勇気を振り絞って予約ボタンを押したのは、昨日の夜だった。
私が美術の課題を終わらせるのが遅いせいで友だちを待たせてしまい、あげく一緒に帰れなかった昨日は、いつも以上に気持ちが晴れなかった。
AMEの曲を聴いて落ち着いたものの、思い出すと沈んでしまう。それを何度か繰り返しても変わらなかったから、気分転換にお風呂に入り、湯船につかりながら歌ったんだ。でも、それでも駄目だった。
意を決した私は、お風呂の外に聞こえないようシャワーを出して歌ってみた。いつもみたいな小さな声じゃなくて、腹の底から嫌なことすべてを追い出すみたいに。
すると、こびりついてなかなか離れなかった不安とか悲しみが歌声と共に吐き出され、胸の中に広がっていた暗い気持ちが少しずつ剥がれ落ちていくような感覚になった。
お風呂を出て部屋に戻った私は、何かに導かれるように慌ててスマホでカラオケ店を検索した。
しかも、普通のカラオケじゃなくて、おひとり様専用のカラオケ店だ。
私は歌が大好きだけど、実は一度もカラオケに行ったことがない。何度か誘われたことがあるけど、マイクを握って人前で歌うなんて考えられなかったから。
だけど高校生になった頃、私は知ってしまったんだ。ひとりで行ってひとりで歌える、ひとり専用のカラオケ――、ひとカラというものがあるということに。
それでも二年以上踏み出せなかったのは、勇気がなかったというのもあるけれど、歌えれば場所はどこでもいいし、マイクも必要ないと思っていたからだ。
でも、大声で歌うのがこんなに気持ちいいなら、カラオケだとどうなるんだろう。悩みとか不安とかそういうのが全部、吹っ飛んでくれるんじゃないか。
お風呂で思い切り歌うことの爽快感を覚えた私は、そう思った。
だから人生初のカラオケを、ひとカラを予約した……のはいいのだけれど。
いざ本当にその場にやってきたら、なんだか急に不安になってきた。
カラオケが入っているビルを見上げながら、ため息をつく。
ひとりでカラオケなんて、友だちがいない奴だと思われないかな。高校生が土曜の朝いちでカラオケなんて、変に思われないだろうか。
そんな考えばかりが浮かんでしまい、なかなかビルの中に入れない。
でも予約は九時だから、少し前には行かなきゃ。というか、ひとり専用のカラオケなんだから、ひとりで行って変に思われることなんてないはず。
斜め掛けのショルダーバッグの紐を強く握りしめて中に入った私は、エレベーターで三階に上がる。自動ドアには【ひとカラ】の文字。
みんなひとりで来てる。ここはひとりで来る場所なんだ。
そう言い聞かせてカウンターの前に立った。そして、スマホの予約画面をポニーテールの店員さんに見せる。
「はい、ご提示ありがとうございます。一時間のご利用ですね。本日ワンオーダー制となっておりますので、お飲み物などお部屋から注文お願いします。お部屋は六番になります」
「あ、はい……」
テキパキと慣れた様子でマイクやリモコンが入ったカゴを渡された私は、通路を進む。思ったよりも狭い店内には、八つの部屋があるようだ。
言われた通り、恐る恐る六番の部屋に入った私は、カゴをテーブルの上に置き、二人掛けのソファーに座って「はぁ……」と息を吐いた。
四畳ほどの狭いスペースには、カラオケ画面と小さいテーブルとソファーが置かれている。
テーブルの上にあるタブレットでアイスティーを注文してから、カラオケの曲名を検索してみた。だけど、AMEの曲は入っていない。
やっぱりなかったか……。
残念だけど、入っていないならそれはそれで仕方ない。でも、初めてのカラオケの記念すべき一曲目は、絶対にAMEの曲を歌いたい。
そう決めていた私は、スマホを操作して曲を再生した。
たとえカラオケから曲が流れなくても、マイクがあれば歌える。
私はマイクを握り、目を閉じた。
歌詞は全部覚えているから、見なくても平気。
聞き慣れたイントロのあと、私は静かに息を吸い、優しく吐き出すように歌いはじめた。
いつも見ているAMEの動画のイラストが、頭の中に流れてくる。
自分の口から発せられる声が、狭い部屋の壁にぶつかって、自分の耳に届く。
自分の声なのに、そうじゃない気がして、不思議だ。
マイクなしで歌うのと、全然違う。
心が弾んで、気持ちが軽くなる。
誰の目も気にせずに思い切り歌うことが、こんなに楽しいなんて思っていなかった。
こんなに楽しいなら、もっと早く勇気を出していればよかった。
「きみにい――」
と、歌っている途中で部屋をノックする音が聞こえ、私はすぐさま歌うのをやめた。
「お待たせしました」
そうだ。ドリンクを注文していたんだった。
届いてから歌いはじめればよかったと後悔しても、もう遅い。私は店員さんから隠れるようにうつむいた。
「あ、ありがとうございます……」
きっと、変な奴だと思われただろうな。
とにかく早く出てほしいけれど、下げた視線の先に見える赤と黒のいかついスニーカーは、なぜか全然動こうとしない。
もしかして、『ちゃんとカラオケを流して歌ってください』とか、注意されるのかも。
でも、私が〝こういう歌い方〟をしたのは、一番最初に歌うと決めていた曲がカラオケに入っていなかったから、仕方なく……。
「見つけた」
……え?
