一日の授業が終わると、急いで廊下に出て自分のロッカーの前に立った。授業は終わったけど、居残りがある。
「美羽、美術まだ終わってないんだっけ?」
教科書をロッカーに入れていると、彩香が声をかけてきた。隣には由梨もいる。
「あ、うん、まだなんだ」
「じゃあ教室で待ってるよ」
「えっ、いいの?」
「うん。今日うちら暇だし、終わったら三人で一緒に帰ろう」
その言葉が嬉しくて、思わず頬が緩んだ。
彩香は時々、こうして一緒に帰ろうと誘ってくれることがある。だけど前に一緒に帰ったのは三年生になってすぐ、ちょうど一ヶ月前くらいだったから、三人で帰るのは久しぶりだ。
「ありがとう。えっと、頑張って終わらせるから」
いつになく声を弾ませた私は荷物を持ち、生徒でごった返している廊下を急いで進んだ。
第二校舎の美術室に移動すると、中では数人の生徒が課題の仕上げをしていた。
私だけじゃなくてよかった……と、胸を撫で下ろしている場合じゃない。ふたりが待っているんだから、急いで仕上げなきゃ。
描きかけの画用紙を取り出して準備をした私は、空いている椅子に座った。
課題はデッサンで、美術室にある小道具や風景、なんでもいいから自分が一番興味のあるものを描くというもの。
彩香は確かカゴに入ったフルーツを選んで、由梨は美術室の窓から見える風景を描いていた。
私はというと……、最初の美術の授業では何を描けばいいのか分からなくて、考えるだけで終わった。
その次の授業では美術室にある彫刻を描くと決めたけれど、描いては消すことを繰り返し、結局輪郭を描くだけで終わってしまった。
そして三回目でも終わらずに、今こうして居残りをしている。
私が思うように描けなかったのは、この中に興味のあるものがなかったからだ。
誰だか分からない彫刻もまったく興味がないから、手がなかなか進まないのは当然だけど、それでもとにかく描くしかない。
「さっきさ、佐久間さんと至近距離ですれ違っちゃった~」
彫刻を挟んで私の正面に座っている女子の声に、私は視線を上げた。その高い声と嬉しそうな顔は、まるで好きな人に会った時のようなテンションだ。
「マジ? なんか喋った?」
「喋れるわけないじゃん。いつも通り、チラ見して終わったよ」
「なんでよ~、声かければいいのに」
「無理、ハードル高すぎ」
佐久間さんと話したいけどできない、っていうことなのかな。確かに近寄りがたい雰囲気だし、話しかけにくいというのはなんとなく分かる気がする。
と、女子たちの会話に気を取られて手が止まっていることに気づいた私は、焦って再び鉛筆を動かした
目の前の画用紙だけに集中して丁寧に鉛筆で描いていると、ひとり、またひとりと、課題を終えた生徒が美術室から出ていく。そのたびに、焦って余計にうまく描けなくなる。
そして、ついに最後のひとりが美術室を出ると、私だけが取り残された。
さっきまで聞こえていたはずの鉛筆を走らせる音が止み、代わりに時間を刻む音が耳に届く。
ハッと顔を上げると、居残りをはじめてからすでに一時間以上が経過していた。
「あら、まだやってたの?」
美術室に戻ってきた先生が、私を見るなり目を丸くする。
「あ、す、すみません。もう、終わりました」
本当は全然納得できていないけれど、一応形にはなったから、それを提出して大急ぎで美術室を出た。
真ん中にある第二校舎の二階から一階に下り、渡り廊下を小走りで進んで南側の第一校舎へ入る。
そこから、さらに急いで廊下を右に曲がろうとした瞬間――。
「ひゃっ」
角を曲がってきた生徒とぶつかりそうになった私は、小さく声を上げてのけ反り、そのまま体勢を崩して尻もちをついた。
――い、痛い……。
顔を歪めてお尻をさすっていると、
「廊下は走っちゃいけませんって、小学生の時に習わなかったか?」
そんな声が、頭上から降ってきた。
「あ、ご、ごめんなさい」
ジンジンとしたお尻の痛みに耐えながら恐る恐る顔を上げると、目に飛び込んできたのはスラックス。さらに視線を上げると、鮮やかな赤とピンクの髪。
ぶつかりそうになった相手は、佐久間さんだった。
「ご、ごめんなさい。あの、その……」
佐久間さんだと分かった瞬間、さらに焦ってしどろもどろになっていると、目の前にスッと白い手が伸びてきた。
「冗談だから、そんな焦んなよ。ほらっ」
佐久間さんが、伸ばした自分の手をさらに前に突き出す。
こ、これは……握っていいということ? でも、勘違いだったら恥ずかしいし。
「えっと、その……」
