*
「ただいま」
「お帰り美羽。お母さんに出すプリントあったらすぐ出して、宿題あるならやって、もうすぐテストだから勉強もしなさいね」
学校から帰ると、お母さんが矢継ぎ早にそう言ってきた。しかも、毎日ほとんど同じような言葉を言われる。
「うん、分かった」
だけどそんな私も、毎日こうして同じ言葉を返す。
――しんどいな……。
ため息をつきながら階段を上って、自分の部屋に入った。
制服を脱いで部屋着に着替え、ベッドの上に腰を下ろしてひと息ついてから、鞄を開く。そこから、好きなアニメキャラが描かれているクリアファイルを取り出した。
これは、学校で配られたプリント類を入れておくためのものだ。こうしておけば失くすことはないし、鞄の奥底に放置して提出を忘れるなんてこともない。
ファイル自体を見るのを忘れてしまう時もあるけれど、それは本当にごくたまにだ。
「宿題は数学のプリント一枚だけだからすぐに終わるし、他にやらなきゃいけないこともないよね。あ、でもこれがあった……」
中身を確認しながらひとりごとを呟いていた私は、ファイルから一枚のプリントを取り出した。
【第一回進路調査票】
それを勉強机に広げ、ため息をつく。
何を書けばいいのか分からなくて、とりあえず【三年二組・早坂美羽】と、名前だけ記入したプリントを持って部屋を出た。
三年生になってまだ一ヶ月ちょっとなのに希望の進路を書けと言われても、正直分からない。なんて呑気なことを言っているのは私だけで、みんなはもう決めているんだろうな。
今日もクラスメイトが進路のことを話していたけれど、進学を希望している人はとっくに受験対策の勉強をはじめているだろうし、専門的なことを学びたい人も、すでに行きたい学校を絞っているのかも。
だとしたら、やっぱり焦る。
「お母さん、ちょっといい?」
一階に下りた私は、リビングの横の和室で洗濯物をたたんでいるお母さんに、声をかけた。
「何?」
「これ、配られたんだけど」
プリントを渡すと、お母さんは手を止めて目を通す。
「美羽はどうするか考えてるの?」
聞かれた私は、お母さんから目を逸らして黙り込んだ。
特別やりたいことはないし、なりたい職業とかもまだはっきり分からないから、専門学校よりも大学に行って学びながら考えるのが一番いいのかもしれない。だけど、そうなるとお金もかかるし……。
「なんでもいいんだよ? 大学行きたいとか専門学校がいいとか、どこって決めなくてもなんとなくでいいし。あとは、例えばちょっと興味あることとか、将来はこんな仕事したいなとか、そういうのはないの?」
考えていると、お母さんは私が答えを返す前に、必ず口を挟んでくる。
そうすると、次に聞かれたことに対してどう答えればいいのかを、もう一度最初から考え直さなきゃいけない。それでまた、私は黙り込んでしまう。
「分からないならとりあえず進学って書いておけば? お母さんも時間のある時に大学とか調べておいてあげるから」
分からないわけでも困っているわけでもなくて、ただ考えていただけだよ。
頭ではそう思っているのに、口に出しても意味がないと考えてしまう私は、「うん」と頷いた。
「宿題はあるの?」
部屋に戻ろうとした私に、お母さんが聞いてきた。一度背を向けた体を、もう一度お母さんのほうに戻す。
「うん、プリントだけ」
「他には?」
「ないよ」
「本当に? 授業で間に合わなかったところとかない? 忘れないうちにやっておかないと」
――だから、ないって言ったじゃん!