今、何か聞こえたような……。
そう思って恐る恐る顔を上げた瞬間――。
「命を救うと思って、あたしのために歌ってくんない!?」
店員さんはいきなりそう言って、私の手を両手でガッチリと握ってきた。
「えっ!? あの、その……」
突然の出来事に戸惑いながら瞼を激しく上下させた私は、目を見開いた。
ちょ、ちょっと待って。
この店員さんは……。
「さ、佐久間、さん……?」
目の前で私の手を握っている、赤とピンクの綺麗な髪色の店員さんは、
「当たり」
と言って、つけていた黒いマスクを下げた。
「もう一回言うけどさ、命を救うと思って、あたしのために歌ってほしいんだ」
「いや、あの、命……って、えっと」
そう言われても、私の歌に命を救うような力はない。
佐久間さんが何を言っているのか分からなくて、頭の中はめちゃくちゃだ。
ただでさえ喋るのが苦手なのに、混乱して余計に言葉が出てこない。
黙ってうつむくことしかできないでいると、佐久間さんが隣に腰を下ろし、私の肩に手を回した。
ちょっと待って、まともに話したこともないのに、めちゃくちゃフレンドリーすぎない!? 佐久間さんて、こういう人だったの?
「ごめんごめん、いきなりそんなこと言ったってわけ分かんないよな。とりあえずさ、もう一回歌ってくんない? アカペラでいいから」
絶対無理! 人前で歌えないから、こうしてひとカラに来てるのに。真横で聞かれている状態で歌えるわけない。
ていうか、距離が近すぎる……。いきなりこんなふうに接してくる人は今までいなかったけど、ちょっと……無理かも……。
私はさりげなくお尻を動かし、少しだけ佐久間さんから離れた。
歌うことは絶対にできないけど、でも、なんて返せば佐久間さんを怒らせないで済むだろう。
そうやって必死に考えても何も浮かばず、結局黙り込んでしまった。
「とりあえず今仕事中だからさ、考えといて!」
だけど、佐久間さんが店員だったことが唯一の救いだ。もし客として来ていたなら、歌うまでずっと隣に座られていたかもしれない。
それだけならまだしも、黙っているだけの私にイライラして、怒られたり切れられたりする可能性だってあった。そんなの、想像しただけでゾッとする。
「じゃあ、ごゆっくり~」
佐久間さんが部屋を出た瞬間、緊張による疲れがどっと押し寄せてきた。
ごゆっくりなんて、できるわけない……。
佐久間さんがいつまた部屋に入ってくるか分からなくて、気が気じゃない。
動揺を引きずったまま、歌わずにただタブレットを操作していたけれど、来る気配がないまま三十分が経過した。
一時間しか予約していないから、あと残り三十分。佐久間さんは仕事があるし、ドリンクも食べ物も頼んでいないから部屋に来ることは多分もうないよね。
ドアのほうを気にしつつ、私はようやくカラオケを再開した。
今度はちゃんとカラオケの機械で音を流して、好きなボカロ曲を歌う。
AMEも好きだけど、私はボカロも好きだ。
なのに……一曲歌い切った私は、ため息をついた。
全然駄目だ。思った以上に動揺しているみたいで、歌に気持ちが入らない。
曲検索はしてみたものの、結局何も歌う気になれないまま、退出の時間になってしまった。
せっかくの初カラオケだったのに、二曲で終わりか……。しかも、どちらもまともに歌えてないし。
だけど、問題はこれからだ。
マイクなどが入ったカゴを持って立ち上がった私は、深呼吸をする。
支払いは済ませてあるけど、カゴを返さなきゃいけない。つまり、店員さんと対峙することになる。
ポニーテールの店員さんだったらいいなと思いながら、恐る恐る受付に向かったけど、遠くからでもあの髪の色はとっても目立つ。そこにいるのが佐久間さんだと気づき、私は肩を落とした。
でもまだ仕事中だし、他にも来店している客がいるから、さっきのように手を握って懇願されるようなことはないはず。
うつむきながらカゴを受付に置くと、カウンターの上で佐久間さんが私に何かを差し出してきた。
