プロローグ
俺には幼稚園の頃から知っている幼なじみがいる。
顔良し頭良し、運動神経も良しのいわゆるパーフェクトボーイ。小学校でも中学校でも、とにかく女子からモテまくって、大人もちやほやするレベルの男だ。
同級生の中では成長が早かったからか、背も高く落ち着いた雰囲気のあるあいつは、中学に上がった頃にはよく年上に間違えられることもあった。
それでも俺は、本当はあいつが泣き虫だって知っている。必死に「夏生、待って」と後ろからついてくるあいつを、俺はどうにも放っておけなかった。
たとえ、俺の好きな子があいつを好きになっても。
親にあいつのほうがしっかりしていると比べられても。
友だちによくあんな完璧な奴とつるめるよなと憐れられても。
夏生がいいのだと言って伸ばされるあいつの手を、俺は振り払えなかった。
けど、中学最後の部活の大会。
バスケ部に入っていた俺たちは、一緒にレギュラーになって大会で勝とうと約束していた。
それなのに、選ばれたのはあいつだけ。俺はベンチの補欠。
大会で活躍するあいつをベンチから眺めていたら、俺の中の何かがぷつっと切れた音がした。
俺を頼るあいつはもういないんだって、俺がいなくてもあいつはもう平気なんだって、心が理解してしまったのだ。
だからあいつ――三澄悠人のいない高校を、選んだはずのに。
「……悠人、なんでおまえ、ここにいんの?」
桜が満開を迎えるハレの日。
胸に期待と希望を抱いて参加した入学式で、俺が今一番見たくない男の顔が視線の先にある。
少しだけくせっ毛の黒い髪が風に乱れても、その澄ましたような真顔は少しも崩れていない。俺を見て驚いた様子がないということは、悠人は俺がこの高校にいることを知っていたということになる。
ここを受験したことは、誰にも伝えていなかったはずだ。
親にだって口止めした。他の仲のいい友だちにだって言わなかった。
家から遠いここは、同中の人間だってほとんどいないはずなのだ。
(なのになんで、一番離れたかったおまえがいんだよ……!)
睨みつければ、悠人が無表情のまま静かに答える。
「なんでって、夏生がここにいるから」
ああ、最悪だ。またこれまでの繰り返しが始まる。それが嫌だから悠人と違う高校に行きたかったのに、なんでおまえは来ちまったんだ。
「それより夏生、髪染めたんだね」
「それよりじゃねぇよ……っ」
「似合ってる。夏生みたいにきらきらしてて、きれいな色」
「人の話聞けよおまえ。ほんとなんで、おまえがいんだよっ。おまえがいたら意味ねぇじゃん」
思わずその場でしゃがみ込むと、体育館に向かっていた他の新入生たちの視線がちらほらと突き刺さった。
「うん、夏生は嫌がるだろうなって、わかってたよ」
「わかってたなら来んなよ」
「でも俺、夏生がいないとだめだから」
嘘つけ、と声にならない声で反論する。俺がいなくても、悠人はどこでだってやっていける。俺はそれを知っている。
また三年間、劣等感にまみれた日々が始まるのかと思うと、俺はしばらくその場を動けずにいた。
第一章
人は欲しいときほど探しものを見つけられないように、避けたいときほど避けられない運命にあるのかもしれない。
体育館で式が終わったあと、新入生たちは掲示板に貼り出された紙に書かれた自分のクラスへ各々向かった。
もちろん俺の名前も三組のところで見つけたので、俺がこれから向かうべきクラスは一年三組である。
この学校は学年が若い一年生の教室が最上階に当たる四階にあり、学年が上がるごとに階数は下がっていく。若いのだから階段が多くても平気だろ、という学校側の無言の圧力を感じる配置には文句も言いたくなるけれど、俺が教室に向かうのが憂鬱なのはそれが理由ではない。
