青春小説家の殺し方


 葉空ヨリに殺されたと主張する少女Y。彼女の過去には、俳優の秋吉征直とインフルエンサーのさゆぐらし、そして地元の有力者も関わっていた――!
 彼女の死に関わる三年二組の闇を暴いていく……!

 今もっとも世間を賑わせている小説がある。小説の名前は【青春小説家H.Yに殺されました】
 大手小説投稿サイト・ノベラブルで三話まで公開されている。
 驚くべきことに、その小説の作者は十五年前に自殺した少女だった。
 作者のYさんは、大人気作家・葉空ヨリに殺されたと主張している。
 同時期にYさんが在籍していたとされる三年二組の卒業アルバムが公開された。Yさんを除く二十九人の中のだれが葉空ヨリなのか、と大きな話題を呼んでいる。
 さらにこの三年二組には他にも有名人が二人いたのだから驚きだ。
 来期から深夜ドラマの主演も決まっている秋吉征直と、ミンスタグラムでフォロワー三十万人超えのさゆぐらし。
 彼らはYさんの死に大きく関係しているらしく【青春小説家H.Yに殺されました】の第三話でMくん、Sさんとして登場している。
 
 すでに亡くなっている少女の書く小説は、復讐なのだろうか……!?
 彼女の告発が事実なのか探るために、週刊文秋は小説の作家であるYさんの地元に向かった。

 閑静な住宅街の外れにその高校はあった。十五年前にYさんが在籍していた三年二組の面々はそこで青春を送ったのだ。
 我々は同じ三年二組だった数名にインタビューをすることができた。
 まずはDさん(仮名)に話を聞いた。Dさんは開口一番「いじめは事実です」と重い口を開いた。
 
「小説にも書いてあった通り、Yさんは四人組でした。話題になっているSさんと、それからCさん、Aさんと仲が良くて。Aさんは二年の時から仲が良かったんじゃないかな。
 私は全然親しくなかったですよ、その四人組はちょっと怖かったんです。今もこういう言葉ってあるのかな? いわゆる一軍ってやつです。
 とにかく目立つんです、四人とも。四人の言動でクラスの雰囲気も変わりますから、私みたいな三軍は常に様子を伺っているんです。
 だから、あれおかしいな。ってすぐに気づきました。Yさんがハブられてるんだって。YさんもYさんで、今まで私たちとなんてろくに喋ったこともなかったのに、私たちにすり寄ってくるんですよね。でも他の三人の目があるから、私たちもYさんとは関われるわけがないですし。
 いじめはよくある一般的な内容ですよ。無視や影口から始まって……ある日Yさんがずぶ濡れになって授業を受けていたときもありました。暴力的なものもあったんじゃないかなあ」

 Dさんは生々しく当時の様子を語ってくれた。今回の騒動はDさんも迷惑しているという。

「私たち三軍にとって一軍の諍いなんてまったく関係のない話ですよ。でも今回は三年二組全員の写真が晒されたじゃないですか。私なんてYさんとほとんど喋ったことないってくらいの関係性なのに容疑者の一人にされているんです。
 私はまだ地元に住んでいますから、話題になってるねって声をかけられます。もちろんいい意味ではないですよ。
 あなたがYさんを殺したんじゃないの?って。そんなわけないのに、嫌な目を向けられてすごく迷惑しているんです。否定しても同じクラスだったんなら同罪だよねって。
 最近会っていない知人には、実は葉空ヨリなんじゃないかって疑いまで向けられましたんですよ。いじめをした人物は少数なのに、三年二組全員が巻き込まれてしまって困っています。早くこの騒動は終わってほしいです」

 Dさんもフルネームと写真を世間に晒されている。彼女にも疑いがかかり、生活が送りづらくなったそうだ。
 Dさんは葉空ヨリが誰なのか早く明らかになって、自分の生活が落ち着いて欲しいと語った。
 次に話を聞いたGさんは、Mくんについて証言をした。

「諸悪の根源はMくんですよ。MくんはYさんからSさんに乗り換えただけではありません。Sさんたちのいじめに加担していました。
 それから夏休み明けに、Yさんが下級生の男にまとわりつかれていたのを今でも覚えています。Mくんは自分の後輩たちに命令して、Yさんに彼らを仕向けたそうです。
 見ていない場所でひどいことをされてないといいんですけど……あまり考えたくないですね」

 Gさんは口をつぐみ、それ以上はなにも発してくれなかった。一体Yさんはどんなひどい目にあったのだろうか。
 最後に話を聞いたBさんはこの騒動を少し面白く見ているらしい。

「今回の告発は正直よくやった、と思いましたよ。僕はYさんに好感を持っていたんです。可愛くて明るくてクラスの人気者でしたから。他の三人なら睨んでくるようなことも、Yさんは優しく接してくれました。
 YさんはMくんの彼女でしたから、僕が恋心を持つことは許されなかったですけど。
 だからYさんが死んだとき、本当につらかったんです。
 いじめは間違いなくありましたよ。それなのに、まったくといいほど話題にならなかったんです。
 学校側がいじめを認めなかったですし……Yさんの親御さんは抗議したでしょうね。だけどその抗議が受け入れられるわけないんです」

 Bさんは表情を暗くして、いじめが隠蔽された事実についても語ってくれた。

「MさんもSさんも最低ですが、僕はCさんが一番恐ろしいです。Cさんは、地元の市議会委議員の娘なんですよ。
 だからYさんの自殺を問題には出来なかったんです。自殺どころか、寝不足で線路に転落しただけの事故と片付けられたはずですよ。
 当時気になって調べたので、よく覚えています。もちろん僕なんかが声をあげても潰されるだけです」

 Bさんは、葉空ヨリの正体がCさんではないとも教えてくれた。
 Cさんの父は地元の市議会議員で、Cさんは地元から出ていない。加えてC家に入った婿の選挙が間近に迫っている。地元の人なら皆Cさん一家の顔を知っているのだから、葉空ヨリではないのだとか。
 
「Yさんのことを忘れて、皆幸せになってるなんて信じられないし、復讐したくなる気持ちもわかりますよ!
 それにしても、こんな田舎の公立から有名人が三人も出たなんて驚きました(笑)
 僕が知っていたのは葉空ヨリだけですけどね。
 Mは俳優としてこれからブレイクするところだったんですっけ? あの男の被害に遭う女性が減ってよかったと思います。インフルエンサーだって好感度がなければ終わりでしょうね。あのアカウント見ましたけど、過去の印象と真逆で笑ってしまいました。
 このタイミングで告発した誰かに、僕はエールを送りたいくらいです」

 亡くなったYさんが今、復讐をしたいと考えたのは当然と言えるのかもしれない。
 来期のドラマ主演が決まったばかりの秋吉征直。さゆぐらしは念願の書籍刊行を控えている。葉空ヨリが原作の映画は水面下でいくつも進んでいたのだと言うのだから。

 Yさんのことを忘れて、幸せになろうとする彼らへの復讐なのだろうか。
 
 しかし取材を続けても、わからなかったことが一つある。
 それは、葉空ヨリは誰なのか、ということ。
 話を聞いた三人も誰なのかわからないと口を揃えた。
 そして我々が思い出したのは、先日スクープした秋吉と葉空の口論現場でのこと。
 このとき秋吉は葉空に向かって「お前は誰なんだ」と叫んでいたのだ……!
 三年二組の誰も知らない、葉空ヨリの正体。
 
 葉空ヨリとは一体誰なのだろうか。引き続きその謎を追い求めていきたい。

 週刊文秋の記事により、当然のことながら秋吉と榎川は大炎上することになった。

【秋吉征直、鬼畜だった】
【二股かけたうえに、後輩に何させてたわけ?】
【さゆぐらし、ゆるふわ癒し系に見えて実はえぐいいじめしてたんだ……】
【F市の市議会議員って誰のこと?】
【F市在住です。忠村(ただむら)親子のことだと思います。忠村一郎の婿が秘書やってて、今回から出馬することになっていました】
【忠村親子で確定。三年二組に忠村千尋いる。忠村一郎の娘は千尋って名前。ソースは過去の地元の記事→http://】
【てか文秋なんて信じていいわけ? どれもインタビューなだけで証拠があるわけじゃないよね】

 最初のレビューから、ここまで広がることを誰が予想できただろうか。
 雑誌発売の翌日、秋吉から何度も着信が入っている。電話に出ないでいると何通もメッセージが届いた。
 『まだ芳賀穂乃花はわからないのか?』『葉空ヨリは誰なんだ?』『葉空ヨリは亜美じゃないか?』
 秋吉のいうことは私も気になるし、世間も同じだ。野次馬もヨリ先生の正体は気になっているはずだが、世間の関心は秋吉たちに集中している。
 誰なのか依然わからないままのヨリ先生よりも、既に顔も名前も判明している人たちを炎上させることにネットは忙しい。
 彼らはヨリ先生だから叩きたいわけではない、誰でもよかったのだ。その強い正義感はどこから湧いてくるのだろうか。
 芳賀穂乃花のことなど、誰も人生の中で一度も考えたことはないだろう。それなのにまるで自分の身内かのように、秋吉や榎川に怒っている。
 何が彼らを突き動かすのだろう。私はそれをぼんやり眺めながら静かな土曜日を過ごした。

【いじめ確定の証拠見つけた。十五年前の涌田(わくた)亜美のアカウント→ http://】

 正義感に支配された彼らは証拠を見つけてきた。 
 リンク先に飛んでみると、とあるSNSに繋がった。
 私には馴染みのないSNSで、調べてみると十五年前に大流行したSNSらしい。日記とフォト、つぶやきが投稿できるブログサービスに近いもので、今もサービス自体はあるが廃れていて利用者は少ない。
 晒されていたアカウントは涌田亜美のものに間違いなかった。
 プロフィール写真には涌田のプリクラが設定されていて、アカウント名は『ぁみ』。プロフィール文章には『市古高校三年二組』と書いてある。一番新しい日記の記事は十四年前。
 涌田のアカウントの友人欄には、秋吉や榎川、忠村といった今回の件の関係者らしき名前がある。
 はたして十五年前のメールアドレスとパスワードを覚えている人はいるのだろうか。
 彼女たちにとっては過去に忘れてきたものであり、この件があるまで思いだせるものではなかったに違いない。アカウントが晒されてから何時間経っても、それが削除されることはなかった。
 彼らのアカウントは生々しいイジメの記録でもあった。
 涌田の日記に【蛾♡観察日記】というタイトルがいくつも並んでいた。それをわざわざ公開した理由は、芳賀さんに対する嫌がらせだったに違いないが、今こうして全世界に公開されることを十五年前、誰が予想できただろう。

【今日も蛾はしつこい。嫌われてるの気づかないのかな?
 毎日近く飛び回ってぶんぶんしつこい。近寄ってきたら叩くしかないじゃんね】

 どうやら〝蛾〟というのは芳賀穂乃花のことらしい。芳賀の〝が〟をかけて、あだ名をつけているのだろう。いじめっこのやりがちなことだ。
 そして涌田の日記には、秋吉、榎川、忠村。それから今まで名前の上がっていなかった人からも面白がるコメントが集まっていた。その中に〝小田切明日葉〟を連想させる名前はなく安堵する。
 
【マサ:蛾の駆除依頼した! 蛾のことが好きな物好きがいる】
【ちぴちゃん:早く死なないかなーもう秋ですよw 虫は死ぬ時期だよ。冬までには死のうね】
【さゆ:殺虫剤かけてあげた♪】

 〝さゆ〟が添付している写真には芳賀さんらしき人物の後ろ姿がうつっていた。黒板消しをぶつけられた後なのか、髪にも背中にも白い粉を大量に被っている。
 いくつかの記事を読んで、私は口元を手で抑えた。そのままベッドに倒れ込みスマホを手放した。
 これ以上読んでいられそうにない。
 手はじっとりと汗ばんでいて、自然と鼓動が早くなっている。
 ……どの時代でも、どこの学校でも、どうしていじめは似通うのだろうか。なぜ……今もなくならないのだろうか。
 十七歳の自分が、身体の内に現れた。身体の中から過去の自分が主張して吐き出しそうになる。
 私はのろのろと立ち上がり、キッチンへ向かうと蛇口を思い切りひねった。コップに水を注ぎ一気に飲み干す。
 それでも喉はひどく乾いていた。

 
 「大変なことになったね」
 この数週間、そんな言葉ばかり聞いている。私と根津編集長は昼休憩中に会議室にあるテレビを見つめていた。
 一連の事件は週刊文秋だけでなく、ワイドショーでも取り上げられることになった。そこまで大きな扱いではないが、秋吉がドラマの主演を降板したことや、忠村の夫が市議会議員選の出馬を取り下げたことが報じられている。
「なんだか想像していないところまで広がっちゃいましたね」
 私の呟きに、編集長はため息をつきながらテレビを消した。
「山吹出版はさゆぐらしの刊行を中止するそうです」
 今朝、山本さんからメールが届いていた。簡素なメールだったが彼女の無念を感じられる文面だった。
「ここまで騒ぎが大きくなればね」
「ヨリ先生のコラムをどうするかは検討中だそうです」
「まだヨリ先生については証拠も具体的なエピソードも出ていないものね」
「まだってなんですか。ヨリ先生は無関係なんですよ」
 私はできるだけまろやかな声を出してみるが、編集長に心中は伝わってしまったらしく苦笑いで返された。
「そう信じたいわね。でも明日のラジオはお休みしてもらうことになった」
「それは賛成です」
 秋吉や榎川がここまで話題になれば、ヨリ先生にもメディアの目が向くのは当然だ。どんなゴシップ記事でも取り扱う週刊文秋と違いワイドショーはいくらかは慎重である。
 秋吉の降板など、現在の彼らに起きた事実だけを報じて、憶測の域を出ないものや過去については濁して報道している。まだ彼らはヨリ先生を報じるまでに至っていない。
 ラジオ局まで駆けつけたメディアは週刊文秋だけだったが、ここまで騒ぎが大きくなれば様々なメディアがヨリ先生に話を聞こうとラジオ局につめかけてもおかしくなかった。
「今週は羽木先生にお願いしてるの。初回ということもあるし、担当編集として立ち会ってくれる?」
「……わかりました」
 秦央社の田中編集長のたぬきのような顔を思い出すと苛立ちが募った。
 翌日、コーヒーラジオの代役を羽木は楽しそうに務めた。
「羽木先生、お疲れさまでした。すごくお上手でしたけど、ラジオの経験があるのですか?」
「お疲れ様です。初めてなので、緊張しちゃいましたよ」
 羽木は笑みを浮かべると、周りのスタッフにも挨拶をはじめた。コミュニケーション能力が高い羽木は、二十代半ばの若手女性作家だ。私からすれば、ヨリ先生の模倣に過ぎない作風だが、ヨリ先生の模倣をしているだけあって人気がある。
 私もスタッフに挨拶をすませ、羽木と共にブースを出る。
「来週はどうします? 私、来週も予定空けておきましょうか?」
 羽木は私の隣に並ぶと、くりくりした瞳を私に向けた。
「明日、根津と相談してまたご連絡しますね」
「わかりました。――ちょっといいですか」
 羽木は廊下に喫煙室のマークを見つけて指さした。私に付き合えということだろうか。付き合いたくはないが、これも仕事だと彼女のあとをついていく。
 電子タバコを口に持っていくと、羽木は「葉空先生、大変ですね」と呟く。
「あれだけ炎上しちゃったら、私筆折りそう。一日エゴサして過ごしちゃうかもです」
「ヨリ先生は、エゴサとかしないみたいですよ」
「えー、そんな人いるんですか。絶対葉空先生もしてますって」
 田中編集長が言うように、羽木はピュアに見える。作風もヨリ先生を意識して爽やかで、男性人気も高いらしい。目の前で興味津々といった様子で聞いてくる彼女はピュアにも爽やかにも思えない。年齢が近い槇原さんには何でも言いやすいんですよね、と私の前では猫を被らない。見下されているのかもしれないが。
「葉空先生って、どうなっちゃうんですか?」
 羽木は軽く、直接的に訊ねてくる。
「どうなるもなにも、葉空先生はいじめに関与していないんですから」
「えー? でも、三年二組にヨリ先生いるんですよね。田中さんが言ってましたよ。あ、さすがに本名は聞いてないですよ」
「……ですが、いじめには無関係です」
「そうかなぁ。自殺するほどひどいいじめのクラスメイトってだけで、関与してると思いますけどね。私今度そういう小説出すんですよ。実行犯だけじゃなくて、傍観者も罪だよ、っていう」
 ふう、と息を吐きながら羽木は私を見た。
「私も槇原さんと一緒で、葉空信者なんで、いじめっこだったら嫌なんですけどねー」
 黙っている私に羽木は笑いかける。
「ヨリ先生を信じているのに、いじめはしていると思うんですか?」
「信じてるかあ。そういう意味ではあんまり幻想は抱いてないかも。そりゃ葉空先生は、中身も品行方正ですけど。他の作家はそうじゃないって、槇原さんもいろんな人担当して知ってるでしょ。私だってこんなだし」
 羽木はふぁあ、とあくびをした。言われればヨリ先生のこういった無防備な姿は見たことがないなと、ふと思う。
「私、葉空先生みたいに作家売りしたいと思ってるんですよ。ファンがつくとありがたいし。だからもしラジオ降板するなら、私後釜やるんでいつでも声かけてくださいね」
 そう言うと羽木は吸い殻を捨てて、喫煙室を出た。なるほど、彼女の言いたかったことはこれらしい。
 私も喫煙室を出ると、もう一度あくびをして羽木は呟いた。
「だけど葉空先生の話が読めなくなるのは嫌だなぁ。別名義とかで、続けてくれるといいんですけど」
「別名義ですか」
「そう。だって、物書きはやめられないから」
 私を見る羽木の瞳が光る。
「書く場所がなくなっちゃっても、書くことはやめられないと思いますよ」
 羽木の言葉の意味を考えていると「そうだ、こないだの改稿案ですけど」と別の話題を差し込まれて、思考は中断された。


 制裁が進めば同情心が湧いてくるのは日本人特有のものだろうか。あれだけ批判一色だった秋吉たちに同情的な声も集まるようになっていた。

【本当にいじめてたか確定じゃないでしょ。あの日記だって誰かが陥れるために作ったものかもしれない。デマに踊らされたらダメ】
【出た、盲目ファンの無理な擁護】
【十五年前から秋吉たちを陥れようとして計画練ってたっていうのか? 秋吉が俳優を目指すかもわからないのに?】
【秋吉さんのファンじゃないけど、最近はちょっとやりすぎに思える。だって十五年前のことでしょ。それを今さらになってここまで掘り返すなんて】
【あの小説って結局誰が投稿してるの? 芳賀以外の人生終わらせようとしてるのえぐい】
【てか芳賀穂乃花は訴えられないわけ? 名誉棄損でしょ、こんなの】
【名誉棄損も何も事実だし……】
【事実でも名誉棄損は名誉棄損!】
【ここまでやるのはやりすぎ。秋吉や榎川が死んだらどうすんの?】

 いまだに批判が圧倒的に多い。けれど、同情的な意見も少なくない数が集まっている。
 ……あの日記の文章を読んでも、そう思うのか。あんなにひどいことをしているのに。

【いじめに時効なんてないでしょ。芳賀の人生は終わってしまったんだよ】

 一人の投稿に私は大きく頷いた。秋吉や榎川が忘れても、何を今さらだと思っても、そう思わない人間だっている。ふつふつと怒りがこみあげてきて、私は感情そのままにSNSに打ち込んだ。

【時効なんてない。こうして十五年経ってからでも復讐しようとする人がいる。それってこの十五年間、そのひとはずっと苦しんできたからだよね。
 秋吉や榎川は十五年間ずっと忘れたまま、楽しく生きてきたかもしれないけど、芳賀は死んでしまったし、ずっと十五年苦しい想いをしてきた人がいるんだよ!】
 
