「な、なんですか……これは」
声は震えていて音程もおかしくて言葉になっていなかった。
本当に恐ろしいときは汗など一つも出ない。ただ、ただ目の前の文字を頭に入れることを拒否していた。
「終わりですね」
編集部の誰かが呟いた。女性の声だが、それが誰なのか確認する余裕すらなかった。指先ひとつすら動かせないまま、編集長のノートパソコンを見つめる。
視線が私に突き刺さるのは感じるが、誰も私を責めなかった。
誰か責めてくれればいいのに。
誰も何も言わずに、沈黙だけが続いている。
「……様子を見るしかないわね」
きっと数秒の出来事だ。編集長がいつもの台詞を発した。
空気はようやく溶けて、皆のろのろと自分の席に戻っていく。誰も私がいないかのようにすり抜けていく。
「編集長……」
私の想いを代弁して、塚原さんが呟いた。
「匙は投げられた。あとは世の意見を待つだけね」
編集長は青い顔で呟いた。
「ま、まあ! この小説、小田切さんとの思い出を語ってるだけかもしれないですよ。次話が更新されたら……」
塚原さんが明るい声を出してくれたが皆の視線を受け、言葉が萎んでいく。
今回更新された小説を前向きにとらえる人は誰もいない。
明日葉は……ヨリ先生は、自分を助けてくれた家族のように大切な親友を裏切った。
そして、それが彼女にとどめをさした。……そう捉えられる文章だった。
ヨリ先生のことを擁護など、できない。
「……だれが」
勝手に口が動いた。
「誰が芳賀穂乃花なの……」
私は編集部を見渡した。一人一人の顔を見つめていく。声を発した私に視線は集まっていたけれど、私は視線が絡むと皆気まずそうにさっと目をそらした。
最後に塚原さんを見た。
「まきちゃん。ちょっと早いけど、ランチでも行く?」
優しく声をかけてくれるのはいつだって塚原さんだ。目にははっきりと同情が浮かんでいる。
「……だれが、芳賀穂乃花なんですか」
私は塚原さんに向かって言った。いや、ほぼ叫んでいたかもしれない。
「だれが芳賀穂乃花なんですか!」
「まきちゃん、落ち着いて」
「わ、わたしが……」
芳賀穂乃花の小説は、今頃拡散されている。何万もの人がこの小説を期待している。
そして、彼らは芳賀穂乃花を殺したのは葉空ヨリだと感じるだろう。それが本当か嘘か事実を確かめるでもなく。
手からカフェモカが滑り落ちて、床にぶちまけれられていく。
その光景がスローモーションに見えて、私は茶色の中に崩れ落ちた。
名前を公表しないことは、最後の砦だったかもしれない。これは〝芳賀穂乃花〟の罠だったのだ。
とはいえ小田切明日葉=葉空ヨリ、だと信じない人も大勢いた。卒アルの小田切とヨリ先生は似ても似つかないからだ。しかし、榎川が証拠を投稿した。
【みなさん、今回はご迷惑をおかけして本当に申し訳ございませんでした。芳賀さん、小田切さん、ごめんなさい】
榎川がミンスタグラムに投稿したのは、プリクラだった。
芳賀穂乃花と冴えない女生徒――小田切明日葉が二人でうつっているものだ。卒アルではこちらを睨みつけてむすりとした表情の小田切明日葉は、プリクラではにこやかに笑っていた。
……その笑顔は、ほんの少しヨリ先生を感じられるものだった。
目も鼻も体形も髪型も雰囲気はまるで違ったけれど、笑った時の口もとが似ていた。
「榎川……!」
怒りの声が漏れた。自分が追い込まれたのなら、ヨリ先生も巻き込もうと思ったのだろう。一人で自爆していればいいのに、浅ましいことだ。ごめんなさいと言いながら、それはヨリ先生を叩けと笑っている投稿だ。
過去のことを悔いることもなく、誰かのせいにしようとする。そんなことをしても自分が日の目をみることなど、二度とないのに。
榎川が小田切の写真を晒したことに対して非難が集まっていたが、榎川が削除することはなかった。
浅ましいのは榎川だけではない。秋吉は自分をつけ狙っている週刊誌に、葉空ヨリと食事に行っていたことや、矛先を自分に向けようとラジオ局での密会を仕込まれたことを伝えていた。ワイドショーでは相手にされない妄言だったが、ゴシップ記事は妄想でも大々的に報じるらしい。
秋吉のくだらない憶測は、事実に変わってしまう。
秋吉や榎川を炎上させたのは、世間なのに。二人が落ちぶれたのは、葉空ヨリの策略だという人間も少なくなかった。
SNSはもう見たくもない。
見なくてわかる。葉空ヨリは、もう二度と表に立つことができない。
私は謹慎処分を言い渡された。
ここでクビにはならないところが、さすが大手出版社の正社員といったところだろう。
二週間休みとなり、葉空ヨリに関して二度と関わらないように誓約書まで書かされた。それを破るとクビになるのだと思う。
二週間後に戻ったとしても、第三編集部にはもう戻れないはずだ。
塚原さんだけが気を遣って、社内の様子を教えてくれた。
葉空ヨリとしての復帰は完全に不可能。ほとぼりが冷めれば、別名義での仕事は受ける。というものだ。きっとどの出版社も同じ対応を取るのだろう。
……〝葉空ヨリ〟は完全に消えてしまうことになった。
芳賀穂乃花の最新話が投稿されて、私が謹慎となって三日目。塚原さんから電話がかかってきた。
彼は私を元気づけようと、一連の件に関係ないことから話し始めたが、私はそんな気持ちにはなれずストレートに訊ねる。
「芳賀穂乃花は誰なんでしょうか」
「んー、ヨリ先生じゃなかったってことだよな……」
塚原さんはしばらく唸ってから、考えるように言った。
「はい。さすがにヨリ先生もここまでしないと思います。自分の作家人生の終わりですよ」
「でも芳賀の最新話は、ヨリ先生しか書けないんじゃない」
「そうでしょうか。誰だって書けますよ。本当に幼なじみだったかもわからないですし、幼なじみだと知った人間が勝手に想像して脚色してるかも。それを否定できる人はいません。誰も小田切さんとは親しくなかったでしょうし、芳賀さんが亡くなっていて、ヨリ先生は否定できる立場にはいません」
「そうなると出版社の人間が怪しいってわけ?」
「何もわかりません。でも私はヨリ先生を信じているんです。きっと何か理由があったはず。……ところでヨリ先生はどうされていますか?」
訊ねれば電話口からしばらくの沈黙が返ってきた。
「んー、伝えるか伝えないか迷ったけど。一応言っておく。……ヨリ先生と連絡が取れなくなった」
「えっ……!?」
塚原さんによると、芳賀の最新話が投稿されてからヨリ先生と連絡が繋がらなくなったそうだ。編集長は私がしでかした投稿についての謝罪をしたかったがメールは返ってこず、電話も出ない。今まで連絡が繋がらなかったことは一度もなかったという。
ヨリ先生にご家族はおらず、連絡を取れる相手もいない。塚原さんが他のヨリ先生の担当者に確認を取ったが、誰も連絡がつかないらしい。
「警察に届けたんですか?」
「いや、まだ三日だし……今回の件で心の整理がつかないだけじゃないかって」
「大丈夫なんですか!?」
「わからない。だからみんな心配はしてるよ」
「心配って……何かあってからじゃ遅いんですよ」
私は口を抑えた。塚原さんは私を気遣って電話をかけてくれたのにこの言い方は適切でなかった。
「すみません」
「いやいいよ。俺も心配だからさ。だからこうしてまきちゃんに伝えてる。ヨリ先生のことを心から心配してるのはまきちゃんだけだから。まきちゃんならヨリ先生の支えになってくれるかもって」
「塚原さん……ありがとうございます」
私はお礼を言って慌てて電話を切った。
誰もヨリ先生の安否を確かめていないことは腹立たしかったが、私が誰かに怒る資格などないということは痛感している。私がヨリ先生を追い詰め、葉空ヨリを世間的に殺してしまったのだから。
だからといって、このままヨリ先生の安否がわからないのは恐ろしい。どうせ出版社の面々は心配だね、と言いながら何もしない。大事になったときの責任など取れないからだ。
着ていたジャージを脱ぎ捨てて、適当にその場にあったシャツとパンツを身に着けると、私は家を飛び出した。
もうヨリ先生に関わるなと言われているけれど、ヨリ先生の命がかかっているのだから話は聞いていられない。解雇されても別に構わない。
大通りまで出ると私は急いでタクシーに乗り込んだ。電車に乗っても三十分もあればヨリ先生のマンションには行けるが、一分でも早くヨリ先生の安否を確かめたかった。
ヨリ先生のマンションまで到着し、エントランスに進む。オートロックのインターホンでヨリ先生の部屋番号を押すが、返答はない。何度か押し続けたが、反応はなかった。
広いエントランスの奥には、コンシェルジュが常駐している。私はカウンターまで行くと、男性のコンシェルジュに声をかけた。
「すみません、私須田出版の槇原と申します。葉空先生……小田切さんと予定があるのですが……」
「須田出版の方が、お越しになった場合こちらをお渡しするように伺っております」
