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暑かった昨日よりも、今日はさらに気温が上がるらしい。といっても朝七時の空気は湿気もないし、まだ心地いいと感じられる。
洗濯機を回してから窓を開けたあたしは、タイマーで炊いておいたご飯でおにぎりをつくり、ラップをしてメモを置く。
【起きたら食べろよ】
洗い物をして、静かに床の埃を掃除している間に洗濯機がピーピーと音を鳴らしたので、それをベランダに干してから身支度をはじめた。
あたしの家は、年季の入った昭和感満載なアパートの二階だ。部屋は一応三つあるけど狭い。
家族は母親と小学五年の弟、柊の三人。あたしが小学校に上がる前に両親が離婚して以来、母は女手ひとつであたしたちを育ててくれている。
当然金に余裕はないから贅沢はできないけど、食べるのもままならいほどではない。それもこれも、母が一生懸命働いてくれているおかげだ。
母に負担をかけないよう、小学生の頃から自分でできることは自分でやるようにしてきた。だけど今は、家族に迷惑をかけないように、あたしがもっとお金を稼がなきゃいけないと思っている。
だからこそ動画配信で成功したいのに、現実はそんなに簡単じゃない。
お金を稼ぐことは、あたしにとって切実で重要な問題だ。焦ってどうにかなるわけじゃないけど、もっと再生回数を伸ばせる方法を考えないとな。
ダイニングの隣にある和室の襖を開け、夜勤明けで眠っている母を見ながら改めてそう思った。
家を出る前、ベランダ側にある四畳の部屋を覗くと、いびきをかきながら寝ている弟を見て、あたしはクスッと笑った。
布団に対して体が真横になっているけど、すごい寝相だな。
蹴散らかしている薄いタオルケットを弟のお腹にかけ直してから、戸締まりを確認して家を出た。
「あ、おはようございます」
「楓ちゃん、おはよう」
大家のおばあちゃんが、アパートの前を箒で掃いていた。
「バイト頑張ってね」
このアパートに越してきたのは、あたしが高校生になる時だった。それまでは通学路に田んぼがあるような田舎に住んでいたけど、わけあって東京の高校を受験したからだ。
ここに住んでもう三年目なので、毎週土曜は朝からバイトだということを、大家さんも知っている。
「はい。行ってきます」
軽くお辞儀をしたあたしは、アパートの駐輪場から取り出した赤い自転車にまたがり、バイト先に向けて走り出した。
家から学校まではバスで三十分かかるから、平日はそのままバスで行くけど、家からだと自転車で行くほうが断然早い。
少しでも節約できるように、本当は学校にも自転車で通いたい。だけど、母にそれだけは絶対に駄目だと言われ、バス通学をしている。
自転車だと四十分はかかるから疲れるし、色々心配なんだろうな。まぁ、そういう母の気持ちを押し切ってまで自転車で行きたいというわけではないから、いいけど。
なるべく人通りの少ない道を選びながら、鼻歌交じりに自転車を走らせること十分で駅前に到着。
バスのロータリーから一本道路を渡った場所にあるビルの横に、自転車を止めた。
時刻は八時四十五分。勤務時間は九時からなので、十五分早く着いた。
家族にかんすること以外は超適当なあたしだけど、こう見えて時間だけはきっちり守るタイプだ。
「おはようございまーす」
若干眠そうに挨拶をすると、長い髪をポニーテールに結んでいる二歳上の先輩が、「おはよう佐久間さん」と返してきた。先輩は大学生なのだが、土日だけバイトをしている。
あたしのバイト先は、ビルの中に入っている小さなカラオケBOX。しかも普通のカラオケではなく、ひとりカラオケ専用のお店だ。
高校生になってすぐにアルバイトをはじめたので、もう三年目になる。
いつものように私物をロッカーにしまい、黒いエプロンと黒いマスクを装着して店に出た。
平日朝は学校や仕事があるからか、カラオケの利用者数はそこまで多くないけど、休日や平日の夕方以降は予約も多いし部屋も結構埋まる。
このバイトをしてから、ひとりで歌いたいという人が想像以上に多いということを知ったけど、あたしもカラオケに行けと言われたら絶対にひとりカラオケを選ぶだろうな。歌は苦手だから、仕事以外で足を踏み入れることは一生ないだろうけど。
