結局、俺が店に居たのは一時間どころではなかった。5時半くらいだったのが8時になってしまっている。
広いとは言えない厨房の奥でひたすら皿洗いだ。疲れたなんてもんじゃないけど、皿を洗うだけでこんなに褒められるんだってくらい褒められた。
「飲み込みが早いな!」
「普段お家でやってるのかしら? 手際がいいわね!」
多分、今日一日だけで一生分褒めてもらった。
これはちょっと、気分が良いな。
店が落ち着いた頃に大和が、
「乾燥代と服貸し出し代にしては働かせすぎ」
と、爺さんたちに声をかけてくれたから終了したけど。
忙しすぎてあっという間に時間が過ぎたから、時計を見た俺は本気でギョッとした。
すぐ帰ろうと思ったけど、大和が今から飯を食うからついでに食ってけって婆さんに言われてしまって今に至る。
働いて腹が減っているときに唐揚げ出されたらさ。無理だろ。
一応帰りたい気持ちと唐揚げを天秤に掛けたけど、結果は一瞬で決まってしまった。
褒めちぎられて気分が良かったのもあると思う。俺は自分で思う以上に単純だったらしい。
まだ客がいる店内のカウンターの端っこで、大和と並んで飯を食わせてもらう。
白っぽくなってる表面はカリカリで、噛むとジュワッと熱い肉汁が溢れてくる。それに、熱々のご飯と豆腐とわかめの味噌汁。
美味過ぎて、感想を言わないといけないなんて考えないでがっついた。
そんな俺を柔和な笑みを浮かべて見ていた婆さんが、デザートのわらび餅まで出してくれながらある提案をしてくる。
「バイト?」
わらび餅のきな粉に咽せそうになりながら、俺は婆さんの言葉を繰り返した。婆さんは楽しそうに目をキラキラさせている。
「そうなの! やってみない?」
「でも俺、接客は」
「だーいじょうぶ!」
なんも大丈夫じゃないぞ。今日みたいに皿洗いだけさせてくれるならともかく。
「大和でも出来るんだから!」
あ、ちょっと説得力がある。
俺は大和が今日も今日とて、無表情で店内を動き回っていたのを思い出した。
それでも、それは大和が店長である爺さんの孫だということを常連客が知ってるから許されてるんじゃないだろうか。常連客は子供の頃から知ってる口ぶりだし。
「今日は本当に助かっちゃったんだもの!」
「まかないも出すしな!」
誉め殺しの婆さんに続いて、調理中の爺さんまで畳み掛けるように笑顔を向けてくる。
「まかない……」
と、いうことは、だ。バイトをした日にはさっき食べたのと同じくらい美味い飯が食べられるってことか。
蕩けるわらび餅で幸せな口の時に言うのは狡くないだろうか。
俺の心の天秤は、振り子のようにグラグラと揺れる。
更に、テーブル席でくつろいでいた常連客たちも話に加わってきた。
「おー、ついにバイト雇うのか?」
「年取ったな大将!」
「やかましい! 人のこと言えないだろお前たち!」
「兄ちゃん料理できるかー? 大和は全くダメらしいぞー」
「こらこら、後継ぎ探しじゃないわよ!」
なんだこの断りにくい空気は。
和気藹々と話している大人たちを前に、俺は本格的に悩んだ。
初めて会った時に爺さんが米袋を倒していた姿を思い出す。爺さんも婆さんも、仕事中何度も腰を叩いていた。
大和は勉強が忙しくて手伝えない時もあるらしいし、大変なのは本当なんだろう。
(でも、この賑やかな空間で頻繁に過ごすとなったら……疲れるよなぁ)
大和みたいにずっと自分のペースで動ける気がしない。
そう思いながらチラリと顔を向けると、湯呑みに口をつけている大和と目が合った。
レンズの奥の目がふらふらと泳ぐ。
俺が話を振ったと思ったのだろうか。湯呑みを両手で持ち直し、ボソボソと話に参加してきた。
「帰り遅くなりますけど、家の人の許可は下りるんですか?」
もしかすると、これは断りやすいように大和がくれた助け舟だったのかもしれない。
でも俺は気がつかないで正直に答えてしまった。
「うちの両親どっちもほとんど家にいないから気にしないんじゃ……ない、か……」
発言している最中に、店内の空気が変わってしまって俺は口を止める。
大人たちが意味深に顔を見合わせていた。
表情筋が死んでるはずの大和の顔が、気まずそうになったのが分かるほど動いた。
マズイ。言い方が悪かった。間違えた。
なんか誤解を生んだ気がする。
家庭環境を心配されてる気がする。
だからこいつグレてんのかって思われてる気がする。
言葉って本当に難しい。だから会話って嫌いなんだ。
俺は慌てて空気を打破するために口を動かした。
「最近、母さんも残業解禁したんで。土日は二人とも家にいるけど」
俺が高校受験終わってからの話だから最近って言っていいのか分からないけど、「最近」というのを強調する。嘘は付いてないはずだ。
大人にとっては一年以内は最近だってこないだ担任がボヤいてた。
どうやらさっきの説明は正解だったらしい。
凍りついた店内はあからさまにホッとした空気が流れ出した。
「そうなの! 大変ねぇ。ご飯はいつもどうしてるの?」
「各々適当に買って帰って……」
「……お母さんとお父さんはまだ仕事?」
「連絡ないからそう、かな」
「これ、持って帰ってあげなさいな」
すっかり笑顔を取り戻した婆さんは「今日のバイト代よ」とか言って、プラスチックの容器に食べ物を詰め始めた。俺や大和に出してくれたのより野菜が多めな気がする。
婆さんの後ろ姿や、常連客と喋ってる爺さんを見て、俺は真面目に考えた。
人と話すのは難しいけれど。
スーパーやコンビニの惣菜より美味い飯。
学校から近いけど、うちの高校の生徒と鉢合わせることはなさそうな店の雰囲気。
「うちのメニュー、少ないから覚えやすいよ」
迷っている俺に、こっちを見ないまま大和が独り言みたいに囁いてくる。
あれ、こいつ、後押ししてきてる?
鼻筋が通った横顔を見てもやっぱり視線は合わないけど、どうやらこのエリート眼鏡に嫌われてはいないらしいことを初めて知った。
クリアファイル効果だろうか。
「親に相談してみる」
いつかは働いて人と関わらないといけないんだし、一度バイトを経験しとくのもいいんじゃないか。なんて気分になってしまった。
帰ってから弁当を見せたら両親は大喜びしてたし、この店でバイトするって言ったら、
「蓮が人と関わろうとするなんて!」
「奇跡だ!」
と、鬱陶しいテンションで感激された。
そういうわけで、俺は晴れて定食屋で働くことになったのだった。
バイト初日、俺は絶望している。
業務内容自体は良かった。今日も基本は皿洗いや力仕事だったし、少しだけど注文を受ける仕事も出来た。
バイト自体は順調だったんだ。問題は、その後。
「今、事故で電車止まってるぞ」
意外と大丈夫だったと満足していた俺を突き落としたのは、常連客の一人がくれたこの情報だ。
最悪なことに復旧の時間は未定で、駅は帰宅難民とタクシーを求める人々で溢れているらしい。
俺はタクシー代なんて持ち合わせてないし、まだ両親が帰ってくる時間じゃないから家に着いてから代金を持ってきてもらうことも出来ない。
完全に帰宅難民だ。
(バス……バスでも帰れるのか……?)
ほとんど使うことがないから、経路を調べようとスマホをカバンの中から取り出した時。
婆さん、ではなく女将さんがパンッと手のひらを合わせた。嫌な予感しかしない。
「蓮くん、うちに泊まって行ったら良いのよ! 明日は休みでしょ?」
(絶対嫌だ!)
