私は十八歳のときに死にました。
愛知県にある、I高校のなかで。
私を殺したのは、青春小説家H.Yです。
正確にいえば、それは殺人とは言えないかもしれません。
私は自分で死を選んだのですから。
いじめられる方が悪いと言いますし、本当の原因は私かもしれません。
それでも。あなたが涼しい顔で、きれいごとを説き、美しい世界を描くのが許せないのです。
私は、一日の終わりに”葉空ヨリ”でSNSを検索するのが好きだ。
小説の感想が呟かれているのはもちろん嬉しいし、ヨリ先生の外見が褒められていても嬉しい。私にとってヨリ先生は担当作家であり、人生の推しなのだ。だからヨリ先生を好意的に見る意見はなんでも嬉しい。
稀に『葉空ヨリの小説、自分に合わないなぁ』という感想を見つけることもあるけれど、酷評されるような著書は一作もないし、ヨリ先生自身が悪く言われることもなかった。
そもそもヨリ先生は、プライベートをあまり見せない。宣伝用に個人のSNSアカウントはあるが、『発売日です。よろしくお願いします』と告知をするか、出版社やレーベルの宣伝ポストを拡散するくらいしかしない。
ラジオ番組は基本読者のお便りを読み、リクエストの音楽をかけるだけで、自我は出さない。メディアのインタビューでも当たり障りのないお手本のような内容しか答えていない。
だからヨリ先生自身が批判されることなど、今までほぼなかったと言える。
芳賀穂乃花の小説が投稿される夜中の十二時前。
私はベッドに寝転びながら、SNSで“葉空ヨリ”を検索していた。
葉空ヨリなりすまし騒動があったことで、ヨリ先生について活発に呟かれている。『#葉空ヨリの好きな小説』というハッシュタグが、トレンドに入っていたくらいだ。
私はそれを眺めながら共感し、頬がゆるむのを止められないでいた。次から次へとスワイプしていくと、
【なにこのノベルタウンの新作。今日、葉空ヨリのなりすましで話題になってた人? 変なこと書いてあるけど http://~】
その投稿は一分前。呟きの最後にはURLが載せられている。芳賀穂乃花というワードに心臓が跳ね、URLをクリックする。
【タイトル:青春小説家H.Yに殺されました】
【作家:芳賀穂乃花】
「……あ」
口から、震える声が漏れた。 ……また投稿された!
なりすましの葉空ヨリが投稿した時とおなじ、セーラー服の後ろ姿の写真が表紙に設定されている。
ばくばくと嫌な予感が身体を波打ち、私は思わず立ち上がった。慌てて根津編集長に電話をかける。
もう夜中の十二時だ、出てくれるだろうか。コール音が心臓の音と連動してうるさい。
「まきちゃん、どうした――」
「編集長、夜分にすみません! 大変です、また投稿されました! 芳賀穂乃花です! 私もまだよくわかっていませんが、とにかくすぐに非公開にしてもらってもいいですか? URL送ります……!」
「わかった、一旦切るね」
眠そうな声で電話に出た編集長だが、すぐに状況を察してくれた。編集長が対応してくれるまで、私は投稿された小説を読んでみる。
【私は十八歳のときに死にました。
愛知県にある、I高校のなかで。
私を殺したのは、青春小説家H.Yです。
正確にいえば、それは殺人とは言えないかもしれません。
私は自分で死を選んだのですから。
いじめられる方が悪いと言いますし、本当の原因は私かもしれません。
それでも。あなたが涼しい顔で、きれいごとを説き、美しい世界を描くのが許せないのです】
……これはまずい。絶対にまずい。心臓の音が、耳まで届き始める。
投稿された内容の真偽関係なく、こんなものを投稿されたら“葉空ヨリ”として、最悪だ。この文章が訴えたいことは“葉空ヨリにいじめられていた”ということであり、葉空ヨリの作品のイメージに直結する。
『火のないところに煙はたたない、とか言って燃やされる』という編集長の言葉が思い浮かぶ。
早く……一刻も早く、これを消し去らなくては……!
そこでスマホが震えた、編集長からの電話だ。
「もしもし、まきちゃん。気づいてくれてありがとうね、さっきの小説は非公開にしたから」
私が編集長に電話をかけてから三分もかかっていない。すぐに対応してくれたことにまず安堵する。あんな投稿、一分でも公開していたくない。
「ありがとうございます!」
「すぐに非公開にはできたけど……どれくらい目についたかだね」
「そう、ですね」
「小説のPVはそこまで多くなかった、百くらいだったかな。投稿されたのが十二時ぴったりで、公開されていた時間は十分」
小説を目にした人間の数は少ないし、時間も短い。……しかし、ここからどれほど広がっていくかは、未知だ。
「また明日対策について話し合いましょう」
「この後また投稿される可能性もありますよね……!?」
「ない、とは言い切れないわね」
「ノベルタウンを少し閉じれないんですか!? 緊急メンテとか、言い訳はありますよね」
「……ヨリ先生のためだけのサイトではないからね」
「だけど……っ!」
「いたずらのたびに対応していられないわ」
私の荒い声に反して、編集長の声は穏やかだ。その温度差に苛立ちが募る。ノベルタウンの利用者と葉空ヨリを天秤にかけるまでもない。須田文庫の売り上げの多くを占めるヨリ先生は、何にも代えられないはずだ。
「わかりました。では私にもノベルタウンの権限をいただけませんか。今夜は見張ります。危険な投稿があれば、すぐに対応しますから」
「まきちゃん。ヨリ先生が心配なのはわかるけれど」
「今夜だけですから! どちらにせよ今夜は眠れそうにありません」
「……わかった。メールで管理者のパスワードを送る。だけどあまり気にせずに、眠れそうだったら寝るのよ」
「わかっています。では、失礼します」
私はすぐに通話終了ボタンを押した。こうして喋っている間にも投稿されるかもしれない。すぐにノベルタウンにアクセスし、新着投稿作品を見るが、この数分に新たに投稿された小説はなかった。
私は仕事用のカバンからノートパソコンを取り出し、ベッドの前に置いてあるミニテーブルにセットした。
何が明日対策について話し合おう、だ。そうやって様子見をしているからこんな投稿を許すのではないか。
編集長はことの重さに気づいていない。少しでもヨリ先生に悪いイメージがついたらどうするのだ。ヨリ先生の著書はいじめを取り扱う話も多く、十代のファンが多くついているのに。デマでも、広がればなかには信じる人も出るかもしれない。
バイトでもなんでも雇って、サイトを二十四時間監視させたほうがいい。事実無根ないたずらで、ヨリ先生が誰かに疑われるだなんて絶対にあってはならないことだ。
ノートパソコンでノベルタウンの新着小説を確認しながら、スマホでSNSを見てみる。話題にはあがっていなさそうだ。PV数からして目にしていない人の方が多いのだろうか。ノベルタウンの新着投稿があまり目につかない場所にあることも幸いしたかもしれない。
【なにこのノベルタウンの新作。今日、葉空ヨリのなりすましで話題になってた人? 変なこと書いてあるけど http://~】
最初に気づいた人の投稿はリポストもされておらず、返信が一件だけついているだけだ。
【なんのこと? リンク先、飛べないよ】
【あれほんとだ、もう消されてる。今日話題になってた人の投稿だったんだけど、いたずらかな】
そこで会話は終わっている。この雰囲気ならスクショも取られていないのではないだろうか。
三十分ほどSNSで“葉空ヨリ”“ノベルタウン”とサーチをかけたが、この小説に触れている人はいなかった。
その間、芳賀穂乃花の新しい小説投稿もない。
身体の熱がようやく引き、コーヒーを淹れる余裕もうまれる。
それにしてもしつこいアンチだ。もしくはヨリ先生への好きをこじらせて暴走したファンの仕業なのだろうか。
朝が来るまで、一分に一度サイト更新ボタンを押し続けた。結局、芳賀穂乃花の小説は投稿されることはなかった。
翌日の午前にはノベルタウンを運営する第一編集部との話し合いが行われた。
彼らに何通もファンレターが届いていたことを説明すれば、単なるいたずらを超えた悪質な行為と捉えてくれ、対策を取ってくれることとなった。
一つ目は、サイトの見回りを強化して、危ない投稿はすぐに非公開、作者を強制退会の措置を取る。
二つ目は、ノベルタウンのトップページに注意喚起を出し、なりすましや誹謗中傷行為の禁止を再周知させる。
三つ目は“芳賀穂乃花”や“葉空ヨリ”をNGワードに設定し、このワードを含む場合は投稿エラーにして弾く。
どれも小手先の対応で、ヨリ先生を守ることが出来るかは疑問だが、なにもないよりはずっといいだろう。
私なら、すべての投稿を一時的に承認制にする。
それを根津編集長に提案してみたが「ノベルタウンの利用者に制約はできない」と一蹴されてしまった。
そのあとは、弁護士に相談してみるの一点張りだ。
「昨日投稿された小説、俺も見たけどあんなん誰も信じないよ。妄想癖のある人間だよ、あれ。ちょっと変な人がヨリ先生に粘着してることはユーザーだってわかるって」
隣の席の先輩はそう励ましてくれる。だけど、私は素直に頷けないでいた。気にしすぎても足りないくらいだ。ヨリ先生に一点の染みもつけたくない。
その日の昼、私と根津編集長は都内のホテルを訪れた。ヨリ先生との会食の予定があり、今回の件を報告することにしていた。
「根津さん、まきちゃん。こんにちは」
既にホテルのロビーでヨリ先生は待っていた。柔らかなシフォン生地のワンピースがヨリ先生によく似合っている。
私たちはエレベーターで三十階まで上がり、中華料理店の個室に案内された。全面ガラス張りで開放感があり、ヨリ先生は窓の外を少女のような笑みで見つめた。
「お忙しいところありがとうございます」
「いいえー。ここの中華、一回来てみたかったから嬉しい。実は昨日締め切りで最近ろくなもの食べてなかったの。お腹びっくりしちゃうかも」
ヨリ先生は明るい表情で席についた。なにかに悩んでいる様子はみえない。昨日までいそがしかったのならSNSも目にしていないだろう、ヨリ先生はもともとエゴサーチもしないタイプだ。
「重版、おめでとうございます」
「ありがとうございます。宣伝も頑張ってもらって、こちらこそありがとうございます」
「ヨリ先生、今後のスケジュールは――」
前菜を食べながら、私たちは当たり障りのない話をした。次回作はどれくらいの時期から着手できそうか、という真面目な話から、最近ヨリ先生が見た映画の話まで様々だ。
メイン料理の海鮮がテーブルに並んだところで、根津編集長が本題に入った。
「ヨリ先生。実はご報告することがあります」
「どうしましたか? 誤植かなにか?」
アワビを口に運んでいたヨリ先生は笑顔のまま、編集長を見た。編集長の表情からあまりよくない報告だということはヨリ先生もわかっているはずだ。あえて軽く聞いてくれる優しさがありがたい。
「私どもの運営するノベルタウンはご存知かと思いますが……」
言葉を濁した編集長に、ヨリ先生は「あはは、ご存知もなにも私の出身ですよ」ところころと笑う。
「そこにヨリ先生のなりすましが現れました。すぐに非公開にしましたが、書いてある内容が少し、その……物騒だったこともあり、一応ご報告しようかと」
「そうだったんですか。前もどこかのサイトでなりすましがあったんですよ」
有名人のなりすましなど、珍しいことではない。一連の詳細を知らないヨリ先生は心から気にしていないようだ。
「ヨリ先生、なにか身の回りで気になることはありませんか?」
「ああそれでこないだのラジオのときも気にしてくれてたのかな。何にもないですよ。締め切りが近かったこともあって、今週はラジオ収録以外ではほとんど外にも出ていなかったんです」
「今後ヨリ先生のなりすましが出ないようにサイトの運営チームと監視を徹底します」
「そこまで気にされるということは、物騒とおっしゃいましたし――あまりよくないことが書かれていたとか?」
ヨリ先生が涼やかな目をこちらに向ける。
なりすましだけなら、私たちだってここまで気を尖らせていない。問題は十通のファンレターと、その内容だ。
「はい。事実無根な名誉棄損ですので、弁護士に相談はしようかと」
「丁寧に対応してもらってありがとうございます。……ちなみにどんな内容だったんですか? ノベルタウンに投稿されたということは小説なんですよね」
「ええ、まあ、そうです」
根津編集長と私の煮え切らない態度に、ヨリ先生はもう一度笑みを作る。
「内容教えてもらってもいいですか? 次回作でSNSの怖さを描くのもありかな、と思っていて。どんな内容だったか、ちょっと気になります」
「すごく失礼な内容ですよ。ヨリ先生が人殺しとかなんとか。なりすましだけでなく、ヨリ先生が殺したと名乗る人物からの投稿もありました」
「ミステリー書いてるとそう言われることも結構あるんですよね。でもどうしてその投稿をそこまで気にしているんですか?」
「ヨリ先生に殺されたという投稿主がフルネームを名乗るせいで、なんとなく信憑性があるように思えてしまうんです」
私は正直に伝えた。そう、ただ単に『葉空ヨリが人殺し』だけならばよかった。『芳賀穂乃花を殺した』と人名が入るだけで、文章に妙な説得力が生まれてしまう。
「へえ、なんて名前ですか?」
ヨリ先生は海鮮料理を食べ終わり、口元を白いナプキンで軽く押さえる。
「芳賀穂乃花、と名乗っています」
一瞬。朗らかなヨリ先生の表情が固まった気がした。同時にヨリ先生の手から白のナプキンがすべり落ちて床に着地した。
「あ、落としちゃった」
そう言ってヨリ先生は床からナプキンを拾う。顔を上げたときにもういつもの笑顔に戻っていた。
「その投稿された内容って見せてもらえますか?」
「はい、印刷してきています」
編集長からカバンからファイルを取り出し、二件の投稿内容を見せた。ヨリ先生は紙を受け取り、じっと見つめる。
「……たしかに私の作風からして、こんな投稿されると困っちゃいますね」
「はい。ひとまずノベルタウンは対策として――」
編集長は別の書類も取り出した。先程第一編集部が提示した内容だ。ヨリ先生はそれを受け取り、目を向ける。
「あ、すみません。電話が」
編集長がスマホを取り出すと、ヨリ先生がどうぞどうぞとジェスチャーをする。編集長は会釈をすると電話を取った。
「はい、根津です。……はい。ええっ⁉ ……はい、はい。わかりました」
編集長の表情がみるみるうちに深刻なものとなり、私とヨリ先生は思わず顔を見合わせた。どうにも嫌な予感がする。
「……はい、わかりました。……すぐに戻ります。……わかりました、改めて連絡します。失礼します」
電話を切った編集長たちは私たちに視線を向けた。たった三十秒の電話なのに編集長の顔色は悪い。
「芳賀穂乃花の小説がまた投稿されました」
「えっ……⁉ すぐ非公開にしたんですか?」
「出来ないの。うちのノベルタウンじゃない。――他社の小説投稿サイトよ」
芳賀穂乃花の小説が投稿されたのは“ノベラブル”という大手小説投稿サイトだ。小説投稿サイトのなかでは、もっともユーザーが多く有名だ。
朝十時に、芳賀穂乃花はノベラブルで小説を投稿していたらしい。昨日私が見つけて非公開にした【青春小説家H.Yに殺されました】と同じものだ。
十二時半頃。須田出版の社員がその投稿を発見した。刺激的なタイトルは午前中にアクセスを集め、お昼のランキング更新で日間総合一位に躍り出てしまったらしい。
発見した社員は、芳賀穂乃花の一連の件は知らなかったが、青春小説家H.Yとは葉空ヨリのことではないか、と第三編集部に連絡をしてくれたわけだ。
「どうするんですか、編集長」
「ノベラブルと繋がりのある人に問い合わせをしてもらってる、どういった対応してくれるかはわからないわね。――ヨリ先生、こんなことになってしまってすみません」
「いえ……これは須田出版さんのせいではありませんから」
ヨリ先生は笑顔を作ってくれるが、口元が少しひきつっている。メインの肉料理が運ばれてきたが、誰も手をつけられないままだ。