今日の予約状況をカウンターのパソコンで確認すると、オープンの九時からは八部屋中六部屋が予約で埋まっている。
休日の朝からひとりで歌いに来るなんて、好きじゃなきゃできないだろうな。
そう思いながら先輩と一緒に客の入店を待っていると、開店五分前に三人の客がそれぞれ入ってきた。先輩が受付を担当し、あたしが注文されたドリンクなどを奥のキッチンから部屋へと運ぶ。
最後に入店した六人目の客にドリンクを持っていったあたしは、ノックをする寸前で手を止めた。
中から、歌声が聞こえてきたからだ。
カラオケなのだから歌うのは当然だけど、そうじゃない。一瞬アカペラで歌っているのかと思ったけど、メロディーもかすかに聞こえてくる。
恐らく、カラオケの機械ではなくスマホかなんかで音を流して、それに合わせて歌っているようだ。
しかも、驚くべきことにAMEの曲だ。
しかも、めちゃくちゃいい声で。
なんだろう、AME本人とはもちろん違うけど、これはこれでありじゃん。というかこっちの歌声も好きかも。
透き通るような高い声がAMEのバラードとよく合っていて、なんか、心臓がドキドキする。
不思議な感覚に陥ったあたしの脳裏に、AMEの動画がよぎった。
イラストと……歌……――。
雷に打たれたかのようにハッと目を見開いたあたしは、ドアをノックし、「失礼します」と声をかけて中に入った。
「お待たせしました」
いつも通り声をかけると、客は歌うのをピタリとやめ、座ったままうつむいている。
あたしは、客の近くにアイスティーを置いた。
「あ、ありがとうございます……」
客はこっちを一切見ることなく、蚊の鳴くような声でそう告げた。
Tシャツに薄いカーディガンを羽織った若い女の子だけど、どっかで見たことがあるような……。
客を凝視していると、あたしの脳内で『ピコン』と閃くような音が鳴る。
知らない相手でも、駄目もとでとりあえず声をかけてみようかと思っていたけど、こんな偶然あるんだな……。
これは、ますます都合がいい。
あたしは黒いマスクの下で、ニヤリと口角を上げた――。
暑かった昨日よりも、今日はさらに気温が上がるらしい。といっても朝七時の空気は湿気もないし、まだ心地いいと感じられる。
洗濯機を回してから窓を開けたあたしは、タイマーで炊いておいたご飯でおにぎりをつくり、ラップをしてメモを置く。
【起きたら食べろよ】
洗い物をして、静かに床の埃を掃除している間に洗濯機がピーピーと音を鳴らしたので、それをベランダに干してから身支度をはじめた。
あたしの家は、年季の入った昭和感満載なアパートの二階だ。部屋は一応三つあるけど狭い。
家族は母親と小学五年の弟、柊の三人。あたしが小学校に上がる前に両親が離婚して以来、母は女手ひとつであたしたちを育ててくれている。
当然金に余裕はないから贅沢はできないけど、食べるのもままならいほどではない。それもこれも、母が一生懸命働いてくれているおかげだ。
母に負担をかけないよう、小学生の頃から自分でできることは自分でやるようにしてきた。だけど今は、家族に迷惑をかけないように、あたしがもっとお金を稼がなきゃいけないと思っている。
だからこそ動画配信で成功したいのに、現実はそんなに簡単じゃない。
お金を稼ぐことは、あたしにとって切実で重要な問題だ。焦ってどうにかなるわけじゃないけど、もっと再生回数を伸ばせる方法を考えないとな。
ダイニングの隣にある和室の襖を開け、夜勤明けで眠っている母を見ながら改めてそう思った。
家を出る前、ベランダ側にある四畳の部屋を覗くと、いびきをかきながら寝ている弟を見て、あたしはクスッと笑った。
布団に対して体が真横になっているけど、すごい寝相だな。
蹴散らかしている薄いタオルケットを弟のお腹にかけ直してから、戸締まりを確認して家を出た。
「あ、おはようございます」
「楓ちゃん、おはよう」
大家のおばあちゃんが、アパートの前を箒で掃いていた。
「バイト頑張ってね」
このアパートに越してきたのは、あたしが高校生になる時だった。それまでは通学路に田んぼがあるような田舎に住んでいたけど、わけあって東京の高校を受験したからだ。