心の中では即答できているのに、声には出なかった。危なかった、喉まで出ていた。
もっと、もっと人間の言葉に直して上手くお断りしなければ。
俺は脳内の会話辞典の数少ない項目から、適切そうな言葉をひっぱりだそうと必死に考える。
「そんな迷惑はかけられないので」
「遠慮しないでいいぞ! 布団はあるから! なぁ母さん」
爺さん改め大将には人間の言葉が通じないらしい。やっぱり宇宙人なんだろうな。
「そうそう! 着替えは大和のをまた貸すわよ。ねぇ?」
「え……」
宇宙人夫婦のノリに、話を振られた大和が固まってしまった。俺と交代して洗い物をする手が完全に止まっている。
ジャバジャバとただ水が流れる音が数秒した後、再び手を動かしながら大和は頷いた。
水音に掻き消されそうな低い声がボソボソと聞こえてくる。
「俺ので良ければ……いつでも……」
いつでも良いって間じゃなかったぞ今の。嘘が下手か。
「ほら! 大和も喜んでるし、親御さんには私から連絡するわ!」
なるほど宇宙人にはあれが喜んでるように見えるのか。そんな馬鹿な。どう考えても嫌だって言える空気じゃないから了承しただけだろ。
でもこのポジティブさが女将さんの元気の秘訣なんだろうなってちょっと羨ましい。
女将さんは俺の返事を待たずに、すでにレジ横の固定電話を手にしている。
プルルル、とよくある発信音を聞きながら俺は祈った。祈るしかなかった。
(母さん頼む! 自力で帰らせるって言ってくれ!)
結論から言うと、俺はお泊りする羽目になった。
母さんがとりあえず形だけ遠慮して、女将さんがもうひと押ししたら、「じゃあよろしくお願いします」という大人特有の適度なやりとりを隣で聞いていた俺は白目剥いて倒れそうだ。
健康すぎて倒れたことなんてないけど。
嘘だと言ってくれ。
誰かに助けを求めたいが、この場で一番俺と感覚が近そうな大和は空気を読んで黙々と洗い物をしてる。
絶対嫌だって思ってるはずなのに口にしない。
言ってくれ。勉強の邪魔になるからくらい言っていい。
俺は念を送るけど、その願いが叶うはずもなく。
風呂に入ってさっぱりして大和のブカブカの服を着ていた。Tシャツはこのくらいのサイズもありかもしれないと思うくらい楽だ。まとわりつかないから涼しいしな。ジャージ生地のハーフパンツは相変わらずウエストの紐を絞れば問題なし。
女将さんが出してくれた麦茶飲みながらホッと一息、つけるわけもなく。
俺は足を揃えて四人用のダイニングテーブルの前に座っていた。
(落ちつかねぇ)
いっそずっと風呂に一人で引き篭もってたかった。
いつもより開いているデコルテに濡れた金髪が掛かって冷たい。ドライヤー貸してくださいって言う勇気を誰かくれ。
ソワソワするとカタカタ椅子が鳴るから身動き取れない。
手持ち無沙汰な俺はぐるりとダイニングを見回した。店と一緒で、置いてある家具に年代を感じる。でもリフォームしているのか、フローリングの床や白い壁はほとんど傷がなくて綺麗だ。
地方にある俺の祖母さんの家とは雰囲気が違って現代的な住まいだな、などと考えていると。
「蓮くん」
最早聞き慣れた声が聞こえて、椅子をガタンッと鳴らしてしまう。顔を向けると、布団を抱えた女将さんが笑っていた。
「ごめんなさいねー。シャンプー切れそうだった気がするから大和に詰め替えてって伝えてくれる?」
「はい」
使わせてもらったけど、切れそうだったことに全然気付かなかった。シャンプーの残量なんて気にして生きたことがなかったからな。
(シャンプー切れそうだから詰め替えてって女将さんが言ってた。シャンプー切れそうだから詰め替えてって女将さんが言ってた。シャンプー切れそうだから詰め替えてって女将さんが言ってた)
廊下を歩きながら、俺はなんども言葉をシュミレーションする。このくらいの業務連絡、やり遂げてみせないと。
まずは引き戸をコンコンとノックする。何の反応もない。
小さく深呼吸して、そーっと脱衣所に入る。
ドアを開けてすぐ目の前の鏡には自分で思っているよりポーカーフェイスの俺が写っていた。
この感じならちゃんと伝えられそうだと安心して、中のシルエットがぼんやりとだけ分かる曇りガラスのドアを軽くノックする。
「しゃ、シャンプー、切れそうだから詰め替えてって女将さんが言ってた」
ずっと聞こえているシャワー音のせいだろうか。
大和が向こうで何か言ってるはずだけど全然聞こえない。
「シャンプーが切れそうだから、詰め替えてって女将さんが言ってた!」
大きめの声で言い直してやると、また何か聞こえる。たぶん、「了解」とか言ってんだろう。
都合よく解釈して俺が出て行こうとすると、シャワーの音が途切れた。
「何って? 聞こえなかったんだけど」
ドアが開くと共に出てきた男を見て、俺の脳はバグった。
全裸のイケメン、目の前にいる。
しかも、不機嫌そうに眉間に皺を寄せていてとても怖い顔のイケメンだ。
おかしいな、声は大和だった気がするんだけど。
俺はジッと見慣れないイケメンを見つめた。
「……大和、か……」
謎のイケメンとここにいるはずの人物の姿がようやく重なった時、俺は唖然と呼び捨てにしてしまった。
よく見たら眼鏡を外しているだけで大和だ。
濡れた前髪を後ろに流してるから髪型も違うけど大和だ。
どう見ても大和なんだけど、普段の大和を見てイケメンとは思わなかったのに。
メガネしてないからってこんなイケメンになるものなのか。
濡れてるせいか。水も滴るなんとやらというやつか。
いやそんなことより、イケメンの不機嫌顔怖っ!
「蓮、さん?」
名前を呼んだだけで黙った俺に、大和が怪訝そうに首を傾げた。
そりゃそうだ。さっき、聞こえなかったって言ってたし、こいつ何しに来たんだって感じだよな。
俺は一歩下がって、慌てて口を動かした。
「わ、悪い。えーと。女将さんがシャンプー切れるって……だから、えっと……」
なんて言おうとしたんだか忘れてしまった。
あんなに頭の中で予習して、さっきは声に出して言えたのに。
俺は焦ってしまって、余計に言葉が出てこなくなる。
すると、風呂のドアにかけてあったタオルで髪を軽く拭いた大和が、
「ありがとうございます」
「えっ」
何故か礼を言って、グッと俺に近づいてきた。究極に近くなった全裸のイケメンにビビって、俺は思わず腕で顔を隠し体を屈める。
風呂上がりで高くなっている大和の体温を、ほんの1センチ先くらいで感じてバクバクと心臓が鳴る。
パタ、パタン。
乾いた音が真後ろでして、大和の気配が離れていった。
「……?」
恐る恐る顔を上げると、やはり顰めっ面の大和が見下ろしてくる。
「すみません、詰替えも最後だから月曜に買ってくるって祖母さんに伝えてください」
「う、ん……」
シャンプーの詰め替え容器を持った大和が、また浴室に入っていく。
(詰め替えを取るからそこ退いてくれとかさ、言ってくれよ……)
自分のことは棚に上げて、どうも言葉が少なすぎる傾向がある大和に心の中で文句を言う。何にイライラしてたのか、向き合ってる間ずっとすごい威圧感だったから疲れた。
もしかしたら、俺が泊まっていくのがそんなに気に食わないんだろうかと流石に落ち込む。
(そりゃ、俺も人のこと言えねぇけどさ)
溜め息を吐いて脱衣所を出ようとした時、肘に何かが当たった。
「あ、やべ」
スリッパのすぐ横に眼鏡が滑り込んできて、落としてしまったのだと気がつく。慌てて拾い上げた俺は、なんとなく眼鏡を観察した。
傷のない黒っぽいメタルフレームから、レンズがはみ出している。
家で父さんが掛けているものに比べて、随分レンズが分厚い気がした。
(これって、すごく目が悪いってことか?)