 自分のアカウントから投稿すると、それは拡散されいくつもの同意を得た。ここまで拡散されるのは、この話題の関心が高い故だろう。
 フォロワーから【ハナさんもヨリ先生疑ってるんですか】と返信がついた。……自分と芳賀を重ねて、つい我を忘れてしまった。
 心臓を落ち着かせながら【いいえ、ヨリ先生はいじめに無関係だと思っています。ヨリ先生があんないじめするわけないでしょう】と手早く返信を返す。
 ヨリ先生はいじめに関わっていない、絶対に。
 だって、私の命を救ってくれたのはヨリ先生なんだから。


 ◇


 教室で私は常に溺れていた。
 間違っていることは指摘をしてしまう。お世辞を言えない。面白いと思えなければ笑えない。
 端的に言えば、私は空気が読めないやつだったのだと思う。
 教室を泳ぐためには、この〝空気を読む〟というのは何よりも大切なことで、私は絶望的に泳ぎが下手だった。
 今となっては、私は頑固すぎたのだと思う。空気を読むということは、自分が欠けてしまいそうな気がして。誰かの意見に染まることを頑なに拒否をしていたのだと思う。
 青かったな、若かったな。そんな風に過去の自分を微笑ましく思えるのは、あの頃より大人になったからで。
 十七歳の私は、私を確立することに必死だった。
 群れの中で泳げない私を周りの人間が排除するのは当然と言えるのかもしれない。

 
 いつも通りの朝のはずだった。
 教室に一歩踏み入れた瞬間、別の世界に転移しまったような不思議な感覚に陥った。
 私が踏んでいるのは間違いなくいつもの教室の床で、私の視界にうつる人々は昨日も会ったクラスメイトだ。
 窓際の席に陣取る三人がこちらを見た。雑談が一時停止され、目配せのあと何事もなかったように会話に戻る。
「おはよー」
 その違和感に気づかないふりをして、私は彼女たちのもとに向かう。不自然なほどに誰もこちらに目を向けず雑談は続いている。
「お、おはよう!」
 もう少しボリュームをあげて、彼女たちが座る机までたどり着いた。
 彼女たちはチラリと私を見上げた。私という生物を初めて見るような目つきで。昨日までのクラスと今ここにあるクラスは別物なのではないかと錯覚する。
 一秒の空白のち、彼女たちは雑談を再開した。内容は昨日見ていたドラマの話などで重要な話ではない。
 私は幽霊のように、認知されないものとなった。
 そのまま幽霊でいられたら、どれだけ良かっただろうか。
 存在しないものとして扱ってくれていれば。
「ハナが」
 教室のどこかで聞こえる声に肩がびくりと揺れる。〝ハナ〟のイントネーションは〝羽菜〟ではなく〝鼻〟だ。
 黒板近くにいる男子が鼻をすすりながら「鼻詰まってて鼻水がやばい」と話しているだけだったことに気づき、どきどきと動き始めた心臓を落ち着かせる。
 彼女たちは私の名前を呼ばなくなった。存在しないものだから。
 私が彼女たちの近くにいれば、彼女たちは自分の鼻の叩きながら目と目で会話をする。
 私は名前から〝鼻〟と名付けられたのだとすぐにわかった。
 あだ名で呼ぶのは、私に悪口をばれないようにするためじゃない。むしろ私に届くように、だ。
 ダメージを与えながら、「あなたの話なんてしていません。鼻の話です」と言い訳が出来る。
 私は怒る気力もなかったが、彼女たちは私を怒らせたかったのかもしれない。完全に解放してくれればいいのに。私という玩具を放さないために時々は優しく話しかけてくる。
 私は胸中では怒りに震えているのに、話しかけられると嬉しくて、媚びへつらうようにへらへら笑みを浮かべた。彼女たちからは何も返してもらえないのに。笑顔を続ければそれが返ってくると信じて。
 まだ六月を迎えたばかりで、地獄は少なくとも来年の春まで続くのだ。
 どうして大人が勝手にぶち込んだ水槽のなかで必死に泳ぎ続けなければならないんだろう。
 今まではうまく泳げない自分を個性だと思っていた。だけどこうして攻撃されれば、それは嫌われる種でしかなかったと知る。
 群れからはぐれて、溺れて、もう私の酸素は残り少なくなっていた。


 その日、私は図書館にいた。クラスの冴えない女子が今日の図書委員を変わってくれないかと言ったからだ。
 今までの私ならそのような依頼はされなかったはずだ。そして今までの私なら確実に断っていた。
 だけど何の反応もされない幽霊の日々を送っていた私にとって、誰かの依頼を断るのは死も同然だった。
 依頼されていた作業を終え、帰宅しようとして……図書館の扉は開かなった。外から鍵をかける式になっていて内鍵はない。
 これはいじめの一環だ。
 私に依頼をしてきたあの子は、彼女たちに指示をされたのだ。
 がちゃがちゃとゆすってもびくともしない扉を見て、頭は冷静になっていた。
 どうしようか。これはただのいたずらだ。ポケットにスマホだってある。学校に連絡して先生に開けてもらえばいいだけのことだ。
 彼女たちも私を一晩閉じ込めようなど考えたわけがない。スマホさえあればどうにかなることをわかってやっている。
 だけど、私は職員室に電話をかけることができなかった。
 ここに閉じ込められていることを先生はどう思うだろうか。いじめだと思うだろうか。
 いじめられっこと思われたくないというちっぽけなプライドと、先生がいじめだと気づいても何も対応してくれないかもしれないという小さな恐怖。
 その二つが、私の手を動かさない。
「どうしよう……」
 乾いた唇から、渇いた言葉が出た。
 そろそろ日が沈む。図書館の窓から今日最後の太陽が照らしてくる。あの日が落ちれば先生は帰宅し、助けてもらえなくなり一晩を過ごすことになるのだろうか。
 ――ああ、死にたいな。
 初めて思った。
 明日が来てほしくなかった。このまま図書室から出たくもなかった。
 助けを読んで、図書室から出たところで何があるのだろうか。何も変わらない日々が続いていくだけだ。
 私は窓を見た。図書室は三階にある。飛び降りれば死ねるだろうか。
 死ねなかったとしても、あの三人に報復はできるのではないだろうか。一生消えない傷をつけてやりたい。
 自分たちが閉じ込めた籠から飛び降りれば、さすがに罪悪感くらいは出るのではないかな。
 私はふらふらと導かれるように窓に向かっていく。
 そのとき、一冊の本がカウンターから落ちた。私の身体が触れて一冊を落としたのだ。
 私は本をカウンターに戻そうとしたが、表紙の美しさに吸い寄せられた。
 それは青い本だった。一人の少女が涙を浮かべながら笑っている。青を基調とした美しい本。 
 私は窓に向かっていたことなど忘れてページをめくることに没頭した。途中で日が落ちて、図書室には闇が訪れた。
 私は誰にも気づかれないように、スマホの光で照らしながらそれを読んだ。
 普段あまり小説など読まないから、読み終えるまでに五時間はかかっただろう。
 泣いて、泣いて、泣きながら読んだ。あまりにも泣いて読み終えた後は、心地よい瞼の重さに引きずり込まれるように眠りに落ちた。
 

 朝日で目が覚めた。図書室に神々しいと思えるほどの眩しい光が入り込んでいて、天国に来てしまったのかと思うほどだった。
 この美しい朝を、私は生涯忘れることは出来ないだろう。
「わたし、生きててもいいんだ」
 あの本を拾うまでは、朝が来ることが怖くてこのまま終わらせてしまおうと思った。
 それなのに。こんなに美しい朝が私に訪れた。
 涙が止まらず、ただ呆然と窓の外の光を見ていた。青い本を抱きしめたまま。
 

 葉空ヨリの小説に出会ったからといって、目の前の絶望がなくなるわけはない。それでもあの日葉空ヨリは「あなたはあなたのままでいていい」「今をがんばるのではなく、踏ん張ろう」と教えてくれた。
 何より、あのとき偶然落ちた本は何かの導きに思えた。
 私は生きていないとだめだ。死んだらだめ。今は苦しくても、踏ん張って、耐えていこうと。
 私は葉空ヨリに救われた。葉空ヨリに救ってもらった命での楽しみは、葉空ヨリの新作を待つことだった。
 私のことを大切に扱わないあいつらに、笑顔を見せる必要なんてない。
 私のことを大切にしないあいつらを、好きでい続ける必要なんてないんだ。
 彼女たちへの希望がなくなれば、いじめはそこまでつらいものではなかった。
 私には葉空ヨリがついている。
 文庫本をカバンに忍ばせておけば、守られている気がした。


 ヨリ先生は、誰にも踏み入れられない心の基地だった。
 生々しい過去は書きたくない。
 そう思っていました。誰かの傷を開きたくないから。
 
 誰かが拡散した日記を読んで傷ついてしまった方がいたら申し訳ありません。
 今日はその謝罪をするために、更新をしました。
 当時の記録というのは生々しいですね。
 
 私は彼らをどうしようもないほど、憎んで恨んでいます。
 私の死の原因は、みなさんにもわかってもらえたと思います。
 
 だけど、私を殺したのはH.Y。
 言い換えましょうか、Aさん。あなたなのです。
 二日もたてば、炎は少しだけ揺らいでいく。
 秋吉たちに貼られた印象が覆ることはないが、世の関心は移ろっていくものだ。
 秋吉たちのイメージは下がるところまで下がり、これから新規の仕事が入る可能性は少ないだろう。
 そこまでの制裁が下ってしまえば、世間の溜飲はある程度下がる。この話題は既に三週間続いていることもあり、話題の賞味期限も近かった。
 私はこのまま秋吉たちの矛先が向いたまま、ヨリ先生に戻ってこなければいいと思っていた。しかし人々がこの話題から逃れることは許さない、というかのように芳賀穂乃花の小説は水曜日になった瞬間に更新されたのだ。

 【だけど、私を殺したのはH.Y。
 言い換えましょうか、Aさん。あなたなのです。】

 その言葉は正義感で動いている彼らの燃料となった。

【秋吉とか榎川より、葉空を恨んでるってことだよね】
【葉空ヨリ、なにしたの】
【自殺じゃなくて、葉空が線路に突き落としたとか?】
【それよりAさんは涌田亜美じゃない? つまり葉空は涌田】
【征直のM、小百合のS、千尋のCから考えると、四人組の一人の亜美だよね】
【涌田亜美があの恐ろしい日記の主だし恨むのも当然】 

 彼らが涌田亜美に注目するのは当然だといえる。
 主犯の三人の中で今まで話題にあがっていないのは涌田だけだ。
 証拠として見つかった日記を書いていたのも涌田。
 アルファベットも一致するし、秋吉も涌田を疑っていたくらいだ。世間がそこにたどり着くのは理解できる。
 私たち出版社はヨリ先生が涌田ではないことを知っているが、世間はもちろん知らない。
 秋吉や榎川、忠村のように涌田の現状がわからないことが、ますます葉空ヨリ=涌田亜美説の信憑性をあげていた。
 けれど、そもそも他の三人がたまたま有名で情報があがりやすかっただけのことだ。
 十五年たっているのだから、涌田のように情報が現れないことの方が普通に思える。地元を出て結婚で苗字が変わっていれば周りの人は気づかない可能性もあるだろう。 
 しかし世間は、亜美の現在がわからない=涌田亜美=葉空ヨリ、だと思い込んだ。

【葉空ヨリ先生の本当の処女作、蛾♡観察日記だったwww】
【文章を生業にしてる人間が、文章で人を殺してたってこと?】
【葉空の小説もう気持ち悪くて読めない】
【葉空の小説読んだら、あの観察日記が思い浮かびそw】
【観察日記恐ろしすぎたもんな。あれが広まってから秋吉たちの降板決まったし】
【あんないじめしてるやつら、絶対にメディアでみたくない】
 
 せっかく秋吉と榎川の炎上で、ヨリ先生から話がそれていたのに。ヨリ先生は涌田ではないのに。
 葉空ヨリは涌田で、主犯の中で一番芳賀さんを傷つけた最低の人間だということになってしまっていた。
 それが事実でなくとも。世間が決めたのなら、そうなってしまうのだ。