ここに住んでもう三年目なので、毎週土曜は朝からバイトだということを、大家さんも知っている。
「はい。行ってきます」
軽くお辞儀をしたあたしは、アパートの駐輪場から取り出した赤い自転車にまたがり、バイト先に向けて走り出した。
家から学校まではバスで三十分かかるから、平日はそのままバスで行くけど、家からだと自転車で行くほうが断然早い。
少しでも節約できるように、本当は学校にも自転車で通いたい。だけど、母にそれだけは絶対に駄目だと言われ、バス通学をしている。
自転車だと四十分はかかるから疲れるし、色々心配なんだろうな。まぁ、そういう母の気持ちを押し切ってまで自転車で行きたいというわけではないから、いいけど。
なるべく人通りの少ない道を選びながら、鼻歌交じりに自転車を走らせること十分で駅前に到着。
バスのロータリーから一本道路を渡った場所にあるビルの横に、自転車を止めた。
時刻は八時四十五分。勤務時間は九時からなので、十五分早く着いた。
家族にかんすること以外は超適当なあたしだけど、こう見えて時間だけはきっちり守るタイプだ。
「おはようございまーす」
若干眠そうに挨拶をすると、長い髪をポニーテールに結んでいる二歳上の先輩が、「おはよう佐久間さん」と返してきた。先輩は大学生なのだが、土日だけバイトをしている。
あたしのバイト先は、ビルの中に入っている小さなカラオケBOX。しかも普通のカラオケではなく、ひとりカラオケ専用のお店だ。
高校生になってすぐにアルバイトをはじめたので、もう三年目になる。
いつものように私物をロッカーにしまい、黒いエプロンと黒いマスクを装着して店に出た。
平日朝は学校や仕事があるからか、カラオケの利用者数はそこまで多くないけど、休日や平日の夕方以降は予約も多いし部屋も結構埋まる。
このバイトをしてから、ひとりで歌いたいという人が想像以上に多いということを知ったけど、あたしもカラオケに行けと言われたら絶対にひとりカラオケを選ぶだろうな。歌は苦手だから、仕事以外で足を踏み入れることは一生ないだろうけど。
今日の予約状況をカウンターのパソコンで確認すると、オープンの九時からは八部屋中六部屋が予約で埋まっている。
休日の朝からひとりで歌いに来るなんて、好きじゃなきゃできないだろうな。
そう思いながら先輩と一緒に客の入店を待っていると、開店五分前に三人の客がそれぞれ入ってきた。先輩が受付を担当し、あたしが注文されたドリンクなどを奥のキッチンから部屋へと運ぶ。
最後に入店した六人目の客にドリンクを持っていったあたしは、ノックをする寸前で手を止めた。
中から、歌声が聞こえてきたからだ。
カラオケなのだから歌うのは当然だけど、そうじゃない。一瞬アカペラで歌っているのかと思ったけど、メロディーもかすかに聞こえてくる。
恐らく、カラオケの機械ではなくスマホかなんかで音を流して、それに合わせて歌っているようだ。
しかも、驚くべきことにAMEの曲だ。
しかも、めちゃくちゃいい声で。
なんだろう、AME本人とはもちろん違うけど、これはこれでありじゃん。というかこっちの歌声も好きかも。
透き通るような高い声がAMEのバラードとよく合っていて、なんか、心臓がドキドキする。
不思議な感覚に陥ったあたしの脳裏に、AMEの動画がよぎった。
イラストと……歌……――。
雷に打たれたかのようにハッと目を見開いたあたしは、ドアをノックし、「失礼します」と声をかけて中に入った。
「お待たせしました」
いつも通り声をかけると、客は歌うのをピタリとやめ、座ったままうつむいている。
あたしは、客の近くにアイスティーを置いた。
「あ、ありがとうございます……」
客はこっちを一切見ることなく、蚊の鳴くような声でそう告げた。
Tシャツに薄いカーディガンを羽織った若い女の子だけど、どっかで見たことがあるような……。
客を凝視していると、あたしの脳内で『ピコン』と閃くような音が鳴る。
知らない相手でも、駄目もとでとりあえず声をかけてみようかと思っていたけど、こんな偶然あるんだな……。
これは、ますます都合がいい。
あたしは黒いマスクの下で、ニヤリと口角を上げた――。