「すいません、落ちてました?」
眼鏡をまた落とすところだった。
大和が声を掛けてくるたびに俺はビビりすぎている気がする。分かってるけど慣れない。きっと、まだ居たのかお前って思われてる。
俺は眼鏡を潰さないように両手のひらに乗せて、大和に差し出した。
「わ、わわ悪い! 当たって俺が落とした!」
「ああ、そうだったんですか」
大和は濡れた手で眼鏡を受け取り洗面台に置く。それから床にあるゴミ箱に、ペシャンコになったシャンプーの詰め替え容器を放り込んだ。
浴室に戻ってから出てくるまでの時間を考えると、ほとんど洗い終わった後に俺が伝言に来たんだろう。
「……どうしました?」
顔を拭いて眼鏡をかけた大和が、さっきより小さく感じる目を向けてくる。男同士だからって遠慮なく見すぎたみたいだ。実際には体ではなく顔を見ていたんだけど、気分は良くないよな。
俺は正直に理由を説明することにした。
「その、印象どころか顔が変わったみたいだって」
「眼鏡のことですか? そういえば、目が小さくなるって言われます。近視が強くてレンズが分厚いんで」
目がものすごく悪いという予想は当たっていた。そういえば、目が見えないと見ようとして目つきが悪くなるって聞いたことがある。
もしかしたら大和は不機嫌だったんじゃなくて、一生懸命、俺のことを見ようとしていたのかもしれない。
眼鏡をかけた大和はいつも通り愛想はないけど怒った顔はしていないから。
俺は安心してそのまま会話を続けてしまう。
「そんなに悪いのか」
「この距離にならないと輪郭はっきりしないんです」
「……っ!?」
頷いた大和が眼鏡を外して顔を近づけてきたので、俺は息を飲んだ。
だって、大和の言う「この距離」とは、鼻先が触れ合うか触れ合わないかの距離だったんだ。
近過ぎる。逆に見えない。息がかかって呼吸ができない。
「あ、ご、ごめん」
俺がとんでもない顔をしていたのだろう。
大和は慌てて顔も体も離した。それでも俺は、まだ呼吸が整わなかったし何も言えない状態だ。
あんなに他人と顔が近づいたのは初めてかもしれない。
大和は眉を下げて眼鏡をかけ直した。タオルで口元を隠して、俺から目線を逸らす。
「僕、パーソナルスペースの取り方をすぐに間違えるんだ。近かったら言ってください」
深々と頭を下げるのを見ると、さっきの俺みたいに他人を驚かせることがよくあるのかもしれない。
大将も女将さんも相当人との距離が近いから、家族全員がそんな感じなのだろうか。俺からしたら想像もしたくない状況だけど、それが当たり前の環境で育つと他人との距離感も狂うのか。
でも、俺は今の今まで大和からは距離しか感じなかった。大和は相当気をつけてて、気をつけ過ぎた結果、無愛想を極めたのかもしれない。
話しかけられたくなさすぎて派手な格好と目つき悪い表情をするようになった俺みたいに。
「お互い、極端だな」
自分の想像に、思わず口元が緩む。
「お互いって?」
突然笑った俺に、当然意味が分からない大和が首を傾げる。
「なんでもない。悪かったな、着替えてくれ」
脱衣所から出る俺を引き留めてまで、大和は答えを求めてこない。
俺は一人で勝手に気持ちが軽くなって、シャンプーの詰め替えのことを忘れないように女将さんを探す。
(……それにしても)
近いから離れてくれ、なんて。俺は思っても言えないんだろうなぁ。
「一緒の方が楽しいと思ったから、大和の部屋に布団敷いたわよ」
「え」
「え」
俺と大和の愕然とした声が重なった。
どうして、その方が楽しいと俺たちが感じると思ったんだろう。
しかしせっかく用意してくれた布団だ。
女将さんが重そうな敷布団持って、わざわざ移動してくれたと思うと、
「今から布団を移動させてくださいお願いします」
なんてとても言えなかった。
しかも大和本人を目の前にして「一緒の部屋は嫌だ」なんて言う度胸もない。
大和もそれは同じみたいで、珍しく「なんでだよ」って感情が表情に出てるけど何も言わなかった。
そういうわけで俺と大和は、畳にピッタリとくっつけて並べられた布団の上にそれぞれ座っていた。
シーン。
効果音をつけるとしたらこんな感じだろうか。
全く話題が見つからない。
俺は目線だけ動かして、何かないかとロータイプの勉強机が置いてある和室を見回す。
最初に入った時に驚いたのは、壁に沿って部屋を囲むように本棚が連なっていることだ。腰より低いくらいの本棚だから圧迫感はないけれど、こんなに本が多い部屋は初めて見た。
勉強机周辺は難しそうなテキストや問題集があって、その他はほとんどが漫画っぽい。そういや、漫画とかアニメが好きなんだったっけ。
「えと……漫画、いっぱいあるな。好きなんだな」
「はい」
会話が終わった。
俺の話の振り方も下手だったけど、もう少し膨らませてくれてもいいんじゃないかと思う。
いつもなら沈黙なんて怖くない。
でもそれは相手が俺のことをどうでもよくて、俺も相手がどうでもいいことがほとんどだからだ。関係が悪くなろうが知ったこっちゃない相手の場合だ。
大和は違う。
当たり障りなく波風立てない関係でいたい。仲良くならなくていいけど、どうでも良くはない。
だから同じ空間にいると気になってしまって、何か話さなきゃいけない気分になる。
「あのさ」
「蓮さん」
最悪なことに声が被ってしまった。
嫌な汗がずっと滲んでいる俺は、胡座をかいた足をギュッと握りしめる。
「何?」
「いやそっちから」
「大したことじゃねぇから」
「ぼ、僕も」
譲り合いをしすぎてギクシャクしてしまう。
両方がまた黙った。この変な空気、朝まで続くような気がしてつらい。
「あの、ごめんなさい」
先に沈黙を破ったのは大和だった。何度かこんなことがあったけど、大和の方が俺よりちゃんと喋れるみたいだ。
こちらを見ずに布団を見つめている大和は、控えめに口を開いた。
「祖父さんと祖母さん、強引で……本当は困ってますよね」
「店長たちは善意の塊だから」
「ありがとうございます」
逆の立場でも全く同じ状況に陥ったであろうことが想像できて、大和を責めるわけにはいかない。
どう考えても普通なら接点がない人種同士、話が合うわけもない。IQが違いすぎると会話も成立しないとか聞いたことがあるし、色んな意味で不安しかない。
あっちも気まずいんだろうなと思うと余計に居た堪れなくて、俺は頑張って体ごと大和に向けた。
「あのさ、敬語、いらねぇよ」
「あ、はい。分かりました」
敬語で答えてんじゃん、と笑いそうになるのを唇を噛み締めて耐えた。優秀なやつは笑われるのを嫌がる気がする。
「ごめん」
俺が睨んだと思ったらしい大和は形の良い口元を押さえて俯いてしまった。
まずいぞ。気まずさが増した。
時計を見ると、ようやく10時だ。
普段ならもう少し夜更かしするところだけどもう限界だ。初バイトで疲れてるし、寝た方がいい。寝たら一気に朝が来る。
「寝るか」
「うん」
俺が布団に横たわり、大和が枕元にある電気のリモコンを手にした時だった。
突然、障子窓が光った。何か巨大なものが落ちたような爆発が起こったような大轟音が鳴り響く。
「ひっ」
床も揺れたと感じると共に、部屋が真っ暗になる。俺は薄い掛け布団を抱きしめて大和がいるはずの場所に声を上げる。
