いつも冷静で、誰に対しても寛大な人間だ。光ファイバー並みに円滑なコミュニケーション能力を有し、人間関係のトラブルは皆無のはず。
「まさかとは思うけど、相手は男?」
 否定されることを願って尋ねたにもかかわらず、彼女はそれには返事をせず、顔を窓に向けた。
 住宅街の中のカフェ。外に見えるのは平凡な生活道路で、鑑賞が目的でないことだけは確かだ。
「つまり……。どういう状況だ」
 言葉がいつものように出てこない。それは相手にも伝わったのだろう、目線を落とした。
「こういうときこそ、冗談の一つでも言ってほしいのに。綺里姉もまだまだですね」
 その言動に、この重苦しい雰囲気の責任が、綺里の側にあるような気になる。
「涼はあーしの予定を全部把握してるのに、こっちは涼のことをよく知らないっていうのは不公平じゃないか」
 怒った振りをしてそう言うと、彼女は口元をわずかに緩めた。
「高校のときから足かけ三年以上。ようやくうちに関心を持つようになった点は評価してあげます」
 軽口を言う声調だったが、思いつめたような表情は、そのままだ。
「あまり考えたくはないんだが――恋愛関係の悩みってことか」
 今度はのどが完全に絞まり、驚くほど声がかすれてしまった。
 そして、涼葉は無言で、小さく首を振った。
「そこまでじゃないんですけど――。ちょっと困ってはいます」
 相手にそのつもりがあったのかどうか、結果として、綺里の心を大きくかき乱したのち、彼女は経緯を語り始めた。
「付き合ってほしいって、言われたんですよね」
 相手は二つ年上の、高校のとき、軽音楽部に所属していた男子だそうだ。一年の文化祭で知り合ったあと、何度かそれらしい態度を見せていたようだが、そのまま卒業を迎え、その後しばらくは疎遠になっていた。
「今年に入って、すごく久しぶりに連絡があったんです。プロデビューしたんだって」
 誘われたライブはバレンタインデーの前日だった。チケットをもらった手前、手ぶらというわけにもいかない。演奏のあと、控え室前で、さほど高くないチョコレートを義理で渡したつもりが、相手はそうは思わなかったらしい。その場で唐突に告白されてしまった。涼葉にはまるでその気がなく、大学受験を言い訳に、そのときは、どうにか先延ばしにしたそうだ。
「好きじゃないなら、はっきり断れば良かったのに。それとも未練があるとか?」
「いえ、それは全然。ちょっと粗野というか、繊細さに欠けた人で、まるでタイプじゃないんです」
 なるほどと頷いてはいたが、彼女の恋愛感を聞いたのが、初めてだったことに気づき、内心では愕然としていた。
 だが、その直後に続けられた発言で、そんな驚きすら些事に変わる。
「明言を避けたのは――その、嫌われるのがイヤだったからです」
「え。今、何て?」
 聞き間違いでなければ――相手からは好かれた状態のまま、関係を断ち切りたい、とそんな傲慢な要望だったような。
 頬を朱にしたところを見ると、それが身勝手な言い分だという自覚はあるらしい。
「意外に独善的なんだな。正直、驚いた」
「誰だって、人からは好かれたいと思いますよね」
「いやいや。こと恋愛に関しては、それを当てはめちゃダメだろう」
 八方美人か?
 いや、そんな生ぬるい感性ではないな。男からの好意を、見返りを与えず、維持し続けようということだ。
「前にあーしのことをタカりだとか揶揄していたけど……。涼のほうがよほど人でなしじゃないか」
 そう口にしながら、ある意味、若くして完成体だと、畏敬の念で見ていた相手の、予想外の弱点を知り、心のどこかでほっとしていた。
「それで、これからいったい何があるんだよ」
「今日まで、どうにかメッセージのやり取りでごまかしてはいたんですけど、またライブに来てほしいって言われて。さすがに半年に一回くらいは、顔を見せないと気まずいじゃないですか」
「一つ聞いていいか。好きでもない相手と連絡を取り合うことに、抵抗はないのか」
「時候の挨拶とか、適当な定型文を組み合わせればどうにかなります。心をこめてるわけでもないですから。それに、その程度の労力を惜しんでたら、友達が一人もいなくなりますよ」
 なるほど、定型文か――。
 人生観の違いだな。
「あーしだったら、少なくとも、二度と誘われない程度には突き放すけどな」
「円満にそれができるなら、うちだってそうしたいです」
「涼が望むなら、手助けしてやってもいいけど」
「ええっ。そんなこと、できるんですか?!」
 過去、ずっと世話になっている妹分だ。おそらく初めて本気で頼りにされた今、全力を出さない理由はなかった。