 
 翌日、須田出版と秦央社と合同でヨリ先生との会議が行われることになった。
 もちろん話題は芳賀穂乃花の件についてである。
 秋吉の降板や榎川の書籍化中止、忠村一家への制裁が完了としたならば、次は葉空ヨリ!と世間が動くのは当然の流れといえる。出版社には毎日問い合わせの電話がかかってきていた。
【葉空ヨリの書籍をすべて出版停止にしろ!】【葉空ヨリは犯罪者だ】【葉空ヨリの書籍を出す出版社も同罪だ】という声が一日何百と届く。
 【葉空ヨリの問い合わせ先はこちら→須田出版 03-xxxx 奏央社 03……】とヨリ先生が刊行したことのある出版社一覧をまとめる人物も現れた。クレームを言うなら本人よりも取引先が一番ダメージを与えられると入れ知恵をする人間の扇動により、正義感をたぎらせた暇人たちが各出版社に突撃しているらしい。
 私も一日何度くだらない電話を受け取ったかわからないし、隣の席の先輩は「勘弁してくれよ、もう葉空ヨリなんて切ればいいじゃないか」と呟くほどになった。きっと彼は編集長にも進言したことだろう。
 出版社も我関せずの姿勢を取るのが難しくなってきたため、本日の会議が開かれることとなったのだ。
 場所は須田出版の会議室。奏央社は田中編集長とヨリ先生の担当。須田出版は根津編集長、塚原さん、私といういつものメンバーである。なぜ塚原さんがここに呼ばれたのかはわからないが、会議室に向かう途中、塚原さんに「今日はあまり口は出さずに見守るほうがいいかも」と釘をさされたので、私の抑止力となるべく呼ばれたのだろう。
 今日の会議でヨリ先生の未来が決まるかもしれない。私は頬を叩いてから会議室に入った。
 既にヨリ先生は到着していて、出されたお茶を口につけている。
 久々に見たヨリ先生は、先日よりもはっきりとした隈が浮かんでいて疲れを感じる。それでも美しさが損なわれるどころか、儚さが増してますます魅力的に見えた。
 奏央社の二人が到着したところで、ヨリ先生は立ち上がった。
「今回はご心配をおかけして申し訳ありません」
 ヨリ先生は何も悪くないのに、深々と頭を下げる。
 彼女の誠実な仕草に会議室の空気は張りつめる。ヨリ先生が秋吉のような嫌なやつだったら、出版社も刊行中止と伝えて終わりで良かっただろう。けれどヨリ先生は十一年ずっと誠実で、驕ることなく真摯だった。過去のことを厄介だと思っていても先生のお人柄は編集長たちもわかっているはずだ。だからこそ痛々しい空気に包まれている。
「ヨリ先生頭を上げてください。どうぞお座りください。私たちは謝罪していただきたいわけではないのです。今後について建設的な意見交換ができればと」
 田中編集長がいえば、ヨリ先生も大人しく席に座った。それを見てほっとしたように田中編集長は続ける。
「私どもはヨリ先生が今回の件に無関係だと信じてはいるんです。……ですが週刊誌やワイドショーでも扱われ始めて、このまま無視できない事態にはなってきました」
「いじめに関与していないことが証明できればいいんですが、悪魔の証明になりますからね。例の小説はいまだにヨリ先生の名前を出し続けています」
 二人の編集長はそれぞれ苦虫を嚙み潰したような顔だ。
 建設的な意見交換と言いながらも二人はそれ以上会話を進めることを悩んでいる様子でお互い視線を絡ませ合う。
「お二人の仰りたいことはわかります」
 ヨリ先生は私たち編集者を一人一人見つめた。瞳は涼やかで、怯えなどはない。真っすぐに私たちを見つめている。
「須田出版さんと考えていた映画の件、奏央社さんの来年刊行予定のもの。どちらも中止にしていただいてかまいません」
「ヨリ先生」
「お気遣いありがとうございます。でも、言葉を選んでいてもお話は進みませんから」
 うわべばかり取り繕う彼らは決定的なことを言えないでいる。こうして自分から言ってくれるヨリ先生に安堵したことだろう。
「申し訳ございません先生。このままではヨリ先生にとっても、いい結果にはなりませんから」
 二人の編集長が頭を下げる。田中編集長の薄い後頭部を見ながら私は唇を噛みしめた。
「きっと読者からお怒りの問い合わせも届いていますよね。ご迷惑おかけして本当に申し訳ありません」
「いえいえ、それは私たちの問題ですから」
「御社は私の処分を発表していただいてもかまいません。過去に出版したものはお任せしますが、来年刊行予定のものや映画化の話は中止したと発表していただいたほうがよいでしょう。そうすれば御社への攻撃は少し避けられます」
 ヨリ先生は淡々と言った。こちらから頭を下げて相談しなくてはならない内容を先回りして提案してくれる。ヨリ先生の優しさに胸が締め付けられる思いだ。この場にいる人間はどんな思いで聞いているのだろうか。私は会議室の面々を見渡してみる。皆悲痛な顔を浮かべているが内心はわからない。ヨリ先生の覚悟を慮ることもせず、ほっとしているだけかもしれない。 
「ヨリ先生ご自身も大変ななか、こちらのことまで考えていただきありがとうございます」
 編集長たちは頭を下げる。根津編集長が顔を上げて、熱をこもった視線をヨリ先生に向ける。
「ですが……中止ではなく、延期とさせていただけませんか? 表向きは中止だと発表したとしても! 私たちはヨリ先生の作品を映像化したいですし、これからも刊行させていただきたいとは思っているんです! 私たちはヨリ先生の作品を世に出すことを誇りに思っています」
 私は笑い出したくなった。それほどヨリ先生のことを大切に誇りに思っているのなら、中止など発表しなくてもよいではないか。
 須田出版は葉空ヨリを信じていると発表すればいいだけだ。
 ふと左手をつつかれた。左を見てみると塚原さんが私を見ている。どうやら気づかぬうちに左手をきつく握りしめていたらしい。きっと彼は私の考えていることを読んだのだろう。私は『何もいいませんよ』と視線を返しておく。
「しかし今の世間の声的にしばらくはお話を進めるのは難しいかと思いまして……」
「わかっていますよ。このまま落ち着くといいんですけどね」
 ヨリ先生は微笑んで二人を見る。
 この件が落ち着くことなどあるのだろうか? 一ヵ月前から始まり、様子見をしようと言い続けて事態は好転するどころか悪くなるばかりだ。
「こんなことをお訊ねするのは大変心苦しいのですが、本当にいじめに関与はされていないのでしょうか」
 田中編集長が汗をハンカチで拭きながら、小さい声で訊ねた。ヨリ先生は少しだけ目を開いて、編集長を見る。
「いえね……私どもはヨリ先生を信じてはいます。けれど、もし十五年前にいじめに関与されていてもそれはそれで……とも思っているんですよ。高校時代のことですし、犯罪でもないでしょう」
 ヨリ先生に見つめられて動揺したのか、彼は早口で答えた。
「どういう意味でしょうか」
 柔らかい雰囲気をまとっていたヨリ先生の温度が下がる。
「えー、そうですね……言葉が悪かったですかね。その、ヨリ先生はいじめに関与されていないとしても、証拠を捏造されるかもしれませんよね。ですから……えー、その。幸い小説家というのは、顔を出さなくても問題はありません」
「つまり〝葉空ヨリ〟名義でなく、別名義での出版を考えるのはどうか、と思っているのです」
 途切れ途切れになっている田中編集長の言葉を根津編集長が補足して助ける。この人たちはヨリ先生の中身はどうでもよいのだ。
「世間の批判はもう免れません。無罪の証明など難しいですから……世間の声は落ち着いても、その、ファンが離れる可能性もあります。それでしたらいっそ、心機一転――」
「葉空ヨリを捨てろ、ということですか?」
 ヨリ先生は真っすぐ二人を射抜いた。二人は居心地悪そうに視線を漂わせ、会議室には重い空気が充満した。
「そ、そういうわけではないのです……ですが、ヨリ先生の今後のためにも、一つの案と言いますか……」
 言葉を濁したまま、逃げている二人への怒りで涙がでそうだ。保身保身保身。自分の会社のことしか考えていない! ヨリ先生の才能を手放すのは惜しいが、責任を取るつもりもない。
 今追い詰められているヨリ先生に対して〝葉空ヨリ〟を捨てろだなんて……!
「お二人が仰りたいことはわかりますよ。ですがこちらに関してはすぐに受け入れられるかはわかりません」
「も、もちろんです! すぐに事態が落ち着くかもしれませんし、ほとぼりがさめれば葉空ヨリ名義でも……!」
「葉空ヨリ名義を捨ててほしいわけではなく、私どもは過去にもし何かがあったとしても、ヨリ先生とのお仕事を続けるために様々な方法を模索したい、そう思っているのです! ですからペンネーム変更は一つの案でしかありません……!」
 二人は必死に弁解している。ヨリ先生の為を思って、今後を考えて。そう言うけれど、それはヨリ先生のためではない。自分たちのリスクを考えてのことだ。
 彼らは真実など関係ない。世間がヨリ先生をどう見ているか、それだけだ。
「ヨリ先生は何も関与していない被害者なんですよ」
 私の声は思いのほか、会議室に響いた。
 隣の塚原さんはため息をついたことだろう。この会議では黙っていた方がいいことはわかっている。それでもこのままではヨリ先生にとってあんまりな進め方になってしまう。ただでさえ刊行や映画化を中止にされているのに、次の約束もせず、さらにはペンネームまで捨てさせようとするなんて。
「今問題になっている原因は、世間がヨリ先生のことを主犯だと勘違いしているからです。ヨリ先生が涌田亜美さんだと勘違いされていることは、みなさんもご存知ですよね? ヨリ先生は噂されている涌田さんではない。それが証明されるだけでも全然違ってくるのではないでしょうか?」
 私は真剣な提案をするためにその場に立ち、演説するかのごとく皆の顔を順々に見た。
「涌田さんは普通の一般人だから情報が流れてこないんでしょうね。そのせいでヨリ先生が涌田だと勘違いされているようです」
 塚原さんが援護射撃をしてくれた。なんだかんたと結局面倒見のいい優しいひとだ。
「ヨリ先生が小田切明日葉さんだということを世間に公表するのはどうでしょうか⁉ 涌田さんでないと証明するだけでも、あの悪趣味な日記を書いている、というくだらない批判はやみます!」
 私は編集長たちをみたが、彼らから好意的な表情は返ってこなかった。
「あの……そもそも、先生は本当に小田切明日葉さん、なんですよね」
 ずっと黙っていた奏央社の担当が恐る恐る質問した。彼女の質問にヨリ先生は微笑んだまま、椅子の横に置いてあったカバンから財布を取り出した。
 財布の中から出てきたのは、免許証とマイナンバーカードだ。
「はい、正真正銘小田切明日葉ですよ。ご確認いただいてもかまいません」
 ヨリ先生は会議室の机に二つを置いて、私たちに向けてよこす。誰もそれを手にとることはしなかった。
「私は本当にいじめなどしていないです。……ですが、すみません。一つ嘘をついていました。私は芳賀さんのことをよく覚えているんです」
 誰も手に取らなかった免許証たちを財布にしまうと、どこか切なげな顔でヨリ先生は語り始めた。
「私が青春を描くきっかけをくれたのは彼女なんです。私たちは三年二組の中では他人でしたが、私は芳賀さんのことを眩しく思っていました。そんな彼女がいじめられていたことを実は知っていました。……というよりも、週刊誌の通り。三年二組にいたならば、いじめに気づいたと思います。私はいじめ自体には関与していません。けれど、三年二組全員が同罪だとも思っているんです。誰も彼女を助けられなかったから。だから……私は加害者でもあります。今回の疑惑を百パーセント否定することはできないんです」
 初めてヨリ先生が悔しさを滲む顔をみせた。
 主犯のひとりである秋吉は全く反省もしないどころか人のせいにしていた。ヨリ先生はただのクラスメイトで、助けられなくても仕方ないのに過去を悔いている。
「僕もヨリ先生の立場だったなら止められなかったと思いますよ。普段関わりがないうえに、派手な子たちのいじめは怖くて関われないというのが大半ではないでしょうか」
 塚原さんがヨリ先生をフォローするように声をあげた。
「そうですね。でも誰も芳賀さんのことを助けられなかった。私はそんな贖罪もあって、青春小説を書いていたのかもしれません。だから芳賀さんが私に怒っているのもわかる気がします。私のことを助けてくれなかったのに、きれいな世界を書くな。それは理解できます。
 ――だから〝葉空ヨリ〟はここで終わらせるのがいいかもしれません」
 真剣な口調のヨリ先生に誰もしばらく言葉を発することが出来なかった。
「別名義の件も、私の本名を公表する件も少し考えさせてください。取り急ぎの対応として、刊行や映画化中止を公表いただいて出版社を守ってください。他の出版社にも同様の対応をしていただくつもりです」
 編集長たちの表情がほぐれる。
 ……自分の出版社だけが、葉空ヨリを切るわけではない。そのことに安堵したのだろう。私が気づいたのだ。ヨリ先生も二人を見やり、少し悲しげに目を伏せた。
 結局映画化と書籍刊行が立ち消えただだけで、実になる会議ではなかった。出版社は自分たちを守り、解決は先送りにする。そしてヨリ先生の仕事だけがなくなった。
 帰り支度を始めたヨリ先生のもとに段ボールを持って近づく。
「ヨリ先生、お疲れさまでした。これ先日のラジオの……」
「ああ! ありがとう」
「それから今日までに届いたファンレターも入れています。ファンレターいつもの五倍も届いています。ヨリ先生を心配している人はこんなにいるんですよ!」
 ヨリ先生が段ボールを見て頬を緩めてくれるから、まとめておいてよかったと思う。
「ちゃんと中身は確認しているので安心してくださいね! 下までお持ちします」
「ありがとう」
 既にタクシーは手配している。私は段ボールをよいしょ、と持ちあげると下まで運ぶことにした。一枚ずつは軽くても、メールの印刷まで合わせれば百は超えている。なかなかの重さでヨリ先生に持たせるわけにはいかない。
 ビルの前に停めているタクシーに荷物を入れ込みながら
「ヨリ先生が嫌でなければ、ご自宅までお送りしましょうか。荷物も重いですし」
 荷物が重いことも理由のひとつではあるが、ヨリ先生と二人で話をしたかった。ヨリ先生は皆の前では気丈に振る舞っていたが、心中乱れているはずだ。せめて私は心からヨリ先生の味方だと伝えたかった。
「時間大丈夫なの?」
「はい。この後は大きな用もありませんし、ちょっとお話もしたくて」
「それならお言葉に甘えようかな、ありがとう」
 私はヨリ先生と共にタクシーの後部座席に乗り込んだ。
 隣に座るとかすかに甘い香りが鼻をくすぐる。こうしてヨリ先生と隣に座ることはほとんどないので少し気恥ずかしい。
 ヨリ先生は運転手に行先を告げると、窓の外をぼんやり眺めながら訊ねた。
「まきちゃんは私が小田切明日葉だと公表したほうがいいと思う……?」
「私はそう思います。涌田さんと勘違いされているのが、今ヨリ先生に攻撃が集中している原因です。いじめと無関係である名前を公表すれば騒ぎは落ち着くと思います」
「そっかあ」
 ヨリ先生はそのまま黙った。窓の外を見たままで、どんな表情をしているのか、どのようなことを考えているのかは掴めなかった。
 何か、言わないと。せっかくヨリ先生が私に相談してくれているのだ。編集長でも塚原さんでもなく、私に。沈黙に焦っていると、ヨリ先生がぽつりとつぶやいた。
「私が小田切明日葉だと知ったら、みんながっかりしないかな? 学生時代の私は暗くて、見た目も悪いでしょ」
「し、しませんよ!」
 力を込めて発した。ヨリ先生は振り返り、私を見つめる。
「そうかな……? 私、実はいじめられっこだったの。三年のクラスはそうでもなかったけど、一、二年とかひどくて。……だから、私は自分のことが本当は嫌いなんだ」
 いつも凛とした表情のヨリ先生が少し頼りなく見えた。笑顔を作ってくれているけど、今にも消えそうなほど儚かった。
 ヨリ先生の小説は爽やかで清潔感があるが、いじめの描写は生々しく感情移入が容易かった。それは過去の経験だったのかもしれない。
 強くて誰もが憧れる美しいヨリ先生が好きだった。でもこうして弱さを吐き出されても、憧れは消えることはなく弱さの上に成り立つ強さを美しいと感じる。
「そんなヨリ先生だからこそ弱さを優しく描けるんですよね。そういうことを含めて公表するのはどうですか? 本名と過去の経験と。それは誰かの希望になります! 絶対に」
「そっか、ありがとう」
「大丈夫ですよ、絶対」
 力を込めて言えば、ようやくヨリ先生はいつもと同じ表情で笑ってくれた。
「わかった。小田切明日葉だと公表してみる。――でもどうすればいいかな? 免許証をネットに公開するわけにはいかないよね」
 ヨリ先生が素直に小田切明日葉だと名乗ったところで、世間は納得するだろうか。証拠を出せと言われるに違いない。
「それなら須田出版からというのはどうでしょうか。本人が言うと証拠がなければ信憑性もありませんし。出版社から公表した方が事実だと伝わるはずです。私から根津編集長に相談してみます」
「ありがとう。タイミングは須田出版さんに任せます」
 私が頷くと、ヨリ先生は少しだけ眉間を寄せた。
「世間は私を涌田さんだと思っているんだね」
「イニシャルが同じAですからね。三年二組には他にもAがつく人はいましたけど、涌田さんは主犯とされている三人のうちの一人ですから」
「たまたまAだったからかぁ」
 そう言うヨリ先生の声音に批判や恨みは込められていない。ヨリ先生はこんなときでも誰かを責めるようなことはしない。
「そういえば秋吉さんも、ヨリ先生を涌田さんだと思っていましたよ」
「秋吉さん?」
「はい。ラジオ局で秋吉さんに会って詰め寄られたでしょう。あれからヨリ先生は大丈夫でしたか? 実はあれ以来、秋吉さんは須田出版にしつこく連絡をしてきているんです。ヨリ先生は誰なのか教えろ、と」
「そうだったの。私は大丈夫だけど、まきちゃんこそ大丈夫だった?」
「はい。……ところで、秋吉さんから聞いたのですが、秋吉さんと食事に行っていたのは本当ですか」
 まるで恋人の浮気を咎めるような声が出てしまったが、ヨリ先生は嫌な顔をせずに「そうだよ」と軽く答える。
「自分に近づいたのはなにか目的があったんじゃないかって秋吉さんは怯えている様子でした」
「それは彼に悪いことをしてしまった。タイミングが悪すぎただけで、私は何も意図はなかったの」
「意図はない?」
「うん。素敵だなと思う異性に食事に誘われて、誘いを受ける。特に意味があったわけではないよ」
「えっ」
 私が大きな声を上げてしまったので、タクシー運転手の肩がぴくりと跳ねる。
「すみません……えっと、それはヨリ先生は秋吉さんのことが、素敵だと思ったんですか?」
「まきちゃんのタイプじゃなかったかぁ」
 ヨリ先生は小さく吹き出した。
「いえ……秋吉さんは見た目は素敵だと思いますけど……」
 自分の言葉の歯切れが悪くなるのを感じる。ヨリ先生が秋吉を素敵だと思うだなんて考えたくなかった。
「でもまきちゃんがそう思うのも仕方ないかも。今回の件が起きてから、たくさん着信とメッセージが届いて……それであのラジオ局の件でしょう。少し怖くなっちゃったのも事実。きっとまきちゃんにもそうやって連絡したり、出版社まで押しかけたりしたのかな。迷惑をかけてごめんね。私も今回の件が起きるまでは、彼のそういう一面を知らなかったから」
 一連の事件が起きるまでは秋吉は猫を被ってヨリ先生に接していたのだろう。
「彼が元クラスメイトだと気づかなかったんですか?」
「私は気づいていたよ。秋吉さん……秋吉くんは学生時代から女子生徒から人気があって、私も憧れている一人だったから」
「でも芳賀さんをいじめていたり、二股をかける人だったんでしょう」
「芳賀さんがいじめにあっていたことや、榎川さんたちが主犯だったことは知ってる。だけど秋吉くんのことは知らなかった。今回話題になってる十五年前のSNSの件は知らなかったの。私はクラスの隅で誰からも認識されない人間だったから。SNSのアカウントも持っていなかった」
 それは想像ができた。私もクラスで孤独を感じていた時、仲が良いメンバーで盛り上がるSNSには入れてもらえなかった。恋事情も教えてもらえなかったから、秋吉を巡る三角関係をヨリ先生は知らなかったかもしれない。
「それじゃあ秋吉さんに学生時代から憧れていたんですか?」
「うん、そうなるね。といってもずっと忘れてはいたんだよ。まさか東京で会うとも思わないし。だから声をかけてもらって嬉しくて」
「そうですか……」
 心のなかにうまれたじゅくじゅくとした醜い物を私は隠すように笑顔をつくった。
「ヨリ先生にもそういう一面があったとは」
「私はけっこう面食いなのよ」
 ヨリ先生がはにかんだ。ヨリ先生の知りたくなかったことを知った私は微笑みで濁す。
「なぜ秋吉さんに本名を名乗らなかったんですか? 元クラスメイトだと知ったらさらに親しくなれたんじゃないですか」
「名乗れないよ」
 ヨリ先生は悲し気に首を振った。
「学生時代の関係は、ずっと変わらないの。今がどうなっていようが、同窓会にでもいけば私は会場の隅にぽつんといるでしょうね。見下していた小田切明日葉だと知ってしまったら、彼の私への気持ちはなくなる。もう対等な関係ではいられない」
 ヨリ先生は寂し気に目を伏せた。
 私にも想像がつく。過去に私をいじめていた人間からすれば、私はいつまでもゴミで玩具だ。いくら私が有名になっていたとしても見下される。彼女たちを目の前にすれば背中を丸めてうつむく自分が想像できた。
「秋吉くんの前では、葉空ヨリでいたかった。だから元クラスメイトだと打ち明けられなかったんだけど、今回のことが起きてしまったから……きっと秋吉くんは私が何か画策していたと思ったでしょうね」
「……はい」
「初恋は実らないってやつだね」
「初恋だったんですか」
「きっとね」
 ヨリ先生の声は寂しそうだった。
 ちょうどタクシーがマンションに到着した。運転手さんに待機の依頼して、トランクから段ボールを出す。
「部屋までお送りします」
 ヨリ先生と並び、エントランスに向かっているところで――シャッター音が鳴った。
 私たちが乗っていたタクシーの後ろに、ワンボックスカーが止められていて、大きなカメラを持った人間と何人かの記者らしき人間がこちらに向かってきている。出版社から後をつけられたのかもしれない……!
「ヨリ先生、いきましょう!」
 私たちは早歩きでエントランスまで向かうが、
「葉空さん、お話聞かせて頂けますか!」
「芳賀さんは誰よりもあなたを恨んでいるようですが……!」
「あなたは噂されている涌田亜美さんなんですか⁉」
「今はお答えすることはありません!」
 私は後ろを向くと記者たちに向かって叫んだ。
 ヨリ先生は何もやっていないのに、どうしてみんなヨリ先生を疑って傷つけるんだ……!
 ヨリ先生をかばうように、ヨリ先生の後ろを陣取った。ヨリ先生は顔を伏せながらエントランスに足を進める。
 エントランスまで入るとさすがに記者たちも入って来れないようで、私たちはエレベーターホールまで進むと息を落ち着かせた。頬が桃色に染まったヨリ先生はこんな時でも美しい。
「……ヨリ先生、週刊誌に張られてるんですか?」
「最近そんな気がしてたの。だから家から出ずにネット注文ばっかり。でも私宅配とかは全部、葉空ヨリの名前でお願いしてるから、嫌な顔をされるようになっちゃった。こないだ、殺人鬼とか言われちゃったし、あはは」
 ヨリ先生は自虐的に笑ってみせた。いつも穏やかに見せてくれているけどヨリ先生の心も身体も穏やかでいられるわけがないのだ。私の前では軽く話してくれる姿に心が痛む。
「ごめん、まきちゃん。悪いけど段ボールは持って帰ってもらってもいいかな?」
「えっ」
「実は引っ越しを考えてるの。最近マスコミにも張られてるし……出版社との関係も一旦終わりになっちゃうでしょう。だからもうすこし田舎にでも住もうかと。今ので決意もついた! だから、ね。家の中のものを今増やしたくなくて、引っ越しが完了したら着払いで送ってくれないかな」
 ヨリ先生はそう言うとエントランスの外を見た。何かに追われているように。
「わかりました、お預かりしておきます。ヨリ先生、無理なさらないでくださいね。私は須田出版の社員ですけど、そんなこと関係なく、個人としてヨリ先生のことを心配しています。作家と担当だから、とか気にせずに友人だと思って、何でも言ってください。ご飯買ってきて、とかでもいいですよ。ヨリ先生のお力になりたいんです!」
「いつもありがとう、まきちゃん。きっと私のことを心から心配してくれてるのは、まきちゃんだけなんだろうなって思うよ。だから今すごくありがたいよ。まきちゃんは話していても裏表がなくて」
 ヨリ先生が泣き笑いのような顔に変わり、私の胸は潰されそうだった。
 そうだ。ヨリ先生は一人で戦っている。一見味方のような出版社も実は裏がある。繊細なヨリ先生がそのことを見抜けないはずがないのだ。
「私はヨリ先生のことを大切に思っています。本当に何でもおっしゃってくださいね」
「うん……ありがとう」
 ヨリ先生は言葉を詰まらせた。
 ……ヨリ先生を守れるのは私しかいない。ヨリ先生の盾になれるのは私しかいないのだ。
 私の存在がヨリ先生の少しでも支えになればいいのに。私は大量のファンレターと共に須田出版にUターンした。


