ライブの会場は、心斎橋の雑居ビルの地下にあった。五十人も入れば一杯になるような広さだ。
 何組かが出演するイベントの二番手。プロとはいえ、まだ固定ファンは多くはないようで、オリジナル三曲を披露し、それなりの盛り上がりで終わった。
「どうでした?」
「あーしは、音楽はデュエット曲とジャズしか聞いたことがないからな。評価できない」
「デュエットはマリンさんとして、ジャズは誰です?」
「じいちゃんだ。庭仕事を始めるとき、ラジカセでいつもテイクファイブをかけてた」
「うちの中の庭師のイメージが、だいぶ変わりました」
 ホールの外、狭い物品売り場の前で、そんな無駄話をしていると、彼女の表情が硬くなった。
 その視線の先、廊下の奥から、ギタリストがどこか照れくさそうに歩いてきた。彼は綺里にはほとんど目もくれず、まっすぐ涼葉の前に立つ。
「来てくれたんや。ありがとう。どうやった?」
「すごく良かったです。特に最後の曲、ダウンロードして、何回も聞いてるんですよ」
 今度、スマホを調べさせてもらうぞ。
 男はそんなお世辞に、声調を一段上げた。
「き、今日、このあとやけど、時間あったりする?メンバーと一緒に軽い打ち上げ、行くことになってるんやけど――」
 その言葉に、涼葉ののどがごくりと動くのが見えた。体の横でこぶしが軽く握られる。
「そのこと、なんですけど――。実は、うち、付き合ってる人がいるんです。この夏から」
「えっ」
 男の意識が一瞬なくなったのが、外からでもわかった。彼は両足を必死に踏ん張る。
「へ、へえ、そうなんや。知らんかったな、はは……」
「今、紹介していいですか?」
「ええっ。今日、一緒に来てたんか。そう、やったんか……」
 気の毒に、顔から血の気が引いていく。最後の声はほとんど聞こえなかった。
 涼葉は一瞬の間をおき、ためらいがちに、体を半分だけ開いた。
「こちら、江坂先輩です。うちの、こ、恋人……」
 消え入るような声だったのは、彼女も負けていない。そのせいか、男は何を言われたのか、認識できていないようだ。
 口を半開きにし、瞬きもせずに綺里を見つめているギタリストに一歩近づき、その手を掴みながら、耳元に口を寄せた。
「悪いが涼葉は譲れない。一生、あーしが大事にするから、お前は遠慮なく次を見つけてくれ。今後、友達付き合いだけは許可してやるが、もし彼女を困らせるようなことがあれば、この人指し指と中指をくっつけて、Fコードを押さえられなくしてやるぞ。いいな、理解したか?」
 異議を封じ込めるため、早口にそう言って、すかさず背を向けた。
「涼、行くよ」
 そばで、もじもじしていた後輩の腕を取り、これ見よがしに体を密着させて、会場をあとにした。
「ホントにあんなやり方で良かったんでしょうか」
 駅の改札を抜け、誰も追ってこないことを確認して、彼女はどこか不安げにそう言った。
 男からの告白を断るとき、「他に好きな男がいる」は、できる限り避けたほうが無難な言い回しだ。理由は簡単、その相手より自分が下になったことで、自尊心を傷つけてしまうから。ただ、今回のように、比較対象が女であれば、そもそも土俵が違うことになり、その感情が発生しない。
「マリンさんの長年の研究成果だ」
「それは説得力がありますけど――。ちなみに、一つ聞いていいですか?あの人に話すとき、あそこまで体を近づける必要、あったんですか?」
「念のための保険だよ。男はどれだけ気のない女であっても、あの距離まで近づくと、異性として意識する。男の恋愛成分の多くは性欲だから、つまりは、涼への気持ちの一部をあーしに振り分けるという高等戦術なんだ」
「な、なるほど。珍しく露出の多い服だったのは、身を挺してくれたんですね。うれしいですけど、ウソだって気づかれないよう、これからやり取りするときは、よくよく注意しないと、ですね」
 そうか――。
 あの言い訳は、完全にウソというわけでもないのだ。
 涼葉を誰かに取られるのだとしたら、その相手は、綺里を納得させる程度の人間でなくては気が済まない。
 きっと男親の気持ちと同じ。
 図らずも、彼女に対する感情を再確認した出来事だった。