次の週、経営企画室の二人と、業務時間後に会う約束を取り付けた。
 もう辞めるつもりだから、送別会を開いてほしいと伝えると、快諾されたのだ。
 一人で行くつもりだったが、一応の確認を取ると、何も言わずに目付役がついてきた。
「綺里姉の外見(そとみ)に文句を言った女も来るんですよね。ひと言反撃しないと、気が収まりません」
「待って待って。一応、村野さんの手助けが主たる目的だから、そこんとこ、忘れないで」
 提携している居酒屋があるのは箕面駅のそばらしい。
 改札を出て、村野から教えられた場所を地図で確認していたとき、突然涼葉に腕をぐいと引かれた。
「どうかした?」
 顔を上げると、彼女は歩道に小さく指を向けた。
 視線の先にいたのは、制服の異なる高校生の男女だ。
 駅前のロータリー。植栽のそばのガードレールに腰かけ、控えめに表現しても、二人はいちゃついていた。
「へえ。あーしの言ったことちゃんと守って、メガネしてるみたいだね。化粧もしてないし、いい子だ」
「今日のこと、うち、聞いてないですけど。しかも、自分たちの沿線じゃなくて、阪急の支線をデート場所に選ぶとか」
「それ、怒るとこ?単に、友達に見られたくないんだよ。可愛いじゃない」
 涼葉は足を忍ばせながら前へと進み、恋人たちの声が聞こえるあたりで立ち止まった。
「綺麗な花やね」
 そう言った滝井の目線の先にあったのは、セイタカアワダチソウだ。要注意外来生物に指定されていて、雑草の中でもかなり繁殖力が強いだけでなく、周辺の植物の成長を阻害する。黄色の花は、お世辞にも美しいとは言えない。
「あれは何ていうチョウチョ?」
「モンシロチョウや」
 いや、それくらいわかるだろ。
「すごい。物知りやね。さすがお父さんが大学教授だけのことはあるわ」
 清水を見つめる滝井の目には、はっきりとハートマークが浮かんでいた。
「涼。このまま鑑賞を続ける気?」
「あ。そうでしたね」
 彼女はさっさと歩き出し、彼らの間にぐいと割って入ると、二人は、仰天した表情で彼女を見上げた。
「生徒会長が揃って、どういうことかな」
「涼先輩。何でこんなところに……」
「隠れて悪いことしようとしても無駄よ」
「隠れてって……。あたしら、別にそんな……」
 滝井の頬が耳まで真っ赤になる。清水は慌てて立ち上がり、一歩離れた。
「今日は買い物頼まれてただけで。その、おやじの研究施設がこの先にあるから……」
 どうやら、父親の職場の最寄り駅らしい。よほどあせっていたのだろう、聞いてもいない希少種保護について、早口に説明を始め、その横で滝井が大仰に相づちを打った。
 涼葉は冷ややかな目で、しばらくその様子を見ていたが、やがて時計に目をやる。
「もういいわ。うちたちも予定あるから、今日は許してあげる」
 誰目線だ。
 二人が逃げるように駅の中へと消える姿を見送り、改めて、商店街へと向かった。
 居酒屋に入るのは生まれて初めてだ。予想していたよりは小綺麗だった。
 中には常連客とおぼしき年配の男性が数人。若い女の客が珍しいのか、一歩足を踏み入れると、全員の目が一斉に集まる。
 中年の店主は、涼葉を見て、あからさまにはしゃいだ態度になり、おそらくは店で一番いい四人席に案内してくれた。
「飲み物はどうしますか?」
 そう言いながら、おしぼりと、頼んでもいない小鉢をテーブルに置いた。
「あー……。えっと、アルコールの入ってないやつと、山椒のビールを――」
「待ち合わせなので、あとの二人が来たらまたお願いします」
 言い淀む綺里の隣で、後輩が毅然とした態度で答えた。
「慣れてるみたいだけど。まさか、よく来てるとか」
「友達とかに誘われることもありますし」
