そこからの会議は、ドラマなどでよく目にするような光景だった。
進行の人間が、淡々と議題を読み上げ、ときに誰かが質問し、大抵は、最初に発言した日焼けの男が答える。ただ、議論が白熱するようなことはなく、おそらくは事前に根回し的なことが完了しているのだろう。
大学に入学したとき、講義の内容や雰囲気が、ずいぶん大人びたことに驚いた。二年になり、自身もかなり成長したと自負していたが、今、目の前で繰り広げられている、情景はまるで別世界だ。
椅子の背もたれを利用する余裕もなく、一時間ほど集中し、観察している中で、いくつかのことが判明した。
まず、悪徳不動産業者は、千林という名の社長だった。その隣が、彼よりは年齢は明らかに上ではあるが、副社長だ。以下、時計回りに専務やらの取締役が続く。司会は役員室秘書という肩書きで、この会議の取り仕切りが主たる役割のようだ。
会社の事業内容は、大きな分類ではIT関連。ネット通販主体で成長してきたようだが、最近は頭打ちで、数年前から、暗号資産を始めとした新規事業への参入を試みているという状況だ。
「次は第十号議案。社外取締役会の選任について」
議題が読まれるのと同時に、再び視線を感じて、血流が加速した。
司会が、彼の正面に目配せをし、それに呼応して社長の千林がゆっくりと腰を上げた。
「では改めて。社外取締役会の候補を紹介します。え……と、お名前が、えさかき……きりさん、で、ええんですよね」
「あ、はい、そうです」
「で、ご職業が桜桃女子大学環境学部の二年、と」
だが、そこまで言ったところで、彼は机に両手をつき、大きなため息をついた。
「ほんま頼むわ。何でこんなことになってんねん」
吐き捨てるような口調に、司会の男が飛び上がるように席を立つ。
「申し訳ありません。人材会社の手違いでして――」
「それは問題のすり替えやろ。もっと余裕持って手配してたら、こういうトラブルにも対応できたんと違うんか」
部屋の空気があっという間に希薄になる。
これまでのやり取りを見るに、どうやら彼はワンマン社長らしい。その意見に、誰かが強く反論することがない。
唯一、対等な、というよりは、どこか斜に構えた口を利いていたのは、隣にいた副社長の富田だけだ。
「そんなこと言うて、千林さんが急に思いついたんやないですか。指示出したのが半月ほど前やったと記憶してますけど」
「ああ、そうやったっけ。ほな俺が悪いんか」
冗談には聞こえない短い掛け合いのあと、社長は音を立てて椅子に座り、そのまましばらく腕を組んで天井を見上げていたが、やがて両肘をテーブルに置き、綺里に顔を向けた。
「契約書の名前、ちゃんと確認せんかったのはこっちも悪いし、今日、無理言うて来てもろてんのはわかってるけど。もう少しまともな格好できへんの?うちの会社、なめてんの?」
そのひと言で、それまで、アウェイの状況で眠っていた綺里の意識が覚醒した。
どうひいき目に見ても、彼らが悪いと思っている口調ではない。
何かの縁だと、高い本まで買って前向きになろうとしていたのに。
考えをまとめるために、時間をかけて立ち上がった。
「ではお聞きしますけど。平服でお越し下さいって、そう案内されたのは、あーしの読み間違いですか?」
まさか反論されると思っていなかったのだろう、そこにいた全員の目が三割大きくなるのが見えた。
「いやいや。儀礼的な文章を言い訳に使われても。常識知らずにもほどがあるで、あんた」
社長の口調が強くなる。
「だったらその常識が間違ってるんだ。何も書かなければ、こっちだって少しは格好に気を使ったかもしれないのに、わざわざ逆の方向へ誘導するとか、意味わからないし」
「あのなあ。だいたい、会議が十時から始まるのに、ぴったりに来るとか、ないやろ、普通。初対面なんやし、三十分くらい前にきて、挨拶するとか、段取り確認するとか」
「だったら、メールでそう指示すればいいんだ」
「そんなん、普通の社会人ならわかるんや。それが常識知らずやって、さっきから言うてんねん」
彼の頬はうっすらと赤く染まっていた。周囲の人間は、二人の口論を興味深そうに見守っているが、今のところただの観客で、どうやら仲介に入るつもりはないらしい。
「普通とか常識とか。そっちの狭い視野で物事を語ってるだけでしょ」
もはや、仕事だとか報酬だとか、そんな本来の目的は頭のどこにも存在していなかった。
綺里の感性に照らせば、たとえ仲間内の集まりであっても、場馴れしていない後輩がいれば、真っ先にその人間のことに気を配るのが筋のはずだ。少なくとも、涼葉がいれば絶対にそうしている。だが、ここにいる人間の誰一人にも、そんな配慮が感じられない。
「ここって取締役会ですよね。つまり、役員全員が揃ってるってことじゃないんですか?」
「はあ?何や、急に。そんなん、当たり前やろ」
「つまり、これまで、最高意思決定機関に女が一人もいなかった。違います?」