 
「どうしてですか!」
 まだ奏央社の人がいるのはわかっている。それでも声を荒げてしまった。
「……はっきり言うわ。私たちは今回のことは最低限しか関わりを持ちたくないの」
 根津編集長は濁さずに私を見た。隣で田中編集長も頷く。
「ですが……」
「ヨリ先生ご自身に投稿してもらうしかないんじゃないかしら」
 根津編集長は表情を崩さない。先ほどの会議の苦しそうな顔は演技だったのか。
 あのあと、私は社に戻るとまだ話し合いを続けていた編集長たちに要望を出した。葉空ヨリが小田切明日葉であることを公表して、涌田ではないことを証明したいと。
「ヨリ先生はいじめに関与していません。涌田だと疑われているから激化しているだけで、証拠もありませんから」
「あの、でもこれから証拠が出てくる可能性がありますよね」
 奏央社の担当編集がおずおずと声を上げた。
「そうよ。名前を公開して、そこから更に悪いことになったらどうするの? 名前を公表した私たちにも批判が集まる。須田出版はヨリ先生寄りの声明を一度出してしまっている。慎重にならないと」
「まきちゃん。うちにも問い合わせがたくさん来ているのは知ってるでしょ」
 塚原さんもこれは助太刀してくれず、渋い顔を向けられた。
「もし小田切明日葉さんに不都合なことがあったなら……責められる」
「そんな……じゃあヨリ先生が涌田だと勘違いされたままでいろってことですか⁉」
「もしかしたらネットの探偵たちが涌田の現在を探し出してくれるかもよ? ほら、いじめの証拠のSNSを見つけてきたのもネットの人だったし。そういうのが趣味な特定犯だっているんだよ」
 塚原さんが私の肩を叩き軽い口調で言ってくれるが、私はそうは思わない。
「僕たち責任者の意見は一致しているんだ。このまま世間が静かになるまでは触れないでいて……半年ほど過ぎれば別名義での出版を考えている」
 ヨリ先生の前ではしどろもどろになっていた田中編集長は、私にははっきりした口調で伝えた。
「それってヨリ先生がいじめをしていても構わないということですよね?」
「そうよ。犯罪の過去や、現在進行形で悪事に手を染めているならまだしも、十五年前のこと。今度のペンネームで顔出しをしなければばれない。もしかしたら文体で気づく人もいるかもしれないけれど否定すればいいだけだわ」
「じゃあ出版社に〝芳賀穂乃花〟がいたらどうするんですか?」
 奏央社の二人はあからさまに怪訝な目つきになる。
「私は今回のこと、出版社の誰かの仕業かもしれないと思っています。ヨリ先生の本名を知っているのは出版社です。打ち合わせの中で過去にクラスメイトがいじめで自殺していると知った。それでヨリ先生を陥れようと、今回の騒動を引き起こした可能性だってあります。
 ヨリ先生仰ってましたよね。芳賀さんのことがあったから小説を書いていると。――塚原さん、ヨリ先生からそんな話聞いたことなかったですか⁉」
 私に意見を求められて塚原さんはたじろぎつつも考えてくれる。
「……そうだなぁ。打ち合わせの時に過去の経験やクラスでの窮屈さは入れ込んでるとは聞いたことがある。だけどそんな話どの作家さんともするだろ? ヨリ先生には詳しく語られたことはないよ」
「わ、私も聞いたことはありません。今回刊行予定のものはいじめを取り扱うものでしたが、元クラスメイトが自殺をしただなんて」
「でも聞いたことがある人もいるかもしれません。葉空ヨリをなかったことにしても、次のペンネームの正体が葉空ヨリだと晒されたら、それこそ須田出版も奏央社も信頼は地に落ちますよ。過去を知りながら、葉空ヨリを匿ったって!」
「別名義でお願いするとしてももっと騒動が落ち着いてからよ……とりあえず、今は様子見するしかないのよ」
「様子見様子見って一ヵ月前からずっとそうじゃないですか! 状況は悪化するばかりです!」
 声が大きくなってしまった。叫んだ後に会議室が静まり返るくらいには。
「でもここからまだ悪化するかもしれないでしょう。別名義の検討もしていられないくらいに」
「……編集長はヨリ先生の評判が落ちるかもしれないから、このままどこまで悪化するか様子を見ておく、ということですか? 評判が落ちなければ今後も起用したいけど、そうでなかったら……つまり様子を見ると言うのは……ヨリ先生が世間にどう判断されるか最後まで待つということですか⁉」
「――そういうことよ」
 編集長は私を真っすぐ見た。
「私だってヨリ先生のことは好き。だけど、私が守るべきものは葉空ヨリだけではない。須田出版、そしてすべての作家なの。ヨリ先生と関わることで須田出版の評判が落ちるのなら、残念だけど今後お仕事はできないと思っている」
「でも、このままヨリ先生の評判が落ちるのを見守るだけじゃなくて、出来ることだってありますよね⁉ 涌田ではないと否定すれば、少し批判は和らぎます!」
「それは目の前のことしか見えていない。ここでヨリ先生を守ったつもりが、逆に窮地に追い込むことだってある。私たちが静観するのはヨリ先生のためでもあるのよ」
「……でも、ヨリ先生は……! 小田切明日葉だと公表してほしいと仰っていました! ヨリ先生は過去の自分が好きではないんです。それでも公表すると仰ってくださっていて!」
「だからもうすこし事態が落ち着いてからね。ほとぼりがさめてからよ」
「まきちゃん、ゆっくり息を吸って」
 塚原さんが私の顔を覗き込んだ。その目は心配しているようにも憐れむようにも見える。
「あなたは少し冷静になる必要があるわ。今回のことがヨリ先生ではなく、他の作家さんだったらどういう対応をしていたか。それを頭に入れて行動してみて。ヨリ先生のことを特別に思っているのはわかっている。だけどそれは須田出版の社員として捨てなくてはいけない感情ね」
「これくらい作家のことを想っている担当者というのも、若くて熱くていいなあ」
 田中編集長が場を取りなすように笑った。その笑いは気持ちをバカにされているようで突き刺さる。
 ……だめだ。出版社はヨリ先生のことを商品としか見ていない。
「彼女のいうことも一理はあるよな。もう少し落ち着いて、ヨリ先生の疑惑が解ければ。今回のことを逆手にとって、過去に失った少女を救いたくて小説を書いていたと打ち出すのもいいかもしれない」
「そうね。それも全部落ち着いてからになるけど」
 二人の編集長の話が耳からすり抜けていく。 
 この二人はだめだ。どこの出版社もだめだ。私しかヨリ先生を守れない。……早く〝芳賀穂乃花〟を探さないと。
 私はその場にいられずに会議室を出た。唇をかみしめすぎていたらしく、唇から鉄の味がする。
「まきちゃん」
 後ろから塚原さんが追いかけてきた。塚原さんだって結局ヨリ先生のために動いてくれないくせに。
「あれでも編集長たちも頑張ってくれてる方だとは思うよ。これがヨリ先生じゃなかったら、ただ打ち切られてる可能性も高い。こうして会議をしたり、別名義を提案したり……」
「それはわかってます。……でもすみません、冷静になりますね」
 塚原さんにお辞儀をすると私は足早に化粧室に向かった。とにかく今はひとりきりになりたかった。
 そのとき、ポケットの中でスマホが震えた。……ノベラブルの新着投稿だったらどうしよう。最近は通知を受け取るのがひどく怖い。
 恐る恐るスマホの画面を見てみれば、それは知らないアドレスからのメールだった。――榎川小百合からだ。
 
 
 退社後、私はカフェに立ち寄った。秋吉とも会った純喫茶で、私を待つのは榎川だ。
 榎川は「夜もほとんど眠れなくて」というわりには、髪の毛をきちんとアレンジしてまとめあげていて、服装も雑誌から出てきたように洗練されていた。疲れているのは間違いないようで、濃いクマや荒れた肌をファンデを厚塗りしてごまかしていた。
「山本さんが、あなたが芳賀穂乃花を突き止めてくれるって言っていたので」
「私はそうしたいと思っていますが、出来るとは言っていませんよ」
「それでもいいです、このままじゃあたし、終わりなんです」
 激高した秋吉と異なり、榎川は終始うなだれながらぽつぽつと今の現状を語り始めた。榎川は見た目に比べてずっと幼い喋り方をする。彼女はインフルエンサーとしてPR案件や、アフィリエイト収入で生計を立てていたらしい。
「このままだと収入もなくなっちゃいます。十五年前のことがどうして今になってですか……仕事もやめて、ここまで人気が出るまで毎日投稿してコツコツ五年頑張ってきたんですよ。本だってすごく素敵なものになってたのに」
 榎川はぽろぽろと涙を零しながら、言葉を吐きだしていく。
「いじめられてるのはこっちですよ。十五年前のことだけじゃなくて、いろんなことが話題になってるんです。あたしが紹介してるPR案件は詐欺だった、とかまで言われてるんですよ。あたしには効いたから紹介してるんですよ? その人が合わないのは、その人の問題じゃないですか。なんでそんなことまで責められないといけないんですか。ひとつ悪いところが見つかったら、あたしの全部が悪くなるんですか?」 
 私は榎川の愚痴を聞くために呼び出されたのだろうかとげんなりする。十五年前のことだけでない現状の愚痴を十分は聞き続けている。
「まるであたしが主犯です……ぐすっ。あたしは秋吉くんと付き合って、いじめの原因になったかもしれないけど……一番怖いのは千尋だから。千尋に逆らえるわけないんですよ、だって市議会議員の娘ですよ。あの子、そうやって毎年誰かをターゲットにしてたんだから。あの子がいなかったら、あたしだって穂乃花のこと……」
「榎川さんは涌田亜美さんの現状はご存知ですか? 今ネットでは葉空先生=涌田さんだと言われてますけど」
「亜美なわけないですよ。なんでそう思うんですか」
 榎川は涙をいっぱいに貯めながら私を見上げた。
「Aさんと紹介されてましたし……」
「違いますよ。亜美だって悲惨です。亜美はあたしたちみたいに目立った活躍してない一般人なだけ。亜美も今回のせいで、婚約が破棄になったみたいですよ。亜美はもう地元出たんですけど、婚約者が今回の騒動見て……まあそりゃあんな日記残ってたらドン引きしますよね……でもみんな黒歴史くらいありますよね」
 ヨリ先生は、確実に涌田ではない……!
 榎川はぶつぶつと呟き続けているが、私の中でひとつしこりになっていた部分がすっきりとした。ヨリ先生が主犯でないのなら、涌田でないのなら――やはり証明しないといけない。
「ひどいですよね。千尋の旦那さんの未来も閉ざされちゃったし、お父さんの立場も危ういんじゃないかなあ。地元って噂が一番広まるでしょ? 地元の好感度が一番なのに、千尋のお父さんヤバそー」
「政治家は、つつきやすい場所を突かれるでしょうね」
「千尋の旦那さんも、お父さんも悪くはないのにね。あ、でも穂乃花が死んだとき、お父さん圧力かけたんだっけ。悪いことしてたわ」
 榎川は他人事のように笑った。
「榎川さんは〝芳賀穂乃花〟を名乗る人物に心当たりはありますか。普通に考えれば、芳賀さんをいじめていたあなたたちに復讐をしたいんだと思います」
 私は強引に話を元に戻す。このままでは榎川の愚痴に一日付き合わなくてはならない。
「怖いですよね。十五年も経ったのに。だって十五年って、一昔前は殺人でも時効になってましたよね。それなのに、こんな」
「何か覚えていませんか? 例えば芳賀さんのご家族とか、兄弟、特別に仲のいいご友人」
「んーそんなこと言われても、だって十五年前ですよ? 友達の家族とか覚えてますか?」
 榎川は話してきて落ち着いたのか涙は止まっていた。くるくると氷をかき混ぜながら天井を見上げて口を尖らせる。
「……あ。家族は思い出せないけど、友達で一人心当たりある。あたしたちを死ぬほど憎んでて復讐したい人」
 榎川は長い睫毛を瞬かせながら「なんて名前だったかな」とスマホを取り出しSNSアプリを開く。〝三年二組〟と検索すればすぐに市古高校三年二組のアルバムが出てきた。
「穂乃花の幼なじみ。えーっと……そうだ。

 ――小田切明日葉」

 すべてのピースがカチリとはまった気がした。
 そうだ、ヨリ先生が誰かに憎まれているわけない。
 芳賀穂乃花を自殺に追い詰めたわけがない……!
 ヨリ先生は――芳賀穂乃花を追い詰めた四人に復讐しようとしただけだったのだ……!

 
 芳賀さんと小田切さんは幼なじみだったらしい。多分家が近いか親が仲いいかどちらかじゃない、と榎川は言った。
「小田切さんはかなり暗くて。誰も友達がいない感じ。いつも一人で本読んでたかなぁ? 二人に共通点とかなさそうでしょう? だからあたしたち聞いたんです。なんで友達なの?って。そしたら幼なじみって言ってました。意外だったからそれはよく覚えてる」
 榎川はヨリ先生が小田切明日葉だとは想像もしていない様子で語る。ヨリ先生の言っていたことに嘘はなく、榎川も小田切明日葉のことをクラスの隅でひっそりしていて誰の記憶にも残らないような少女だと言った。
「小田切さんの今はまったく知らないです。同窓会にも来たことないし、地元にいるのかもわかんない」
「でもあの小説を止めるには、芳賀穂乃花を探すしかないんです。小田切さんについて何か思いつく点があれば教えてもらってもいいですか」
「絶対あの人が犯人だと思う」
 榎川は確信したように呟く。
「千尋なら知ってるかも。地元情報に詳しいから。てかお父さんに聞いたら調べられると思うし」
「芳賀さんや小田切さんの実家が調べられるといいかもしれません」
「わかった。実家はまだ地元にあるだろうし。じゃあ千尋に聞いたら連絡しますから、小田切さんの暴走とめてもらえます? 小田切さんが謝罪して嘘でした、て言ったら、なんとかなるかもですし」
 そのあと私は榎川との会話を適当に終わらせて、カフェを出た。
 たとえ〝芳賀穂乃花〟の正体がわかったところで、榎川たち四人の好感度が戻るとは思えない。過去のSNSの記事はとても捏造とは思えないし、彼らが行ってきたことは事実なのだから。
 だけどヨリ先生は違う。ヨリ先生は世間の声から救うことができる……!
 家まで歩きながら、集めたパーツを組み立てていく。
 ヨリ先生が〝芳賀穂乃花〟だった。
 だとすれば様々なことの辻褄が合うのではないだろうか。
 きっと半年前、ヨリ先生は秋吉に声をかけられたときに復讐を思いついたのだ。でなければヨリ先生が秋吉についていくはずはない。秋吉のような男を素敵だと思うはずがない。
 秋吉の現状をきいて、彼がブレイクするのが許せず、主犯の三人の状況も追ってみたのだろう。有名な榎川や忠村だけでなく、彼女たちのSNSアカウントをたどればどこかで涌田の現在も知ったのかもしれない。
 しかし、復讐を計画したとして。
 これからブレイクしていく秋吉や榎川は話題性に足りない。売れていない俳優と単なるインフルエンサーの十五年前のいじめはそこまで大きなニュースにならなかっただろう。大きな話題にならなければ、忠村の父親にもみ消されてしまうかもしれない。目立つ職業についていない涌田を告発したところで、何にもならない。
 だけど、それがいじめを題材に描いている、誰もが知っているベストセラー作家だったら……!?
 そして今、実際に四人には大きな制裁が下っている。
 身体がぶるりと震えた。口元が緩むのを抑えられない。
 ――ヨリ先生は、私が思っていた通りの人だった。
 ヨリ先生がいじめに加担などしているわけない。芳賀さんを死に追いやったわけがない。ヨリ先生はずっと親友の復讐のチャンスを狙っていたのだ。
「そのためにヨリ先生は自分を犠牲にしたの……」
 思わず足を止めて呟いた。
 自分の知名度を使って、いじめを告発する。それはヨリ先生の思惑通りに成功した。
 だけど……これではヨリ先生も共倒れじゃないか。
「ヨリ先生はそこまでして……」
 ヨリ先生は、芳賀さんの自殺のもとにいじめを題材とした小説を書いていると言っていた。きっと芳賀さんを救えなかったことをヨリ先生はずっと悔やんでいたのだ。
「自己犠牲が過ぎますよ」
 呟きは涙に変わる。ヨリ先生を信じていてよかった。だけどこれではあんまりじゃないか。四人への復讐は成功しても、ヨリ先生は……!
 私はSNSで〝葉空ヨリ〟と検索してみる。

【いろんな出版社が刊行中止発表し始めた】
【蛾♡観察日記を書いた大先生ですからww】
【いじめの主犯が書くいじめの小説に感動してた人たち、どういうきもち?】
【信じられない。ヨリさんのことずっと尊敬して、小説に救われてたのに】
【つらい 葉空ヨリに裏切られた死にたい】

 ……悔しい。どうして誰もヨリ先生のことをわかってくれないのだろう。なぜファンまでもが信じられないのだろう。
 ――小説を読めば、わかることじゃないか。
 ヨリ先生が人を殺すわけがない。ヨリ先生は人を救う人なのだ。そしてこれからも救わなくてはならない。
 私はスマホを取り出すと根津編集長に電話をかけた。
「はい、根津です。どうした、まきちゃん」
「編集長。ヨリ先生を救いましょう」
「……どうかしたの」
「小田切明日葉さんは、芳賀さんの親友だったそうです! 榎川が証言しました」
「……え?」
 戸惑っている雰囲気の編集長の声が聞こえる。私は頭に浮かんだことをすべて話した。
 電話口の向こうで、編集長の息を飲む音が何度か聞こえた。
「そう。……そうだったの。ヨリ先生……」
 心なしか編集長の声が弱弱しい。
「ですから大丈夫です。小田切明日葉について批判があるわけないんです。芳賀穂乃花はヨリ先生だったんですから。だから編集長、ヨリ先生は小田切明日葉で、涌田亜美ではない、と公表しましょう」
「小田切明日葉さんがいじめに関与していないことはわかった。だけど、ヨリ先生が涌田でない証拠は?」
「それも榎川が証言しました。涌田は地元を出ているそうですが、顔も卒アルから変わっていません。榎川が三ヵ月前に集まったときに撮った写真を見せてくれました。涌田も涌田で今大変みたいですよ」
「そう、だったのね。ヨリ先生の想いはわかった。私も今ヨリ先生が責められていることはつらい。――でも、様子を見ましょう」
 また……様子を見る……?
「なぜですか!? ヨリ先生への悪評は日に日に加速しています! 私たちがヨリ先生を守らないと!」
「急いでも仕方がないからよ。もう少し落ち着いてから、涌田ではなく小田切明日葉だと公表しましょう」
「だけど……! 今が一番話題なんですよ、今否定しないと……!」
 誤報でも、過激な内容は驚くほどのスピードで広がっていく。話題の頂点でいるときでないと、誤報だと完全否定することができなくなる……!
 一度広がってしまったあとに「あれは間違いでした」と言っても、それは広まりにくい。過激であれば過激なほど情報は広まり、正しい情報だからといって同じくらい広がるわけではない。
 誰も無責任に受け取っていくのだ。……今、話題のうちに否定しないと。落ち着いたときに、涌田は葉空ヨリではありませんでした、と言っても。多くの人の中に、葉空ヨリはいじめの主犯格だった、という情報が残ってしまうのだ。
 私はそれを涙ながらに編集長にぶつける。
「まきちゃん。冷静になって考えてみましょう」
「わかりました」
 編集長はヨリ先生のことを信じてくれていない、それがよくわかった。
 ヨリ先生がなぜ小説を書くのか。
 その理由がわかったのだ。芳賀穂乃花のためだ。それならわかるだろう、ヨリ先生がいじめに関与していないと言うことくらい。
「そうね。ヨリ先生とも改めてお会いする機会を作りましょう。なぜこんなことをしてしまったのか」
「なぜって芳賀さんのためじゃないですか」
「ヨリ先生は芳賀さんのご友人で、彼女のために動きたかった理由もわかる。だけどヨリ先生がしたことは善行だとは言い切れない。復讐をして彼らに制裁を下すように仕向ける。感情論では理解できるし、私個人としてはわかるのよ。でも、須田文庫の編集長として、業務上のパートナーとしては受け入れられないの。今回のことは取引先も大きく巻き込むことで、リスクも考えずにご自身の復讐に走られたのなら……それは肯定できない」
 怒りでスマホを投げつけたくなった。リスクばかり考えてヨリ先生を救おうとしないのに、自分たちに不利益が出たことに対しての責任だけは取らせようとするのか!
 須田出版はヨリ先生を守るつもりも、責任もないのに。
「わかりました。明日ご相談させてください」
「ちょっと、まき――」
 私は返事を待たずに電話を切った。これ以上編集長の声を聞きたくなどなかった。
 須田出版はヨリ先生の味方ではない。ヨリ先生が小説を書いたきっかけはこの件が根っ子にあるのだ。それならば、過去についても深く理解するのが編集者ではないか。今回の出来事に対して責任を押し付けるようなことは決して許されない!
「編集長も、須田出版もだめだ。……私がヨリ先生を守らないと」
 別に私はこれからどうなったってよい。私が責任を取ってでも、ヨリ先生を守る。私は須田出版の社員ではなく、槇原羽菜としてヨリ先生を大切にするだけだ。
 私はSNSを開くと、自身のアカウントから須田文庫のアカウントに切り替えた。

