「うち、もう一匹猫飼ってて」
「へえ、そうなんだ。この子もすげーかわいいな」
「抱っこしてあげてください。その……アラレも絶対喜びます。あ、アラレってのはこの子の名前です」
「はは、アンミツと和菓子繋がり? かわいいな。おいで、アラレ」
腕の中にやってきてくれたアラレは、桃輔を見上げながらにゃあ、とひとつ鳴いた。アンミツよりはひと回りちいさい体で立ち上がり、桃輔の頬に頭を擦りつけてくる。
「あの……アラレも先輩の知ってる子です」
「え? ……もしかして。いやいや、さすがに……」
この模様を見て頭に浮かぶのはやはり、あの公園にいた猫だ。だがさすがにできた話過ぎるだろう、と自嘲を漏らしたのだが。瀬名がこくりと頷くから、あんぐりと大きく口を開けてしまう。
「まっ、マジで!?」
「……っす。母親の知り合いが、野良猫の保護活動してるんすけど。あの公園にいた子を保護したって聞いて、絶対にうちで飼いたいって頼みこみました。momoさんがかわいがってた子じゃん! って、なって」
「…………」
「……インスタ載せたらきっとバレるって思って、アンミツしか載せてませんでした。これでも平気? さすがにキモい、っすよね……?」
いつだってスマートな瀬名に憧れている人は、男女問わずたくさんいるのだと思う。どうしようもなく格好いい、いい男。そんな瀬名の情けないとも言える顔を、一体どれだけの人が知っているだろう。しょんぼりとした様子で、おずおずと尋ねてくるのは正直なところかわいい。自分だけに見せてくれる顔だったらいいのに、なんて身勝手なことを思ってしまう。
「ぷっ、ふ……ははっ」
「えー……モモ先輩?」
「本当にそんなこと思わねえって。平気。むしろ瀬名が引き取ったから、俺はまたアラレに会えたんだよな。すげー嬉しい。アラレも良かったな、瀬名が迎えてくれて。最高の飼い主に会えたなあ」
返事をするかのように、アラレが甘えた声で鳴く。アンミツもふたたびやって来た。それに気づいたアラレが膝を下りて、二匹で毛づくろいを始める。いつまでも見ていたいくらいかわいいが、それ以上に気を引かれるのは瀬名だ。両手で顔を覆ってしまった瀬名のほうへ、今度は桃輔のほうから距離を詰める。
まだ大切なことを伝えていない。そもそもは、言うつもりじゃなかったけれど。たくさんの想いを見せてくれた瀬名に、桃輔だって誠実な心を返したかった。
「瀬名」
「…………」
「せーな」
「……今ちょっと無理っす。変な顔してるから」
「うん。でも、こっち向いてほしい」
勇気を出して、瀬名の指先を握りこむ。手の中でひくりと跳ねた手は、けれどきゅっと握り返してくれた。瀬名がいつもしてきてくれたことを、不安がっている瀬名に贈りたい。
「瀬名、あのな、聞いてほしいんだけど。俺も……その、俺も、瀬名が、好き」
心臓が耳元で鳴っているみたいだ。バクバクとうるさくて、自分の声が遠ざかる。息は浅くて、言葉も途切れる。自分の体全部で瀬名が好きなのだと分かる。
「……っ、え? ほんとに……?」
「うん、マジだよ。あー……これ、緊張ヤバイわ。瀬名はすげーよな、ずっと言ってくれてたもんな。それなのにちゃんと受け取ってあげられなくて、本当に悪かった。でも、瀬名のこと、これからも好きでいていい、かな」
「モモ先輩っ」
腕を引かれたと思った瞬間には、もう抱きしめられていた。ぎゅっと縋るように背中を抱かれ、肩に額を擦りつける仕草がたまらない。愛おしい、ってそうか、こういうことか。引いたはずの涙がまたやってきて、ぐすんと鼻を啜る。すると瀬名もそうしたようで、音が重なった。
「瀬名ー、泣いてんの?」
「……先輩だって」
「ん……なんか、こうなるって全然思ってなかったし。やばい、嬉しい」
「モモ先輩……大好き」
「俺も、その、すげー好き、だよ……はあ、やば。恥ずかしすぎる」
どちらからともなく腕をほどいて、また額をくっつけ合った。瀬名が手を繋いできて、指が絡んでいく。
「ねえモモ先輩、キス、したいです。してもいい?」
その台詞に、夏休みの一日を思い出す。大事にしたほうがいいと言って、あの日キスはしなかった。それをこうして両想いでできるのは、どうしたって感慨深い。
「……ん、いいよ」
「まだファーストキス?」
「当たり前だろ。瀬名しかいねえもん」
「嬉しい。オレもっす」
「ん……言っとくけど、今だってキスするのは“どうってことある”こと、だからな」
「ですね。どうってことあるすごいこと、モモ先輩としたいです」
「……うん、俺も」
瀬名のおしゃべりな口が閉じて、静寂を連れてきた。瞳の中を覗き合ったらクラクラと目眩がして、瞳を閉じる。息が震える。数秒ののち、あたたかなキスが触れたのは頬だった。てっきりくちびるだと思っていたから、つい笑ってしまった。目を開ければ、瀬名が不服そうな顔をしている。すごくかわいい。
「モモせんぱぁい……なんで笑うんすか」
「ごめんって。いや、口にするんだと思ったから」
「もちろんそっちもしますよ」
「そうなんだ?」
見つめ合って瀬名はふくれっ面のまま、ちょこんとくちびるが重ねられた。一瞬で離れてしまったから、つい「はやっ」と言ってしまった。するともう1回、今度は先ほどよりゆっくりと、味わうようなキスが触れる。
