床に腰を下ろす。親のことは嫌いじゃないが、やはり比べられている感覚は拭えない。
“モモくんももうちょっとしっかりしなさい、オウくんみたいに”
どんな言葉の裏からも、そんな本音が響いてくるようだった。
「はあ……」
大きく息を吐いて、気を取り直すために首を振る。ギターを持つと、不思議と心が落ち着く。適当なコードを鳴らして、合わせて口遊む。
ギターを購入した高一の桃輔が次にしたことは、できる限りの防音を自室に施すことだった。テープにシート、カーテン――バイト代が入る度に部屋を作り変えていった。お金に余裕がある時はカラオケボックスで練習することもあるが、自室でも気兼ねなく弾けるようにしておきたかった。
少しも音を漏らさないなんてことは無理でも、音楽のためのそれは桃輔の心も守ってくれる壁になった。
スマートフォンを小さな三脚に取りつけ、目の前に置く。レンズの先は手元で、顔が映りこまないように入念にチェックする。今日撮影するのは、男性四人組バンドが唄う失恋ソングだ。いつも心を惹かれるのは、切ない心情を奏でる歌だった。失ったものを憂いて、嘆いて。失恋はおろか恋をしたこともないけれど、鬱屈としてばかりの胸にたしかに共鳴する響きがある。
録画を開始し、練習した通りにギターを弾く。唄うのは気持ちがいい。唄う世界は物語で、この瞬間だけは桃輔は“僕”であり“俺”で、時には“私”だったりで。約五分ほどの間は、誰と天秤にかけられることもなく主人公だ。
思った通りに唄えているか、顔は映りこんでいないか。確認しては、三度唄い直した。納得がいったら、文字入れだとかの編集は一切せず、曲名とアーティスト名をキャプションに明記しインスタに投稿する。すると間もなく、コメントがふたつ送られてきた。
「はは、早いな」
送ってくれたのはよくメッセージのやり取りもするアンミツと、毎回必ずコメントをくれるcherryというアカウントだ。cherry自身は写真の投稿すら一切ない。フォローもフォロワーも、momoひとりだけ。最初こそ怪しむ思いもあったが、今ではアンミツと同じく音楽を続けるうえでの心の支えになっている。
「ありがたいよな、ほんと」
ひとしきり噛みしめてから、ふたりへどう返信するか考える。歌を唄う自分なら、現実に戻ってもこうして誰かと繋がっていられる。そう思える貴重な時間だった。
雨が降ってばかりのこの季節を、多くの人はうんざり顔で早く終わってくれと願うようだけれど。桃輔は結構好きだったりする。雨音に覚える憂いや切なさは、ブルージーな音楽を口遊む時のようで。制服の裾が濡れて煩わしくても、まあいいか、と許せてしまうのだ。
「あーあ、俺サッカーしたかったんだけどなー。まあバレーも楽しかったけど」
「俺もー。でもまあ、この雨じゃあな。モモはどっちがよかった?」
「俺はどっちでも」
サッカーの予定だった四限目の体育は、この天気によって体育館でのバレーボールに変更された。森本と尾方の不服そうな声に、適当に相槌を打つ。スポーツはそもそも好きではないから、サッカーだろうがバレーだろうが、どちらでも構わない。
体育館から教室まで、クラスメイトの列がだらだらと続く。その最後列にいた桃輔は、クラスメイトたちのほぼ全員が扉前をちらりと見てから教室に入っていることに気がついた。女子たちからは心なしか、黄色い声が上がっているような。
なんだ? と浮かんだ疑問はすぐに解消された。そこにはよく知った男の姿があった。
「は……? 瀬名!?」
「あ、モモ先輩いた」
「いた、じゃねえよ。お前、こんなとこでなにやってんの」
「四時間目の移動教室、こっちの方だったんで。弁当持ってって、そのままこっち寄ったんすけど。え、なんかダメでした?」
そう言いながら瀬名は、化学の教科書と弁当を掲げてみせた。
なるほど、と頷くことはできる。屋上前で昼休みを過ごすことを考えれば、化学室から一年の教室に戻るのは手間だ。慌ててしまうのは、隣のクラスの桜輔に気づいてしまうのではと恐れる、自分の勝手に他ならないのだけれど。
できれば来ないでほしかった。とりあえず今は、桜輔と出くわさないようにすることが先決だ。ため息をひとつ吐きつつ、瀬名の腕を取る。腰を屈めた瀬名に「こっち来い」と囁いて、教室の中へと入る。
「あれ。どしたんモモ、後輩? 連れこんで」
「森本、連れこむとか言うのやめろ。コイツは最近一緒に昼……」
「えー笹原、その子誰? めっちゃイケメンじゃん」
「ほんとだー。ねえねえキミ、モテるでしょ?」
着替える間だけ中にいてもらって、すぐに出ようと思っていたのに。森本に説明をしようとしたのも束の間、瀬名と一緒に女子たちから囲まれてしまった。イケメンとなると、女子の行動はどうにも早いらしい。
「あーもう! お前らうるせえ! ちょっと静かにしろ! 瀬名、こっち」
一喝して、瀬名の腕を掴み直して自分の机へと向かう。窓側の前から3番目の席だ。手早く着替えを済ませ、弁当とスマートフォンを引っ掴む。未だ女子たちの興味は瀬名に向けられているようだが、そんなの知ったことではない。瀬名の背を押して入り口へと向かいながら、尾方の肩をポンと叩く。
「じゃ、後は頼んだ」
「は?」
「アイツらに掴まったら絶対長ぇもん。コイツは一年、そりゃこの顔だしかなりモテんだろうな。以上」
そう言い残して、さっさと教室を出た。ああ、名前も教えるべきだったのだろうか。もう間に合わないけれど。
背中にぶつかってくる女子たちの抗議にこっそり舌を出せば、隣を歩く瀬名がおかしそうに笑った。
屋上に到着して、いつものように並んで座って。弁当を広げようとしたところで、桃輔はジトリとした目を瀬名に向けた。先ほどからずっと、にやけた瞳に映されているからだ。睨むように見上げてもなお、瀬名はその腑抜けた顔を戻そうともしない。
「おい瀬名。その顔はなんなんだよ、さっきから」
「えー、だって嬉しくて」
「嬉しい? なにが」
「モモ先輩、少なくともオレの顔は嫌いじゃないのかなって」
「はあ?」
「だってさっき、『この顔だしモテんだろうな』って。誉め言葉ですよね?」
「お前なあ……」
思わず出る盛大なため息を、隠そうとも思わなかった。
桜輔の存在に瀬名が気づいてしまうかも。そうじゃなくたって、一年生が三年の教室の階へ来るのは注目される。瀬名のように人を惹きつける容姿をしていれば、尚更。そうやって気を揉んでいたというのに、当の本人の頭の中は、ずいぶんとお花畑のようだ。
尖るくちびるを自覚しながら、桃輔は口を開く。
「瀬名、お前もう俺の教室には来んな」
「え、なんで?」
「なんで、って……さっきので分かっただろ、ちょっと騒ぎになったじゃん」
「たまには迎えに行くのもいいなって思ったのに」
「それでもだーめ。ここに来れば会えんだからいいだろ?」
「そう、っすけどぉ……」
ついさっきまでのにこやかな顔が嘘のように、眉も首もしょんぼりと下がってしまった。その大きな背には、だらんと垂れたしっぽも見える気がしてくる。
