「つまり、大人というのは、世間体や体面をやたら気にする生き物ってことだ」
そういえば、明日、出向くことになっている会社も、元はそれが理由だったっけ。
それからしばらく、全員が黙った。
会ったときに比べて、高校生たち二人の熱量が冷めているのがわかる。
大人たちからではなく、年の近い大学生に諭されたことで、多少は溜飲が下がったのだろうか。
あるいは、無理は承知で、ただ、誰かに窮状を知ってほしかっただけなのかもしれない。
解決への道筋がまるで見えない重苦しい空気。やがて男子が時計に目をやった。
「そろそろ部活に戻らんとあかんので。今日は話を聞いてもらってありがとうございました」
あきらめたように頭を下げる姿に、悪いことをした気になった。何とかしてくれと、無茶を言われたほうが、気は楽だったかもしれない。
「あーしもちょっとトイレ」
気まずさをリセットするため、席を立つ。
学生にとっての後輩は、ほとんど身内のような存在だ。無償の手助けをしてやりたいが、交渉術でどうにかできるレベルにないことは確かだった。
母校の評判を上げるための、代替策は何かないのか。一卒業生には大きすぎる難題に悩みながら戻ると、残っていた二人が、少し前までとはまるで違い、何やら華やいでいる声が、廊下にもれ聞こえていた。
「目の前であーしを聞けてちょっと感動しました。在学中は雲の上の人でしたもん」
「綺里姉が前に住んでたのが東京の向島っていう、下町だったらしいんだけど。そこでの育ての親が、客商売をしていたらしいんだ。確かマリリンさん、だったかな。その人の影響を受けたみたい」
「そうなんですね。ちなみに、涼先輩はずっと関西やのに、何で標準語なんです?やっぱり綺里先輩を尊敬してるからとか?大学どころか学部まで一緒なんて、普通やないですよね」
「言葉は、反面教師的な影響なんだと思う。うちがしっかりしないと、って。だから尊敬してるのとはちょっと違って――そうだな、意思疎通できるネコを飼ってる感覚に近いかも。観察してると色々発見があって飽きないから。もう、手放したくないっ、て感じ」
「あー。それ、何となくわかります。ぱっと見、不良少女っぽいのに童顔なのも惹かれますしね」
「そうそう。あんな感じなのに、意外に理系脳で、おまけに草木や環境に関心があるとかさ――」
笑いながら入り口に顔を向けた彼女と視線が交差した。
「あ」
「あ、じゃないだろ。涼さあ、あーしのことをそんな風に思ってたのか。ちょっとショックだよ。あと、マリリンじゃなくて、マリンさんだから」
「そんな前から聞いてたんなら、声かけて下さいよ。あーびっくりした」
東京暮らしを始めて一年した頃、祖母が他界した。もちろんそのことはとても悲しかったが、反面、さすがに母が戻ってくるのだと、ひそかに期待していた。ただ、そんな希望はすぐに打ち砕かれる。葬儀のために帰国した彼女は、二度目の子育て放棄を迷うことなく選択したのだ。
それからは、祖父との二人暮しだ。
うすうすは気づいていたが、昭和の親方気質の人間は、仕事のとき以外、ほぼすべての時間で、何の役にも立たなかった。
床や廊下は、次第に足の踏み場がなくなり、風呂はカビによる前衛芸術作品と化していく。
そのことは、すぐに近所でも噂になったようだ。
家がゴミ屋敷という名称で呼ばれるかどうかの瀬戸際になった頃、見かねたのだろう、近くに住む年齢不詳の女性がやってきて、家事を手伝ってくれるようになった。
周囲には、安価な飲み屋が多い地域。午前中は、下着同然の姿で家の周辺にいて、綺里が下校する頃に、着飾って活動を始める彼女に、それから八年、世話になった。
言葉遣いやファッションの影響を受けなかったといえば嘘になるかもしれない。
「いまだにマリンさんの年齢も本名も知らないんだ」
すでに遠い昔のことのようだと、懐かしんでいると、二人はいつからか、身を乗り出していた。
「今度、東京行きツアーを敢行しましょう。綺里先輩のルーツをたどる旅、です」
滝井の中では、テニスコートのことは、すでになかったことになっているらしい。
