オセロのように一瞬で、ひっくり返された。
芳賀穂乃花が数週間かけて盤上に置いていた石たちは、ずっと白のままだった。
それなのに、卒業アルバム、人身事故のデータベース、芳賀穂乃花の小説の二話目。
三つの黒が投下されたことで、盤上の石がすべて黒に変わっていく。
『葉空ヨリは過去にいじめ でクラスメイトを死に追い込んだ』『いじめの主犯だった』という世論になりつつあった。
二話目が投稿された木曜日から、数日経った月曜日。
いまだノベラブルは小説を公開したままでいる。
「どうしてまだ非公開にならないんですか! また投稿があったらどうするんですか」
「まあまあ落ち着けって。土日も挟んでたし、今日ようやく担当者と話も繋がったし」
私の前でジョッキに口をつけるのは塚原さんだ。私たちは就業後、有楽町の居酒屋を訪れていた。
私は到底お酒など飲む気にはなれなかったが「寝れてないんだろ。考えすぎ、酒でも飲んで寝ろ!」と半ば無理やり連れ出された。
塚原さんなりの優しさだとは思うけれど、結局こうしてヨリ先生の話 になる。
「でも担当者は上司への確認があると言ったんですよね。何日かかるんですか」
「ノベラブルはアクセスを稼ぎたいんだろうなあ。って言っても出版社との付き合いもあるから、今週中には対応すると思うけど」
出版社が運営していないノベラブルは、作者と出版社を繋げることでマネタイズしている。葉空ヨリと関係している出版社が何社も抗議をすれば渋々でも動くだろう。
炎上に巻き込まれている人がいるというのに……自社の利益を優先する企業など最悪だ。
「数日動きはなかったけど、三話に続きますよね」
「あの終わり方だとそうだろうなあ」
「塚原さんは心配じゃないんですか?」
「心配だけどどうにもできないことはあるから。俺らはそのときそのときで対応していくしかないよ」
焼き鳥をかじりながら塚原さんは言った。六年もヨリ先生の担当をしていたのに、あっさりしている。塚原さんは頼れる先輩だけど、仕事は仕事と割り切って作家や仕事と一線を引いているところがある。
「なかなか話題も冷めないしなあ」
「芳賀穂乃花は三話目を投稿していないのに、ずっと話題になっちゃってますもんね」
この問題は、四日経ってもまったく鎮火することなく燃え続けていた。
『三年二組 の中から葉空ヨリを探す』というゲームのようなものが、始まってしまったからだ。
私たち編集部はヨリ先生の本名が小田切明日葉だと知っている。
けれど、ネット上の人たちは葉空ヨリというペンネームしか知らない。
――そして三年二組の顔写真の中に、ヨリ先生らしい写真はなかった。
卒業アルバムの小田切明日葉は、今のヨリ先生とまったく別人だったのだ。
切り揃えられた分厚い前髪の奥の腫れぼったい目はカメラを睨んでいた。不機嫌そうに歪められた唇。写真におさまっている上半身からはふくよかな印象を受けた。
正直に言ってしまえば、小田切明日葉が葉空ヨリだとは誰も思わない。
【葉空ヨリ、この中にいなくない?】
【十五年前だから面影ないのか?】
【それじゃあ芳賀穂乃花って人は実在したけど、葉空ヨリは関係ないということ?】
三年二組に葉空ヨリらしき人はいない。葉空ヨリは無実かもしれない。そんな流れになっていた。
しかし――。
【そうか。過去を告発されたら困るから、整形したんだ】
一人の意見が拡散され、総意になっていく。
【人を殺しておいて、平然と過ごしているなんて最悪】
【顔を変えて葉空ヨリとして新しい人生を生きてる】
【それならこの中から葉空ヨリを特定してやる】
芳賀穂乃花に同情した人や探偵気取りで面白がっている人の勢いは止まらず、卒業アルバム の中から葉空ヨリを特定しようとする流れは留まることがなかった。
もちろんヨリ先生を信じる声もある。
【整形っていうのは勝手な妄想だよね】
【芳賀穂乃花が実在して亡くなってたのは本当だとして、ヨリ先生が関係してるかはわからない】
【ヨリ先生を陥れたい人が、でっち上げたんです!】
【十五年も前の話題になったこともないいじめ事件使って陥れようとはしないだろ】
【そうやってかばうやついると思ったww だから葉空ヨリ=誰か、を特定する必要があるんだろ】
【特定すれば、本当かわかる】
意見は割れて反発し、それがさらに燃料となって燃えていく。