「ん、瀬名……」
「っ、モモ先輩、かわいすぎます」
「ばっ、かわいくねぇよ……かわいいのは瀬名だろ」
「……もう1回いいですか? 次はかっこよくするんで」
「え? ふは、分かった。いいよ」
たしかに壊れそうなくらいドキドキしているのに、ムードなんてものとは程遠い。だがくすくすと笑いながら交わすファーストキスは、とびきり甘くてなかなかやめられなかった。
「なあ、本当に聴くのか?」
「聴くでしょ」
「どうしても?」
「どうしても」
「じゃあ俺帰っていい?」
「いやいや絶対ダメっす! 帰んないで」
あれから瀬名の言葉に甘えて、水沢家にあったカップラーメンを昼飯として食べた。感情がいっぱい胸に詰まっているからか、空腹は感じなかったのだが。ちゃんと腹は減っていたのだと、ひとくち食べた瞬間に実感した。スープの塩っけが沁み渡る。今まで食べたカップラーメンの中でいちばん美味しかった。
そして今は、インスタに投稿したオリジナル曲を聴く聴かない、の押し問答を瀬名と繰り広げているところだ。瀬名に聴かせるつもりは全くなかったから、正直心の準備ができていない。
「アンミツには聴いてほしいって思ってたけどさ。瀬名に聴かれるのはだいぶハズイ」
「え、なんなんすかね、この気持ち。どっちもオレなのに、アンミツに妬ける……」
「いやだってさあ~……これ、誰のこと想って作ったと思ってんだよ」
最後のほうは消え入りそうな声になってしまった。だが瀬名はそれをきちんと拾ってしまう。
「え、もしかしてオレ? 聴きます、今すぐ」
「あっ、待った! ……せめてヘッドホンにしてほしい、な?」
「……っす、借ります」
再生ボタンを今にも押そうとした瀬名の手を、最後の抵抗とばかりに慌てて止めた。もう腹をくくるしかなさそうだ。リュックからヘッドホンを取り出し、おずおずと手渡す。部屋に響かせながら自分の曲を瀬名と聴く勇気は、さすがにない。
自身のスマートフォンとの接続を完了して、瀬名がヘッドフォンを装着する。そわそわと落ち着かずにいたら、手を握られた。目線を合わせて頷いた瀬名が、今度こそ再生ボタンをタップする。
――ただ幸せを願うことが美しい愛なら、これはみっともない恋だ
――頬を赤らめて笑うのは、俺の隣がよかった
――それでも君の明日は今日よりひとつ楽しくて、美味しくて、綺麗なほうがいい
――ずっとずっと、そうだといい
歌を作ってみようと思い立った時、瀬名とはもう一緒にいられないのだと苦しさばかりでいっぱいだった。歌詞とは到底呼べない言葉たちを、ノートいっぱいに書き殴った。そこにあるのはやっぱり、後悔や喪失感ばかりだった。
ギターを弾いて、弾いて、デタラメに口遊んで。失恋して心底辛い時によく音楽なんて作れるよな、と思っていたのが、ああ、だからこそ作るのか、と感じられるようになった頃。ぐちゃぐちゃのノートから掬いたいと思った言葉は不思議と、ただただ好きだというシンプルなものたちだった。
好きだから一緒にいられなくて寂しいけど、瀬名がいちばん幸せなのは自分の隣がよかったけど。でもそれでも、毎日を“いい日だった”と終われる今日が瀬名にあったらいい――好きだからだ。
そんな想いをブルージーなメロディに乗せ、初めてのオリジナル曲は完成した。想いのままに唄ったら、せっかく勉強したコード進行は無視する形になってしまったけれど。どこもかしこも拙くて、人前に出すクオリティではないと分かっているけれど。今出来る精いっぱいだった。
曲が終わったのか、瀬名がそろそろとヘッドホンを外した。思わずびくりと肩が揺れてしまい、体が強張っていたことに気づく。瀬名の顔を見ることができない。
「モモ先輩」
「…………」
「こっち向いてください」
「無理」
口元を片手で覆って、ただただ床を見つめる。
「感想がいっぱいあるんですけど、それはまた後でDMします」
「……は? はは、そこはアンミツになるんだ?」
まさかの言葉に、思わず顔を上げる。
「今は胸いっぱいで、言葉にするの難しそうなんで。でも、ひとつだけ……これ、オレの曲かなって思いました」
「……ん、そうだよ」
「ううん、そうじゃなくて」
「…………?」
繋いでいた手がいったん解かれて、今度は指が絡んでいく。そこに瀬名のもう片手が重なった。
「先輩と離れてる間、オレもずっと、こんな風に想ってました。モモ先輩を好きなオレの気持ちを、唄ってくれてるみたいだった。なんかそれって、すげーなって」
「瀬名……」
「オレみたいに感じる人、いっぱいいると思う」
「そう、なんかな」
「絶対そうです。たくさんの人に届くといいっすね」
力強い言葉が、胸の奥の奥まで落ちてくるような心地がする。甘くてくすぐったくて、なんだか逃げたくもなって目を逸らす。それをめざとく見つけた瀬名が、視線を追ってくる。滲み出るような微笑みに、惹きつけられる。
「でも、誰が自分みたいだって思っても……これはオレのことを想って作ってくれた、って思っていいんすよね」
「……うん」
「はあ、やば……この曲、オレにとって一生の宝ものっす」
「そ、っか」