「これ、あんたのだろ? 昨日尻もちついた時に落としたみたいだけど」
それは、制服のポケットにいつも入れている小さなメモ帳だった。
今日は学校が休みだから、なくなっていることに気づかなかったけど、あの時落としていたんだ。
「あ、ありがとう……」
「ていうか土日の朝から歌いに来るなら、学生早朝割っていって二時間パックのこっちのほうが断然お得だぞ」
佐久間さんは、受付に置いてある料金表を指差しながら教えてくれた。
「そう、なんだ。あの、ありがとう……ございます……」
軽く頭を下げると、佐久間さんは笑顔で……というより、ニヤリと口角を上げて私を見ている。だから私は、反射的に視線を下げた。
「メモ帳に連絡先書いておいたから、さっきの話、考えといて」
――……えっ?
驚きすぎて、声が出ない。
「ご利用ありがとうございました~。次にお待ちの方、どうぞ」
反論する隙を与えないかのように佐久間さんがそう言うと、待っていたお客さんが受付に近づいた。その場から離れるしかない私は、追いやられるように店を出る。
エレベーターに乗る前に一度振り返ると、佐久間さんの姿が目に入った瞬間、自然とため息が漏れた。
記念すべき初カラオケが、まさかこんな展開になるなんて……。
学校では喋ったこともないし、挨拶さえ交わしたこともないのに、なんで連絡先? どうして私なの?
こんなことになるなら、カラオケなんて来なければよかったかも……。
私が美術の課題を終わらせるのが遅いせいで友だちを待たせてしまい、あげく一緒に帰れなかった昨日は、いつも以上に気持ちが晴れなかった。
AMEの曲を聴いて落ち着いたものの、思い出すと沈んでしまう。それを何度か繰り返しても変わらなかったから、気分転換にお風呂に入り、湯船につかりながら歌ったんだ。でも、それでも駄目だった。
意を決した私は、お風呂の外に聞こえないようシャワーを出して歌ってみた。いつもみたいな小さな声じゃなくて、腹の底から嫌なことすべてを追い出すみたいに。
すると、こびりついてなかなか離れなかった不安とか悲しみが歌声と共に吐き出され、胸の中に広がっていた暗い気持ちが少しずつ剥がれ落ちていくような感覚になった。
お風呂を出て部屋に戻った私は、何かに導かれるように慌ててスマホでカラオケ店を検索した。
しかも、普通のカラオケじゃなくて、おひとり様専用のカラオケ店だ。
私は歌が大好きだけど、実は一度もカラオケに行ったことがない。何度か誘われたことがあるけど、マイクを握って人前で歌うなんて考えられなかったから。
だけど高校生になった頃、私は知ってしまったんだ。ひとりで行ってひとりで歌える、ひとり専用のカラオケ――、ひとカラというものがあるということに。
それでも二年以上踏み出せなかったのは、勇気がなかったというのもあるけれど、歌えれば場所はどこでもいいし、マイクも必要ないと思っていたからだ。
でも、大声で歌うのがこんなに気持ちいいなら、カラオケだとどうなるんだろう。悩みとか不安とかそういうのが全部、吹っ飛んでくれるんじゃないか。
お風呂で思い切り歌うことの爽快感を覚えた私は、そう思った。
だから人生初のカラオケを、ひとカラを予約した……のはいいのだけれど。
いざ本当にその場にやってきたら、なんだか急に不安になってきた。
カラオケが入っているビルを見上げながら、ため息をつく。
ひとりでカラオケなんて、友だちがいない奴だと思われないかな。高校生が土曜の朝いちでカラオケなんて、変に思われないだろうか。
そんな考えばかりが浮かんでしまい、なかなかビルの中に入れない。
でも予約は九時だから、少し前には行かなきゃ。というか、ひとり専用のカラオケなんだから、ひとりで行って変に思われることなんてないはず。
斜め掛けのショルダーバッグの紐を強く握りしめて中に入った私は、エレベーターで三階に上がる。自動ドアには【ひとカラ】の文字。