「それが……何だっていうの」
綺里の目論見通り、相手はやや声を低くした。
「ちなみに、あーし以外の社外取締役は誰?」
「あんたが、一人目。それも手違いやけどな」
「話にならない。2014年に政府が国家戦略として、コーポレートガバナンスの強化、働き方改革、それにダイバーシティの推進を提起した。それが企業価値の向上につながるなんて、それこそ常識だ。それからもう十年経ってるのに、未だに女性役員も社外取締役もゼロとか、どんだけ昭和の会社なんだか。経営陣の意識がまるで改革されてない。ESGってわかる?環境、社会、統治のこと。それらを形式的に考えてるだけの組織に、優秀な人材が集まるはずがない」
「何を見ながら喋ってるんや、あんた」
「社外取締役と企業統治についての本ですけど?」
「そういうのは、自分の言葉で語って初めて説得力が出ると思うけどな。まあ、ええわ。言うてることに間違いはないし」
それなりに厳しい指摘をしたつもりだったが、意外にも相手は反撃してこなかった。
千林は、椅子を少しだけうしろに移動させ、片膝を上げて足を組み、背もたれに重心をかける。
しばらくして、それまでよりは語調を弱くして続けた。
「もともと何の話やったっけ。調子狂うわ、ほんまに。もうええ、先、続けてんか」
司会はどこか戸惑ったように、出席者を見回した。
「え……と。では江坂様の選任については了承いただけたということでよろしい――んですよね?任期は一年となります。あくまで書類の上、ですが。続きまして、最後、第十一号議案。新規広告媒体への進出について。担当は経営企画室。説明をお願いします。あと、江坂さんは座って下さって結構です」
非礼に対して何の謝罪されていないのだと、さらに追撃したかったが、これまでほとんど使ったことのない脳のフィールドを酷使し、疲労を感じていたのは確かだった。いったん休息を取るために綺里が椅子に座るのを待って、隣の男が緊張した面持ちで立ち上がった。
「経企の桜井です。資料は別紙の五番です」
それまで周りを観察する余裕などなかったが、内容は別にして、発言したことで、多少は落ち着きを取り戻した。
この場にいるのが全員役員だとすれば、桜井と名乗った彼は、その若さで随分出世していることになる。
ぼさぼさの髪で覇気のない態度。スーツもあまり高そうには見えないが――綺里自身を引き合いに出すまでもなく、人を見かけで判断するのは良くないだろう。
進行の人間が、淡々と議題を読み上げ、ときに誰かが質問し、大抵は、最初に発言した日焼けの男が答える。ただ、議論が白熱するようなことはなく、おそらくは事前に根回し的なことが完了しているのだろう。
大学に入学したとき、講義の内容や雰囲気が、ずいぶん大人びたことに驚いた。二年になり、自身もかなり成長したと自負していたが、今、目の前で繰り広げられている、情景はまるで別世界だ。
椅子の背もたれを利用する余裕もなく、一時間ほど集中し、観察している中で、いくつかのことが判明した。
まず、悪徳不動産業者は、千林という名の社長だった。その隣が、彼よりは年齢は明らかに上ではあるが、副社長だ。以下、時計回りに専務やらの取締役が続く。司会は役員室秘書という肩書きで、この会議の取り仕切りが主たる役割のようだ。
会社の事業内容は、大きな分類ではIT関連。ネット通販主体で成長してきたようだが、最近は頭打ちで、数年前から、暗号資産を始めとした新規事業への参入を試みているという状況だ。
「次は第十号議案。社外取締役会の選任について」
議題が読まれるのと同時に、再び視線を感じて、血流が加速した。
司会が、彼の正面に目配せをし、それに呼応して社長の千林がゆっくりと腰を上げた。
「では改めて。社外取締役会の候補を紹介します。え……と、お名前が、えさかき……きりさん、で、ええんですよね」
「あ、はい、そうです」
「で、ご職業が桜桃女子大学環境学部の二年、と」
だが、そこまで言ったところで、彼は机に両手をつき、大きなため息をついた。
「ほんま頼むわ。何でこんなことになってんねん」
吐き捨てるような口調に、司会の男が飛び上がるように席を立つ。
「申し訳ありません。人材会社の手違いでして――」
「それは問題のすり替えやろ。もっと余裕持って手配してたら、こういうトラブルにも対応できたんと違うんか」
部屋の空気があっという間に希薄になる。
これまでのやり取りを見るに、どうやら彼はワンマン社長らしい。その意見に、誰かが強く反論することがない。
唯一、対等な、というよりは、どこか斜に構えた口を利いていたのは、隣にいた副社長の富田だけだ。
「そんなこと言うて、千林さんが急に思いついたんやないですか。指示出したのが半月ほど前やったと記憶してますけど」
「ああ、そうやったっけ。ほな俺が悪いんか」