これまた一年生を示す赤色のラインが入った上履きでわざとらしく音を立てながら、俺は階段を上っていく。
怒りのような、やるせなさのような、そんな自分でもよくわからない苛立ちを階段にぶつけているのだが、不思議そうな同級生の視線には気づいていないふりをした。
「夏生」
「…………」
「ねえ、どうせ一緒のクラスなんだから、一緒に行こうよ」
そう、俺の心がこんなにも荒ぶっているのは、まさかの悠人と同じクラスだったからだ。
俺の名字は『槇』。悠人の名字は『三澄』。同じま行の名字なせいで、悠人の名前をわざわざ探そうとしなくても、同じクラスであることはすぐにわかってしまった。
「ねえ、夏生」
すでに賑やかな三組の教室へ足を踏み入れる。その後ろを悠人がついてくるが、無視して黒板に貼られた席順を確認した。
「あ、俺と夏生、また前後だね」
予想はしていたが、悠人の言葉に舌打ちする。名字の弊害はこういうときにもあって、大抵新学期のクラスの席順は五十音順なのが憎たらしい。
さっさと自分の席に座って、先生が来るまで寝たふりでもしよう。そう考える。どうせこのあとは簡単なオリエンテーションを聞いて終わりで、特に授業という授業もない。
俺の席は、ま行以降の名字が少ないせいか、一番廊下に近い列の前から二番目だった。
一番目の席にはすでに知らない男子生徒が座っている。ダークブラウンの髪をマッシュの形に整えた、垢抜けた感じの男だ。
せっかく前後の席なのだし、後ろの席の奴とは仲良くする気もないので、ちゃんと挨拶をしようと声をかけたとき。
「夏生、俺が先」
前の席の奴が振り向いてくれたのに、俺とそいつの間に悠人の顔がどんと割り込んできた。ムカついて悠人の顔を横へ押しのけながら自己紹介する。
「俺、槇夏生。一年間よろしく」
俺の強引な「よろしく」に、相手は目をぱちくりと瞬いたあと、俺に邪険にされている悠人をチラ見する。
何かを逡巡するような気配を滲ませた相手だが、案外早く考えることを放棄したようで、俺に向かってにっこりと笑顔を見せてきた。
「こちらこそよろしく。俺は保坂柊真。柊でいいよ~」
見事に悠人を無視した返しに、俺は思いきり噴き出した。
「柊な。俺も夏生でいいよ。おまえ面白いな」
「じゃあ『なっちゃん』にしよ。え? どのへんが面白かった?」
「なっちゃんは嫌なんだけど……いやだってほら、な?」
俺が悠人を一瞥すると、その視線だけで俺の言いたいことを理解したらしい。柊は「あ~」と言いながら頬を掻いた。
「だってなんか、面倒くさそうだったから?」
ぶはっ、とまた噴き出してしまう。柊はなかなかいい性格をしていそうだと、この短時間で把握する。
俺に顔を押しのけられたままの悠人は、そんな俺たちの会話が面白くないのか、柊を睨んでいた。
まあ、面白くないのは当然か。俺は悠人を無視しているし、柊は初対面なのに「面倒くさい」と言い放ったのだから。
でもだからこそ、俺は柊を気に入った。
悠人のことをそう評価する人間は稀だ。その証拠に、教室にぞくぞくと集まってくるクラスメイトたち――特に女子――は、みんな一度は必ず悠人を凝視している。
正確には、悠人の顔を。
ひそひそと話す女子の会話は聞こえてこないけれど、彼女たちの瞳が恋する乙女のように輝いているところを見れば、何を話しているのかなんて簡単に想像がつくというものだ。
はあ、と俺はわざとらしいため息を吐いた。
悠人の顔を押しのけていた手を、奴の頬から顎へ移動させる。そして無理やり柊の方を向かせて女子からは見えないようにすれば、俺は悠人の噂をしている女子たちを軽く睨んだ。女子たちが慌てて視線を逸らしていく。