みんなひとりで来てる。ここはひとりで来る場所なんだ。
そう言い聞かせてカウンターの前に立った。そして、スマホの予約画面をポニーテールの店員さんに見せる。
「はい、ご提示ありがとうございます。一時間のご利用ですね。本日ワンオーダー制となっておりますので、お飲み物などお部屋から注文お願いします。お部屋は六番になります」
「あ、はい……」
テキパキと慣れた様子でマイクやリモコンが入ったカゴを渡された私は、通路を進む。思ったよりも狭い店内には、八つの部屋があるようだ。
言われた通り、恐る恐る六番の部屋に入った私は、カゴをテーブルの上に置き、二人掛けのソファーに座って「はぁ……」と息を吐いた。
四畳ほどの狭いスペースには、カラオケ画面と小さいテーブルとソファーが置かれている。
テーブルの上にあるタブレットでアイスティーを注文してから、カラオケの曲名を検索してみた。だけど、AMEの曲は入っていない。
やっぱりなかったか……。
残念だけど、入っていないならそれはそれで仕方ない。でも、初めてのカラオケの記念すべき一曲目は、絶対にAMEの曲を歌いたい。
そう決めていた私は、スマホを操作して曲を再生した。
たとえカラオケから曲が流れなくても、マイクがあれば歌える。
私はマイクを握り、目を閉じた。
歌詞は全部覚えているから、見なくても平気。
聞き慣れたイントロのあと、私は静かに息を吸い、優しく吐き出すように歌いはじめた。
いつも見ているAMEの動画のイラストが、頭の中に流れてくる。
自分の口から発せられる声が、狭い部屋の壁にぶつかって、自分の耳に届く。
自分の声なのに、そうじゃない気がして、不思議だ。
マイクなしで歌うのと、全然違う。
心が弾んで、気持ちが軽くなる。
誰の目も気にせずに思い切り歌うことが、こんなに楽しいなんて思っていなかった。
こんなに楽しいなら、もっと早く勇気を出していればよかった。
「きみにい――」
と、歌っている途中で部屋をノックする音が聞こえ、私はすぐさま歌うのをやめた。
「お待たせしました」
そうだ。ドリンクを注文していたんだった。
届いてから歌いはじめればよかったと後悔しても、もう遅い。私は店員さんから隠れるようにうつむいた。
「あ、ありがとうございます……」
きっと、変な奴だと思われただろうな。
とにかく早く出てほしいけれど、下げた視線の先に見える赤と黒のいかついスニーカーは、なぜか全然動こうとしない。
もしかして、『ちゃんとカラオケを流して歌ってください』とか、注意されるのかも。
でも、私が〝こういう歌い方〟をしたのは、一番最初に歌うと決めていた曲がカラオケに入っていなかったから、仕方なく……。
「見つけた」
……え?
今、何か聞こえたような……。
そう思って恐る恐る顔を上げた瞬間――。
「命を救うと思って、あたしのために歌ってくんない!?」
店員さんはいきなりそう言って、私の手を両手でガッチリと握ってきた。
「えっ!? あの、その……」
突然の出来事に戸惑いながら瞼を激しく上下させた私は、目を見開いた。
ちょ、ちょっと待って。
この店員さんは……。
「さ、佐久間、さん……?」
目の前で私の手を握っている、赤とピンクの綺麗な髪色の店員さんは、
「当たり」
と言って、つけていた黒いマスクを下げた。
「もう一回言うけどさ、命を救うと思って、あたしのために歌ってほしいんだ」
「いや、あの、命……って、えっと」
そう言われても、私の歌に命を救うような力はない。
佐久間さんが何を言っているのか分からなくて、頭の中はめちゃくちゃだ。
ただでさえ喋るのが苦手なのに、混乱して余計に言葉が出てこない。
黙ってうつむくことしかできないでいると、佐久間さんが隣に腰を下ろし、私の肩に手を回した。
ちょっと待って、まともに話したこともないのに、めちゃくちゃフレンドリーすぎない!? 佐久間さんて、こういう人だったの?