「こ、このタイミングで消すな!」
「いや、消してない。停電かも」
我ながら情けない涙声に、至極冷静な大和が答えてくれる。
何故、そんなに平気そうな声が出せるのだろう。
俺がビビりすぎなのは分かっているがこれは最早本能だ。怖いものは怖い。雨が窓を叩く音まで聞こえてきたし、停電ってことはさっきの爆発音みたいなのは雷か。
正体が分かったところで不安は消えず、むしろ恐怖を煽ってくる。雷は何回も光って音が鳴るからな。
真っ青であろう顔が暗くて見えないことだけが救いだ。
「ちょっと見てくる」
スマホで的確に廊下に続く引き戸を照らして、大和が立ち上がった。
俺は咄嗟に、大和の服の裾を掴む。
「ま、待て。独りにするな。俺も行く」
自分もポケットからすっかり存在を忘れていたスマホを出していると、大和は目を丸くしてこちらを見ていた。
「怖いの?」
「こ、怖い」
ここまで来たら恥なんか知るか。意地なんて張る意味もない。雷の鳴る暗い部屋に独りで置いてかれるよりマシだ。
大和は眼鏡の奥で数回瞬きした後、裾を掴む俺の手を控えめに握ってきた。
今、手汗すごいのにと思ったけど、じんわりと熱い大和の手も同じだ。どっちの汗かとか分からなくて、少し気が楽になった。
(こういう時って、相手が誰でも安心すんのか)
なんだかホッとした俺は手を支えにして立ち上がり、引き戸に向かう大和についていく。
「ずっと思ってたんだけど」
大和は廊下に出る前に、まだ手を握ったままの俺の顔を見下ろした。
「蓮さんって、漫画のキャラクターみたいだな」
「はぁ?」
何言ってんだこいつ。
心の底からの俺の疑問符がスイッチだったかのように、部屋が明るくなる。
「あ」
「ブレーカー上がったみたいだね」
「二人ともー! 大丈夫ー?」
パタパタと忙しないスリッパの音が廊下から聞こえてきて、大和が部屋から顔を出した。
「大丈夫。そっちは?」
「平気よー! びっくりだったわね! おっきな雷!」
興奮気味の女将さんの声がどんどん近くなってきた。俺も大丈夫だって言わないと。そう思った時に、俺はまだ大和の手を握ったままなことに気がついて慌てて振り払う。
「蓮くんも、大丈夫?」
案の定、女将さんは俺の顔を確認すべく部屋を覗き込んできた。間一髪だ。
俺はなんでもなかったかのように一回だけ頷いた。大和がポーカーフェイスの裏で爆笑してるかもしれないと思うと悔しかったが、特に揶揄う素振りもない。
そういうやつで良かった。
「良かったー! じゃあ、お店とおじいちゃん見てくるわね!」
女将さんのスリッパの音が今度は遠くなっていく。俺はフーッと額に滲んだ汗を手の甲で拭った。
ふと、大和を見ると手のひらを見ていたのでハッとする。親切で握ってたのに、強く振り払いすぎたかもしれない。気分を害しただろうか。
腹の奥が一気に冷えて、俺は急いで喉を震わせた。
「あの、ごめん」
「え?」
「女将さんの前では流石に恥ずかしくて、俺、焦って」
「ああ、全然気にしてないよ。そんなの当たり前だし、僕だって恥ずかしいし」
確かに家族に見られる方が嫌だな。
大和は本当に気にしてないみたいで、手をぷらぷらと振って見せてきた。
(あ……)
少しだけ、ほんの少しだけだけど大和の口角が上がって目が細まる。
自然と出てきた表情なのか、俺を気遣ったのか分からないけれど。
初めて見る表情に、何故か胸がムズムズ痒くなった。
朝、なんか寝苦しくて起きたらイケメンが俺の腹を枕にしてた時の正しい対応を誰か教えてくれ。
かれこれ20分くらいはこうしてるんだけど今何時なんだろう。障子窓の向こうは明るいし車の音も聞こえてるから、もう朝と言える時間ではあると思うんだ。
どけりゃいいんだよ。そーっと横にズレて大和の頭を布団につけてやればいい。
でももし途中で起きたら。俺の腹に頭乗っけて寝てたんだって知ったら気まずくないか。
(勝手に寝返り打って落ちてくんねぇかなぁ……苦しい)
腹が圧迫されてて呼吸がしにくい。
天井との睨めっこももう飽きたし。
しかもトイレに行きたくなってきた。なんとかしないと。
俺は仰向けになって気持ちよさそうに寝息を立てている大和をどうやってどかすか考えた。
いっそ、一気に振り落とすか。そんで、
「ぶつかったみたいだ、悪い」
って、適当なこと言って誤魔化すか。
よし、それで行こう。
覚悟を決めた俺は腹に力を込めたわけだけど。
「大和ー! 蓮くーん! 朝ごはんできたから食べてー!」
「んー」
「わぁあっ!」
引き戸の向こうから聞こえてきた女将さんの声に反応した大和が、寝返りを打って俺の腹に顔を埋めてきたので。
俺は勢いよく起き上がってデカい体を思いっきり引き剥がしてしまった。
◆
舌の上でとろける砂糖たっぷりの卵焼き、皮がパリッパリの鮭の切り身、ひじきの煮物とほうれん草のお浸し。熱々の白いご飯と豆腐とわかめの味噌汁は当然美味い。
塩の効いたおかずに対して飯が足らないなと思ったら女将さんが良いタイミングでおかわりをよそってくれた。
至れり尽くせりすぎて怖い。オレが泊まったのは旅館か何かなのだろうか。
「女将さんすげぇ」
「祖母さん、やりすぎなとこあるよね。ありがたいけど」
朝飯でこんなに腹一杯になることがあるんだってくらいパンパンの腹を抱えて、大和と並んで廊下を歩く。
洗濯物とかでバタバタと忙しそうな女将さんに洗い物するって言ったら「布団の片付けの方をしてー」と言われたので大和の部屋に戻っている。
大和が言うには、女将さんは台所は絶対触って欲しくないタイプらしい。今は市場に買い出し中の大将も、家の台所はほとんど入らないんだとか。
「いつもあんな飯が出てくんのか」
「うん。少なくとも、俺がここに来てからはそう」
「ふーん」
羨ましいな。
「祖母さんの卵焼き、小さい時から好きなんだよね」
「デザートみたいだった」
「うん、いつも最後にとっとくんだ」
仄かに目尻が下がっているのは、何かを思い出してるんだろうか。
進学校のエリート様の好きなものがおばあちゃんの卵焼きって、なんか親近感があってこっちも顔が緩みそうだった。
会話しながら部屋についた俺たちは、さっそく布団を畳み始める。
(大和がここに来てから、か)
この家には大将と女将さんと大和しか住んでいない。リビングに大和が小さい時の写真や、両親との家族写真、大和の母親であろう女性の子供の頃の写真とかはあったけど。
聞いてもいいものだろうか。
いつからここに住んでるのかとか、親は今どこにいるのかとか。
でも家族の話って、向こうからするのを待った方がいいよな。もし何か不幸があったんだとしたら、俺は掛ける言葉も見つからなくなるし。
知らないで何か地雷踏んだりしないように聞いときたい気もするんだけど。
大和がバサリと薄掛け布団を広げる音を聞きながら、俺はあれこれ考え込んでしまう。
「蓮君の家は朝どうしてる?」
なんの前触れもなく「蓮さん」から「蓮君」に格上げしている。俺も「大和」って呼び捨てにしちゃったし、呼ばれ方なんてどうでもいいんだけど。
俺は畳んだ掛け布団を敷布団に乗せながら、女将さんが見たらひっくり返りそうないつもの朝食を頭に描いた。
「親が買っといてくれるパンとかおにぎりとか食ってる」
「だよね。僕も実家ではそう」
実家が、ある!