今までの人生で一度もヨリ先生の小説を読んだことがない人が、面白いからという理由でヨリ先生の過去を漁っている。
卒業アルバムを投稿した主婦は、大きなバッシングを受けアカウントは削除されたが、一度投稿された写真はネットに永久的に残る。(主婦の個人情報も特定され、彼女が過去に投稿していた家族写真なども晒される結果になった)
野次馬の手に渡った写真は何度も投稿され、三年二組は今日も誰かに拡散され続けている。
「塚原さんはどう思いますか。今回の件、ヨリ先生は関わっていませんよね」
塚原さんはジョッキに口をつけるのをやめてこちらを見た。
「俺たち編集者は知ってるだろ。あのクラスにヨリ先生がいたことを」
「名前が同じなだけで、関係ないかもしれませんよ」
「……小田切明日葉が芳賀穂乃花の自殺に関わっていたかはわかんないけど、ヨリ先生はあのクラスにいたんだと思うよ。同性同名なんてめったにいない 」
「それじゃあ、ヨリ先生が整形してると言いたいんですか?」
刺々(とげとげ)しくなってしまった私の口調に塚原さんは苦笑いをこぼした。
「だと思うけどね。ま、かなり痩せてすっきりしただけかもしれないけど。小田切明日葉=ヨリ先生は間違いないと思う」
「なぜですか」
「葉空ヨリの本名が小田切明日葉なのは事実だ。芳賀穂乃花のクラスメイトの小田切明日葉と同姓同名、年齢も合ってる。これが別人とは思えない」
「そうでしょうか」
「それにヨリ先生の地元は岐阜だよ。F市にゆかりがあることは過去に雑誌のインタビューで答えていたことがある。ネット住人はその事実も見つけてるんじゃないか?」
塚原さんの言うことは正しい。鬼の首を取ったように、ヨリ先生の過去のインタビューが晒されていた。
「世間には小田切明日葉が葉空ヨリだと気づかれていないし、さっきも言ったけど、芳賀穂乃花のいじめにヨリ先生が関わっているかはわからない。今は悔しいけど、結局証拠もないんだからそのうちこの話題も忘れ去られるよ」
「だけどヨリ先生のイメージダウンは免れません」
「んー、どうだろなあ。どっちにしろ俺たちにできることは今はない。だからとりあえず食べな」
塚原さんは私の前に焼き鳥が乗った皿を移動する。私が一番好きなハツだ。
「まきちゃんの担当はヨリ先生だけじゃないってわかるだろ」
「はい」
塚原さんが心配しているのはヨリ先生のことだけじゃない。日中、私は他の先生から指摘を受けてしまった。一週間返事がないけれどどうしましたか、と。ヨリ先生の騒動に気を取られていて他のことがおろそかになってしまっている部分がある。
「部署変わって仕事は手伝えないけど。ヨリ先生のことは協力するから」
「ありがとうございます」
塚原さんの優しさはありがたい。他の作家さんも大切だ。けれど、私はヨリ先生の炎上を解決できることがあれば、すべてを投げうってでも先生のためになりたかった。
翌日の火曜日は、ヨリ先生のコーヒーラジオの放送日だ。
峰島出版と葉空ヨリが世間にどのような態度を示すべきか、決める日がやってきていた。
ヨリ先生のSNSには、数えきれないほどのコメントが届いていて、大半が『芳賀穂乃花の告発について説明しろ』というものだった。もちろんファンから多くの励ましや心配の声も届いてはいたが。
そして、峰島出版とノベルタウンのアカウントにも同様のコメントが届いていた。
二つのアカウントは、最初に芳賀穂乃花が小説を投稿した時点で『事実無根の中傷はやめるように、弁護士に相談している』という警告をしている。
峰島出版にも『芳賀穂乃花の告発は、事実無根ではなく事実ではないか? 葉空ヨリの著書を出版しているのだから説明をしろ』と批判が寄せられている。
コーヒーラジオは生放送 。騒動が起きてから初めてのメディアの場ということもあり、注目を集めている。
今夜のラジオの放送に備えて、峰島出版の応接室にヨリ先生が訪れ、今後について話すことになっていた。
時間通りにヨリ先生は峰島出版を訪れた。カーキ色のシャツに黒いパンツを着こなすヨリ先生と、小田切明日葉はどうしても結びつかない。
「まきちゃん、迷惑をかけてしまってごめんね」
出迎えた私にヨリ先生は頼りない笑みをこぼした。元から細身だけれど、なんだかやつれた気がする。ヨリ先生を追い詰めようとしている芳賀穂乃花にじっとりとした苛立ちがくすぶる。