瀬名を想って作った曲を本人に聴かれるのは恥ずかしすぎる、なんて数分前は思っていたけれど。歌に乗せた心が想い人に届いて、大事にしてもらえる。今この瞬間にこそ、この曲の本当の完成を見たような気分だ。
またこみ上げてくる涙を啜って、目が合ったら照れを隠すように笑って。時間が止まったみたいな錯覚に瞳を閉じる。またやめられなくなるじゃんと呟いたら、それも食べてしまうかのように瀬名は「うん」とだけ言ってキスをした。
<momoさんのオリジナル曲、本当に本当に待っていました!>
<何度聴いても泣いてしまいます。歌詞もメロディも最高です>
<俺としては、なんと言っても歌声が堪りません。高音で少しハスキーになるのが今までにない感じで……気持ちが伝わってくるようでグッときます>
年が明け、冬休みも今日で終わりという昼下がり。桃輔はベッドに寝転んで、アンミツからのDMを読んでいる。顔が緩むのをどうしても抑えられない。
あの日――瀬名と気持ちを確認し合った日。帰宅し夕飯を食べて、風呂も終え部屋へ戻った頃にこのDMは届いた。もう二週間ほどが経ったというのに、こうしてくり返し読むのをやめられないでいる。
「気持ちが伝わる、って……瀬名のことだって分かってるくせにな」
瀬名との関係が変わった。ただの先輩と後輩だけじゃなく、彼氏と彼氏になった。
誰が告っただとかフラれただとか、誰が誰を好きだとか。そんな話を嬉々としてしているクラスメイトの気が知れなかったが。その気持ちも今はちょっと分かるな、なんて思ったりする。だって、日々がガラリと色を変えた。ふわふわとした気持ちが胸に溢れていて、体まで自分のものじゃないみたいに浮つく。自分だけじゃ抱えていられなくて、誰かに聞いてほしくなったりするのだろう。
まあ自分の場合は、あまり言いふらしたくないけれど。彼氏としての瀬名のことは、一ミリだって誰にも分けてなんてやりたくない。そんなことを考える自分自身に、なんだか恥ずかしくなってきた時だった。下のほうからチャイムの音が聞こえてきた。隣の部屋から桜輔が出ていくのが分かる。誰か来たのだろうか、宅配かもしれない。のんびりと構えていたのに。ふたり分の足音が階段を上ってきて、話し声が少し聞こえてきた。
「ん? この声……」
いやまさかな、なんて思いつつ、ベッドから起き上がった。なんとなく足音を忍ばせながらドアに近づき、ノブを回すと。思い浮かんだ人物がそこには立っていて。腹の底から「はあ!?」と声が飛び出てきた。今年初の大声だった気がする。
「モモ先輩!」
「いやいや……は? 瀬名、なんで……」
「えーっと、今日は桜輔先輩に呼ばれたと言うか」
「おい桜輔……」
「はは、モモすごい顔してるよ」
子どもの頃のようにとまではいかずとも、桜輔との関係は少しずつ元に戻ってきている。お互いを片割れだと認識して、そうできていることまでお互いに理解し合っている、というところだろうか。
とは言え、この事態は面白くない。瀬名が一目惚れしたのは桜輔――それは勘違いだったと知ることができたけれど。やはりふたりの間には、ただならぬ関係を思わせる空気がある。だって彼氏である自分すら、まだこの家に瀬名を呼んだことはなかったのに。
面白くない、心底面白くない。なんだか目が熱くなってきたような気さえする。それをごくんと飲みこみ、瀬名の隣で澄ました顔をしている桜輔を睨みつけた。
「確かに俺が水沢くんを呼んだけど。俺たちはモモに話があるんだ。ね、水沢くん」
「っす」
「…………? いや怖ぇよ、なんだよ……」
やっぱり自分たちが付き合うことになった、なんて言われたらどうしよう。体がバラバラに砕けて、もう二度と立ち上がれなくなる気がする。一瞬でそんなことを考えて視線を逃がしたら、誰かに手を握られた。瀬名だ。
「先輩、大丈夫っすか?」
「モモ、モモが考えてるようなことはないから。安心して? ね、部屋入っていい?」
こんな時にまで双子の力は発揮されるのだから、厄介だ。だが助かったな、とも思う。瀬名の温度もあって、ひとまず安堵することができた。
「……うん」
こくんと頷いて、部屋の中にふたりを招き入れる。
左手は瀬名に繋がれたまま、ベッドにふたりで腰かける。桜輔はデスク前の椅子に座った。
「さっきも言ったけど、モモに大事な話があって。うーん、どこから話したらいいかな」
「最初からじゃないっすか? かいつまんではオレからも言ってありますけど」
「最初かあ。じゃあ俺、今からモモに怒られちゃうな」
「なんだよ早く言えよ。そんなん今更だろ」
「はは、悲しいけど確かに。じゃあまずは、俺と水沢くんが話すようになったきっかけだけど……」
桜輔の話をまとめるとこうだ。瀬名と桜輔は、春の頃にはもう知り合っていた。声をかけたのは桜輔のほうから。瀬名に聴いていた通りだ。だがまさかそれが、三年の階の渡り廊下で「瀬名には構うな」と釘を刺した当日のことだったとは。この片割れは、約束をしたその日にさっそく破ってくれたということだ。
「桜輔、マジ見損なったわ……」
「ほんとごめんモモ!」
「はあ……分かったから、続き」
「ありがとう。えっと、水沢くんに声をかけたのは、実は牽制するためだったんだよね」
「牽制?」
当初、桜輔は瀬名を警戒していたらしい。傷つけるくらいなら、モモに関わらないでほしいと。