今の言い方なら現在進行形で実家がありそうだと確信した俺は、少しだけつっこんで聞いてみることにした。
「実家、どこなんだ」
家がどこか、とかは普通にする会話だよな。自然な流れで聞けてると信じよう。大和は布団を抱えあげながら、なんの引っ掛かりもなく答えてくれる。
「隣の県なんだ。通えなくはないんだけど、ここからならうちの学校近いから」
「あー、そうだな」
通学中に電車の窓から見える進学校を思い出す。ここから二駅先くらいだろうか。自転車で行くには少し遠いかなってくらいの距離だ。
大和と同じく、ズッシリと腕にくる布団を抱え上げて廊下に出る。
ホッとした。大和が祖父母の家に住んでいるのは、とても平和な理由だった。良かった。
大和について布団を片付けた押し入れがあったのは、おそらく本来は客室だろう部屋。ここに俺を泊らせてくれた方が布団を用意してくれた女将さんは楽だったろうに、本気で大和と俺が喜ぶと思って布団を運んでくれたに違いない。
どうしてそうなったのかはさっぱり分からないが、善意だけはものすごく感じる。
部屋に戻って一息つく。
大和が別の部屋から持ってきてくれた座椅子は、ギシギシ音を立てるけど座り心地は悪くない。大和も勉強机の前にある座椅子に座って、
「人が来ることを想定したことがなかったからテーブルなくてごめん」
と、ペットボトルのコーラとチョコレートを畳に直接差し出してきた。
どう見ても、この間のクリアファイルを貰った時に買ったやつと同じだ。
「まだあったのかこれ」
「夜の勉強の時に食べようと思ってたんだけど……優先順位が低くて」
つまりそんなに好きじゃないってことか。
コーラとチョコレートを買って何日も消費せずに置いとく人間がいることを初めて知った。そもそも人間にあまり詳しくないんだけど。
「じゃあ、俺は好きだから遠慮なく」
「だと思って渡そうと思ってたんだけど……なかなか言い出せなくて」
意外だった。あんなに興味なさそうだったのに、声を掛けようとしていたのか。
「女将さんに渡してくれって頼むとかあったろ。俺みたいに」
「ん……そしたら蓮君は、『お礼言わないと』ってソワソワするだろ? 僕が渡したらその場で言えば済むし」
「なんか……うん、そうだな」
納得した俺は手を伸ばして丸いアーモンドチョコを摘み、大和はブラックコーヒーのペットボトルを開けた。
大和は俺の性格をすでに色々把握してる上に、気持ちが分かるんだと思う。きっと俺にファイルの礼を言いに来た時も、言い終わるまでずっと落ち着かなかったに違いない。
それでもちゃんと俺のことを呼び止めた勇気は尊敬する。
甘いチョコレートは、もう何も入らないと思っていたはずの口に染み渡る。こう言うのはやっぱり別腹だ。
美味いなーと顔を上げた時、大和の後ろの勉強机に赤と青のクリアファイルがあるのに気がついた。
「あれだよな」
「うん、これ」」
机のブックスタンドにあった2枚のファイルを引き出し、大和がこちらに見せてくる。
「このキャラがね、なんだか蓮君に似てるんだ。イキってるのにじつは怖がりで」
大和が前面に出した青い方のファイルには、五人のキャラクターがいた。
長い指が示してるのは、舌を出して親指を下に向けている、髪が逆立ったやつだ。この見た目でビビリなのはギャップがありすぎる。
相当柄が悪そうなんだけど、俺はこんなイメージだったのか大和の中で。すごく怖い不良だと思われていたようだ。
実際には怖がりなただのコミュ障だってバレたのが悔しかったから、俺は腕を組んでイラストのキャラクターみたいに眉を寄せた。
「悪かったなイキってんのに怖がりで」
「ご、ごめん」
口を抑えて声は焦ってんのに、あんまり目元や眉毛は動かない。大和は顔に感情が出にくいんだろうけど、見ていて不思議だ。
仕返しってわけじゃないが、俺は赤いファイルのセンターに映っているメガネの女子キャラクターを指で軽く叩く。
「お前もガキの頃読んだ漫画のヒロインみたいだぞ」
「どこが?」
このキャラクターがヒロインかどうかなんて知らないけど、大和はそこに突っ込むことはなくただ首を傾げた。
「メガネ外したら顔がいい」
「……そう?」
自覚なしかよ。
照れるわけでも自慢するわけでもなく、大和はぽかんと口を開けている。
こいつの周りには顔を褒める奴が居なかったんだろうか。気軽に外見を褒めあっているのを教室とかでは耳にするけど、もしかしたら賢いやつらは顔を褒めないのかもしれない。
また変な沈黙が流れ始めたから、俺は慌てて話を逸らした。
「……これは、アニメなのか?」
「漫画が原作のアニメだよ」
「へぇ。この部屋には」
「あるよ!」
キラリと眼鏡の奥が光って、
「あ、変なスイッチ押したかも」
と思ったけどそれは後の祭り。
怒涛の勢いで漫画をおすすめしてくる大和に負けて、漫画を持ち帰るハメになった。
本人が言っていた通り驚くくらい顔を近づけて喋りまくった大和は、途中で正気に戻って落ち込んでたけど。
楽しそうだったし、全然嫌じゃなかった。口を挟む余裕すらないから、喋らなくていいしな。
お互いコミュニケーションが苦手って仲間意識もあるからかもしれない。
大和といるのは、心地よかった。
「蓮君」
バイトの日に定食屋に入ろうとすると、駅の方から歩いて来たやつに声をかけられる。焦点を当てれば、大和が控えめに手を上げて近づいてきていた。
俺は足を止めて、大和が追いついてくるのを待ってから店に入る。梅雨明けで暑くなってきた外の空気に比べて、店内は涼しい。
「今日は塾の日じゃないのか?」
「先生の都合で休み。その代わり明日は遅くなるんだ」
「へぇーお疲れ。今日はゆっくりしろよ」
大和は泊まった日を境に、躊躇なく声をかけてくるようになった。驚いたのは最初だけで、すぐに慣れた。俺から声をかけることもあるけど、それはまだものすごく緊張する。
でも声を掛けてしまえば、大和とは普通に会話できるようになってきた。
大和と共に店の奥の居住スペースの方に入って、和室に荷物を置いて着替えをする。
本来のバイトってこんな感じじゃないんだろうけど、スタッフルームみたいなのがないからってこんな形になった。
Tシャツとジーンズに制服のエプロンをつけて部屋を出ると、すでにエプロン姿の大和が立っていて俺は目を見開く。
「今日は俺がいるから店の手伝いは」
「人数多い方が楽でしょ?」
それはそうだけど、いつも勉強で忙しいから休めばいいのに。
「働き者だな」
「まぁ、うん……」
大和がいて困ることは一切ないから、俺はそれ以上何も言わずに店に向かう。後ろを歩いていた大和だったが、指先で肩をツンツンと叩いてきた。
「あの、さ」
「ん?」
「バイト終わった後、少し部屋でゲームしない?」
抑揚のない声だったけど、言葉尻から少し緊張しているのが伺えた。
すぐに返事をしないといけないのに、誘われ慣れていない俺の脳はたったこれだけのことでフリーズしてしまう。
足を止めて大和を見上げている俺は、相当困った顔をしていたんだろう。
大和が無表情のまま早口になった。
「時間があったらでいいんだ。30分くらい。たまにやってるスマホのゲームが、コンビでプレイするミッションがあってそれで」
懸命に捲し立てる大和の言葉を処理しきれない。
でもこの返事を間違うと、絶対に後悔することは確信できた。
「バイト終わり、二人で、ゲーム」
緊張のあまり、情報入力を繰り返すロボットみたいになってしまった。そんなんでも、大和は真面目な顔で頷いてくれる。
「そう……迷惑でなければ」
「する」
そういうわけで、俺は大和と一緒にゲームをすることになった。ゲームはたまにするけど、誰かとの協力プレイなんて初めてかもしれない。
バイトが終わったのが夜の8時。居住スペースのダイニングで大和とまかないをいただいて、ゲームすることになった。
俺は今、大和本人の言ってた「距離の近さ」っていうのを実感してる。
リビングのソファーに並んで座ってるんだけど、本当に近い。二人で座ってても余裕がある大きさのソファーなのに、ずっと肩や腕が触れ合っている。
現在進行形で、分からないところを教えてくれるために大和が俺のスマホを覗き込んでいるわけだが。
ちょっとでも動くと頬と頬が掠める。
(でも、別に嫌じゃないな)
新発見だ。
俺は人と話すのは大嫌いだが、体が触れ合っているのは平気らしい。
風呂で急に顔が近づいたのは流石にびっくりしたけど、楽しそうにしている大和の体温を感じるのは抵抗が全くなかった。
他人と関わることがなかったから気がつかなかったんだな。
「なるほどな」
「再開しよ……っ!」
「いっっ!」
俺が理解したので離れようとした大和が顔を顰める。ほぼ同時に俺も耳に痛みが走って奥歯を噛み締めた。ピアス飾りに大和の髪が絡まってしまったのだ。