間違ったことを言ってはいないつもりでも、こんな様子を見せられると胸は痛むというもので。どうにか元気づけたくなって、自ずと手が伸びた。出逢った四月の頃より少し伸びた黒い髪に触れ、ぽんぽんと撫でる。
「そんな凹む? んー……でも頼む、ここで待ち合わせだと助かる。な?」
うなだれたままなのが心配で、腰を屈めて顔を覗きこむ。
「うーわ、ずるい……そんなんされたらもうヤダって言えないじゃないっすかあ……分かりました、もう教室にはいかないっす」
「そんなんってなんだよ。でもありがとな、助かる」
ちょっとだけ、本当に少しだが、瀬名をかわいいと思ってしまう自分に桃輔は気づく。弟がいたらこんな感じなのだろうか。素直で明るくて、柔らかな雰囲気で接してきて。見た目だけではなくその人となりも、水沢瀬名という男はまぶしい。
「じゃあ飯食うか」
「はい」
いつものように控えめなボリュームで音楽を流して。たまごやきをひとつ頬張り、ちらりと横目で瀬名を見やる。
「でもマジでさ、お前モテるだろ」
「まだその話っすか? 別にそうでもないっすよ」
「だって俺、何回も見たことあるし。女子がお前にべったりしてるとこ」
「え……」
校内で瀬名を見かけることはたまにある。ひと学年10クラスはあり、大勢の生徒がこのひとつの学校にいるわけだが。瀬名の姿は不思議と目に入ってくる。友人たちと話している瀬名の隣にはほぼいつも、瀬名の腕にくっついている女子がいる。毎回同じ子だ。恋なんてしたことがなく他人の恋愛事情にも鈍感な桃輔にだって、好きなんだなあと分かる。あの子以外にも瀬名に惚れている子は、絶対にいるだろう。
「なあ、前から思ってたんだけどさ、こんなとこ来てていいのか?」
「……え?」
「瀬名の友だちもお前と昼飯食べたりしたいだろうし。あの女子もさ。てか付き合ったりはしねえの?」
「…………」
なにか気に障ってしまったのだろうか。瀬名は返事をせず、食べかけの弁当をそっと床に置いた。かと思えばぐっと顔を寄せられて、思わず後ずさる。だが下がった分だけまた瀬名も距離を詰めてきて。いよいよ桃輔の弁当も奪われ、瀬名のものの隣に置かれてしまった。ぐっと寄せられた眉間は初めて見た。
「……瀬名? どうし」
「付き合うわけないじゃないすか。オレの好きな人、知ってますよね?」
「あー……瀬名が言ってた一目惚れって、本当にそういう……?」
この状況で、知らないなんて言えるはずがない。見るからに怒っている瀬名の瞳に映っているのは今、自分だけだ。だが、まさか、という思いもある。瀬名の言う一目惚れは、同じ男としての憧れだと考えていた。
「そういう、って? 今までなんだと思ってたんすか?」
「それは……俺男だし、憧れとかそういうのかなって」
「憧れる気持ちももちろんありますよ、先輩かっこいいし。でも、本当に恋愛の意味で好きです。男同士だと変ですか? オレ、信じてもらえない?」
「瀬名……」
切実な想いがまっすぐにぶつかってくる。こんな風に言われては、さすがに理解できる。
そうか、瀬名はずっと恋をしているのか。――桜輔に。
今までだって良心が痛まないわけではなかったが、隠し続けるのはこの辺りで限界かもしれない。瀬名との時間は思いのほか楽しかったから、名残惜しくはあるけれど。解放してあげることが、この懐っこい後輩に自分ができる唯一のことのように思える。
「なあ瀬名、俺お前に言わなきゃいけない……」
「ねえ先輩、手、繋いでもいい?」
「っ、はあ? いいわけないだろ! てか話聞け、俺は……」
「モモ先輩、オレが先輩のこと真剣に好きだって、ちゃんと知っててほしいんです。ちゃんとアピールしないと、本当に伝わらないみたいなんで」
「瀬名……でもそういうのは、付き合ってるヤツらがすることだし。それからほら、弁当! 弁当まだ途中だし!」
「ああ、そう言えば。じゃあオレがあーんします」
「いやなんでそうなるんだよ!」
真実を告げようとする度になぜかタイミング悪く遮られ、瀬名の向こうに置かれていた弁当を奪われてしまった。
「はい、先輩どうぞ」
「……マジで?」
「うん。食べてほしい」
「マジか。うう……あー……」
差し出されるおかずをどうにか食べ終えると、瀬名は自分の弁当をすばやく平らげた。それから改めてこちらを向いたかと思えば、先ほどの言葉をくり返す。
「手、繋ぎたいです」
「だからそれは……」
「弁当なら食べ終わりましたよ」
「それはそうだけど!」
「……だめ、っすか? どうしても?」
「……っ、お前こそそういう顔、すげーずるいからな」
瀬名が悲しそうな顔をするのが、どうにも耐えられない。そうなると、手くらい繋いでやってもいいのでは、なんて思えてくる。戸惑う心は確かにあるのに、瀬名の願いを優先してしまうのはなぜなのだろうか。桃輔はくしゃりと自分の髪を握りこんでから、手を差し出した。
「ちょっとだけ、だからな」
「え……いいんすか?」
「お前が言ったんだろ。ほら、早くしろ」
「はは、やった」
嬉しそうに顔を綻ばせた瀬名は、自身の手を持ち上げてかみしめるように一度ぎゅっと握りこんだ。それからそっと手を重ねてきて、下くちびるをきゅっと引きこんでみせる。ああ、本当に恋をしているんだな。そう思わせられるのに充分な仕草を、こんなに間近で見てしまった。
なぜだろうか。桃輔の胸は、生まれて初めての音を立てる。冷たいような、痛いような。きゅう、と軋む感覚は、けれど不思議と嫌ではなくて。なにより、瀬名が本当に嬉しそうに笑うから。この笑顔をもう少し見ていたくなった。
「本当に好き、なんだな」
「そうっすよ。ちゃんと実感してくださいね」
「……ん」
ふたりで壁に背を預けて座ると、肩がトンとぶつかった。けれど離れることはなく、手も繋がれたままで。瀬名に恋をしているあの女子には返らない手がそうしているのだと思うと、また胸が鳴る感覚がやってくる。
「なあ、瀬名」
「んー? なんすか?」
笑みを含んだ声で返事をした瀬名が、今度は頭をコツンと凭れかけてくる。
ああ、どうしたものか。瀬名の言葉も、笑顔も体温も、本当は自分に向けられたものではないのに。手放してしまうのが惜しくなっている。
本当のことを知ったら、桜輔と比べられてしまったら、きっと友だちにすらなれない。同じ顔でなにもかもが優れた桜輔がそばにいたら、自分なんて用済みに決まっている。だったらもう少し嘘をついたまま、このままでいたいと思ってしまう。弟のように感じている瀬名と、もうしばらく一緒に過ごしてみたい。
「先輩?」
もう少ししたら、ちゃんとするから。瀬名が想いを届けたい先に、瀬名の心を返すから。
いいよ、なんて言ってくれるはずもないと分かっているから、心の中だけで懺悔するように呟く。
「あー、いや。なんでもない」
「はは、なんすかそれ」
外はまだ雨が降っていて、ブルージーな曲がBGMのように流れていて。憂いた色はやっぱり自分に合っている。
