三国が帰り支度を始める。
 涼葉は音を立てて座り、そっぽを向いた。
「ちょっと待って。三国さん、例の約束、果たさなくていいの?」
 壁からスーツの上着を取ろうとしていたその手を掴むと、彼女は一瞬、動きを止めた。
「どうせ思わせぶりなこと言うだけで、本気で何かする気なんかないんでしょ」
 そう言って、手を振り払う。
「そんなことない、です。もうプランはしっかりあるんで」
 慌てて携帯を取り出し、メモアプリを起動した。
「三国さんに好意を持っている人物は実在する!その男と、デートまでサポート予定。相手の名前、知りたくない?」
 過去最速でそう打ち込み、相手にだけ見えるよう画面を向けると、三国は数秒悩む様子を見せ、やがて、面倒くさそうに腰を下ろした。
「学生の悩みを聞いてあげることも、社会人として、時には必要なのかもしれないわね」
 利用できるものはしてやるか、の間違いだろう。だが、欲望に正直なところは、好感が持てる。
 彼女が上着を再び壁にかける様子を横目に見ていた涼葉が、綺里に体を寄せ、強引に携帯を奪い取る。画面を見て、あきれたように大きなため息をついた。
「二人とも何の話してるんや。プランって何?キャンプでも行くんか」
 まさか自分のことが議題に上がっているのだと、当の本人は微塵も気づいていないらしい。
「それで相談って何。さっさと進めて」
 ひとまず、話を聞いてくれる気になったらしいが、これまでの経験から、機嫌がいつまで持続するか未知数だ。急ぐ必要がある。
「まず、味はどうですか。売れますか」
 成人二人が顔を見合わせ、それぞれにグラスに口をつけた。
「悪くないんと違うか。山椒である必要があるんかっていう、根本的な疑問はあるけど」
「三国さんは?」
「あなたのせいでよく味がわからなかったわ。店員さーん」
 彼女が追加を頼むのを見て、桜井が意外そうな表情に変わった。
「先輩が二杯目を飲むの、初めて見ました。弱いって言うてはりませんでしたっけ」
「いつもはそうだけど。大学生相手なんだから、多少乱れても問題ないでしょ」
 彼女は桜井が出した手を制して自らグラスに注ぐと、CMの中年俳優かと思うほどに、「かはー」という音を出した。
「まあ、そうね。合う料理を選びそうだけど、方向性は間違ってないんじゃない?わたしはぴりっとした後味、好きかも」
 肯定的な意見が出るとは予想外だった。
「だったら……。どうして売れないんでしょう。値段もそんなに高くないと思うんですけど」
「差別化の問題やとは思うけど――。オレは本来システム屋やしなー。そういうアドバイスはちょっと」
 涼葉が目の前にあった彼の瓶を手にして、空いていたコップに注ぎ、なめる程度に口に含んだ。
「どう?」
「そうですね。まあ、山椒ビール、って感じですかね。確かに、売れ行きに影響を与えるほどの味でもないんでしょうね」
 残る一人の意見を確認すべく、そちらに目をやると、すでに二本目が空っぽだった。
 それだけではない。色相と彩度の調整を間違えたのかと思うほど、女の顔が真っ赤だった。
「あの、三国さん……?」
「ああっ?」
 シラフでも怖い人間の態度が、さらに悪化していた。
「値付けが間違ってるでしょ。もっと微妙な味でも、これの倍くらいの値段で堂々と売ってたりするわけ。万人受けする必要はないんだから、買った人が所有欲を満たされる程度に上げて問題ないのよ」
 喋る速度が三割速く、声調も一段高くなっている。
 ただ、話している内容は母の意見と同じだった。もっと高く売るというのは、今後の方策の一つらしい。
「だいたいさあ、あんた、人のために汗かいてる場合なの?自分の立場をわきまえなさいよ。辞めるんならさっさと決断してっ」
「別に自分のことを棚に上げてるわけじゃなくて、単に解決できそうな問題を優先してるだけなんだけど」
「何、いい子ぶってるの。あんたなんかいつも悪役でいなさいよっ」
 涼葉が、席を替われと腕を掴んできた。
「酔っ払いを前に、どんな正論も無駄だ。そんなヒマがあるなら資格試験の勉強でもしてろ、というのがマリンさんの教えだ」
「綺里姉はそんな風体なのに物わかりが良すぎるんです」
 周囲に特異体質の人間しかいない状況では、哲学者か仏陀にでもなるしかないだろう。