「ヨリ先生、こんないやがらせ気になさらないでくださいね! みんないたずらだってわかりますよ。妄想でこんな投稿して、迷惑ですよね、ほんとう」
私が明るい声を出すと、ヨリ先生は眉を下げて微笑んでくれる。ヨリ先生にこんな表情をさせる芳賀穂乃花に怒りがこみ上げてくる。
「須田出版でもお力になれることがあれば、なんでもしますから。せっかくですし食べましょうか」
編集長がそう言えば、ヨリ先生も「いただきます」といつもの声のトーンに戻り食事は再開した。
和やかな雰囲気を作るために私も肉を口に入れる。経費でしか食べられない高級中華は味をなくしてしまいまるでガムを噛み続けているようだった。
「ヨリ先生、大丈夫ですか?」
ホテル前のロータリーでタクシーを待ちながら、どこか暗い表情のヨリ先生に訊ねる。
編集長はデザート前に出版社に戻った。急ぎで対応したいことがある、と。私はヨリ先生を心配させないように、喋り続けて喉が痛いくらいだ。
「ちょっと食べすぎちゃった。こんなにたくさん食べたの久しぶりだから、やっぱり身体が驚いちゃったわ」
私に不安を見せないように微笑み続けてくれるヨリ先生を見れば喉がぎゅっと締まる。
「……先生、変な人の妄言なんて気にしないでくださいね。私ヨリ先生のためならなんでもしますから。困ったことがあったら、なんでも言ってください」
「ふふ、いつもありがとう、まきちゃん。また連絡しますね」
「もし何かあったら本当にいつでも連絡してくださいね! 夜でも朝でも気にしないでください」
タクシーが私たちの前に止まり、ヨリ先生は静かに乗り込んだ。後部座席に深く座ったヨリ先生は窓をあけて目を細めてくれる。
「それじゃあ、またね」
「今日はお時間ありがとうございました」
「こちらこそ。ごちそうさまでした」
タクシーの運転手に行先を告げるヨリ先生の横顔は少し青白く見える。
私たちの前では明るく務めてくれたヨリ先生だけど、心中穏やかではないはずだ。
ヨリ先生を乗せたタクシーが遠くなるのを見つめながら、私はその場でSNSを開いた。……本当は見るのが恐ろしい。世間はあの小説を見てどんな感想を抱いたのだろうか。
【葉空ヨリ、過去にいじめで自殺に追い込んでいた⁉ 死者が告発文章を投稿! → http://】
葉空ヨリ、と検索して一番に出てきたのは暴露系インフルエンサーの投稿だった。小説の文章のスクショも添付されている。こういう低俗なアカウントは、話題になりそうな情報を見つけるのが早く、フォロワーを何十万人も抱えている。自然とため息が漏れる。
これ以上検索しなくともこのポストの引用を見れば世間の反応は掴めるかもしれない。
【で、証拠は?】
【これが本当って証拠もないのに、よく拡散できるね。訴えられろ】
【こんな妄想信じるの?笑 葉空ヨリのアンチでしょ、これ】
【そもそもH.Yって本当に葉空ヨリなの? 他にこのアルファベットの小説家は?】
【葉空ヨリで確定だと思うよ。何日か前にも、芳賀穂乃花と葉空ヨリの投稿あったし】
【うわ、粘着アンチか】
大多数は信じていないようだ。いたずら、アンチ、愉快犯。どれかはわからないが、妄言だととらえている人が多数だ。
デマを信じてはいけない、という考えが世に浸透してきているのかもしれない。
【葉空ヨリがそんなことするわけないでしょ】
【ねえなんでヨリさん粘着されてるの、許せないけど】
【葉空ヨリは人殺しじゃなくて、人救い】
【芳賀穂乃花って誰なん?】
【ヨリファンのみんな! 不安になるのはわかるけど拡散しないでください! デマは無視ですよ!】
先日と同様に、騒動を聞きつけた葉空ヨリファンの反論も多い。
芳賀穂乃花の文章を信じるひとはほとんどいないが、暴露系インフルエンサーが話を拡散しているということは、前回の投稿と桁違いで様々な人に広がる。前回はノベルタウン利用者や葉空ヨリファン、読書好きという狭い範囲で話題になっていたが、普段読書をしないヨリ先生と関わりのない人間まで広がり話題になっている。
【このひと雑誌で見たことあるけど、小説家だったんだー。きれいな人だよね】
【でもこれ本当だったらおもしろいなw】
【葉空ヨリって、いじめがテーマの小説書いてなかった? それでいじめで人殺してたらヤバイww】
【これって連載小説だよな。二話もある? 期待】
スマホを持つ手が震える。明確な怒りが私の手を震わせている。
……無責任にヨリ先生を語るな。今までヨリ先生のことも知らずに、ヨリ先生の小説も一冊も読んだことのないような人間がヨリ先生を話題に出すのが許せなかった。
これ以上SNSを見ていても仕方ないだろう。
ひとまずほとんどの人がヨリ先生を疑っていないことに安堵して、私はタクシーに乗り込んだ。
第三編集部のオフィスで、私を出迎えてくれたのは根津編集長だ。自席についた私のもとに編集長がやってきた。
「まきちゃん。おかえり。ごめんね、先に帰っちゃって。あのあとヨリ先生はどうだった?」
「私の前では明るく振る舞ってくれましたが……気にされているようでした」
「それはそうよね」
「それでノベラブルはどう対応してくれたんですか?」
私の質問に、編集長の顔が曇る。
「うーん。もしかすると数日対応してくれないかもしれない」
「どうしてですか!?」
「……ノベラブルは出版社が運営しているサイトではないから、ヨリ先生とお付き合いがないの」
「それがどうかしたんですか?」
「この件で、PVがすごいことになっているみたい」
「まさか」
編集長が頷き、喉の奥がかあと熱くなる。
ヨリ先生よりも、PV数を重視するのか……!
私はスマホを開きノベラブルを確認した。ノベラブルは作品毎のアクセス数が一般公開されていて、誰でも見られるようになっている。芳賀穂乃花の投稿は、すでに三百万PVを超えていた。
「ノベラブルとはうちも付き合いがあるし、他の出版社とも付き合いがある。ヨリ先生のイメージが下がって困るのは、うちだけじゃない。他の出版社からも声があがれば、ノベラブル運営も対応してくれると思うけど……」
ノベラブルに舌打ちしたいのをこらえる。
「ところでSNSって見た? どうかな?」
「はい。今のところ芳賀穂乃花の小説は信憑性はないと思われていますね。暴露系インフルエンサーまで話題にしているのは嫌ですが……。ですが、証拠もなにもありませんし、面白がっている人間はそもそも購買層でもなさそうですから。このまま鎮火すれば問題はないと思います」
「そうね。それなら、いいのだけど……」
編集長の顔は晴れないが、きっとそれは私も同じだ。……証拠。自分で発したそのワードが胸にちくりとした痛みを刺す。
【葉空ヨリが人を殺した証拠を投稿する】
ファンレターに書かれた文字を思い出す。あんなのでたらめだ。証拠などないのに適当に言っているだけだ。そう思うのに何かが詰まったような息苦しさを感じる。
「ノベルタウンのトップページ須田文庫の公式アカウントで注意喚起を出したわ。事実無根の中傷はやめてね、弁護士に相談しています、という内容で、少しは抑止力となればいいんだけど……」
「あれはデマですよ、ともアピールできますもんね」
しかし芳賀穂乃花の小説は須田出版を超えて、羽ばたいてしまっている。注意喚起にどれだけの効果があるだろうか。芳賀穂乃花の行動は、弁護士をちらつかせただけでは収まらない気もする。
「根津さん、まきちゃん!」
そこに第三編集部に一人の男性が入ってきた。清潔感のある髪型の白いシャツの男性は、まっすぐ私の席にやってくる。
「塚原くん」
「なんだか大変なことになってますね」
彼は塚原篤先輩、ヨリ先生の元担当者。新卒入社してから六年、ヨリ先生の担当編集をしていた。数多くのヨリ先生のヒット作を送り出し、須田文庫で最も長くヨリ先生の編集担当をしていた人だ。半年前に異動になり、今は第五編集部でコミックの担当編集をしている。
「他のヨリ先生の担当も気にしてますよ、今回の件」
「でしょうね」
出版業界は横のつながりもある。まだ新人の私はあまり知り合いの編集者はいないが、塚原先輩は他の出版社のヨリ先生の担当編集とも交流がある。
「塚原くん、どこの出版社の担当者と繋がりがある? ノベラブルに各出版社から対応依頼をしたくて。私から出版社に連絡するよりも、直接ヨリ先生の担当者と連絡を取りたいんだけど」
「ああそうですよね。僕、連絡しますよ。大体わかります」
塚原さんはポケットからスマホを取り出して、連絡先を編集長に見せる。
「うわ……これはまずいかもしれないな」
私の席の隣に座る先輩が声を漏らした。私たちが彼に注目すると、ノートパソコンの画面にはSNSがうつっている。
「ヨリ先生の件で、何かあったんですか?」
「うん。芳賀穂乃花が実在していて、本当に十五年前に亡くなっていると主張している人が現れた」
「み、見せてください……!」
私は身を乗り出して、先輩のノートパソコンを覗き込んだ。
画面には一件の投稿がうつっている。バズっていた暴露系インフルエンサーを引用している投稿だった。
【これ、本当かも。。。芳賀穂乃花って私の同級生にいたよ。高校三年生の時に自殺した子だ(>o<)】
「え……」
呟いたのは私だっただろうか。編集長か、塚原さんか。いや、全員が声を漏らしたかもしれない。
十五分前に投稿されたものだったが、既に百を超えるリポストがあり、これから更に拡散されていく予感を感じる。
「なにこれ、こんな適当言って……!」
私の呻きに、先輩は眉を寄せながら投稿をした人のプロフィールページを表示させた。
【あゆ @kazumisa_mama
働くmama ◎ 2kids♡ まいにちたのしくいきる‼
うまれもそだちもあいちけん♡ 】
どこにでもいそうな主婦のアカウントだ。フォローやフォロワー数は二桁で、SNSに登録した日付は五年前。今回の件に便乗するために即席で作ったアカウントではないことはわかる。
次々と主婦のアカウントに反応が集まってくる。
【ガチ?】
【芳賀穂乃花、実在してたの?】
【一気に本当っぽくなってきたけど……】
一連の流れを面白がっている外野が一気に拡散していく。ほんの一分前まで百リポストだったものが膨れ上がっていく。
「へ、編集長。これ……」
「本当かはわからない……。だけど、よくない流れになりそうな気はする」
編集長は口を結んで、画面を睨みつけている。
「こんなの適当に言ってるだけじゃないんですか?」
「今の時点ではわからないわね……」
編集長が首を振り、先輩もためいきをついた。
この人の言葉が本当かはわからない。けれど、芳賀穂乃花という人物が実際に亡くなっているのが事実なのだとしたら……。
SNSの流れは止められない。真実はどうあれ、今後葉空ヨリにはいじめの疑惑がつきまとうことになる……!
「ああでも、投稿者を責める流れになってるかも」
先輩は少し和らいだ声で私たちに画面を見せた。
【不確かな発信で、葉空ヨリの人生終わらせるつもり?】
【なんの証拠があって、こんなこと言ってるわけ】
【あなたと芳賀さんが同級生だった証拠はあるんですか?】
【通報した】
風向きが少し変わってくれれば……と祈る気持ちで私は画面を見つめた。
勘違いだった、と彼女が一言呟いてくれれば、事態は良い方向に転ぶかもしれない。これだけ周りに詰め寄られれば怖くなって投稿も削除するかもしれない。
そう祈ったのだが……なぜか私の頭の中の警戒音は止まらない。
「……やば」
先輩の口から低い声が漏れた。
新しく投稿されたものに、私たちは言葉も出せずに呆然と見つめた。警戒音は心臓の振動に変わり、私の身体を大きく揺さぶる。
【証拠ならあります!! あたしホントに同級生でした!!】
――投稿されたのは、二枚の画像だった。
一枚目は水色のアルバムに『shining days』という洒落た文字と……『20XX年 市古高校】と表記されている。卒業アルバムの表紙だ。
そして二枚目は、三年二組のページだった。三十名の顔写真と名前の一覧の、どの卒業アルバムにもあるクラス全員の顔が並んでいるページだ。
画像を見た瞬間、身体の温度が下がった。それなのに、脇や背中からどっと汗が噴き出す。
「……全員の顔と名前を晒してる」
三十名の生徒が、こちらに向かって微笑みかけている。学ランと水色のリボンのセーラー服。
そして――芳賀穂乃花は実在した。
丸い目と少しだけ大きい前歯。人懐っこくはにかむリスのような雰囲気の女の子だ。ワックスで固められた前髪とセミロング、当時の流行りの髪型に思える。雰囲気から見るといじめられているような子には思えない、むしろクラスで華やかな部類に入る女生徒だった。
【え、芳賀穂乃花、ほんとにいるじゃん……】
【この三十人の中に葉空ヨリがいるってこと?】
【葉空ヨリの本名ってなに?】
【おい大丈夫か。誰の顔も名前も隠してないけど】
【ネットリテラシーなさすぎww】
【煽られたからって個人情報ばらまいてるの、頭弱すぎだろ】
【どうすんのこれ】
投稿にはすぐに反応がついた。投稿主の危うさを指摘する声を多くあげられていたが、そんなことよりも――芳賀穂乃花は実在した。その事実が明らかになってしまった。
【葉空ヨリの件。十五年前の記事、見つけた。市古高校の最寄りの市古駅で人身事故起きてる。しかも日付は九月十日。ここでも見れる→http://】
次の投稿が、芳賀穂乃花が実在したことの信憑性をますますあげることになった。
投稿主はネットデータベースのスクショを添付している。人身事故のデータをまとめているサイトのようだ。
『二〇XX年九月十日 ××線 市古駅ホーム で人身事故。十八歳・女性・死亡』
端的な文章だが、間違いのない正確な情報で、データベース上には当時のネット記事のリンクも記載されている。
九月十日。それはノベルタウンに葉空ヨリの偽物が投稿をした日だった。
「編集長……」
助けを乞うような私の声がこぼれ落ちた。編集長の唇は固く結ばれていて反応はない。
「それで、このなかに葉空ヨリはいるんですか?」
「そうね。……作家データにログインしてくれる?」
編集長が指示をすると、先輩はすぐに須田出版の管理システムにログインした。須田出版社員しかログインできないそこには、作家の個人情報が入っている。
先輩が『葉空ヨリ』と入力すれば、ヨリ先生の情報が現れた。
私はヨリ先生の本名を覚えていない。経理担当は本名でやり取りすることもあるが、私は本名で呼んだことがない。私にとって先生は“葉空ヨリ”以外のなにものでもないからだ。
「ヨリ先生の本名は……“小田切明日葉”ですね」
先輩の静かな声が響いた。
三十名の写真と名前を順番に眺める。そこに名前がないことを願いながら。
……祈るように、ひとつひとつ、ゆっくりと確認する。事実を知りたくない。
――小田切明日葉。
その名前はそこにあった。三十名の中に、その名前はある。
「僕、他の担当に連絡してきます!」
塚原さんはスマホを片手に足早にオフィスを出て行った。
どくどくと波打つ私の手の平のなかで、スマホが震えた。
……ノベラブルのポップアップ通知だ。
【『青春小説家H.Yに殺されました』が更新されました!】
私の名前は芳賀穂乃花。どこにでもいる女子高生だったと思います。
都会でも田舎でもない、特別進学校でなければ荒れているわけでもない、どこにでもある公立高校。
私のクラスは三年二組。文系で女子の方が多いクラスです。自然と近しい雰囲気の友人と集まり、女子は五等分になりました。私は四人組の一人として日々過ごしていました。
これを読んでくれているあなたが、想像するようなごくごく普通のクラスだったと思います。
春の私はそれなりに幸せでした。行きたい大学を決めて、受験勉強までは最後の部活(私はテニス部だったのです)に取り組み、卒業後の未来に希望を持っていました。
私の運命が変わったのは六月。梅雨が始まった頃でした。
これまたよくある話です。四人組の中の一人の不興を買ってしまったのです。
いじめの内容も、想像しやすいものだと思いますよ。誰もが『いじめ』で想像するようなことは一通り経験したかもしれません。