どうするべきか分からずあたふたしていると、佐久間さんが私の前にしゃがみ込んだ。
そして、佐久間さんのほうから私の手を取って握り、立ち上がる。
すると、その勢いに私も引っ張られ、まるで糸で操られているみたいに、ひょいと立ち上がることができた。
「気をつけな」
そう言って、佐久間さんは私の頭をポンポンと二回優しく叩いた。
――……か、かっこいい。
動揺しながらも、ついそんなことを思ってしまった。
「あ、ありがとうございます。その、ごめんなさい」
最後にもう一度謝って頭を下げると、途端に恥ずかしさに襲われた私は、足早にその場を立ち去った。
この胸の高鳴りはなんなのだろう。よく分からないけれど、火が出そうなくらい顔が熱い。
――佐久間楓。
三年で初めて同じクラスになったけれど、彼女のことは前から知っていた。
何しろ佐久間さんは目立つから、この学校のほとんどの生徒が、その存在を知っているんじゃないだろうか。
髪の色がとにかくいつも奇抜で、二年の最後は確か白っぽかったと思うけど、三年になったらミディアムのウルフカットが赤とピンクに変わっていた。他にも、青や紫だったこともある。
背の高い佐久間さんの制服は、スカートの時もあればスラックスの時もあって、ネクタイやリボンはつけていない。
羽織るものはパーカーが多い印象だけど、髪の色に反してそれはモノトーンが多い気がする。
一度も話をしたことがないのに、よく知っているなと自分でも思うけれど、意識していなくても自然と目に映る。それが、佐久間楓だ。
でも知っているのは見た目だけで、佐久間さんの性格とかは当然ながら何も知らない。
ただ近寄りがたい独特な雰囲気があるからか、みんなあまり話しかけることはなくて、クラスでは少し浮いた存在だ。
なんとなくのイメージで、私は勝手に怖そうだなと思っていたけど、実際は違うのかな。一部の女子からは、憧れの存在として映っているようだし。
握ってくれた手の温かさと、少しだけほほ笑んでくれた佐久間さんの顔を浮かべながら、そんなふうに思った。
どちらにしても、私とは全然違うタイプの人だということに変わりはない。
思わぬ出来事に、ちょっとだけ乱れた気持ちを落ち着かせた私は、二組の前に立った。
そして、待ってくれているふたりを驚かせないように、ドアをそっと開ける。
「ごめん、遅くなっ――」
けれど、教室は不気味なくらい静まり返っていて、彩香も由梨もそこにはいない。
視線を動かすと、私の机の上に紙が置いてあるのが見えた。
重しにしていた消しゴムをずらして、小さなメモ用紙を手に取る。
【時間かかるみたいだから、先に帰るね。ごめんね。また今度一緒に帰ろう】
その言葉を目にした瞬間、私は唇を強く噛んだ。
『常に時間を見て行動するようにしなさい』
お母さんから何度もそう言われてきたのに、集中すると途端にまわりが見えなくなって、ひとつのことしか考えられなくなる。
もちろんサボろうと思っていたわけでも、やりたくなかったわけでもない。真剣に考えながら一生懸命やっていた。
それなのに、なんで……みんなと同じように終わらせることができないんだろう。
メモ用紙を鞄の中に入れた私は、うつむきながら教室を出た。
黒いモヤが広がり、あたり前のように私の心を包んでいく。
友だちと一緒に帰れなかった。たったそれだけのことで孤独を感じてしまうのは、初めてじゃないからだ。こういうことが、小学生の頃から今まで何度もある。
自分だけ準備が遅くて友だちと一緒に帰れない。みんなはとっくに終わっていることでも、私は時間がかかる。給食を食べ終わるのもだいたい最後。
私が話していると、途中で友だちが痺れを切らして『だから、美羽が言いたいのは○○〇っていうことでしょ?』と、私の言いたいことを代弁する。私の喋りが下手で、会話が弾まないからだ。
たとえそれが、私の言いたかったことではないとしても、私は笑って頷くことしかできない。『そうじゃないよ』なんて、言えない。
なんで私は、こうなのだろう。どうしてみんなみたいにテキパキ行動できないのか、言いたいことがうまくスラスラと言えないのか。
考えたって答えは出なくて、悩めば悩むほど、自分がどんどん嫌いになっていく……。
さっき打ったお尻の痛みはまったく感じないのに、心はすごく痛い。
痛くて痛くて、泣きそうになる。
涙を堪えながら急いで学校を出た私は、バス停に着いてすぐイヤホンを耳につけた。
そしてスマホを操作し、大好きな曲を流す。
一瞬だけ目を閉じると、心地よいイントロが耳に届いた。