応接室に集まったのは編集長と塚原さん。そして私とヨリ先生。いつもならヨリ先生との会議は花が咲くように楽しい。会話からアイデアが溢れていくヨリ先生を見るのも嬉しかった。
けれど、今応接室には重苦しい沈黙が満ちている。
「このたびはご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」
ヨリ先生は席を立ち、深々とお辞儀をした。
「ヨリ先生、やめてください」
編集長が駆け寄ってヨリ先生の背中に手を当てる。そのまま椅子を引きヨリ先生を座らせると、編集長は静かに切り出した。
「私どもは迷惑をかけられた、など思ってはおりません。しかし……世間の噂の声は大きくなってきていて、このまま黙っているわけにはいかないかもしれません。毎日犯人探しがヒートアップしているようで、鎮火の気配が見当たりません。ヨリ先生のためにも、何かしら声明は出しておいた方がよいと思うのです」
「……そうですよね」
ヨリ先生はうつむく。長い瞼の影が顔に落ちる。落ち込んだ表情も美しく、これが偽物だとは思えない。
「皆さんは私の本名をご存知ですので、取り繕う必要もないのですが……芳賀穂乃花さんと同じクラスだったことは事実です」
凛としたヨリ先生の声が私を突き刺す。
小田切明日葉は、本当にヨリ先生だった。
こちらを睨む小田切明日葉の瞳を思い出すと、お腹の底が冷える気がした。
「たしかに私は市古高校の三年二組出身です。しかし……皆さんも炎上元の画像をご覧になったと思いますが、当時の私がいじめなどできるように思えましたか?」
ヨリ先生が困った顔で笑って見せた。私たちは答えられなかったがヨリ先生は言葉を続ける。
「恥ずかしながら、当時の私はクラスの誰にも存在を認識されないような生徒だったのです。私と芳賀さんは関わることもありませんでした」
芳賀穂乃花の顔写真を思い出してみる。人懐っこい可愛らしい笑顔を向けている彼女。クラスの中心人物でもおかしくなさそうな芳賀穂乃花が小田切明日葉にいじめられた、というのはあまり想像できなかった。
「なるほど。では、そのように声明を出しましょうか。実名は出さなくてもいいですから、クラスメイトだということは認めて、いじめははっきり否定しましょう。大半が面白がっている人間です。ファンに、嘘だとはっきり伝えることができればよいと思います」
「……根津さん、私のことを信じてくれるのですか?」
編集長を見るヨリ先生の目はわずかに光っていた。私の目の奥も熱くなる。ヨリ先生はきっとこの数日不安だった。ヨリ先生は一人暮らしをされてい るし、恋人がいると聞いたこともない。数日一人で思い悩んでいたのかもしれない。
「もちろんですよ! 私たちはヨリ先生を疑ってなどいません」
「私もそう思っています! ヨリ先生を陥れようとした人の仕業です。ヨリ先生を信じる人はたくさんいます!」
思わず私も声を上げた。ヨリ先生が笑顔を向けてくれるから、唇を噛みしめる。
「ありがとうございます。ネットの噂がどんどん広がってきていて、どう対処していいのかわからず困っていたんです。何か発信した方がよいのか……ご迷惑をおかけしているのに、こうして相談にのっていただけて……本当にありがたいです」
ヨリ先生はうつむいて表情は見えないが、掠れた声が痛々しかった。
「他の出版社にもご迷惑をかけてしまっていて……心配してくれているんですが、どうお答えしていいのかも迷っていました。このあと、各出版社にもご連絡します」
「僕からも連絡します。どの担当者も皆ヨリ先生を信じていましたよ」
「ありがとう、塚原くん。コミックの方で忙しいのに」
「担当から外れても、僕はずっとヨリ先生の一ファンですからね。あなたのお人柄もよく知っています。困ったときはいつでも僕のこと思い出してください。お力になれることがあればなんでも」
塚原さんは昨日の冷めた口調からは考えられないほど、熱のこもった声を出した。
「今後についてですが、先生のアカウントから簡単に今回の件の否定の文章を出していただいてもいいですか? うちからも同じような文章を出しますから」
「わかりました」
「ありがとうございます。私たち峰島出版も他の出版社もヨリ先生を信じています。いつでもなんでもおっしゃってくださいね」