離れると痛い。二人して顔が離せなくなって焦る。
「どうなってるこれ」
「蓮君のピアスのどれかに絡まってる」
「それは分かる」
「ハサミは、危ないか。引っ張って髪を引きちぎるしか」
大和の提案は解決は早そうだが、既に痛いのにソレは怖い。
「待て。俺がピアスとったらいいんだよ」
三つあるピアスの内のどれが原因か分からなかったから、俺は当てずっぽうでゆっくり留め具を外した。大和が手を差し出してくれたから、その上にピアスを置く。
一つ目は、外れ。
大和の息が手や頬に当たってこそばゆい。でも離れすぎると痛いから、くっついといて貰わないと。
二つ目も、外れ。
勘が当たらないけど、これで最後だ。
何となく息が浅くなる。慎重に、そーっと手を動かす。大和の呼吸音が静かになった。
頭がくっついてると腕が動かしにくかったけど何とか三つ目も無事にとれた。
大和の手に三つ目を置くと、耳の違和感がなくなる。フーッと二つ分のため息が重なった。
顔を離して確認するように髪を触った大和は、じっと俺の方を見てるみたいだった。俺はなんだろうと思いつつも聞かず、大和の手のひらからピアスを摘んだ。
「気になってたこと聞いていい?」
「なんだ?」
耳にピアスを当てようとしたところで低い声に話しかけられて、手が止まる。普段、つける時は鏡を見てるから集中してないと穴に通せる気がしない。
大和の視線は、真っ直ぐに俺のピアス穴に向けられている。
「ピアスって痛くない?」
「女将さんと同じことを……」
「経験ないと、ついつい聞いちゃうんだよな」
真顔の大和は興味津々のようで、穴が開くほど見てくる。もう開いてるけど、穴。
「俺は意外と大丈夫だった。怖いのは最初だけだよ」
大和の表情に乏しい顔が少し緩む。自分の耳たぶに触れて、手の中のピアスへ視線を落とした。
「大学になったらやってみようかな。髪も染めて」
「意外だ」
「何が?」
「そういうのしたいと思うのか」
生真面目な性格だとは思わないけど、てっきり外見に無頓着なのかと思っていた。校則を守ってるから髪もメガネもおしゃれとは言い難い感じにしているのかもしれない。
「ん、まぁ……似合わないかもしれないけど」
言葉を濁すのは、「おしゃれ」という未知な者に対する恐怖というか畏怖みたいなのがあるからだろうか。
今でこそ慣れたけど、初めは俺も派手な格好にしてソワソワしたしな。
大和ならツラもスタイルもいいし、何をしても似合いそうだと個人的には思った。
「やるならコンタクトにしろよ」
「眼鏡だとダサい?」
「ん、いや……そうじゃないけど」
ちょっとした軽口のつもりだったけど、すごく悪い方に受け取られてしまった。
ダサくはなくてごく普通なんだけど、外したらすごく良くなると思うともったいなくて。でもそれは俺の主観で、余計なお世話だったかもしれない。
俺は上手く話を続けられなくて、誤魔化すように言葉を切る。白々しくピアスをつけることに集中し始めた風を装った。
大和は特に追及してこなかったけど、気分を害してしまったかと思うと指先が震える。
「んー……」
「難しそうだね」
なかなか穴に入らない。見たところリビングに鏡はないし、大和が手鏡を持ってるとは思えない。洗面所に行かせてもらうしかないか、と諦めかけて下ろそうとした手を掴まれた。
「もうちょっとこっちだよ」
大和が俺の手を微調整して、ピアスが定位置に戻される。更に、手のひらに乗っていた部品の中から正しい留め具までしてくれた。
「これ、左右対象になるようにつければいいの?」
「あ、え、う」
俺はというと、想定外の大和の動きに大混乱していた。
前言撤回だ。
触れられるのは平気だと勘違いしたけど、手を掴まれたくらいで心臓が止まりかけた。かと思えば、今は引くほどの勢いでバクバク動いてる。
「蓮君……あ」
質問に答えなかったから覗き込んできた大和は、俺の顔を見て小さく息を飲んだ。血の循環が良すぎて顔が熱い。
「ごめん、急に触って。蓮君、いつも優しいから気が抜けて、気をつけるの忘れてた。苦手だったよね、本当にごめん」
よく舌が回るようになった大和が体ごと離れていく。顔には出てないけど、こいつがよく喋る時は焦ってる時だ。
(違うって言わないと。嫌なわけじゃなくて、急に手を握られたからびっくりしただけって。そんで、ピアスつけてくれてありがとうって言って、それから……)
頭の中まで熱くなって、真っ白というよりは真っ赤だ。何から言ったら良いのか分からない。唇が動くことすらせずに固まっている。
動け、俺の口。
「えっと……いつの間にか9時になってるね」
大和、俺を帰らせようとしてる。気まずいからって完全に帰らせようとしてる。いつもなら俺もさっさと帰りたいと思うところだけど、今は帰っちゃダメな気がする。
「頼む」
「え? 何を?」
ようやく口が動いた。ずっと閉じてたのに、何故かカラカラだ。喉が痛い気すらしながら、俺は耳たぶのピアス穴に触って大和に少しだけ顔を寄せた。
「これ、頼む」
なんて言葉が下手なんだ俺は。でももうそれ以上言葉が出てこなくなってて、嫌じゃなかったと伝われって祈るしか出来ない。
大和は何も言わなかった。
何も言わないってことは、冷静に考えられる状況なんだと思う。多分だけど。
顔が見れなくて自分の膝を見つめていると、大きな手が俺の手を下ろさせた。
「動かないでね」
耳たぶに指が控えめに触れて、他のところが触れ合うより高く感じる体温が心地いい。
慣れない手つきだし、緊張してるのも伝わってきて俺も肩に力が入ったけど。
三つ目がつけ終わってやり切ったって顔してる大和に、ちゃんと笑ってありがとうって言えたんだ。
一学期の定期テストの二週間前、ようやく慣れてきたっていうのにバイトは一時的に休みになった。
正直、大して勉強しないから前日以外はシフトが入れられる。
でも「勉強頑張ってね!」と、女将さんに言われてしまったらバイトするとは言えなかった。
やることないけど、帰るしかない。
定食屋を通り過ぎながら、俺は周囲を確認する。駅の方から帰ってくる大和と少し話せる時があるからだ。
(今日はいないか)
「お疲れ、蓮君」
「……!?」
暖簾がある店の入り口から俺が見えるわけないのに、ベストなタイミングで大和が出てきて俺の心臓は確実に口から飛び出した。
「な、なんで」
「この小窓から蓮君が見えたから」
なんでもないことのように、厨房のところにある小さな窓を指さしてくる。
「そろそろだと思って」
「ま、待ってた……?」
「…………うん」
俺が相当戸惑った顔をしていたんだろう。大和が神妙な顔で頷いた。
「ごめん、引いた? 少しだけ話せると息抜きになるし、嬉しいし、元気になるし」
「引いてない。大丈夫だ」
涼しげな顔に似合わないほど口数が増えてきたのを、俺は遮った。大和は素直すぎて、聞いてて恥ずかしい。制御が効かない時は、思ってることが全部言葉になってしまうみたいだ。
安心させないと、もっと色々口走ることだろう。
「俺も、お前と話せると楽しいから」
「ありがとう、蓮君」
言えた。ちゃんと思った通りに言葉に出来たぞ。ちょっと、いやすごく恥ずかしい台詞だった気がするけど、大和の声は嬉しそうだ。
「俺と話すのが息抜きになるなら、えーと……光栄? だし」
「じゃあ、テストが終わったら二人で遊びに、いかない?」
「二人で?」
「嫌なら言って……って言っても、言えないと思うけど」
その通りだし俺のことよく分かってんなと思うけど、それは思っても言っちゃダメだろ大和。と、指摘することも出来ないんだよな俺。
(遊びに……)
バイト終わりに一緒に過ごすことは増えたけど、出かけるのは初めてだった。当然のことながら、俺は「友だちと遊びに行く」なんてことをしたことがない。
誘いは嬉しいけど、どんな感じになるのか想像が出来なかった。
「何をするんだ?」
「それはテストが終わってから考えようかと」
大和も同レベルだった。
上から見下ろしてくる大和は、落ち着かなげに動く手をポケットに突っ込んだ。
「ダメかな?」
「あれ。俺、行くって言わなかったか?」
「言ってないよ」
「悪い。行く」
答えたつもりになっていた。危なかった。
焦って素っ気ない返事になってしまったから、何か言葉を付け足した方が良いかもしれない。
そんなおれの考えを吹っ飛ばすように、大和は緩く目を細めた。
「蓮君と遊びに行けるのをご褒美にテスト頑張るよ」
「お、おお」
なんだこいつは。
照れくさいとか恥ずかしいとか嬉しいとか、色んな感情がないまぜになる。
大和と別れてからも気持ちがずっとふわふわしていた。謎のふわふわ感に導かれたのか、ふと電車の中吊りポスター広告が目に入る。
大和に借りた漫画のキャラクターたちのイラストだ。
(原画展……?)