【お知らせ 弊社で書籍を刊行されている葉空ヨリ先生について
 現在、葉空先生について様々な憶測が飛んでおります。
 葉空先生の本名について弊社にもたくさん問い合わせをいただいております。事実無根の誹謗中傷が続いたため、葉空先生とも相談のうえ、噂をされている人物とは異なることをご報告いたします。葉空先生は〝小田切明日葉〟さんです。
 個人を貶める内容の投稿、ならびに拡散について、固く禁じます。悪質な投稿、記事の拡散につきましては法的措置を検討いたします】

 文章を打ち込むと先日撮っておいた社内のデータベースのスクショを添付して、私は力強く投稿ボタンを押した。
 ヨリ先生は私が守る。
 すぐにスマホの電源は落として、自宅に戻った。
 
【え、小田切明日葉ってこれ?】
【うわまじか、意外】
【面影ないじゃんwww】
【葉空ヨリ整形確定】
【でも小田切が芳賀をいじめられるか? どっちかていうと小田切いじめられるほうだろ】
【絶対できない。葉空ヨリを犯人にしようと思った人の仕業】
【葉空ヨリを涌田亜美だと叩いてた人、訴えられるんじゃない?】
【整形なのはちょっとショックだけど、ヨリ先生が芳賀さんいじめてなくて本当によかった】
【あの恐ろしいブログの主だったらヨリさんの小説読めなくなるところだった】
【じゃあ涌田亜美はまだ見つかってないだけ?】
【てか涌田最低だな。自分のせいで葉空が叩かれてんのにスルーかよ】
【やめようよ、もう、犯人探し。また誰かを追い詰めるだけだって】
【葉空先生叩いてたひと、謝って!】

 世の中の声は、私の想像通りに進んでくれた。
 今後はヨリ先生が芳賀さんのために小説を書いていたことをエッセイや何かしらで語れば。きっとヨリ先生の好感度は戻っていく。
 大きく息を吐く。やはりこのタイミングが正解だった。むしろこのタイミングでなければヨリ先生を救うことなんてできない。
 ずっとスマホが震えている。きっと編集長や塚原さんからお叱りの電話だ。
 どれだけ叱られてもいい。私はクビになったとしてもいいのだ。ヨリ先生を守ることが出来たなら。私は久しぶりにぐっすり眠ることが出来た。


 出社してすぐに私は会議室に呼び出された。静かな会議室のなかで、根津編集長が厳しい顔をして立っている。
 私にはもう何も恐れるものなどない。編集長に向かってまっすぐに進む。
「槇原さん、なぜ呼び出されたかわかっていますよね」
 根津編集長はいつものように砕けた口調ではなかった。
「はい」
「アカウントを個人の考えで使うことを許可した覚えはありません」
「ヨリ先生の担当編集者として当然のことをしました」
「はあ……。もう投稿してしまったからには仕方ないけれど。削除することもできないし」
 一度投稿された須田文庫のSNSは瞬く間に拡散された。普通の呟きと違って公式アカウントの発言は、一度発してしまったら削除もできない。
「アカウントのパスワードは変更しました、今後の槇原さんに権限はありません」
「わかりました」
「それからヨリ先生の担当からは外れてもらうことになります。今後ヨリ先生との連絡も禁じます。ヨリ先生には私から謝罪しておきます」
「わかりました」
 ヨリ先生が望んで私に依頼をしてくれたことなのだから謝罪など必要あるのだろうか。私はヨリ先生のために行っただけだ。
「話は以上です。他の先生への対応をおろそかにしないように」
 何か処罰でも下されるかと覚悟していたけれど、厳重な注意と担当を外されることだけで済んだ。
 結局社員であれば守られる。私よりもヨリ先生の方がずっと価値があるというのに。須田出版の社員というだけで。
 会議室から出ると、白いシャツの男性が私を待ち構えていた。片手をあげて「お疲れ」と笑顔を作る彼は塚原さんだ。
「やらかしたねー」
「からかいにきたんですか。私はしたことを後悔していませんよ」
「落ち込んでいるかと思って励ましに来たけど、その必要は全然なさそうだ?」
「正しいことをしたと思ってますから」
 私はそれだけ言って廊下を進むが、塚原さんは隣に並んでくる。
「今回はまきちゃんが正解かもね。昨日SNSを見てたけど、見事にヨリ先生の疑いが晴れたって感じする。昨日まきちゃん、榎川と会ったんだろ? 俺にもその話聞かせてよ」
「なんで知っているんですか」
「昨日まきちゃんが編集長に電話をかけたときに隣に俺がいたから。今から少しだけお茶どう? 一杯奢るよ」
 塚原さんは、私の行為をプラスに捉えてくれているらしい。
「わかりました」
 私は榎川から聞いたことを話した。口からすらすらと言葉が飛び出してくる。私も誰かにヨリ先生の素晴らしさを語りたかったらしい。ヨリ先生は芳賀さんのために自分の身を削って告発したと。
 ビルの一階にあるコーヒーショップに向かうために、私たちはエレベーターに乗り込んだ。
「へえー、まきちゃん探偵みたいだね」
「榎川が幼なじみだと教えてくれただけですよ」
「それで復讐のために、自分自身を使ったのかあ。ヨリ先生ならそれくらいしそうだな。あ、まきちゃんメニュー決まってる? モバイルオーダーしとくわ」
「じゃあカフェモカのトールで」
「おっけー」
 塚原さんがスマホに打ち込む様子を見ながら、安堵する。編集長は立場があるから、私を叱るしかなかったが私の行為は間違っていなかったのだ。
 一階のコーヒーショップに入り、適当な席に座ると塚原さんがプラスチック容器に入ったコーヒーを渡してくれる。
「はい。カフェモカ」
「ありがとうございます」
 塚原さんはイチゴのスムージーを飲みながら、
「個人的にはよくやった、と思うけど。まきちゃんはもうちょい立ち回りうまくなったほうがいいかもね」
「空気をよんでたらヨリ先生のことは守れません」
「出た、ヨリ愛」
 塚原さんは笑うけど、嫌な含みはない。私もようやく笑う余裕ができた。ここ最近ずっと顔がこわばっていたかもしれない。
「てか担当外されたんでしょ。まきちゃん、部署異動あるかもね。ま、結構叱られたなら他の部署のがやりやすいかも」
「ヨリ先生の担当でないのならどの部署でも私は構いませんよ」
「はいはい。でも本当これ以上暴走するなよ。俺もかばいきれないから」
「それは……すみません」
 塚原さんが十分ほど話に付き合ってくれたから張り詰めていた心も溶けていく。ひとまずヨリ先生を守れたのだ。これから気持ちを入れかえて他の仕事をきちんとしよう。
 私は残ったカフェモカを持ち、エレベーターに乗った。
「塚原さん、ありがとうございました」
「いいよいいよ。あ、俺も根津さんに用事があるから第三寄ってくよ」
 私たちは同じフロアで降りて、第三編集部のあるオフィスに向かった。
 オフィスに入ってすぐに、強烈な違和感を感じた。私のいじめが始まったあの日の朝のような大きな違和感。
 いつもガヤガヤとしているオフィスは静まり返り、十名ほどの社員が皆編集長の元に集まっていた。それは異様な光景で、隣にいる塚原さんも不思議そうな表情を向けている。
 皆が一斉に顔を上げて、私を見た。
 冷たい針のような視線だ。
 誰も何も発さないが、私を射抜くように見ている。
 まるで時がとまったみたいに静かだった。
 昨日の投稿を咎めるにしては、空気があまりにも重すぎる。
「なになに、どうしたんですか?」
 塚原さんが軽い口調で皆に微笑みを向けるが、彼も異様な空気に気押されて口元がひきつっている。
「大変なことになったわ」
 編集長が重い口を開いた。
 この騒動が始まってからこのセリフを聞くのは何度目だろうか。けれど、これほどまでに嫌な予感がするのは初めてだ。

「芳賀穂乃花の小説が更新された。――私は小田切明日葉に殺された、と」
 あなたが自分で名乗ってくれたなら、私も名前を呼びましょう。
 私だってあなたを葉空ヨリとか、青春小説家とか、Aさんとは呼びたくなかったの。
 
 小田切明日葉ちゃん。
 あなたの名前が私は大好きだったから。
 
 私の大切な幼なじみで、大切な親友。
 
 ――そして、私を殺した人。

 
 私と明日葉の出会いはゼロ歳までさかのぼります。
 私は明日葉がお腹の中にいる頃から、お友達になるんだよ、と母によく聞かされていました。もちろん私も赤ちゃんだったから記憶はないんですけどね。
 母親同士が友人で、子供が同齢で同性。
 そして学区的に、中学まで同じ学校だと確定していましたから、親が仲良くさせたがるのは当然のことでした。
 私の母は幼なじみというものに憧れがあるようで、
「あなたたちは姉妹のようなものだから。お互いを大切にしなさいよ。一生ものの友人だから」と言い聞かせられて育ったのです。
 それは明日葉も同じだったようで、私たちは幼稚園も小学校も中学校も一緒にいました。
 
 関係が変わったのは高校の頃です。
 本当なら私たちは別の高校に通う予定でした。
 ですが、私が受験に失敗したことで明日葉の高校に入学することになりました。
 あのときの明日葉の顔を忘れられません。
 彼女は「いつまでも穂乃花と一緒にいたくない。姉妹のような関係が苦しい」と言いました。
 私たちは長い時間を経て、家族になってしまっていたのです。

 私たちは三年までクラスも別でしたし、登下校を共にすることがなく、学校での関係はほとんどないと言ったも同然です。
 たまに家族同士で遊ぶことはありましたが、思春期の親戚付き合いのようで気恥ずかしい関係だったのを覚えています。
 私たちは他人なのに家族のようになってしまっているんだなあとなんだかおもしろくなったものです。
 あまり会話がなくなっても、大切に思うのが家族ではないでしょうか。
 少しばかり明日葉と疎遠になりましたが、それでも明日葉を大切に思う気持ちは変わっていませんでしたし、それは明日葉も同じだと信じていました。

 私たちは共に三年二組となりました。
 明日葉の気持ちを汲んで、私は明日葉から離れてSさん、Cさん、Aさんと親しくなりました。
 明日葉とCさんは一年から同じクラスで、Cさんは明日葉を「玩具」と呼びました。
 それがどういう意味なのか知るのはクラスが始まって数日のことです。

 私がいじめられた理由は明確だと言いました。
 一つは、Mくんと付き合っていたこと。
 もう一つは、明日葉を助けたこと。

 彼女たちに無視をされても、悪口を言われても、暴力を振るわれても。Aくんに二股をかけられても、他の男子に襲われそうになっても。
 
 私には唯一の存在がいたから。
 明日葉がいてくれたから。

 それなのに。明日葉は私を裏切った。
 私を殺したのは、最後に私の背中を押したのは、小田切明日葉。あなたです。
 

「な、なんですか……これは」
 声は震えていて音程もおかしくて言葉になっていなかった。
 本当に恐ろしいときは汗など一つも出ない。ただ、ただ目の前の文字を頭に入れることを拒否していた。
「終わりですね」
 編集部の誰かが呟いた。女性の声だが、それが誰なのか確認する余裕すらなかった。指先ひとつすら動かせないまま、編集長のノートパソコンを見つめる。
 視線が私に突き刺さるのは感じるが、誰も私を責めなかった。
 誰か責めてくれればいいのに。
 誰も何も言わずに、沈黙だけが続いている。
「……様子を見るしかないわね」
 きっと数秒の出来事だ。編集長がいつもの台詞を発した。
 空気はようやく溶けて、皆のろのろと自分の席に戻っていく。誰も私がいないかのようにすり抜けていく。
「編集長……」
 私の想いを代弁して、塚原さんが呟いた。
「匙は投げられた。あとは世の意見を待つだけね」
 編集長は青い顔で呟いた。
「ま、まあ! この小説、小田切さんとの思い出を語ってるだけかもしれないですよ。次話が更新されたら……」
 塚原さんが明るい声を出してくれたが皆の視線を受け、言葉が萎んでいく。
 今回更新された小説を前向きにとらえる人は誰もいない。
 明日葉は……ヨリ先生は、自分を助けてくれた家族のように大切な親友を裏切った。
 そして、それが彼女にとどめをさした。……そう捉えられる文章だった。
 ヨリ先生のことを擁護など、できない。
「……だれが」
 勝手に口が動いた。
「誰が芳賀穂乃花なの……」
 私は編集部を見渡した。一人一人の顔を見つめていく。声を発した私に視線は集まっていたけれど、私は視線が絡むと皆気まずそうにさっと目をそらした。
 最後に塚原さんを見た。
「まきちゃん。ちょっと早いけど、ランチでも行く?」
 優しく声をかけてくれるのはいつだって塚原さんだ。目にははっきりと同情が浮かんでいる。
「……だれが、芳賀穂乃花なんですか」
 私は塚原さんに向かって言った。いや、ほぼ叫んでいたかもしれない。
「だれが芳賀穂乃花なんですか!」
「まきちゃん、落ち着いて」
「わ、わたしが……」
 芳賀穂乃花の小説は、今頃拡散されている。何万もの人がこの小説を期待している。
 そして、彼らは芳賀穂乃花を殺したのは葉空ヨリだと感じるだろう。それが本当か嘘か事実を確かめるでもなく。
 手からカフェモカが滑り落ちて、床にぶちまけれられていく。
 その光景がスローモーションに見えて、私は茶色の中に崩れ落ちた。


 名前を公表しないことは、最後の砦だったかもしれない。これは〝芳賀穂乃花〟の罠だったのだ。
 とはいえ小田切明日葉=葉空ヨリ、だと信じない人も大勢いた。卒アルの小田切とヨリ先生は似ても似つかないからだ。しかし、榎川が証拠を投稿した。

【みなさん、今回はご迷惑をおかけして本当に申し訳ございませんでした。芳賀さん、小田切さん、ごめんなさい】

 榎川がミンスタグラムに投稿したのは、プリクラだった。
 芳賀穂乃花と冴えない女生徒――小田切明日葉が二人でうつっているものだ。卒アルではこちらを睨みつけてむすりとした表情の小田切明日葉は、プリクラではにこやかに笑っていた。
 ……その笑顔は、ほんの少しヨリ先生を感じられるものだった。
 目も鼻も体形も髪型も雰囲気はまるで違ったけれど、笑った時の口もとが似ていた。
「榎川……!」
 怒りの声が漏れた。自分が追い込まれたのなら、ヨリ先生も巻き込もうと思ったのだろう。一人で自爆していればいいのに、浅ましいことだ。ごめんなさいと言いながら、それはヨリ先生を叩けと笑っている投稿だ。
 過去のことを悔いることもなく、誰かのせいにしようとする。そんなことをしても自分が日の目をみることなど、二度とないのに。
 榎川が小田切の写真を晒したことに対して非難が集まっていたが、榎川が削除することはなかった。 
 浅ましいのは榎川だけではない。秋吉は自分をつけ狙っている週刊誌に、葉空ヨリと食事に行っていたことや、矛先を自分に向けようとラジオ局での密会を仕込まれたことを伝えていた。ワイドショーでは相手にされない妄言だったが、ゴシップ記事は妄想でも大々的に報じるらしい。
 秋吉のくだらない憶測は、事実に変わってしまう。
 秋吉や榎川を炎上させたのは、世間なのに。二人が落ちぶれたのは、葉空ヨリの策略だという人間も少なくなかった。
 SNSはもう見たくもない。
 見なくてわかる。葉空ヨリは、もう二度と表に立つことができない。
 

 私は謹慎処分を言い渡された。
 ここでクビにはならないところが、さすが大手出版社の正社員といったところだろう。
 二週間休みとなり、葉空ヨリに関して二度と関わらないように誓約書まで書かされた。それを破るとクビになるのだと思う。
 二週間後に戻ったとしても、第三編集部にはもう戻れないはずだ。
 塚原さんだけが気を遣って、社内の様子を教えてくれた。
 葉空ヨリとしての復帰は完全に不可能。ほとぼりが冷めれば、別名義での仕事は受ける。というものだ。きっとどの出版社も同じ対応を取るのだろう。
 ……〝葉空ヨリ〟は完全に消えてしまうことになった。

 
 芳賀穂乃花の最新話が投稿されて、私が謹慎となって三日目。塚原さんから電話がかかってきた。
 彼は私を元気づけようと、一連の件に関係ないことから話し始めたが、私はそんな気持ちにはなれずストレートに訊ねる。
「芳賀穂乃花は誰なんでしょうか」
「んー、ヨリ先生じゃなかったってことだよな……」
 塚原さんはしばらく唸ってから、考えるように言った。
「はい。さすがにヨリ先生もここまでしないと思います。自分の作家人生の終わりですよ」
「でも芳賀の最新話は、ヨリ先生しか書けないんじゃない」
「そうでしょうか。誰だって書けますよ。本当に幼なじみだったかもわからないですし、幼なじみだと知った人間が勝手に想像して脚色してるかも。それを否定できる人はいません。誰も小田切さんとは親しくなかったでしょうし、芳賀さんが亡くなっていて、ヨリ先生は否定できる立場にはいません」
「そうなると出版社の人間が怪しいってわけ?」
「何もわかりません。でも私はヨリ先生を信じているんです。きっと何か理由があったはず。……ところでヨリ先生はどうされていますか?」
 訊ねれば電話口からしばらくの沈黙が返ってきた。
「んー、伝えるか伝えないか迷ったけど。一応言っておく。……ヨリ先生と連絡が取れなくなった」
「えっ……!?」
 塚原さんによると、芳賀の最新話が投稿されてからヨリ先生と連絡が繋がらなくなったそうだ。編集長は私がしでかした投稿についての謝罪をしたかったがメールは返ってこず、電話も出ない。今まで連絡が繋がらなかったことは一度もなかったという。
 ヨリ先生にご家族はおらず、連絡を取れる相手もいない。塚原さんが他のヨリ先生の担当者に確認を取ったが、誰も連絡がつかないらしい。
「警察に届けたんですか?」
「いや、まだ三日だし……今回の件で心の整理がつかないだけじゃないかって」
「大丈夫なんですか!?」
「わからない。だからみんな心配はしてるよ」
「心配って……何かあってからじゃ遅いんですよ」
 私は口を抑えた。塚原さんは私を気遣って電話をかけてくれたのにこの言い方は適切でなかった。
「すみません」
「いやいいよ。俺も心配だからさ。だからこうしてまきちゃんに伝えてる。ヨリ先生のことを心から心配してるのはまきちゃんだけだから。まきちゃんならヨリ先生の支えになってくれるかもって」
「塚原さん……ありがとうございます」
 私はお礼を言って慌てて電話を切った。
 誰もヨリ先生の安否を確かめていないことは腹立たしかったが、私が誰かに怒る資格などないということは痛感している。私がヨリ先生を追い詰め、葉空ヨリを世間的に殺してしまったのだから。
 だからといって、このままヨリ先生の安否がわからないのは恐ろしい。どうせ出版社の面々は心配だね、と言いながら何もしない。大事になったときの責任など取れないからだ。
 着ていたジャージを脱ぎ捨てて、適当にその場にあったシャツとパンツを身に着けると、私は家を飛び出した。
 もうヨリ先生に関わるなと言われているけれど、ヨリ先生の命がかかっているのだから話は聞いていられない。解雇されても別に構わない。
 大通りまで出ると私は急いでタクシーに乗り込んだ。電車に乗っても三十分もあればヨリ先生のマンションには行けるが、一分でも早くヨリ先生の安否を確かめたかった。 
 ヨリ先生のマンションまで到着し、エントランスに進む。オートロックのインターホンでヨリ先生の部屋番号を押すが、返答はない。何度か押し続けたが、反応はなかった。
 広いエントランスの奥には、コンシェルジュが常駐している。私はカウンターまで行くと、男性のコンシェルジュに声をかけた。
「すみません、私須田出版の槇原と申します。葉空先生……小田切さんと予定があるのですが……」
「須田出版の方が、お越しになった場合こちらをお渡しするように伺っております」
 コンシェルジュは白い封筒を手渡した。何もロゴも入っていないシンプルなものだ。
「それから出版社の方がお越しになった場合の伝言も預かっております。葉空様はお引越しになりました。しばらく静かに過ごしたい、改めて連絡するまで待っていて欲しい、ということです」
「ど、どちらに引っ越されたのですか?」
「私も存じ上げません」
 コンシェルジュは柔らかく微笑み、これ以上何を聞いても無駄だとわかる。
 私は彼から離れると、エントランスのソファに腰かけ、ヨリ先生の封筒を開くことにした。
 きっと根津編集長宛だが、勝手に見ることの罪悪感などもうなかった。ヨリ先生のことを知りたいその一心だ。しかし現れた文字は――。