心でそう叫びながら、私は「大丈夫だよ」と言って、口元にぎこちない笑みを浮かべた。
「ならいいけど、ちゃんと確認しなさいね。あと、宿題終わったら下りてきてよ」
「うん、分かった……」
お母さんの言うこと全部に頷いて、私はようやく自分の部屋に戻る。何も言わずに頷くことが一番早いし、そうすれば、お母さんを困らせることもない。
プリントを机の上に置いて、私はそのままベッドに横になった。また、自然とため息が出る。
お母さんは私のやることにいちいち口を出してくるけれど、それは私を心配しているからだということはじゅうぶん分かっている。
勉強しろとガミガミ言うわけでもなく、やりたくもない習い事をたくさんやらせるわけでも、いい成績を求められたり、過剰に期待されたりしているわけでもない。
いわゆる教育ママ的なことではなくて、ただ少し……だいぶ、心配性なだけだ。
そうなってしまったのは多分、私の性格のせいだと思う。
三つ上の姉、舞衣は言いたいことをはっきり言えて、中学でも高校でもよく学級委員を務めていた。運動神経もよくて、クラスでも目立つタイプだった。
高校時代の姉の写真を見ると中心にいることが多いし、人気者だったのがよく分かる。
私は、そんな明朗快活な姉とは正反対だ。
小さい頃から話すのが苦手で、分からないことがあっても先生に聞くことができず、言いたいことがうまく言えない子だった。
めちゃくちゃ大人しいというわけではないけど、目立たないタイプ。もちろん、運動も苦手だ。
中学校でも同じように〝目立たない子〟として認識されていた。でも勉強が難しくなって、自分から動かなければならないことが増えるにつれ、他の問題も出てきた。
それは、みんなより一歩行動が遅いということ。面談などでもよく先生に指摘されていた。
先生は『ちょっとゆっくりだけど、丁寧なのはいいことです』と言ってくれたけれど、お母さんは、そんな私が心配でしかたないのだと思う。
結局中学の面談では最後まで、『行動がのんびり』だと指摘されて終わってしまった。
だから高校生になった今も、お母さんは私のやることすべてに口を出してくる。いいふうに言えば、助言をしてくれるのだ。
お母さんを悩ませてしまうのは私に問題があるからで、お姉ちゃんみたいにできないから、つい声をかけてしまうんだと思う。
私を心配してくれているのは分かるけれど、そういうお母さんの言動が、最近は少しつらいと感じているのも事実だ。
母の口癖は『大丈夫?』で、それを毎日言われるのもしんどい。
テスト前や行事の時、普通の学校生活でも、大丈夫かどうかなんてやってみないと分からないのに、言われるたびに少しだけ息苦しくなる。
ベッドに横になりながらイヤホンをつけて、動画を再生した。
新人歌い手、AMEの声が耳に流れてくる。
私はAMEの歌声が好きだ。
バラードの時は静かに流れる川のように澄んだ声で、明るい曲の時は小鳥が歌うように楽しい気持ちにさせてくれる。激しい曲の時は正反対で、かっこよくて色気のある声や、がなり声を使い分けたりもする。
本当にひとりの人間の声なのだろうかと疑ってしまうほど、曲によって歌い方を工夫しているところも好きだ。
だからこそ、ひとつひとつ、どの曲も胸にズンと響いてくる。
中でも私が一番好きなのは、『〝羽』という曲だ。
自分の名前が美羽だというのもあるけれど、それだけじゃなくて、『〝羽』を聴いていると落ち着くんだ。
苦しくて沈みそうになる気持ちが、曲を聴いている時だけ、羽が生えたようにふわっと浮いてくれる。
目を瞑った私は、わずかに唇を開き、AMEの曲を口ずさむ。
……それからもうひとつ、私には大好きなものがある。
それは、歌を歌うことだ。
