屋上に到着して、いつものように並んで座って。弁当を広げようとしたところで、桃輔はジトリとした目を瀬名に向けた。先ほどからずっと、にやけた瞳に映されているからだ。睨むように見上げてもなお、瀬名はその腑抜けた顔を戻そうともしない。
「おい瀬名。その顔はなんなんだよ、さっきから」
「えー、だって嬉しくて」
「嬉しい? なにが」
「モモ先輩、少なくともオレの顔は嫌いじゃないのかなって」
「はあ?」
「だってさっき、『この顔だしモテんだろうな』って。誉め言葉ですよね?」
「お前なあ……」
思わず出る盛大なため息を、隠そうとも思わなかった。
桜輔の存在に瀬名が気づいてしまうかも。そうじゃなくたって、一年生が三年の教室の階へ来るのは注目される。瀬名のように人を惹きつける容姿をしていれば、尚更。そうやって気を揉んでいたというのに、当の本人の頭の中は、ずいぶんとお花畑のようだ。
尖るくちびるを自覚しながら、桃輔は口を開く。
「瀬名、お前もう俺の教室には来んな」
「え、なんで?」
「なんで、って……さっきので分かっただろ、ちょっと騒ぎになったじゃん」
「たまには迎えに行くのもいいなって思ったのに」
「それでもだーめ。ここに来れば会えんだからいいだろ?」
「そう、っすけどぉ……」
ついさっきまでのにこやかな顔が嘘のように、眉も首もしょんぼりと下がってしまった。その大きな背には、だらんと垂れたしっぽも見える気がしてくる。
間違ったことを言ってはいないつもりでも、こんな様子を見せられると胸は痛むというもので。どうにか元気づけたくなって、自ずと手が伸びた。出逢った四月の頃より少し伸びた黒い髪に触れ、ぽんぽんと撫でる。
「そんな凹む? んー……でも頼む、ここで待ち合わせだと助かる。な?」
うなだれたままなのが心配で、腰を屈めて顔を覗きこむ。
「うーわ、ずるい……そんなんされたらもうヤダって言えないじゃないっすかあ……分かりました、もう教室にはいかないっす」
「そんなんってなんだよ。でもありがとな、助かる」
ちょっとだけ、本当に少しだが、瀬名をかわいいと思ってしまう自分に桃輔は気づく。弟がいたらこんな感じなのだろうか。素直で明るくて、柔らかな雰囲気で接してきて。見た目だけではなくその人となりも、水沢瀬名という男はまぶしい。
「じゃあ飯食うか」
「はい」
いつものように控えめなボリュームで音楽を流して。たまごやきをひとつ頬張り、ちらりと横目で瀬名を見やる。
「でもマジでさ、お前モテるだろ」
「まだその話っすか? 別にそうでもないっすよ」
「だって俺、何回も見たことあるし。女子がお前にべったりしてるとこ」
「え……」
校内で瀬名を見かけることはたまにある。ひと学年10クラスはあり、大勢の生徒がこのひとつの学校にいるわけだが。瀬名の姿は不思議と目に入ってくる。友人たちと話している瀬名の隣にはほぼいつも、瀬名の腕にくっついている女子がいる。毎回同じ子だ。恋なんてしたことがなく他人の恋愛事情にも鈍感な桃輔にだって、好きなんだなあと分かる。あの子以外にも瀬名に惚れている子は、絶対にいるだろう。
「なあ、前から思ってたんだけどさ、こんなとこ来てていいのか?」
「……え?」
「瀬名の友だちもお前と昼飯食べたりしたいだろうし。あの女子もさ。てか付き合ったりはしねえの?」
「…………」
なにか気に障ってしまったのだろうか。瀬名は返事をせず、食べかけの弁当をそっと床に置いた。かと思えばぐっと顔を寄せられて、思わず後ずさる。だが下がった分だけまた瀬名も距離を詰めてきて。いよいよ桃輔の弁当も奪われ、瀬名のものの隣に置かれてしまった。ぐっと寄せられた眉間は初めて見た。
「……瀬名? どうし」
「付き合うわけないじゃないすか。オレの好きな人、知ってますよね?」
「あー……瀬名が言ってた一目惚れって、本当にそういう……?」
この状況で、知らないなんて言えるはずがない。見るからに怒っている瀬名の瞳に映っているのは今、自分だけだ。だが、まさか、という思いもある。瀬名の言う一目惚れは、同じ男としての憧れだと考えていた。
「そういう、って? 今までなんだと思ってたんすか?」