実は中学のとき、悠人はストーカー被害に遭っている。またああいうのはごめんだ。
女子に釘を刺したあと、俺は柊に向けて口を開いた。
「こいつは三澄悠人。愛想ないのは人見知りのせい。慣れればまあ、たぶん大丈夫」
「たぶんなの?」
「たぶんなの」
「ははっ、了解。んじゃよろしく~、悠人」
柊がへらりと笑って挨拶するが、悠人は品定めするような目で柊を見下ろすだけで何も応えない。俺が窘めるように悠人の名前を呼んでようやく、悠人は挨拶を返した。
「……よろしく。でも名前じゃなくて名字で呼んで」
「おっけおっけ。三澄ね。みーちゃん?」
悠人が心底嫌そうに顔を歪める。綺麗な顔が歪むとなかなかの迫力だが、柊は特にダメージを負っている感じはなさそうでハートが強いと思った。
「ごめんって~。ちゃんと三澄って呼ぶから、そんな怖い顔しないでよ」
「夏生のことも名字で呼んで」
「え、なっちゃんも? でも本人は了承してくれたよ?」
「いやしてねぇよ?」
むしろ嫌だと言った覚えしかないのだが。
なるほど。なんとなく柊のキャラを掴み始めてきた気がする。今まで周りにいなかったタイプだ。
「ところで、なっちゃんと三澄は同中? 知り合いっぽいよね」
「あー、まあ、そうだな」
「それだけじゃない。俺たち幼なじみだから。家も隣同士で、幼稚園からずっと一緒。おまえとは年季が違う」
なぜか悠人が張り合うように答えた。
しかも俺と柊の間にいたくせに、わざわざ俺の背後に回って、後ろから抱きつきながらだ。俺は意味がわからず硬直した。なんだこの距離感は。
確かに中学二年までの俺たちなら、この距離感もおかしくはなかった。悠人はいつだって俺にべったりだったし、俺もそれを受け入れていた。悠人が泣き虫なだけじゃなく、寂しがり屋であることも知っていたからだ。
けど中学最後の約半年間、俺は悠人を避けていた。
夏の最後の大会で生じた確執には、悠人も気づいていたはずだ。だから必要以上に俺に近寄ってこなかった。
なのに、なんで昔の距離感に戻っているのか。
鬱陶しくて振り払おうとするが、悠人もまた放さないとばかりに力を込めてくる。
「ふ~ん、幼なじみねぇ。なんか俺には、三澄が一方的に片想いしてるようにしか見えないけどねぇ」
「はあ? 片想いって、俺も悠人も男だぞ?」
「そこはあれだよ、ものの喩え的な。ね、三澄?」
柊の視線が俺を飛び越えて悠人にいく。俺から悠人の表情は見えないけれど、悠人が柊を敵認定したであろうことは雰囲気で察せられた。
「片想いじゃない。両想い」
「バカか悠人。おまえも変な悪ノリすんな」
悠人の頭を軽く叩く。普段は冗談なんて言わない奴なのに、どうして今の冗談には乗ったのか謎だ。
けれど、一番のバカは自分だろう。少し前まで避けていたはずの幼なじみを、どうして俺は強く拒絶しないのか。
この三組の担任だという教師がやってきて、オリエンテーションが始まったあとも、俺の意識は背中に集中していた。
どうしてなんて、本当はわかっている。
徹底的に避けなければ避けられないほど、俺は三澄悠人という男に弱いからだ。
悠人の寂しそうな顔や困った顔にすこぶる弱い。それは幼い頃に植え付けられた条件のように、悠人のそんな顔を見てしまうと反射的に受け入れ態勢をとってしまう。
(それもこれも、全部悠人ん家のせいだっつの!)
あいつの家庭環境は少々複雑なのだ。そのせいで、俺は嫌いになりたい幼なじみのことを完全には放っておけない。
(つーか誰だってそうだろ。嵐の夜に子犬が捨てられてたら、なんとかしなきゃって思うだろ!)