歌うことが好きだと気づいたのは、人付き合いが苦手だと感じはじめた小学校五年生の時。
もともと音楽は好きだったけど、自分の部屋で何気なく歌った時、心の中が光で満たされたような明るい気持ちになれたんだ。
うまく会話に入れなくて置いていかれることも多かった私は、無理に友だちと遊ぶよりも、ひとりで歌っている時のほうがずっと楽しいって思えた。
だけど学校の授業で歌うのは苦手だったし、家族に聞かれるのも恥ずかしい。だから歌うのは、こうしてひとりで部屋にいる時か、お風呂に入っている時だけだ。しかも小さな声で。
それでも、歌っていると心がスッと晴れるんだ。
こんな私だけど、歌が好きだということだけは、自信を持って言える。
今日はやたらと天気がいい。だから最悪だ。
赤とピンクに染めた長い前髪をかき上げて、あたしは窓の外に視線を向ける。
南向きの窓際は一日中暑くて、授業に集中できない。
五月でこれなら真夏は最悪だけど、席替えをしたばかりだから当分はこの席か。
片肘をついたまま睨むように空を見ていると、数羽の鳥が整列しながら飛んでいた。
白く霞んだ朝の空の色も好きだけど、徐々に薄くなっている群青色のグラデーションもなかなかいい色だな。
ペンケースの中にある青の色鉛筆で、ノートの隅を塗った。
やっぱアナログだと思った色にならないな。
そんなことを思いながら眉間にしわを寄せ、正面の電子黒板に視線を戻したタイミングで、四時限目終了のチャイムが鳴る。
よし、昼休みだ。腹減った。
購買でパンを買う奴や、食堂に行く奴が急いで教室を出ていく中、あたしも含め、残ったクラスメイトは教室でお弁当を食べる組だ。
一度水道で手を洗ってからまたもとの席に座ったあたしは、リュックから巾着袋とステンレスの黒い水筒を取り出した。
小学生の頃から使っている緑色の巾着袋には、薄い文字で【さくまかえで】と書かれてある。
袋には毎朝自分で握っているおにぎりが入っていて、今日は梅干しと、昨日の夕食でお母さんが焼いた鮭のふたつだ。
食べようと思ったけれど、やっぱり窓からの日差しがうざい。立ち上がったあたしは、ふたつ前の席でお弁当を食べている女子三人組に近づいた。
「あのさ、カーテン閉めてもいい?」
そう声をかけると、三人はビクッと肩を震わせ、大きく開いた目を見合わせている。
勝手に閉めるのはよくないかなと思って一応声をかけただけなんだけど、そんなに驚かなくてもいいじゃん。
「閉めていい?」
もう一度聞くと、そいつらはあたしを見ることなく頷いた。
「サンキュー」
あたしは彼女たちの邪魔にならないよう、「ごめんな」と言いながらカーテンに手を伸ばした。その間、女子三人は固まったように身動きひとつ取らない。
カーテンを閉めてから自分の席に座り、あたしはようやくおにぎりを頬張った。
けれどその直後、なんとなく視線を感じて顔を上げた。すると、さっきの女子たちが慌ててあたしから視線を逸らし、なんかコソコソ喋っている。
いや、見てたのはそっちなのにリアクションおかしいだろ。あたしと目を合わせちゃいけないルールでもあんのか。目が合ったって、別に石になんかならないよ。
なんてくだらないことを思いながらも、別に誰にどう思われようと特に気にしないあたしは、おにぎりを食べながら教室の中を見回した。
女子も男子もふたりから五人のグループに分かれて食べている奴らや、ひとりで食べている奴も数人いる。
で、あたしはもちろんひとり。
気にしたことがないからハッキリとは覚えていないけど、一年の時から多分ずっと、昼食はひとりで食べていたと思う。
絶対にひとりがいいというわけではなく、かといって、本当は誰かと一緒がいいというわけでもない。友だちの存在も同じで、欲しくないわけじゃないし、積極的に作ろうとも思わない。