【まきちゃんへ。信じてくれたのにごめんなさい。ありがとう。葉空ヨリ】

 意外なことに私宛へのメッセージだった。目頭が熱くなり、文字がにじむ。
 ヨリ先生は、私がここまで来ることをわかっていたのだ。私がヨリ先生のことを信じていることを、信じてくれている。
 私がヨリ先生を窮地に追いやってしまったのに、私にありがとうと言ってくれている。
 せっかくヨリ先生からいただいた手紙なのに、私の瞳から落ちた水滴がぽたぽたと滲んでいく。
 ――私だけは、ヨリ先生を信じる。
 あの小説はヨリ先生を陥れたい誰かの策略だ。
 小田切明日葉について真実を含んでいたとしても、なにか理由があるはすだ。ヨリ先生はこんなに優しい人なのだから。
 ヨリ先生は、今どこで何をしているのだろうか。幸い私は謹慎中だ。時間だけはたっぷりある。ヨリ先生を探さなくては。あなたを信じると伝えなくては。
 私はポケットからスマホを取り出して、電話をかけた。
「もしもし、榎川さんですか。須田出版の槇原です。今よろしいでしょうか」
「槇原さん? ああ、葉空の担当者か。なんですか、もしかしてあたしに怒ってます?」
「プリクラの件は構いません。それよりも以前お願いしていた芳賀さんや小田切さんの実家、わかりましたか?」
「わかったけど……でも、どうするんですか? もう今さら意味なくないですか? 葉空も終わりでしょ?」
 諦めたような拗ねた口調が返ってくる。
「私は真実が知りたいんです。お願いします、教えてください」
「あたしにはもう関係ないから、まーいいですよ。送ってあげますよ」
「ありがとうございます。ところで先日更新された芳賀さんの小説は事実が書かれていたのでしょうか」
 榎川は考えているのか「うーん」とくぐもった声が聞こえる。
「小田切さんが穂乃花を殺したっていうのはよくわかんないです。でも、穂乃花がいじめられたきっかけはあってますよ。元々小田切さん、千尋の玩具だったんですよ。あ、あたしはクラス違ったからやってませんよ。それで三年も小田切さんをいじめようとした千尋に穂乃花がやめてって言ったのはほんとです。実はあたしの幼なじみだからって。千尋はおもしろくなかったみたいだけど、そのときはやめました」
「では三年のときに小田切さんのいじめはなかったと」
「クラス変わったばっかりだったし千尋も猫被ってたのかな。ま、とにかく小田切さんに対してあたしたちはなんにもしなかったですよ。千尋は嫌いみたいで悪口言ったりしてたけど、穂乃花の前ではなかった。でも、秋吉くんの件があって。私と穂乃花がもめてうまくいかなったとこに、千尋が実は私も穂乃花むかついてたんだよねって感じで、いじめが始まった感じですね」
「なるほど……では小説は事実なんですね」
「うん、だからあたしもあの小説を投稿してるのは小田切さんだと思ったの。でもあの感じじゃ小田切さんじゃないですよね。まさか葉空ヨリが小田切明日葉なんてねー」
「他に心当たりはありませんか」
 軽い調子でしゃべっていた榎川の声が固く変化した。
「あるとしたら……怖いんだけど、穂乃花の幽霊じゃないですか? 死んでも呪ってやる、みたいな。ちょっと怖くなってきたんです。だから穂乃花のお母さんに聞いてみてくださいよ」
「わかりました。では連絡先をお願いしますね」
「はいはい」
 電話を切るとすぐに榎川はメッセージをくれた。
 
 
 翌朝、私は午前中の新幹線に乗り愛知県に移動した。F市は名古屋駅から電車で一時間ほどのところにある。田舎というほどでもないが、車がないと不便などこにでもある地方の町だ。私の地元とも雰囲気が似ている。閉鎖的な村でもないのに、どこか窮屈さを感じられる町。
 芳賀さんはF市から二つ離れた市に住んでいるらしい。私は市古高校の最寄り駅を通り過ぎて芳賀さんが住む町に到着した。
 駅から直結の新しいマンションに芳賀さんは住んでいる。モダンなエントランスのオートロックで1003を押すと「はーい」と声がする。
「こんにちは。須田出版の槇原と申します」
「ああ、昨日電話をくれた編集者さん。どうぞ」
 柔らかな声が聞こえてきて、私は十階まで上がった。
 出迎えてくれたのは小柄な女性だ。丸い瞳は芳賀穂乃花を思わせる。
「お忙しいでしょうに、こんなところまでよく来てくださいました」
 彼女はスリッパを出しながら、好意的に私を受け入れてくれた。
 昨日、榎川から教えてもらった電話番号にかけたところ快く住所を教えてくれた。
 こうしてヨリ先生の担当者を招き入れてくれる時点で、芳賀さんがヨリ先生に悪意を持っていないことは明らかでほっとする。
 マンションは2LDKで、田舎にあるとは思えないオシャレな雰囲気のマンションだった。通されたリビングは窓が広く見晴らしもよく、広さも二十畳はある。芳賀さんの実家は裕福なのだろうか。
 芳賀さんは私をダイニングテーブルに座らせると、紅茶を出してくれた。
「少し散らかっててすみませんね」
 彼女の視線の先にはいくつかの段ボールが見えた。引っ越し用の段ボールだ。
「いえ、こちらが急におしかけたものですから。引っ越しされたところなんですか?」
「ええ、まあ。明日葉ちゃんが引っ越したらどうかって一ヶ前くらい前に手配してくれて。まだ片付けられていないのは恥ずかしいんですけど」
「ヨリ先生と……いえ、小田切さんとは今も親交があるんですか? 小田切さんが葉空ヨリ先生だとご存知だったのですよね」
 芳賀さんも私の向かいの席に座ると、頷く。
「明日葉ちゃんはずっと私のことも心配してくれているんです……槇原さんがここまで来てくださったのは、明日葉ちゃんが今大変なことになっているからでしょう?」
「そうです。……とおっしゃるということは、芳賀さんは小田切さんを恨んではいないのですか?」
「私が明日葉ちゃんを? 恨むわけないわよ」
 芳賀さんが目を見開くと、その顔は卒業アルバムの穂乃花そっくりに見えた。
「もちろん穂乃花を追い込んだいじめは許せない。だけどそれを明日葉ちゃんに押し付けるわけなんてないわよ。きっと穂乃花も。たしかに明日葉ちゃんは穂乃花のいじめを止められなかったかもしれない。だけど、明日葉ちゃんの状況で誰が止められるっていうの? 明日葉ちゃんが悪いのなら、私だって同じよ。娘の異変に気づけなかったんだから」
 芳賀さんは涙をこらえながら言った。
「明日葉ちゃんは十五年前からずっと穂乃花のことを悔やんでいて。それで、二度と穂乃花のような子が出ないようにってお話を書いてくれてるでしょう」
「はい、そうおっしゃっていました」
 ヨリ先生の言っていたことはまたひとつ〝本当〟だったと安堵する。
「それに明日葉ちゃんはその印税の一部を私に送り続けてくれてる。本当なら穂乃花がしていた親孝行を私にさせてって言ってくれるの。私も最初は断ったのだけど、それも明日葉ちゃんの贖罪になるのなら、と思って」
「そうだったんですね」
「だから、今明日葉ちゃんがバッシングを受ける意味がわからないの」
 芳賀さんは涙を目にためて、私を向いた。
「穂乃花の名前を騙って、明日葉ちゃんを貶めるなんて許せない。穂乃花も望んでいないことよ」 
「私もそう思っているんです」
 思わず食い気味に返答してしまったが、芳賀さんは嬉しそうにはにかんでくれた。彼女の瞳から涙がこぼれおちる。
「明日葉ちゃんのことを信じてくれている人がいてよかった」
「だから私に会ってくださったんですね」
「ええ。明日葉ちゃんをどうか守ってください。明日葉ちゃんは母子家庭の一人っ子だったけど、母を亡くしていて……だから私は明日葉ちゃんを子どものように思ってる。優しい子なの。今回私を引っ越しさせたのも、今回のことを予見をしてだと思う。F市に住んだままだったなら、忠村さんに何か言われるかもしれないし」
「地元の有力者なのですよね」
「ええ……本当に許したくない相手だわ」
 終始優しそうに見えた芳賀さんの顔が初めて歪んだ。
「明日葉ちゃんは十五年ずっと穂乃花と向き合ってくれていた。もう過去から解放されて幸せになってほしいのよ」
「芳賀さんから、今私に話してくださったことを公表することはできますか?」
「私に協力できることなら。私はもういいのよ。でも明日葉ちゃんはまだ若い。それに才能だってある。穂乃花みたいな子を小説の力で救ってほしい」
 芳賀さんの真剣な言葉に私の涙もせりあがってくる。
 そうだ、ヨリ先生の小説は人を救う。ここで終わらせてはいけないのだ。
 私は芳賀さんに、小田切明日葉を恨む人間がいないか、芳賀穂乃花と親しい人は他にいないかを、を訊ねた。芳賀さんは小説を更新し続けている〝芳賀穂乃花〟に心当たりはないそうだ。
 でも大丈夫だ。芳賀さんが、ヨリ先生に対して感謝こそすれ恨みはないこと。芳賀穂乃花も同じ気持ちであること。芳賀穂乃花のために十五年間小説を描き続けたと発表すれば、世間ではそれを美談と受け止めてくれるだろう。
  
 
 私はF市に戻ると、数日滞在予定のホテルにチェックインした。コンビニでお菓子をいくつか購入し、駅前でタクシーに乗りこむ。
 F市中心駅から車で二十分離れた場所まで移動する。車は坂道を上り、とある山の中に入った。木々が濃くなり途中で道が細く途切れたのでタクシーから降りる。
「このあたりのはずだけど……」
 私はスマホの地図を確認しながら細い道を進む。細いが人の手で整えられた道だ。ほんの一分も歩けば、見晴らしのよい墓地が現れた。
 私はカバンの中から紙を取り出した。指定された場所まで向かうと芳賀穂乃花の墓が見つかった。ペットボトルの水をかけて、芳賀さんが好きだったというチョコレートとポテト菓子をお供えする。小さく手を会わせて目を瞑る。
「芳賀さん、ヨリ先生をお守りください」
 小さな声で願うと、私は墓石の前に座り目を閉じた。
 ヨリ先生が、小田切明日葉さんが守りたかった芳賀穂乃花。そして、ヨリ先生の小説の源となり続ける人物。人懐っこい笑顔が思い浮かぶ。いじめを止める勇気のある美しい人。芳賀穂乃花を十五年愛し続けるのは納得ができた。
「……かゆ」
 私の腕にはいくつかの赤がぷっくりと浮き出ていた。最近の夏は熱さが強すぎて、蚊が本領発揮をするのはこの時期なのだろうか。明日は虫よけスプレーをしてこよう。
 どれほどその場にいたのだろうか。誰もこない墓地が紫に染まってきたところで、私は立ち上がった。五つも蚊にさされている。近くまでタクシーを手配しようとスマホを操作していると、がさがさと足音が聞こえてきた。
 まさか、と墓地の入り口に目をやれば、喪服のように黒いワンピースを着た女性が入ってきたところだった。
「……ヨリ先生!」
 一日目で会えてよかった、やっぱりここに来ると思っていた! ほっとして手を振ると、遠くに見える影は誰が手を振っているのか確認しているようだった。お互いの顔がよく見える位置までくると、ヨリ先生は私を見て固まった。
「……どう、してここに」
 ヨリ先生は私の後ろに置いてあるお菓子を凝視している。
「これですか? 穂乃花さんが好物だとお母様に聞いたので」
「……あなたの行動力を見誤っていたかも」
 そう言うヨリ先生の顔は険しくて、いつものように朗らかには笑ってくれなかった。ヨリ先生はくるりと私に背を向けると墓地の入り口まで戻っていこうとする。
「ま、待ってください! 私、お話があるんです」
 ごつごつした地面を蹴りながら、私はヨリ先生を追いかけた。墓地を出てからは急勾配の坂だ。走れなくなったヨリ先生に追いつき、肩をつかむ。振り返ったヨリ先生は怯えたような目で私を見た。
「勝手にここまで来てすみません。……でもヨリ先生のことが心配で。無事でよかったです」
 私が早口で笑いかける。ヨリ先生は笑い返してくれず、ビー玉のような瞳には何の感情も浮かんでいない。
「ヨリ先生、本当にすみませんでした。私が小田切明日葉さんだと名乗ったばかりに」
「いえ。名前を公表してほしいと言ったのは私だから」
「その結果、ヨリ先生を陥れようとした人間のせいで、このようなことに」
「陥れるって……あの小説に書いてあったことは事実よ。私は穂乃花を裏切った」
「裏切っていません!」
 暗くなってきた坂道で私の声がこだました。
「たしかに芳賀さんのことを助けられなかったかもしれません。だけど……仕方ないじゃないですか。助けたくても助けられないことはあるんです。悪いのは主犯の四人ですよね。四人と同様にヨリ先生が責められる必要なんてないんですよ! 誰があの小説を更新しているかわかりません。……だけどこのままヨリ先生が世間に勘違いされているのが嫌なんです!」
「勘違い?」
「はい。四人と違ってヨリ先生は何もしていないのに。先生を陥れたい人間の仕業です。でも安心してください。穂乃花さんのお母さまががメディアに出て説明すると仰ってくださいましたから! 小田切明日葉さんは、いじめに関与しておらず、ずっと穂乃花さんのことを大切に思っていた、と」
「…………」
 ヨリ先生は零れ落ちそうなくらい目を開いた。その瞳にはみるみるうちに涙がたまってくる。
「これで〝葉空ヨリ〟の名前も守れます。安心してください。ヨリ先生のファンもわかっていますから。ヨリ先生の内面は美しいひとだと」
 私が笑顔を向ければヨリ先生の目からぽろぽろと涙がこぼれた。
 ヨリ先生に知ってほしい。あなたを信じてくれる人は大勢いるのだと。ヨリ先生は十五年間、ご自身を責め続けた。何も関与していないのにこうして今でも胸を痛めている。真面目で責任が強く、優しいヨリ先生は自分自身を許せなかったのだろう。
 私の想像通り、ヨリ先生は美しい人だったのだ。そんなヨリ先生を守れる自分が誇らしかった。
「おえ……」
「ヨリ先生?」
 ヨリ先生は嗚咽と共に口元を押さえて、しゃがみこんだ。
「……気持ち悪い」
「大丈夫ですか!?」
 顔を真っ青にしたヨリ先生の隣にしゃがみこもうとすると
「こないで!」
 ヨリ先生の厳しい瞳が私に付きささる。
「ヨリ先生どうしたんですか、気持ち悪いのですか?」
「……あんたにそうやってキラキラした瞳を向けられると、胃のものすべて吐き出しそうになる」
「え……?」
 私はしゃがみこむことも出来ず、下から睨みつけてくるヨリ先生をただ呆然と見つめた。
「私はきれいなんかじゃない。汚くて、自分のことばっかりな醜い人間。十五年前から何も変わっていない」
 私を睨む目と、卒アルでカメラを睨みつけてくる明日葉の瞳がどこか重なった。分厚い前髪の奥から睨むすべてを諦めながら理不尽さに怒りを感じているあの目だ。
「なにを言っているんですか。ヨリ先生が汚いだなんて」
「じゃあ教えてあげる。あなたが探している芳賀穂乃花は私だよ」
「ああ」
 身体の力が抜けた。
 ……なんだ、そんなことか。そんなことでヨリ先生を汚いと思うわけがない。私は笑顔を作る。
「むしろそうだったらいいな、て私思っていたんです」
「……なにが、」
「ヨリ先生は芳賀さんのために、今回のことを起こしたんですよね。復讐を悪いなんて思いませんよ。芳賀さんのために起こした優しさです。自己犠牲は大きすぎだとは思いましたが」
「ちがう」
 ヨリ先生の声は、初めて聞く冷たい温度だった。
「私が葉空ヨリを終わらせたかったから。そのついでに四人に復讐しただけ」
「な、なぜですか。なぜ終わらせようと?」
「言ったでしょ、葉空ヨリは醜い人間だから、もう終わりにしたいの」
 ヨリ先生はもう私を見なかった。木々を見ながら、淡々と答える。
「ヨリ先生は醜くありませんよ! ヨリ先生は十五年間、芳賀さんのために苦しみ続けてきました。それを小説という手段で光に変えてきました。その光に救われた人もいますし、私もそうです」
「光ってなに? 私に光なんてない。あなたは私ではなくて、誰を見てるの?」
 ヨリ先生の光のない瞳が私を見た。私の前にいるのは〝葉空ヨリ〟だ。
「葉空ヨリは存在しないよ」
 私の心中を読み取るようにヨリ先生は声をあげた。
「ここにいる小田切明日葉はただの醜い人間。小田切明日葉を美しいと、あなたは言えるの?」
 私は目の前にいるヨリ先生をを見つめた。
 朗らかな笑顔は消えて、乾燥した唇はぎゅっと結ばれている。いつも優しい瞳は温度をなくしている。ほとんどメイクはしておらず、くたびれているヨリ先生だ。
 脳裏に浮かぶのは、卒業アルバムでこちらを睨む小田切明日葉。
「私は穂乃花を殺してしまった」
「ヨリ先生がご自身を責める必要なんてないんですよ! ヨリ先生はいじめに関与していないと聞きました。榎川も芳賀さんのお母様も!」
 ヨリ先生の反応はない。
 必死に訴えれば訴える分だけ、ヨリ先生と距離があいていくようだ。
「それに芳賀さんのことを、たくさんお話にしていらっしゃるんですよね。芳賀さんも、そしてそのお話に読んだたくさんの人も救われています。ヨリ先生は命を救っているんですよ!」
 最後まで私が言い終えたときには、ヨリ先生は嗚咽と共に胃の中のものを吐き出した。
 私が慌てて背中をさすると、ヨリ先生の身体は小さく震え、息を大きく吸っているのが分かった。少し息を整えたヨリ先生は私の手を振り張った。
「やめて、そんな、きれいごと……! そうやって。私を勝手に信じないでよ……! なに、も、しらないくせに」
 息をぜえぜえと吐きながら言葉を吐く。
「私がどうして苦しいかも知らずに。あんたにそうやって信じ込まれるたびに……おえっ」
 ヨリ先生は口元をぬぐいながら、私を睨んだ。
「私に葉空ヨリの理想を押し付けて、そこに小田切明日葉がいることも考えずに……!」
「私が、理想を、ヨリ先生に……?」
「私はまったくきれいなんかじゃない、醜いんだから……」

 ファンレターを読むたびに、酷い吐き気に襲われるようになったのはいつからだろうか。

【ヨリさんは私の希望です】
【ヨリ先生は私を救ってくれました!】
【葉空先生の文章は澄み切っていて、先生のお人柄を表しているようです】

 文章と私を重ねて、私を光だと、美しい人間だと。そう評されるたびに、私は便器に顔を突っ込んだ。
 吐いて、吐いて、吐いた。汚い自分が出て行くようで少し安堵する。胃の中のものをすべて吐き出せば、醜いものが少しは消えてくれる気がして。
 私は綺麗なんかじゃない。
 私は、醜い。何もかも。
 ――私が、穂乃花を殺した。