頭をすり寄せてくる瀬名を受け入れながら、桃輔もそっと凭れかかった。
梅雨が明けると、すぐに茹だるような夏になった。肌に差す日射しはもはや、暑いというより痛いと表現したほうが的確だ。
夏休みも目前の、七月の夜。バイトを終えて帰宅して、すぐに風呂に入った。夕飯を食べ終え冷凍庫を開いたら、そこにはアイスがあった。ちょうどさっぱりしたものを食べたいところだったから、ソーダの氷菓はちょうどいい。
「お母さん、このアイス食っていいヤツ?」
「それは確か、オウくんが先週買ってきたものじゃない?」
「あー。じゃあいいや」
「食べちゃっていいよ」
なんだ、桜輔のか。がっかりしつつ冷凍庫に戻しかけたところで、風呂上がりの桜輔がリビングにやって来た。バスタオルで髪を拭き、もう片手ではスマートフォンをいじっている。
「いや、要らねえ」
「いいって。俺は今日食べるつもりなかったし、また買えばいいし。食べたかったんでしょ?」
「……じゃあ、もらう」
そこまで言われては、頑なに拒否するほうが幼稚な気がしてくる。桜輔に借りを作るようで癪ではあったが、ありがたくもらうことにした。
アイスを齧りつつ、リビングのソファに腰を下ろす。音楽アプリを起動し、ヘッドホンを装着する。再生するのは今夜も、平成のジェイポップだ。次はどの曲を弾き語りするか、ここ数日ずっと探している。気に入りのバンド、シンガーソングライター、アイドル、ロックやポップと幅広く聴いているのだが。最近はなぜだか、軽快なメロディーに心が惹かれている。未来への希望を叫ぶ歌や、恋心を甘く唄い上げるラブソングなどだ。桃輔にとって、それは珍しいことだった。
その変化に戸惑っている、というのが正直なところだ。耳に留まる音楽たちに、お前の心は今浮かれている、と言われているようで。
理由があるとするなら、瀬名と出逢ったことだろう。それ以外に変わったことなんてなにもないのだから。とは言え、瀬名が事実を知るまでの関係にすぎない。分かっているのにそれでもなお、瀬名と過ごす時間を楽しいと思っている。虚しさと罪悪感だって持っている。だがそれと同じくらい、音楽の好みに影響するほど浮かれている、ということだ。
本当のことは必ず伝えるから。それまでの間くらい、そんな心に正直になってみたい。後輩に懐かれるなんて本来、自分にはあるはずのないものだから。
「ふー……」
気を取り直すように息を吐いて、インスタを開く。投稿できる新たな弾き語り動画はないが、更新したい気分だ。とは言え、何かしらの画像か動画がないとアップできない仕組みのSNSだ。写真フォルダをスクロールしても目ぼしいものはなく、これでいいかとひとくち齧ったアイスを撮影する。
<最近は次に弾く曲を探してる。今までとは違った曲調のになりそう。いいのがたくさんあって迷う>
キャプションにそう書いて投稿すると、ほんの数分でアンミツからコメントが届いた。
<次も楽しみです! 最近は前回投稿の曲を毎日聴いています。momoさんはオリジナル曲を作ったりはしないんですか?>
「オリジナルなあ……」
アンミツからの一文にある単語を、桃輔はぼそりと読み上げる。
ギターを買って、コードを少しずつ覚えていって。オリジナル楽曲を作成することに、興味が湧かないわけではない。だがその一歩は踏み出せずにいる。音楽にしたいほどのなにか強い感情が、自分の中に見つからなかった。
<アンミツさんいつもありがとうございます。オリジナルは今のところ考えていないですね>
返信を終えたところで、ヘッドホンから流れていた一曲が終わった。プレイリストを変えようと一時停止を押せば、桜輔と母の会話が耳に届く。
「そうだ。お母さん、明日のお弁当のおかずってなに?」
「お弁当のおかず? 珍しいこと聞くわね」
「ちょっと気になって」
「明日はねー、唐揚げがメインかな」
「ほんと? やった。俺の好きなヤツ」
「ふふ、そうね」
無邪気な桜輔に、母も気分がよさそうだ。それにしたって、妙なことを聞くものだなと母に同意する。そんなことを尋ねているのは初めて聞いた。
満足げな桜輔はまたスマートフォンを操作しながら立ち上がり、こちらへと向かってきた。自室に逃げたいところだが、アイスを貰った手前あまり邪険にもできない。
「なに。なんか用?」
「いや、特には。えーっと、アイス美味しい?」
「……まあ。これ、明日買って返す」
「え? いいよ、気にしなくて」
「そういうんじゃねえよ。借り作りたくないだけ。俺も食いたいのあるから、そのついで」
「ふ、そっか。ありがとう」
桃輔の頭の上に手を翳し、だがバツが悪そうにその手は引っこめられた。眉尻を下げて淡く笑いながら、桜輔は階段のほうへと歩き出す。誰へというわけでもない桜輔の「おやすみ」に母が返事をし、桃輔は体から力を抜くように息を吐いた。
そろそろ自分も自室に向かおうか。食べ終わったアイスの棒を袋に戻し、立ち上がりかけた時。スマートフォンの通知が鳴ったので、再び腰を下ろす。
確認すると、先ほど投稿した写真へのコメントが新たに来た通知だった。cherryからだ。
<合う曲が見つかるといいですね。投稿楽しみにしています>
アンミツに続き、cherryも相変わらずリアクションが早い。
<cherryさんいつもありがとうございます。またよかったと言ってもらえるような演奏がしたいです>
返信をしてから、今度こそ自室へと引き上げる。黙ったままでいたら背中に母からの「おやすみ」がぶつかったので、小さな声で「おやすみ」と返した。
翌日。四時間目が終わったと同時に、桃輔は伸びをする。続いて弁当を取り出すと、隣の席の森本がニヤリとした顔をこちらに向けた。
「モモー、今日も瀬名くんと昼か?」
「だなー」
「ほんと仲良いな! モモが後輩と仲良くやってんの、マジ意外だわ」
「それな」
尾方もコンビニの袋片手にやって来て、森本に賛同する。
瀬名がこのクラスに突撃したあの日以来、ふたりはずっとこの調子だ。茶化されていると感じた当初こそ、正直腹が立ったのが。実際はそういうことではないのだと、すぐに分かってしまった。ふたりなりに気にかけてくれていたらしい、昼休みになると決まってひとりで教室を出ていく友人のことを。だから桃輔はこうしてしみじみとした顔をするふたりを、邪険にはできずにいる。
「俺昨日、放課後に瀬名くんと会ってさ。つい声かけちゃったわ」
「は、なんて?」
「うちのモモがお世話になってますーって」
「尾方お前……俺の親か」
「ちょっとそのつもり」
「いやなんでだよ」
「母ちゃんって呼んでいいぞ」
「じゃあ俺が父ちゃん?」
「ふ、そしたらお前ら夫婦じゃん」
冗談を交わしながら弁当を持って立ち上がる。瀬名くんによろしく、なんて言うから、はいはいと適当に答え後ろ手に手を振った。