そうなると過去に何かあったのかと思われがちだけれど、そんなこともまったくない。まぁ、できたらできたでいいなと思っていたけど、三年になっても仲のいい友だちと言える存在はいないままだ。
女子からは、今日みたいにちょっと話しかけただけで謎のリアクションを取られることが多いから、あたしに何かしらの原因があるのかもしれないな。
だけど、それについて悩むなんてことは、もちろんない。
おにぎりふたつをぺろりとたいらげ水筒の水を飲んだあと、リュックからスマホを取り出した。
イヤホンをつけてスマホを操作し、音楽を流す。
机に顔を伏せ、目を閉じた。
早く食べ終わったし、十五分は寝られるな……――。
*
「今日もマジで助かった。サンキュー佐久間」
長身で髪を赤茶色に染めている西山が、自販機から出てきた缶を投げてきたので、あたしはそれをキャッチした。
「おい、アホか! 炭酸投げんなよ!」
そう言いながら受け取った缶を開けると、プシュッと音は鳴ったものの、噴き出してこなかったのでホッとした。
「やっぱ暑い時は炭酸に限るわ~」
ジュースをひと口飲んだあたしは、満足げに微笑む。
「ジュース一本で手伝ってくれる奴なんて、佐久間くらいだよな」
「ほんと、佐久間だからできることだよな」
中嶋と本橋が目を合わせながら言った。
どういう意味かよく分からないけど、楽器運ぶのを手伝っただけでジュース奢ってもらえるんだったら、やるだろ。
西山と中嶋と本橋。この三人は軽音部だったのだが、半年前にボーカルが辞めてしまい、今年度になってから廃部。しかたなくバンド同好会として活動しているけど、練習の場である音楽室は大会で好成績を残している吹奏楽部に乗っ取られているようだ。
音楽室で練習できるのは吹奏楽部が休みの水曜だけで、他の曜日に練習をする時は第二校舎から第三校舎の空き教室まで楽器を運んで演奏している。
一ヶ月前、階段を往復しながらドラムを運んでいる西山をたまたま見かけた私は、声をかけて運ぶのを手伝った。そしたらお礼にジュースをくれたので、今も時間が合えば時々手伝っている。
もちろん、ジュースを奢ってもらうためだ。見返りがなきゃ、楽器を運ぶなんて面倒なことはしない。
こいつらは学校の中で一番よく話をする存在だけど、つき合いはそのくらいで、もちろん仲良しというわけじゃない。
そういえば、演奏を聞いて率直な感想を述べることもたまにあるけど、あれは何ももらってなかったな。別料金ってことで、次からは感想一回につき購買のパン一個もらうか。一回じゃさすがに高いって言われそうだから、三回で一個のほうがいいかな。
などと考えながら、あたしは空き教室の隅に置いてある椅子に座った。
「そーいや今日さ、また女子からあたしと目を合わせたら終わり選手権みたいなリアクション取られたんだよね」
「なんだよその選手権」
西山の突っ込みに、「知らねぇよ。あたしが知りたいわ」と返す。
「てかあれだろ、お前、避けられてんじゃねーの?」
「え、あたしって避けられてんの?」
「え、知らなかったのか?」
あたしと西山のやり取りに、中嶋と本橋は楽器の準備をしながら笑っている。
「悪い意味で避けられてるわけじゃなくて、要するに自分たちと違うからちょっと怖いってのもあるし、近寄りがたいってことじゃね?」
「近寄りがたいってなんだよ。あたしはいたって普通に、真面目に授業受けてるだけだし」
なんせ話さないんだから、怖がられるようなことだって何もしていない。まぁ、たとえ避けられていたとしても悩むなんて時間の無駄だから、どうでもいいけど。
結局そういう結論に達したあたしは、それ以上考えるのをやめてリュックからタブレットを取り出した。バイトまでの時間、バンドの演奏をBGMに、これで時間を潰すためだ。