悠人の顔さえ見なければ離れられると思ったのに、同じ高校、同じクラス、さらには席も前後とくれば、顔を合わせないようにするほうが至難の業だ。
それでも思い描いた青春を過ごすため、俺は悪足掻きのようにオリエンテーションが終わって帰っていいという担任からの許可が出た途端、教室を飛び出した。
いくら地元から離れた高校を選んだとはいえ、一人暮らしは当然許されず、実家から通っている。それはおそらく悠人も同じだ。
となると、片道約一時間半、悠人と帰るのは避けたい。
なんなら幼なじみであることも、本当はバレたくなかったのに。
電車で通学しているので、校門から徒歩十分の最寄駅まで駆け抜ける。
「よし、三分のに間に合ったな。これならあいつも追いつけないだろ」
「そうでもない。俺の五十メートル走のタイム忘れた?」
「忘れるかよ、六秒……は!? 悠人!?」
普通に受け答えしてしまったが、隣にはいつのまにか悠人がいた。しかもこっちは走ったせいで呼吸も乱れているというのに、悠人は涼しい顔である。こういうところがムカつくのだ。
「おまっ、ふざけんな。なんで追ってきた?」
「一緒に帰ろうと思って」
「帰りたくないからダッシュ決めたんだよ、空気読め!」
悠人がしょんぼりと眉尻を下げる。だからその顔をやめろというんだ。ついつい頭を撫でて慰めたくなってしまうではないか。
(昔はこいつ、本当に泣き虫で、転べば泣くし、かくれんぼで見つけてもらえなくても泣くし、俺が風邪で幼稚園休むだけで泣いてたんだよな)
そのたびに大丈夫だからと頭を撫でてあやしていた。頭を撫でればすぐに泣き止むのがかわいかった。
でも俺が悠人に対して甘くなったのは、小学校に上がってからのことだ。
あんなに泣き虫だった悠人が、途端に泣かなくなった時期があった。最初は特に気にしていなかったけれど、たまたま公園の滑り台の陰で一人泣いている悠人を見つけて、そこで初めて、俺は悠人の抱える闇を知ったのだ。
幼なじみなのに全然気づいてやれなかった罪悪感が、俺を悠人に激甘な人間にした。
とにかく悠人を甘やかすようになったのだが、それがよくなかった。
悠人は俺に前より懐き、なんでも俺の真似をするようになったのだ。
俺がやるゲームをやり、俺の持っている文房具とお揃いのものを買い、俺がスポーツ少年団に入れば悠人も入りたがった。
しかしまだ子どもだった俺たちは、親の賛成がないと何もできない。悠人の両親は悠人がバスケを始めることには反対で、泣く泣く悠人は諦めた。
と思ったのだが、それが俺も含めた周りの思い違いだったらしいと気づかされたのは、悠人が中学の部活で迷わずバスケを選んだときである。
もちろん俺もバスケ部に入部した。というか、俺がバスケ部に入ったから悠人はバスケを選んだのだろう。なにせ入部届を出す前に「夏生はバスケ部だよね?」と確認されたから。
うちの中学は文武両道だったから、生徒は必ず部活に入ることが求められていたのだ。これには学歴至上主義の悠人の両親も反対などできず、悠人は楽しそうに部活をやっていた。
でも、そんな俺よりバスケ歴の短い男が、あっという間に俺より上達して、最後の大会ではエースとして出場し、一方俺はレギュラー落ちなんて、こんなに屈辱的で恥ずかしいことがあるだろうか?
しかもその大会の前、悠人は俺のプライドをズタズタにしたんだ。
「おまえ、俺がおまえを避ける理由、わかってるよな?」
三年間の平穏を勝ち取るために強めの口調で問いただしたとき、運悪く電車がホームに入ってきてしまった。
仕方ないので近くのドアから乗り込む。当然悠人も後に続いたが、話の途中だったので追い払うことも逃げることもできず、俺はドア付近に佇んだ。
俺の正面に立った悠人が、俺が逃げるのを防ぐためか、制服の袖を掴んでくる。
「俺がレギュラーとったから?」
「ちっげぇよ。俺がそんなことで怒るほど器の小せぇ奴だと思ってたわけ?」
「ち、違うよ。思ってない。思ってないけど、あの大会からじゃん、夏生が俺を避けるようになったの」
なるほど、夏の大会が原因だってことはわかってても、ピンポイントの理由はわかってなかったのか。