「ありがとうございます」
消え入りそうな声でヨリ先生はもう一度深々と頭を下げた。
「ヨリ先生をお見送りしてくるわ」
編集長がヨリ先生の肩を抱くようにして外に連れ出した。ここは編集長に任せた方がいい気がする。
応接室には私と塚原さんが残された。
「小田切明日葉と先生、同一人物なのかぁ。違いすごいなあ」
塚原さんはスマホを取り出して、小田切明日葉の写真を開いている。
「そんな面白がるみたいに。失礼ですよ。整形かもわからないんですよ」
「いや、でも整形だと思うよ」
「なんでわかるんですか」
「編集長から聞いた話。デビューから一年半、大学在学中はヨリ先生に直接会えなかったらしい。受賞したあとに対面の打ち合わせを提案したけど電話とメールでやり取りしたいと言われたんだって」
「直接会うのは苦手な作家さんもいますよね」
推測で話を広げる塚原さんにもどかしい気持ちになる。
「でも今は普通に会ってるだろ。一年半の間に整形したんじゃないかな。受賞金と印税も入ってただろうから、整形費用くらいある」
「すべて塚原さんの想像です」
「そうだけど、つじつまは合う。整形かぁ、騙されてたわー」
「整形してたからってよくないですか? 今の時代珍しいものでもないですし、本人の自由ですよ」
たとえ整形していたとしても、誰かを騙そうとしていたわけではない。そう思って反論するけど、塚原さんはスマホの画像を見たまま口元は笑っている。
「ま、そうなんだけどさ。ヨリ先生はナチュラル美人で売ってるから、なんだかなーと思って」
ナチュラル美人で売っているのはヨリ先生ではなく、出版社なのに。長年ヨリ先生の担当をしていた塚原さんまでそういう目で見るなんて。なおも卒業アルバムを見ている塚原さんに質問する。
「投稿している〝芳賀穂乃花〟は誰だと思いますか? 実在していたけど今は亡くなっていますよね」
「普通に考えたら芳賀の遺族とか、親しい人が復讐のために投稿してると思う」
「だけど小田切明日葉はとてもいじめをしているようには思えませんでした」
「どちらかというといじめられてる方だって? それは決めつけかもよ」
「それなら本当にヨリ先生が復讐されるようなことをしていたと? 私は復讐ではなく、嫌がらせだと思います」
声が尖ってしまいそうになるのを落ち着けながら言葉を続ける。
「たとえば市古高校出身とか地元が同じ人がヨリ先生のことを妬んでいた。どうにかしてヨリ先生の人気を下げたいと考える。そこでヨリ先生のクラスで自殺があったことを思い出すんです。事実を混ぜ込ませたら人は信じます。これでヨリ先生はいじめに無関係でも陥れることができます」
「それはどうだろう。ヨリ先生は整形しているし本名を公表していないから、小田切明日葉=ヨリ先生だとは普通は気づかないんじゃないか」
「だとすると……ヨリ先生の本名を知っている人が怪しくないですか? 本名を知ってるとなると……」
私は口を閉ざした。
ヨリ先生の本名を知っている人、それはすなわち出版社の人だ。
「出版社の関係者だって? だけど逆に出版社の人間は、ヨリ先生の過去を知らない」
「話している途中に漏らしてしまったことはあるかもしれませんよ。高校名を知り過去を探っているうちに自殺の件を知ったのかもしれません。もしくは……小説の打ち合わせのときに、過去にクラスでいじめがあった、自殺者がいた、という話になった可能性だってあります」
ヨリ先生は青春小説を描く。題材となる高校時代やいじめについて話していてもおかしくない。
「それはそうだけど、なんのために。ヨリ先生がイメージダウンをして困るのは出版社だろ」
「動機はわかりませんが、一番現実的ということです。塚原さん、知り合いの担当の方多いのですよね。ヨリ先生を恨んでいる人はいませんか」
「ヨリ先生を恨む? 考えられないな」
塚原さんは腕を組みしばらく思案していたが、首を振る。
ヨリ先生を恨んでいる人がいるとしたら、嫉妬しか考えられない。もしくはヨリ先生に交際を申し込み断られての腹いせやセクハラ問題かもしれない。
私は塚原さんをじっと見つめてみる。〝芳賀穂乃花〟が塚原さんの可能性だって十分にある。彼は六年間もヨリ先生の担当をして、打ち合わせの回数や一緒に過ごした時間はどこの出版社の担当よりも多い。過去について触れることもあったはずだ。