「ごめんごめん、いきなりそんなこと言ったってわけ分かんないよな。とりあえずさ、もう一回歌ってくんない? アカペラでいいから」
絶対無理! 人前で歌えないから、こうしてひとカラに来てるのに。真横で聞かれている状態で歌えるわけない。
ていうか、距離が近すぎる……。いきなりこんなふうに接してくる人は今までいなかったけど、ちょっと……無理かも……。
私はさりげなくお尻を動かし、少しだけ佐久間さんから離れた。
歌うことは絶対にできないけど、でも、なんて返せば佐久間さんを怒らせないで済むだろう。
そうやって必死に考えても何も浮かばず、結局黙り込んでしまった。
「とりあえず今仕事中だからさ、考えといて!」
だけど、佐久間さんが店員だったことが唯一の救いだ。もし客として来ていたなら、歌うまでずっと隣に座られていたかもしれない。
それだけならまだしも、黙っているだけの私にイライラして、怒られたり切れられたりする可能性だってあった。そんなの、想像しただけでゾッとする。
「じゃあ、ごゆっくり~」
佐久間さんが部屋を出た瞬間、緊張による疲れがどっと押し寄せてきた。
ごゆっくりなんて、できるわけない……。
佐久間さんがいつまた部屋に入ってくるか分からなくて、気が気じゃない。
動揺を引きずったまま、歌わずにただタブレットを操作していたけれど、来る気配がないまま三十分が経過した。
一時間しか予約していないから、あと残り三十分。佐久間さんは仕事があるし、ドリンクも食べ物も頼んでいないから部屋に来ることは多分もうないよね。
ドアのほうを気にしつつ、私はようやくカラオケを再開した。
今度はちゃんとカラオケの機械で音を流して、好きなボカロ曲を歌う。
AMEも好きだけど、私はボカロも好きだ。
なのに……一曲歌い切った私は、ため息をついた。
全然駄目だ。思った以上に動揺しているみたいで、歌に気持ちが入らない。
曲検索はしてみたものの、結局何も歌う気になれないまま、退出の時間になってしまった。
せっかくの初カラオケだったのに、二曲で終わりか……。しかも、どちらもまともに歌えてないし。
だけど、問題はこれからだ。
マイクなどが入ったカゴを持って立ち上がった私は、深呼吸をする。
支払いは済ませてあるけど、カゴを返さなきゃいけない。つまり、店員さんと対峙することになる。
ポニーテールの店員さんだったらいいなと思いながら、恐る恐る受付に向かったけど、遠くからでもあの髪の色はとっても目立つ。そこにいるのが佐久間さんだと気づき、私は肩を落とした。
でもまだ仕事中だし、他にも来店している客がいるから、さっきのように手を握って懇願されるようなことはないはず。
うつむきながらカゴを受付に置くと、カウンターの上で佐久間さんが私に何かを差し出してきた。
「これ、あんたのだろ? 昨日尻もちついた時に落としたみたいだけど」
それは、制服のポケットにいつも入れている小さなメモ帳だった。
今日は学校が休みだから、なくなっていることに気づかなかったけど、あの時落としていたんだ。
「あ、ありがとう……」
「ていうか土日の朝から歌いに来るなら、学生早朝割っていって二時間パックのこっちのほうが断然お得だぞ」
佐久間さんは、受付に置いてある料金表を指差しながら教えてくれた。
「そう、なんだ。あの、ありがとう……ございます……」
軽く頭を下げると、佐久間さんは笑顔で……というより、ニヤリと口角を上げて私を見ている。だから私は、反射的に視線を下げた。
「メモ帳に連絡先書いておいたから、さっきの話、考えといて」
――……えっ?
驚きすぎて、声が出ない。
「ご利用ありがとうございました~。次にお待ちの方、どうぞ」
反論する隙を与えないかのように佐久間さんがそう言うと、待っていたお客さんが受付に近づいた。その場から離れるしかない私は、追いやられるように店を出る。
エレベーターに乗る前に一度振り返ると、佐久間さんの姿が目に入った瞬間、自然とため息が漏れた。
記念すべき初カラオケが、まさかこんな展開になるなんて……。
学校では喋ったこともないし、挨拶さえ交わしたこともないのに、なんで連絡先? どうして私なの?
こんなことになるなら、カラオケなんて来なければよかったかも……。