演奏がはじまると、あたしはタブレットで動画投稿アプリを開いた。昨日の夜アップした自分のイラスト制作動画を見て、再生回数の少なさにため息をつく。
クラスメイトや女子たちから避けられたとしてもなんとも思わないけど、これはさすがに頭を抱えてしまう。
あたしが描きたいのはリアル調の女の子のイラストで、加えて常識に囚われないカラフルな色使いが好きだ。
肌の色ひとつとっても、光や影の入れ方によってたくさんの色を使う。女の子の髪型をカラフルな花そのもので表現したり、涙をあえてピンク色にしたり。そういう自由な絵が好きなのだけど……。
そうやって好きに楽しく描いたイラストに限って、動画の再生回数やいいねが少ない。逆に、人気アニメのキャラだったり、ラノベっぽさがある可愛いイラストだと再生回数も伸びる。
可愛い絵も好きだし、そういうのがうまい絵師さんは尊敬する。でもなぁ……――。
こんなんじゃ駄目だ。あたしが投稿している動画サイトで収益を得られるのは十八歳からで、あと三ヶ月しかない。それまでにもっと登録者数を増やさなきゃ、稼げないじゃん。
もう一度、今度は「くそっ!」と、思いきり声を上げてからため息をついた。
たまたま演奏を止めていた三人がこちらに視線を送るが、あたしの機嫌が悪いのを察したのか、すぐに目を逸らして見ない振りをした。
十七時まであと五分というところでバンド同好会の練習が終わり、タブレットをリュックにしまう。
そろそろバイトに向かう時間だ。楽器を音楽準備室まで運ぶのを手伝って、その代金として、またジュースを一本もらった。
「んじゃ」
軽く手を上げたあたしは、三人とはそこで別れて教室に戻る。
今日は金曜だからジャージを持って帰るということを思い出し、自分のロッカーを開けてジャージをリュックに突っ込んだ。
二本目のジュースは今日の風呂上がりにでも飲むか。
そう思いながら、手に持っていたジュースもリュックに入れ、廊下を歩き出した。
すると廊下の左側、第二校舎の渡り廊下と交差する曲がり角に差しかかった時、ひとりの生徒が突然飛び出してきた。
あたしは寸前で止まったけど、そいつは体勢を崩したのか、「ひゃっ」と悲鳴を上げて尻もちをついた。
よく見ると、同じクラスの女子だった。
名前は確か……なんだっけ。
分かんないけど、まぁいっか。
「廊下は走っちゃいけませんって、小学生の時に習わなかったか?」
とりあえずそう言うと、思っていた以上にそいつは焦り出した。ていうか、なんかビビってる?
「冗談だから、そんな焦んなよ。ほらっ」
あまりに狼狽えていてちょっと可哀想になったので、手を取って立ち上がらせてやった。
その時に顔を見て思い出した。そうだ、名前は確か早坂美羽だ。
「あ、ありがとうございます。その、ごめんなさい」
早坂は、最後にそう言って教室のほうへ逃げるように去っていった。
同じクラスなのになんで敬語なんだと思ったけど、別にどうでもいいか。
ふと視線を下げると、そこには小さなメモ帳が落ちていた。
もしかすると早坂が落としたのかもしれないけど、バイトの時間が迫っているし……。
拾い上げたメモ帳をとりあえず自分のスラックスのポケットに入れて、急いで学校を出た。
バイト先までは学校からバスで二十分、平日の勤務時間は十七時半から二十一時までだ。ちなみに火曜日と水曜日と金曜日で、土曜は朝から十五時まで。
バイトで稼ぐには限度があって、一定の金額を越えないようにシフトを組んでもらっている。本当はもっとガンガン働きたいのに、できないのがもどかしい。
不満を吐き出すように軽く舌を鳴らしたあたしは、到着したバスに乗り込み、空いている席に座る。
……ん?