その無神経さに苛立てばいいのか、何も言わずに避けた俺自身も反省すべきなのか。
「それともなに? 引退前に夏生に告白しようとしてた女子を、さりげなく牽制したこと? それに気づいて怒ったの?」
「そう牽制……って、はあ!? 牽制!? なにしてくれてんのおまえ!?」
「なんだ、違うのか」
「おまっ、開き直ってんじゃねぇよ!」
なにそれ初耳なんだけど。
女子の視線はいっつも悠人がかっ攫うせいで、俺は中学時代、モテたためしがない。それどころか誰かに告白されたこともない。
「人の青春をなんだと思ってんの?」
「俺と青春すればいいじゃない。高校でもバスケ、続けるでしょ?」
イラッとした俺はつい口を滑らせてしまった。
「やんねぇよ。おまえとは絶対違う部活にする」
「なんで?」
「なんでじゃない。おまえと同じ部活は二度としない。忘れたとは言わせねぇからな。おまえ、あの大会でレギュラー落ちした俺に何言ったか、本当に覚えてねぇの?」
いつまでも袖を掴まれたままは癪だったので、振り払ってそう訊ねた。
諦めずに再び伸ばされる手も、直前で叩き落とす。
「俺が夏生に……? あ、もしかして『夏生がいないなら俺もレギュラーから外してもらう』?」
「それだバカ」
人がどれだけバスケのために努力してきたか知りながら、悠人はそう言い放ったのだ。ふざけている。あのとき悠人を殴らなかった俺を誰か褒めてほしい。
それまで俺は、自分よりバスケ歴が短いくせに自分よりうまくなっていく悠人に確かに焦りを感じていた。
けれど、だからこそいいライバルだと思っていたのだ。切磋琢磨できる、いいライバルだと。
「なのにおまえは違った。そんな言葉が軽々しく出てくるなんて、俺のこと舐めすぎだろ。チームメイト全員にも失礼だった」
「それで怒ってたの……」
「そうだよ。何も言わずに避けた俺も悪かったからこうして話したけど、わかったらもう話しかけてくんな。俺はおまえとバスケはしない」
これで話は終わりだと言わんばかりに、俺は隣の車両に移ろうとした。
が、すぐさま悠人に腕を掴まれる。電車内のため強い抵抗ができないのがもどかしい。
「わかった。じゃあ俺、バスケやめる」
「人の話聞いてたか!?」
つい反射的に大声を出してしまって、大量の見知らぬ目が一斉に俺に向けられた。居たたまれなくなって俺より背の高い悠人の陰に身を隠す。
しかしそれは失敗だった。悠人を盾にした俺を、これ幸いとドア側に追い詰めた悠人は、ドアに両手をついてまるで檻の中に閉じ込めるように逃げ道を塞いできた。
「俺がやめるから、夏生はバスケ続けなよ」
「はあ?」
「だって夏生、バスケ好きでしょ」
そりゃあ好きだ。だからミニバスから始めて中学まで続けた。
でもそれは、悠人にも言えることだと俺は知っている。
「おまえ、それで俺が喜んで頷くと思ってんの?」
「だってこれしかわかんないよ。どうしたら俺のこと避けないでくれる? あのときのこと、確かに失言だった。ごめん。俺はただ夏生と一緒に試合に出たかっただけなんだ。一緒じゃなきゃ意味がなかったから」
俺の肩に顔を埋めてきた悠人は、でっかいワンコのようだった。尻尾も耳も垂れ下がっている。
(だから、俺はおまえのそれに弱いんだよ……っ)
今までなら「おーよしよし」と撫でて機嫌をとっていたけれど、悠人の柔らかい黒髪に触れるべきか否か、俺は逡巡する。
夏の大会前。最後の大会。あのときは傷ついたしショックも受けた。
でも悠人を避けていた約半年の間に、俺の怒りが徐々に下降気味だったのは否めない。
(怒りって持続しないって言うもんな)
はあ、とため息を吐き出した。
「おまえ、中学のときに俺をそっとしておいたの、わざとだろ」
俺が悠人のことをよく知っているように、悠人も俺のことをよく知っている。俺があまり怒りの感情を持ち続けられないことを、悠人は見抜いていた。
そして俺の怒りを収めるのに何が有効かも、こいつは理解しているのだ。
だから俺が悠人を避けていた半年間、こいつは一度も自分から俺に接触してこなかった。