陰口、あだ名をつけられて笑われる、持ち物を壊され隠される……それはまだ軽い方でしょうか。
私と同じ経験をした方も多くいると思いますし、詳細は控えておきましょうか。
本当は私が経験したことを事細かに残したいのですが、誰かの心の傷を開くことになってしまってはいけません。
ここまで読んで、あれ?と思われた方もいるかもしれません。
私を虐めていた人物は四人組のメンバーの三人なのではないか、と。
そうともいえますし、違うともいえます。
それでも私は思うのです。私は、葉空ヨリに殺された、と。
オセロのように一瞬で、ひっくり返された。
芳賀穂乃花が数週間かけて盤上に置いていた石たちは、ずっと白のままだった。
それなのに、卒業アルバム、人身事故のデータベース、芳賀穂乃花の小説の二話目。
三つの黒が投下されたことで、盤上の石がすべて黒に変わっていく。
『葉空ヨリは過去にいじめでクラスメイトを死に追い込んだ』『いじめの主犯だった』という世論になりつつあった。
二話目が投稿された木曜日から、数日経った月曜日。
いまだノベラブルは小説を公開したままでいる。
「どうしてまだ非公開にならないんですか! また投稿があったらどうするんですか」
「まあまあ落ち着けって。土日も挟んでたしさ、今日ようやく担当者と話も繋がったし」
私の前でジョッキに口をつけるのは塚原さんだ。私たちは就業後、有楽町の居酒屋を訪れていた。
私は到底お酒など飲む気にはなれなかったが「寝れてないんだろ。考えすぎ、酒でも飲んで寝ろ!」と半ば無理やり連れ出された。
塚原さんなりの優しさだとは思うが、結局こうしてヨリ先生の話しかすることはない。
「でも担当者は上司への確認があると言ったんですよね。何日かかるんですか」
「ノベラブルはアクセスを稼ぎたいんだろうなあ。って言っても出版社との付き合いもあるから、今週中には対応すると思うけど」
出版社が運営していないノベラブルは、作者と出版社を繋げることでマネタイズしている。葉空ヨリと関係している出版社が何社も抗議をすれば渋々でも動くだろう。
炎上に巻き込まれている人がいるというのに……自社の利益を優先する企業など最悪だ。
「数日は動きはなかったけど、三話に続きますよね」
「あの終わり方だとそうだろうなあ」
「塚原さんは心配じゃないんですか?」
「心配だけどどうにもできないことはあるから。俺らはそのときそのときで対応していくしかないよ」
焼き鳥を齧りながら塚原さんは言った。六年もヨリ先生の担当をしていたのに、なぜここまで他人事でいられるのだろう。塚原さんは頼れる先輩だが、仕事は仕事と割り切って作家や仕事と一線引いているところがある。ヨリ先生を守ってくれる人ではない。
「なかなか話題も冷めないしなあ」
「芳賀穂乃花は三話目を投稿していないのに、ずっと話題になっちゃってますもんね」
葉空ヨリいじめ問題については、四日経ってもまったく鎮火することなく燃え続けていた。
『二十九人の中から、葉空ヨリを探す』というゲームのようなものが、始まってしまったからだ。
公開された卒業アルバム。私たち編集部はヨリ先生の本名が小田切明日葉だと知っている。
けれど、ネット上の人たちは葉空ヨリのペンネームしか知らない。
――そして三年二組の顔写真の中に、葉空ヨリらしい人はいなかった。
卒業アルバムの小田切明日葉は、今のヨリ先生とまったく別人だったのだ。
切り揃えられた分厚い前髪の奥の腫れぼったい目はカメラを睨んでいた。不機嫌そうに歪められた唇。写真におさまっている上半身からはふくよかな印象を受けた。
正直に言ってしまえば、小田切明日葉が葉空ヨリだとは誰も思えないほどだった。
【葉空ヨリ、このなかにいなくない?】
【十五年前だから面影ないのか?】
【それじゃあ芳賀穂乃花って人は実在したけど、葉空ヨリは関係ないということ?】
三年二組に葉空ヨリらしき人はいない。葉空ヨリは無実かもしれない。そんな流れになっていた。
しかし――。
【そうか。過去を告発されたら困るから、整形したんだ】
一人の意見が拡散され、総意になっていく。
【人を殺しておいて、平然と過ごしているなんて最悪】
【顔を変えて葉空ヨリとして新しい人生を生きてる】
【それならこの中から葉空ヨリを特定してやる】
芳賀穂乃花に同情した人や探偵気取りで面白がっている人の勢いは止まらず、卒業アルバムの二十九人の中から葉空ヨリを特定しようとする流れが出来てしまっていた。
もちろんヨリ先生を信じる声もある。
【整形っていうのは勝手な妄想だよね】
【芳賀穂乃花が実在して亡くなってたのは本当だとして、ヨリ先生が関係してるかはわからない】
【ヨリ先生を陥れたい人が、でっちあげたんです!】
【十五年も前の話題になったこともないイジメ事件使って陥れようとはしないだろ】
【そうやって庇うやついると思ったww だから葉空ヨリ=だれか、を特定する必要があるんだろ】
【特定すれば、本当かわかる】
意見は割れて反発し、それがさらに燃料となって燃えていく。
今までの人生で一度も葉空ヨリの小説に触れたことのないような人が、面白いからという理由で葉空ヨリの過去を漁ろうとしている。
卒業アルバムを投稿した主婦は、大きなバッシングを受けアカウントは削除されたが、一度投稿された写真はネットに永久的に残る。(主婦の個人情報も特定され、彼女の過去の投稿していた家族写真なども晒される結果になったが)
野次馬の手に渡った写真は何度も投稿され、三年二組は今日も誰かに拡散され続けている。
「塚原さんはどう思いますか。今回の件、ヨリ先生は関わっていませんよね」
私の問いに塚原さんはジョッキに口をつけるのをやめて、こちらを見た。
「俺たち編集者は知ってるだろ。あのクラスにヨリ先生がいたことを」
「名前が同じなだけで、関係ないかもしれませんよ」
「……うーん。小田切明日葉が芳賀穂乃花の自殺に関わっていたかはわかんないけど、ヨリ先生はあのクラスにいたんだと思うよ」
「それじゃあ、ヨリ先生が整形してると言いたいんですか?」
刺々しくなってしまった私の口調に塚原さんは苦笑いをこぼした。
「だと思うけどね。ま、かなり痩せてすっきりしただけもしれないけど。小田切明日葉=ヨリ先生は間違いないと思う」
「なぜですか」
「葉空ヨリの本名が小田切明日葉なのは事実だ。芳賀穂乃花のクラスメイトの小田切明日葉と同姓同名、年齢も合ってる。これが別人とは思えない」
「そうでしょうか」
「それにヨリ先生の地元は愛知だよ。F市にゆかりがあることは過去に雑誌のインタビューで答えていたことがある。ネット住人はその事実も見つけてるんじゃないか?」
塚原さんのいうことは正しい。鬼の首を取ったように、ヨリ先生の過去のインタビューが晒されていた。
「世間には小田切明日葉が葉空ヨリだと気づかれていないし、さっきも言ったけど、芳賀穂乃花のいじめにヨリ先生が関わっているかはわからない。今は悔しいけど、結局証拠もないんだからそのうちこの話題も忘れ去られるよ」
「だけどヨリ先生のイメージダウンは免れません」
「んー、どうだろなあ。どっちにしろ俺たちにできることは今ない。だからとりあえず食べな」
塚原さんは私の前に焼き鳥が乗った皿を移動する。私が一番好きなハツだ。
「まきちゃんの担当はヨリ先生だけじゃないってわかるだろ」
「はい」
塚原さんが心配しているのはヨリ先生のことだけじゃない。日中、私は他の先生から指摘を受けてしまった。一週間返事がないけれどどうしましたか、と。ヨリ先生の騒動に気を取られていて他のことがおろそかになってしまっている部分がある。
「部署変わって仕事は手伝えないけど。ヨリ先生のことは協力はするから」
「ありがとうございます」
塚原さんの優しさはありがたい。他の作家さんも大切だ。けれど、私はヨリ先生の炎上を解決できることがあれば、すべてを投げうってでも先生のためになりたかった。
翌日の火曜日は、ヨリ先生のコーヒーラジオの放送日だ。
須田出版と葉空ヨリが世間にどのような態度を示すべきか、決める日がやってきていた。
ヨリ先生のSNSには、数えきれないほどのコメントが届いていて、その大半が『芳賀穂乃花の告発について説明しろ』というものだった。もちろんファンから多くの励ましや心配の声も届いてはいたが。
そして、須田出版とノベルタウンのアカウントにも同様のコメントが届いていた。
二つのアカウントは、最初に芳賀穂乃花が小説を投稿した時点で『事実無根の中傷はやめるように、弁護士に相談している』という警告をしている。
そのため須田出版にも『芳賀穂乃花の告発は、事実無根ではなく事実ではないか? 葉空ヨリの著書を出版しているのだから説明をしろ』と批判が寄せられている。
コーヒーラジオは生放送。騒動が起きてから初めてのメディアの場ということもあり、注目を集めている。
今夜のラジオの放送に備えて、須田出版の応接室にヨリ先生が訪れ、今後について話すことになっていた。
時間通りにヨリ先生は須田出版を訪れた。カーキ色のシャツに黒いパンツを着こなすヨリ先生と、小田切明日葉はどうしても結びつかない。
「まきちゃん、迷惑をかけてしまってごめんね」
出迎えた私にヨリ先生は頼りない笑みをこぼした。元から細身だけれど、なんだかやつれた気がする。ヨリ先生を追い詰めようとしている芳賀穂乃花にじっとりとした苛立ちが燻る。
応接室に集まった編集長と塚原さん。そして私とヨリ先生。いつもならヨリ先生との会議は花が咲くように楽しい。会話からアイデアが溢れていくヨリ先生を見るのも楽しかった。
けれど、今応接室には重い苦しい沈黙が満ちている。
「このたびはご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
ヨリ先生は席を立ち、深々とお辞儀をした。
「ヨリ先生、やめてください」
編集長が駆け寄ってヨリ先生の背中に手を当てる。そのまま椅子を引きヨリ先生を座らせると、編集長は静かに切り出した。
「私どもは迷惑をかけられた、など思ってはおりません。しかし……世間の噂の声は大きくなってきていて、このまま黙っているわけにはいかないかもしれません。毎日犯人探しがヒートアップしているようで、鎮火の気配が見当たりません。ヨリ先生のためにも、何かしら声明は出しておいた方がよいと思うのです」
「……そうですよね」
ヨリ先生はうつむく。長い瞼の影が顔に落ちる。落ち込んだ表情も美しく、これが偽物だとは思えない。
「みなさんは私の本名をご存知ですので、取り繕う必要もないのですが……芳賀穂乃花さんと同じクラスだったことは事実です」
凛としたヨリ先生の声が私を突き刺す。小田切明日葉は、本当にヨリ先生だったのだ。
こちらを睨む小田切明日葉の瞳を思い出すと、お腹の底が冷える気がした。
「確かに私は市古高校の三年二組出身です。しかし……みなさんも炎上元の画像をご覧になったと思いますが、当時の私がいじめなどできるように思えましたか?」
ヨリ先生が困った顔で笑って見せた。私たちは答えられなかったがヨリ先生は言葉を続ける。
「恥ずかしながら、当時の私はクラスの誰にも存在を認識されないような生徒だったのです。私と芳賀さんは関わることもありませんでした」
芳賀穂乃花の顔写真を思い出してみる。人懐っこい可愛らしい笑顔を向けている彼女。クラスの中心人物でもおかしくなさそうな芳賀穂乃花が小田切明日葉にいじめられる、というのはあまり想像できなかった。
「なるほど。では、そのように声明を出しましょうか。実名は出さなくてもいいですから、クラスメイトだということは認めて、いじめははっきり否定しましょう。大半が面白がっている人間です。ファンに、嘘だとはっきり伝えることができればよいと思います」
「……根津さん、私のことを信じてくれるのですか?」
編集長を見るヨリ先生の目はわずかに光っていた。この数日ヨリ先生は不安に違いなかっただろう。ヨリ先生は一人暮らしをされていて家族はいないし、恋人がいると聞いたこともない。数日一人で思い悩んでいたのかもしれない。
「もちろんですよ! 私たちはヨリ先生は疑ってなどいません」
「私もそう思っています! ヨリ先生を陥れようとした人の仕業です。ヨリ先生を信じる人はたくさんいます!」
思わず私も声を上げた。ヨリ先生が笑顔を向けてくれるから、唇をかみしめる。
「ありがとうございます。ネットの噂がどんどん広がってきていて、どう対処していいのかわからず困っていたんです。何か発信した方がよいのか……ご迷惑をおかけしているのに、こうして相談にのっていただけて……本当にありがたいです」
ヨリ先生は俯いて表情は見えないが、掠れた声が痛々しかった。
「他の出版社にもご迷惑をかけてしまっていて……みなさんが心配してくれているんですが、どうお答えしていいのかも迷っていました。この後、各出版社にもご連絡します」
「僕からも連絡します。どの担当者も皆ヨリ先生を信じていましたよ」
「ありがとう、塚原くん。コミックの方で忙しいのに」
「担当から外れても、僕はずっとヨリ先生の一ファンですからね。あなたのお人柄もよく知っています。困ったときはいつでも僕のこと思いだしてください。お力になれることがあればなんでも」
塚原さんは昨日の冷めた口調からは考えられないほど、熱のこもった声を出した。
「本当にみなさんありがとうございます」
「今後についてですが、先生のアカウントから簡単に今回の件の否定の文章を出していただいてもいいですか? うちからも同じような文章を出しますから」
「わかりました」
「ありがとうございます。私たち須田出版も他の出版社もヨリ先生を信じています。いつでもなんでもおっしゃってくださいね」
「ありがとうございます」
消え入りそうな声でヨリ先生はもう一度深々と頭を下げた。
「私、ヨリ先生をお見送りしてくるわ」
編集長がヨリ先生の肩を抱くようにして外に連れ出した。私も編集長のように先生の身体を支えたかったが、ここは編集長に任せた方がいい気がする。
応接室には私と塚原さんが残された。
「小田切明日葉と先生、同一人物なのかぁ。違いすごいなあ」
塚原さんはスマホを取り出して、小田切明日葉の写真を開いている。
「そんなおもしろがるみたいに。失礼ですよ。整形かもわからないんですよ」
「いや、でも整形だと思うよ」
「なんでわかるんですか」
「編集長から聞いたんだけど。デビューから一年半。大学在学中はヨリ先生に直接会えなかったらしい。受賞したあとに対面で打ち合わせをしようと提案したけど電話とメールでやり取りしたいと言われたんだって」
「直接会うのは苦手な作家さんもいますよね」
推測で話を広げる塚原さんにもどかしい気持ちになる。
「でも今は普通に会ってるだろ。その一年半の間に整形したんじゃないかな。受賞金と印税も入ってただろうから、整形費用くらいある」
「すべて塚原さんの想像です」
「そうだけど、辻褄は合う。別に整形してたからってよくないか?」
塚原さんの視線が私を見透かすようで、私は慌てて目をそらした。
「整形してても今が綺麗なんだからいいだろ。ナチュラルで整形って気づかないくらいなんだから」
だとしても……私は認めたなくて、それには返事をせずに別の話題を出した。
「投稿している”芳賀穂乃花”は誰だと思いますか? 実在していたけど今は亡くなっていますよね」
「普通に考えたら芳賀の遺族とか、親しい人が復讐してるんじゃないか?」
「だけど小田切明日葉はとてもいじめなどをしているようには思えませんでした」
「どちらかというと虐められてる方だって? それは決めつけかもよ」
「それなら本当にヨリ先生が復讐されるようなことをしていたと? 私は復讐ではなく、嫌がらせだと思います」
声が尖ってしまいそうになるのを落ち着けながら言葉を続ける。
「例えば市古高校出身とか地元が同じ人がヨリ先生のことを妬んでいた。どうにかしてヨリ先生の人気を下げたいと考える。そこでヨリ先生のクラスで自殺があったことを思い出すんです。事実を混ぜ込ませたら人は信じます。これでヨリ先生はいじめに無関係でも陥れることができます」