六年も付き合っていれば諍いはあってもおかしくないし、もっと単純にヨリ先生に告白でもして振られて恨んでいるのかもしれない。それに今はヨリ先生と関係のない部署に異動している。
「私、他の担当者にも会ってみたいです」
「そうだなあ。もともと紹介したいとは思ってたから、この機会に紹介するよ」
「ありがとうございます」
塚原さんは頭が回りコミュニケーション能力も高い。頼れる先輩だけれど、それが〝芳賀穂乃花〟だとしたら脅威になる。
そんな考えが浮かんだことにぞっとする。ずっと親切にしてくれた先輩を疑うなんて。私は考えを振り払う。
「二人ともお疲れ」
ヨリ先生をタクシーまで送り届けた編集長が応接室に戻ってきた。
「ヨリ先生、少し痩せたわね。外に出ることが少し怖くなってしまってるみたい。ヨリ先生が好きな冷凍スープでも送ろうかしら」
「私手配しておきますよ」
「ありがとう。――あ、このあとまだここ使うから、繋いだパソコンはそのままにしておいてくれる」
モニターに繋いでいたパソコンを片付けようとして、編集長に止められる。
「どなたかと約束ですか?」
「秦央社の編集長とね」
机の上に置かれた自身のパソコンをいじりながら編集長は答えた。
秦央社。ヨリ先生の著書を多数刊行している出版社だ。
「わかりました。では私は失礼します」
「ありがと。塚原くんもありがとうね」
「いえいえ、ヨリ先生のためならなんでもしますよ!」
「そうだ。塚原くん、コミカライズの件なんだけど……」
編集長と塚原さんの話が深まった隙に、私はモニターの陰にスマホを滑り込ませた。
「……それで、どうするの。秦央社は」
根津編集長の声のトーンが変わった。先ほどまで明るく秦央社の男性編集長と話していたのに、声が一気に暗くなる。
私は峰島出版近くのカフェに陣取り、イヤホンの奥から聞こえてくる会話を拾っていた。
奏央社の田中編集長は、根津編集長と旧知の仲だ。もともと同じ出版社の同期だったとかで、親交があるのは以前から知っていた。
根津編集長は私の質問には「大丈夫」「ヨリ先生を信じましょう」と微笑むだけで、内心はまったく読めない。
だから仕事用のスマホをスピーカー通話にして部屋に残しておいた。私用のスマホを通話先にして会話を聞いている。少し音は小さいが、聞こえないことはない。
「困ってるんだよ。ちょうど今執筆を進めてもらっていて、来年初めに刊行予定だ。すごく内容はいいけど……青春もので、いじめもテーマに盛り込んでる」
「それはちょっと厳しいわね。しかも数ヵ月後かぁ」
「場合によっては刊行中止になるかもしれない」
「でしょうね。イメージがここまで暗転することになるとは」
「葉空ヨリのジャンルがホラーやミステリーならともかくなあ。弱者の痛みに寄り添ってきたのに、実は虐げていた方だと厳しい」
「実際いじめはあったのかわからないけどね」
「小田切明日葉はいじめられっこの方に見えたけどな。どっちにしろ噂が広まればイメージの悪化は避けられない」
私たちには漏らさない本音がどんどん飛び出す。二人は今回の騒動でヨリ先生にネガティブなイメージを持ってしまっているんだ。
「うちは刊行中止くらいだからいいけど、峰島出版は……」
「そうね……こっちはわりと最悪よ。最初にかばっちゃったもんだから火種がこっちにも。うちは先生の過去とは関係ないのに。むしろ騙されてた方だわ」
「峰島出版、こないだ新刊出したばっかりだしな。映画の話もあったんだろ」
「このまま落ち着けばいいんだけど、この調子で話題になり続けていたら、ラジオ番組も厳しそうだし……」
「後任に涼波さんはどう? ヨリ先生に負けないくらいピュアなイメージがある」
「それただのあなたのタイプじゃない?」
「違う」
「じゃああれだ。涼波先生の刊行予定がある?」
「そうとも言う。シリーズ物なんだ」
二人の軽口に愕然とする。
顔が赤く火照るのはコーヒーのせいではない。
思い出すのは、根津編集長を見て涙ぐむヨリ先生の姿。
ヨリ先生は一人だ。どこかの出版社の社員でもなく、芸能事務所に入っているわけでもない。
個人事業主で、彼女に後ろ盾などない。
世間からのイメージダウンで、商品価値がなくなったと判断されて切り捨てられようとしている。
でもヨリ先生はいじめなどしていない。
出版社が作家を守らないでどうするの……?
