ヨリ先生が話し終えるまで私は何も言えなかった。ただその場で立ち尽くしていた。

「私が、ヨリ先生を……葉空ヨリを壊してしまったんですね」
 
 ヨリ先生を、小田切明日葉さんを追い詰めたのは――私だったんだ。

 私はヨリ先生を守っていると思っていた。私だけがヨリ先生のことを心から心配して、彼女のことを守れていると。
 だけど私が守っていたのは〝葉空ヨリ〟だけで、小田切明日葉を含んだヨリ先生自身ではなかった……! 私は葉空ヨリが生きていて、小説を書いている人間だということをきちんと知っていたのだろうか。
 ヨリ先生のことを〝葉空ヨリ〟という商品だと思っていたのは、編集長たちだけでない。
 ……私だ。
 私の呟きは、目の前の彼女に届いたはずだが、頷くことも顔を振ることもなかった。
 それは私を気遣ってくれたからではない。きっとここで肯定してしまったら、彼女のなかの何かが崩れる。
 山道には静かな夜が降りてきて、私たちは月明りの下でお互いの顔しか見えなかった。喪服のような黒いワンピースを着た彼女は闇の中にこのまま溶けてしまいそうだ。
「ヨリ先生……。このあと、どうするつもりだったんですか」
 彼女は答えなかった。顔を少し上げて、墓地の方を見やる。
「もしかして。葉空ヨリを終わらせて、芳賀さんに会って……小田切明日葉も終わらせようとしていました?」
「…………」
 ヨリ先生は、ぼんやりと虚空を見つめたままだ。
「私が言う資格はないかもしれませんが、ヨリ先生に生きていて欲しいです」
「……あなたが生きていて欲しいのは、葉空ヨリでしょ」
 ヨリ先生の黒い瞳が、私を捉える。
「芳賀さんにお願いして、葉空ヨリのことを公表すればいいと思うよ。十五年間、葉空ヨリ……小田切明日葉は苦しんでいた。ずっと芳賀さんに印税を送っていて、芳賀親子は明日葉を恨んだことがない。四人を道連れにして、小田切明日葉は死んだ。そうしたら世間は手のひらを返すよ。葉空ヨリは親友のために物語を綴っていたが、罪に耐えきれなくなった悲劇の小説家。どう、よくできた物語でしょ。そうしたら――あなたの〝葉空ヨリ〟は守れる。世間の葉空ヨリファンのことも守れる。葉空ヨリの作品はきれいなままで、不朽の名作になる。色褪せずに誰かの宝物になる。あなたの理想だよ」
 ヨリ先生は薄い笑みを携えながら、早口で一気にまくしたてた。
 私は何も言えなかった。それは実際頭によぎった考えだったからだ。私は小田切明日葉ではなく葉空ヨリを愛している。葉空ヨリを守るには、小田切明日葉を切り捨てることだってできる。
 小田切明日葉を殺すことで、葉空ヨリは永遠になる。
 ……だけど、それでよいのだろうか。
 私はただのファンではない。ヨリ先生の編集者だ。私と半年間一緒にいてくれたのは、商品としての〝葉空ヨリ〟ではない。生身の彼女だ。
 ヨリ先生に甘えて、勝手に理想を押し付けて、夢を見ていた自分が恥ずかしくなり腕をさする。ぞわぞわと虫が這うような感覚が襲ってくる。
「……でも、私はヨリ先生に……あなたに生きていてほしいです」
「実際の私を知ったら、あなたの理想は壊れたでしょ」
 ヨリ先生は楽し気な笑みを浮かべた。それは私への明確な怒りだ。
「正直、ショックでした。私はヨリ先生のこと神様だと思ってました。一点の曇りもなくて、美しい人だと」
「でしょうね」
「だから、秋吉に憧れてた、とか、芳賀さんに嫉妬してた、とか、整形してた、とかそういうのも本当は全部嫌です」
 目の前にいる彼女は丸裸だ。取り繕った言葉は全てバレる。私も丸裸のまま明け渡す、それがどう作用するかはもうわからない。だけどここでまっすぐにぶつからないと、言葉はなにひとつ通らない。
「でも、それでも私は嫌いになれません。作品のことだけじゃありません、あなたと仕事をしてきて嫌な思いをしたことは一度もありません」
「それだって偽物だよ。穂乃花をコピーしているだけ。本当の私なんて、ファンレターを読むと吐くし、あなたの瞳が大嫌いだし、裏でいろいろ考えてるし、秋吉みたいなクズにときめいたりもする。」
「そんなのみんなそうです。私は確かにヨリ先生を神様だとか聖人だと思って接してしまいました。でも……」
 私はヨリ先生を見下ろした。すっかり痩せてしまってカッチリとしたワンピースは肩が落ちてしまっている。
 吐しゃ物の中に座り込んでいて、いつものいい香りだってしない。汗と涙でベタベタになった顔は険しい。
「ガッカリしました。でも、それとこれは別です」
「適当に言わないで。私が小田切明日葉のままだったら? 暗くて、ブスで、何もしゃべれない人間だったら、私のことなんて見向きもしないよ、誰も……!」
「たらればの話をしてもどうしようもなくないですか!? 今目の前にいるヨリ先生がヨリ先生なんじゃないですか」