気がついたら、俺は広告に書いてある内容をスマホで検索していた。
更に、なにやらグッズが貰えるという入場券の抽選に申し込んでしまったのであった。
そして、テスト明けのバイトの日に当選連絡が来た。
「神なの!? 外れたんだよ! 物欲センサースルー出来るってすごい!!」
お前そんなやつだっけ? って目の前にいる男を二度見した。なんだよ物欲センサーって。
開店準備中の大将と女将さんが目を丸くするレベルのテンションの高さで大喜びしている大和は、俺のスマホを覗き込んで眼鏡の奥の目をキラキラさせている。
原画展とやらのグッズがすごく欲しかったらしい。
限定アクリルキーホルダーって書いてあるけど、そんなにキーホルダーが欲しいものなのか。見たところ、大和のスクールバックにはそれっぽいものはひとつもついていない。あっても部屋の置き物になりそうだけど、価値観って人それぞれだな。
そんなに価値があるものなら、俺じゃなくてこの漫画が好きな人が行った方が良いな。
「やっぱり俺はやめようかな」
「なんで? ごめん嬉しすぎて我を忘れちゃった。引かないで」
しょんぼりとした声で腕を掴まれて、俺はまた言葉が足りなかったと反省した。ちゃんと言わないと、相手には伝わらないんだった。
俺は頭の中の言葉を要約しようと必死で考える。不安そうな目をした大和が喋り出したら口を挟めなくなるかもしれないから、早くしないと。
「引いてねぇ。けど……えっと……ほら、漫画好きの仲間といってこいよ」
大和が楽しめそうな場所を見つけたと思ったけど、俺と行くのは別の場所でいい。大喜びする顔が見れただけで十分だ。
心の底から、温かい気持ちで言ったんだけど。
「そんなのいると思う?」
「あ」
真顔ではっきりと問いかけられて、俺も同じ表情になって黙った。
そうだった。なんか、ごめん。
「……これで、いいのか?」
大和との待ち合わせ場所は漫画の原画展をする会場の最寄駅。
地下鉄の改札を出てすぐの柱にもたれ掛かりながら、俺は自分の服を見下ろした。
何の変哲もない白いTシャツに黒いハーフパンツ。銀のネックレスとピアスはいつも通り。
朝から、いや。この予定が決まった時から永遠に服装に迷っていた。
大和と初めて出掛けるどころか、友だちと遊ぶなんてことが初体験だ。
子供のころに公園で遊んだことくらいはあるけど、あんなの回数には入らないだろう。
普段出かけるときは全方面に牙を剥くような派手な格好をするんだけど、今日はあまり目立ちたくない。
(金髪のせいでどんな格好でも浮く気がするけど)
スプレーで一日だけ黒く染め直そうかとも思ったが、大和が俺に気がつかない可能性があると思って諦めた。せめて、と黒いキャップを被ることにした。
漫画の原画展にくるのは、大和みたいな大人しそうなやつが多いんだろうというイメージが偏見だったと俺が気がつくのはもう少し後だ。
(そろそろか)
ざわざわ音がしてきたかと思うと、改札から人が沸くように出てくる。俺は大和を探した。背が高いからすぐに見つかるはずだと、少し上の方を見てキョロキョロした。
すると、見覚えのある整った顔がこちらを見る。
「蓮君、待たせてごめん」
大和は人の流れに逆らいながら俺の方に辿り着いた。
「もっと早く来るつもりだったのに、服に迷ってたらギリギリになっちゃった」
紺色の襟付きシャツと青いジーンズを着ているイケメンを見上げて、俺はポカンと口を開けてしまう。きっと、すごく間抜けな顔だ。
「……メガネは……」
「蓮君の隣にいるのに少しでもマシかと思ってコンタクトにしたんだ」
「ほあ」
間抜けな顔どころか今世紀最大の間抜けな声が出た。
なんだこいつ。
俺が眼鏡を外すとツラが良いって言ったから?
それとも髪を染める時はコンタクトにしろって言ったから?
決定打は分からないけど、どうやら俺が原因らしい。
言葉の力ってすごい。少し怖い。
「あの、どうだろう」
戸惑っていると、柱に手をついた大和が覆い被さるように覗き込んでくる。近い。パーソナルスペースが来い。
いつもは良いけど今はダメだ。心臓がやかましい。でも、なんか言わないと。俺が言ったからわざわざ慣れないコンタクトにして外に出できてくれたんだから。
「いいと、思う」
「良かった」
レンズに隔たれていない目が嬉しそうに細まって、柔らかい微笑みが浮かんだ。
優しい声に胸が跳ねる。
どうしてこんなにドキドキするんだろう。
どうしてこんなに、嬉しいんだろう。
(大和が、俺と出かけるの楽しみにしてたのが伝わってきたからかな)
スマホで日付を見るたびに、あと何日と頭に浮かんでいた俺と同じ。
少し出かけるだけでどんだけ楽しみにしてんだと自嘲してたけど、大和も同じくらいワクワクしてくれてたんだ。
俺は目の前にある黒髪に恐る恐る触れてみる。
「前髪、上げた方がお前の顔がよく見えていいと思う」
今度は大和が固まってしまう番だった。
しまった。髪に触られるのが嫌だったのかもしれない。
俺は慌てて手を引っ込めて、行き場のない手をポケットに突っ込んだ。
大和は目線をウロウロと泳がせた後、前髪を後ろに掻き上げて見せてくる。
雑誌のモデルみたいなポーズを駅の改札前でしてどうするんだこいつ。
「固定の仕方が分からない……」
「固定」
「離すと落ちてくる」
手を開くと、言葉通りパラパラと髪が額に戻っていく。ワックスとかつけてないんだから当たり前だ。
「お前もふざけたりするんだな」
肩をすくめる俺に、大和はまた仄かに笑った。イタズラが見つかった子供みたいな顔だ。
「今度、やり方教えて」
どうやら触ったのが嫌だったわけじゃないらしい。ホッとした俺は、ショルダーポーチの中から携帯用のスプレーを取り出す。
「触って大丈夫か? 今」
手のひらサイズの小さい筒を、大和は物珍しそうに見つめて頷いた。
大和のテンションがとんでもない。
いつも通りの無表情で、声も低くして静かで、たいして喋ってもいない。
それなのにものすごくテンションが高く感じる。眼鏡もしてなくて前髪も横に流したから、顔が全面はっきり出ているからだろうか。
隣に居るとオーラがうるさい。
絵の一枚一枚をどんだけ見るんだってほど見つめては音もなく感嘆している。すごい集中力だ。
特に「ものすごく好きだ」とか言えるものがない俺にとっては、本気で羨ましい熱量だった。
好きなものがあるって、人生楽しそうだ。
原画展ってことだったけど、飾り付けとかも凝っていて来場者を楽しませる雰囲気がある。
キャラクターの大きなパネルがあったり、服が飾ってあったり、主人公の部屋を真似ているらしい空間があったり。
大和ほど熱心なファンではなく、漫画を借りて読ませてもらっただけの俺でも面白かった。
一通り見終わって、グッズ販売のエリアで抽選で当たった限定グッズの引き換え券を渡す。
(……要らねぇんだよな……)
キャラクターの集合写真のようなアクリルキーホルダーを手に、オレは微妙な顔をしてしまう。こんなところでは口が裂けても言えない。