まさか、若手作家が育ってきたから、それでいいと思っているの……? 若い作家を育てることができたのも、ヨリ先生の活躍があってこそなのに。その功績者を切り捨てて、若い作家に切り替えようとするなんて。
ヨリ先生の代わりなんていない。
編集長や出版社は、私が想像している以上に現実的なのかもしれない。作家を商品としか思っていないのかもしれない。塚原さんだってそうだ。
――ヨリ先生を心から心配して守れるのは、私しかいない。
編集長たちにわかってもらうために、私に何ができるだろう。
コーヒーラジオの放送一時間前に、ヨリ先生は自身のSNSを更新した。
【一部で、私の過去について憶測が飛んでおります。
話題になっている件、彼女とクラスメイトだったことは事実です。
ですが、噂されている件につきまして事実は一切ございません。
虚偽の情報の拡散や発信は法的措置を検討いたします。
ご心配をおかけしている皆さま、申し訳ございません。】
峰島出版も投稿を拡散し、コメントを付け加えた。
【当社小説投稿サイトに投稿された内容に、誹謗中傷となる悪質なものがありました。
個人を貶める内容の投稿、ならびに拡散について、固く禁じます。
悪質な投稿、記事の拡散につきましては法的措置を検討いたします。
ノベルタウンは今後とも安全なサイト運営を目指してまいります。
このたびご迷惑をおかけした作家の先生には深くお詫びを申し上げます。】
二つの投稿のあと、私はSNSを開く気にはなれなかった。
この投稿をしても、批判を続ける人はいる。むしろ燃料がつぎ足された とばかりに騒ぎ立てる人も出てくる。けれど、この否定で救われる人がいるというのも知っている。
私が編集者ではなく一読者ならば、この投稿に縋りつき信じたことだろう。
公式からきちんと否定をすることは大切だ。ここではっきりと否定をすれば、葉空ヨリを信じたい人は信じ続けることができるのだから。
コーヒーラジオの冒頭でも、ヨリ先生は真剣な声で否定をした。
「こんばんは。葉空ヨリです。本日のコーヒーラジオをスタートする前に、皆さまにお話があります。ご存知ない方もいるかもしれませんが、ここ一週間ご心配をおかけすることがありました。噂になっている件については一部……私があのクラスに在籍していたのは事実です。ですが、投稿されている内容はすべて覚えのないことで、私自身も大変戸惑っております。嘘を証明することは大変難しく……私もどうしていいのかわからず……正直怖いです」
ヨリ先生は声を詰まらせた。声は切なく、ラジオの先で聞いている人々にも、ヨリ先生の苦しみは伝わっただろう。
冤罪を主張することは、『悪魔の証明』だ。やってもいないことを証明することなどできない。
「皆さんからのあたたかい言葉に励まされています。私はこれからも真摯に物語を紡いでいきたいと思います。これからもよろしくお願いします」
リスナーから姿は見えないけれど、ヨリ先生は頭を下げた。
「……少し暗い始まりになってしまってすみません。説明のお時間をいただきありがとうございました。このラジオは、少し寂しい夜にほっと一息つける時間を目指しています。……ここからはいつもと同じようにさせていただきますね」
ヨリ先生の飾らない素直な言葉は、きっとファンの胸には届いたはず。そう思える丁寧な言葉だった。
宣言通り、その後はいつもと同じ内容の放送となった。一度否定したあとは関与していません、という姿勢を貫くことも必要だ。冒頭では涙を浮かべながら言葉を選んでいたけれど、今は堂々とした佇まいで話を続けている。
その姿に救われる気持ちになる。やはりヨリ先生は誰よりも美しい。
コーヒーラジオに届くメールやハガキには、ヨリ先生を応援するもの、批判するもの。いつもの何倍もの量が届いていた。私は批判している内容はすべて捨て、応援しているものだけを残した。
いつもと変わらない放送を届けるために、放送中に応援メッセージを読むことはできないが、これはヨリ先生の支えになるはずだ。
三十分のラジオは滞りなく終了した。
「ヨリ先生お疲れさまでした! ……とても素敵な放送でした!」
「ありがとう、まきちゃん。そして皆さまありがとうございます。ご心配をおかけして申し訳ございません」
ヨリ先生はラジオの放送を見守っていた人々に深く頭を下げた。根津編集長、ラジオのディレクター、それから局スタッフ。
「とても緊張してしまっていて……皆さんがこうしてそばにいてくださったのでなんとかやれました」
青白い顔をしたヨリ先生が胸に手を当て微笑んで見せると、場の温度が上がる気がする。こんなときでも私たちを気遣ってくれるヨリ先生の過去が暗いわけがない。
「いや、ヨリさんとてもいい放送でしたよ!」