コンシェルジュは白い封筒を手渡した。何もロゴも入っていないシンプルなものだ。
「それから出版社の方がお越しになった場合の伝言も預かっております。葉空様はお引越しになりました。しばらく静かに過ごしたい、改めて連絡するまで待っていて欲しい、ということです」
「ど、どちらに引っ越されたのですか?」
「私も存じ上げません」
コンシェルジュは柔らかく微笑み、これ以上何を聞いても無駄だとわかる。
私は彼から離れると、エントランスのソファに腰かけ、ヨリ先生の封筒を開くことにした。
きっと根津編集長宛だが、勝手に見ることの罪悪感などもうなかった。ヨリ先生のことを知りたいその一心だ。しかし現れた文字は――。
【まきちゃんへ。信じてくれたのにごめんなさい。ありがとう。葉空ヨリ】
意外なことに私宛へのメッセージだった。目頭が熱くなり、文字がにじむ。
ヨリ先生は、私がここまで来ることをわかっていたのだ。私がヨリ先生のことを信じていることを、信じてくれている。
私がヨリ先生を窮地に追いやってしまったのに、私にありがとうと言ってくれている。
せっかくヨリ先生からいただいた手紙なのに、私の瞳から落ちた水滴がぽたぽたと滲んでいく。
――私だけは、ヨリ先生を信じる。
あの小説はヨリ先生を陥れたい誰かの策略だ。
小田切明日葉について真実を含んでいたとしても、なにか理由があるはすだ。ヨリ先生はこんなに優しい人なのだから。
ヨリ先生は、今どこで何をしているのだろうか。幸い私は謹慎中だ。時間だけはたっぷりある。ヨリ先生を探さなくては。あなたを信じると伝えなくては。
私はポケットからスマホを取り出して、電話をかけた。
「もしもし、榎川さんですか。須田出版の槇原です。今よろしいでしょうか」
「槇原さん? ああ、葉空の担当者か。なんですか、もしかしてあたしに怒ってます?」
「プリクラの件は構いません。それよりも以前お願いしていた芳賀さんや小田切さんの実家、わかりましたか?」
「わかったけど……でも、どうするんですか? もう今さら意味なくないですか? 葉空も終わりでしょ?」
諦めたような拗ねた口調が返ってくる。
「私は真実が知りたいんです。お願いします、教えてください」
「あたしにはもう関係ないから、まーいいですよ。送ってあげますよ」
「ありがとうございます。ところで先日更新された芳賀さんの小説は事実が書かれていたのでしょうか」
榎川は考えているのか「うーん」とくぐもった声が聞こえる。
「小田切さんが穂乃花を殺したっていうのはよくわかんないです。でも、穂乃花がいじめられたきっかけはあってますよ。元々小田切さん、千尋の玩具だったんですよ。あ、あたしはクラス違ったからやってませんよ。それで三年も小田切さんをいじめようとした千尋に穂乃花がやめてって言ったのはほんとです。実はあたしの幼なじみだからって。千尋はおもしろくなかったみたいだけど、そのときはやめました」
「では三年のときに小田切さんのいじめはなかったと」
「クラス変わったばっかりだったし千尋も猫被ってたのかな。ま、とにかく小田切さんに対してあたしたちはなんにもしなかったですよ。千尋は嫌いみたいで悪口言ったりしてたけど、穂乃花の前ではなかった。でも、秋吉くんの件があって。私と穂乃花がもめてうまくいかなったとこに、千尋が実は私も穂乃花むかついてたんだよねって感じで、いじめが始まった感じですね」
「なるほど……では小説は事実なんですね」
「うん、だからあたしもあの小説を投稿してるのは小田切さんだと思ったの。でもあの感じじゃ小田切さんじゃないですよね。まさか葉空ヨリが小田切明日葉なんてねー」
「他に心当たりはありませんか」
軽い調子でしゃべっていた榎川の声が固く変化した。
「あるとしたら……怖いんだけど、穂乃花の幽霊じゃないですか? 死んでも呪ってやる、みたいな。ちょっと怖くなってきたんです。だから穂乃花のお母さんに聞いてみてくださいよ」
「わかりました。では連絡先をお願いしますね」
「はいはい」
電話を切るとすぐに榎川はメッセージをくれた。
翌朝、私は午前中の新幹線に乗り愛知県に移動した。F市は名古屋駅から電車で一時間ほどのところにある。田舎というほどでもないが、車がないと不便などこにでもある地方の町だ。私の地元とも雰囲気が似ている。閉鎖的な村でもないのに、どこか窮屈さを感じられる町。
芳賀さんはF市から二つ離れた市に住んでいるらしい。私は市古高校の最寄り駅を通り過ぎて芳賀さんが住む町に到着した。
駅から直結の新しいマンションに芳賀さんは住んでいる。モダンなエントランスのオートロックで1003を押すと「はーい」と声がする。
「こんにちは。須田出版の槇原と申します」
「ああ、昨日電話をくれた編集者さん。どうぞ」
柔らかな声が聞こえてきて、私は十階まで上がった。
出迎えてくれたのは小柄な女性だ。丸い瞳は芳賀穂乃花を思わせる。
「お忙しいでしょうに、こんなところまでよく来てくださいました」
彼女はスリッパを出しながら、好意的に私を受け入れてくれた。
昨日、榎川から教えてもらった電話番号にかけたところ快く住所を教えてくれた。
こうしてヨリ先生の担当者を招き入れてくれる時点で、芳賀さんがヨリ先生に悪意を持っていないことは明らかでほっとする。
マンションは2LDKで、田舎にあるとは思えないオシャレな雰囲気のマンションだった。通されたリビングは窓が広く見晴らしもよく、広さも二十畳はある。芳賀さんの実家は裕福なのだろうか。
芳賀さんは私をダイニングテーブルに座らせると、紅茶を出してくれた。
「少し散らかっててすみませんね」
彼女の視線の先にはいくつかの段ボールが見えた。引っ越し用の段ボールだ。
「いえ、こちらが急におしかけたものですから。引っ越しされたところなんですか?」
「ええ、まあ。明日葉ちゃんが引っ越したらどうかって一ヶ前くらい前に手配してくれて。まだ片付けられていないのは恥ずかしいんですけど」
「ヨリ先生と……いえ、小田切さんとは今も親交があるんですか? 小田切さんが葉空ヨリ先生だとご存知だったのですよね」
芳賀さんも私の向かいの席に座ると、頷く。
「明日葉ちゃんはずっと私のことも心配してくれているんです……槇原さんがここまで来てくださったのは、明日葉ちゃんが今大変なことになっているからでしょう?」
「そうです。……とおっしゃるということは、芳賀さんは小田切さんを恨んではいないのですか?」
「私が明日葉ちゃんを? 恨むわけないわよ」
芳賀さんが目を見開くと、その顔は卒業アルバムの穂乃花そっくりに見えた。
「もちろん穂乃花を追い込んだいじめは許せない。だけどそれを明日葉ちゃんに押し付けるわけなんてないわよ。きっと穂乃花も。たしかに明日葉ちゃんは穂乃花のいじめを止められなかったかもしれない。だけど、明日葉ちゃんの状況で誰が止められるっていうの? 明日葉ちゃんが悪いのなら、私だって同じよ。娘の異変に気づけなかったんだから」
芳賀さんは涙をこらえながら言った。
「明日葉ちゃんは十五年前からずっと穂乃花のことを悔やんでいて。それで、二度と穂乃花のような子が出ないようにってお話を書いてくれてるでしょう」
「はい、そうおっしゃっていました」
ヨリ先生の言っていたことはまたひとつ〝本当〟だったと安堵する。
「それに明日葉ちゃんはその印税の一部を私に送り続けてくれてる。本当なら穂乃花がしていた親孝行を私にさせてって言ってくれるの。私も最初は断ったのだけど、それも明日葉ちゃんの贖罪になるのなら、と思って」
「そうだったんですね」
「だから、今明日葉ちゃんがバッシングを受ける意味がわからないの」
芳賀さんは涙を目にためて、私を向いた。
「穂乃花の名前を騙って、明日葉ちゃんを貶めるなんて許せない。穂乃花も望んでいないことよ」
「私もそう思っているんです」
思わず食い気味に返答してしまったが、芳賀さんは嬉しそうにはにかんでくれた。彼女の瞳から涙がこぼれおちる。
「明日葉ちゃんのことを信じてくれている人がいてよかった」
「だから私に会ってくださったんですね」
「ええ。明日葉ちゃんをどうか守ってください。明日葉ちゃんは母子家庭の一人っ子だったけど、母を亡くしていて……だから私は明日葉ちゃんを子どものように思ってる。優しい子なの。今回私を引っ越しさせたのも、今回のことを予見をしてだと思う。F市に住んだままだったなら、忠村さんに何か言われるかもしれないし」
「地元の有力者なのですよね」
「ええ……本当に許したくない相手だわ」
終始優しそうに見えた芳賀さんの顔が初めて歪んだ。
「明日葉ちゃんは十五年ずっと穂乃花と向き合ってくれていた。もう過去から解放されて幸せになってほしいのよ」
「芳賀さんから、今私に話してくださったことを公表することはできますか?」
「私に協力できることなら。私はもういいのよ。でも明日葉ちゃんはまだ若い。それに才能だってある。穂乃花みたいな子を小説の力で救ってほしい」