「これは全部穂乃花のコピーだから」 
「でも、ヨリ先生が、きれいなだけだったら、あのお話は書けません!」
 私は膝をついた。ヨリ先生と目が合う。
 私を睨む目は怒りではなく不安に揺れていた。目の前のヨリ先生は驚くほど小さかった。
「ヨリ先生のお話は美しいです。救ってくれる光です。それは小田切明日葉さんだから書けたんです」
「わかったようなことを言わないでよ! ……あれは穂乃花のために書いた話。光を感じたならそれはすべて穂乃花だよ」
「あなたがどう思ってお話を書いたか、それはわかりません! でも……私はヨリ先生の大ファンだからこそ言わせてください!」
 私が叫ぶと、ヨリ先生の肩がぴくりと動く。
「ヨリ先生の話は美しいだけじゃないんです……! 私が惹かれるのは、光の部分だけではありません。光に向かうまでの、闇です」
「はあ?」
 ヨリ先生の口元がひきつる。
「私が救われたのは、ヨリ先生の描く、現実のどうしようもない苦しみや、心の中の醜さです。それが小田切明日葉さんなのだというのなら、それこそが私が救われたものなんです」
 語尾が涙に変わって、瞳からぽろぽろと零れ落ちてくる。
「私はいじめられている自分を責めていました。醜い私はいじめられるのは仕方ない、集団に馴染めない自分が私が悪いんだって。あのときの私は純粋な光には反発していました。こんなきれいごとなんて、ありえないって……!」
 目を閉じれば、青い表紙の小説が浮かんでくる。私の闇をゆっくり、私のペースで照らしてくれた、あのお話を。
「暗さや醜さに救われることもあります。全部が全部、美しいのはしんどいんです」
 私を救ったのは光ではない。自分と同化する穏やかな闇だ。
「……地味で暗い感情だとヨリ先生が思っているものに、救われてます。それに先生が思うほど、読者は先生の小説を美しいだけと思っていません!」
「…………」
「あの暗さこそ、葉空ヨリの魅力でもあるんです……! こんな私でもいいんだ。これからも私のままでいいかもしれない……と思えたんです! ……葉空ヨリは、芳賀穂乃花さんだけではないですよ。先生にとって、芳賀さんは光そのものなんでしょう」
 ヨリ先生は何も反応しなかった。ただ私の瞳を窺うようにじっと見ている。
「ヨリ先生にとってすべて穂乃花さんのために作ったものかもしれません。それを聞いたらそりゃ悲しいですよ。だって、私はあの時、命を救われたときに『この小説は私のために書かれたものだ!』と思ったんですから。きっとどの読者もそうですよ。作家の気持ちは読者はわかりません! ヨリ先生にとっては芳賀さんへの贖罪かもしれません。読者の希望が負担になるかもしれません! 
 ……でも私たちに伝わったものがあります。それは偽物ではないです。だって、それは私たちにとって本当の感情だから。それはヨリ先生にも否定できません!」
「……そういうのが嫌なの。私はあなたの命なんて救ってない!」
「でも、十七歳の私の命を救ってくれたのがヨリ先生なのは事実です!」
 ヨリ先生がまた口元を手で抑えて、嗚咽が聞こえた。負担になる言葉だったかもしれない。全部エゴで思い上がった行動かもしれない。それでも伝えないと伝わらない。身体が震える。私の言葉がヨリ先生のなにかを断ち切ってしまうかもしれない。
「私があなたを救ったんじゃない……! そうやって葉空ヨリの作品と私を混同しないでよ……!」
「それはヨリ先生も同じじゃないですか!」
「え……?」
「塚原さんが言ってました。殺人を描く作者は殺人者なのか、と。きれいな小説を書く人間は、きれいじゃないといけないんですか……?」
 彼女は目をそらすとうつむいた。
「……私は穂乃花を殺してしまった」
 ぽつりと懺悔が漏れる。
「いじめをしたのはヨリ先生じゃ、」
「同じだよ。助けられなかった! 一緒にいることができなかった! 穂乃花がいじめられていることに安心までしてしまった。これで気兼ねなく穂乃花と一緒にいられるって! ざまぁみろって気持ちもあったかもしれない。十八年間幸せでいつづけた穂乃花は少しいじめられるくらいがちょうどいいかもって! これのどこが、殺してないの! 私が、殺した……!」
 ヨリ先生の声は、裏声で涙に濡れていて、とても聞いていられないほど苦痛に満ちていた。叫んでいないのに悲鳴のようだ。
「私は自分が許せない。穂乃花を殺して、その贖罪で小説を書いたのに! 小説は売れて、絶賛されて、人の死で金儲けをして……! どうして、穂乃花がいないのに、なんで、私が……私が、生きて……」
 声にならない言葉は、嗚咽に変わる。ヨリ先生の瞳から後悔の涙が次々と溢れ、私は声をかけることができない。
 ヨリ先生はそうしてずっと自分を責めて続けていたのだ。十五年間、誰も小田切明日葉を責めていないのに、一人責め続けていた。