屋上へと向かっていると、途中にある廊下の先に瀬名を見つけた。隣にはいつも瀬名にくっついている女子と、それからもうひとりの女子がいた。ふたりは弁当らしきものを手に持っていて、例の子が瀬名の腕を両手で掴み、甘えるように揺らしている。ここから一年の教室は近くない。追ってきてまで昼休みを一緒に過ごしたい、というところだろうか。瀬名は落ち着いた様子で、どうにか躱そうとしているように見える。
本当にモテるんだなあというか、あの年齢で人を傷つけない振る舞いを選べて大したものだなあというか。つい立ち止まって感心していると、ふともうひとりのほうの女子と目が合ってしまった。
「げ……」
口の中でつい、そんなひと言が零れた。瀬名の友人とはできるだけ顔を合わせたくはない。桜輔と双子だと知っている者がいてもおかしくないからだ。あの人、あの笹原桜輔の双子の弟だよね、なんて言われたら困る。
すぐに視線を逸らし、屋上のほうへと急ぐ。すると背後から、こちらに駆けてくる足音が聞こえてきた。慌ててこちらも走ろうと思った瞬間、腕を掴まれた。瀬名だ。
「モモ先輩!」
「うおっ。瀬名、どうし……」
瀬名はそのまま屋上へと向かう。足取りはどこか切羽詰まっていて、突然のことについていくのでやっとだ。どうやら瀬名は、顔がいいだけじゃなく足も速いらしい。
「瀬名~、どうしたんだよ。急に走るから、俺……」
体力のなさに情けないと思いつつ、少し上がった息を膝に手をついて整える。踊り場へ一歩先に到着した瀬名を見上げると、だが桃輔の言葉は尻すぼみになった。瀬名がどこか苦しそうな、拗ねたような顔をしていたからだ。
「え……なにどした。なんかあった?」
「…………」
「なんだよ、話くらい聞くけど?」
「別に……」
そんな顔を見せられると、瀬名といて芽生えたばかりの兄心、もしくは先輩心が疼きだす。自身も踊り場へのあと一歩を上がりきり、瀬名の手を引いて座るように促した。
「なに、モテてモテて困る―って話?」
「……どの口が言ってんすか」
「はあ~? どういう意味だよ」
「モテてんの、誰がなのか分かってるのかなって」
「…………? 誰がって、瀬名しかいないじゃん」
「本当にそう思います?」
「どう見たってそうだろ」
「さあ、どうだか」
いつも涼しげな瞳が、なにか言いたげにジトリと桃輔を映す。なにを考えているのか、さっぱり分からない。だがその頬が、薄らと膨らんでいて。大人びているようでいてちゃんと年下で、かわいらしいところがあるんだよな、なんて思わせる。なんだか無性に、頬をツンとつついてみたくなった。
「ちょ、先輩……」
「はは、ごめん、なんか触りたくなって」
「くっそ、人の気も知らないで……」
「まあ応える気はなくてもさ、モテて悪いことはないんじゃね?」
「……今はそういう問題じゃないんすよ」
「そうなん? 俺にはよく分かんねえけど……でも瀬名は偉いよな」
「…………? なにがっすか?」
「さっき女子たちと喋ってるの、遠目に見てたけどさ。昼飯誘われたんだろ?」
「……まあ」
「それ、優しく断ろうとしてるように見えたから。俺だったらはっきり言っちゃうから、偉いなって」
「……全然そんなことないです。断るのに正直必死だったし。できるだけ波風立てないようにしてるだけ」
「それを普通優しいって言うんじゃね?」
「ううん、他人に興味がないってことです。自分をいちばん大事にして逃げてきたんで。……協力なんて誰がするかよ」
「ん? ごめん、最後のとこ聞こえなかった。なに?」
「いや、なんでもないっす」
「そっか? じゃあ、とりあえず飯食うか」
「……ん、そうっすね」
昼飯を食いっぱぐれてしまうわけにはいかない。自分もだが、ここに毎日やって来る瀬名にはしっかり食べてほしい。桃輔なりに先輩として、そこのところはちゃんと責任をもっていたい、なんて思ったりもするのだ。
まだなにか言いたげな顔をしている気がするが、頷いてくれたことにほっと息をついた。
「そうだ、今日は先輩に渡したいものがあって」
「ん? なに?」
水筒をひとくち飲んだ瀬名が、気を取り直したようにそう言った。もういつもの表情に見える。それに安堵しながら尋ねると、弁当とは別のひと回り小さな容器を瀬名が取り出した。その蓋を開け、差し出される。
「これ、よかったら食べてください」
「わ、エビフライじゃん」
レタスの上にミニトマト、それからエビフライが三本。思わず感嘆の声が出た。
なにを隠そう、エビフライは桃輔の好物だ。母がたまに弁当のおかずにもしてくれるが、今日のメインは桜輔の好きな唐揚げだ。
「俺、エビフライ好きなんだよなー」
「ですよね」
「え?」
「あー、いや……ほら、お弁当にエビフライ入ってる時嬉しそうだったから」
「うわ、俺そんなだった? なんか恥ずいな……えっと、食っていいの?」
「もちろんです。先輩に食べてほしくて頑張ったんで」
「え……もしかしてこれ、瀬名が作ったのか!?」
「はい。初めて作ったし、ちょっと焦げちゃったけど……」
「初めて? マジ? これもうプロが作ったみたいじゃん」
「大袈裟っすよ」
「そんなことないって。えっと、じゃあいただきます」
誰かの手料理なんて、母や祖母のものしか食べたことはないのに。できたばかりの後輩の、ましてや自分のために作ってくれた好物、だなんて。
容器を受け取って箸で持ち上げてみたけれど。そのまままじまじとエビフライを見つめてしまう。
「モモ先輩? どうしたんすか?」
「いやなんか、食べるの勿体ないなって」
「はは、なんでですか」
「瀬名が作ってくれたって思うとそうなんだよ」
「っ、モモ先輩……」
「でも、食べないほうが勿体ないよな。食う、マジで。うん」
覚悟を決めるようにそう言って、ひとくち齧ってみる。気合を入れたくせに、普段より小さなひとくちになってしまった。せめて長く味わいたい気持ちの表れだ。
口の中に広がる衣の香ばしさと、エビの食感。たしかに多少の焦げはあるが、なにも問題はない。丁寧に咀嚼しながら、ついうんうんと頷く。
「どう、すか?」
「美味い」
「マジすか!?」
「すげーマジ。うわー、やっぱ食い終わるの勿体ないなこれ」
「よかったー……一応味見分にも一本揚げて食べて、多分大丈夫だとは思ったんすけど。モモ先輩の口に合うかなって、かなり緊張した」
天井を仰ぎ安堵の息を大きく長く吐きながら、瀬名は後ろの壁に背を凭れた。一体、どれだけこの瞬間のことを考えていたのだろうか。これを作った今朝から? 買い物もわざわざしてくれたのだろうかと考えると、胸がくすぐったい。緩む口角をどうにも抑えられない。
「ありがとな、瀬名。これすげー嬉しい」
「こちらこそありがとうです」
「はは、なんでだよ」
「モモ先輩の喜んでくれた顔見れたから」
「そ、そっか」
「はい、そうっす」
胸いっぱいで食欲どっかいった、という瀬名に、絶対に食べなきゃだめだと勧めた。音楽が流れる中、最後の一本のエビフライを噛みしめるように食べて。洗って返すと言ったのに、気にしないでと押しの強い瀬名に負けて言葉に甘えることにした。ごちそうさまともう一度礼を言ったら、あと十分ほど昼休みが残っていることを確認した瀬名は、今なぜか、桃輔の膝の上に気持ちよさそうに頭を乗せている。