芳賀さんの真剣な言葉に私の涙もせりあがってくる。
そうだ、ヨリ先生の小説は人を救う。ここで終わらせてはいけないのだ。
私は芳賀さんに、小田切明日葉を恨む人間がいないか、芳賀穂乃花と親しい人は他にいないかを、を訊ねた。芳賀さんは小説を更新し続けている〝芳賀穂乃花〟に心当たりはないそうだ。
でも大丈夫だ。芳賀さんが、ヨリ先生に対して感謝こそすれ恨みはないこと。芳賀穂乃花も同じ気持ちであること。芳賀穂乃花のために十五年間小説を描き続けたと発表すれば、世間ではそれを美談と受け止めてくれるだろう。
私はF市に戻ると、数日滞在予定のホテルにチェックインした。コンビニでお菓子をいくつか購入し、駅前でタクシーに乗りこむ。
F市中心駅から車で二十分離れた場所まで移動する。車は坂道を上り、とある山の中に入った。木々が濃くなり途中で道が細く途切れたのでタクシーから降りる。
「このあたりのはずだけど……」
私はスマホの地図を確認しながら細い道を進む。細いが人の手で整えられた道だ。ほんの一分も歩けば、見晴らしのよい墓地が現れた。
私はカバンの中から紙を取り出した。指定された場所まで向かうと芳賀穂乃花の墓が見つかった。ペットボトルの水をかけて、芳賀さんが好きだったというチョコレートとポテト菓子をお供えする。小さく手を会わせて目を瞑る。
「芳賀さん、ヨリ先生をお守りください」
小さな声で願うと、私は墓石の前に座り目を閉じた。
ヨリ先生が、小田切明日葉さんが守りたかった芳賀穂乃花。そして、ヨリ先生の小説の源となり続ける人物。人懐っこい笑顔が思い浮かぶ。いじめを止める勇気のある美しい人。芳賀穂乃花を十五年愛し続けるのは納得ができた。
「……かゆ」
私の腕にはいくつかの赤がぷっくりと浮き出ていた。最近の夏は熱さが強すぎて、蚊が本領発揮をするのはこの時期なのだろうか。明日は虫よけスプレーをしてこよう。
どれほどその場にいたのだろうか。誰もこない墓地が紫に染まってきたところで、私は立ち上がった。五つも蚊にさされている。近くまでタクシーを手配しようとスマホを操作していると、がさがさと足音が聞こえてきた。
まさか、と墓地の入り口に目をやれば、喪服のように黒いワンピースを着た女性が入ってきたところだった。
「……ヨリ先生!」
一日目で会えてよかった、やっぱりここに来ると思っていた! ほっとして手を振ると、遠くに見える影は誰が手を振っているのか確認しているようだった。お互いの顔がよく見える位置までくると、ヨリ先生は私を見て固まった。
「……どう、してここに」
ヨリ先生は私の後ろに置いてあるお菓子を凝視している。
「これですか? 穂乃花さんが好物だとお母様に聞いたので」
「……あなたの行動力を見誤っていたかも」
そう言うヨリ先生の顔は険しくて、いつものように朗らかには笑ってくれなかった。ヨリ先生はくるりと私に背を向けると墓地の入り口まで戻っていこうとする。
「ま、待ってください! 私、お話があるんです」
ごつごつした地面を蹴りながら、私はヨリ先生を追いかけた。墓地を出てからは急勾配の坂だ。走れなくなったヨリ先生に追いつき、肩をつかむ。振り返ったヨリ先生は怯えたような目で私を見た。
「勝手にここまで来てすみません。……でもヨリ先生のことが心配で。無事でよかったです」
私が早口で笑いかける。ヨリ先生は笑い返してくれず、ビー玉のような瞳には何の感情も浮かんでいない。
「ヨリ先生、本当にすみませんでした。私が小田切明日葉さんだと名乗ったばかりに」
「いえ。名前を公表してほしいと言ったのは私だから」
「その結果、ヨリ先生を陥れようとした人間のせいで、このようなことに」
「陥れるって……あの小説に書いてあったことは事実よ。私は穂乃花を裏切った」
「裏切っていません!」
暗くなってきた坂道で私の声がこだました。
「たしかに芳賀さんのことを助けられなかったかもしれません。だけど……仕方ないじゃないですか。助けたくても助けられないことはあるんです。悪いのは主犯の四人ですよね。四人と同様にヨリ先生が責められる必要なんてないんですよ! 誰があの小説を更新しているかわかりません。……だけどこのままヨリ先生が世間に勘違いされているのが嫌なんです!」
「勘違い?」
「はい。四人と違ってヨリ先生は何もしていないのに。先生を陥れたい人間の仕業です。でも安心してください。穂乃花さんのお母さまががメディアに出て説明すると仰ってくださいましたから! 小田切明日葉さんは、いじめに関与しておらず、ずっと穂乃花さんのことを大切に思っていた、と」
「…………」
ヨリ先生は零れ落ちそうなくらい目を開いた。その瞳にはみるみるうちに涙がたまってくる。
「これで〝葉空ヨリ〟の名前も守れます。安心してください。ヨリ先生のファンもわかっていますから。ヨリ先生の内面は美しいひとだと」
私が笑顔を向ければヨリ先生の目からぽろぽろと涙がこぼれた。
ヨリ先生に知ってほしい。あなたを信じてくれる人は大勢いるのだと。ヨリ先生は十五年間、ご自身を責め続けた。何も関与していないのにこうして今でも胸を痛めている。真面目で責任が強く、優しいヨリ先生は自分自身を許せなかったのだろう。
私の想像通り、ヨリ先生は美しい人だったのだ。そんなヨリ先生を守れる自分が誇らしかった。
「おえ……」
「ヨリ先生?」
ヨリ先生は嗚咽と共に口元を押さえて、しゃがみこんだ。
「……気持ち悪い」
「大丈夫ですか!?」
顔を真っ青にしたヨリ先生の隣にしゃがみこもうとすると
「こないで!」
ヨリ先生の厳しい瞳が私に付きささる。
「ヨリ先生どうしたんですか、気持ち悪いのですか?」
「……あんたにそうやってキラキラした瞳を向けられると、胃のものすべて吐き出しそうになる」
「え……?」
私はしゃがみこむことも出来ず、下から睨みつけてくるヨリ先生をただ呆然と見つめた。
「私はきれいなんかじゃない。汚くて、自分のことばっかりな醜い人間。十五年前から何も変わっていない」
私を睨む目と、卒アルでカメラを睨みつけてくる明日葉の瞳がどこか重なった。分厚い前髪の奥から睨むすべてを諦めながら理不尽さに怒りを感じているあの目だ。
「なにを言っているんですか。ヨリ先生が汚いだなんて」
「じゃあ教えてあげる。あなたが探している芳賀穂乃花は私だよ」
「ああ」
身体の力が抜けた。
……なんだ、そんなことか。そんなことでヨリ先生を汚いと思うわけがない。私は笑顔を作る。
「むしろそうだったらいいな、て私思っていたんです」
「……なにが、」
「ヨリ先生は芳賀さんのために、今回のことを起こしたんですよね。復讐を悪いなんて思いませんよ。芳賀さんのために起こした優しさです。自己犠牲は大きすぎだとは思いましたが」
「ちがう」
ヨリ先生の声は、初めて聞く冷たい温度だった。
「私が葉空ヨリを終わらせたかったから。そのついでに四人に復讐しただけ」
「な、なぜですか。なぜ終わらせようと?」
「言ったでしょ、葉空ヨリは醜い人間だから、もう終わりにしたいの」
ヨリ先生はもう私を見なかった。木々を見ながら、淡々と答える。
「ヨリ先生は醜くありませんよ! ヨリ先生は十五年間、芳賀さんのために苦しみ続けてきました。それを小説という手段で光に変えてきました。その光に救われた人もいますし、私もそうです」
「光ってなに? 私に光なんてない。あなたは私ではなくて、誰を見てるの?」
ヨリ先生の光のない瞳が私を見た。私の前にいるのは〝葉空ヨリ〟だ。
「葉空ヨリは存在しないよ」
私の心中を読み取るようにヨリ先生は声をあげた。
「ここにいる小田切明日葉はただの醜い人間。小田切明日葉を美しいと、あなたは言えるの?」
私は目の前にいるヨリ先生をを見つめた。
朗らかな笑顔は消えて、乾燥した唇はぎゅっと結ばれている。いつも優しい瞳は温度をなくしている。ほとんどメイクはしておらず、くたびれているヨリ先生だ。
脳裏に浮かぶのは、卒業アルバムでこちらを睨む小田切明日葉。
「私は穂乃花を殺してしまった」
「ヨリ先生がご自身を責める必要なんてないんですよ! ヨリ先生はいじめに関与していないと聞きました。榎川も芳賀さんのお母様も!」
ヨリ先生の反応はない。
必死に訴えれば訴える分だけ、ヨリ先生と距離があいていくようだ。
「それに芳賀さんのことを、たくさんお話にしていらっしゃるんですよね。芳賀さんも、そしてそのお話に読んだたくさんの人も救われています。ヨリ先生は命を救っているんですよ!」
最後まで私が言い終えたときには、ヨリ先生は嗚咽と共に胃の中のものを吐き出した。
私が慌てて背中をさすると、ヨリ先生の身体は小さく震え、息を大きく吸っているのが分かった。少し息を整えたヨリ先生は私の手を振り張った。
「やめて、そんな、きれいごと……! そうやって。私を勝手に信じないでよ……! なに、も、しらないくせに」