「いやお前は何様だよ……」
「え? モモの双子のお兄ちゃんだよ」
「出た……」
「はは、先輩たちって揃うと面白いんすね」
「どこがだよ……」
春のその日、瀬名と話した桜輔は、真剣な想いを知って応援する方向へすぐに転換したらしい。アドバイスもたくさんしたのだとか。エビフライを作って持っていったのもそうだ、と言われてひっくり返りそうになった。桜輔の手のひらの上でまんまと転がされていたのだと思うと腹立たしく、それでもあれは美味しかったなあと、瀬名にまた食いたいとおねだりしてしまった。
「いつでも作りますよ。他にも色々モモ先輩に食べてほしいんで、リクエストください」
「マジ? やった」
「でね、先輩。本題はここからなんです」
「本題?」
「モモ、驚かないで聞いてほしいんだけど……単刀直入に言うと、cherryは俺なんだ」
「……え?」
突然出てきた“cherry”というワードに、思考がストップした。
チェリーは俺? さくらんぼのことか? いやお前は人間だろ。なに言ってんだ俺の片割れは……
呆れそうになったのは、本当は一瞬で意味が分かってしまったからかもしれない。信じたくなかったからこその現実逃避だ。それを分かっているらしく、桜輔は話を続ける。
「どっちもmomoの歌を聴いてるって気づいたのは、わりとすぐだったよね」
「っすね。モモ先輩のことを放課後に話してる時、momoが投稿した、って通知が同時に鳴って。お互いにそれが見えちゃって」
「はは、自己紹介し直したよね。あれ面白かったな、アンミツですー、cherryですーって」
「いやいや、全然面白くねえから! てか桜輔……どうやって俺のアカウント見つけたんだよ」
「ああそれは。部屋から歌声聴こえてきて、だから試しに検索……」
「あー……うん。ごめん、もういいわ」
あまりの衝撃に頭がクラクラしてきた。驚かないで聞いてほしい、なんてよく言えたものだ。無理に決まっている。もういっそ、数秒で構わないから気絶してしまいたい。
cherryはアンミツとほぼ同じ時期、つまりmomoとしての活動を開始してすぐにコメントをくれたアカウントだ。cherry自身の投稿はひとつもなく、フォローもフォロワーもmomoだけ。あれが桜輔だった、だなんて。
「桜輔に聴かれてたとか……穴があったら入りたい、ってこういう時言うんだろうな。穴なかったら自分で掘りたいくらいだけど」
「そんなこと言わないで。俺は本当のことしかコメントしてないよ。モモの歌がすごく好き」
「……いやハズイって」
身内の贔屓だろう、なんて卑下しそうになるが、桜輔が心の底から言っているのは伝わってくる。劣等感を抱いてばかりだった桜輔に真正面から褒められて、心の端っこで蹲っている幼い自分が顔を上げるのが分かる。
このままだと泣いてしまいそうだ。誤魔化したくて話題を少し変える。
「てかさ、cherryってそういうことかよ? 桜ってたしか英語でチェリーブロッサムだもんな。桜輔の桜、ってこと?」
「あ、オレも思ってました。でも、もっと深い意味がありそう」
「深い意味って?」
「モモ先輩はオウトウって分かりますか?」
「いや、知らねえ」
「さくらんぼの別名というか、正式名称っすね。漢字で書くと桜と桃で桜桃です。桜輔先輩の桜とモモ先輩の桃で、cherry。そうっすよね?」
「いやいや瀬名、さすがに……」
瀬名が突拍子もないことを言う。考えすぎだよな、と同意を得るつもりで桜輔のほうを見たのに。その表情に絶句する羽目になってしまった。にこやかに笑っているのが怖い。
「水沢くんって賢いんだね」
「桜輔先輩、モモ先輩のガチ勢って感じだし。そのくらいやりそうだから」
「はあ!? いや怖ぇよ! 桜輔が俺のガチ勢ってなに!?」
「そんなの当たり前じゃない? 俺はモモの唯一無二の双子のお兄ちゃんだし。いちばん近くで応援してるのは俺だって自負があるから」
「え……? それはオレだって絶対に負けませんよ。こっちは唯一無二の彼氏なんで」
「いやいや、なにそのバトル……意味分かんねぇから……」
cherryが桜輔だったという事実に驚く思いの中に、確かに怒りを帯びた恥ずかしさも混じっていたのに。ふたりのしょうもない戦いを前に、毒気を抜かれてしまった。尚も言い合いをしているふたりを笑いながら眺めていると、突然視線がこちらを向いた。しかもふたり分の、だ。
「……え、なに?」
「話はまだ終わってないの思い出した。ね、水沢くん」
「っす」
「マジでなに!? これ以上なんだよ、もういっぱいいっぱいだけど!?」
「モモ」
「モモ先輩」
「へ……はい」
真剣な様子に、ついベッドの上で居住まいを正す。ごくりと息を飲むと、桜輔が口を開いた。
「ねえモモ、momoはもっと上に行けるよ。水沢くんと一緒にそれを伝えたくて、今日は来てもらったんだ」
「……え?」
視線を向ければ、瀬名も神妙な面持ちで頷いた。
「momoの歌は、もっとたくさんの人に届くべきです」
「そうだよ。今のフォロワー数や再生回数程度で燻ってていいような歌声じゃない」
「……いや、さすがに買いかぶりすぎだろ」