 三国は店主を呼びつけ、さらに一本を追加する。
 人は酔うと、さまざまな第二形態に変化するらしいが、目の大きさが半分になっていた前の女は、入社以来の不満を時系列に語り始めた。
「広報を希望してたのに、営業に回されたのよ。仕事なんて、ほとんど接待要員だったんだから。こっちは酒は飲めないって言ってんのにさ。おかげで、営業部を異例の速さで異動になってやったわ」
 そう言いながら、機敏に手を上げた。
「すみませーん。こちらをごさんしょうくださいを下さい。って、何でわたしがダジャレでスベったみたいになってるのよ」
「先輩、もうそろそろやめたほうが――」
「うるさい。お前も飲め。それで何もかも白状しろっ」
 潜在的な欲望がそうさせるのだろう、桜井の脇の下から腕をからめている。それでも、こんな状態になっても、そばの男が好きであることを口にしないというのは、理性というより、彼女の自尊心はアルコールを凌駕するということか。
「そこまでがぶ飲みするほどおいしいなら、あーしもちょっと試してみようかな」
 三国から少し分けてもらい、人生で初めて飲んだアルコールは、かすかに山椒の香りのする、ただ苦い炭酸水だった。
「何でこんなのを、お金払ってまで飲んでるんだろ」
「はっ。ガキがっ。社会に出て辛酸をなめろっ」
 涼葉が綺里の飲み切れなかった分を飲み干し、バッグから携帯を取り出しながら、耳元に口を寄せてきた。
「そこの女が泥酔してるうちに、色々言わせて、録音しておきましょうよ」
「涼、今日のお前はちょっと怖いよ」
 だが、確かに悪くないアイデアかもしれない。
 恐喝するつもりはないが、こんなお遊びでも、真面目な相手になら、しらふのとき、駆け引きの材料になる可能性はある。
「三国さん、ちょっといい?」
 涼葉に録音開始の目配せをしたあと、副社長の話題を持ち出した。
 よほど不満がうっ積していたのだろう、予想を超えて、彼女は聞くに堪えない罵詈雑言を吐き続けた。
「――わかりました。もう撮れ高は充分なんで。最後にたった今、思いついたお願いがあるんですけど。そろそろ第十一号議案を断念したくて――。三国さんから許可をもらったって形にしていいですかね」
 ドサクサにまぎれて言質を取ろうとしたが、相手は、椅子を綺里の隣に移動させたかと思うと、野球部の先輩が後輩を引き寄せるときのように、腕を首にまわした。
「ダメに決まってるでしょ。それだと副社長と社長のパワーバランスが変わっちゃう」
 それから顔をさらに近づける。キスでもされるのかと思った瞬間、それまでより二段低い声調で続けた。
「それに、わたしはどこでもやっていけるからいいけど、侑希は社長の後ろ盾がなくなったら、苦労するかもしれないの」
 例の朝起きれない、とかいうやつか。
 確かに、昭和体質の人間は、どんな病気も根性で治ると思っているふしはある。泥酔している分際なのに、好意を持った男に対する思いやりは維持できているらしい。
 それから唐突に、綺里をどんと突き放した。
「店員さん、こちらをごさんしょうください、追加で。って長くて言いにくいわね、まったく」
 彼女がそう言った瞬間、何かがひらめいた気がした。
 血液中にわずかに含まれるアルコールのせいだろうか、頭の回転が速度を増している。
 目の前に並ぶ空き瓶の一本を手にした。ラベルに印刷されているのは文字だけだ。イラスト付きのほうが、インパクトがあるのではなかろうか。
 山椒で連想するのはアゲハ――。例えば名前をアゲハビールにして、デザインと、価格を変えてみるか。
 だが、差別化できそうな要素はSDGsくらい。地産地消だけでは、宣伝効果は弱い気がする。
 SDGsか――。中之島トレーディングにもっとも欠けている資質の一つだ。
 この二つを相互補完させられないだろうか。
「綺里姉、急に黙って……。もしかして酔って気持ち悪くなりました?」
「いや、そうじゃなくて――」
 ぼんやりと浮かんだアイデア。その妥当性を社会人に確かめたかったが、頼るべき三国がすっかり正体をなくし、使い物にならなくなっていた。
 まあいい。収穫はあった。
 副社長という共通敵によって、利害が一致していることが確認できたのだ。
 相談するにしても、考えをまとめる時間も必要だ。
 桜井に後事を託し、その日は散会となった。