息をぜえぜえと吐きながら言葉を吐く。
「私がどうして苦しいかも知らずに。あんたにそうやって信じ込まれるたびに……おえっ」
ヨリ先生は口元をぬぐいながら、私を睨んだ。
「私に葉空ヨリの理想を押し付けて、そこに小田切明日葉がいることも考えずに……!」
「私が、理想を、ヨリ先生に……?」
「私はまったくきれいなんかじゃない、醜いんだから……」
ファンレターを読むたびに、酷い吐き気に襲われるようになったのはいつからだろうか。
【ヨリさんは私の希望です】
【ヨリ先生は私を救ってくれました!】
【葉空先生の文章は澄み切っていて、先生のお人柄を表しているようです】
文章と私を重ねて、私を光だと、美しい人間だと。そう評されるたびに、私は便器に顔を突っ込んだ。
吐いて、吐いて、吐いた。汚い自分が出て行くようで少し安堵する。胃の中のものをすべて吐き出せば、醜いものが少しは消えてくれる気がして。
私は綺麗なんかじゃない。
私は、醜い。何もかも。
――私が、穂乃花を殺した。
私より半年前に穂乃花は生まれた。穂乃花の母は、穂乃花を抱いて新生児の私に会いに来たのだという。
私が生まれて初めて瞳の中に入れた友達は穂乃花だった。
親同士が友人ということもあり、物心をついたときからそばにいた。私が初めて呼んだ友達の名前は「ほーちゃん」だったし、穂乃花が初めて呼んだ友達の名前も「はーちゃん」だった。
学区が同じ私たちは当たり前のように、同じ幼稚園に通い、休日には親と共に遊び、同じ小学校に通うことになった。私は穂乃花が好きで、ずっと仲良しでいられると思っていた。
だけど、現実は甘くない。
穂乃花はかわいかった。私はかわいくなかった。たったそれだけのことだ。
穂乃花はくりっとした目にいつも楽しそうに口角のあがった唇。誰からも愛される少女だったのに対して、私は上からプレスされたような顔だちをしていた。上から潰されてしまったから目はこんなに細く、鼻は潰れ、口角は下がっているのかもしれない。
そして見た目だけではない。誰ともうまく喋ることが出来ずどもってしまう私と、誰とでも親しくなれて朗らかな笑顔を向ける穂乃花はまるで違った。
園児の頃と違って小学生にもなれば、無意識に他人の評価を始め、自分がどう見られるかを認識し始める。私が穂乃花と釣り合わないことは自分が一番わかっていた。
穂乃花はわかっているのかいないのか、変わらず私と親しくしてくれた。
小学校は二クラスしかないこともあり、五年間穂乃花と同じクラスで、帰宅後はどちらかの家でまったり過ごし、常に穂乃花といた。穂乃花は私の家で漫画を読みながら「明日葉といるときが一番のんびりできる」と心からの笑顔を向けてくれる。
小学生までは私も穂乃花のことを心から好きでいられたのだと思う。皆が親しくなりたがる穂乃花の一番の親友ということが誇らしかった。
私たちの小学校は今思えば素朴で純真な生徒が多かったのだと思う。穂乃花と親しいことについて、私は誰からもからかわれることがなく、穂乃花の親友のままでいられたのだから。
中学になれば別の小学校が合流し、私たちはランク付けを余儀なくされた。新しい友人関係が形成されるなかで「私と友達になるべき相手はこの子だろう」という暗黙の空気が漂うのだ。
穂乃花と別のクラスになった私は、クラスの真ん中からはじき出される形となった。穂乃花の親友だと認識されない状態の私の価値はこれが適正で、今までが過大評価されていただけに過ぎない。
それでも穂乃花は、価値が下がった私とずっと一緒にいてくれた。
それが心から嬉しくて、心から憎かった。
穂乃花といると楽しくて自分の価値まで上がる気がした。だけど同じくらい不安で苦しい。穂乃花と友達だという優越感に浸る日もあれば、穂乃花の隣に並ぶことで無遠慮に値踏みされる居心地の悪さ。楽しくて嬉しくて、苦しくて憎い。友情とは似つかわしくないどろりとした感情に支配されることが恐ろしくて、私は穂乃花から離れたかった。離れることでこの気持ちを全て切り捨てたかった。
だから高校だって穂乃花と別の高校を選び、常に一緒でどこか依存している関係を打ち切りたかった。
けれど穂乃花は希望の高校に落ちて、私たちは三年間一緒にいる事を余儀なくされた。
私は入学式の前の日に、穂乃花に宣言した。
「明日から高校生活が始まるけど。私たち一緒に登下校するのやめよう」
「え? なんで? なんかバイトとかするの?」
穂乃花は私との関係を疑ったことがない。私はこんなにも苦しいのに穂乃花は私たちの関係に一度も悩んだことはないのだろう。
「だってほら、私たち釣り合ってないから」
私はなんにも気にしていないように、さらりとした声音を出す。
「釣り合うってなに? 意味わかんないんだけど。私と一緒にいたくないってこと?」
「……穂乃花だって気づいてるでしょ。私たちは同じグループの人間じゃないんだよ。私だって、自分でも気づいているからそういうの」
言いたいことだけ言って私は穂乃花に背を向ける。穂乃花がどういう表情を浮かべているのか見たくなかった。そのまま穂乃花は私に声をかけなかった。彼女の気遣いに思えてそれもまた私を苛立たせた。
穂乃花と登下校を共にせずクラスも離れれば、私たちが元々の友達だと思う者はいなかった。私たちは他人から見てそれほど明確な差があったのだから。
同じ中学の人もほとんどいないこの学校で、私はこのまま穂乃花から離れた場所でひっそりと生きていけばいいと思った。もう穂乃花への嫉妬で胸をちりつかせることもない。
穂乃花はクラスの中心人物となり、同じ雰囲気の子たちとグループを作った。私が可愛ければ、せめてもっと明るければあの中にいることができたのだろうか。ひっそりと憧れていた男の子と穂乃花が付き合ったことを知ったとき、隣にいなくてよかったと心からほっとした。
穂乃花と私は釣り合っていない。そう思える自分を客観視できる人間だと思っていた。だけど違った。
小田切明日葉という存在は、穂乃花のおかげでギリギリ人間の生活を送れていたのだ。マイナスの人間だということまで私は知らなかった。
中学までは穂乃花という存在が、私の盾になっていた。
地味でブスな私でも、周りからそこまで悪く言われない。それはみんなの人気な穂乃花の親友だったから。だから影口はあっても表立って酷いことをされたことがなかった。
穂乃花という加護のなくなった私は、なんの価値もないどころか、人々に不快な印象しか与えないらしい。高校にもなって馬鹿馬鹿しいと思うが、忠村千尋という悪魔に出会ってしまった私は彼女に「玩具」と呼ばれる存在になった。
二年間のことは思い出すだけで、いまだに手が震える。ほんのすこし何かがズレれば、ホームから飛んでいたのは私だっただろう。
私はひどく臆病で飛ぶ勇気すらなかったのだから。だけど今になって思う。
私があの時死んでいれば、穂乃花は死ななかったかもしれない。あそこで死ぬべきは私だったのだ。
私が死ななかったばかりに、私は穂乃花と同じクラスになり、それがいじめに繋がった。
最初は榎川が二股の腹いせに穂乃花を悪く言い、忠村が私のいじめをとめた腹いせに始まった小さないじめだった。
だけど彼女たちは気づいてしまったのだろう。
元から道端のゴミのような私を蹴るよりも、今まで人気者として頂点にいた穂乃花を落とすことの楽しさに。
私はいじめを止められるはずがなかった。私の価値など、彼女たちにとっては何の意味もないものだ。私がとめたところで、何もかわらないことは明白だった。だからいじめを止められないのは仕方ない。私は自分にそう言い聞かせる。再度いじめられるのが怖かったからじゃない、と。
私は穂乃花と再び登下校を共にするようになった。
「ごめんね、穂乃花。私のせいで」
「全然。こうして一緒にいてくれるだけで嬉しいんだよ」
穂乃花は傷ついた口もとで微笑んでくれた。
そのとき、思ってしまっのだ。
今の穂乃花となら、隣に歩いていても苦しくない。
穂乃花の価値が下がり、私の場所までおりてきた。穂乃花はここにいてくれる。
夏休み、榎川たちから解放された私たちは子供の頃のように遊んだ。
私の胸にあったわだかまりは消えていて、穂乃花と一緒に遊べるようになったことの喜びが勝っていた。穂乃花への嫉妬も黒い感情もすべて消えて。
――それはどれほど穂乃花にとって屈辱的だったことだろうか。
ぎりぎりの穂乃花の一押しをしたのは、私なのだろう。
夏休みが終わり学校に戻れば、地獄が戻ってきた。穂乃花が徐々にやつれていることを知っていた。だから、私だけは穂乃花から離れてはいけなかったのに。
少し頭が痛かった。親が家にいなかった。体育がある。そんなどうだっていい理由を並べて、私はあの日学校に行かなかった。
その日、穂乃花は空を飛んだのだ。
私は自分のために、いじめを止めなかった。
穂乃花を失ってみれば、それがどれだけ馬鹿馬鹿しいことだったかわかる。