「それはどうだろう。ヨリ先生は整形しているし本名を公表していないから、小田切明日葉=ヨリ先生だとは普通は気づかないんじゃないか」
「だとすると……ヨリ先生の本名を知っている人が怪しくないですか? 本名を知ってるとなると……」
私は口を閉ざした。ヨリ先生の本名を知っている人間、それはすなわち出版社の人間だ。
「出版社の人間だって? だけど逆に出版社の人間は、ヨリ先生の過去を知らない」
「話している途中に漏らしてしまったことはあるかもしれませんよ。高校名を知って過去を探っているうちに芳賀穂乃花の件を知ったのかもしれません。もしくは……小説の打ち合わせのときに、過去にクラスでいじめがあった、自殺者がいた、という話になった可能性だってあります」
ヨリ先生は青春小説を描く。題材となる高校時代やいじめについて話していてもおかしくない。
「それはそうだけど、なんのために。ヨリ先生がイメージダウンをして困るのは出版社だろ」
「動機はわかりませんが、一番現実的ということです。塚原さん、知り合いの担当の方多いのですよね。ヨリ先生を恨んでいる人はいませんか」
「ヨリ先生を恨む? 考えられないな」
塚原さんは腕を組みしばらく思案していたが、首を振る。
ヨリ先生を恨んでいる人間がいるとしたら、嫉妬しか考えられない。もしくはヨリ先生に交際を申し込み断られての腹いせやセクハラ問題かもしれない。
私は塚原さんをじっと見つめてみる。“芳賀穂乃花”が塚原さんの可能性だって十分にある。彼は六年間もヨリ先生の担当をして、打ち合わせの回数や一緒に過ごした時間はどこの出版社の担当よりも多い。過去について触れることもあったに違いない。
六年も付き合っていれば諍いはあってもおかしくないし、もっと単純にヨリ先生に告白でもして振られて恨んでいるのかもしれない。それに今はヨリ先生と関係のない部署に異動もしているのだ。
「私、他の担当者にも会ってみたいです」
「そうだなあ。もとからまきちゃんに紹介したいとは思ってたんだ。この機会に紹介するよ」
「ありがとうございます」
塚原さんは頭が回りコミュニケーション能力も高い。頼れる先輩だけれど、それが”芳賀穂乃花”だとしたら脅威になる。動向は気にしておいた方がよいだろう。
「二人ともお疲れ」
ヨリ先生をタクシーまで送り届けた編集長が応接室に戻ってきた。
「ヨリ先生、少しやせたわね。外に出ることが少し怖くなってしまってるみたい。ヨリ先生が好きな冷凍スープでも送ろうかしら」
「私手配しておきますよ」
「ありがとう。――あ、ここ片付けるのはヨリ先生とあなたたちのお茶だけでいいわよ。このあとまだここ使うから、繋いだパソコンはそのままにしておいてくれる」
モニターに繋いでいたパソコンを片付けようとすると、編集長に止められる。
「どなたかと約束ですか?」
「秦央社の編集長とね」
机の上に置かれた自身のパソコンをいじりながら編集長は答えた。秦央社。ヨリ先生の著書を多数刊行している出版社だ。
「わかりました。では私は失礼します」
「ありがと。塚原くんもありがとうね」
「いえいえ、ヨリ先生のためならなんでもしますよ!」
「そうだ。塚原くん、コミカライズの件なんだけど……」
編集長と塚原さんの話が深まった隙に、私はモニターの影にスマホを滑り込ませた。
「……それで、どうするの。秦央社は」
根津編集長の声のトーンが変わった。先ほどまで明るく秦央社の男性編集長と話していたのに、声が一気に暗くなる。
私は須田出版を出て近くのカフェに陣取り、イヤホンの奥から聞こえてくる会話を拾っていた。
奏央社の田中編集長は、根津編集長と旧知の仲だ。もともと同じ出版社の同期だったとかで、親交があるのは以前から知っていた。
根津編集長は私の質問には「大丈夫」「ヨリ先生を信じましょう」と微笑むだけで、内心はまったく読めない。
だから仕事用のスマホをスピーカー通話にして部屋に残しておいた。私用のスマホを通話先にして会話を聞いている。少し音は小さいが、聞こえないことはない。
「困ってるんだよ。ちょうど今執筆を進めてもらっているものがある。来年初めに刊行予定だ。すごく内容は良いんだが……青春物で、いじめもテーマにも盛り込んでる」
「それはちょっと厳しいわね。しかも数ヵ月後かぁ」
「場合によっては刊行中止になるかもしれない」
「でしょうね。イメージがここまで暗転することになるとは」
「葉空ヨリのジャンルがホラーやミステリーならともかくなあ。弱者の痛みに寄り添ってきたのに、実は虐げていた方だと厳しい」
「実際いじめはあったのかわからないけどね」
「小田切明日葉はいじめられっこの方に見えたけどな。どっちにしろ噂が広まればイメージの悪化は避けられない」
二人はヨリ先生の過去が事実かそうではないかはどうでもいいようだ。今の葉空ヨリのイメージ降下を嘆いているだけだ。
「うちは刊行中止くらいだからいいけど、須田出版は……」
「そうね……こっちはわりと最悪よ。最初に庇っちゃったもんだから火種がこっちにも。うちは先生の過去とは関係ないのに。むしろ騙されてたほうだわ」
「葉空ヨリと言えば須田出版ってイメージもあるからなあ」
「でしょう? このまま落ち着けばいいんだけど、この調子で話題になり続けていたら、ラジオ番組も厳しそうだし……」
「後任に羽木さんとかはどう? 彼女はヨリ先生に負けないくらいピュアなイメージがある」
「それただのあなたのタイプじゃない?」
「違う」
「じゃああれだ。羽木さんの刊行予定があるわね?」
「そうとも言う。シリーズ物なんだ」
二人は軽口を叩きあいながら笑っている。
顔が赤く火照るのはコーヒーのせいではない、怒りだ。
思いだすのは、根津編集長を見て涙ぐむヨリ先生の姿。
ヨリ先生は一人なのだ。どこかの出版社の社員でもなく、芸能事務所に入っているわけでもない。
個人事業主で、彼女の後ろ盾などない。
ヨリ先生はいじめなどしていないのに。世間のイメージダウンで、商品価値がなくなったと判断されて切り捨てられようとしている。
……許せない。いままでヨリ先生のおかげでどれほど須田文庫が話題になったのだろうか。
羽木? ヨリ先生を模倣しただけの作家が、ヨリ先生の代わりになれるわけなどない。
若い作家を育てることができたのも、ヨリ先生の活躍があってこそだ。
編集長や出版社は葉空ヨリを商品としか思っていない。塚原さんも信頼は出来ない。
――ヨリ先生を心から心配して守れるのは、私しかいない。
コーヒーラジオの放送一時間前に、ヨリ先生は自身のSNSを更新した。
【一部で、私の過去について憶測が飛んでおります。
話題になっている件、彼女とクラスメイトだったことは事実です。
ですが、噂されている件につきましては事実は一切ございません。
虚偽の情報の拡散や発信は法的措置を検討いたします。
ご心配をおかけしている皆さま、申し訳ございません】
須田出版もその投稿を拡散し、コメントを付け加えた。
【当社小説投稿サイトに投稿された内容に、誹謗中傷となる悪質な投稿がありました。
個人を貶める内容の投稿、ならびに拡散について、固く禁じます。
悪質な投稿、記事の拡散につきましては法的措置を検討いたします。
ノベルタウンは今後とも安全なサイト運営を目指してまいります。
このたびご迷惑をおかけした作家の先生には深くお詫びを申し上げます】
二つの投稿の後、私はSNSを開く気にはなれなかった。
ヨリ先生を信じない人間は、どれだけ否定したところで信じないだろう。むしろ燃料が来たとばかりに騒ぎ立てているに違いない。
けれど、この否定で救われる人がいるというのも知っている。
私が編集者ではなく一読者ならば、この投稿に縋りつき信じたことだろう。
公式からきちんと否定をすることは大切だ。ここではっきりと否定をすれば、葉空ヨリを信じたい人は信じ続けることができるのだから。
コーヒーラジオの冒頭でも、ヨリ先生は真剣な声で否定をした。
「こんばんは。葉空ヨリです。本日のコーヒーラジオをスタートする前に、聞いてくださってるみなさまにお話があります。ご存知ない方もいるかもしれませんが、ここ一週間ご心配をおかけすることがありました。噂になっている件については一部……私があのクラスに在籍していたのは事実です。ですが、投稿されている内容はすべて覚えのないことです。私自身も大変戸惑っております。嘘を証明することは大変難しく……私もどうしていいのかわからず……正直怖いです」
ヨリ先生は声を詰まらせた。その声は切なく、ラジオの先で聞いている人々にも、ヨリ先生の苦しみは伝わっただろう。
冤罪を主張することは、悪魔の証明なのだ。やってもいないことに証拠などない。
「みなさんからのあたたかい言葉に励まされています。私はこれからも真摯に物語を紡いでいきたいと思います。これからもよろしくお願いします」
ラジオブースの先にいるヨリ先生はいつもの何倍も小さく見えた。
「……少し暗い始まりになってしまってすみません。説明するお時間をいただきありがとうございました。このラジオは、少し寂しい夜にほっと一息ついていただける時間を目指しています。……ここからはいつもと同じようにさせていただきますね」
ヨリ先生の飾らない素直な言葉は、きっとファンの胸には届いたはずだ。外野やアンチを黙らせることはできないが、大丈夫だ。そう思えるヨリ先生の丁寧な言葉だった。
宣言通り、その後はいつもと同じ内容の放送となった。一度否定したあとは関与していません、という姿勢を貫くことも必要だ。冒頭では涙を浮かべながら言葉を選んでいたけれど、今は堂々と凛とした佇まいで話続けている。
その姿に救われる気持ちになる。やはりヨリ先生は誰よりも美しい。
コーヒーラジオに届くメールやハガキには、ヨリ先生を応援するもの、批判するもの。いつもの何倍の量が届いていた。私は批判している内容はすべて捨て、応援しているものだけを残した。
いつもと変わらない放送を送るために、放送中に応援メッセージを読むことはできないが、これはヨリ先生の支えにはなるはずだ。
三十分のラジオは滞りなく終了した。
「ヨリ先生お疲れさまでした! ……とても素敵な放送でした!」
「ありがとう、まきちゃん。そしてみなさまありがとうございます。ご心配をおかけして申し訳ございません」
ヨリ先生はラジオの放送を見守っていた人々に深く頭を下げた。根津編集長、ラジオのディレクター、それから何名か局のスタッフ。
「私とても緊張してしまっていて……みなさんがこうして側にいてくださったのでなんとかやれました」
青白い顔をしたヨリ先生が胸に手をあて微笑んで見せると、皆の温度が上がる気がする。
こんなときでも私たちに気遣ってくれるヨリ先生の過去が暗いわけがない。
「いや、ヨリさんとてもよい放送でしたよ!」
「はい、すごく心に響きました。ファンの方も心に届いたんじゃないでしょうか」
ディレクターの言葉に根津編集長は大きく頷いた。……白々しい。そんなことを言って、これ以上イメージダウンすればヨリ先生を見捨てようとしているくせに。
「ヨリ先生、ファンの方からたくさん応援のお手紙やメールも届いていましたよ」
これ以上、根津編集長とヨリ先生が話しているところを見たくない。私は段ボールに入ったハガキとメールが印刷された紙をヨリ先生に見せた。段ボールいっぱいに励ましの声が届いていることが誇らしい。
「ヨリ先生はひとりではありません! ヨリ先生のことを信じている人はこんなにいるんですよ!」
「……まきちゃん」
「これは全部ヨリ先生を信じる声なんです。『ヨリ先生に命を救われました、そんなヨリ先生がいじめなどに関与しているわけありません』」
私は一枚を取り出して読んでみる。応援の声をヨリ先生に届けたかった。
次のハガキを読もうとすると、ヨリ先生は口元をおさえてその場にうずくまった。
「ど、どうしましたか!?」
「大丈夫ですか」
根津編集長とディレクターが即座にかがんで、ヨリ先生を心配そうに見る。
「大丈夫です」
青ざめた顔のまま、ヨリ先生は私を見上げた。
「まきちゃん、ありがとう。……そうやって言ってもらえることが、信じられなくて力が抜けちゃったかも、はは」
「……ヨリ先生」
ヨリ先生はどれだけ心細かったのだろう。きっと一人で苦しみ、悩み続けていたのだ。私たちの何倍も苦しんで今日を迎えている。
ヨリ先生に伝えたい。世の中の多くの人があなたに救われていると。
アンチの大きな声なんて、一切聞かなくてもよいと。
私はヨリ先生の前にかがみ、もう一度段ボールを見せた。
「この中は私が確認した手紙やメールが入っています。どれもヨリ先生を応援する声です。……ヨリ先生はひとりじゃありません。こんなにもヨリ先生を信じる人がいるんです……!」
想像以上に大きく、必死な声が出てしまった。ディレクターが呆気にとられた表情でこちらを向いていることはわかるが、それよりもヨリ先生に伝えたかった。
「……ありがとう。ここで読んだら大泣きしちゃうかも。この手紙、家で大切に読ませてもらってもいいかな」
「もちろんです。私、タクシーまで運びますよ」
「ありがとう、まきちゃん。――みなさんも本当にありがとうございます。お見苦しい姿を見せてすみません」
ヨリ先生にスタッフたちが声をかけていく。誰も心配している様子に嘘はない。編集長だってこの瞬間は本気で心配しているのがわかる。
この空間はヨリ先生のお人柄に癒され、好意的に思っている人しかいない。ヨリ先生が苦しんでいる姿を見るのは誰も心苦しい。
これからもアンチの声など気にせずに、ファンだけの声を取り入れていけばいいのだ。
私が声を選定して、ヨリ先生に汚い声を届けないようにすればいい。
皆それぞれが帰っていき、私も段ボールを持ちあげヨリ先生と共に収録ブースを出た。局の廊下を歩きながら、ヨリ先生が優しい声音で話しかけてくる。
「まきちゃん、本当にありがとうね。元気づけようとしてくれて」
「当然です。私は担当編集の前に、ヨリ先生の大ファンなのです。ヨリ先生のことを心から信じています」
「……ありがとう」
ビルを出て、タクシーが停まっている場所に向かおうとした時だった。
「葉空さん!」
後ろから男性の呼びかける声が聞こえた。建物の中から男性が小走りでやってくる。
ラジオの関係者だろうかと思ったが、近くまでやってきて芸能人かもしれないと思う。ヨリ先生と同世代に見えるその人は一般人には思えない整った容姿をしている。
「秋吉さん」
振り向いたヨリ先生が名前を呟く。どうやらヨリ先生の知り合いらしい。
彼はつかつかと歩いてくると、突然ヨリ先生の腕を掴んだ。
「葉空さん、君は誰なんだ……!?」
走ってきた彼は、息を切らしながら吐き出した。
「俺に近づいたのはなんでだ! お前は俺のことを知ってたんだろ!」
彼はヨリ先生に近づくと感情が抑えきれなくなったようで、声を荒げた。
ヨリ先生は怯えを顔に出しながら、男の手を振り払う。私はすぐにヨリ先生と彼の間に入り込んで手を広げる。
「あなたこそ誰ですか。警備の人を呼びますよ!」
「君には関係ない。俺は葉空ヨリと話している。――葉空ヨリ、お前は誰だ?」
男の顔にも怯えが浮かんでいることにいまさら気づいた。ヨリ先生を幽霊でも見るかのように見つめている。
「なんのことでしょうか」
ヨリ先生から私の知らない声が飛び出た。固く冷たい声だった。ヨリ先生は彼を冷たい目で見ると、彼に背を向ける。
「待て! お前、誰なんだよ! 三年二組の誰だ!」
彼がヨリ先生の肩を掴み、私が振り払う。
「ヨリ先生、行ってください!」
ヨリ先生がタクシーに向かって駆け出すと同時に、シャッター音が鳴った。
……シャッター音?
音の方に目を向けると、道路の端に停まっていた一台の車から何名かの人間が降りてきていた。
彼らはカメラを秋吉に向けて「秋吉さんですね! 葉空ヨリさんや芳賀さんの件で聞きたいことがあるのですが……!」と大声をあげた。
……一体何が起きた?