冗談には聞こえない短い掛け合いのあと、社長は音を立てて椅子に座り、そのまましばらく腕を組んで天井を見上げていたが、やがて両肘をテーブルに置き、綺里に顔を向けた。
「契約書の名前、ちゃんと確認せんかったのはこっちも悪いし、今日、無理言うて来てもろてんのはわかってるけど。もう少しまともな格好できへんの?うちの会社、なめてんの?」
そのひと言で、それまで、アウェイの状況で眠っていた綺里の意識が覚醒した。
どうひいき目に見ても、彼らが悪いと思っている口調ではない。
何かの縁だと、高い本まで買って前向きになろうとしていたのに。
考えをまとめるために、時間をかけて立ち上がった。
「ではお聞きしますけど。平服でお越し下さいって、そう案内されたのは、あーしの読み間違いですか?」
まさか反論されると思っていなかったのだろう、そこにいた全員の目が三割大きくなるのが見えた。
「いやいや。儀礼的な文章を言い訳に使われても。常識知らずにもほどがあるで、あんた」
社長の口調が強くなる。
「だったらその常識が間違ってるんだ。何も書かなければ、こっちだって少しは格好に気を使ったかもしれないのに、わざわざ逆の方向へ誘導するとか、意味わからないし」
「あのなあ。だいたい、会議が十時から始まるのに、ぴったりに来るとか、ないやろ、普通。初対面なんやし、三十分くらい前にきて、挨拶するとか、段取り確認するとか」
「だったら、メールでそう指示すればいいんだ」
「そんなん、普通の社会人ならわかるんや。それが常識知らずやって、さっきから言うてんねん」
彼の頬はうっすらと赤く染まっていた。周囲の人間は、二人の口論を興味深そうに見守っているが、今のところただの観客で、どうやら仲介に入るつもりはないらしい。
「普通とか常識とか。そっちの狭い視野で物事を語ってるだけでしょ」
もはや、仕事だとか報酬だとか、そんな本来の目的は頭のどこにも存在していなかった。
綺里の感性に照らせば、たとえ仲間内の集まりであっても、場馴れしていない後輩がいれば、真っ先にその人間のことに気を配るのが筋のはずだ。少なくとも、涼葉がいれば絶対にそうしている。だが、ここにいる人間の誰一人にも、そんな配慮が感じられない。
「ここって取締役会ですよね。つまり、役員全員が揃ってるってことじゃないんですか?」
「はあ?何や、急に。そんなん、当たり前やろ」
「つまり、これまで、最高意思決定機関に女が一人もいなかった。違います?」
「それが……何だっていうの」
綺里の目論見通り、相手はやや声を低くした。
「ちなみに、あーし以外の社外取締役は誰?」
「あんたが、一人目。それも手違いやけどな」
「話にならない。2014年に政府が国家戦略として、コーポレートガバナンスの強化、働き方改革、それにダイバーシティの推進を提起した。それが企業価値の向上につながるなんて、それこそ常識だ。それからもう十年経ってるのに、未だに女性役員も社外取締役もゼロとか、どんだけ昭和の会社なんだか。経営陣の意識がまるで改革されてない。ESGってわかる?環境、社会、統治のこと。それらを形式的に考えてるだけの組織に、優秀な人材が集まるはずがない」
「何を見ながら喋ってるんや、あんた」
「社外取締役と企業統治についての本ですけど?」
「そういうのは、自分の言葉で語って初めて説得力が出ると思うけどな。まあ、ええわ。言うてることに間違いはないし」
それなりに厳しい指摘をしたつもりだったが、意外にも相手は反撃してこなかった。
千林は、椅子を少しだけうしろに移動させ、片膝を上げて足を組み、背もたれに重心をかける。
しばらくして、それまでよりは語調を弱くして続けた。
「もともと何の話やったっけ。調子狂うわ、ほんまに。もうええ、先、続けてんか」
司会はどこか戸惑ったように、出席者を見回した。
「え……と。では江坂様の選任については了承いただけたということでよろしい――んですよね?任期は一年となります。あくまで書類の上、ですが。続きまして、最後、第十一号議案。新規広告媒体への進出について。担当は経営企画室。説明をお願いします。あと、江坂さんは座って下さって結構です」
非礼に対して何の謝罪されていないのだと、さらに追撃したかったが、これまでほとんど使ったことのない脳のフィールドを酷使し、疲労を感じていたのは確かだった。いったん休息を取るために綺里が椅子に座るのを待って、隣の男が緊張した面持ちで立ち上がった。
「経企の桜井です。資料は別紙の五番です」
それまで周りを観察する余裕などなかったが、内容は別にして、発言したことで、多少は落ち着きを取り戻した。
この場にいるのが全員役員だとすれば、桜井と名乗った彼は、その若さで随分出世していることになる。
ぼさぼさの髪で覇気のない態度。スーツもあまり高そうには見えないが――綺里自身を引き合いに出すまでもなく、人を見かけで判断するのは良くないだろう。