穂乃花は輝いているひとだった。私の隣にいてはいけない人だった。
私の隣にいなくてもいい。穂乃花に笑っていて欲しかっただけだった。そう後悔をしてももう遅かった。
穂乃花のいじめは簡単に隠蔽され、榎川たちは当たり前の青春を送っている。さすがに新たなターゲットを作る気にはなれなかったのか、彼女たちが表だったいじめを行うことはなかった。
三年二組から穂乃花だけが消えたまま、皆青春を卒業していった。
穂乃花を忘れたくない。いじめをなかったことにしたくない。高校を卒業して大学に入り、贖罪のために小説を書き始めた。文章を打ち込んでそれを公開した。まさかそれが受賞してベストセラーになるとは思わなかったけれど。
受賞し、担当となった根津さんに「ペンネームはどうしましょうか」と聞かれた私は、”葉空ヨリ”と答えた。
私は当時投稿サイトは「より」という名前で投稿していた。これは小学生のときに私と穂乃花がはまっていたアニメの主人公の名前。
……そうだ、これを機に小田切明日葉を捨てよう。
『私、明日葉って名前好きなんだ。私が穂乃花でしょ。花と葉って親友って感じがする』
『なにそれ』
『明日葉って葉っぽいんだよね。爽やかで、穏やかで』
そのときは少しふてくされたことを覚えている。華やかな花は穂乃花にぴったりで、自分は地味な引き立て役と思った。
だけど、穂乃花のいう爽やかで穏やかな人になれたら。
これからは〝葉空ヨリ〟として生きる。
醜い自分も過去もすべて捨ててしまおう。そう決めて賞金をすべてつぎ込んで整形を行った。穂乃花の写真を執刀医に見せたが、あまりにも顔のタイプが違い断られた。
「なにか理想の顔はありませんか」
「それなら、すっきりした美人にしようかな」
いつかの穂乃花との会話が蘇る。
『私も穂乃花みたいに可愛くなりたい』
『明日葉はクールビューティーだよね、すっきり美人系ってやつ。私はそっちが憧れだよ』
それは明らかなお世辞ではあった。くりくりの目にはどうやってもなれない、細い一重を見て穂乃花は『クール、すっきり』と評してくれたのだろう。それがいいのなら、今すぐにでも顔を交換してくれよと言いたくなったっけ。
あの日、穂乃花が褒めてくれた私をもとに、私は自分の顔を考えることにした。
小田切明日葉を捨てて、葉空ヨリになろうとしても、最初はどうすればよいのかわからなかった。ろくに人との交流をとってきていなかった私が、理想の人物になるためにはどうすればいいのか。
そうだ、穂乃花になろう。誰にでも朗らかで優しくて、本来ならまだ生きていないといけなかった穂乃花に。
穂乃花ならどんなふうに話すのだろうか。穂乃花ならどんな対応をするのだろうか。
顔はきれいになり、ダイエットも成功した。今の私なら穂乃花にになることができる……!
小説はヒットを連発した。一度当てれば、様々な出版社が私に声をかけてくれて、仕事は尽きない。穂乃花への贖罪と追悼は次々と売られていき、私自身にもスポットがあたるようになった。
最初は純粋に嬉しかった。穂乃花への想いが認められた気がして。穂乃花も少し許してくれる気がして。
それにこんなになにかの中心に自分がいることができるのは初めてだった。いつもクラスの隅にいて、穂乃花の隣しか居場所がなかった小田切明日葉。
誰もが私の才能を褒め、性格を褒め、見た目を褒めてくれた。穂乃花ならどうするだろうと考えれば、言動は正解に繋がった。
嬉しかったのは最初の半年間だけで、虚しかった。どうしようもなく虚しかった。
あなたたちが救われたという話は、私が救えなかった女の子の話なのに。
あなたたちがきれいだと言ってくれる葉空ヨリはまがいものだ。
あなたたちが優しいと褒めてくれた言動は、すべて穂乃花のものだ。
――葉空ヨリの中に小田切明日葉はいない。
葉空ヨリを作るのは、穂乃花で。そこに小田切明日葉はいなかった。
ファンレターを読むたびに、責められている気がした。私を見透かされている気がした。そんなときはSNSで葉空ヨリを検索して、批判を見ては許された気持ちになって安心した。
本当の私は浅くて、なにもなくて、作り物で、穂乃花という存在が私をプラスにしてくれているだけだ。
穂乃花はもういないのに、もう会えないのに。私はまだ穂乃花に怯えていた。
ファンレターを読むたびに吐いた。あなたたちの希望は偽物だよ。それは穂乃花の幻影だよ、と。
誰かに偽物だと気づいてい欲しいのに、偽物だと気づかれることが恐ろしかった。
槇原羽菜は私のファンを濃縮したような人間だった。
須田出版の編集担当が槇原羽菜になってから、吐く頻度は急速に増えた。
須田出版はどこよりも付き合いが深い。槇原の前任の塚原は仕事は出来るが、ドライなところがあり私自身に対してあまり興味はなさそうだった。作品のことも込められたメッセージよりも、売れるか・売れないかで判断してくれるさっぱりした部分がちょうどよかった。
槇原は業務以外にも気軽にメッセージを送ってくる。私を絶賛する声がみつければ、いてもたってもいられないらしい。
作品を愛し、大切にし、嬉しいことは逐一報告してくれる。他社の作品もすべて読み、私の作品すべてを愛する。それはきっと作家にとっていい編集者なのだろう。
だけど彼女が見ているのは〝葉空ヨリ〟で小田切明日葉ではない。
編集者にとってはそれは当たり前で、私の人間性を見てほしいなどなんて幼稚な考え方なのか。頭では理解していても、突然書けなくなった。
私の中にある文字までも全部偽物に思えて気味が悪かった。
なんとか書き上げた小説は、まがいものの小説は、たくさん刷られて、飛ぶように売れていく。
「すみません」
ラジオ局の廊下で男性とぶつかって目線が絡む。廊下には私たち以外の姿はなく、彼とは通り過ぎるだけのはずだった。
だけど、私の足は止まってしまった。そこにいたのは秋吉だったから。十五年前に憧れていた初恋の人。そして穂乃花を殺した一人。
なぜここに秋吉がいるのだろう? ラジオ局で勤めているのだろうか。訝し気に彼を見てしまったのかもしれない。私の視線に気づいた秋吉は笑みを浮かべた。
「そうか。レギュラーラジオ、この局でしたね。僕は今日はゲストで」
まるで旧知の友人かのように話しかけてきてどきりとする。彼は小田切明日葉を覚えていたのだろうか。学生時代はクールキャラが売りだったはずだが、ずいぶん親しみやすくなっていて、爽やかさは憎らしいほどに十八歳のままだった。
「あの、私たち――」
「あー、すみません! 葉空先生の小説を時々読んだり、テレビ番組で見かけてるんで友人の気分になっちゃって。僕、秋吉征直と言って舞台を中心に活動している俳優なんです。じっと見つめられちゃったから、つい話しかけてしまいました」
身体の中心が冷える。ああ、そうか。小田切明日葉など覚えているわけがなかった。
彼は自分がどう見られるかを知っている。女性がじっと自分を見つめれば、それは好意だと思ったのだろう。好意を向けてきたのが〝葉空ヨリ〟だった。それでこうして話しかけてきたわけだ。
「秋吉さんの舞台観劇しました。とても素敵だったので覚えていて……すみません、それで見とれてしまって」
すらすらと社交辞令が口から出てくる。秋吉の舞台など見たことなければ彼の存在も知らなかった。
「ほんとうですか! まさか葉空先生に見てもらえてるとは。どの舞台にきてくださったんですか」
「ええと、すみません、私タイトルをあまり覚えていられなくて。三ヵ月くらい前だと思うんですけど」
「じゃあ青の舞台かな?」
「ああ、それですそれです」
「うわー嬉しいな。よかったら今度舞台にいらっしゃいませんか。チケット、用意しますから」
秋吉は自然にスマホを取りだすと、人懐こい仕草で私に向かってスマホを差し出した。自分の好意が誰にも受け入れられると信じてやまない動作。
予想通りチケットは口実で、彼の目的は私との食事だった。一週間後には個室で二人きりで向かい合う。
「秋吉さんは今すごく注目されているんですね。私は最近のテレビには疎いんですけど、ご活躍は聞いています」
「実は深夜ドラマの主役も内定してて……このチャンスに乗りたいんだ」
二人で会った秋吉は、早速くだけた印象で笑いかけてくる。
私は彼の現在について調べていた。売れない俳優に見えたが、どうやら当たりの深夜ドラマに出たことで注目が上がっているらしい。メインではないが印象に残る役どころを担当していて注目を集めたらしい。まだまだ一般知名度は低いが、演技力がありビジュアルもよく下積みが長い舞台俳優。脇役から人気を固めて、重大な役を経てゴールデンの主役に踊り出す。よくある成功パターンが彼に訪れようとしている。
「葉空さんは愛知県なんだよね、F市に住んでたって何かの記事で読んだけど本当? 俺もF市出身で」
「ええ、そうなんですか! 私はF市に親戚が住んでいただけで、住んではないんです」
「俺たち同年代だから、どこかですれ違ってたかもしれないなあ」