「それは……俺男だし、憧れとかそういうのかなって」
「憧れる気持ちももちろんありますよ、先輩かっこいいし。でも、本当に恋愛の意味で好きです。男同士だと変ですか? オレ、信じてもらえない?」
「瀬名……」
切実な想いがまっすぐにぶつかってくる。こんな風に言われては、さすがに理解できる。
そうか、瀬名はずっと恋をしているのか。――桜輔に。
今までだって良心が痛まないわけではなかったが、隠し続けるのはこの辺りで限界かもしれない。瀬名との時間は思いのほか楽しかったから、名残惜しくはあるけれど。解放してあげることが、この懐っこい後輩に自分ができる唯一のことのように思える。
「なあ瀬名、俺お前に言わなきゃいけない……」
「ねえ先輩、手、繋いでもいい?」
「っ、はあ? いいわけないだろ! てか話聞け、俺は……」
「モモ先輩、オレが先輩のこと真剣に好きだって、ちゃんと知っててほしいんです。ちゃんとアピールしないと、本当に伝わらないみたいなんで」
「瀬名……でもそういうのは、付き合ってるヤツらがすることだし。それからほら、弁当! 弁当まだ途中だし!」
「ああ、そう言えば。じゃあオレがあーんします」
「いやなんでそうなるんだよ!」
真実を告げようとする度になぜかタイミング悪く遮られ、瀬名の向こうに置かれていた弁当を奪われてしまった。
「はい、先輩どうぞ」
「……マジで?」
「うん。食べてほしい」
「マジか。うう……あー……」
差し出されるおかずをどうにか食べ終えると、瀬名は自分の弁当をすばやく平らげた。それから改めてこちらを向いたかと思えば、先ほどの言葉をくり返す。
「手、繋ぎたいです」
「だからそれは……」
「弁当なら食べ終わりましたよ」
「それはそうだけど!」
「……だめ、っすか? どうしても?」
「……っ、お前こそそういう顔、すげーずるいからな」
瀬名が悲しそうな顔をするのが、どうにも耐えられない。そうなると、手くらい繋いでやってもいいのでは、なんて思えてくる。戸惑う心は確かにあるのに、瀬名の願いを優先してしまうのはなぜなのだろうか。桃輔はくしゃりと自分の髪を握りこんでから、手を差し出した。
「ちょっとだけ、だからな」
「え……いいんすか?」
「お前が言ったんだろ。ほら、早くしろ」
「はは、やった」
嬉しそうに顔を綻ばせた瀬名は、自身の手を持ち上げてかみしめるように一度ぎゅっと握りこんだ。それからそっと手を重ねてきて、下くちびるをきゅっと引きこんでみせる。ああ、本当に恋をしているんだな。そう思わせられるのに充分な仕草を、こんなに間近で見てしまった。
なぜだろうか。桃輔の胸は、生まれて初めての音を立てる。冷たいような、痛いような。きゅう、と軋む感覚は、けれど不思議と嫌ではなくて。なにより、瀬名が本当に嬉しそうに笑うから。この笑顔をもう少し見ていたくなった。
「本当に好き、なんだな」
「そうっすよ。ちゃんと実感してくださいね」
「……ん」
ふたりで壁に背を預けて座ると、肩がトンとぶつかった。けれど離れることはなく、手も繋がれたままで。瀬名に恋をしているあの女子には返らない手がそうしているのだと思うと、また胸が鳴る感覚がやってくる。
「なあ、瀬名」
「んー? なんすか?」
笑みを含んだ声で返事をした瀬名が、今度は頭をコツンと凭れかけてくる。
ああ、どうしたものか。瀬名の言葉も、笑顔も体温も、本当は自分に向けられたものではないのに。手放してしまうのが惜しくなっている。
本当のことを知ったら、桜輔と比べられてしまったら、きっと友だちにすらなれない。同じ顔でなにもかもが優れた桜輔がそばにいたら、自分なんて用済みに決まっている。だったらもう少し嘘をついたまま、このままでいたいと思ってしまう。弟のように感じている瀬名と、もうしばらく一緒に過ごしてみたい。
「先輩?」
もう少ししたら、ちゃんとするから。瀬名が想いを届けたい先に、瀬名の心を返すから。
いいよ、なんて言ってくれるはずもないと分かっているから、心の中だけで懺悔するように呟く。
「あー、いや。なんでもない」
「はは、なんすかそれ」
外はまだ雨が降っていて、ブルージーな曲がBGMのように流れていて。憂いた色はやっぱり自分に合っている。