なんとなく違和感を覚えてポケットに手を入れると、そこにあるメモ帳を取り出した。
そうか、拾ったんだった。ま、週明け学校に行った時に返せばいいか。
何も考えずにメモ帳をパラパラと捲った瞬間、とある文字があたしの目に飛び込んできた。
これって……。
〝弱くてもかまわない 、怖くても大丈夫〟
〝好き。それだけで、輝ける〟
〝優しく美しい羽は、誰でもない、キミだけのものだから〟
「……AMEじゃん」
思わず小声で呟いてしまった。
AMEは、最近動画配信をはじめた新人歌い手だ。
あたしがAMEの歌を聞いたのは本当にたまたまだったけど、一曲聞いただけですぐに好きになった。
歌声はもちろんだけど、特にAMEの書く歌詞があたしは好きだ。それと、歌にのせて流れるイラストも。
あたしが得意とするリアル調とは違って、線がハッキリしていてちょっとアメコミっぽい感じがかっこいい。誰が描いているのか分からないけど、勉強になる。
動画には曲に合わせたイラストだけが流れるため、AME本人の姿は一切なく、もちろん顔も年齢も不明。歌声から恐らく女だということ以外は何も分からない。
でも顔出ししていない歌い手なんて山ほどいるし、性別とか顔とかそんなことはどうだっていい。あたしがAMEの動画に元気をもらっているということは、確かなんだから。
つーか、早坂もAMEが好きなのかな。歌詞をわざわざ書くくらいだから、好きなんだろうな。
メモ帳を再びポケットにしまって窓の外を見ながら、思った。
まだ新人だからか、再生回数も登録者数もそんなに多くはないのに、同じ学校の中で同じようにAMEを推している奴がいるなんて、ちょっと意外だ。なんせ音楽好きのバンド同好会の三人も知らなかったわけだし。
だけどAMEはきっと、これからとんでもなく人気になるだろうと私はふんでいる。ただの勘だけど。
そんな新人歌い手に目をつけているのがあたしだけじゃなかったっていうのは、ちょっと嬉しいかも。
早坂か。あいつ、結構センスいいじゃん。
耳に流れてくるAMEの曲を聴きながら、あたしは少しだけ口角を上げた。
*
暑かった昨日よりも、今日はさらに気温が上がるらしい。といっても朝七時の空気は湿気もないし、まだ心地いいと感じられる。
洗濯機を回してから窓を開けたあたしは、タイマーで炊いておいたご飯でおにぎりをつくり、ラップをしてメモを置く。
【起きたら食べろよ】
洗い物をして、静かに床の埃を掃除している間に洗濯機がピーピーと音を鳴らしたので、それをベランダに干してから身支度をはじめた。
あたしの家は、年季の入った昭和感満載なアパートの二階だ。部屋は一応三つあるけど狭い。
家族は母親と小学五年の弟、柊の三人。あたしが小学校に上がる前に両親が離婚して以来、母は女手ひとつであたしたちを育ててくれている。
当然金に余裕はないから贅沢はできないけど、食べるのもままならいほどではない。それもこれも、母が一生懸命働いてくれているおかげだ。
母に負担をかけないよう、小学生の頃から自分でできることは自分でやるようにしてきた。だけど今は、家族に迷惑をかけないように、あたしがもっとお金を稼がなきゃいけないと思っている。
だからこそ動画配信で成功したいのに、現実はそんなに簡単じゃない。
お金を稼ぐことは、あたしにとって切実で重要な問題だ。焦ってどうにかなるわけじゃないけど、もっと再生回数を伸ばせる方法を考えないとな。
ダイニングの隣にある和室の襖を開け、夜勤明けで眠っている母を見ながら改めてそう思った。
家を出る前、ベランダ側にある四畳の部屋を覗くと、いびきをかきながら寝ている弟を見て、あたしはクスッと笑った。
布団に対して体が真横になっているけど、すごい寝相だな。
蹴散らかしている薄いタオルケットを弟のお腹にかけ直してから、戸締まりを確認して家を出た。
「あ、おはようございます」
「楓ちゃん、おはよう」
大家のおばあちゃんが、アパートの前を箒で掃いていた。
「バイト頑張ってね」
このアパートに越してきたのは、あたしが高校生になる時だった。それまでは通学路に田んぼがあるような田舎に住んでいたけど、わけあって東京の高校を受験したからだ。