 
 私より半年前に穂乃花は生まれた。穂乃花の母は、穂乃花を抱いて新生児の私に会いに来たのだという。
 私が生まれて初めて瞳の中に入れた友達は穂乃花だった。
 親同士が友人ということもあり、物心をついたときからそばにいた。私が初めて呼んだ友達の名前は「ほーちゃん」だったし、穂乃花が初めて呼んだ友達の名前も「はーちゃん」だった。
 学区が同じ私たちは当たり前のように、同じ幼稚園に通い、休日には親と共に遊び、同じ小学校に通うことになった。私は穂乃花が好きで、ずっと仲良しでいられると思っていた。
 だけど、現実は甘くない。
 穂乃花はかわいかった。私はかわいくなかった。たったそれだけのことだ。
 穂乃花はくりっとした目にいつも楽しそうに口角のあがった唇。誰からも愛される少女だったのに対して、私は上からプレスされたような顔だちをしていた。上から潰されてしまったから目はこんなに細く、鼻は潰れ、口角は下がっているのかもしれない。
 そして見た目だけではない。誰ともうまく喋ることが出来ずどもってしまう私と、誰とでも親しくなれて朗らかな笑顔を向ける穂乃花はまるで違った。
 園児の頃と違って小学生にもなれば、無意識に他人の評価を始め、自分がどう見られるかを認識し始める。私が穂乃花と釣り合わないことは自分が一番わかっていた。
 穂乃花はわかっているのかいないのか、変わらず私と親しくしてくれた。
 小学校は二クラスしかないこともあり、五年間穂乃花と同じクラスで、帰宅後はどちらかの家でまったり過ごし、常に穂乃花といた。穂乃花は私の家で漫画を読みながら「明日葉といるときが一番のんびりできる」と心からの笑顔を向けてくれる。
 小学生までは私も穂乃花のことを心から好きでいられたのだと思う。皆が親しくなりたがる穂乃花の一番の親友ということが誇らしかった。
 私たちの小学校は今思えば素朴で純真な生徒が多かったのだと思う。穂乃花と親しいことについて、私は誰からもからかわれることがなく、穂乃花の親友のままでいられたのだから。
 中学になれば別の小学校が合流し、私たちはランク付けを余儀なくされた。新しい友人関係が形成されるなかで「私と友達になるべき相手はこの子だろう」という暗黙の空気が漂うのだ。
 穂乃花と別のクラスになった私は、クラスの真ん中からはじき出される形となった。穂乃花の親友だと認識されない状態の私の価値はこれが適正で、今までが過大評価されていただけに過ぎない。
 それでも穂乃花は、価値が下がった私とずっと一緒にいてくれた。
 それが心から嬉しくて、心から憎かった。
 穂乃花といると楽しくて自分の価値まで上がる気がした。だけど同じくらい不安で苦しい。穂乃花と友達だという優越感に浸る日もあれば、穂乃花の隣に並ぶことで無遠慮に値踏みされる居心地の悪さ。楽しくて嬉しくて、苦しくて憎い。友情とは似つかわしくないどろりとした感情に支配されることが恐ろしくて、私は穂乃花から離れたかった。離れることでこの気持ちを全て切り捨てたかった。
 だから高校だって穂乃花と別の高校を選び、常に一緒でどこか依存している関係を打ち切りたかった。
 けれど穂乃花は希望の高校に落ちて、私たちは三年間一緒にいる事を余儀なくされた。
 私は入学式の前の日に、穂乃花に宣言した。
「明日から高校生活が始まるけど。私たち一緒に登下校するのやめよう」
「え? なんで? なんかバイトとかするの?」
 穂乃花は私との関係を疑ったことがない。私はこんなにも苦しいのに穂乃花は私たちの関係に一度も悩んだことはないのだろう。
「だってほら、私たち釣り合ってないから」
 私はなんにも気にしていないように、さらりとした声音を出す。
「釣り合うってなに? 意味わかんないんだけど。私と一緒にいたくないってこと?」
「……穂乃花だって気づいてるでしょ。私たちは同じグループの人間じゃないんだよ。私だって、自分でも気づいているからそういうの」
 言いたいことだけ言って私は穂乃花に背を向ける。穂乃花がどういう表情を浮かべているのか見たくなかった。そのまま穂乃花は私に声をかけなかった。彼女の気遣いに思えてそれもまた私を苛立たせた。
 穂乃花と登下校を共にせずクラスも離れれば、私たちが元々の友達だと思う者はいなかった。私たちは他人から見てそれほど明確な差があったのだから。
 同じ中学の人もほとんどいないこの学校で、私はこのまま穂乃花から離れた場所でひっそりと生きていけばいいと思った。もう穂乃花への嫉妬で胸をちりつかせることもない。
 穂乃花はクラスの中心人物となり、同じ雰囲気の子たちとグループを作った。私が可愛ければ、せめてもっと明るければあの中にいることができたのだろうか。ひっそりと憧れていた男の子と穂乃花が付き合ったことを知ったとき、隣にいなくてよかったと心からほっとした。
 穂乃花と私は釣り合っていない。そう思える自分を客観視できる人間だと思っていた。だけど違った。 
 小田切明日葉という存在は、穂乃花のおかげでギリギリ人間の生活を送れていたのだ。マイナスの人間だということまで私は知らなかった。 
 中学までは穂乃花という存在が、私の盾になっていた。
 地味でブスな私でも、周りからそこまで悪く言われない。それはみんなの人気な穂乃花の親友だったから。だから影口はあっても表立って酷いことをされたことがなかった。
 穂乃花という加護のなくなった私は、なんの価値もないどころか、人々に不快な印象しか与えないらしい。高校にもなって馬鹿馬鹿しいと思うが、忠村千尋という悪魔に出会ってしまった私は彼女に「玩具」と呼ばれる存在になった。
 二年間のことは思い出すだけで、いまだに手が震える。ほんのすこし何かがズレれば、ホームから飛んでいたのは私だっただろう。
 私はひどく臆病で飛ぶ勇気すらなかったのだから。だけど今になって思う。
 私があの時死んでいれば、穂乃花は死ななかったかもしれない。あそこで死ぬべきは私だったのだ。 
 私が死ななかったばかりに、私は穂乃花と同じクラスになり、それがいじめに繋がった。
 最初は榎川が二股の腹いせに穂乃花を悪く言い、忠村が私のいじめをとめた腹いせに始まった小さないじめだった。
 だけど彼女たちは気づいてしまったのだろう。
 元から道端のゴミのような私を蹴るよりも、今まで人気者として頂点にいた穂乃花を落とすことの楽しさに。
 私はいじめを止められるはずがなかった。私の価値など、彼女たちにとっては何の意味もないものだ。私がとめたところで、何もかわらないことは明白だった。だからいじめを止められないのは仕方ない。私は自分にそう言い聞かせる。再度いじめられるのが怖かったからじゃない、と。
 私は穂乃花と再び登下校を共にするようになった。
「ごめんね、穂乃花。私のせいで」
「全然。こうして一緒にいてくれるだけで嬉しいんだよ」
 穂乃花は傷ついた口もとで微笑んでくれた。
 そのとき、思ってしまっのだ。
 今の穂乃花となら、隣に歩いていても苦しくない。
 穂乃花の価値が下がり、私の場所までおりてきた。穂乃花はここにいてくれる。
 夏休み、榎川たちから解放された私たちは子供の頃のように遊んだ。
 私の胸にあったわだかまりは消えていて、穂乃花と一緒に遊べるようになったことの喜びが勝っていた。穂乃花への嫉妬も黒い感情もすべて消えて。
 ――それはどれほど穂乃花にとって屈辱的だったことだろうか。
 ぎりぎりの穂乃花の一押しをしたのは、私なのだろう。
 夏休みが終わり学校に戻れば、地獄が戻ってきた。穂乃花が徐々にやつれていることを知っていた。だから、私だけは穂乃花から離れてはいけなかったのに。
 少し頭が痛かった。親が家にいなかった。体育がある。そんなどうだっていい理由を並べて、私はあの日学校に行かなかった。
 その日、穂乃花は空を飛んだのだ。


 私は自分のために、いじめを止めなかった。
 穂乃花を失ってみれば、それがどれだけ馬鹿馬鹿しいことだったかわかる。
 穂乃花は輝いているひとだった。私の隣にいてはいけない人だった。
 私の隣にいなくてもいい。穂乃花に笑っていて欲しかっただけだった。そう後悔をしてももう遅かった。
 穂乃花のいじめは簡単に隠蔽され、榎川たちは当たり前の青春を送っている。さすがに新たなターゲットを作る気にはなれなかったのか、彼女たちが表だったいじめを行うことはなかった。
 三年二組から穂乃花だけが消えたまま、皆青春を卒業していった。
 穂乃花を忘れたくない。いじめをなかったことにしたくない。高校を卒業して大学に入り、贖罪のために小説を書き始めた。文章を打ち込んでそれを公開した。まさかそれが受賞してベストセラーになるとは思わなかったけれど。
 受賞し、担当となった根津さんに「ペンネームはどうしましょうか」と聞かれた私は、”葉空ヨリ”と答えた。
 私は当時投稿サイトは「より」という名前で投稿していた。これは小学生のときに私と穂乃花がはまっていたアニメの主人公の名前。
 ……そうだ、これを機に小田切明日葉を捨てよう。
『私、明日葉って名前好きなんだ。私が穂乃花でしょ。花と葉って親友って感じがする』
『なにそれ』
『明日葉って葉っぽいんだよね。爽やかで、穏やかで』
 そのときは少しふてくされたことを覚えている。華やかな花は穂乃花にぴったりで、自分は地味な引き立て役と思った。
 だけど、穂乃花のいう爽やかで穏やかな人になれたら。 
 これからは〝葉空ヨリ〟として生きる。
 醜い自分も過去もすべて捨ててしまおう。そう決めて賞金をすべてつぎ込んで整形を行った。穂乃花の写真を執刀医に見せたが、あまりにも顔のタイプが違い断られた。
「なにか理想の顔はありませんか」
「それなら、すっきりした美人にしようかな」
 いつかの穂乃花との会話が蘇る。
『私も穂乃花みたいに可愛くなりたい』
『明日葉はクールビューティーだよね、すっきり美人系ってやつ。私はそっちが憧れだよ』
 それは明らかなお世辞ではあった。くりくりの目にはどうやってもなれない、細い一重を見て穂乃花は『クール、すっきり』と評してくれたのだろう。それがいいのなら、今すぐにでも顔を交換してくれよと言いたくなったっけ。
 あの日、穂乃花が褒めてくれた私をもとに、私は自分の顔を考えることにした。
 小田切明日葉を捨てて、葉空ヨリになろうとしても、最初はどうすればよいのかわからなかった。ろくに人との交流をとってきていなかった私が、理想の人物になるためにはどうすればいいのか。
 そうだ、穂乃花になろう。誰にでも朗らかで優しくて、本来ならまだ生きていないといけなかった穂乃花に。
 穂乃花ならどんなふうに話すのだろうか。穂乃花ならどんな対応をするのだろうか。
 顔はきれいになり、ダイエットも成功した。今の私なら穂乃花にになることができる……!

 
 小説はヒットを連発した。一度当てれば、様々な出版社が私に声をかけてくれて、仕事は尽きない。穂乃花への贖罪と追悼は次々と売られていき、私自身にもスポットがあたるようになった。
 最初は純粋に嬉しかった。穂乃花への想いが認められた気がして。穂乃花も少し許してくれる気がして。
 それにこんなになにかの中心に自分がいることができるのは初めてだった。いつもクラスの隅にいて、穂乃花の隣しか居場所がなかった小田切明日葉。
 誰もが私の才能を褒め、性格を褒め、見た目を褒めてくれた。穂乃花ならどうするだろうと考えれば、言動は正解に繋がった。
 嬉しかったのは最初の半年間だけで、虚しかった。どうしようもなく虚しかった。
 あなたたちが救われたという話は、私が救えなかった女の子の話なのに。
 あなたたちがきれいだと言ってくれる葉空ヨリはまがいものだ。
 あなたたちが優しいと褒めてくれた言動は、すべて穂乃花のものだ。
 ――葉空ヨリの中に小田切明日葉はいない。
 葉空ヨリを作るのは、穂乃花で。そこに小田切明日葉はいなかった。
 ファンレターを読むたびに、責められている気がした。私を見透かされている気がした。そんなときはSNSで葉空ヨリを検索して、批判を見ては許された気持ちになって安心した。
 本当の私は浅くて、なにもなくて、作り物で、穂乃花という存在が私をプラスにしてくれているだけだ。
 穂乃花はもういないのに、もう会えないのに。私はまだ穂乃花に怯えていた。
 ファンレターを読むたびに吐いた。あなたたちの希望は偽物だよ。それは穂乃花の幻影だよ、と。
 誰かに偽物だと気づいてい欲しいのに、偽物だと気づかれることが恐ろしかった。

 
 槇原羽菜は私のファンを濃縮したような人間だった。 
 須田出版の編集担当が槇原羽菜になってから、吐く頻度は急速に増えた。
 須田出版はどこよりも付き合いが深い。槇原の前任の塚原は仕事は出来るが、ドライなところがあり私自身に対してあまり興味はなさそうだった。作品のことも込められたメッセージよりも、売れるか・売れないかで判断してくれるさっぱりした部分がちょうどよかった。
 槇原は業務以外にも気軽にメッセージを送ってくる。私を絶賛する声がみつければ、いてもたってもいられないらしい。
 作品を愛し、大切にし、嬉しいことは逐一報告してくれる。他社の作品もすべて読み、私の作品すべてを愛する。それはきっと作家にとっていい編集者なのだろう。
 だけど彼女が見ているのは〝葉空ヨリ〟で小田切明日葉ではない。
 編集者にとってはそれは当たり前で、私の人間性を見てほしいなどなんて幼稚な考え方なのか。頭では理解していても、突然書けなくなった。
 私の中にある文字までも全部偽物に思えて気味が悪かった。
 なんとか書き上げた小説は、まがいものの小説は、たくさん刷られて、飛ぶように売れていく。

 
「すみません」
 ラジオ局の廊下で男性とぶつかって目線が絡む。廊下には私たち以外の姿はなく、彼とは通り過ぎるだけのはずだった。
 だけど、私の足は止まってしまった。そこにいたのは秋吉だったから。十五年前に憧れていた初恋の人。そして穂乃花を殺した一人。
 なぜここに秋吉がいるのだろう? ラジオ局で勤めているのだろうか。訝し気に彼を見てしまったのかもしれない。私の視線に気づいた秋吉は笑みを浮かべた。
「そうか。レギュラーラジオ、この局でしたね。僕は今日はゲストで」
 まるで旧知の友人かのように話しかけてきてどきりとする。彼は小田切明日葉を覚えていたのだろうか。学生時代はクールキャラが売りだったはずだが、ずいぶん親しみやすくなっていて、爽やかさは憎らしいほどに十八歳のままだった。
「あの、私たち――」
「あー、すみません! 葉空先生の小説を時々読んだり、テレビ番組で見かけてるんで友人の気分になっちゃって。僕、秋吉征直と言って舞台を中心に活動している俳優なんです。じっと見つめられちゃったから、つい話しかけてしまいました」
 身体の中心が冷える。ああ、そうか。小田切明日葉など覚えているわけがなかった。
 彼は自分がどう見られるかを知っている。女性がじっと自分を見つめれば、それは好意だと思ったのだろう。好意を向けてきたのが〝葉空ヨリ〟だった。それでこうして話しかけてきたわけだ。
「秋吉さんの舞台観劇しました。とても素敵だったので覚えていて……すみません、それで見とれてしまって」
 すらすらと社交辞令が口から出てくる。秋吉の舞台など見たことなければ彼の存在も知らなかった。
「ほんとうですか! まさか葉空先生に見てもらえてるとは。どの舞台にきてくださったんですか」
「ええと、すみません、私タイトルをあまり覚えていられなくて。三ヵ月くらい前だと思うんですけど」
「じゃあ青の舞台かな?」
「ああ、それですそれです」
「うわー嬉しいな。よかったら今度舞台にいらっしゃいませんか。チケット、用意しますから」
 秋吉は自然にスマホを取りだすと、人懐こい仕草で私に向かってスマホを差し出した。自分の好意が誰にも受け入れられると信じてやまない動作。
 予想通りチケットは口実で、彼の目的は私との食事だった。一週間後には個室で二人きりで向かい合う。
「秋吉さんは今すごく注目されているんですね。私は最近のテレビには疎いんですけど、ご活躍は聞いています」
「実は深夜ドラマの主役も内定してて……このチャンスに乗りたいんだ」
 二人で会った秋吉は、早速くだけた印象で笑いかけてくる。
 私は彼の現在について調べていた。売れない俳優に見えたが、どうやら当たりの深夜ドラマに出たことで注目が上がっているらしい。メインではないが印象に残る役どころを担当していて注目を集めたらしい。まだまだ一般知名度は低いが、演技力がありビジュアルもよく下積みが長い舞台俳優。脇役から人気を固めて、重大な役を経てゴールデンの主役に踊り出す。よくある成功パターンが彼に訪れようとしている。
「葉空さんは愛知県なんだよね、F市に住んでたって何かの記事で読んだけど本当? 俺もF市出身で」
「ええ、そうなんですか! 私はF市に親戚が住んでいただけで、住んではないんです」
「俺たち同年代だから、どこかですれ違ってたかもしれないなあ」
 同じクラスだったとまったく疑わない調子で秋吉は言った。顔や雰囲気は変わっても、声は変わっていない。だけど彼はきっと小田切明日葉の声を耳に入れたこともないだろう。
「愛知には帰ってる? 僕は全然帰ってなくて」
「私もあまり」
「だよなあ。一回こっちくると、帰る気にならない」
「置いてきた彼女とかいないんですか?」
「あんなとこにいる女なんて、ほんとしょうもないよ。……葉空さんのこと言ってるわけじゃないよ? あそこに住み続けてる地元のやつってこと」
 秋吉は熱がこもった目でこちらを見た。
「でも同じ地元ってことで、葉空さんと縁が出来たのは嬉しいな。これ、約束してたチケット。この舞台の後、よかったら食事しよう」
 秋吉が忘れ去った過去は、私にとっても忘れたい過去だ。
 それなのに私は未だに過去を生きている。葉空ヨリのすべては芳賀穂乃花だから。
 ……秋吉は穂乃花のことなんて忘れて、生きている。
 それだけが頭にこびりついたまま、私はふらふらと帰宅した。ファンレターを読んでもいないのに吐き気が止まらなかった。
 秋吉の笑顔を思い出すと手が震えた。彼の目線を受けた服はすべて捨てた。
 秋吉が憎い。それなのに秋吉に微笑まれたときに、十八歳の小田切明日葉が芽を出した。
 穂乃花を殺した憎々しい相手。だけど、学生時代に一度も私に微笑んでくれなかった彼が、私に向かって微笑んだ。
 秋吉が見ているのは、私じゃない。〝葉空ヨリ〟だ。
 それなのに彼に微笑まれると、胸の奥のどこかがぎゅっと苦しくなる。
 穂乃花を殺した一人なのに。誰よりも憎しい男なのに。一秒でも胸が動いた自分が憎くて、醜くて、汚かった。
 穂乃花のためにある〝葉空ヨリ〟で、穂乃花を殺した男にほんのわずかでも心を動かされたことは、私の心を砕いた。