瀬名は今や彼氏で、桜輔は双子の兄弟だ。本当に気に入って聴いてくれているのは伝わっているが、それでもやはり贔屓目はあるだろう。
「前にDMで言ったことあるんすけど、ユーチューブにもあげてみませんか? あそこは動画に特化してるから強いはずです」
「あー、いや……」
「それはマストだよね。あとは、投稿時間もちゃんと考えたほうがいい。モモ、いつも動画撮れたらすぐに投稿してるでしょ? 時間とか気にせず」
「う……」
「編集ももっと力入れたいっすよね。定点もいいけどMVっぽく撮ったり、タイトル入れたりとか」
「すごくいいと思う。あとは宣伝として、他のSNSもやろう」
「いいっすね。オレ、そのための協力ならなんでもします!」
「俺もそのつもりだよ」
「ちょ、ちょっと待った!」
ふたりの指摘はもっともだ。考えたことがなかったわけじゃない。
他人と比べられることを恐れ、見て見ぬふりをしてきた。だが、そうも言ってられないとも思い始めていた。まだ誰にも打ち明けていないが、本格的に音楽の道へ挑戦したいと考え始めているからだ。初めてのオリジナル楽曲を完成させることができて、奏でたい音楽が次々に溢れてきている。
この想いをふたりに伝えてしまおうか。決意を持って顔を上げれば、瀬名と桜輔が勝ち気な笑みを浮かべていた。ああ、なんて心強いのだろう。
「俺さ、実は、音楽をちゃんとやりたいって考えてた。だから、瀬名と桜輔が……アンミツとcherryもだな。真剣に考えてくれててすげー嬉しい。自分ひとりじゃできなかったこと、ふたりがいたらできるのかもな」
「モモ先輩!」
「わっ、ちょ、瀬名!」
照れくさいながらも言い切ったら、思わずといった様子で瀬名が抱きついてきた。桜輔の前で、と慌てたが、瀬名の肩の向こうに微笑んでいる桜輔が見える。自分にはお構いなく、と言いたげな見守る態度がありがたいような、余計に居心地が悪いような。妙な気持ちでいると、桜輔が立ち上がって瀬名の肩をポンとたたく。先ほどまでとは打って変わって、なにか目論んでいるような意味深な笑みを覗かせている。
「ねえ水沢くん、俺もモモのことハグしたいなあ」
「……は? 桜輔お前なに言って」
「ちょっと桜輔先輩、今はオレに譲ってくださいよ」
「いやまずは俺じゃない? 悪いけど、こっちはお腹の中から一緒なんだよね」
「ちょ、年月マウントやめてください。絶対敵わないじゃん」
「……ふ。あははっ」
「モモ先輩?」
「モモ?」
桜輔はただ瀬名をおちょくっているだけだ。だが瀬名はそんなことには気づかず、真っ向から受け取ってしまう。今真剣な話をしていたのにな、となんだか拍子抜けしてしまう。するとふたりがきょとんとした顔をするから、ますます笑うのをやめられない。
「あー、笑ったー」
ひとしきり笑ったら、改めてふたりに感謝を伝えたくなった。
「あのさ、瀬名、ありがとうな。お前に出逢えてよかった」
「モモ先輩……」
まずは、と瀬名をまっすぐに見る。眉間をくしゅっと寄せる瀬名の髪を撫でる。
桜輔へ抱いてきた劣等感は、ずいぶんと膨れ上がっていた。だからだったのだろう、まっすぐ向けてくれていた瀬名の気持ちも、まさか本当に自分のことだとはにわかには信じられなかった。それでも腐らず想い続けてくれていた瀬名に、恋心は今も大きくなり続けている。
続いて、桜輔に視線を移す。
「桜輔も……今までその、色々ごめん。本当は俺も思ってる、大事な兄弟だって」
「モモ……」
まともに会話することすら拒んできた間だって、桜輔はどうしようもない弟をしっかり見てくれていた。今では真面目なだけではない、こんなふざけたこともしかけてくる。そう言えば、そういう兄だったな。じゃれるのが大好きな懐っこい兄で、いつもいつも一緒だった。それが好きだった。
これから先、趣味だった音楽が歩む道になる。その道には、瀬名と桜輔のあたたかな手が添えられている。
今までみたいにはしない。音楽は絶対に手放さない。もう比べられることから逃げない。なにがあったってこれが俺だ、と力強く立っていたい。そういられる気がする。このふたりと出逢えたからだ。どこまでも飛べる、そう思える。
今度は二人の顔を交互に見て、強く頷いてみせた。
「俺、頑張るよ。絶対に諦めない」
「っ、モモ先輩……すげーかっこいいっす!」
「モモ~! モモは自慢の弟だよ、今までもこれからも」
こみ上げてしまった涙ごと笑えば、瀬名も鼻を啜って、桜輔はその手で髪を撫でてきた。おまけのように瀬名も髪をかき混ぜられ、最後にはふたりまとめるように桜輔が抱きついてくる。
「はは、なんか……すげー幸せかも」
ついそんな言葉をもらしたら、瀬名も桜輔もそうだねと笑った。
あっという間に3月になった。卒業式は滞りなく終わり、森本と尾方に「また後でな」と手を振って廊下へ出る。泣いている者たちや、解放感からか大騒ぎをしている者たち。式を終えたばかりの校内は賑やかなのに、どこか空気が澄んで厳かにも感じられるから不思議だ。
「モモ先輩!」
「瀬名。待ったよな、ごめん」
廊下を埋めつくすような人波を縫って、想定外に少し足止めを食らって。屋上前へとたどり着いた。卒業式の後にここで会いたい、と言い出したのは瀬名だった。それなのに、不覚にも遅くなってしまった。