「はい、すごく心に響きました。ファンの方の心にも届いたんじゃないでしょうか」
ディレクターの言葉に根津編集長は大きく頷いた。……今日のお昼に奏央社とあんな話をしていたと思えないほど、ヨリ先生に心を寄せているように見える。
編集長の本心を知ってしまった私は、これ以上二人が話しているところを見るのが苦しくて、話に割って入った。
「ヨリ先生、ファンの方からたくさん応援のお手紙やメールも届いていましたよ」
私はヨリ先生に段ボールの中身を見せた。ファンからのハガキとメールが印刷された紙がぎっしり入っていて、これほど多くの励ましの声が届いていることが誇らしい。
「これは全部ヨリ先生を信じる声なんです。『ヨリ先生に命を救われました、そんなヨリ先生がいじめなどに関与しているわけありません』」
私は一枚を取り出して読んでみる。応援の声をヨリ先生に届けたかった。
次のハガキを読もうとすると、ヨリ先生は口元を押さえてうずくまった。
「ど、どうしましたか!?」
「大丈夫ですか」
根津編集長とディレクターが即座にかがんで、ヨリ先生を心配そうに見る。
「大丈夫です」
青ざめた顔のまま、ヨリ先生は私を見上げた。
「まきちゃん、ありがとう。……そうやって言ってもらえることが、信じられなくて力が抜けちゃったかも、はは」
「……ヨリ先生」
ヨリ先生はどれだけ心細かったのだろう。きっと一人で苦しみ、悩み続けていたのだ。私たちの何倍も苦しんで今日を迎えている。
ヨリ先生に伝えたい。世の中の多くの人があなたに救われていると。
アンチの大きな声なんて、一切聞かなくてもよいと。
私はヨリ先生の前にかがみ、もう一度段ボールを見せた。
「この中は私が確認した手紙やメールが入っています。どれもヨリ先生を応援する声です。……ヨリ先生は一人じゃありません。こんなにもヨリ先生を信じる人がいるんです……!」
必死な声が出てしまった。ディレクターが呆気にとられた表情でこちらを向いていることはわかるが、それよりもヨリ先生に伝えたかった。
「……ありがとう。ここで読んだら大泣きしちゃうかも。この手紙、家で大切に読ませてもらってもいいかな」
「もちろんです。私、タクシーまで運びますよ」
「ありがとう、まきちゃん。――皆さんも本当にありがとうございます。お見苦しい姿を見せてすみません」
スタッフたちがヨリ先生に声をかけていく。みんなが心から心配しているように見える。編集長だってこの瞬間は本気で心配しているのがわかる。
この空間はヨリ先生のお人柄に癒やされ、好意的に思っている人しかいない。ヨリ先生が苦しんでいる姿を見るのは誰だって心苦しい。
これからもアンチの声など気にせずに、ファンだけの声を取り入れていけばいい。
私が読者の声を選定して、ヨリ先生に汚い声を届けないようにすればいい。
皆それぞれが帰っていき、私も段ボールを持ち上げヨリ先生と共に収録ブースを出た。局の廊下を歩きながら、ヨリ先生が優しい声音で話しかけてくる。
「まきちゃん、本当にありがとうね。元気づけようとしてくれて」
「当然です。私は担当編集の前に、ヨリ先生の大ファンなんですから! ヨリ先生のことを心から信じています」
「……ありがとう」
ビルを出て、タクシーが停 まっている場所に向かおうとしたときだった。
「葉空さん!」
後ろから男性の呼びかける声が聞こえた。建物の中から男性が小走りでやってくる。
最初はラジオの関係者かと思ったが、彼を近くで見て芸能人かもしれないと思う。ヨリ先生と同世代に見えるその人は一般人には思えない整った容姿だった。
「秋吉さん」
振り向いたヨリ先生が名前を呟く。どうやらヨリ先生の知り合いらしい。
「葉空さん、君は誰なんだ……!?」
彼はつかつかと歩いてくると、突然ヨリ先生の腕を掴んだ。
「俺に近づいたのはなんでだ! お前は俺のことを知ってたんだろ!」
彼はヨリ先生に近づくと感情が抑えきれなくなったようで、声を荒らげた。
ヨリ先生は怯えを顔に出しながら、男の手を振り払う。私はすぐにヨリ先生と彼の間に入り込んで手を広げる。
「あなたこそ誰ですか。警備の人を呼びますよ!」
「君には関係ない。俺は葉空ヨリと話している。――葉空ヨリ、お前は誰だ?」
男の顔にも怯えが浮かんでいることに今さら気づいた。ヨリ先生を幽霊でも見るかのように見つめている。
「なんのことでしょうか」
ヨリ先生から私の知らない声が飛び出た。固く冷たい声だった。ヨリ先生は彼を冷ややかな目で見てから、彼に背を向けてタクシーに向かって歩み出す 。
「待て! お前、誰なんだよ! 三年二組の誰だ!」
ヨリ先生の肩を掴んだ彼の手を、私は振り払う。
「ヨリ先生、行ってください!」
ヨリ先生がタクシーに向かって駆け出すと同時に、シャッター音が鳴った。
……シャッター音?