同じクラスだったとまったく疑わない調子で秋吉は言った。顔や雰囲気は変わっても、声は変わっていない。だけど彼はきっと小田切明日葉の声を耳に入れたこともないだろう。
「愛知には帰ってる? 僕は全然帰ってなくて」
「私もあまり」
「だよなあ。一回こっちくると、帰る気にならない」
「置いてきた彼女とかいないんですか?」
「あんなとこにいる女なんて、ほんとしょうもないよ。……葉空さんのこと言ってるわけじゃないよ? あそこに住み続けてる地元のやつってこと」
秋吉は熱がこもった目でこちらを見た。
「でも同じ地元ってことで、葉空さんと縁が出来たのは嬉しいな。これ、約束してたチケット。この舞台の後、よかったら食事しよう」
秋吉が忘れ去った過去は、私にとっても忘れたい過去だ。
それなのに私は未だに過去を生きている。葉空ヨリのすべては芳賀穂乃花だから。
……秋吉は穂乃花のことなんて忘れて、生きている。
それだけが頭にこびりついたまま、私はふらふらと帰宅した。ファンレターを読んでもいないのに吐き気が止まらなかった。
秋吉の笑顔を思い出すと手が震えた。彼の目線を受けた服はすべて捨てた。
秋吉が憎い。それなのに秋吉に微笑まれたときに、十八歳の小田切明日葉が芽を出した。
穂乃花を殺した憎々しい相手。だけど、学生時代に一度も私に微笑んでくれなかった彼が、私に向かって微笑んだ。
秋吉が見ているのは、私じゃない。〝葉空ヨリ〟だ。
それなのに彼に微笑まれると、胸の奥のどこかがぎゅっと苦しくなる。
穂乃花を殺した一人なのに。誰よりも憎しい男なのに。一秒でも胸が動いた自分が憎くて、醜くて、汚かった。
穂乃花のためにある〝葉空ヨリ〟で、穂乃花を殺した男にほんのわずかでも心を動かされたことは、私の心を砕いた。
数週間後に届いたものは、暗くなった心をさらに濁らせた。
山吹出版から見本誌が届いていた。私がコラムを担当している雑誌で、巻頭の特集に憎々しい顔が見えたとき、呼吸が止まるかと思った。
なぜ、秋吉のあとに、榎川までもが顔を出す。
彼らのことはできるだけ考えないようにしていた。穂乃花を殺したのは私だと思い込ませて。
雑誌に目を戻すと、榎川のミンスタグラムのIDが記載されている。見ても、どうしようもないのに。私は自然とIDを打ち込んでいた。
十五年前につり上がっていた榎川の眉と目は、優しげだ。時代が変わり、メイクも流行りも変わった。時代が変わっても、その時代に合う垢抜け方をしている。
あのとき穂乃花と榎川は隣に並ぶと、羨ましいほどぴったりで、親友に見えたのに。穂乃花と乖離してしまった。
ナチュラルなメイクで穏やかな笑顔を携えた榎川は、十五年前からずいぶん変化している。握りしめた雑誌はぐしゃりとつぶれた。
……なぜこいつらは、順風満帆の生活を送っているのだろうか。
私は震える指でキーボードを叩いた。【愛知県 F市 忠村一郎】と打ち込むと、彼は当然のように今も市議会議員として爽やかな笑みを浮かべている。
【こどものためのF市をつくろう!】とスローガンを携えた彼の隣には、真面目そうな男がうつっていた。
どうやら彼は、忠村一郎の娘の婿であり彼の秘書をしているらしい。次回の市議会議員選挙に出ると噂だ。忠村の娘は、千尋しかいないはずだ。忠村一郎が孫と笑顔でピースをしている写真も見つかった。
私はSNSを開き思い当たるワードを打ち込んだ。今から自分がすることは、知らなくてもいいことだ。知ってしまえば、もう戻れないことがわかっている。けれど調べずにはいられなかった。
すぐに市古高校出身の同年代のSNSが見つかり、芋づる方式で簡単に涌田亜美は見つかった。
彼氏らしき人とツーショットでうつった写真で、涌田は左手をこちらに向け、薬指には指輪が光る。
【誕生日にプロポーズしてもらいました!】
涌田は四人の中ではあまりぱっとしない地味な女だったが、地味な女なりの最上級の幸せを手にするらしい。
……なぜ?
穂乃花の人生は、十八で止まってしまったのに。
なにごともなかったように、時は進んで幸せを掴もうとしているのだろうか。
いじめをした人間は不幸になって、這いつくばっていないといけないのに。
どうして、彼らは当たり前の幸せを掴むのだろうか。誰も一度も、穂乃花に線香もあげに来ない。お墓にも来ない。
彼らは十五年の中で、一度でも穂乃花のことを思い出し悔んだりしたのだろうか。
涌田の投稿を見ていて、手が止まる。
榎川と忠村と涌田が三人でうつっている写真だ。半年前で、どうやら忠村の誕生日らしくケーキを囲んで笑っている。
【市古いつめん♡ しんゆー歴十五年てすご!】
まるで穂乃花がいなかったみたいに。最初から三人だったみたいに。
彼らの人生史のなかから、穂乃花は消されただけだ。消しゴムで消せば少しは跡が残る。だけど穂乃花はまるでそれすら許されないみたいに、打った文字を簡単にデリートされたみたいに消えてしまった。――穂乃花は完全に消えてしまった。
どれだけ呆然としていたのだろう、インターホンが鳴った。
「須田出版からお荷物が届いています」
「ああ、はい、ありがとうございます。」
須田出版から段ボールが届いた。新刊が即重版し、そのぶんの見本誌を送ると槇原羽菜から連絡があり、品物記入欄にもそう書いてある。
予想通り、段ボールには見本誌が入っていた。見本誌を取り囲むように入っていたのは、大量の手紙――ファンレターだ。
脳裏に、あの日穂乃花の遺体を包んでいた大量の花が思い浮かんだ。
私は段ボールに倒れこむ。私の重みの衝撃でファンレターが何部か宙に浮き上がり、私にかぶさってくる。
埋もれたまま、窒息しそうだ。
許せなかった。秋吉も榎川も忠村も涌田も、そして自分自身も。
全員に復讐をする。小田切明日葉にも制裁が必要だ。
……そしてもう、葉空ヨリを終わらせたい。
穂乃花のために、穂乃花のような人をつくらないように、葉空ヨリはできた。
それは私のエゴで、思い上がりだった。
穂乃花のための小説は、一番救いたい人を救えない。穂乃花を救えない。穂乃花はもう帰ってこない。
どれだけ小説を出版しても、葉空ヨリを肥し名誉をあげるだけで、穂乃花はもう二度と戻ってこないのだから。
「葉空ヨリを殺したかったの」
私は彼女を見上げた。動揺している目がさらに見開かれる。
私を神様のように見るその瞳が大嫌いだった。私を知ったように語る口が大嫌いだった。
それなのに、なぜ大嫌いな彼女にすべてを明かしているのだろう。矛盾した行為に笑えてしまう。
私を信じてここまで来た愚かさを突きつけてやりたくなったのかもしれない。あなたの見ている私はこんなにも醜いと傷つけたかったのかもしれない。
何も知らなかっただけの彼女にこんな風に思う自分がまた嫌になる。
だけど、もういい。だって、もうすべてを終わらせるから。
ヨリ先生が話し終えるまで私は何も言えなかった。ただその場で立ち尽くしていた。
「私が、ヨリ先生を……葉空ヨリを壊してしまったんですね」
ヨリ先生を、小田切明日葉さんを追い詰めたのは――私だったんだ。
私はヨリ先生を守っていると思っていた。私だけがヨリ先生のことを心から心配して、彼女のことを守れていると。
だけど私が守っていたのは〝葉空ヨリ〟だけで、小田切明日葉を含んだヨリ先生自身ではなかった……! 私は葉空ヨリが生きていて、小説を書いている人間だということをきちんと知っていたのだろうか。
ヨリ先生のことを〝葉空ヨリ〟という商品だと思っていたのは、編集長たちだけでない。
……私だ。
私の呟きは、目の前の彼女に届いたはずだが、頷くことも顔を振ることもなかった。
それは私を気遣ってくれたからではない。きっとここで肯定してしまったら、彼女のなかの何かが崩れる。
山道には静かな夜が降りてきて、私たちは月明りの下でお互いの顔しか見えなかった。喪服のような黒いワンピースを着た彼女は闇の中にこのまま溶けてしまいそうだ。
「ヨリ先生……。このあと、どうするつもりだったんですか」
彼女は答えなかった。顔を少し上げて、墓地の方を見やる。
「もしかして。葉空ヨリを終わらせて、芳賀さんに会って……小田切明日葉も終わらせようとしていました?」
「…………」
ヨリ先生は、ぼんやりと虚空を見つめたままだ。
「私が言う資格はないかもしれませんが、ヨリ先生に生きていて欲しいです」
「……あなたが生きていて欲しいのは、葉空ヨリでしょ」
ヨリ先生の黒い瞳が、私を捉える。
「芳賀さんにお願いして、葉空ヨリのことを公表すればいいと思うよ。十五年間、葉空ヨリ……小田切明日葉は苦しんでいた。ずっと芳賀さんに印税を送っていて、芳賀親子は明日葉を恨んだことがない。四人を道連れにして、小田切明日葉は死んだ。そうしたら世間は手のひらを返すよ。葉空ヨリは親友のために物語を綴っていたが、罪に耐えきれなくなった悲劇の小説家。どう、よくできた物語でしょ。そうしたら――あなたの〝葉空ヨリ〟は守れる。世間の葉空ヨリファンのことも守れる。葉空ヨリの作品はきれいなままで、不朽の名作になる。色褪せずに誰かの宝物になる。あなたの理想だよ」