「いや、全然いいんすけど……もしかして告られたりしました?」
「え。なんで分かんの?」
「……胸んとこの花、なくなってる。あげたんすね、うちのクラスの女子に」
「……瀬名ってエスパーだったんか」
「あの子、前から先輩のこと狙ってたの知ってたんで。協力してって言われたこともあるし」
「え、マジ?」
「……協力なんかするかっつうの」
屋上にくるまでに時間がかかってしまったのは、一年の女子に呼び止められたからだった。どこかで見たことがある子だな、と思ったら。少し離れたところで、瀬名にいつもくっついて恋する目を見せていた女子が見守るように立っていた。それを見て思い出した。目の前で恥じ入った様子を見せているのは、その女子の隣にいつもいた子だ。瀬名を目で追ってしまう時に、目が会ったことも何度かあった。
一体なんの用だろう。そう思ったのも束の間、「好きです!」なんて言われるものだから、面喰ってしまった。
「え……え、俺!?」
「そうです、笹原先輩です」
「ええー……ちなみに笹原違いでもねえの? 桜輔なら俺じゃねえけど」
「間違ってないです。桃輔先輩のことです」
「あ、そう……変わってんね」
そんな会話をした後、付き合っている人がいるのだと伝えた。まさか、泣かれてしまうとは思わなかった。告白されることも、自分のせいで女子が泣くのも慣れていなくて。どうにかして泣き止んでもらえないかと必死に考え、せめてもと胸ポケットに飾られていたコサージュを渡してきたのだった。
「もしかして瀬名も欲しかった? あの花」
「そうじゃないっすけど……他のヤツの手に渡ったのは面白くない」
「まあ、確かにそうだよな」
差し出された手を取って、階段のいちばん上に座る瀬名の隣に腰を下ろす。瀬名の頬は少し膨らんでいて、失敗したなあと思う。捨てられてしまうゴミですら、瀬名を想う誰かに瀬名の手から渡ったら――そう想像してみればなるほど、たしかに面白くない。
「瀬名」
「…………」
「せーな」
少し腰を浮かせて、瀬名の頬にくちびるを押しつける。一瞬のくちづけに、瀬名は勢いよくこちらを向いた。
「うわ、今のはずるい……」
「嫌だった?」
「最高だった」
「あはは! よかった。ごめんな、瀬名。花はなくなっちゃったけど、あとは全部あげるよ」
「全部?」
「うん。瀬名が欲しいものは全部。ネクタイとか? いっそブレザー? は、入らないか」
愛されている、大事にされている。そんな風に心から信じられる日がくるなんて、思ってもいなかった。
例えばこんな風にキスをすることで、恋人の気分を上げられると分かるようになった。自惚れもいいところだ。思った通りに受け取ってくれる、そう自負しているということだから。
信じられるくらいの想いをもらっていて、それくらいの想いをきっと捧げられている。バカップルと誰かに呼ばれても、言い訳ひとつできない。
「じゃあモモ先輩」
「うん」
「卒業しないでください」
「……え?」
「学校に来ても明日から先輩がいないの、すげー寂しい」
そろそろと指が絡んで、ぎゅっと力が込められた。
卒業したって、これからだって外で、家で、いろんなところで会える。けれど、そういう意味じゃない。瀬名の考えていることが、繋いでいる手から滾々と流れこんでくるみたいだ。
「瀬名……あの公園で見つけてくれて、この学校に来てくれてありがとな。瀬名のおかげで、俺すげー変わったなって思うよ。俺ってこんなに、色んな感情持ってたんだなーって。そんなことも知らなかった。瀬名に出逢うまで、どう生きてきたのかもう覚えてないくらい。大袈裟に聞こえるかもだけど、マジだよ」
「先輩……」
「ここでの最後の一年、瀬名といて本当に楽しかった。瀬名にとっての一年も、俺がいたことでそうで、惜しんでもらえるのってすげーよな。だから……置いてくみたいで、俺もめちゃくちゃ寂しい。瀬名の高校での思い出全部に、俺もいたかった。あー……はは、クラスでも別に泣かなかったのに。瀬名のことだと俺ダメだわ」
照れ隠しに鼻を啜ると、涙をいっぱい瞳に溜めた瀬名が抱きついてきた。勢いのあまりか、気がつくと床に背が付いていた。見上げると、瀬名の涙がひとつぶ落ちてくる。冷えた床、ぬるい指先に熱い頬。ああ好きだなあ、と吐息がこぼれる。
「オレも、モモ先輩に会えて本当によかった。モモ先輩が音楽を好きで、唄ってくれて、それを世界に見せてくれて……どれかひとつなかっただけで出逢えなかったのかなって思うと、怖いくらい。寂しいけど、すげー寂しいけど。先輩に出逢えた今があるから、頑張るよ」
「うん、応援してる。瀬名がくれる心強さを俺もあげられるように、頑張るよ」
「もうもらってるっすよ、いっぱい」
階段へ投げ出された足に、瀬名のそれが絡まる。瀬名の顔がゆっくりと近づいてきて、頬にくちびるにとキスが落ちてくる。それからまつ毛を濡らす涙を吸われて、お返しにと瀬名の涙にもキスをした。ひとしきりそうしたら、満たされた心が笑顔を連れてくる。
「……ふ」
「はは。瀬名、かーわいい」
「モモ先輩もだいぶかわいいっすよ。あと、かっこいい」
「瀬名もな。かっこいいよ、すげーかっこいい。なあ、俺のいないとこであんまモテんなよ。まあ今更だろうけど」