春風みたいな優しい声と歌詞が私を包み込み、心の痛みが少しずつ薄れていく。
「美羽、美術まだ終わってないんだっけ?」
教科書をロッカーに入れていると、彩香が声をかけてきた。隣には由梨もいる。
「あ、うん、まだなんだ」
「じゃあ教室で待ってるよ」
「えっ、いいの?」
「うん。今日うちら暇だし、終わったら三人で一緒に帰ろう」
その言葉が嬉しくて、思わず頬が緩んだ。
彩香は時々、こうして一緒に帰ろうと誘ってくれることがある。だけど前に一緒に帰ったのは三年生になってすぐ、ちょうど一ヶ月前くらいだったから、三人で帰るのは久しぶりだ。
「ありがとう。えっと、頑張って終わらせるから」
いつになく声を弾ませた私は荷物を持ち、生徒でごった返している廊下を急いで進んだ。
第二校舎の美術室に移動すると、中では数人の生徒が課題の仕上げをしていた。
私だけじゃなくてよかった……と、胸を撫で下ろしている場合じゃない。ふたりが待っているんだから、急いで仕上げなきゃ。
描きかけの画用紙を取り出して準備をした私は、空いている椅子に座った。
課題はデッサンで、美術室にある小道具や風景、なんでもいいから自分が一番興味のあるものを描くというもの。
彩香は確かカゴに入ったフルーツを選んで、由梨は美術室の窓から見える風景を描いていた。
私はというと……、最初の美術の授業では何を描けばいいのか分からなくて、考えるだけで終わった。
その次の授業では美術室にある彫刻を描くと決めたけれど、描いては消すことを繰り返し、結局輪郭を描くだけで終わってしまった。
そして三回目でも終わらずに、今こうして居残りをしている。
私が思うように描けなかったのは、この中に興味のあるものがなかったからだ。
誰だか分からない彫刻もまったく興味がないから、手がなかなか進まないのは当然だけど、それでもとにかく描くしかない。
「さっきさ、佐久間さんと至近距離ですれ違っちゃった~」
彫刻を挟んで私の正面に座っている女子の声に、私は視線を上げた。その高い声と嬉しそうな顔は、まるで好きな人に会った時のようなテンションだ。
「マジ? なんか喋った?」
「喋れるわけないじゃん。いつも通り、チラ見して終わったよ」
「なんでよ~、声かければいいのに」
「無理、ハードル高すぎ」
佐久間さんと話したいけどできない、っていうことなのかな。確かに近寄りがたい雰囲気だし、話しかけにくいというのはなんとなく分かる気がする。
と、女子たちの会話に気を取られて手が止まっていることに気づいた私は、焦って再び鉛筆を動かした
目の前の画用紙だけに集中して丁寧に鉛筆で描いていると、ひとり、またひとりと、課題を終えた生徒が美術室から出ていく。そのたびに、焦って余計にうまく描けなくなる。
そして、ついに最後のひとりが美術室を出ると、私だけが取り残された。
さっきまで聞こえていたはずの鉛筆を走らせる音が止み、代わりに時間を刻む音が耳に届く。
ハッと顔を上げると、居残りをはじめてからすでに一時間以上が経過していた。
「あら、まだやってたの?」
美術室に戻ってきた先生が、私を見るなり目を丸くする。
「あ、す、すみません。もう、終わりました」
本当は全然納得できていないけれど、一応形にはなったから、それを提出して大急ぎで美術室を出た。
真ん中にある第二校舎の二階から一階に下り、渡り廊下を小走りで進んで南側の第一校舎へ入る。
そこから、さらに急いで廊下を右に曲がろうとした瞬間――。
「ひゃっ」
角を曲がってきた生徒とぶつかりそうになった私は、小さく声を上げてのけ反り、そのまま体勢を崩して尻もちをついた。
――い、痛い……。
顔を歪めてお尻をさすっていると、
「廊下は走っちゃいけませんって、小学生の時に習わなかったか?」
そんな声が、頭上から降ってきた。
「あ、ご、ごめんなさい」
ジンジンとしたお尻の痛みに耐えながら恐る恐る顔を上げると、目に飛び込んできたのはスラックス。さらに視線を上げると、鮮やかな赤とピンクの髪。
ぶつかりそうになった相手は、佐久間さんだった。
「ご、ごめんなさい。あの、その……」
佐久間さんだと分かった瞬間、さらに焦ってしどろもどろになっていると、目の前にスッと白い手が伸びてきた。
「冗談だから、そんな焦んなよ。ほらっ」
佐久間さんが、伸ばした自分の手をさらに前に突き出す。
こ、これは……握っていいということ? でも、勘違いだったら恥ずかしいし。
「えっと、その……」
どうするべきか分からずあたふたしていると、佐久間さんが私の前にしゃがみ込んだ。