 小説を書くたびに、ヨリ先生の魂は削れてしまったのかもしれない。過去の苦しみを書くというのは、過去の自分を救いながら、過去の傷口を何度も開いている。
 小説のなかで、芳賀さんの苦しみを再現して、救って。そのたびに救えなかった過去を悔やみ続けた。
 目の前でうなだれながら、ヨリ先生は声を出して泣いている。その姿は美しいとはもう思えなかった。ヨリ先生は小さかった。小さくて、震える、ただの人間だ。
「……ヨリ先生は、悪くない。とは言えません。私は自分がいじめられているとき、見ているだけの人間も全員地獄に落ちろって思ってました」
 私が言わなくても、ヨリ先生もわかっている。
 ヨリ先生自身もひどいイジメをうけていたのだから。彼女自身も傍観者の罪を知っている。
「罪は罪だと思います。でもヨリ先生の過去の罪と、今だれかを救うお話を書いているのは別です」
 言葉にしたけれど、それもきっとヨリ先生だって何度と繰り返してきたことなのだろう。
「誰かを救うことに罪悪感を覚えなくてもいいと私は思います」
 ヨリ先生は小さく首を振った。
「でも……誰かを救っても、穂乃花は……もう帰ってこない……」
 小さい小さい声が漏れた。彼女の苦しみはきっと溶け切らない。
 書いて、書き続けても、清算されない苦しみがここにある。
「葉空ヨリ、終わらせましょうか」
 涙のたまった瞳が私を見た。
 私は〝葉空ヨリ〟を絶対に終わらせたくなかった。守られるなら、何がなんでも守りたかった。……小田切明日葉を殺すことになっても。
「まきちゃんが、それを言うの」
「ですよね。私は別名義だって正反対でしたよ。それでも私はヨリ先生に……目の前のあなたに生きていて欲しいです」
「…………」
「今の葉空ヨリを捨てても、いつでも帰ってきてもいいです。ここであなたが終わらせても、私が葉空ヨリ先生の担当者として〝葉空ヨリ〟を殺しません」
「芳賀さんに協力してもらって? 私の罪を晴らすの? その結果、私を苦しめたとしても?」
「私は編集者ですから。自分の仕事をします。葉空ヨリは何がなんでも残します。それはあなたのファンのためですし、出版社のためです。だけど、あなたは〝葉空ヨリ〟に戻ってこなくてもいいです」
 ヨリ先生が瞬きをすると、いくつもの涙がこぼれた。
「あなた、私の担当を外されたんじゃないの」
「はい。次ヨリ先生に接触したら解雇だとと言われています」
「でしょうね。本当に嫌になる。あなたのまっすぐなところが嫌い。こんなところまで来てばかじゃないの。私なんかのために、大手の出版社クビになったらどうするの。もうほんと、いやになる」
 ヨリ先生が目を閉じて、ため息をつく。涙はようやくとまったが、喉はまだひくひくと動いている。
 ヨリ先生は立ち上がると、スカートの汚れをはらった。べったりとした吐しゃ物はまったく落ちなかった。
「言いたいことはそれだけ? 私はあなたと心中するつもりはないわよ」 
「最後にひとつだけ言わせてください。ヨリ先生は、今の自分を芳賀さんのコピーっておっしゃいましたけど、私はそうは思いません。それは真似じゃなくて、芳賀さんが根付いている、ということではないでしょうか」
「……え?」
「ヨリ先生が、完璧に美しい人になろうと思って、芳賀さんのことを真似したのは……それが素敵なことだと知っていたからですよね。私は実際にヨリ先生の言動を嬉しく思っていましたし、すごいと思ってました」
「そうよ。穂乃花はすごく心がきれいだったから」
「ヨリ先生がされて嬉しかったことを他人にもしよう、と思うのは、ヨリ先生自身の優しさです」
「…………きれいごとすぎるね」
「すみません」
 ヨリ先生は手で涙を拭くと、自分の身体を確認して「これじゃあタクシーには乗れないな」と呟いた。その一言に身体の力が抜ける。
「なにかを敷けば、大丈夫じゃないですか?」
「ううん、いいよ。一人で歩いて帰りたい気分だから」
「……気を付けて帰ってくださいね」
 ヨリ先生は、道を下り始めた。いつものように背筋をしゃんと伸ばしておらず、どこか頼りない印象はあるが、足取りはふらついてはいない。
 五歩ほど進んで、ヨリ先生はこちらを振り向いた。
「まきちゃん。……私が理想の光を描き続けたら、そこに穂乃花はいるのかな」
 ヨリ先生はもう一度私を見た。彼女の瞳に宿る光の中には芳賀さんが見えているのかもしれない。 
「……それは読者はわからないことですから」
「そうだよね、それじゃ」
 ヨリ先生は手をあげると、暗い坂道を下っていく。
 私はそれを見送ることしかできない。もうヨリ先生は振り返らない。
 今度こそ、ヨリ先生を、目の前にいる彼女を信じよう。私はヨリ先生を信じ続けることしかできない。