「最近はオレ、付き合ってる人いるって宣言してるんで」
「え、そうなん?」
「っす。それより、先輩こそっすよ。応援してるけど、あんまり人気者になったら妬けるかも」
「マジか。ちなみにアンミツ的には?」
「古参として自慢しまくりっすね。momoは最初っから最高だったんだよなーとかコメントする」
「あはは! 即答!」
「cherryにも絶対に負けないんで」
「ふはっ、分かった、分かったから」
なあ瀬名、本当に色んな感情に出逢えた日々だった。泣き笑いが似合うこの恋は、なによりの宝ものだ。
「今日はクラスの打ち上げとかあるんすよね……」
「だなあ」
離れがたいといった顔をする瀬名の背中に、腕を回す。引き寄せて、抱きしめ合って。ああ、やっぱり宝ものなのは瀬名自身だな、なんて思う。探し当てられたのはこちらでも、今この手に自分こそが宝を抱いているのだ。
「瀬名~」
「はは、なんすか。モモ先輩~」
両想いになれたから、彼氏だから大切にするんじゃない。最初からずっと大切だった瀬名に、この一生をかけてそう伝られたらいい。まずは手始めにその名前を。愛しくて口の中で転がしたら、似た笑顔の愛が返ってきた。
ひとしきり抱きしめ合って、キスをして。最後だから思い出にちょうだい、と言われて、少しだけ深いキスも初めてしてしまった。瀬名に乞われたら本当になんでもあげてしまいたくなるから、気をつけてねだってほしい。
名残惜しかったが、ふたり並んで校門を出る。駅まで送ってくれるらしい。
「明日はうちに集合だったよな」
「っすね。昼過ぎには行こうと思ってます」
「ん、待ってる」
音楽の道へ踏み出す一歩のため、少しずつ準備をしてきた。まだなにも投稿はしていないがユーチューブのチャンネルを作ったり、瀬名の指揮のもと、オリジナル曲のMVを撮り直したり。こんな日が来るのではと考えて、動画制作の勉強をしていたというから驚きだ。学校の屋上前、瀬名の家の近くの公園、それから自宅の部屋。様々な場所で弾き語る姿を、瀬名のスマートフォンで撮影した。
両親へも思いを伝えた。進学はしないことに不安を感じさせたようだったが、最終的には「やれるだけやってみなさい」と背中を押してくれた。桜輔のほうは大学への推薦入学が決まっていたからそのおかげ、という部分も大きかっただろう。森本と尾方にも報告した時は、驚きながらも「すげー応援する!」と強くハグされてしまった。
それから、新しい曲が二曲完成し、そちらもMVを制作した。好きなものはそう簡単には変わらなくて、ブルージーな世界観を追い求めたらどちらも失恋ソングになったのだが。それを聴いた瀬名が、なんと泣いてしまった。自分たちの恋が終わることを想像してしまったらしい。ただの妄想だと慰めて分かってはくれたようだが、それ以降、瀬名の愛情表現はエスカレートしてきている。現に今も歩きながらも、人目も憚らず隙あらば頬を撫でたり、腰を抱いたりしてくる。嫌ではないから構わないのだけれど。
ドキドキとうるさい心臓には気づかないふりをして、明日の予定を確認する。
「動画の最終確認と、投稿だよな」
「っす。明日から三日連続でアップします。宣伝も頑張りますんで」
「ありがとな。てか早く見たい、瀬名が作ってくれた動画。すげー楽しみなんだよな」
当初こそ、明日を迎える前に桃輔もチェックをする手筈だったのだが。まずは瀬名と桜輔で確認したところ、これでいこうと太鼓判を押してもらえたらしい。せっかくだから本人であるmomoには当日のサプライズで、という話でまとまったとのことだ。
「気に入ってもらえるといいんすけどね」
「ああ、それは大丈夫」
「え?」
「気に入る自信すげーあるから。だって瀬名のこと想いながら作った曲のMV、瀬名が作ってくれるとか。こんな最高なことねえもん」
「モモ先輩……」
桜輔は四月から東京の大学、瀬名は高校二年生に進級。自分の生活があるのに、桜輔はマーケティングを、瀬名は今後も動画制作を主に担ってくれることになっている。そんなふたりが後悔しないだけではなく、やってよかったと思えるように誰より自分が頑張りたい。ふたりの努力に報いるように、道を切り開くのは自分だ。
駅に到着し、瀬名と向かい合う。辺りを少し見渡して、瀬名の手を握る。
「瀬名、俺頑張るから」
「っす」
「見ててな、いちばん近くで」
「……っ」
「はは、また泣いた」
もう人目なんて別にいいか。瀬名の頭を引き寄せて抱きしめる。今日は卒業式だったから、それだけで胸いっぱいだろうに。これからの宣言をしたせいで、泣かせてしまった。責任をもって抱きしめて、愛をもって大切にしたい。抱きしめ返してくれる腕は、伝わった印だ。
「あーあ、やっぱり今日もずっと一緒にいたかった」
「ん、俺もだよ」
「でも友だちも大事にする先輩が好きなんで。ちゃんと見送ります。楽しんできてくださいね」
「…………」
腕をほどいた瀬名が、笑顔でそう言う。ああ、その感情をよく知っている。初めてのオリジナル曲でも唄った心だ。“君の明日は今日よりひとつ楽しくて、美味しくて、綺麗なほうがいい”と。それなのに、なぜだろう。それをまっすぐ向けられてみれば、無性に寂しい。やっぱり一緒がいい、と駄々を捏ねているのだ。身勝手でみっともない恋を、今もしているのかもしれない。