そして、佐久間さんのほうから私の手を取って握り、立ち上がる。
すると、その勢いに私も引っ張られ、まるで糸で操られているみたいに、ひょいと立ち上がることができた。
「気をつけな」
そう言って、佐久間さんは私の頭をポンポンと二回優しく叩いた。
――……か、かっこいい。
動揺しながらも、ついそんなことを思ってしまった。
「あ、ありがとうございます。その、ごめんなさい」
最後にもう一度謝って頭を下げると、途端に恥ずかしさに襲われた私は、足早にその場を立ち去った。
この胸の高鳴りはなんなのだろう。よく分からないけれど、火が出そうなくらい顔が熱い。
――佐久間楓。
三年で初めて同じクラスになったけれど、彼女のことは前から知っていた。
何しろ佐久間さんは目立つから、この学校のほとんどの生徒が、その存在を知っているんじゃないだろうか。
髪の色がとにかくいつも奇抜で、二年の最後は確か白っぽかったと思うけど、三年になったらミディアムのウルフカットが赤とピンクに変わっていた。他にも、青や紫だったこともある。
背の高い佐久間さんの制服は、スカートの時もあればスラックスの時もあって、ネクタイやリボンはつけていない。
羽織るものはパーカーが多い印象だけど、髪の色に反してそれはモノトーンが多い気がする。
一度も話をしたことがないのに、よく知っているなと自分でも思うけれど、意識していなくても自然と目に映る。それが、佐久間楓だ。
でも知っているのは見た目だけで、佐久間さんの性格とかは当然ながら何も知らない。
ただ近寄りがたい独特な雰囲気があるからか、みんなあまり話しかけることはなくて、クラスでは少し浮いた存在だ。
なんとなくのイメージで、私は勝手に怖そうだなと思っていたけど、実際は違うのかな。一部の女子からは、憧れの存在として映っているようだし。
握ってくれた手の温かさと、少しだけほほ笑んでくれた佐久間さんの顔を浮かべながら、そんなふうに思った。
どちらにしても、私とは全然違うタイプの人だということに変わりはない。
思わぬ出来事に、ちょっとだけ乱れた気持ちを落ち着かせた私は、二組の前に立った。
そして、待ってくれているふたりを驚かせないように、ドアをそっと開ける。
「ごめん、遅くなっ――」
けれど、教室は不気味なくらい静まり返っていて、彩香も由梨もそこにはいない。
視線を動かすと、私の机の上に紙が置いてあるのが見えた。
重しにしていた消しゴムをずらして、小さなメモ用紙を手に取る。
【時間かかるみたいだから、先に帰るね。ごめんね。また今度一緒に帰ろう】
その言葉を目にした瞬間、私は唇を強く噛んだ。
『常に時間を見て行動するようにしなさい』
お母さんから何度もそう言われてきたのに、集中すると途端にまわりが見えなくなって、ひとつのことしか考えられなくなる。
もちろんサボろうと思っていたわけでも、やりたくなかったわけでもない。真剣に考えながら一生懸命やっていた。
それなのに、なんで……みんなと同じように終わらせることができないんだろう。
メモ用紙を鞄の中に入れた私は、うつむきながら教室を出た。
黒いモヤが広がり、あたり前のように私の心を包んでいく。
友だちと一緒に帰れなかった。たったそれだけのことで孤独を感じてしまうのは、初めてじゃないからだ。こういうことが、小学生の頃から今まで何度もある。
自分だけ準備が遅くて友だちと一緒に帰れない。みんなはとっくに終わっていることでも、私は時間がかかる。給食を食べ終わるのもだいたい最後。
私が話していると、途中で友だちが痺れを切らして『だから、美羽が言いたいのは○○〇っていうことでしょ?』と、私の言いたいことを代弁する。私の喋りが下手で、会話が弾まないからだ。
たとえそれが、私の言いたかったことではないとしても、私は笑って頷くことしかできない。『そうじゃないよ』なんて、言えない。
なんで私は、こうなのだろう。どうしてみんなみたいにテキパキ行動できないのか、言いたいことがうまくスラスラと言えないのか。
考えたって答えは出なくて、悩めば悩むほど、自分がどんどん嫌いになっていく……。
さっき打ったお尻の痛みはまったく感じないのに、心はすごく痛い。
痛くて痛くて、泣きそうになる。
涙を堪えながら急いで学校を出た私は、バス停に着いてすぐイヤホンを耳につけた。
そしてスマホを操作し、大好きな曲を流す。
一瞬だけ目を閉じると、心地よいイントロが耳に届いた。
春風みたいな優しい声と歌詞が私を包み込み、心の痛みが少しずつ薄れていく。