すっかり元気になった彼女と別れたあと、涼葉と二人、挨拶のために職員室に顔を出すことにした。
中に入るとすぐ、何人かの教師から声をかけられる。
「頼むから面倒事はやめてや」「給料日前やし、金はないからな」
近くにいた二年のときの担任と目が合った。
「ソフテニのコート、つぶすって聞いたんですけど」
「何や、もう知ってるんか」
彼は小さく笑って言葉を濁し、周囲からも、「あー……」という、どこかあきらめに似た斉唱が聞こえた。
「在校生らには申し訳ないと思うんやけどな」
生徒数が年々少なくなる現状で、何かの売りが必要だという理事たちの意見に、逆らうだけの材料も持ち合わせていないのだという。
彼らの本分は、経営ではないのだから、それも致し方ないのだろう。
校舎を出て、グラウンドへと向かう。テニスコートのそばで、相談に来ていた生徒が頭を下げた。
「学校の広さに対して、ここだけに太陽光パネルを設置しても、いかにも足りないって感じですよね」
涼葉は冷ややかにそう言った。
コートの向こうは、フェンスもなく、直接、小高い山へとつながっている。高校生の当時はただの田舎だとしか思っていなかったが、今見れば、その里山の雰囲気に、どこか懐かしさを感じる風景だ。自然が身近にある学校。価値はあるはずなのに――。
「あの子たちも、本気で解決したいって、期待してるわけじゃないんだと思います。何かの形で反対の意思表明をしていたいだけで」
「だったら、涼葉が来るだけで良かっただろ。何でわざわざあーしを連れて来たのさ」
そのせいで少なからず、心が乱されてしまった。
「みんなから、綺里姉に会わせろってせがまれてるんですよ。人気者なんですから」
「人を小動物扱いするやつの言うことは信用できん」
「イヤだな、機嫌直して下さいよ。褒めたんですって。ネコはみんなに愛されてるじゃないですか」
「誰がネコだ」
それが単なる愚痴だったとしても、相談されたことに対して軽い自尊心が起き、そしてそれに応えられない無力を感じながら帰途につくことになった。
そういえば、明日、出向くことになっている会社も、元はそれが理由だったっけ。
それからしばらく、全員が黙った。
会ったときに比べて、高校生たち二人の熱量が冷めているのがわかる。
大人たちからではなく、年の近い大学生に諭されたことで、多少は溜飲が下がったのだろうか。
あるいは、無理は承知で、ただ、誰かに窮状を知ってほしかっただけなのかもしれない。
解決への道筋がまるで見えない重苦しい空気。やがて男子が時計に目をやった。
「そろそろ部活に戻らんとあかんので。今日は話を聞いてもらってありがとうございました」
あきらめたように頭を下げる姿に、悪いことをした気になった。何とかしてくれと、無茶を言われたほうが、気は楽だったかもしれない。
「あーしもちょっとトイレ」
気まずさをリセットするため、席を立つ。
学生にとっての後輩は、ほとんど身内のような存在だ。無償の手助けをしてやりたいが、交渉術でどうにかできるレベルにないことは確かだった。
母校の評判を上げるための、代替策は何かないのか。一卒業生には大きすぎる難題に悩みながら戻ると、残っていた二人が、少し前までとはまるで違い、何やら華やいでいる声が、廊下にもれ聞こえていた。
「目の前であーしを聞けてちょっと感動しました。在学中は雲の上の人でしたもん」
「綺里姉が前に住んでたのが東京の向島っていう、下町だったらしいんだけど。そこでの育ての親が、客商売をしていたらしいんだ。確かマリリンさん、だったかな。その人の影響を受けたみたい」
「そうなんですね。ちなみに、涼先輩はずっと関西やのに、何で標準語なんです?やっぱり綺里先輩を尊敬してるからとか?大学どころか学部まで一緒なんて、普通やないですよね」
「言葉は、反面教師的な影響なんだと思う。うちがしっかりしないと、って。だから尊敬してるのとはちょっと違って――そうだな、意思疎通できるネコを飼ってる感覚に近いかも。観察してると色々発見があって飽きないから。もう、手放したくないっ、て感じ」