 
 数週間後に届いたものは、暗くなった心をさらに濁らせた。
 山吹出版から見本誌が届いていた。私がコラムを担当している雑誌で、巻頭の特集に憎々しい顔が見えたとき、呼吸が止まるかと思った。
 なぜ、秋吉のあとに、榎川までもが顔を出す。
 彼らのことはできるだけ考えないようにしていた。穂乃花を殺したのは私だと思い込ませて。
 雑誌に目を戻すと、榎川のミンスタグラムのIDが記載されている。見ても、どうしようもないのに。私は自然とIDを打ち込んでいた。
 十五年前につり上がっていた榎川の眉と目は、優しげだ。時代が変わり、メイクも流行りも変わった。時代が変わっても、その時代に合う垢抜け方をしている。
 あのとき穂乃花と榎川は隣に並ぶと、羨ましいほどぴったりで、親友に見えたのに。穂乃花と乖離してしまった。
 ナチュラルなメイクで穏やかな笑顔を携えた榎川は、十五年前からずいぶん変化している。握りしめた雑誌はぐしゃりとつぶれた。
 ……なぜこいつらは、順風満帆の生活を送っているのだろうか。
 私は震える指でキーボードを叩いた。【愛知県 F市 忠村一郎】と打ち込むと、彼は当然のように今も市議会議員として爽やかな笑みを浮かべている。
【こどものためのF市をつくろう!】とスローガンを携えた彼の隣には、真面目そうな男がうつっていた。
 どうやら彼は、忠村一郎の娘の婿であり彼の秘書をしているらしい。次回の市議会議員選挙に出ると噂だ。忠村の娘は、千尋しかいないはずだ。忠村一郎が孫と笑顔でピースをしている写真も見つかった。
 私はSNSを開き思い当たるワードを打ち込んだ。今から自分がすることは、知らなくてもいいことだ。知ってしまえば、もう戻れないことがわかっている。けれど調べずにはいられなかった。
 すぐに市古高校出身の同年代のSNSが見つかり、芋づる方式で簡単に涌田亜美は見つかった。
 彼氏らしき人とツーショットでうつった写真で、涌田は左手をこちらに向け、薬指には指輪が光る。
【誕生日にプロポーズしてもらいました!】
 涌田は四人の中ではあまりぱっとしない地味な女だったが、地味な女なりの最上級の幸せを手にするらしい。
 ……なぜ?
 穂乃花の人生は、十八で止まってしまったのに。
 なにごともなかったように、時は進んで幸せを掴もうとしているのだろうか。
 いじめをした人間は不幸になって、這いつくばっていないといけないのに。
 どうして、彼らは当たり前の幸せを掴むのだろうか。誰も一度も、穂乃花に線香もあげに来ない。お墓にも来ない。
 彼らは十五年の中で、一度でも穂乃花のことを思い出し悔んだりしたのだろうか。
 涌田の投稿を見ていて、手が止まる。
 榎川と忠村と涌田が三人でうつっている写真だ。半年前で、どうやら忠村の誕生日らしくケーキを囲んで笑っている。
【市古いつめん♡ しんゆー歴十五年てすご!】
 まるで穂乃花がいなかったみたいに。最初から三人だったみたいに。
 彼らの人生史のなかから、穂乃花は消されただけだ。消しゴムで消せば少しは跡が残る。だけど穂乃花はまるでそれすら許されないみたいに、打った文字を簡単にデリートされたみたいに消えてしまった。――穂乃花は完全に消えてしまった。
 どれだけ呆然としていたのだろう、インターホンが鳴った。
「須田出版からお荷物が届いています」
「ああ、はい、ありがとうございます。」
 須田出版から段ボールが届いた。新刊が即重版し、そのぶんの見本誌を送ると槇原羽菜から連絡があり、品物記入欄にもそう書いてある。
 予想通り、段ボールには見本誌が入っていた。見本誌を取り囲むように入っていたのは、大量の手紙――ファンレターだ。
 脳裏に、あの日穂乃花の遺体を包んでいた大量の花が思い浮かんだ。
 私は段ボールに倒れこむ。私の重みの衝撃でファンレターが何部か宙に浮き上がり、私にかぶさってくる。
 埋もれたまま、窒息しそうだ。
 許せなかった。秋吉も榎川も忠村も涌田も、そして自分自身も。
 全員に復讐をする。小田切明日葉にも制裁が必要だ。
 ……そしてもう、葉空ヨリを終わらせたい。
 穂乃花のために、穂乃花のような人をつくらないように、葉空ヨリはできた。
 それは私のエゴで、思い上がりだった。
 穂乃花のための小説は、一番救いたい人を救えない。穂乃花を救えない。穂乃花はもう帰ってこない。
 どれだけ小説を出版しても、葉空ヨリを肥し名誉をあげるだけで、穂乃花はもう二度と戻ってこないのだから。
 

「葉空ヨリを殺したかったの」
 私は彼女を見上げた。動揺している目がさらに見開かれる。
 私を神様のように見るその瞳が大嫌いだった。私を知ったように語る口が大嫌いだった。
 それなのに、なぜ大嫌いな彼女にすべてを明かしているのだろう。矛盾した行為に笑えてしまう。
 私を信じてここまで来た愚かさを突きつけてやりたくなったのかもしれない。あなたの見ている私はこんなにも醜いと傷つけたかったのかもしれない。
 何も知らなかっただけの彼女にこんな風に思う自分がまた嫌になる。
 だけど、もういい。だって、もうすべてを終わらせるから。
 ヨリ先生が話し終えるまで私は何も言えなかった。ただその場で立ち尽くしていた。

「私が、ヨリ先生を……葉空ヨリを壊してしまったんですね」
 
 ヨリ先生を、小田切明日葉さんを追い詰めたのは――私だったんだ。

 私はヨリ先生を守っていると思っていた。私だけがヨリ先生のことを心から心配して、彼女のことを守れていると。
 だけど私が守っていたのは〝葉空ヨリ〟だけで、小田切明日葉を含んだヨリ先生自身ではなかった……! 私は葉空ヨリが生きていて、小説を書いている人間だということをきちんと知っていたのだろうか。
 ヨリ先生のことを〝葉空ヨリ〟という商品だと思っていたのは、編集長たちだけでない。
 ……私だ。
 私の呟きは、目の前の彼女に届いたはずだが、頷くことも顔を振ることもなかった。
 それは私を気遣ってくれたからではない。きっとここで肯定してしまったら、彼女のなかの何かが崩れる。
 山道には静かな夜が降りてきて、私たちは月明りの下でお互いの顔しか見えなかった。喪服のような黒いワンピースを着た彼女は闇の中にこのまま溶けてしまいそうだ。
「ヨリ先生……。このあと、どうするつもりだったんですか」
 彼女は答えなかった。顔を少し上げて、墓地の方を見やる。
「もしかして。葉空ヨリを終わらせて、芳賀さんに会って……小田切明日葉も終わらせようとしていました?」
「…………」
 ヨリ先生は、ぼんやりと虚空を見つめたままだ。
「私が言う資格はないかもしれませんが、ヨリ先生に生きていて欲しいです」
「……あなたが生きていて欲しいのは、葉空ヨリでしょ」
 ヨリ先生の黒い瞳が、私を捉える。
「芳賀さんにお願いして、葉空ヨリのことを公表すればいいと思うよ。十五年間、葉空ヨリ……小田切明日葉は苦しんでいた。ずっと芳賀さんに印税を送っていて、芳賀親子は明日葉を恨んだことがない。四人を道連れにして、小田切明日葉は死んだ。そうしたら世間は手のひらを返すよ。葉空ヨリは親友のために物語を綴っていたが、罪に耐えきれなくなった悲劇の小説家。どう、よくできた物語でしょ。そうしたら――あなたの〝葉空ヨリ〟は守れる。世間の葉空ヨリファンのことも守れる。葉空ヨリの作品はきれいなままで、不朽の名作になる。色褪せずに誰かの宝物になる。あなたの理想だよ」
 ヨリ先生は薄い笑みを携えながら、早口で一気にまくしたてた。
 私は何も言えなかった。それは実際頭によぎった考えだったからだ。私は小田切明日葉ではなく葉空ヨリを愛している。葉空ヨリを守るには、小田切明日葉を切り捨てることだってできる。
 小田切明日葉を殺すことで、葉空ヨリは永遠になる。
 ……だけど、それでよいのだろうか。
 私はただのファンではない。ヨリ先生の編集者だ。私と半年間一緒にいてくれたのは、商品としての〝葉空ヨリ〟ではない。生身の彼女だ。
 ヨリ先生に甘えて、勝手に理想を押し付けて、夢を見ていた自分が恥ずかしくなり腕をさする。ぞわぞわと虫が這うような感覚が襲ってくる。
「……でも、私はヨリ先生に……あなたに生きていてほしいです」
「実際の私を知ったら、あなたの理想は壊れたでしょ」
 ヨリ先生は楽し気な笑みを浮かべた。それは私への明確な怒りだ。
「正直、ショックでした。私はヨリ先生のこと神様だと思ってました。一点の曇りもなくて、美しい人だと」
「でしょうね」
「だから、秋吉に憧れてた、とか、芳賀さんに嫉妬してた、とか、整形してた、とかそういうのも本当は全部嫌です」
 目の前にいる彼女は丸裸だ。取り繕った言葉は全てバレる。私も丸裸のまま明け渡す、それがどう作用するかはもうわからない。だけどここでまっすぐにぶつからないと、言葉はなにひとつ通らない。
「でも、それでも私は嫌いになれません。作品のことだけじゃありません、あなたと仕事をしてきて嫌な思いをしたことは一度もありません」
「それだって偽物だよ。穂乃花をコピーしているだけ。本当の私なんて、ファンレターを読むと吐くし、あなたの瞳が大嫌いだし、裏でいろいろ考えてるし、秋吉みたいなクズにときめいたりもする。」
「そんなのみんなそうです。私は確かにヨリ先生を神様だとか聖人だと思って接してしまいました。でも……」
 私はヨリ先生を見下ろした。すっかり痩せてしまってカッチリとしたワンピースは肩が落ちてしまっている。
 吐しゃ物の中に座り込んでいて、いつものいい香りだってしない。汗と涙でベタベタになった顔は険しい。
「ガッカリしました。でも、それとこれは別です」
「適当に言わないで。私が小田切明日葉のままだったら? 暗くて、ブスで、何もしゃべれない人間だったら、私のことなんて見向きもしないよ、誰も……!」
「たらればの話をしてもどうしようもなくないですか!? 今目の前にいるヨリ先生がヨリ先生なんじゃないですか」
「これは全部穂乃花のコピーだから」 
「でも、ヨリ先生が、きれいなだけだったら、あのお話は書けません!」
 私は膝をついた。ヨリ先生と目が合う。
 私を睨む目は怒りではなく不安に揺れていた。目の前のヨリ先生は驚くほど小さかった。
「ヨリ先生のお話は美しいです。救ってくれる光です。それは小田切明日葉さんだから書けたんです」
「わかったようなことを言わないでよ! ……あれは穂乃花のために書いた話。光を感じたならそれはすべて穂乃花だよ」
「あなたがどう思ってお話を書いたか、それはわかりません! でも……私はヨリ先生の大ファンだからこそ言わせてください!」
 私が叫ぶと、ヨリ先生の肩がぴくりと動く。
「ヨリ先生の話は美しいだけじゃないんです……! 私が惹かれるのは、光の部分だけではありません。光に向かうまでの、闇です」
「はあ?」
 ヨリ先生の口元がひきつる。
「私が救われたのは、ヨリ先生の描く、現実のどうしようもない苦しみや、心の中の醜さです。それが小田切明日葉さんなのだというのなら、それこそが私が救われたものなんです」
 語尾が涙に変わって、瞳からぽろぽろと零れ落ちてくる。
「私はいじめられている自分を責めていました。醜い私はいじめられるのは仕方ない、集団に馴染めない自分が私が悪いんだって。あのときの私は純粋な光には反発していました。こんなきれいごとなんて、ありえないって……!」
 目を閉じれば、青い表紙の小説が浮かんでくる。私の闇をゆっくり、私のペースで照らしてくれた、あのお話を。
「暗さや醜さに救われることもあります。全部が全部、美しいのはしんどいんです」
 私を救ったのは光ではない。自分と同化する穏やかな闇だ。
「……地味で暗い感情だとヨリ先生が思っているものに、救われてます。それに先生が思うほど、読者は先生の小説を美しいだけと思っていません!」
「…………」
「あの暗さこそ、葉空ヨリの魅力でもあるんです……! こんな私でもいいんだ。これからも私のままでいいかもしれない……と思えたんです! ……葉空ヨリは、芳賀穂乃花さんだけではないですよ。先生にとって、芳賀さんは光そのものなんでしょう」
 ヨリ先生は何も反応しなかった。ただ私の瞳を窺うようにじっと見ている。
「ヨリ先生にとってすべて穂乃花さんのために作ったものかもしれません。それを聞いたらそりゃ悲しいですよ。だって、私はあの時、命を救われたときに『この小説は私のために書かれたものだ!』と思ったんですから。きっとどの読者もそうですよ。作家の気持ちは読者はわかりません! ヨリ先生にとっては芳賀さんへの贖罪かもしれません。読者の希望が負担になるかもしれません! 
 ……でも私たちに伝わったものがあります。それは偽物ではないです。だって、それは私たちにとって本当の感情だから。それはヨリ先生にも否定できません!」
「……そういうのが嫌なの。私はあなたの命なんて救ってない!」
「でも、十七歳の私の命を救ってくれたのがヨリ先生なのは事実です!」
 ヨリ先生がまた口元を手で抑えて、嗚咽が聞こえた。負担になる言葉だったかもしれない。全部エゴで思い上がった行動かもしれない。それでも伝えないと伝わらない。身体が震える。私の言葉がヨリ先生のなにかを断ち切ってしまうかもしれない。
「私があなたを救ったんじゃない……! そうやって葉空ヨリの作品と私を混同しないでよ……!」
「それはヨリ先生も同じじゃないですか!」
「え……?」
「塚原さんが言ってました。殺人を描く作者は殺人者なのか、と。きれいな小説を書く人間は、きれいじゃないといけないんですか……?」
 彼女は目をそらすとうつむいた。
「……私は穂乃花を殺してしまった」
 ぽつりと懺悔が漏れる。
「いじめをしたのはヨリ先生じゃ、」
「同じだよ。助けられなかった! 一緒にいることができなかった! 穂乃花がいじめられていることに安心までしてしまった。これで気兼ねなく穂乃花と一緒にいられるって! ざまぁみろって気持ちもあったかもしれない。十八年間幸せでいつづけた穂乃花は少しいじめられるくらいがちょうどいいかもって! これのどこが、殺してないの! 私が、殺した……!」
 ヨリ先生の声は、裏声で涙に濡れていて、とても聞いていられないほど苦痛に満ちていた。叫んでいないのに悲鳴のようだ。
「私は自分が許せない。穂乃花を殺して、その贖罪で小説を書いたのに! 小説は売れて、絶賛されて、人の死で金儲けをして……! どうして、穂乃花がいないのに、なんで、私が……私が、生きて……」
 声にならない言葉は、嗚咽に変わる。ヨリ先生の瞳から後悔の涙が次々と溢れ、私は声をかけることができない。
 ヨリ先生はそうしてずっと自分を責めて続けていたのだ。十五年間、誰も小田切明日葉を責めていないのに、一人責め続けていた。
 小説を書くたびに、ヨリ先生の魂は削れてしまったのかもしれない。過去の苦しみを書くというのは、過去の自分を救いながら、過去の傷口を何度も開いている。
 小説のなかで、芳賀さんの苦しみを再現して、救って。そのたびに救えなかった過去を悔やみ続けた。
 目の前でうなだれながら、ヨリ先生は声を出して泣いている。その姿は美しいとはもう思えなかった。ヨリ先生は小さかった。小さくて、震える、ただの人間だ。
「……ヨリ先生は、悪くない。とは言えません。私は自分がいじめられているとき、見ているだけの人間も全員地獄に落ちろって思ってました」
 私が言わなくても、ヨリ先生もわかっている。
 ヨリ先生自身もひどいイジメをうけていたのだから。彼女自身も傍観者の罪を知っている。
「罪は罪だと思います。でもヨリ先生の過去の罪と、今だれかを救うお話を書いているのは別です」
 言葉にしたけれど、それもきっとヨリ先生だって何度と繰り返してきたことなのだろう。
「誰かを救うことに罪悪感を覚えなくてもいいと私は思います」
 ヨリ先生は小さく首を振った。
「でも……誰かを救っても、穂乃花は……もう帰ってこない……」
 小さい小さい声が漏れた。彼女の苦しみはきっと溶け切らない。
 書いて、書き続けても、清算されない苦しみがここにある。
「葉空ヨリ、終わらせましょうか」
 涙のたまった瞳が私を見た。
 私は〝葉空ヨリ〟を絶対に終わらせたくなかった。守られるなら、何がなんでも守りたかった。……小田切明日葉を殺すことになっても。
「まきちゃんが、それを言うの」
「ですよね。私は別名義だって正反対でしたよ。それでも私はヨリ先生に……目の前のあなたに生きていて欲しいです」
「…………」
「今の葉空ヨリを捨てても、いつでも帰ってきてもいいです。ここであなたが終わらせても、私が葉空ヨリ先生の担当者として〝葉空ヨリ〟を殺しません」
「芳賀さんに協力してもらって? 私の罪を晴らすの? その結果、私を苦しめたとしても?」
「私は編集者ですから。自分の仕事をします。葉空ヨリは何がなんでも残します。それはあなたのファンのためですし、出版社のためです。だけど、あなたは〝葉空ヨリ〟に戻ってこなくてもいいです」
 ヨリ先生が瞬きをすると、いくつもの涙がこぼれた。
「あなた、私の担当を外されたんじゃないの」
「はい。次ヨリ先生に接触したら解雇だとと言われています」
「でしょうね。本当に嫌になる。あなたのまっすぐなところが嫌い。こんなところまで来てばかじゃないの。私なんかのために、大手の出版社クビになったらどうするの。もうほんと、いやになる」
 ヨリ先生が目を閉じて、ため息をつく。涙はようやくとまったが、喉はまだひくひくと動いている。
 ヨリ先生は立ち上がると、スカートの汚れをはらった。べったりとした吐しゃ物はまったく落ちなかった。
「言いたいことはそれだけ? 私はあなたと心中するつもりはないわよ」 
「最後にひとつだけ言わせてください。ヨリ先生は、今の自分を芳賀さんのコピーっておっしゃいましたけど、私はそうは思いません。それは真似じゃなくて、芳賀さんが根付いている、ということではないでしょうか」
「……え?」
「ヨリ先生が、完璧に美しい人になろうと思って、芳賀さんのことを真似したのは……それが素敵なことだと知っていたからですよね。私は実際にヨリ先生の言動を嬉しく思っていましたし、すごいと思ってました」
「そうよ。穂乃花はすごく心がきれいだったから」
「ヨリ先生がされて嬉しかったことを他人にもしよう、と思うのは、ヨリ先生自身の優しさです」
「…………きれいごとすぎるね」
「すみません」
 ヨリ先生は手で涙を拭くと、自分の身体を確認して「これじゃあタクシーには乗れないな」と呟いた。その一言に身体の力が抜ける。
「なにかを敷けば、大丈夫じゃないですか?」
「ううん、いいよ。一人で歩いて帰りたい気分だから」
「……気を付けて帰ってくださいね」
 ヨリ先生は、道を下り始めた。いつものように背筋をしゃんと伸ばしておらず、どこか頼りない印象はあるが、足取りはふらついてはいない。
 五歩ほど進んで、ヨリ先生はこちらを振り向いた。
「まきちゃん。……私が理想の光を描き続けたら、そこに穂乃花はいるのかな」
 ヨリ先生はもう一度私を見た。彼女の瞳に宿る光の中には芳賀さんが見えているのかもしれない。 
「……それは読者はわからないことですから」
「そうだよね、それじゃ」
 ヨリ先生は手をあげると、暗い坂道を下っていく。
 私はそれを見送ることしかできない。もうヨリ先生は振り返らない。
 今度こそ、ヨリ先生を、目の前にいる彼女を信じよう。私はヨリ先生を信じ続けることしかできない。