カメラを向けられた秋吉は、腕で顔を覆う。
「おい、お前は葉空ヨリに行け!」
一人の女性がヨリ先生のタクシーに駆け寄っていくが、混乱の光景の向こうでヨリ先生がタクシーに乗り込んだのが見えた。
何が起こっているのか全くわからないが、ヨリ先生が無事に帰れるのならひとまず安心だ。タクシーの窓からヨリ先生が手を合わせて、私にごめんねのポーズをしたので、私は微笑んでみせる。タクシーが発車し、ヨリ先生に向かっていた女性もこちらに戻ってくる。
秋吉にカメラを向けているのは、雰囲気的にはマスコミ関係者だろうか。
「秋吉さん。今、葉空さんとお話されていましたよね!? 葉空ヨリの正体を知っているんですか⁉」
「クラスメイトの芳賀さんの自殺をどう思っていましたか?」
「秋吉さん、葉空さんの本名をご存知ですね?」
目の前のマスコミ関係者は秋吉に必死に話しかけていて、ただのスタッフに見える私など眼中はなさそうだ。秋吉は口を結んで黙っている。
「秋吉さん!」
「俺だって何も知らないんだ! 勘弁してくれ、葉空ヨリが誰かなんて俺も知りたいんだよ!」
秋吉は血走った目で叫ぶと、局のビルの中に戻っていった。騒ぎを察知した警備員も外に出てきて、マスコミはそれ以上追いかけられない。
秋吉に話を聞くことを諦めた彼らは、私に目を向ける。
「あなたは葉空ヨリ先生の関係者ですか?」
「葉空さんの本名をご存知ではないですか?」
「私はただの雑用のスタッフですよ。先生の持ち物を運んでいただけです」
彼らは私をじろじろと見るが、関係ないと判断したのか立ち去って行った。
……今の秋吉という男は何者なんだろうか。彼の言葉やマスコミの言葉から考えて、市古高校の関係者なのだろうか。そしてヨリ先生と知り合いのように見えたが……彼はヨリ先生が誰なのかわからず怯えていた。
私はタクシーに乗り込むと、SNSで『秋吉』と検索してみる。すぐに彼がどういう人物なのかわかった。
――秋吉征直。私は知らなかったが、最近注目され始めた俳優らしい。長い下積みを経てブレイク寸前といったところだ。ドラマの脇役から徐々に人気を掴み、来期から深夜ドラマの主役もつかんでいた。出会った状況からもう彼にいいイメージは持てないが、初見がテレビであれば爽やかな好青年の印象がついただろう。
そんな彼が、市古高校三年二組の卒業アルバムの中にいた。どうやら本名のまま芸能活動を行っているので『秋吉征直』とフルネームが印字されているし、少しあどけなさはあるが先ほど見たままの男の写真だった。
話題の写真のなかに、たまたま少し有名な人がいた。
彼は男性だし、葉空ヨリだと疑われているわけでもなく、秋吉に悪評が広まっているわけではない。むしろ『マサくんの卒アル見れて嬉しい』『高校の頃から顔整いすぎてる』と彼のファンは好意的に受け止めているくらいだ。葉空ヨリ騒動の副産物という形で広がってたようだ。
マスコミはきっとラジオ放送後のヨリ先生に突撃するつもりだったのだろう。そこに秋吉が出てきて、葉空ヨリについて聞くことにしたのだと理解できる。
しかし、なぜ彼はヨリ先生に詰め寄っていたのだろう。元々彼とヨリ先生は交流があったのだろうが、彼は葉空ヨリ=小田切明日葉だと気づいていないようだった。
秋吉は顔も名前も変わっていない。ヨリ先生は彼がかつての同級生だとわかっていた可能性が高い。
二人の関係がまったく想像が出来ず、考えてもわからないまま自宅に到着した。
「この段ボール、どうしようか」
ヨリ先生に渡すはずの段ボールはとりあえず私の自宅で保管しておくしかなさそうだ。
【さっきはごめんね。また説明しますね】
ヨリ先生からメッセージが届いていた。気にしていないことと段ボールは預かっている旨を返信する。
今日も疲れた。そろそろ日付も変わるし早く眠ろう。そう思っていたのだが、芳賀穂乃花は今夜も私を寝かせないつもりらしい。
【『青春小説家H.Yに殺されました』が更新されました!】
ノベラブル公式が動かないせいで。三話目が更新されてしまった。
いじめが発生する理由は些細なことです。
なんとなく気に食わないだけの場合だってあるでしょう。
いじめられる方に原因がある、というのは後付けだと思います。
しかし私がいじめられた原因は明確でした。
原因は二つあるのですが、長くなるのでまず一つ目のお話をすることにします。
私は高校二年生のときに初めての彼氏が出来ました。
同じクラスのMくんからメッセージが届き、休日に時間を過ごすようになりました。
整った容姿のMくんは、無口で女子にあまり話しかけることもなく、そのクールさがさらに素敵に思えたのです。
もちろん私もその一人です。子供っぽいクラスの男子とは違うMくんにときめき、彼から初めてのメッセージが届いたとき、飛び上がるほど嬉しかったのです。
Mくんと一年ほど付き合い、同じ三年二組になりました。同じクラスだとわかったときの嬉しさは忘れられません。
私には至らない点がありました。
Mくんは私に不満をため込んでおり、私のグループの一人であるSさんに相談をしたそうです。
純粋に悩みを打ち明けたかったのか、下心を含んでいたのか、今となってはわかりません。
MくんはSさんに私と別れたと説明して、Sさんとも交際を始めたようです。
もちろん私たちは別れてなどいませんから、私が彼女のように振る舞っていたことは、Sさんの怒りに繋がったことでしょう。
恋が絡むと憎しみは一気に燃え上がってしまうのです。
ね、原因は明確でしょう?
瞬く間に世間の関心は、秋吉に向けられた。
ノベラブルには挿絵機能というものがあり、三話には画像が添付されていた。
芳賀穂乃花らしき少女のプリクラで、芳賀と男子生徒が二人で写っているものだ。落書きに書かれた名前と目元は隠されていたが、その男子生徒が秋吉なのは誰の目にも明らかだった。
今注目の俳優が、話題の少女の自殺の原因の一人だということは当然世間を騒がせることになる。
写真まで投稿されたこともあり、ノベラブルは慌てて芳賀穂乃花の小説を削除したが、一度広まったものはもちろんネットの海で公開され続けることになる。
そしてあのラジオの日、秋吉にカメラを向けていたマスコミは、ゴシップで有名な週刊文秋だった。彼らは世間の声にこたえるように撮ったばかりの写真をネットにアップした。
秋吉がヨリ先生の腕や肩を掴み、何かを言い争っているように見える写真だ。
【秋吉征直、過去にクラスメイトを死に追いやっていた⁉ 葉空ヨリとの関係は……⁉ 秋吉と葉空の密会と言い争いをスクープ!】
そんな見出しの飛ばし記事だ。記事にはコーヒーラジオ放送後にビルの前で言い争っていたことしか書かれていない。詳細は週末に発売する雑誌にて、ということだったが、きっと彼らもヨリ先生と秋吉の関係性をまだつかんではいないのだろう。取り急ぎ世間の関心の種を投下したと見える。これから大慌てで裏を取りにいくに違いない。
芳賀穂乃花の小説が投稿されて二日が経過したが、秋吉と事務所は沈黙を貫いている。文秋の記事を待ってから釈明するのかもしれない。
秋吉の一件で『葉空ヨリが誰なのか』追求する動きはより激化していた。
公式から正式に否定があったことでヨリ先生のファンは『ヨリ先生を信じる』という者が多い。
しかし外野は、秋吉の件でますます盛り上がっている。
ヨリ先生に対しての批判よりも、三年二組の誰が葉空ヨリなのか、犯人探しを楽しんでいるともいえる。
【葉空ヨリって、芳賀の小説のSのことかな?】
【Mが征直でイニシャルそのまま使ってるだろ。Sがつく女じゃないか?】
【俺は二話の投稿もヒントだと思う。”近しい雰囲気の友達”が同じグループになってるって言ってた】
【芳賀は可愛いし間違いなく陽キャ。彼氏も秋吉だし】
【三年二組の陽キャ女が芳賀をいじめてたっていう三人だと思う】
自称探偵たちは見当違いな推理を広げている。
けれど見当違いだと思うのは、私がヨリ先生の本名を知っているからだ。私も芳賀穂乃花の友人グループを考えれば、小田切明日葉は候補から外れただろう。
ヨリ先生の高校時代は平成ギャルと呼ばれる世代あたりだろうか。細眉に主張の強い睫毛とアイライン。芳賀穂乃花も当時の流行りの顔立ちと髪型をしていて、ネットの意見通り”陽キャ”に見える。
【榎川小百合が怪しいと思う】
自称探偵たちは”榎川小百合”という女生徒に目をつけていた。派手な雰囲気の子は三年二組に四、五名いるがイニシャルがSなのは彼女だけだった。
そして彼らは榎川とヨリ先生の共通点を見つけた。
榎川は美人だ。どちらかというときつい顔立ちだが、それが細眉や濃い化粧にも合っていて、三年二組では一番の美人に思えた。
カメラに向かって笑顔を向けている榎川はえくぼが愛らしく、右目の下に泣きぼくろがある。
検証用に榎川とヨリ先生の写真が並べられ、比較できるようになっている。
ヨリ先生にも親しみやすいえくぼと、涼やかな目元に泣きぼくろがある。
【えくぼ、ほくろ、これは確実だろ】
【鼻の形が違くない?】
【そこは整形で変えたんだろ】
【葉空はたれ目で、榎川はつり目に見えるけど】
【整形もあるし、当時はこういうきつめのメイクが流行ってたからかも。眉と目元の印象変えれば全然違うよ】
【榎川、美人なのに整形するなんてもったいないなあ】
【これくらい元が美人じゃないと、葉空にはなれないんじゃない】
ネットは好き勝手な意見ばかり流れているが、正直私も同意見だった。
小田切明日葉よりも、榎川小百合がヨリ先生の過去だと言われた方がしっくりくる。
ヨリ先生が榎川なら、秋吉に近づいたのもわかる。芳賀の件が露呈して相談したかったのではないだろうか。
ヨリ先生の登録されている名前は『小田切明日葉』だ。けれど、本当にそうなのだろうか。
「まきちゃん」
声をかけられてハッとする。榎川の憶測が飛び交うSNSに集中しすぎてしまっていた。慌てて顔を上げれば塚原さんが私の後ろにいた。
すぐにノートパソコンを閉じて、塚原さんの方に身体を向ける。
「どうしましたか?」
「こないだ話してたヨリ先生の担当者の件なんだけど。山吹出版の担当者が話したいことがあるらしくて、都合がつく日にどう?」
「はい、大丈夫ですよ」
「ところで、榎川小百合って知ってる?」
知っているもなにも、今一番考えていた名前だ。私が頷くと「そうだよな、だいぶ話題になってるよな」と塚原さんは渋い顔になる。
「山吹出版の担当者は、ヨリ先生の担当でもあるし、榎川の担当者でもあるんだよ」
「え? どういう意味ですか?」
「まだその話題は見てない? ”さゆぐらし”で調べてみて」
塚原さんの言葉にパソコンを開き『さゆぐらし』と検索してみる。
ミンスタグラムがヒットして、ベージュや白を基調とした部屋やアイテムがずらりと並んでいるアカウントが出てきた。
フォロワー数は十万を超えている。どうやらその界隈では有名なインフルエンサーのようだ。
自分で出来る北欧風DIYや、カフェのような食事、シンプルでオシャレなアイテムを紹介している、丁寧な暮らし系アカウントだ。
「このアカウントのさゆぐらしが、榎川小百合ということですか?」
「そう」
もう一度アカウントに目をやって、過去の記事も確認してみるとベージュのカーディガンを着た女性がいた。さゆぐらしは顔出しもしているらしい。榎川は学生時代よりぐっと優しい表情にはなっていたが、当時の面影は感じられる。卒業アルバムと同じく、えくぼとほくろもある。
「ネットでも気づかれてますか?」
「まだそこまで話題になっていないけど、ちらほら意見が出てきてる」
「山吹出版で何か出すんですか、この人」
塚原さんは手に一冊の雑誌を持っていた。”simple life”という雑誌で、さゆぐらしと雰囲気の似ている雑誌だ。
様々な人の暮らしを紹介しているようで、そのなかに榎川も掲載されていた。自身の部屋のソファに腰かけて、ベージュのヘアターバンを頭につけ、白いワンピース姿で笑顔を向けている。ナチュラルな雰囲気の美人だ。
塚原さんがさらにページをめくると、『葉空ヨリのコーヒーでも読みながら』というコラムがあった。ヨリ先生が一冊の小説を手に微笑んでいる。どうやらヨリ先生のオススメの小説を紹介するコラムらしい。
「隔月刊行の雑誌なんだけど、毎号ヨリ先生はこのコラムを担当している。もう一年になるそうだ」
「その担当編集なんですね」
「そういうこと。それで、このさゆぐらしの書籍化が決まっていた」
そう言われてパソコンに目を戻してみると、さゆぐらしの固定された投稿に『書籍化決定!』と手書きの文字が見えた。
「……同じ編集さんなんですか?」
「うん。さゆぐらしの刊行をどうするか、悩んでいるらしい。一度俺に話を聞きたいって」
「うちも何もわからないですよね」
「ただ相談したいのかもしれない。編集長とか上層部を交えず意見を聞きたいらしいから」
「わかりました」
「ありがと。じゃあまた調整して連絡するよ」
塚原さんを見送りながら、ふと頭の中に考えが浮かんだ。
……そうだ、なぜこの考えに至らなかったんだろう。
この炎上を止める方法は一つある。いや、一つしかない。それは”芳賀穂乃花”に投稿を止めてもらうことだ。
秋吉と榎川が炎上していて、今はヨリ先生への批判が逸れている。
しかし芳賀穂乃花の一番の目的はヨリ先生ではないだろうか。芳賀は最初からヨリ先生を指名していた。
だとすれば二人の炎上など、芳賀穂乃花にとっては前菜のようなものだろう。
私はヨリ先生を信じている。過去のいじめなど関与しているわけがない。あんなに繊細で優しい文章を書く人が誰かを死に追いやるわけがない。
しかし芳賀穂乃花を名乗る人物は何かの理由でヨリ先生を陥れようとしている。秋吉の証拠まで出してきたのだ。ヨリ先生にとって不利なものが投稿されて、大打撃を受ける前に。
――芳賀穂乃花を名乗る人間を探し出す。そう決めた。
ヨリ先生にあまり過去は問いただしたくはないが、過去を聞くならぴったりな二人が現れた。
先日の切羽詰まった様子の秋吉を思い出しながら、さゆぐらしの『念願の書籍化決定!』の文字を見やる。
二人の夢はようやく叶うのに、芳賀の出現でそれが危ぶまれている。追い込まれている二人なら、芳賀穂乃花に繋がるヒントがわかるのではないだろうか。
二人とて、芳賀穂乃花にこれ以上の投稿はやめて欲しいだろう。
パソコンの画面にうつるSNSに目を向ければ【ねえ榎川小百合ってインフルエンサーのさゆぐらしじゃない?】という投稿が流れてきた。既にリポスト数も多い。さゆぐらしが炎上するのは確定路線に入っていた。
木曜日。私は真っすぐ帰宅せずに自宅の近くのカフェに立ち寄った。老夫婦が経営している純喫茶だ。深みのあるブラウンを基調にした店内は人はまばらで、私は一番奥の席に座る男性の元に向かう。
「こんばんは」
ふてくされた表情で私を見上げるのは秋吉征直だ。
「須田出版の槇原羽菜と申します」
名刺を差し出すと「知ってますよ」と投げやりに答えて、秋吉は片手で受け取った。
昨日私は秋吉に須田文庫のSNSからDMを送った。ラジオ局の前で会ったヨリ先生の担当編集であると名乗り、会えないかという内容に秋吉はすぐに食いついた。
私は秋吉の向かいの席に座り、メニューを開いた。秋吉は既にホットコーヒーを注文していて私の様子を伺いながら一口飲んだ。
「このカフェ穴場なんです。あまり人もいないし、来るのも近くに住むおじいさんおばあさんばかりで。遅くまでやってるし、お話するのにちょうどいいでしょう」
「そういうのはいいから」
「注文だけさせてください」
私は手を挙げるとアイスカフェラテを注文する。
「それで、あなたは葉空ヨリの正体を知っているんですか」
注文を終えた途端、秋吉は急いたように訊ねてきた。
「実は私も葉空先生の本名を知らないのです。ずっとペンネームでやり取りしていましたから」
「そんなことが出来るんですか?」
「小説家と出版社は少し特殊なんですよ。とにかく私は葉空先生の本名は知りません」
すらすらと出てきた嘘を秋吉は疑わず、わかりやすく肩を落とした。
「それなら僕が君に会った意味はなかった」
「私は秋吉さんに相談をしたくて、今日お誘いしました」
秋吉が私を訝し気に見たところで、カフェラテが届いた。シロップをいれてストローでからからとかき混ぜる。
「私は葉空先生を守りたいんです。これ以上イメージが悪くなるのは担当編集として困りますから。それは秋吉さんも同じですよね」
秋吉は返事の変わりに深いため息をついた。