「あー。それ、何となくわかります。ぱっと見、不良少女っぽいのに童顔なのも惹かれますしね」
「そうそう。あんな感じなのに、意外に理系脳で、おまけに草木や環境に関心があるとかさ――」
笑いながら入り口に顔を向けた彼女と視線が交差した。
「あ」
「あ、じゃないだろ。涼さあ、あーしのことをそんな風に思ってたのか。ちょっとショックだよ。あと、マリリンじゃなくて、マリンさんだから」
「そんな前から聞いてたんなら、声かけて下さいよ。あーびっくりした」
東京暮らしを始めて一年した頃、祖母が他界した。もちろんそのことはとても悲しかったが、反面、さすがに母が戻ってくるのだと、ひそかに期待していた。ただ、そんな希望はすぐに打ち砕かれる。葬儀のために帰国した彼女は、二度目の子育て放棄を迷うことなく選択したのだ。
それからは、祖父との二人暮しだ。
うすうすは気づいていたが、昭和の親方気質の人間は、仕事のとき以外、ほぼすべての時間で、何の役にも立たなかった。
床や廊下は、次第に足の踏み場がなくなり、風呂はカビによる前衛芸術作品と化していく。
そのことは、すぐに近所でも噂になったようだ。
家がゴミ屋敷という名称で呼ばれるかどうかの瀬戸際になった頃、見かねたのだろう、近くに住む年齢不詳の女性がやってきて、家事を手伝ってくれるようになった。
周囲には、安価な飲み屋が多い地域。午前中は、下着同然の姿で家の周辺にいて、綺里が下校する頃に、着飾って活動を始める彼女に、それから八年、世話になった。
言葉遣いやファッションの影響を受けなかったといえば嘘になるかもしれない。
「いまだにマリンさんの年齢も本名も知らないんだ」
すでに遠い昔のことのようだと、懐かしんでいると、二人はいつからか、身を乗り出していた。
「今度、東京行きツアーを敢行しましょう。綺里先輩のルーツをたどる旅、です」
滝井の中では、テニスコートのことは、すでになかったことになっているらしい。
すっかり元気になった彼女と別れたあと、涼葉と二人、挨拶のために職員室に顔を出すことにした。
中に入るとすぐ、何人かの教師から声をかけられる。
「頼むから面倒事はやめてや」「給料日前やし、金はないからな」
近くにいた二年のときの担任と目が合った。
「ソフテニのコート、つぶすって聞いたんですけど」
「何や、もう知ってるんか」
彼は小さく笑って言葉を濁し、周囲からも、「あー……」という、どこかあきらめに似た斉唱が聞こえた。
「在校生らには申し訳ないと思うんやけどな」
生徒数が年々少なくなる現状で、何かの売りが必要だという理事たちの意見に、逆らうだけの材料も持ち合わせていないのだという。
彼らの本分は、経営ではないのだから、それも致し方ないのだろう。
校舎を出て、グラウンドへと向かう。テニスコートのそばで、相談に来ていた生徒が頭を下げた。
「学校の広さに対して、ここだけに太陽光パネルを設置しても、いかにも足りないって感じですよね」
涼葉は冷ややかにそう言った。
コートの向こうは、フェンスもなく、直接、小高い山へとつながっている。高校生の当時はただの田舎だとしか思っていなかったが、今見れば、その里山の雰囲気に、どこか懐かしさを感じる風景だ。自然が身近にある学校。価値はあるはずなのに――。
「あの子たちも、本気で解決したいって、期待してるわけじゃないんだと思います。何かの形で反対の意思表明をしていたいだけで」
「だったら、涼葉が来るだけで良かっただろ。何でわざわざあーしを連れて来たのさ」
そのせいで少なからず、心が乱されてしまった。
「みんなから、綺里姉に会わせろってせがまれてるんですよ。人気者なんですから」
「人を小動物扱いするやつの言うことは信用できん」
「イヤだな、機嫌直して下さいよ。褒めたんですって。ネコはみんなに愛されてるじゃないですか」
「誰がネコだ」
それが単なる愚痴だったとしても、相談されたことに対して軽い自尊心が起き、そしてそれに応えられない無力を感じながら帰途につくことになった。