頭をすり寄せてくる瀬名を受け入れながら、桃輔もそっと凭れかかった。
「おい瀬名。その顔はなんなんだよ、さっきから」
「えー、だって嬉しくて」
「嬉しい? なにが」
「モモ先輩、少なくともオレの顔は嫌いじゃないのかなって」
「はあ?」
「だってさっき、『この顔だしモテんだろうな』って。誉め言葉ですよね?」
「お前なあ……」
思わず出る盛大なため息を、隠そうとも思わなかった。
桜輔の存在に瀬名が気づいてしまうかも。そうじゃなくたって、一年生が三年の教室の階へ来るのは注目される。瀬名のように人を惹きつける容姿をしていれば、尚更。そうやって気を揉んでいたというのに、当の本人の頭の中は、ずいぶんとお花畑のようだ。
尖るくちびるを自覚しながら、桃輔は口を開く。
「瀬名、お前もう俺の教室には来んな」
「え、なんで?」
「なんで、って……さっきので分かっただろ、ちょっと騒ぎになったじゃん」
「たまには迎えに行くのもいいなって思ったのに」
「それでもだーめ。ここに来れば会えんだからいいだろ?」
「そう、っすけどぉ……」
ついさっきまでのにこやかな顔が嘘のように、眉も首もしょんぼりと下がってしまった。その大きな背には、だらんと垂れたしっぽも見える気がしてくる。
間違ったことを言ってはいないつもりでも、こんな様子を見せられると胸は痛むというもので。どうにか元気づけたくなって、自ずと手が伸びた。出逢った四月の頃より少し伸びた黒い髪に触れ、ぽんぽんと撫でる。
「そんな凹む? んー……でも頼む、ここで待ち合わせだと助かる。な?」
うなだれたままなのが心配で、腰を屈めて顔を覗きこむ。
「うーわ、ずるい……そんなんされたらもうヤダって言えないじゃないっすかあ……分かりました、もう教室にはいかないっす」
「そんなんってなんだよ。でもありがとな、助かる」
ちょっとだけ、本当に少しだが、瀬名をかわいいと思ってしまう自分に桃輔は気づく。弟がいたらこんな感じなのだろうか。素直で明るくて、柔らかな雰囲気で接してきて。見た目だけではなくその人となりも、水沢瀬名という男はまぶしい。
「じゃあ飯食うか」
「はい」
いつものように控えめなボリュームで音楽を流して。たまごやきをひとつ頬張り、ちらりと横目で瀬名を見やる。
「でもマジでさ、お前モテるだろ」
「まだその話っすか? 別にそうでもないっすよ」
「だって俺、何回も見たことあるし。女子がお前にべったりしてるとこ」
「え……」
校内で瀬名を見かけることはたまにある。ひと学年10クラスはあり、大勢の生徒がこのひとつの学校にいるわけだが。瀬名の姿は不思議と目に入ってくる。友人たちと話している瀬名の隣にはほぼいつも、瀬名の腕にくっついている女子がいる。毎回同じ子だ。恋なんてしたことがなく他人の恋愛事情にも鈍感な桃輔にだって、好きなんだなあと分かる。あの子以外にも瀬名に惚れている子は、絶対にいるだろう。
「なあ、前から思ってたんだけどさ、こんなとこ来てていいのか?」
「……え?」
「瀬名の友だちもお前と昼飯食べたりしたいだろうし。あの女子もさ。てか付き合ったりはしねえの?」
「…………」
なにか気に障ってしまったのだろうか。瀬名は返事をせず、食べかけの弁当をそっと床に置いた。かと思えばぐっと顔を寄せられて、思わず後ずさる。だが下がった分だけまた瀬名も距離を詰めてきて。いよいよ桃輔の弁当も奪われ、瀬名のものの隣に置かれてしまった。ぐっと寄せられた眉間は初めて見た。
「……瀬名? どうし」
「付き合うわけないじゃないすか。オレの好きな人、知ってますよね?」
「あー……瀬名が言ってた一目惚れって、本当にそういう……?」
この状況で、知らないなんて言えるはずがない。見るからに怒っている瀬名の瞳に映っているのは今、自分だけだ。だが、まさか、という思いもある。瀬名の言う一目惚れは、同じ男としての憧れだと考えていた。
「そういう、って? 今までなんだと思ってたんすか?」
「それは……俺男だし、憧れとかそういうのかなって」