ここに住んでもう三年目なので、毎週土曜は朝からバイトだということを、大家さんも知っている。
「はい。行ってきます」
軽くお辞儀をしたあたしは、アパートの駐輪場から取り出した赤い自転車にまたがり、バイト先に向けて走り出した。
家から学校まではバスで三十分かかるから、平日はそのままバスで行くけど、家からだと自転車で行くほうが断然早い。
少しでも節約できるように、本当は学校にも自転車で通いたい。だけど、母にそれだけは絶対に駄目だと言われ、バス通学をしている。
自転車だと四十分はかかるから疲れるし、色々心配なんだろうな。まぁ、そういう母の気持ちを押し切ってまで自転車で行きたいというわけではないから、いいけど。
なるべく人通りの少ない道を選びながら、鼻歌交じりに自転車を走らせること十分で駅前に到着。
バスのロータリーから一本道路を渡った場所にあるビルの横に、自転車を止めた。
時刻は八時四十五分。勤務時間は九時からなので、十五分早く着いた。
家族にかんすること以外は超適当なあたしだけど、こう見えて時間だけはきっちり守るタイプだ。
「おはようございまーす」
若干眠そうに挨拶をすると、長い髪をポニーテールに結んでいる二歳上の先輩が、「おはよう佐久間さん」と返してきた。先輩は大学生なのだが、土日だけバイトをしている。
あたしのバイト先は、ビルの中に入っている小さなカラオケBOX。しかも普通のカラオケではなく、ひとりカラオケ専用のお店だ。
高校生になってすぐにアルバイトをはじめたので、もう三年目になる。
いつものように私物をロッカーにしまい、黒いエプロンと黒いマスクを装着して店に出た。
平日朝は学校や仕事があるからか、カラオケの利用者数はそこまで多くないけど、休日や平日の夕方以降は予約も多いし部屋も結構埋まる。
このバイトをしてから、ひとりで歌いたいという人が想像以上に多いということを知ったけど、あたしもカラオケに行けと言われたら絶対にひとりカラオケを選ぶだろうな。歌は苦手だから、仕事以外で足を踏み入れることは一生ないだろうけど。
今日の予約状況をカウンターのパソコンで確認すると、オープンの九時からは八部屋中六部屋が予約で埋まっている。
休日の朝からひとりで歌いに来るなんて、好きじゃなきゃできないだろうな。
そう思いながら先輩と一緒に客の入店を待っていると、開店五分前に三人の客がそれぞれ入ってきた。先輩が受付を担当し、あたしが注文されたドリンクなどを奥のキッチンから部屋へと運ぶ。
最後に入店した六人目の客にドリンクを持っていったあたしは、ノックをする寸前で手を止めた。
中から、歌声が聞こえてきたからだ。
カラオケなのだから歌うのは当然だけど、そうじゃない。一瞬アカペラで歌っているのかと思ったけど、メロディーもかすかに聞こえてくる。
恐らく、カラオケの機械ではなくスマホかなんかで音を流して、それに合わせて歌っているようだ。
しかも、驚くべきことにAMEの曲だ。
しかも、めちゃくちゃいい声で。
なんだろう、AME本人とはもちろん違うけど、これはこれでありじゃん。というかこっちの歌声も好きかも。
透き通るような高い声がAMEのバラードとよく合っていて、なんか、心臓がドキドキする。
不思議な感覚に陥ったあたしの脳裏に、AMEの動画がよぎった。
イラストと……歌……――。
雷に打たれたかのようにハッと目を見開いたあたしは、ドアをノックし、「失礼します」と声をかけて中に入った。
「お待たせしました」
いつも通り声をかけると、客は歌うのをピタリとやめ、座ったままうつむいている。
あたしは、客の近くにアイスティーを置いた。
「あ、ありがとうございます……」
客はこっちを一切見ることなく、蚊の鳴くような声でそう告げた。
Tシャツに薄いカーディガンを羽織った若い女の子だけど、どっかで見たことがあるような……。
客を凝視していると、あたしの脳内で『ピコン』と閃くような音が鳴る。
知らない相手でも、駄目もとでとりあえず声をかけてみようかと思っていたけど、こんな偶然あるんだな……。
これは、ますます都合がいい。
あたしは黒いマスクの下で、ニヤリと口角を上げた――。