「いや、さすがに近すぎん?」
「そこはエビフライのご褒美ってことでひとつ」
「あ、自分から言っちゃう感じ?」
「はは、はい。ここぞとばかりに付け入ってます」
「ふ、お前なあ」
初めて手を繋いだ日以来、瀬名が言うところのアピールであるスキンシップは、日々の定番になってしまっていた。とは言っても以前のように手を繋いだり、寄りかかるようにくっつかれて一緒にスマホで音楽情報を見たりと、その程度だったのだけれど。いわゆる膝枕を求められたのは初めてだ。だが、戸惑いはするが嫌ではない。それがまた厄介だな、なんて桃輔は思う。
「犬みたいだよな、瀬名って」
「ええ、犬?」
「そう、大型犬。ゴールデンレトリバーとか? デカくて懐っこくて、飼ったことはないけど多分こんな感じだろ」
「うーん、でもモモ先輩は猫派っすよね?」
「うん」
「じゃあ猫がよかった」
「はは、そういう問題?」
「そういう問題っす」
「てか猫って言えばさ、瀬名んちの猫の写真、いつ見せてくれんだよ」
不服そうな顔で見上げてくる瀬名に、桃輔はくすりと笑みを零す。
入学したばかりの頃より髪は少し伸びたが、染められることはなく黒いままで。まっすぐで素直な瀬名の良さが、こんなところにも表れている気がする。それこそ犬にそうするように髪を撫でると、瀬名は目を見開いて両手で顔を覆ってしまった。
「あのー、モモ先輩? オレが先輩を好きだってこともしかして忘れてません?」
「えー? 忘れてないけど」
「ほんとかな……」
「なあ、猫の写真。見たい」
「……もっと仲良くなったら見せてあげます」
「もうだいぶ仲良くね?」
「だから……」
そこまで言ったところで、瀬名は腹筋に力を入れるようにして起き上がった。それからぐいと顔を近づけられる。思わず体が跳ねたが、「逃げないで、お願い」と瀬名がささやく。さみしそうに眉を下げた顔を瀬名にされると、桃輔はやはり弱い。言われるがままでいたら、コツンと額が合わさった。
「そういう意味で仲良くなったら、ですよ」
「そういう意味で、仲良く……?」
「うん。先輩の彼氏になれたら、ってこと」
「…………」
お前が一目惚れしたのは俺じゃない。そう言おうとしたことは何度かあった。だがその度に、それを先延ばしにしてしまった。勘違いしているのは瀬名だし、だとか、もう少し一緒に過ごしてみたいだとか、身勝手な理由をくっつけて。それが今になって、激しい後悔へと色を変えそうだ。だってやはり、酷いことをしている。瀬名はこんなに、誠実に恋をしているのに。
「モモ先輩? なんか元気ない?」
考えこんでつい俯くと、心配そうに瀬名が顔を覗きこんできた。
「いや、そんなことない。平気」
「本当に?」
「……ん、ほんとに」
瀬名のことを思えば、今すぐ教えてあげるべきだ。真実を伝えて、桜輔の元に送り出さなければならない。だがそうするには、あまりに仲良くなりすぎた。顔も合わせられなくなるなんて考えたくない――そう思ってしまうくらいには、水沢瀬名という後輩はかわいい存在になってしまった。
他人からの評価、向けられる感情――たくさんのものを諦めてきたけれど。瀬名を失うことは、今までの比にならない気がしている。想像するだけで息が詰まりそうだ。
「そうだ先輩、もうすぐ夏休みじゃないすか」
元気づけようとしてくれているのだろうか。先ほどまでよりトーンの上がった声で、瀬名がそう言った。
「ん? だな」
「どこか遊びにいきませんか?」
「俺と瀬名で?」
「そうです、ふたりで」
「それ、瀬名嬉しいヤツ?」
「当たり前じゃないすか! めっちゃ嬉しいっす!」
「そっか。じゃあ、遊ぶか」
「マジすか? やった」
本当に良いヤツだとそう思う。いい男でモテるという意味だけではなく、人間性が美しいとすら感じるくらいに。
そんな瀬名を、その心を大切にするなら、自分の感情なんかで振り回すべきではない。分かっているのに、それができない。勝手なものだとつくづく自分が嫌になる。
「……ごめんな」
「ん? なんか言いました?」
ぼそりと落ちた本音が、自分の胸に突き刺さる。
あと少しだけ、もう少し瀬名と過ごしたら必ず伝えなければ。せめてその覚悟だけはちゃんと持っていようと心に決める。
「いや、なんでもねえよ」
その瞬間に瀬名とはもう会えなくなるけれど。自業自得なのだ。
夏休みになって、バイトのシフトを増やした。親からは進学を勧められているが、大学生になってまで学びたいものは見つけられないでいる。将来の夢だとか就きたい職業だとか、未来のビジョンなんてない。勉強に身が入るはずもなかった。
その代わり、というわけではないが、この夏はますます音楽にのめりこむ毎日だ。
七月に探していた次に弾き語る曲は、やはり片想いの心情を唄うものにした。女性シンガーソングライターの一曲。暇さえあればギターの練習をして、休みに入ってすぐにカラオケボックスで撮影。
インスタにさっそく投稿すると、今回もアンミツとcherryから即反応があった。cherryからはいつものように短めの、けれど絶賛のコメントがついた。アンミツからはコメントの他にDMも来て、新鮮な選曲のおかげでmomoさんの新しい一面が見られた、と興奮した様子が文章からも伝わってきた。夏休み中は普段よりコンスタントにアップしたいと返信すれば、ほんの数秒で<最高です!>とまたレスポンスがあってさすがに笑ってしまった。
それから。桃輔の夏休みの日々に色濃く存在するのは、なんと言っても瀬名だった。メッセージのやり取りは毎日、事あるごとに「いつ遊ぶ?」と聞いてくる。これは一度会うだけでは済みそうにないなと笑った夜には、思いつきで電話をかけてみた。あの時の瀬名の驚きようを思い出すと、今もつい笑ってしまう。喋りながらギターを触っていたら、それに気づいた瀬名が息を飲んだのが印象的だった。音楽の話はしてもギターのことは言っていなかったから、面喰ったのだろう。練習で爪弾く音に耳を傾けてもらえるのは、思いのほか嬉しいものだった。
そうして迎えた八月の頭。瀬名と遊ぶ約束をした日がやってきた。瀬名の提案で、近くのショッピングモールで映画を観る予定だ。選んだのは13時すぎに上映が始まるミステリーもので、待ち合わせは11時半にモール最寄りの駅。まずはランチ、というスケジュールだ。
友だちと遊んでくると母に声をかけ家を出る。すると、桜輔と玄関前で出くわしてしまった。部活から帰ったのだろうか。タイミングが悪い。
「モモ。どこか出かけるの?」
「うん」
「森本くんたち?」
「あー、うん、まあな」
「……ふうん、そっか」
「は? なんだよ」
桜輔にとっては単なる兄弟としての会話なのだろう。だが桃輔にとって、それはいつだってどこか煩わしい。特に瀬名に関することは、話題にするのだって避けたい。
「ううん、なんでも。いってらっしゃい」
「はあ……はいはい、いってきます」
「すごく暑いから熱中症にならないようにね!」