「憧れる気持ちももちろんありますよ、先輩かっこいいし。でも、本当に恋愛の意味で好きです。男同士だと変ですか? オレ、信じてもらえない?」
「瀬名……」
切実な想いがまっすぐにぶつかってくる。こんな風に言われては、さすがに理解できる。
そうか、瀬名はずっと恋をしているのか。――桜輔に。
今までだって良心が痛まないわけではなかったが、隠し続けるのはこの辺りで限界かもしれない。瀬名との時間は思いのほか楽しかったから、名残惜しくはあるけれど。解放してあげることが、この懐っこい後輩に自分ができる唯一のことのように思える。
「なあ瀬名、俺お前に言わなきゃいけない……」
「ねえ先輩、手、繋いでもいい?」
「っ、はあ? いいわけないだろ! てか話聞け、俺は……」
「モモ先輩、オレが先輩のこと真剣に好きだって、ちゃんと知っててほしいんです。ちゃんとアピールしないと、本当に伝わらないみたいなんで」
「瀬名……でもそういうのは、付き合ってるヤツらがすることだし。それからほら、弁当! 弁当まだ途中だし!」
「ああ、そう言えば。じゃあオレがあーんします」
「いやなんでそうなるんだよ!」
真実を告げようとする度になぜかタイミング悪く遮られ、瀬名の向こうに置かれていた弁当を奪われてしまった。
「はい、先輩どうぞ」
「……マジで?」
「うん。食べてほしい」
「マジか。うう……あー……」
差し出されるおかずをどうにか食べ終えると、瀬名は自分の弁当をすばやく平らげた。それから改めてこちらを向いたかと思えば、先ほどの言葉をくり返す。
「手、繋ぎたいです」
「だからそれは……」
「弁当なら食べ終わりましたよ」
「それはそうだけど!」
「……だめ、っすか? どうしても?」
「……っ、お前こそそういう顔、すげーずるいからな」
瀬名が悲しそうな顔をするのが、どうにも耐えられない。そうなると、手くらい繋いでやってもいいのでは、なんて思えてくる。戸惑う心は確かにあるのに、瀬名の願いを優先してしまうのはなぜなのだろうか。桃輔はくしゃりと自分の髪を握りこんでから、手を差し出した。
「ちょっとだけ、だからな」
「え……いいんすか?」
「お前が言ったんだろ。ほら、早くしろ」
「はは、やった」
嬉しそうに顔を綻ばせた瀬名は、自身の手を持ち上げてかみしめるように一度ぎゅっと握りこんだ。それからそっと手を重ねてきて、下くちびるをきゅっと引きこんでみせる。ああ、本当に恋をしているんだな。そう思わせられるのに充分な仕草を、こんなに間近で見てしまった。
なぜだろうか。桃輔の胸は、生まれて初めての音を立てる。冷たいような、痛いような。きゅう、と軋む感覚は、けれど不思議と嫌ではなくて。なにより、瀬名が本当に嬉しそうに笑うから。この笑顔をもう少し見ていたくなった。
「本当に好き、なんだな」
「そうっすよ。ちゃんと実感してくださいね」
「……ん」
ふたりで壁に背を預けて座ると、肩がトンとぶつかった。けれど離れることはなく、手も繋がれたままで。瀬名に恋をしているあの女子には返らない手がそうしているのだと思うと、また胸が鳴る感覚がやってくる。
「なあ、瀬名」
「んー? なんすか?」
笑みを含んだ声で返事をした瀬名が、今度は頭をコツンと凭れかけてくる。
ああ、どうしたものか。瀬名の言葉も、笑顔も体温も、本当は自分に向けられたものではないのに。手放してしまうのが惜しくなっている。
本当のことを知ったら、桜輔と比べられてしまったら、きっと友だちにすらなれない。同じ顔でなにもかもが優れた桜輔がそばにいたら、自分なんて用済みに決まっている。だったらもう少し嘘をついたまま、このままでいたいと思ってしまう。弟のように感じている瀬名と、もうしばらく一緒に過ごしてみたい。
「先輩?」
もう少ししたら、ちゃんとするから。瀬名が想いを届けたい先に、瀬名の心を返すから。
いいよ、なんて言ってくれるはずもないと分かっているから、心の中だけで懺悔するように呟く。
「あー、いや。なんでもない」
「はは、なんすかそれ」
外はまだ雨が降っていて、ブルージーな曲がBGMのように流れていて。憂いた色はやっぱり自分に合っている。
頭をすり寄せてくる瀬名を受け入れながら、桃輔もそっと凭れかかった。