「これ以上芳賀を名乗る人物になにかを投下されたら困るんです。私は芳賀を突き止めて、これ以上の投稿をやめさせたいんです。それは秋吉さんにとってもメリットがありますよね。芳賀を説得すれば、今までのはいたずらだった、と投稿してもらうこともできます」
「……できるんですか?」
「須田出版にとっても、葉空先生の炎上は大きな打撃になりますから。そのための費用も出ると思います」
「金で黙りますか?」
「どうでしょうか。しかし芳賀を突き止めないことには、それもできません。芳賀を突き止める協力をしてもらえませんか?」
秋吉は私をじっと見つめる。
「葉空に頼まれたんですか?」
「いいえ。葉空先生はお忙しいですから、私が代わりに」
「ふうん。で、協力って何をすれば?」
「十五年前の芳賀穂乃花さんに関わることを、私は何も知りませんから。過去を教えて欲しいんです。芳賀さんに関係する人物が、今〝芳賀穂乃花”を名乗っているのは間違いないのでは?」
「そうだな」
「まず一つ。小説に書かれていたことは事実なんですか?」
秋吉は五秒ほど黙ってから控えめに頷いた。
「話題になってて知ってると思うけど、Sは榎川小百合ですよ」
「榎川さんが芳賀さんをいじめていたのも事実ですか?」
「……はい。僕は原因かもしれないけど、いじめには直接的には関わっていません」
秋吉は眉間に皺を寄せる。榎川が秋吉のことが好きならば、彼に隠れていじめをしていた可能性はある。
「僕は正直女子同士のいざこざは詳しくはしらないんです。……僕は穂乃花のことはいじめてない。関与していないんだ」
いじめの原因を作った人間が、二股をかけた人間が、何を言うのだ。私は喉まで出かかった言葉を飲み込む。
「芳賀さんのご友人関係はわかりますか?」
「小百合たちと仲がよかったことしかしらない。部活とか、中学の友達は名前まで覚えてないな」
「彼女なのにあんまり興味ないんですね」
「男なんてそんなもんですよ。というより、十五年も前ですよ? 十五年前の恋人の友人まで覚えていられますか?」
秋吉は指をとんとんと机に打ち付けながら、苛立ちを隠そうともしない。
「だから今穂乃花を名乗って、俺たちの過去を語っている人間はまったく心当たりもない。小百合たちに聞いた方が早いんじゃないですか?」
「わかりました。ちなみに榎川さんと今、関係はありますか?」
「まったくありませんよ。そもそも小百合とはすぐに別れたし、卒業してから一度も会っていない。今東京に住んでることすら知らなかった」
秋吉は役に立たない。いままで過去のことなど忘れて生きてきたのだろう。なぜ自分の彼女が死んだのか、深く考えることもせずに。
「私に聞かずとも、秋吉さんは葉空先生とお知り合いのようでしたよね。葉空先生が三年二組の誰なのかわからないのですか?」
「わからないから気味が悪いんですよ」
「秋吉さんは葉空先生が誰か、心当たりはないんですか」
「ないですよ。僕は高校卒業後すぐに上京して、地元に帰ってないしみんなの顔はうろ覚えだし」
「そもそもなぜ葉空先生とお知り合いになったんですか? 元クラスメイトだから懐かしくて、というわけではないのですよね」
秋吉は苦々しい顔になり三十秒ほど黙ってから、重い口を開いた。
「たまたまラジオ局で彼女と会ったんですよ、半年前くらいに。もちろん市古高校の関係者だとも知らずに。それで二人で食事に行った」
「なぜ食事に行くことになったんですか?」
「……いや、普通に……声をかけただけです。食事に誘う理由なんて、大きなものはないですよ」
「つまり恋愛的な意味で気になっていたんですか?」
「別にそれだけが理由なわけじゃないけど……」
秋吉は言葉を濁す。彼はこれから波に乗り始める俳優だ。恋愛スキャンダルに繋がる言葉は慎重なのだろう。
「言っておくが、三度食事をしただけでそれ以上の関係はないですよ」
無意識に秋吉を睨んでしまっていたのかもしれない。彼は言い訳をするように付け足した。
「とにかく、彼女は僕に市古高校出身だと明かすことはなかったんです」
「秋吉さんが元クラスメイトだと気づいていなかったとか?」
「そんなことあります?」
「秋吉さんも葉空先生のこと、気づかなかったじゃないですか」
「……彼女がクラスメイトでないのなら、その方が僕にとってはいいですよ、気味が悪いので。無関係の人なのだとしたら炎上はお気の毒だが」
「それなら三年二組に葉空先生はいなかったと、あなたからマスコミに言ってもらえませんか? 葉空先生への批判を少なくできます」
秋吉は露骨に顔をしかめると、私をきつく睨んだ。
「僕にそんな余裕があるわけないでしょう! 自分の弁解をするだけで必死なんですよ。週刊文秋は何か記事にするだろうし、ああくそ……っ!」
声を荒げた秋吉は続ける。彼に余裕がないのは明らかだ。今取り繕う余裕もないのだから。
「俺だって穂乃花が死んでショックだったんだ! 彼女だったんだから当たり前だろ。それなのに十五年もたって……なんなんだよ」
次々と言葉を吐き出していく秋吉の目は血走っている。彼は相当ストレスが貯まっていたのだろうか。
「俺は高校を卒業してからずっとこの道を目指していた……! 小さな舞台から始めて、ようやく……チャンスが回ってきたんだ……! 深夜ドラマでも主演をつとめたら大きい。舞台で演技力にも自信がある。この世界でチャンスが巡ってくるのがどれだけの確率かわかるか? それがこんな……十五年前のことで……! なんとか芳賀を見つけ出して、今回の件を訂正してもらってほしい。俺は過去の交友はわからないけど、連絡先を知ってる人間もいる。協力できることはするから!」
「わかりました。なにかあれば相談させてもらいます」
「俺の主演ドラマが決まったってときに……なんなんだ……悪いのは小百合たちだろう」
秋吉は俯きながら吐き出した。息を何度か吐き、落ち着きを取り戻したらしい。顔をあげて私に改めて問うた。
「本当に葉空ヨリの正体を知らないんですか? たとえば、下の名前だけでもわかれば」
「知りません」
「それじゃあ、葉空ヨリが僕に近づいた理由はなんだと思いますか?」
「近づいたも何も、あなたから誘ったんですよね」
「そうなんだけど……彼女に罪をなすりつけられている気がするんだよ……葉空ヨリは、小百合と一緒に穂乃花をいじめていた千尋か、亜美じゃないかって思ってる」
千尋も亜美も初めて聞いた名前だが、芳賀穂乃花の四人組の残りの二人だろうか。念の為に訪ねてみれば秋吉は頷いた。
「葉空先生がどちらかだとして、なすりつけるとはどういうことですか?」
「僕は穂乃花の元彼です。ブレイクしはじめて世間から注目を浴びている旬の俳優ですよ。葉空ヨリはこの告発の矛先を俺に向けるために、俺に近づいたんじゃないですか……!?」
「食事に誘ったのは半年前ですよね? その頃はまだ告発はありませんでした」
「その頃はただ単に僕と仲良くしたかっただけだと思いますよ。親しくなったタイミングで、元クラスメイトだと驚かせようとしたのかもしれない。その矢先に今回の告発があった。葉空は僕と恋人になるよりも、僕に悪い注目を集めるようにしたんだ」
笑いだしてしまいそうなくらいくだらない憶測だ。少し表情に出てしまったのかもしれない。秋吉は少しムッとした口調で続ける。
「あの日。僕がラジオ局にいたのは、葉空ヨリと食事の約束をしていたからですよ」
「……あの日というのは、週刊文秋に撮られた日ですか?」
「そう、文秋に撮られる前週の木曜日の夜に食事の約束をした。その翌々日の土日に僕は今回の騒動を知ったんです。僕の卒アルが広まってきたことを知り、そこで一連の騒動を知って驚きましたよ! 葉空が元クラスメイトなんて! それで慌てて葉空に連絡を取ったんですが、電話もつながらない。メッセージもブロックされている」
「だからラジオ局に来たのですか?」
「そりゃそうだよ! 約束していたし、連絡が繋がらないんだから! それで素直に局まで行ったら俺は週刊誌に写真を撮られる羽目になった! 週刊誌にスクープされたことで、SNSに疎い層にまで広がってしまったんだ……! そのうえ過去のプリクラまで! どう考えても葉空ヨリの策略だろう!」
「秋吉さん落ち着いてください。周りの目もありますから……」
再び声を荒げた秋吉に小さな声で注意をする。カッとなりやすい秋吉ならば、ヨリ先生の前でみせた切羽詰まった様子も頷ける。
それにしても、あの日ヨリ先生が秋吉と約束をしていた? ヨリ先生はそんなそぶりを全く見せなかった。
「今回の騒動を俺に押し付けたいと思っているのは間違いない。今回の食事を誘ってきたのは葉空なんだ。木曜の時点で葉空は騒動を知っていたんじゃないか」
先週の木曜日というと……ヨリ先生とランチをして、ノベラブルで芳賀穂乃花の投稿が始まった日だ。
だとすると、ヨリ先生は芳賀穂乃花の投稿事件を知っている。私たちと中華を食べてから秋吉との約束を取り付けていた……?
「木曜日は騒動が始まった日ですから、葉空先生もまだ気づいていなかったのでは?」
「そうかもしれないけど……君、なんとか葉空ヨリが誰か調べられないか?」
「調べてどうするつもりなんですか」
「……なんだっていいだろ」
なぜこの男はこんなに短絡的なのだろうか。矛先を変えたいのは秋吉だろう。ヨリ先生の本名を知ったら、自分の注目をそらすために何をしでかすかわからない。
「私は葉空先生の不利になることはしませんよ。ですが、芳賀穂乃花を名乗る人物を特定したいのは同じです。何か気づいたことがあれば連絡ください」
もうこれ以上この男と話すことはないだろう。私は伝票を持って立ち上がると、項垂れた秋吉の元を去った。
カフェを出て自宅に向かいながら、秋吉との会話を思い返してみる。彼の話では芳賀穂乃花にまつわる人物はまったくわからなかった。千尋と亜美という新しい名前は出てきたが、四人組の残りの二人でどちらかというと加害者側だろう。復讐をしようと思っている人物には思えない。
それよりも気になるのは、秋吉が語っていたヨリ先生のことだ。自分に集まる批判の矛先を秋吉に変えようとしていた……?
たしかに秋吉の一件以来、ヨリ先生への批判は減ってはいる。
ヨリ先生が秋吉と三回食事をしたことも、あのラジオの日に約束をしていたことも事実だろう。秋吉は嘘がつけるタイプではない。
けれど、ヨリ先生がそのようなことをするだろうか。
自身が危ない立場にあったからといって、別の人間を世間に差し出す真似をするわけがない。そもそも秋吉や榎川については自業自得で、炎上したことも自身が招いたことではないか。
しかし、ヨリ先生が秋吉と何度か時間を共にしていたことは釈然としない。
軽薄で中身のない顔だけの男とヨリ先生が関わりがあるというだけで虫唾が走る。
まさかヨリ先生は秋吉のような男が好きなのだろうか。
一瞬浮かんだ考えをすぐに振り払う。あんな男をヨリ先生が魅力的に感じるわけがない。秋吉と関わったのは何か理由がある。
打算的な部分があるわけがないと信じているが、なんの考えもなく秋吉と食事にいくヨリ先生のほうが嫌だった。
どちらにしても一点も曇りのないヨリ先生に少し染みが出来てしまった気がして、わけもなく早歩きになる。足を動かしてまとわりつく気持ち悪さを振り払いたかった。
自宅に入るとシャワーも浴びずにベッドに寝っ転がり、SNSを開く。〝葉空ヨリ”と検索窓に打ち込んで、やめる。以前はこうして一日の終わりに〝葉空ヨリ”をサーチして、小説の感想やヨリ先生を褒める声を聞くのが一日の終わりの癒しだった。
今は、無関係な人間たちの疑惑や批判の声が目に入ってきてしまう。秋吉というスケープゴートができたとはいえ、ヨリ先生への批判もいまだに多い。
誰からも好かれるはずのヨリ先生に対して、ノイズが入ってしまったようで怒りがこみ上げてくる。
検索するのはやめて、自分のアカウントのタイムラインだけ見ることにした。七年前に作った個人のアカウントだ。ヨリ先生の作品を呟いていたアカウントで、自分がフォローしている人間もヨリ先生の熱心なファンしかいない。
【毎日アンチの声見て嫌になる。先生がいじめなんてしてるわけないじゃん】
【ヨリ先生の文章を読めばわかるのに。先生の人柄も、尊さも】
【ヨリさんの小説を読んだこともない人間がヨリさんを語るな。読めばわかる。黙って読め】
【ヨリ様は命を救ってくれる人。命を奪う人じゃない】
ヨリ先生を信じる言葉を見れば、早くなっていた鼓動が落ち着いてくる。
そう。――私は、私が見てきたヨリ先生を信じればいい。
ヨリ先生は清らかで美しい人だ。過去に後ろ暗い点などないし、秋吉に対して打算的なところはない。
断り切れず食事をしただけで、約束を取り付けたのも過去について相談をしたかったのかもしれない。けれどあの日声をかけてきた秋吉は冷静に話が出来る雰囲気ではなかった。ヨリ先生の腕を掴んだ秋吉の目は尋常ではなかった。きっとヨリ先生は彼に相談する気などなくしたのだろう。
ゆっくり息を吐いて、もう一度タイムラインに目を向ける。
【信じたいけど、さらに証拠が出てきたらどうしよう。私はヨリさんのこと信じてもいいのかな】
腹立たしい投稿がタイムラインに紛れていた。私は呟いた人をブロックすると、スマホをベッドに投げて目を瞑った。もう眠ってしまいたかった。
翌朝、私は出勤前にカフェに向かった。塚原さんと山吹出版の担当編集と話すために会社の近くのチェーン店に入る。
山吹出版の担当者は山本と名乗った。塚原さんと同世代くらいに見え、明るい色のスーツを着こなした外ハネボブの女性だ。あの雑誌に登場してもおかしくない雰囲気だ。
山本さんはヨリ先生のコラムとさゆぐらしの担当者だと言い、困り果てた表情をつくる。
「結局何がどうなっているかわからないじゃないですか。だから他の出版社のお話を聞きたかったんです。特に須田出版さんは一番葉空先生に近いと思いますし」
他の出版社がヨリ先生にどういった感情を抱いていて、今後どのように対応するかは私も知りたいことだった。須田出版は根津編集長が切り捨てることも視野に入れているのだから。
「山本さんは炎上後、連絡を取ったの?」
「いえ……そもそも葉空先生とうちはそんなに親密ではないんです。単著を出しているわけでもありませんし、二ヵ月に一度メールでコラムを受け取るだけです。葉空先生はご自身ですべてやってくれますから打ち合わせもないんです。雑誌の読者が好みそうな小説を選んで、ご自身で撮影も行ってくれるので特にこちらからすることはありません。最近データを受け取ったばかりで、ちょうど連絡が途絶えている時期でした」
どこの出版社でもヨリ先生は、完璧な仕事をしているらしい。
「葉空先生がSNSで疑惑を否定された日、出版社宛にもメールが届きました。疑惑の否定と心配をかけたことの謝罪の内容です。完全に否定されちゃうと、こっちはそれ以上突っ込んで聞けないじゃないですか。こちらは気にしていないですよと受け入れる返信をしましたけど……」
山本さんは口をとがらせて言葉を切り、塚原さんが明るく同意する。
「本当は事実なんじゃないですか?なんて聞けないからなあ」
「ですです。葉空先生は否定しましたけど……炎上は続いているどころか、ますます燃えてる感じしますし……。でも出版社側から、じゃあ打ち切りで、とも言えないじゃないですか。とりあえず静観しつつって感じですけど……」
山本さんは隠すことなく不満をあらわにした。どこの出版社も本音はそうなのかもしれない。厄介なことをしてくれて、と思っているのだろう。
だけどヨリ先生が悪いわけではない。ヨリ先生を陥れようとした人間が悪いだけだ。
上層部がいない場面での出版社の人間の本音は興味深いが、それと腹立たしい気持ちは別だ。
ヨリ先生のネームバリューに惹かれて依頼をした会社ばかりで、ヨリ先生を心から信じている出版社はないのだろうか。
「コラム終了くらいならいいんですよ。……でも、さゆぐらしの刊行中止は痛いんですよね。もう写真撮影もすべて終わらせていて、ほとんどの作業が終了するところだったんですよぉ。二年くらいかかったんですよ、この企画……でも厳しいかもしれないってかんじですねぇ」
山本さんはヨリ先生よりも榎川と関係性が深く、そちらを心配しているらしい。塚原さんが「うわあ、それは大変。二年かあ」と大袈裟に相槌を打っているので、彼女とのコミュニケーションは塚原さんに任せる。
「葉空先生の炎上がこんなに飛び火すると思ってなかったですよ」
「山本さんどっちも担当なんてついてないね」