ヨリ先生は薄い笑みを携えながら、早口で一気にまくしたてた。
私は何も言えなかった。それは実際頭によぎった考えだったからだ。私は小田切明日葉ではなく葉空ヨリを愛している。葉空ヨリを守るには、小田切明日葉を切り捨てることだってできる。
小田切明日葉を殺すことで、葉空ヨリは永遠になる。
……だけど、それでよいのだろうか。
私はただのファンではない。ヨリ先生の編集者だ。私と半年間一緒にいてくれたのは、商品としての〝葉空ヨリ〟ではない。生身の彼女だ。
ヨリ先生に甘えて、勝手に理想を押し付けて、夢を見ていた自分が恥ずかしくなり腕をさする。ぞわぞわと虫が這うような感覚が襲ってくる。
「……でも、私はヨリ先生に……あなたに生きていてほしいです」
「実際の私を知ったら、あなたの理想は壊れたでしょ」
ヨリ先生は楽し気な笑みを浮かべた。それは私への明確な怒りだ。
「正直、ショックでした。私はヨリ先生のこと神様だと思ってました。一点の曇りもなくて、美しい人だと」
「でしょうね」
「だから、秋吉に憧れてた、とか、芳賀さんに嫉妬してた、とか、整形してた、とかそういうのも本当は全部嫌です」
目の前にいる彼女は丸裸だ。取り繕った言葉は全てバレる。私も丸裸のまま明け渡す、それがどう作用するかはもうわからない。だけどここでまっすぐにぶつからないと、言葉はなにひとつ通らない。
「でも、それでも私は嫌いになれません。作品のことだけじゃありません、あなたと仕事をしてきて嫌な思いをしたことは一度もありません」
「それだって偽物だよ。穂乃花をコピーしているだけ。本当の私なんて、ファンレターを読むと吐くし、あなたの瞳が大嫌いだし、裏でいろいろ考えてるし、秋吉みたいなクズにときめいたりもする。」
「そんなのみんなそうです。私は確かにヨリ先生を神様だとか聖人だと思って接してしまいました。でも……」
私はヨリ先生を見下ろした。すっかり痩せてしまってカッチリとしたワンピースは肩が落ちてしまっている。
吐しゃ物の中に座り込んでいて、いつものいい香りだってしない。汗と涙でベタベタになった顔は険しい。
「ガッカリしました。でも、それとこれは別です」
「適当に言わないで。私が小田切明日葉のままだったら? 暗くて、ブスで、何もしゃべれない人間だったら、私のことなんて見向きもしないよ、誰も……!」
「たらればの話をしてもどうしようもなくないですか!? 今目の前にいるヨリ先生がヨリ先生なんじゃないですか」
「これは全部穂乃花のコピーだから」
「でも、ヨリ先生が、きれいなだけだったら、あのお話は書けません!」
私は膝をついた。ヨリ先生と目が合う。
私を睨む目は怒りではなく不安に揺れていた。目の前のヨリ先生は驚くほど小さかった。
「ヨリ先生のお話は美しいです。救ってくれる光です。それは小田切明日葉さんだから書けたんです」
「わかったようなことを言わないでよ! ……あれは穂乃花のために書いた話。光を感じたならそれはすべて穂乃花だよ」
「あなたがどう思ってお話を書いたか、それはわかりません! でも……私はヨリ先生の大ファンだからこそ言わせてください!」
私が叫ぶと、ヨリ先生の肩がぴくりと動く。
「ヨリ先生の話は美しいだけじゃないんです……! 私が惹かれるのは、光の部分だけではありません。光に向かうまでの、闇です」
「はあ?」
ヨリ先生の口元がひきつる。
「私が救われたのは、ヨリ先生の描く、現実のどうしようもない苦しみや、心の中の醜さです。それが小田切明日葉さんなのだというのなら、それこそが私が救われたものなんです」
語尾が涙に変わって、瞳からぽろぽろと零れ落ちてくる。
「私はいじめられている自分を責めていました。醜い私はいじめられるのは仕方ない、集団に馴染めない自分が私が悪いんだって。あのときの私は純粋な光には反発していました。こんなきれいごとなんて、ありえないって……!」
目を閉じれば、青い表紙の小説が浮かんでくる。私の闇をゆっくり、私のペースで照らしてくれた、あのお話を。
「暗さや醜さに救われることもあります。全部が全部、美しいのはしんどいんです」
私を救ったのは光ではない。自分と同化する穏やかな闇だ。
「……地味で暗い感情だとヨリ先生が思っているものに、救われてます。それに先生が思うほど、読者は先生の小説を美しいだけと思っていません!」
「…………」
「あの暗さこそ、葉空ヨリの魅力でもあるんです……! こんな私でもいいんだ。これからも私のままでいいかもしれない……と思えたんです! ……葉空ヨリは、芳賀穂乃花さんだけではないですよ。先生にとって、芳賀さんは光そのものなんでしょう」
ヨリ先生は何も反応しなかった。ただ私の瞳を窺うようにじっと見ている。
「ヨリ先生にとってすべて穂乃花さんのために作ったものかもしれません。それを聞いたらそりゃ悲しいですよ。だって、私はあの時、命を救われたときに『この小説は私のために書かれたものだ!』と思ったんですから。きっとどの読者もそうですよ。作家の気持ちは読者はわかりません! ヨリ先生にとっては芳賀さんへの贖罪かもしれません。読者の希望が負担になるかもしれません!
……でも私たちに伝わったものがあります。それは偽物ではないです。だって、それは私たちにとって本当の感情だから。それはヨリ先生にも否定できません!」
「……そういうのが嫌なの。私はあなたの命なんて救ってない!」
「でも、十七歳の私の命を救ってくれたのがヨリ先生なのは事実です!」
ヨリ先生がまた口元を手で抑えて、嗚咽が聞こえた。負担になる言葉だったかもしれない。全部エゴで思い上がった行動かもしれない。それでも伝えないと伝わらない。身体が震える。私の言葉がヨリ先生のなにかを断ち切ってしまうかもしれない。
「私があなたを救ったんじゃない……! そうやって葉空ヨリの作品と私を混同しないでよ……!」
「それはヨリ先生も同じじゃないですか!」
「え……?」
「塚原さんが言ってました。殺人を描く作者は殺人者なのか、と。きれいな小説を書く人間は、きれいじゃないといけないんですか……?」
彼女は目をそらすとうつむいた。
「……私は穂乃花を殺してしまった」
ぽつりと懺悔が漏れる。
「いじめをしたのはヨリ先生じゃ、」
「同じだよ。助けられなかった! 一緒にいることができなかった! 穂乃花がいじめられていることに安心までしてしまった。これで気兼ねなく穂乃花と一緒にいられるって! ざまぁみろって気持ちもあったかもしれない。十八年間幸せでいつづけた穂乃花は少しいじめられるくらいがちょうどいいかもって! これのどこが、殺してないの! 私が、殺した……!」
ヨリ先生の声は、裏声で涙に濡れていて、とても聞いていられないほど苦痛に満ちていた。叫んでいないのに悲鳴のようだ。
「私は自分が許せない。穂乃花を殺して、その贖罪で小説を書いたのに! 小説は売れて、絶賛されて、人の死で金儲けをして……! どうして、穂乃花がいないのに、なんで、私が……私が、生きて……」
声にならない言葉は、嗚咽に変わる。ヨリ先生の瞳から後悔の涙が次々と溢れ、私は声をかけることができない。
ヨリ先生はそうしてずっと自分を責めて続けていたのだ。十五年間、誰も小田切明日葉を責めていないのに、一人責め続けていた。
小説を書くたびに、ヨリ先生の魂は削れてしまったのかもしれない。過去の苦しみを書くというのは、過去の自分を救いながら、過去の傷口を何度も開いている。
小説のなかで、芳賀さんの苦しみを再現して、救って。そのたびに救えなかった過去を悔やみ続けた。
目の前でうなだれながら、ヨリ先生は声を出して泣いている。その姿は美しいとはもう思えなかった。ヨリ先生は小さかった。小さくて、震える、ただの人間だ。
「……ヨリ先生は、悪くない。とは言えません。私は自分がいじめられているとき、見ているだけの人間も全員地獄に落ちろって思ってました」
私が言わなくても、ヨリ先生もわかっている。
ヨリ先生自身もひどいイジメをうけていたのだから。彼女自身も傍観者の罪を知っている。
「罪は罪だと思います。でもヨリ先生の過去の罪と、今だれかを救うお話を書いているのは別です」
言葉にしたけれど、それもきっとヨリ先生だって何度と繰り返してきたことなのだろう。
「誰かを救うことに罪悪感を覚えなくてもいいと私は思います」
ヨリ先生は小さく首を振った。
「でも……誰かを救っても、穂乃花は……もう帰ってこない……」
小さい小さい声が漏れた。彼女の苦しみはきっと溶け切らない。
書いて、書き続けても、清算されない苦しみがここにある。
「葉空ヨリ、終わらせましょうか」
涙のたまった瞳が私を見た。