でも、どうしてもこのキーホルダーは、羨ましそうにチラチラとこちらを見ている中の誰かに貰われた方が幸せなんじゃないかと思うんだよな。
「もうつけるの?」
「うん」
カバンにしまうと一生カバンの底で眠らせてしまいそうだったから、俺はすぐに封を切った。
大和は俺のショルダーポーチに付けて揺れるソレを嬉しそうに見てくる。気に入ったと思ったのだろうか。帰ったら外そうと思ったのに出来なくなったかもしれない。
「少し見に行っていい?」
引くほどひとが集まるグッズ売り場を指し示す大和に、俺は頷く。
「ちょっとじゃなくてゆっくり見れば良い」
と、言葉を頭で構築して声に出す前に、大和は弾むような足取りで人混みの中に入っていく。
文房具にポスターに、ぬいぐるみにマグカップとか皿とか時計まで。とにかく色んなグッズがあった。
(抱き枕カバーって……買うやついるのか……)
とか思ってると、横から手が伸びてきて女の人が持っていった。心の声が聞こえない人であることを祈る。
ところで、大和はずっと何かのグッズの前にしゃがみ込んで動かない。覗き込んでみると、筒形のクッキー缶を二つ持って睨みつけている。
「ふたつ買うのか?」
「ひとつ……」
どうやら、買った金額ごとにオマケのコースターがもらるらしい。しかもランダム。商魂逞しいシステムだなぁ。
クッキー缶は、買うと一枚コースターがもらえる値段だという。
缶の絵柄が二種類あるから、大和は真剣に迷ってるってわけか。そういうことなら、と、俺は大和が持っている缶の片方に手を掛けた。
「……じゃあ俺、こっち」
「え」
「クッキー好きだから。缶は後でやるよ」
こっちを見た大和の耳元で声を落とす。クッキー食べちまったら俺にとってはただのゴミだしな。
立ち上がった俺を見上げた大和は、フリーズしてしまった。何か変なことを言ったんだろうか。
何秒か経って追いかけるように立ち上がった大和は、口元に手を当ててヒソヒソと耳に話しかけてくる。ぬるい息がピアスに当たるし、耳の中まで入ってきて背中が痒いけど我慢だ。
「お、お店でこんなこと言うの良くないけど、クッキーだけだとこの値段の価値は多分なくて」
そのくらいは俺でも分かる。
テーマパークとかの土産みたいなもんだ。大事なのはパッケージの方。それでもさ。
「お前が嬉しいなら、それ以上の価値あるだろ」
思ったままに、何も考えず、口からスルリと言葉が出てきた。
大和の手からクッキー缶が滑り落ちて、床にぶつかってしまう。
「……」
「……」
即座に拾い上げた大和は、無言で缶の状態を確認するようにクルクル回している。やりすぎなくらいクルクル回しているのを見ながら、俺はジワジワと喉が痒くなってきた。
もしかして、ものすごく恥ずかしいことを言ったんじゃないだろうか。
「今の無し」
「無理だよ」
そりゃそうだ。一度口に出したことは消せない。
俺は自分が言ったことを頭の中で繰り返してみる。
ざわざわとした店内で、俺たちの間だけシーンとしていた。
「……」
「……」
目眩がするほど顔が熱い。クッキー缶を持つ手に汗が滲む。
頭から湯気が出そうだ。
逃げ出したいけど、足から根が出てるみたいに動かない。
(芝居掛かった、変なこと、言うやつだって思われた)
やっぱり黙っとくのが一番なんだ。会話なんてしない方がいい。
羞恥心で大和の顔が見れずに立ち尽くしていると、肩に腕が掛けられる。柔らかく落ち着いた大和の声が、すぐ近くで聞こえた。
「ありがとう。クッキーは家に来た時に食べてね。僕は中身より外側が欲しいから」
「う」
「会計、並ぼうか」
「……ん……」
まともな返事ができなかった。
でも、引いてる様子も呆れてる様子も、もちろん嘲笑う様子も全くなくて。
緩く弧を描いてる口元が、俺の言ったことに対してただ喜んでるだけなんだなって伝えてくる。
導かれるままに並んだ列はまさに長蛇という感じだった。「最後尾」と書かれたプラカードを持った店員からレジまでの距離が遠すぎることに驚いた俺は、恥ずかしさがとりあえず飛んでいった。
そして、問題なくコースターをゲットした俺たちは展示会の建物を出る。
クーラーの効いた室内から外に出ると、ムワッとしてすぐに引き返したくなる暑さだった。
俺と大和はそれぞれのコースターを見せ合う。五種類くらいある中の、違う絵柄が並んでいた。
良かった、被ってない。
当然のように、俺は大和にコースターを差し出した。
「やる」
「僕ばっかもらってるよ」
目を輝かせて受け取ってくれるかなって思ったけど、遠慮されてしまった。でも俺は本気で貰って欲しくて、柄にもなく食い下がった。
「お前が持ってる方がこいつが喜ぶ……と思った、けど、あの」
言いながら、ふと気がつく。
もしかして俺、やりすぎてるんだろうか。
大ファンなわけでもないのにチケットの抽選に申し込んだり、別に要らないのにクッキー缶買ったりコースターまで貰ったりして。
距離の取り方を間違えてて、やっぱり大和に引かれてるんじゃないか。
物で大和を釣ろうとしてる、みたいになってるのかもしれない。
嫌な胸のざわめきがまた蘇ってきて、痛いくらいの陽射しなのにどんどん体温が下がっていく。
どう説明したら、ただ大和に喜んで欲しかっただけだって伝わるだろう。伝えたところで、信じてもらえるだろうか。
ぐるぐると頭の中で文字が周り、言葉が浮かんでは消えていく。
多分、今の俺は酷く顔が歪んでいる。
「えと……」
「ありがとう」
大和が震えてる俺の手を握り、コースターを抜き取った。鼻先にコースターを当てて唇が隠れているけど、涼しい目元が細まる。
温かい手に安心して、俺は縋るように大和を見つめた。
「……俺、やりすぎた……?」
掠れた声が口からこぼれ落ち、大和はギュッと手を握る力を強くした。
「ううん、嬉しいよ。お礼に何かプレゼントさせて」
「そんなつもりじゃ」
「僕も蓮君に喜んで欲しいから」
人との距離の取り方は難しい。大和はいつも気をつけてるみたいだから、本当の適切な距離を知っているのかもしれない。
俺は今まで逃げることしかしてなかったから、そこが分からないんだ。
大和は俺のそういうダメなとこまで、分かってくれるやつでよかった。
俺は体の横で痛くなるくらい握りしめていた手を持ち上げた。
「じゃ、あ……コーラ……」
すぐ近くのベンチの横に、自動販売機がある。力なく曲がった指でそれを示すと、大和が目を瞬かせる。
「本当に好きなんだね」
大和は俺の手を握ったまま、自動販売機の方へと歩きだした。俺は漸く動くようになった足でよろよろとついていく。
ピッとICカードをかざす音に、ガコンッと飲み物が落ちてくる音が続く。
「もっと、蓮君の好きなもの教えてね」
冷たいペットボトルを差し出してきた微笑みは、夏の日差しより眩しく温かい。
俺は受け取ったコーラで顔を隠しつつ、熱った頬を冷やすことにした。