「まだ未成年だろ。いや、あーしもだけどさ」
 表情には出していなかったはずだが、綺里の知らないところで、そんな交友関係があったのかと、なぜか胸がざわついた。
 メニューを見ながら、出された小鉢が、お通しという名称であることの説明を涼葉から受けて間もなく、ガラガラと入り口の扉が開いた。
 最初に桜井が、続いて三国が姿を見せる。彼女は怪訝そうに店内を見回したあと、綺里たちの席に近づいてきたかと思うと、涼葉を鑑定するようにじっと見つめ、怒ったように席についた。
「あなたには、働いている人を優先するって、思いやりがないわけ?何でわざわざこんなところまで来させるかな。梅田に何千軒もあるのにさ」
 席に着くや、流れるように不平を口にし、それを聞いた涼葉から息を吸う音がした。
「事情があるんです。あとで説明しますから。すみませーん」
 爆発寸前の後輩を、体でさえぎるようにしながら、店主を呼んだ。
「ノンアルコールビールと、山椒ビールを二つずつ。食べ物は……とりあえず、この上段の列を全部で」
 注文を終えると、横と前から同時に非難を浴びた。
「綺里姉。料理の頼み方が雑すぎます」
「山椒ビールって何?そんな攻めたビール、一杯目から飲みたくないんですけど」
 大丈夫だ。マリンさんはもっと、うっとうしい客を相手にしていたはずだ。
 グラスが揃い、おそらく史上最悪レベルに気まずい乾杯をする。
「ええ感じの店やな。江坂さんの行きつけか?」
 一杯目を満足そうに飲み干した桜井は、ビール瓶を手にした。
「こちらをごさんしょうくださいって……。ああ、ダジャレか」
「それ、味のほうはどうですか?」
「何よ、それ。自分たちが飲んだことのないものを、人に押し付けたの?」
 押し付けるって。せめて勧めた、ではないか。これほど否定的な単語を自在に使いこなせるとは、相当な才覚だ。
 文句を言いたくて仕方ないのだろう、涼葉が隣の席で口をはさむ時機を窺っているのが、はっきり感じ取れる。
 だが、この二人の言い争いになっては、収拾できる気がしない。そもそも、今日は三国をおだてて、味方につけることが目的だ。
 テーブルの下で涼葉の手を握り、正面に作り笑顔を向けた。
「実は、知り合いが作ってるクラフトビールなんです。でも、全然売れてないらしくて。あーしたちは未成年でお酒飲めないし、営業とかも経験ないから。それで社会人の先輩である、お二人の意見を聞きたくて」
 マリンさんを頭に思い浮かべながら、綺里にできる最大級のお世辞を言ったつもりだった。
「そこまで言うなら仕方ないわね」
 おそらくはそんな返事があるのだと疑っていなかった。
 だが、三国は一秒の間もおかずにこう言った。
「何、それ。あなたが辞めるっていうから、わざわざこんなところまでやってきたのに。もしかして、それが本当の要件なの?だったら、ビールを持って、そっちが会社に来れば良かったんじゃない。おっそろしく無駄足踏まされたわ」
 そして、同じく二秒と経たず、掴んでいた手が解かれ、隣で人が立ち上がった。そのあまりの勢いに、風圧を顔に感じたほどだ。
「綺里姉。もう帰りましょうよ。こんな人たちに助けを求めるくらいなら、うちが親に頼んでどうにかしますから」
「涼の親って、歯医者さんじゃん……」
「人たちって、オレも入ってるのか」
 しばらく彼女を見上げていた三国が、満を持して口を開いた。
「あーホント、学生ってバカばっかり。結局親のすねをかじるしか能がないんだから。世間の波にもまれて、死ぬほど挫折すればいいんだわ」
 こんな展開も、想定していないわけではなかったが、予想よりはるかに早く、宴席は修羅場と化した。