「こんな奇跡いりませんて。榎川さんもかなり滅入っていてかわいそうですし」
「結局Sは榎川さんなわけ?」
「……ここだけの話ですけど、そうみたいです。でも、いじめまでひどくはなかったみたいですよ。秋吉さんと付き合っていたのは本当らしいのですが、彼女は二股の事実も知らなくて。そりゃ自分の彼が他の女と親しくしてたら、嫉妬もするしちょっとは冷たく接しちゃいますよね」
「まあねえ。榎川さんの対応は?」
「今は噂ですし、スルーしているみたいです。コメント欄は荒れてるみたいですけど、かまうと余計に燃えますからね」
榎川はうまく山本さんに言い訳をしているのだな。榎川はヨリ先生の炎上に巻き込まれただけだと思っている。
今はまだいじめの証拠はない。けれど、もしいじめが事実ならば、榎川が内心焦っているのは間違いない。
「山本さん、榎川さんにお会いする機会があれば私の名刺を渡していただけませんか」
私はもう一枚名刺を取り出すと、山本さんの前に置いた。
「私、芳賀穂乃花を見つけようと思っているんです」
「えっ?」
山本さんは目を丸くして、隣に座っている塚原さんも私を見た。
「正確には芳賀穂乃花を名乗っている人物です。この炎上を止めるには、その人を探してこれ以上の投稿をやめるように言うしかありません」
「そんなことができるんですか」
「わかりません。ですが、もしその人が今投稿している小説の最後に『これは全部嘘でした、みなさん騙されたね』とでも書いてくれたら、否定はできます。さゆぐらしも刊行できるんじゃないですか?」
「それが出来たら一番いいですけど」
「実は私、朝秋吉さんにも会ってきたんです」
「えっ!」
驚愕の声を漏らしたのは山本さんではなく隣の塚原さんだ。気にせずに私は話を続ける。
「秋吉さんをご存知ですか? 榎川さんと同じく話題にあがっている方です。芳賀穂乃花を名乗っている人物は、十五年前に亡くなった芳賀さんの関係者の可能性が高いです。秋吉さんはあまり女生徒のことは覚えていないそうなんですよ。榎川さんは芳賀さんと親しかったし事情を知っているかもしれないと仰っていました。榎川さんは話したくないかもしれませんが、何かあったときにお力になれると思います。私の名刺だけでも渡してもらえませんか」
「……そうですね。わかりました」
山本さんは素直に私の名刺を受け取ったあと、呟いた。
「私ひとつ気になるんです。葉空先生と榎川さんがどちらも私の担当というのは偶然なのでしょうか」
「ヨリ先生と榎川さんは会ったことはありますか?」
「ありません」
「どちらかに担当だと話したことはありますか?」
「榎川さんには話したかもしれません。葉空先生のコラムを楽しみにされていたので、実は私が担当なんですよ、くらいは。でも葉空先生には榎川さんのことは話していませんね。葉空先生とは事務的な話しかしたことはありませんから」
その後の山本さんの話は特に中身はなく、愚痴を語り続け、それを塚原さんが受け止め続けてくれた。
山吹出版も世間の目を一番気にしているようだ。リスクを考えて大事になる前にヨリ先生を切り捨てたいと思っているのが本音だ。
カフェを出て山本さんと別れ、駅まで歩く道すがら私は塚原さんに不満をぶつける。
「山本さん、全然ヨリ先生のことを心配していないですね。がっかりしました」
「んー、山本さんはぶっちゃけすぎだけど、多かれ少なかれどこも本音はあれだと思うよ」
「塚原さんもですか?」
「俺は……そうだなあ。ヨリ先生の人柄は素敵だと思うし、信頼できる作家さんだと思うよ。優しいし、いじめなんてしているようには思えない。だけど過去はわからないからなんともいえない」
「塚原さんってヨリ先生の本全部読んでます?」
刺々しい言葉になってしまったが、塚原さんは苦笑いするだけで受け流す。この余裕な表情が腹立たしい。どうしてここまで他人事でいられるのだろうか。
「大体読んでて、考え方も素晴らしいと思う。いじめられた人をたくさん救っているとは思うよ」
「だけど過去はわからない。そう言いたいんですか?」
「まきちゃん。――ヨリ先生の小説とヨリ先生は別だよ」
塚原さんは足を止めると、私を真っすぐに見た。
「人を殺す話を書いているからって殺人犯じゃないだろ」
「…………」
「まきちゃんがヨリ先生に憧れてるのは知ってる。でも、んー、そうだなあ」
塚原さんは言葉を慎重に選びながら、歩き始めた。
「でも今ヨリ先生はしんどいと思うから、そうやって心から信じる人がいてもいいのかもな」
「根津編集長もいざとなったらヨリ先生を切り捨てますよね」
「切り捨てるって言い方はアレだけど、世間が落ち着くまで刊行は控えるとかはあるかもね」
はっきりしないうわべの優しさを並べて塚原さんは笑顔を作る。
「ところで、秋吉と会ったのって本当?」
「はい、今朝会ってきました」
答えると、塚原さんはあからさまに顔をしかめる。
「編集長に許可も取ってないんだろ? それにさっきの芳賀を探すって……あまり深入りしない方がいいよ」
「なぜですか」
「なぜって、何度も言うけどまきちゃんの担当はヨリ先生だけじゃないから」
「大丈夫です。今そこまで業務はたてこんでないんです」
塚原さんは大きくため息をつく。
「そういう問題じゃないけど……それにどうやって秋吉と知り合ったの?」
「須田文庫の公式アカウントからDMを送ってみました」
「勝手にそんなことして……」
「大丈夫です。公式アカウントの運用は私に任されていますし、メッセージはきちんと削除しましたから」
「だからそういう問題じゃないけど……まあいいや。もし関係者と会うなら今度は俺も誘って。追い詰められてる人間と二人で会うなんて危険だし」
そういう塚原さんだってもう別部署でヨリ先生とは関係がないし、仕事はたてこんでいるはずだ。
塚原さんは心から私を心配してくれている……顔をしているだけかもしれない。
なぜなら、塚原さんが芳賀穂乃花の可能性だってあるのだから。
翌日の土曜日は、週刊文秋の発売日だった。雑誌とオンラインの記事で、大きく芳賀穂乃花の件が報じられた。
葉空ヨリに殺されたと主張する少女Y。彼女の過去には、俳優の秋吉征直とインフルエンサーのさゆぐらし、そして地元の有力者も関わっていた――!
彼女の死に関わる三年二組の闇を暴いていく……!
今もっとも世間を賑わせている小説がある。小説の名前は【青春小説家H.Yに殺されました】
大手小説投稿サイト・ノベラブルで三話まで公開されている。
驚くべきことに、その小説の作者は十五年前に自殺した少女だった。
作者のYさんは、大人気作家・葉空ヨリに殺されたと主張している。
同時期にYさんが在籍していたとされる三年二組の卒業アルバムが公開された。Yさんを除く二十九人の中のだれが葉空ヨリなのか、と大きな話題を呼んでいる。
さらにこの三年二組には他にも有名人が二人いたのだから驚きだ。
来期から深夜ドラマの主演も決まっている秋吉征直と、ミンスタグラムでフォロワー三十万人超えのさゆぐらし。
彼らはYさんの死に大きく関係しているらしく【青春小説家H.Yに殺されました】の第三話でMくん、Sさんとして登場している。
すでに亡くなっている少女の書く小説は、復讐なのだろうか……!?
彼女の告発が事実なのか探るために、週刊文秋は小説の作家であるYさんの地元に向かった。
閑静な住宅街の外れにその高校はあった。十五年前にYさんが在籍していた三年二組の面々はそこで青春を送ったのだ。
我々は同じ三年二組だった数名にインタビューをすることができた。
まずはDさん(仮名)に話を聞いた。Dさんは開口一番「いじめは事実です」と重い口を開いた。
「小説にも書いてあった通り、Yさんは四人組でした。話題になっているSさんと、それからCさん、Aさんと仲が良くて。Aさんは二年の時から仲が良かったんじゃないかな。
私は全然親しくなかったですよ、その四人組はちょっと怖かったんです。今もこういう言葉ってあるのかな? いわゆる一軍ってやつです。
とにかく目立つんです、四人とも。四人の言動でクラスの雰囲気も変わりますから、私みたいな三軍は常に様子を伺っているんです。
だから、あれおかしいな。ってすぐに気づきました。Yさんがハブられてるんだって。YさんもYさんで、今まで私たちとなんてろくに喋ったこともなかったのに、私たちにすり寄ってくるんですよね。でも他の三人の目があるから、私たちもYさんとは関われるわけがないですし。
いじめはよくある一般的な内容ですよ。無視や影口から始まって……ある日Yさんがずぶ濡れになって授業を受けていたときもありました。暴力的なものもあったんじゃないかなあ」
Dさんは生々しく当時の様子を語ってくれた。今回の騒動はDさんも迷惑しているという。
「私たち三軍にとって一軍の諍いなんてまったく関係のない話ですよ。でも今回は三年二組全員の写真が晒されたじゃないですか。私なんてYさんとほとんど喋ったことないってくらいの関係性なのに容疑者の一人にされているんです。
私はまだ地元に住んでいますから、話題になってるねって声をかけられます。もちろんいい意味ではないですよ。
あなたがYさんを殺したんじゃないの?って。そんなわけないのに、嫌な目を向けられてすごく迷惑しているんです。否定しても同じクラスだったんなら同罪だよねって。
最近会っていない知人には、実は葉空ヨリなんじゃないかって疑いまで向けられましたんですよ。いじめをした人物は少数なのに、三年二組全員が巻き込まれてしまって困っています。早くこの騒動は終わってほしいです」
Dさんもフルネームと写真を世間に晒されている。彼女にも疑いがかかり、生活が送りづらくなったそうだ。
Dさんは葉空ヨリが誰なのか早く明らかになって、自分の生活が落ち着いて欲しいと語った。
次に話を聞いたGさんは、Mくんについて証言をした。
「諸悪の根源はMくんですよ。MくんはYさんからSさんに乗り換えただけではありません。Sさんたちのいじめに加担していました。
それから夏休み明けに、Yさんが下級生の男にまとわりつかれていたのを今でも覚えています。Mくんは自分の後輩たちに命令して、Yさんに彼らを仕向けたそうです。
見ていない場所でひどいことをされてないといいんですけど……あまり考えたくないですね」
Gさんは口をつぐみ、それ以上はなにも発してくれなかった。一体Yさんはどんなひどい目にあったのだろうか。
最後に話を聞いたBさんはこの騒動を少し面白く見ているらしい。
「今回の告発は正直よくやった、と思いましたよ。僕はYさんに好感を持っていたんです。可愛くて明るくてクラスの人気者でしたから。他の三人なら睨んでくるようなことも、Yさんは優しく接してくれました。
YさんはMくんの彼女でしたから、僕が恋心を持つことは許されなかったですけど。
だからYさんが死んだとき、本当につらかったんです。
いじめは間違いなくありましたよ。それなのに、まったくといいほど話題にならなかったんです。
学校側がいじめを認めなかったですし……Yさんの親御さんは抗議したでしょうね。だけどその抗議が受け入れられるわけないんです」
Bさんは表情を暗くして、いじめが隠蔽された事実についても語ってくれた。
「MさんもSさんも最低ですが、僕はCさんが一番恐ろしいです。Cさんは、地元の市議会委議員の娘なんですよ。
だからYさんの自殺を問題には出来なかったんです。自殺どころか、寝不足で線路に転落しただけの事故と片付けられたはずですよ。
当時気になって調べたので、よく覚えています。もちろん僕なんかが声をあげても潰されるだけです」
Bさんは、葉空ヨリの正体がCさんではないとも教えてくれた。
Cさんの父は地元の市議会議員で、Cさんは地元から出ていない。加えてC家に入った婿の選挙が間近に迫っている。地元の人なら皆Cさん一家の顔を知っているのだから、葉空ヨリではないのだとか。
「Yさんのことを忘れて、皆幸せになってるなんて信じられないし、復讐したくなる気持ちもわかりますよ!
それにしても、こんな田舎の公立から有名人が三人も出たなんて驚きました(笑)
僕が知っていたのは葉空ヨリだけですけどね。
Mは俳優としてこれからブレイクするところだったんですっけ? あの男の被害に遭う女性が減ってよかったと思います。インフルエンサーだって好感度がなければ終わりでしょうね。あのアカウント見ましたけど、過去の印象と真逆で笑ってしまいました。
このタイミングで告発した誰かに、僕はエールを送りたいくらいです」
亡くなったYさんが今、復讐をしたいと考えたのは当然と言えるのかもしれない。
来期のドラマ主演が決まったばかりの秋吉征直。さゆぐらしは念願の書籍刊行を控えている。葉空ヨリが原作の映画は水面下でいくつも進んでいたのだと言うのだから。
Yさんのことを忘れて、幸せになろうとする彼らへの復讐なのだろうか。
しかし取材を続けても、わからなかったことが一つある。
それは、葉空ヨリは誰なのか、ということ。
話を聞いた三人も誰なのかわからないと口を揃えた。
そして我々が思い出したのは、先日スクープした秋吉と葉空の口論現場でのこと。
このとき秋吉は葉空に向かって「お前は誰なんだ」と叫んでいたのだ……!
三年二組の誰も知らない、葉空ヨリの正体。
葉空ヨリとは一体誰なのだろうか。引き続きその謎を追い求めていきたい。
週刊文秋の記事により、当然のことながら秋吉と榎川は大炎上することになった。
【秋吉征直、鬼畜だった】
【二股かけたうえに、後輩に何させてたわけ?】
【さゆぐらし、ゆるふわ癒し系に見えて実はえぐいいじめしてたんだ……】
【F市の市議会議員って誰のこと?】
【F市在住です。忠村親子のことだと思います。忠村一郎の婿が秘書やってて、今回から出馬することになっていました】
【忠村親子で確定。三年二組に忠村千尋いる。忠村一郎の娘は千尋って名前。ソースは過去の地元の記事→http://】
【てか文秋なんて信じていいわけ? どれもインタビューなだけで証拠があるわけじゃないよね】
最初のレビューから、ここまで広がることを誰が予想できただろうか。
雑誌発売の翌日、秋吉から何度も着信が入っている。電話に出ないでいると何通もメッセージが届いた。
『まだ芳賀穂乃花はわからないのか?』『葉空ヨリは誰なんだ?』『葉空ヨリは亜美じゃないか?』
秋吉のいうことは私も気になるし、世間も同じだ。野次馬もヨリ先生の正体は気になっているはずだが、世間の関心は秋吉たちに集中している。
誰なのか依然わからないままのヨリ先生よりも、既に顔も名前も判明している人たちを炎上させることにネットは忙しい。
彼らはヨリ先生だから叩きたいわけではない、誰でもよかったのだ。その強い正義感はどこから湧いてくるのだろうか。
芳賀穂乃花のことなど、誰も人生の中で一度も考えたことはないだろう。それなのにまるで自分の身内かのように、秋吉や榎川に怒っている。
何が彼らを突き動かすのだろう。私はそれをぼんやり眺めながら静かな土曜日を過ごした。
【いじめ確定の証拠見つけた。十五年前の涌田亜美のアカウント→ http://】
正義感に支配された彼らは証拠を見つけてきた。
リンク先に飛んでみると、とあるSNSに繋がった。
私には馴染みのないSNSで、調べてみると十五年前に大流行したSNSらしい。日記とフォト、つぶやきが投稿できるブログサービスに近いもので、今もサービス自体はあるが廃れていて利用者は少ない。
晒されていたアカウントは涌田亜美のものに間違いなかった。
プロフィール写真には涌田のプリクラが設定されていて、アカウント名は『ぁみ』。プロフィール文章には『市古高校三年二組』と書いてある。一番新しい日記の記事は十四年前。
涌田のアカウントの友人欄には、秋吉や榎川、忠村といった今回の件の関係者らしき名前がある。
はたして十五年前のメールアドレスとパスワードを覚えている人はいるのだろうか。
彼女たちにとっては過去に忘れてきたものであり、この件があるまで思いだせるものではなかったに違いない。アカウントが晒されてから何時間経っても、それが削除されることはなかった。
彼らのアカウントは生々しいイジメの記録でもあった。
涌田の日記に【蛾♡観察日記】というタイトルがいくつも並んでいた。それをわざわざ公開した理由は、芳賀さんに対する嫌がらせだったに違いないが、今こうして全世界に公開されることを十五年前、誰が予想できただろう。
【今日も蛾はしつこい。嫌われてるの気づかないのかな?