「あーもう! 分かってっから!」
家の敷地から出ても見送られているのが、振り返らなくたって分かる。兄弟というより、もはや親のような振る舞いだ。居心地が悪くて、早足になりながら舌をひとつ打った。
待ち合わせ場所に五分ほど早く着くと、すでに瀬名の姿があった。背が高いイケメンはよく目立つ。あの人かっこいい、と遠巻きにささやき合う人たちのおかげで、探す手間もなかった。
「瀬名」
「あ、モモ先輩!」
「はよ」
「おはようっす。時間的にはもうこんにちはっすかね」
「だな。じゃあ、こんにちは?」
「……ふ」
「はは、なんかこんにちはだと改まってて変な感じするよな」
「ですね。てか、私服のモモ先輩眼福っす」
「眼福って、ふはっ」
普段学校では控えめにしているが、耳に開けている穴5つ全てにピアスを飾ってきた。服のシルエットはゆるめが好きで、ラフなパンツにオーバーサイズのシャツを合わせた。いつもの休日スタイルだ。
「だって、めっちゃかっこいい。服とか、ピアスも」
「え、そんななる?」
「なるでしょ、好きな人の私服っすよ」
「……わお」
両手で覆われたすき間から、瀬名の少し染まった頬が見える。まさかそんな表情をされるなんて思っていなかった。さすがにこのリアクションは、こちらまで照れてしまう。
そんな瀬名はと言えば同じようなゆるめのシルエットながら、綺麗にまとまったスタイルがよく似合っている。お洒落な大学生だとかの特集ページに混ざっていても、違和感はなさそうだ。
ふたりで並んでいたら、不良に絡まれる陽キャ、という組み合わせに見えそうだ。
「瀬名もかっこいいじゃん」
「いやいや、そういうのいいんで」
「なんでだよ、マジで言ってるって」
「ちょっとキャパオーバーなんで」
「はは、ほんとおもしれぇ」
「からかうのナシっすマジで」
「はいはい。じゃあとりあえず、飯食おうぜ。なんにする?」
「あー……格好つかないんすけど、安いので」
「いや分かる、それ大事よな」
モール内に移動して、いくつかのショップの中からハンバーガーのファーストフードを選んだ。瀬名も桃輔もフライドポテトとドリンクがセットになったものにしたが、瀬名はそこにもうひとつハンバーガーを買い足していた。桃輔だって腹は空いていたが、そんなに食べたことは一度もない。
「瀬名すげー食うんだな。弁当もすぐ食べ終わるとは思ってたけど。若ぇわ」
「若いなって。おじいちゃんみたいっすね」
「誰がおじいちゃんだよ」
「はは。てか、ちょっと新鮮です」
「ん? なにが?」
大きな口でハンバーガーにかぶりつき、ニコニコと頬を綻ばせる瀬名の瞳がまっすぐに桃輔を映す。数秒経ってもちっとも逸らされない視線に、桃輔は少し首を傾げる。
「いつも屋上では隣に座ってるから。こうやって先輩が食べてるところちゃんと見るの、実は初めてだなって」
「ああ、たしかに。え、てか見すぎじゃね? なんかハズイからあんま見んな」
「せっかくのチャンスなんで無理っす」
「変なヤツ」
「あ、先輩、これは大事なことなんすけど……」
「ん? なに?」
突然声を潜めた瀬名が、テーブルの向こうから顔を寄せてくる。内緒話みたいに口元に手を添えてみせるから、思わず耳を寄せる。
「隣で食べるのだってめっちゃ好きっすよ。どっちも最高っす」
「は……」
いったい何事かと思えば、そんなことを言われた。しかも至って真剣に、神妙な顔で言っている。呆気にとられたのも一瞬のことで、次の瞬間にはもう抑えられないくらいの笑いが溢れてしまう。ドリンクを飲んでいる最中じゃなくて助かった。
「ちょ、瀬名、急になにかと思ったら……ははっ」
「なに笑ってんすか? すげー大事なことっすよ」
「分かった、分かったから。その顔やめろ」
「え、ひでー。真面目な顔してるだけなのに……ふはっ」
「瀬名も笑ってんじゃん。はー、笑ったー……なんか今日笑いっぱなしな気がする」
「オレもっす。あ……先輩、ちょっと時間やばいかも。急ぎましょ」
「あ、マジか。楽しくてついゆっくりしちゃったわ」
「っすね」
時間を確認した瀬名の言葉に、まだ半分以上残っているハンバーガーを慌てて食べ進める。お互い必死に食べる様子に、目が合うとまた笑えてしまった。
結局、上映開始時間には十分ほどの余裕を持って席に着くことができた。食べたばかりだからポップコーンはなし。ドリンクだけでも買おうということになって、桃輔はアイスティー、瀬名はコーヒーを注文した。
「瀬名コーヒー飲めんだな。しかもブラック? 大人じゃん」
「結構美味いっすよ。先輩はコーヒーは全然?」
「ミルクと砂糖いっぱい入れれば飲める」
「さっきはおじいちゃんだったのに、今度はお子ちゃまだ」
「ばーか、うっせーよ」
小声で話していたが、予告が始まると口元に人差し指を添えた瀬名が「シー」と言ってみせた。本当に子ども扱いされているみたいで腹が立つ。でもそれ以上に楽しい気持ちが勝って、瀬名の靴をつま先で小突く。顔を見合わせて、くすくすと小さく笑みを交わした。この会話がまだファーストフード店でのものだったら、またふたりしてケラケラ笑っていたような気がする。
「すげー面白かったわ……」
「マジすか? よかったー」
上映が終わり、思わず感嘆の息が零れた。館内の照明がつくとすぐに出ていく人たちを横目に、余韻で呆けてしまう。
「瀬名はよく映画観るんだっけ」
「ですね。配信がほとんどですけど」
「今度おすすめ教えて、もっと観てみたいかも」
「じゃあ今日リスト送ります」
「はは、仕事早や」
結局しばらく座ったまま話して、最後尾でシアターを出た。時間はまだ16時前だ。解散するには、ちょっとまだ早い。
「俺まだ時間平気だけどどうする? 瀬名どこか行きたいとこあるか?」
「んー、そうっすね……」
「カラオケとか?」
自分たちの共通点と言えば、音楽が好きだということだ。そう考えて提案してみたのだが。瀬名は肩を跳ねさせ、上に向けていた視線を勢いよく桃輔へと移した。その顔はなぜか薄らと染まっている。
「カラオケはちょっと……まだ早いっす」
「…………? 早いって?」
「あー、なんていうかその、先輩の生歌はめっちゃ聴きたいんすけど! 心の準備ができていないというか……」
「心の準備」
「説明が難しいんすけど……」
人前で唄うことに抵抗があるのだろうか。だから顔を赤くさせているのかもしれない。桃輔はもちろん唄うことが好きだが、苦手な人に強要してまでカラオケに行きたいわけでもない。ただ提案のひとつだっただけだ。安心させたくて、瀬名の背に手をポンポンと当てる。
「よく分かんねえけど、じゃあ他のにすっか」
「う……はい、他ので」
「おう。じゃあどうしよっか。あ、確かここゲーセンあったよな。そこ行く?」
「それいいっすね」
「じゃあ決まりな。行こうぜ」
「っ、モモ先輩!」
「……ん?」