音の方に目を向けると、道路の端に停 まっていた一台の車から数人が降りて、こちらに向かって走ってくる。
「秋吉さんですね! 葉空ヨリさんや芳賀さんの件で聞きたいことがあるのですが……!」
カメラを構えた男が大声を上げた。
……一体何が起きた?
カメラを向けられた秋吉さんは、腕で顔を覆う。
「おい、お前は葉空ヨリに行け!」
カメラマンの大声に、一人の女性がヨリ先生のタクシーに駆け寄っていく。混乱の向こうでヨリ先生がタクシーに乗り込んだのが見えた。
何が起こっているのかまったくわからない。でも、ヨリ先生が無事に帰れるのならひとまず安心だ。タクシーの窓からヨリ先生が手を合わせて、ごめんねのポーズをしたので、私は微笑んでみせる。タクシーが発車し、ヨリ先生に向かっていた女性もこちらに戻ってくる。
秋吉さんにカメラを向けているのは、雰囲気的にはマスコミ関係者に見える。
「秋吉さん。今、葉空さんとお話されていましたよね!? 葉空ヨリの正体を知っているんですか!?」
「クラスメイトの芳賀さんの自殺をどう思っていましたか?」
「秋吉さん、葉空さんの本名をご存知ですね?」
目の前のマスコミ関係者は秋吉さんに必死に話しかけていて、私など眼中にはなさそうだ。口を結んで黙った秋吉さんにカメラマンはさらに叫んだ。
「秋吉さん!」
「俺だって何も知らないんだ! 葉空ヨリが誰かなんて俺も知りたいんだよ!」
秋吉さんは血走った目で叫ぶと、局のビルの中に戻っていった。騒ぎを察知した警備員も外に出てきて、マスコミはそれ以上追いかけられない。
秋吉さんに話を聞くことを諦めた彼らは、私に目を向ける。
「あなたは葉空ヨリ先生の関係者ですか?」
「葉空さんの本名をご存知ではないですか?」
「私はただの雑用のスタッフですよ。先生の持ち物を運んでいただけです」
彼らは私をじろじろと見るが、関係ないと判断したのか立ち去って行った。
……今の秋吉という男は何者? 彼の言葉やマスコミの言葉から考えて、市古高校の関係者? ヨリ先生と知り合いのように見えたけれど……彼はヨリ先生が誰なのかわからず怯えていた。
私はタクシーに乗り込むと、SNSで『秋吉』と検索してみる。彼がどういう人物なのかすぐにわかった。
――秋吉征直。私は知らなかったが、最近注目され始めた俳優らしい。長い下積みを経てブレイク寸前といったところだ。ドラマの脇役から徐々に人気を掴み、来期から深夜ドラマの主役にも抜擢されていた。ネット上の写真からは爽やかな好青年の印象を持った。
そんな彼が、市古高校三年二組の卒業アルバムの中にいた。『秋吉征直』とフルネームが印字されているし、少しあどけなさはあるが先ほど見たままの男の写真だった。どうやら本名で芸能活動を行っているらしい。
話題の写真の中に、たまたま少し有名な人がいた。
彼は男性だし、葉空ヨリだと疑われているわけでもなく、秋吉さんの悪評が広まっているわけではない。むしろ『マサくんの卒アル見れて嬉しい』『高校の頃から顔整いすぎてる』と彼のファンは好意的に受け止めているくらいだ。葉空ヨリ騒動の副産物という形で広がっていたようだ。
マスコミはラジオ放送後にヨリ先生に突撃するつもりだった。そこに秋吉さんが出てきて、葉空ヨリについて聞くことにしたのだと理解できる。
しかし、なぜ彼はヨリ先生に詰め寄っていた? 彼は葉空ヨリ=小田切明日葉だとは気づいていないみたいだったけれど……。
秋吉さんは顔も名前も変わっていないから、ヨリ先生は彼がかつてのクラスメイトだとわかっていた可能性が高い。
しばらく考えてみても、二人の関係についてまったく想像がつかないまま、自宅に到着した。
「この段ボール、どうしようか」
ヨリ先生に渡すはずの段ボールを玄関に下ろす。とりあえず私の自宅で保管しておくしかなさそうだ。
【さっきはごめんね。ありがとう】
ヨリ先生からメッセージが届いていた。気にしていないことと段ボールは預かっている旨を返信する。
今日も疲れた。そろそろ日付も変わるし早く眠ろう。
そう思っていたけれど、芳賀穂乃花は今夜も私を寝かせないつもりらしい。
【『青春小説家H.Yに殺されました』が更新されました!】
ノベラブル公式が動かないせいで。三話目が投稿されてしまった。