毎日近く飛び回ってぶんぶんしつこい。近寄ってきたら叩くしかないじゃんね】
どうやら〝蛾〟というのは芳賀穂乃花のことらしい。芳賀の〝が〟をかけて、あだ名をつけているのだろう。いじめっこのやりがちなことだ。
そして涌田の日記には、秋吉、榎川、忠村。それから今まで名前の上がっていなかった人からも面白がるコメントが集まっていた。その中に〝小田切明日葉〟を連想させる名前はなく安堵する。
【マサ:蛾の駆除依頼した! 蛾のことが好きな物好きがいる】
【ちぴちゃん:早く死なないかなーもう秋ですよw 虫は死ぬ時期だよ。冬までには死のうね】
【さゆ:殺虫剤かけてあげた♪】
〝さゆ〟が添付している写真には芳賀さんらしき人物の後ろ姿がうつっていた。黒板消しをぶつけられた後なのか、髪にも背中にも白い粉を大量に被っている。
いくつかの記事を読んで、私は口元を手で抑えた。そのままベッドに倒れ込みスマホを手放した。
これ以上読んでいられそうにない。
手はじっとりと汗ばんでいて、自然と鼓動が早くなっている。
……どの時代でも、どこの学校でも、どうしていじめは似通うのだろうか。なぜ……今もなくならないのだろうか。
十七歳の自分が、身体の内に現れた。身体の中から過去の自分が主張して吐き出しそうになる。
私はのろのろと立ち上がり、キッチンへ向かうと蛇口を思い切りひねった。コップに水を注ぎ一気に飲み干す。
それでも喉はひどく乾いていた。
「大変なことになったね」
この数週間、そんな言葉ばかり聞いている。私と根津編集長は昼休憩中に会議室にあるテレビを見つめていた。
一連の事件は週刊文秋だけでなく、ワイドショーでも取り上げられることになった。そこまで大きな扱いではないが、秋吉がドラマの主演を降板したことや、忠村の夫が市議会議員選の出馬を取り下げたことが報じられている。
「なんだか想像していないところまで広がっちゃいましたね」
私の呟きに、編集長はため息をつきながらテレビを消した。
「山吹出版はさゆぐらしの刊行を中止するそうです」
今朝、山本さんからメールが届いていた。簡素なメールだったが彼女の無念を感じられる文面だった。
「ここまで騒ぎが大きくなればね」
「ヨリ先生のコラムをどうするかは検討中だそうです」
「まだヨリ先生については証拠も具体的なエピソードも出ていないものね」
「まだってなんですか。ヨリ先生は無関係なんですよ」
私はできるだけまろやかな声を出してみるが、編集長に心中は伝わってしまったらしく苦笑いで返された。
「そう信じたいわね。でも明日のラジオはお休みしてもらうことになった」
「それは賛成です」
秋吉や榎川がここまで話題になれば、ヨリ先生にもメディアの目が向くのは当然だ。どんなゴシップ記事でも取り扱う週刊文秋と違いワイドショーはいくらかは慎重である。
秋吉の降板など、現在の彼らに起きた事実だけを報じて、憶測の域を出ないものや過去については濁して報道している。まだ彼らはヨリ先生を報じるまでに至っていない。
ラジオ局まで駆けつけたメディアは週刊文秋だけだったが、ここまで騒ぎが大きくなれば様々なメディアがヨリ先生に話を聞こうとラジオ局につめかけてもおかしくなかった。
「今週は羽木先生にお願いしてるの。初回ということもあるし、担当編集として立ち会ってくれる?」
「……わかりました」
秦央社の田中編集長のたぬきのような顔を思い出すと苛立ちが募った。
翌日、コーヒーラジオの代役を羽木は楽しそうに務めた。
「羽木先生、お疲れさまでした。すごくお上手でしたけど、ラジオの経験があるのですか?」
「お疲れ様です。初めてなので、緊張しちゃいましたよ」
羽木は笑みを浮かべると、周りのスタッフにも挨拶をはじめた。コミュニケーション能力が高い羽木は、二十代半ばの若手女性作家だ。私からすれば、ヨリ先生の模倣に過ぎない作風だが、ヨリ先生の模倣をしているだけあって人気がある。
私もスタッフに挨拶をすませ、羽木と共にブースを出る。
「来週はどうします? 私、来週も予定空けておきましょうか?」
羽木は私の隣に並ぶと、くりくりした瞳を私に向けた。
「明日、根津と相談してまたご連絡しますね」
「わかりました。――ちょっといいですか」
羽木は廊下に喫煙室のマークを見つけて指さした。私に付き合えということだろうか。付き合いたくはないが、これも仕事だと彼女のあとをついていく。
電子タバコを口に持っていくと、羽木は「葉空先生、大変ですね」と呟く。
「あれだけ炎上しちゃったら、私筆折りそう。一日エゴサして過ごしちゃうかもです」
「ヨリ先生は、エゴサとかしないみたいですよ」
「えー、そんな人いるんですか。絶対葉空先生もしてますって」
田中編集長が言うように、羽木はピュアに見える。作風もヨリ先生を意識して爽やかで、男性人気も高いらしい。目の前で興味津々といった様子で聞いてくる彼女はピュアにも爽やかにも思えない。年齢が近い槇原さんには何でも言いやすいんですよね、と私の前では猫を被らない。見下されているのかもしれないが。
「葉空先生って、どうなっちゃうんですか?」
羽木は軽く、直接的に訊ねてくる。
「どうなるもなにも、葉空先生はいじめに関与していないんですから」
「えー? でも、三年二組にヨリ先生いるんですよね。田中さんが言ってましたよ。あ、さすがに本名は聞いてないですよ」
「……ですが、いじめには無関係です」
「そうかなぁ。自殺するほどひどいいじめのクラスメイトってだけで、関与してると思いますけどね。私今度そういう小説出すんですよ。実行犯だけじゃなくて、傍観者も罪だよ、っていう」
ふう、と息を吐きながら羽木は私を見た。
「私も槇原さんと一緒で、葉空信者なんで、いじめっこだったら嫌なんですけどねー」
黙っている私に羽木は笑いかける。
「ヨリ先生を信じているのに、いじめはしていると思うんですか?」
「信じてるかあ。そういう意味ではあんまり幻想は抱いてないかも。そりゃ葉空先生は、中身も品行方正ですけど。他の作家はそうじゃないって、槇原さんもいろんな人担当して知ってるでしょ。私だってこんなだし」
羽木はふぁあ、とあくびをした。言われればヨリ先生のこういった無防備な姿は見たことがないなと、ふと思う。
「私、葉空先生みたいに作家売りしたいと思ってるんですよ。ファンがつくとありがたいし。だからもしラジオ降板するなら、私後釜やるんでいつでも声かけてくださいね」
そう言うと羽木は吸い殻を捨てて、喫煙室を出た。なるほど、彼女の言いたかったことはこれらしい。
私も喫煙室を出ると、もう一度あくびをして羽木は呟いた。
「だけど葉空先生の話が読めなくなるのは嫌だなぁ。別名義とかで、続けてくれるといいんですけど」
「別名義ですか」
「そう。だって、物書きはやめられないから」
私を見る羽木の瞳が光る。
「書く場所がなくなっちゃっても、書くことはやめられないと思いますよ」
羽木の言葉の意味を考えていると「そうだ、こないだの改稿案ですけど」と別の話題を差し込まれて、思考は中断された。
制裁が進めば同情心が湧いてくるのは日本人特有のものだろうか。あれだけ批判一色だった秋吉たちに同情的な声も集まるようになっていた。
【本当にいじめてたか確定じゃないでしょ。あの日記だって誰かが陥れるために作ったものかもしれない。デマに踊らされたらダメ】
【出た、盲目ファンの無理な擁護】
【十五年前から秋吉たちを陥れようとして計画練ってたっていうのか? 秋吉が俳優を目指すかもわからないのに?】
【秋吉さんのファンじゃないけど、最近はちょっとやりすぎに思える。だって十五年前のことでしょ。それを今さらになってここまで掘り返すなんて】
【あの小説って結局誰が投稿してるの? 芳賀以外の人生終わらせようとしてるのえぐい】
【てか芳賀穂乃花は訴えられないわけ? 名誉棄損でしょ、こんなの】
【名誉棄損も何も事実だし……】
【事実でも名誉棄損は名誉棄損!】
【ここまでやるのはやりすぎ。秋吉や榎川が死んだらどうすんの?】
いまだに批判が圧倒的に多い。けれど、同情的な意見も少なくない数が集まっている。
……あの日記の文章を読んでも、そう思うのか。あんなにひどいことをしているのに。
【いじめに時効なんてないでしょ。芳賀の人生は終わってしまったんだよ】
一人の投稿に私は大きく頷いた。秋吉や榎川が忘れても、何を今さらだと思っても、そう思わない人間だっている。ふつふつと怒りがこみあげてきて、私は感情そのままにSNSに打ち込んだ。
【時効なんてない。こうして十五年経ってからでも復讐しようとする人がいる。それってこの十五年間、そのひとはずっと苦しんできたからだよね。
秋吉や榎川は十五年間ずっと忘れたまま、楽しく生きてきたかもしれないけど、芳賀は死んでしまったし、ずっと十五年苦しい想いをしてきた人がいるんだよ!】
自分のアカウントから投稿すると、それは拡散されいくつもの同意を得た。ここまで拡散されるのは、この話題の関心が高い故だろう。
フォロワーから【ハナさんもヨリ先生疑ってるんですか】と返信がついた。……自分と芳賀を重ねて、つい我を忘れてしまった。
心臓を落ち着かせながら【いいえ、ヨリ先生はいじめに無関係だと思っています。ヨリ先生があんないじめするわけないでしょう】と手早く返信を返す。
ヨリ先生はいじめに関わっていない、絶対に。
だって、私の命を救ってくれたのはヨリ先生なんだから。
◇
教室で私は常に溺れていた。
間違っていることは指摘をしてしまう。お世辞を言えない。面白いと思えなければ笑えない。
端的に言えば、私は空気が読めないやつだったのだと思う。
教室を泳ぐためには、この〝空気を読む〟というのは何よりも大切なことで、私は絶望的に泳ぎが下手だった。
今となっては、私は頑固すぎたのだと思う。空気を読むということは、自分が欠けてしまいそうな気がして。誰かの意見に染まることを頑なに拒否をしていたのだと思う。
青かったな、若かったな。そんな風に過去の自分を微笑ましく思えるのは、あの頃より大人になったからで。
十七歳の私は、私を確立することに必死だった。
群れの中で泳げない私を周りの人間が排除するのは当然と言えるのかもしれない。
いつも通りの朝のはずだった。
教室に一歩踏み入れた瞬間、別の世界に転移しまったような不思議な感覚に陥った。
私が踏んでいるのは間違いなくいつもの教室の床で、私の視界にうつる人々は昨日も会ったクラスメイトだ。
窓際の席に陣取る三人がこちらを見た。雑談が一時停止され、目配せのあと何事もなかったように会話に戻る。
「おはよー」
その違和感に気づかないふりをして、私は彼女たちのもとに向かう。不自然なほどに誰もこちらに目を向けず雑談は続いている。
「お、おはよう!」
もう少しボリュームをあげて、彼女たちが座る机までたどり着いた。
彼女たちはチラリと私を見上げた。私という生物を初めて見るような目つきで。昨日までのクラスと今ここにあるクラスは別物なのではないかと錯覚する。
一秒の空白のち、彼女たちは雑談を再開した。内容は昨日見ていたドラマの話などで重要な話ではない。
私は幽霊のように、認知されないものとなった。
そのまま幽霊でいられたら、どれだけ良かっただろうか。
存在しないものとして扱ってくれていれば。
「ハナが」
教室のどこかで聞こえる声に肩がびくりと揺れる。〝ハナ〟のイントネーションは〝羽菜〟ではなく〝鼻〟だ。
黒板近くにいる男子が鼻をすすりながら「鼻詰まってて鼻水がやばい」と話しているだけだったことに気づき、どきどきと動き始めた心臓を落ち着かせる。
彼女たちは私の名前を呼ばなくなった。存在しないものだから。
私が彼女たちの近くにいれば、彼女たちは自分の鼻の叩きながら目と目で会話をする。
私は名前から〝鼻〟と名付けられたのだとすぐにわかった。
あだ名で呼ぶのは、私に悪口をばれないようにするためじゃない。むしろ私に届くように、だ。
ダメージを与えながら、「あなたの話なんてしていません。鼻の話です」と言い訳が出来る。
私は怒る気力もなかったが、彼女たちは私を怒らせたかったのかもしれない。完全に解放してくれればいいのに。私という玩具を放さないために時々は優しく話しかけてくる。
私は胸中では怒りに震えているのに、話しかけられると嬉しくて、媚びへつらうようにへらへら笑みを浮かべた。彼女たちからは何も返してもらえないのに。笑顔を続ければそれが返ってくると信じて。
まだ六月を迎えたばかりで、地獄は少なくとも来年の春まで続くのだ。
どうして大人が勝手にぶち込んだ水槽のなかで必死に泳ぎ続けなければならないんだろう。
今まではうまく泳げない自分を個性だと思っていた。だけどこうして攻撃されれば、それは嫌われる種でしかなかったと知る。
群れからはぐれて、溺れて、もう私の酸素は残り少なくなっていた。
その日、私は図書館にいた。クラスの冴えない女子が今日の図書委員を変わってくれないかと言ったからだ。
今までの私ならそのような依頼はされなかったはずだ。そして今までの私なら確実に断っていた。
だけど何の反応もされない幽霊の日々を送っていた私にとって、誰かの依頼を断るのは死も同然だった。
依頼されていた作業を終え、帰宅しようとして……図書館の扉は開かなった。外から鍵をかける式になっていて内鍵はない。
これはいじめの一環だ。
私に依頼をしてきたあの子は、彼女たちに指示をされたのだ。
がちゃがちゃとゆすってもびくともしない扉を見て、頭は冷静になっていた。
どうしようか。これはただのいたずらだ。ポケットにスマホだってある。学校に連絡して先生に開けてもらえばいいだけのことだ。
彼女たちも私を一晩閉じ込めようなど考えたわけがない。スマホさえあればどうにかなることをわかってやっている。
だけど、私は職員室に電話をかけることができなかった。
ここに閉じ込められていることを先生はどう思うだろうか。いじめだと思うだろうか。
いじめられっこと思われたくないというちっぽけなプライドと、先生がいじめだと気づいても何も対応してくれないかもしれないという小さな恐怖。
その二つが、私の手を動かさない。
「どうしよう……」
乾いた唇から、渇いた言葉が出た。
そろそろ日が沈む。図書館の窓から今日最後の太陽が照らしてくる。あの日が落ちれば先生は帰宅し、助けてもらえなくなり一晩を過ごすことになるのだろうか。
――ああ、死にたいな。
初めて思った。
明日が来てほしくなかった。このまま図書室から出たくもなかった。
助けを読んで、図書室から出たところで何があるのだろうか。何も変わらない日々が続いていくだけだ。
私は窓を見た。図書室は三階にある。飛び降りれば死ねるだろうか。
死ねなかったとしても、あの三人に報復はできるのではないだろうか。一生消えない傷をつけてやりたい。
自分たちが閉じ込めた籠から飛び降りれば、さすがに罪悪感くらいは出るのではないかな。
私はふらふらと導かれるように窓に向かっていく。
そのとき、一冊の本がカウンターから落ちた。私の身体が触れて一冊を落としたのだ。
私は本をカウンターに戻そうとしたが、表紙の美しさに吸い寄せられた。
それは青い本だった。一人の少女が涙を浮かべながら笑っている。青を基調とした美しい本。
私は窓に向かっていたことなど忘れてページをめくることに没頭した。途中で日が落ちて、図書室には闇が訪れた。
私は誰にも気づかれないように、スマホの光で照らしながらそれを読んだ。
普段あまり小説など読まないから、読み終えるまでに五時間はかかっただろう。
泣いて、泣いて、泣きながら読んだ。あまりにも泣いて読み終えた後は、心地よい瞼の重さに引きずり込まれるように眠りに落ちた。
朝日で目が覚めた。図書室に神々しいと思えるほどの眩しい光が入り込んでいて、天国に来てしまったのかと思うほどだった。
この美しい朝を、私は生涯忘れることは出来ないだろう。
「わたし、生きててもいいんだ」
あの本を拾うまでは、朝が来ることが怖くてこのまま終わらせてしまおうと思った。
それなのに。こんなに美しい朝が私に訪れた。
涙が止まらず、ただ呆然と窓の外の光を見ていた。青い本を抱きしめたまま。
葉空ヨリの小説に出会ったからといって、目の前の絶望がなくなるわけはない。それでもあの日葉空ヨリは「あなたはあなたのままでいていい」「今をがんばるのではなく、踏ん張ろう」と教えてくれた。
何より、あのとき偶然落ちた本は何かの導きに思えた。
私は生きていないとだめだ。死んだらだめ。今は苦しくても、踏ん張って、耐えていこうと。
私は葉空ヨリに救われた。葉空ヨリに救ってもらった命での楽しみは、葉空ヨリの新作を待つことだった。
私のことを大切に扱わないあいつらに、笑顔を見せる必要なんてない。
私のことを大切にしないあいつらを、好きでい続ける必要なんてないんだ。
彼女たちへの希望がなくなれば、いじめはそこまでつらいものではなかった。
私には葉空ヨリがついている。
文庫本をカバンに忍ばせておけば、守られている気がした。
ヨリ先生は、誰にも踏み入れられない心の基地だった。
生々しい過去は書きたくない。
そう思っていました。誰かの傷を開きたくないから。
誰かが拡散した日記を読んで傷ついてしまった方がいたら申し訳ありません。
今日はその謝罪をするために、更新をしました。
当時の記録というのは生々しいですね。
私は彼らをどうしようもないほど、憎んで恨んでいます。
私の死の原因は、みなさんにもわかってもらえたと思います。
だけど、私を殺したのはH.Y。
言い換えましょうか、Aさん。あなたなのです。