そうと決まればと歩き出す。だがそうしたのは自分だけだったのだと、数歩進んだ後に名前を呼ばれて気づく。振り返ると、瀬名はまだ元の場所に立っていた。桃輔が立ち止まったところまで大股で距離を詰めてきて、ぐっと顔を近づけられる。毎回思うが、至近距離でイケメンの顔を浴びるのは、結構まぶしい。
「ど、どした」
「あの、カラオケ」
「ああ、ほんと気にすんなって。別に、絶対行きたいってわけじゃなかったから」
「はい、でも……いつか一緒に行きたいっす、モモ先輩と」
「カラオケに?」
「っす。オレの心の準備ができたらって言うか……」
「もっと仲良くなったら? とか?」
「…………!」
いつかの瀬名の言葉を真似てそう言うと、瀬名はまた顔を赤らめた。なんだか今日は、今までに見たことのない瀬名にたくさん出逢っている気がする。だが言ってから気づく。瀬名が言った“もっと仲良く”は、恋人になるという意味だった。
「あー、ごめん、今のな……」
「取り消しはなしっすよ」
「う……」
形勢逆転だ。つい今しがたまで、こちらが助け舟を出していたはずなのに。イニシアティブが瀬名に移ったみたいだ。あっという間に指先が瀬名の手に包みこまれる。
「あ、ばか、近いって」
「嫌っすか?」
「嫌、じゃねえけど……」
「もっと仲良くなれたら、お願いします。カラオケ」
「…………」
「約束。いいっすか?」
「……そんな日が来たら、な」
「はは、やった」
罪悪感がちくりと桃輔の胸を刺す。だってそんな日が来ることはないのだ。自分が応えないからではなく、瀬名から離れていく。その現実を伴って。
今日はただ楽しめたらと思ってきたのに、墓穴を掘ってしまった。それを払拭したくて、瀬名の手を握り直して引っ張る。
「ほら、ゲーセン行くんだろ」
「オレ結構得意なんすよ、クレーンゲーム」
「マジ? すげーじゃん。俺へたくそなんだよなあ」
「先輩が欲しいのあったら、オレが取ってあげます」
瀬名の纏う雰囲気が、一瞬で元に戻って安堵する。得意げに顎を上げてみせる瀬名を肘で小突いて、戯れる。気安い間柄でいられる、こんな今が居心地いい。
ショッピングモールを出て、駅までの道を歩く。時刻はもうすぐで18時になるところだ。思いのほかゲームセンターでたっぷりと遊んで、小腹が空いたということでドーナツを食べた。心と一緒に腹まで満ち足りている帰り道だ。
「瀬名ほんと上手いのな、クレーンゲーム」
「モモ先輩も結構上手でしたよ」
「瀬名のアドバイスありきだけどな」
桃輔の手には、大きな袋がぶら下がっている。中にはゲームセンターで瀬名が獲得した大量のお菓子と、抱き枕にでもできそうなくらいの大きさの猫のぬいぐるみ。こんなにたくさん気が引けるのに、先輩のために獲ったとあの犬みたいな顔で言われたら、断ることなんてできなかった。
だが瀬名が獲ってくれたものの中でもいちばんのお気に入りは、この袋の中にはない。スマートフォンにぶら下がっている。もう何度も眺めている猫のぬいぐるみストラップをまた見ていると、隣の瀬名がくすりと笑った。
「めっちゃ気に入ってくれてますね」
「うん、すげーかわいい」
「よかった。オレも気に入ってます。先輩が獲ってくれたヤツだし、おそろいだし」
そう言って、瀬名もスマートフォンを取り出す。そこにあるのは、桃輔のと同じものだ。
桃輔のものは、瀬名が獲ってくれた。反対に瀬名のものは、アドバイスを貰いながら桃輔が獲った。たった2回で獲得した瀬名と違い、8回を要してしまったが。2つ下の後輩はなんでもスマートにできて、なんだかちょっと憎らしい気さえする。
「ちなみにそれ、俺の初ゲットだから」
「え、そうだったんすか!? うわー、先輩の初めてか」
「そう。大事にしろよな」
わざと恩着せがましく、ニヤリと笑ってみせた。だが瀬名は目を丸くして、キラキラと目を輝かせ始める。
「うん。宝物にするっす」
「はは、それは大袈裟すぎ」
「なに言ってんすか、オレは至って真面目っすよ。おそろいなのも最高だし」
「そっか。うん、俺も大事にする」
おそろいのぬいぐるみをポケットから揺らしながら、鈍行の電車に乗りこむ。桃輔の家は急行の停まらない駅だからだ。
「瀬名んちの最寄りってどこだっけ。同じ電車でよかったのか?」
「オレは学校の最寄りと同じっす」
「あ、そうなん? 家あの辺なんだ」
「ですね。徒歩圏内です」
「へえ、近いのいいな。てか、じゃあ急行でよかったんじゃん。乗る前に聞けばよかったな、ごめん」
「大丈夫っす。先輩ともっと一緒にいたいから、普通に一緒のに乗るつもりだったし」
「お前……恥ずかしいな」
「えー? あざす」
「全然褒めてないけど?」
ドアの近くに立ちながら、周りの迷惑にならないようにと小声で会話する。そんなことすらいつもと違うなと感じ取って、逐一大事に思えるのは新鮮だ。
妙なことを言う瀬名の腹にそっとパンチを当てれば、距離を詰められる。
「だって、恥ずかしいってことは意識してくれたってことっすよね」
「は……?」
「オレが先輩を“そういう意味”で好きだってこと、ちゃんと忘れないでいてくれてるんだなって」
「……うるせ」
「はは。ちなみに先輩はどこで降りるんですか?」
「俺はここからあと4駅のとこ」
「じゃあ先輩が降りるの先っすね」
「そうだな」
そこからはお互いに、なにも話さなくなった。ただ電車に揺られて、夕焼けに染まりはじめる町を興味もないのに眺めて。
そうしていると4駅なんてあっという間だった。じきに到着だと車内アナウンスが入る。
「瀬名、今日めっちゃ楽しかった。ありがとな」
「こちらこそです。また会えますか?」
「夏休み中に?」
「はい」
「バイトのシフト確認して、あとで連絡する」
電車が停止し、ドアが開く。じゃあなと手を振ると、瀬名はまたあのしゅんと眉を下げた顔をする。帰ったらすぐに、連絡を入れよう。そう思ったのだが――
「やっぱ無理、今一緒にいたいです」
「へ……いやいや」
「だめっすか?」
「だめっすかってお前、電車行っちゃったじゃん!」
ドアが閉まる寸前、瀬名はホームに降り立ってしまった。呆然とする桃輔をよそに、瀬名は平然とした顔をしている。
「モモ先輩の家、門限あります?」
「……いや、特にないけど」
「じゃあもうちょっとだけ。公園とかで喋るのどうっすか? あ、この辺にあります? 公園」
「…………」
「先輩?」
「ふ、あははっ! 瀬名ってほんと、面白え」
「えー、そんな笑うとこ?」
まさかこんなことになるとは思ってもみなかった。こみ上げてくる笑いをどうにか抑えたくても、なかなかうまくいかない。だってこんなヤツ初めてなのだ。自由奔放で、けれどまっすぐで。そんな根のいい人間に懐かれて、嫌なはずがなかった。胸の中が目映い光でいっぱいになっている。
不服そうにくちびるを尖らせる瀬名の頭に、少しかかとをあげて手を乗せる。わしゃわしゃと犬にするように撫でると、瀬名はくすぐったそうに肩を竦めた。
「強引だよな、瀬名って。まあそんなの最初からだけど」
「う……すみません」
「嫌とは言ってないだろ」
「え」
「ほら、行くぞ。公園ならすぐそこにある」