でももう、ひとりで泣く恋ではないから。わがままに移り変わってしまったこの心も、渡してみたくなる。
「瀬名、あのさ。今日打ち上げ終わったら、瀬名んち行っていい?」
「……え?」
「打ち上げは楽しみだけど、やっぱり今日の最後は、瀬名といたい、っつうか……あー、わがままだよな、悪い」
「全然悪くないっす! だってオレ今、すげー嬉しい」
「マジ? あ、でも瀬名の家の人困るよな。遅くなるかもだし」
「全然平気ですって! 来るって言っとく!」
「……ほんとに? いい?」
「もちろんっす。そのままお泊りにして、明日一緒にモモ先輩んちに帰りましょ」
「あ、それいいな」
ああ、受け取ってもらえた。それが泣きそうなくらいに胸を打つ。瀬名を好きになってからこっち、両想いになってもなお、もう何度泣いたことだろう。情けないなと思いつつ、瀬名を想ってのものだから、べつにいいかと自分を甘やかしてしまっている。
「ふ」
「モモ先輩? どうしたの? 泣きながら笑ってる」
「いや、なんかさ、幸せっていつでも切ないのと隣り合わせだなって思って」
「え? あーでも分かる気がする。モモ先輩のこと大好きで幸せで、嬉しいことでもよく泣けてくるから。モモ先輩にだけ、そうなる」
「うん。一緒だな」
「ねえ先輩、あれどういう意味でしたっけ。あの曲のタイトルにも入ってる、ブルージー。最初の頃に教えてくれましたよね」
「ああ、それは……」
今度こそと、改札の目の前まで一緒に歩く。
「物悲しいとか、切ないとか。そんな感じだな」
「そうだ、そうだった。じゃああの曲は片想い中の曲だけど、今にもマッチしてるってことっすね。誰かを好きでいるって、ずっとブルージーだ」
「たしかに」
「モモ先輩天才じゃん」
「はは! じゃあ気づいた瀬名も天才じゃね」
じゃあまたあとで、とハイタッチをして、勢いよく改札を通る。そうしないとこの口が、もう打ち上げもいいかななんて言いだしそうだったから。
いつかの夏休みのように、スマートフォンをポケットから取り出してお揃いのねこのぬいぐるみを振ってみる。すると瀬名もすぐに意図を汲んでくれたようで、同じように振ってくれた。
「終わったら連絡する」
「そしたら迎えに来ますね」
「いや、それはいい」
「え。なんでっすか」
「高校生はお子ちゃまだから、そんな遅くに出てきちゃダメだろ」
「いやそれは先輩も同じじゃん」
「残念、俺はついさっき大人の階段のぼっちゃったんで」
そう言って、今度は卒業証書の入ったバッグを掲げてみせる。
「はあ? はは、そんなこと言ってる先輩のほうがお子ちゃまみたいっすよ」
「うっせ。じゃあほんとに、また」
進行方向に背を向けたまま歩いて、手を振り続ける。階段にたどり着いて、最後の最後まで見送ってくれる瀬名をもう一度振り返り、また手を振った。
ホームで電車の到着を待っていると、スマートフォンが通知音を鳴らした。確認してみると、インスタにDMが届いた報せだ。
「は? ふは、瀬名のヤツなにやってんだ?」
それはアンミツからのもので、つい周りも気にせず吹き出してしまった。気を取り直してメッセージを確認する。
<momoさんこんにちは。今日は大好きな人が卒業してしまったので、momoさんの歌を聴きにきました。切ない歌詞、メロディを唄いあげるmomoさんの声がマッチして、泣けてきます。すごく寂しいけど、好きな人の門出に立ち会えたことは幸せだなとも思っています>
「瀬名……」
今日はもう何度泣いたか本当に分からない。滲んできた涙は、けれどすぐに冷たい風に冷える。泣いていると通行人に知られないようこっそり拭っていると、続けてもうひとつメッセージが届いた。
<ちなみに、聴いてるのはもちろんこの曲です! あれから毎日聴いています!>
「はは。知ってる」
バッグからヘッドフォンを取り出し、瀬名もといアンミツが貼りつけてくれたリンクをタップする。流れてくるのは初めて作った曲、“君を唄うブルージー”だ。一年前までは出逢ってもいなかった瀬名と、今この瞬間、離れた場所で同じ音楽を共有している。瀬名が懸命に結んでくれたからこそある今だ。奇跡なんかよりずっと愛おしい。
今でこそ萎んでいる劣等感は、これから目指す世界でまたみるみると膨らむのだろう。けれど――気丈に立っていられる気もするのだから不思議だ。自信なんて今もなくても、瀬名と歩く自分のことは、信じていられる。幸せで切なくて、強くいられる恋を、瀬名としているから。
電車がホームに滑りこんでくる。乗りこんだら、間もなく線路の上を走り出す。
窓の外に流れる街。線路の音、きっといつか懐かしくなる匂い。口の中には、まだ瀬名の名残りがあることに気づく。
「もう会いたくなっちゃったじゃん」
ああ、この瞬間も切り取って唄いたい。くたくたのノートを取り出し思いのままに言葉を書き出せば、瀬名の味はブルージーな歌詞と音色に変わる。これを聴かせる時がきたら、また泣かせてしまうだろうか。でもその時は伝えよう、これは愛してると叫ぶ歌なのだと。そしたら笑い合える、絶対に。
そう思える自分を今、たしかに生きている。