私は〝葉空ヨリ〟を絶対に終わらせたくなかった。守られるなら、何がなんでも守りたかった。……小田切明日葉を殺すことになっても。
「まきちゃんが、それを言うの」
「ですよね。私は別名義だって正反対でしたよ。それでも私はヨリ先生に……目の前のあなたに生きていて欲しいです」
「…………」
「今の葉空ヨリを捨てても、いつでも帰ってきてもいいです。ここであなたが終わらせても、私が葉空ヨリ先生の担当者として〝葉空ヨリ〟を殺しません」
「芳賀さんに協力してもらって? 私の罪を晴らすの? その結果、私を苦しめたとしても?」
「私は編集者ですから。自分の仕事をします。葉空ヨリは何がなんでも残します。それはあなたのファンのためですし、出版社のためです。だけど、あなたは〝葉空ヨリ〟に戻ってこなくてもいいです」
ヨリ先生が瞬きをすると、いくつもの涙がこぼれた。
「あなた、私の担当を外されたんじゃないの」
「はい。次ヨリ先生に接触したら解雇だとと言われています」
「でしょうね。本当に嫌になる。あなたのまっすぐなところが嫌い。こんなところまで来てばかじゃないの。私なんかのために、大手の出版社クビになったらどうするの。もうほんと、いやになる」
ヨリ先生が目を閉じて、ため息をつく。涙はようやくとまったが、喉はまだひくひくと動いている。
ヨリ先生は立ち上がると、スカートの汚れをはらった。べったりとした吐しゃ物はまったく落ちなかった。
「言いたいことはそれだけ? 私はあなたと心中するつもりはないわよ」
「最後にひとつだけ言わせてください。ヨリ先生は、今の自分を芳賀さんのコピーっておっしゃいましたけど、私はそうは思いません。それは真似じゃなくて、芳賀さんが根付いている、ということではないでしょうか」
「……え?」
「ヨリ先生が、完璧に美しい人になろうと思って、芳賀さんのことを真似したのは……それが素敵なことだと知っていたからですよね。私は実際にヨリ先生の言動を嬉しく思っていましたし、すごいと思ってました」
「そうよ。穂乃花はすごく心がきれいだったから」
「ヨリ先生がされて嬉しかったことを他人にもしよう、と思うのは、ヨリ先生自身の優しさです」
「…………きれいごとすぎるね」
「すみません」
ヨリ先生は手で涙を拭くと、自分の身体を確認して「これじゃあタクシーには乗れないな」と呟いた。その一言に身体の力が抜ける。
「なにかを敷けば、大丈夫じゃないですか?」
「ううん、いいよ。一人で歩いて帰りたい気分だから」
「……気を付けて帰ってくださいね」
ヨリ先生は、道を下り始めた。いつものように背筋をしゃんと伸ばしておらず、どこか頼りない印象はあるが、足取りはふらついてはいない。
五歩ほど進んで、ヨリ先生はこちらを振り向いた。
「まきちゃん。……私が理想の光を描き続けたら、そこに穂乃花はいるのかな」
ヨリ先生はもう一度私を見た。彼女の瞳に宿る光の中には芳賀さんが見えているのかもしれない。
「……それは読者はわからないことですから」
「そうだよね、それじゃ」
ヨリ先生は手をあげると、暗い坂道を下っていく。
私はそれを見送ることしかできない。もうヨリ先生は振り返らない。
今度こそ、ヨリ先生を、目の前にいる彼女を信じよう。私はヨリ先生を信じ続けることしかできない。
あれから半年が過ぎた。
私は第三編集部から、塚原さんのいるコミック編集部に異動になった。
「まきちゃんの手綱を握れるのは俺しかいないって判断らしいよ」
「大丈夫ですよ。ヨリ先生以外のことでしたら、私は真面目でまともな編集者ですよ」
「すごい説得力あるな」
塚原さんが指導してくれるかいもあり、新しい場所で慌ただしい毎日を過ごしている。
今日も塚原さんと一緒にランチをしていると、隣の席に座っている女子高校生が青い表紙の小説を読んでいる。
それはあの日、私を救ってくれたヨリ先生の小説だ。
高校生は私たちと入れ違いに、席をたって去っていった。
「今の子、ヨリ先生の話読んでたね」
「はい。私、あのお話が特別に好きなんです」
「……葉空ヨリが守れて良かったよなあ」
塚原さんは女子高生が座っていた席を眺めながらしみじみと呟いた。
「はい、本当に」
〝葉空ヨリ〟は生き返った。今もヨリ先生の小説たちは不朽の名作として、愛され続けている。
「まさかあのとき、芳賀さんのお母さんが助けてくれるとはね」
芳賀さんは約束通り、小田切明日葉さんについてメディアで語った。
謹慎期間はメディアとの調整作業に忙しかった。問い合わせフォームから送ったメールは無視されるかと思ったが、関心の高いニュースだったこともあり、すぐにメディアは食いついた。
その結果、うさんくさい週刊誌などではなく、全国区の朝の情報番組に芳賀さんが生出演することができた。こればかりは自分の手腕を自慢したいところだ。
芳賀さんは涙ながらに、二人の関係、葉空ヨリが十一年間ずっと苦しみながら穂乃花のために書いてくれていたこと、印税を送り続け穂乃花のかわりに親孝行をしてくれていること、穂乃花も私も小田切明日葉を恨んでいないと語った。
あの小説は、小田切明日葉を陥れたい誰かの仕業であり、遺族はまったく恨んでいないと言いきったのだ。
世間の声は賛否両論で、葉空ヨリを批判するひとはもちろんいた。親友でありながら助けることができなかったことも罪だ、親友の死で金儲けをしているなんて信じられない、という声で、それらは少なくない人数に支持された。
それでも大多数は葉空ヨリに同情し、葉空ヨリの評価はほとんど変わらない。葉空ヨリが人殺しだと話題にする声はなくなり、彼女の話題は落ち着いた。
〝葉空ヨリ〟は復活した。
刊行中止になったものは問題なく出版されることになり、映画化の話も戻ってきた。過去の作品のほとんどが重版された。葉空ヨリのファンの心も守られた。
「それなのにヨリ先生はどこにいっちゃったんだろうな」
塚原さんがナポリタンを口に運ぶ。
「はい……」
「ヨリ先生まじめだよなあ」
ヨリ先生は、すべて出版社で刊行予定のものを書き終えた状態ですぐに出版できる状態にしていたし、映画化も自分の許可なく行っていいと書類に残していた。すべての権利を芳賀さんに渡し、新作や重版したものの印税もすべて芳賀さんに入るように処理されていた。
そして、ヨリ先生――小田切明日葉さんは消えた。
ヨリ先生から各出版社にメールが届いた。【しばらくゆっくりさせてください】と。
それがいつまでを指すかははわからないから、皆連絡することもできずに新作の相談は出来ないままだ。「ヨリ先生もいろいろとあったから休ませてあげよう」と各出版社は判断したらしい。連絡を取った出版社もあったが、返事は来ていない。
葉空ヨリはもう復活しないかもしれない。
それでもヨリ先生はきっとどこかで生きてくれていると信じ続ける。芳賀さんが根付いている小田切明日葉を、彼女が簡単に殺すことはしないはずだ。
ランチを終え、オフィスに戻った私は業務に戻る。
刊行作業の傍ら、小説投稿サイトノベルタウンを巡回する。
私が今いるコミック編集部では、漫画家だけでなく原作者も探している。漫画の卵になる作家を探すのも私の仕事のひとつだ。
今は私が担当しているのは、男性向けの異世界ファンタジーで、そのジャンルのランキングをクリックして――。
しかし本質というのは変わらないらしい。私はいまでも編集者の特権を使って、ヨリ先生を贔屓してしまう。
異世界ファンタジーのジャンルをあらかた見終えた私は、今日は現代ファンタジーを探すことにした。それが終われば、現代ヒューマンドラマのタブをクリックする。
私は、ヨリ先生を探し続けている。
だって、私は葉空ヨリ先生の大ファンだから。
私ならきっとこの文章の海で、彼女を探し出すことができる。名前を変えても、文体を変えても。にじみ出る小田切明日葉の暗さを感じ取ることができる。
そしてヨリ先生も書くのをやめられないはずだ。
十一年苦しみながら、吐きながら、書き続けてきた。誰かを救うために、あの日の芳賀さんや自分自身を救うためのお話を。
各出版社は時が過ぎれば、葉空ヨリが戻ってくると信じている。
だけど一度〝葉空ヨリ〟を降りた彼女が、出版社に自分から再度話を持ち込むとは到底思えなかった。
葉空ヨリの中にいる、小田切明日葉は暗くて、自己肯定感が低くて、自分を持っていなくて、誰かに愛されたいと叫び続けている、小さくて弱い人間だ。
――そして、それは私もそうだ。
彼女が読者の心を暴いたぶん、彼女も自分自身を曝け出してくれていた。
認められたくて、誰かに求められたくて、あがいている。
それならば、私ができることは、彼女を探しだすことしかない。
彼女は誰かに見つけてもらうのを待っている。〝葉空ヨリ〟ではない自分自身を。
私があなたを見つける、絶対に。
画面をスクロールし続けていたマウスを持つ手が止まる。ひとつのタイトルにカーソルを合わせて、迷わずそれをクリックした。
――青春小説家の殺し方