一緒の電車から降りた人たちは、すでに改札を抜けた頃だろう。周りに自分たち以外誰もおらず、夕焼けのホームに声がよく通る。
「なあ瀬名、負けたほうがジュース奢りでどうだ?」
「へ? 奢るのはいいっすけど、なんの勝負……」
「お先!」
ニヤリと笑ってみせてから、一気に走り出した。気分が高揚しているのだと、自分でよく分かる。
「あ、先輩ずりい! 待って!」
「待たなーい! 公園がゴールな!」
ふたりして競うように改札を出て、公園へ入った。遊具で遊ぶ子どもたちの姿はひとりもない。
「はあっ、俺の勝ち、だな」
「くっそ……色々ずるい気がするんすけど」
「まあそれはそう」
勝負はタッチの差で桃輔の勝ち。だがそれも無理はない。先に走り出したのはもちろん、公園の場所を瀬名は知らないのだから。桃輔の後をついてくるしかなかった。
息を整える瀬名を横目に、公園内の自動販売機に小銭を入れる。瀬名はさっきコーヒーを飲んでいたが、走った後だからと水を2本購入した。
「はい、水」
「え。負けたのオレっすよ」
「いいんだよ、走って楽しかったし。これ、いっぱいもらったし。お礼」
「ええ、そんなんよかったのに……いいんすか?」
「うん。なあ、あそこのベンチ座ろ」
「あざす、じゃあいただきます」
ベンチに腰を下ろして、お互い無言でペットボトルを呷る。ふと隣を見ると、溢れてしまった水が瀬名の顎を通って喉仏を濡らしていた。「先輩?」と首を傾げられて初めて、見入ってしまっていたことに気づいた。
「どうかしました?」
「いや、なんでもない」
「そうっすか?」
「うん、全っ然なんでもない」
「はは、なんでムキになってんすか」
やましいことなんてひとつもないはずなのに、なぜこんなに動揺してしまうのだろう。まさか……と考え始めたところで首を横に振る。
いやいや、ない。ただぼんやり見つめてしまっただけで、見惚れたわけでは決してない。瀬名のことは確かに好ましく思っている。だがそれは、ただただ後輩としてだ。瀬名が言うところの“そういう意味で好き”なわけではない。
瀬名の想いをちゃんと、桜輔へと返す。その使命を忘れてなんかいない。
「先輩はよくこの公園来るんすか?」
「……え? あー、ここ? いや全然だな。学校の近くの公園は帰りに寄ったりとかたまにするけど」
必死に決意を再確認していたから、返事に間が空いてしまった。気を取り直すように座り直し、一旦蓋をしたペットボトルを手の中で踊らせる。
「……へえ、友だちと?」
「いや、ひとりの時だな。あ、前に話したただろ、キジトラの猫がいたって。あれも同じ公園」
「……そうっすね」
「ん? そうっすね、って?」
「あー、いや……確かにそれ聞いたなって思い出して」
「なるほど」
「モモ先輩」
「んー?」
名前を呼ばれて隣に顔を向けると、ベンチの上に空いていたすき間を瀬名が詰めて少し詰めた。思わず息を飲んだ桃輔の瞳を、背を屈めて覗きこんでくる。
「モモ先輩」
「……なんだよ」
「手、繋ぎたい」
「は……いやなんでだよ」
「繋ぎたいから」
「そのまんまじゃん」
「ダメ?」
「瀬名……その顔は反則だからやめろ。許したくなる」
「先輩、気をつけたほうがいいっすよ。じゃないと、オレみたいのにつけこまれる」
「お前がそれ言ってどうすんだよ……あっ」
「嫌なら言ってください、すぐやめます」
いいよ、なんて言っていないのに、ベンチについていた手に瀬名の手が重なった。ぴくんと跳ねてできたすき間に、指先が滑りこんでくる。驚く暇もなく、あっという間に手は繋がれてしまった。ジトリとした目を向けると、へへ、と気の抜けたような緩んだ顔で瀬名は笑った。
「はあ……もう好きにしろ」
「嫌じゃない、ってことでいいっすか?」
「まあ、初めてじゃないしな」
「それは確かに」
「手繋ぐくらい、別にどうってことないし」
「……ふうん? じゃあ」
「…………?」
ふたりの間にあった繋がれた手を、瀬名が不意に持ち上げた。なにかと首を傾げたのも束の間、あとほんの少し空いていたすき間すら瀬名は詰めてきた。もう数センチしか残っていなくて、体がくっつきそうなくらいだ。持ち上げられた手が、瀬名の足の上に乗せられる。
「モモ先輩」
「…………」
呼ばれた名前に引っ張り上げられると、すぐ目の前に瀬名の顔。こんなに近くで見たことがあったっけ。呼吸ひとつにすら緊張していると、瀬名の額が桃輔のそれにやさしくぶつかった。
「ちょ、瀬名……」
「キスは? いい?」
「っ、は!?」
「キスするのも、どうってことない?」
「……いやある、すげーどうってことある」
「じゃあ、しちゃダメ?」
「ダメに決まってんだろ……」
「どうしても?」
縋るような声色でせがみながら、瀬名が額を擦りつけてくる。甘えられているみたいで、胸が妙にくすぐったい。気合を入れないと、うっかり流されてしまいそうだ。
「ん、ダメ」
「えー……ほっぺも?」
「……ダメだろ」
「減るもんじゃないのに……」
確かに瀬名の言うことは一理あるのかもしれない。正直なところ、それくらいならいいかもと思ってしまう自分だっている。受け入れてしまいたい。そのほうが頑なに拒むより圧倒的に楽だ。
だが、だからこそだと桃輔は思う。大事にしたい、瀬名の心を。そう願うなら、受け入れないことが正解だ。
「減るもんじゃないから、じゃね?」
「…………? どういう意味っすか?」
「ずっと残るだろ、その、こういう思い出って。大事じゃん、初めては尚更。だから、ダメ」
「先輩……」
瀬名の瞳をまっすぐに見て言うと、瀬名が肩に崩れ落ちてきた。慌ててその背中に手を添えると、もう片手は瀬名の手に握りこまれてしまった。
「瀬名? どうした?」
「今、また先輩のこと好きになりました」
「……は?」
「めっちゃかっこよかった」
「はあ? 今ののどこが」
「ぱっと見はちょっとヤンキーっぽいのに、そういうの大事にするところ」
「……うっせ」
「あ、照れてます?」
肩に頭を乗せたまま、こちらを見上げてくる。迫ってみたと思ったら甘えたり、匙加減が絶妙だ。
「バカ、こっち見んな」
「へへ、見ますー。あ、一個気になったんすけど」
「ん?」
「さっき初めてって言ってましたけど、もしかしてファーストキスまだですか?」
「あ、お前そういうのバカにするタイプ?」
「バカになんてしてないっすよ! むしろ嬉しいっす。大事にしててくれてよかったなって」
「……別にお前にやるとは言ってない」
「そんなこと言わないでください……他のヤツがって考えただけでしんどい」
「はは、瀬名ってほんと面白ぇな」
背中をトントンとたたくと、どさくさに紛れてぎゅっと抱きしめられてしまった。
「ちょ、瀬名! はは、苦しいって」
「えー、そんなに強くしてないっすよ」
「お前なあ。ったく」
これは戯れのハグだろうか。楽しそうな瀬名の空気がそう思わせる。だからいいよなと自分に言い聞かせて、桃輔も「はいはい」なんて言いながら抱きしめ返した。