「……うん。だって夏生、いつもそうでしょ。喧嘩したときは頭を冷やす時間が必要で、頭が冷えたあとなら、ちゃんと俺の話聞いてくれるよね」
ああそうだ。悔しいことに当たっている。そして俺の頭が冷えたタイミングを窺うのが、こいつは異様にうまいのだ。
「でも今回は全然冷えてくれる気配がなくて、正直焦った。俺に内緒で高校決めたの知ったときは、本格的に嫌われたかもって」
「そうだよ。だからもう――」
「やだっ」
ぐりぐりぐり。悠人が俺の肩に頭を擦りつけて攻撃してくる。
「ちょ、地味に痛ぇって」
「ねえ、本当にごめん。俺が夏生のこと大好きなの知ってるでしょ。そんな夏生と一緒に出たくて、つい言っちゃっただけなんだ。お願い、許してよ」
なんとも恥ずかしい奴だ。そういうのを臆面もなく言えちゃうのが悠人の厄介なところであり、かわいいところなのだろう。図体は全くかわいくないけれど。
(……結局悠人の奴、あの言い訳はしなかったな)
実は俺は、自分がレギュラーから落とされた本当の理由を知っている。
実力不足ではなかった。ただ、俺と同じポジションを争っていた奴の親が、コーチをしていた。そしてそいつは、俺と同じ三年生。
いわゆる大人の事情というものが介入したと気づくのに、時間はかからなかった。誰もが陰で噂をしたけれど、誰もがコーチを恐れて口にしなかった。
そんななか、悠人だけが反抗心を見せたのだ。俺が出ないなら自分も出ないと、チームのエースが大人に刃向かおうとした。
俺が本当に怒ったのは、悠人にそんなことを言わせてしまった自分自身にと、たとえ俺のためだったとしてもそれで俺が喜ぶと思った悠人への失望の、半々である。
同時に怖くなった。このままじゃきっと、俺のせいで悠人をだめにしてしまうんじゃないかと思って。
だからこの機会に別々の高校に進学して、お互いに幼なじみ離れするのがいいかもしれないと考えたのだ。
これが今回の喧嘩の全容。俺の悠人への怒りがずっとは継続しなかったのも、これが原因だ。
悠人がもしコーチのことを言い訳に出してきたら、俺も俺の思いを全て打ち明けて、全力で離れようとしたけれど。
結局今回の喧嘩も、俺が折れることになりそうだ。
「あーもう、わかったよ。俺の負け。もう避けない」
「本当!?」
「ほんと。ただし、条件がある」
俺の肩に埋めていた顔を勢いよく上げた悠人が、満面の笑みを一瞬にして曇らせた。本当にワンコのようにわかりやすい奴である。
「おまえはバスケを続けること。おじさんとおばさん、バスケならもう文句言わないだろ?」
「言わないけど……どうせ成績が落ちたら言ってくるよ」
「だったら落とすな」
「えー」
「俺も一緒に勉強するから」
「それなら頑張る」
悠人の家は、父・母・兄と、全員が医療関係者だ。父母にいたっては医者であり、兄は医大生。そのせいで悠人も昔から医者になる道を歩むよう求められており、その過度なプレッシャーが幼い悠人の心を壊した。
悠人が俺にべったりなのは、その時期、悠人のそばにいたのが俺だったからだろう。
「……頑張れ。またおまえがああならないように、バスケは続けろ」
暗に逃げ道をなくすな、と伝える。
悠人が心を壊したとき、悠人には勉強しかなかった。それが全てだった。
百点満点中九十五点以上でないと褒めてくれないような家で、それが全てだったときの地獄を考えたことがあるか?俺はない。
だから悠人の事情を知ったとき、あまりの衝撃と怒りで悠人を誘拐したのは懐かしい思い出だ。
まあ、誘拐といっても、俺も子どもだったから誘拐の真似事――悠人を俺の家に連行してお泊まり会したいと親に駄々をこねた――みたいなことしかしていないが。
バスケを始めた悠人が徐々に新しい居場所を築いていくのを見たとき、俺は本当に安堵したのだ。
「夏生」
「なに」
「ふふ、大好き」
「知ってる。それ刷り込みな」
冷めた調子で返すのに、悠人には全く効いていないらしい。
「ね、仲直りしたから、夏生もバスケするよね?」
大型犬のように幻の尻尾を振って訊ねてくる悠人に、俺は完全に白旗を上げる。
「はいはい、しますよ」
だから俺は、悠人のお願いに弱いのだ。
第二章
「つーかさぁ、今さらだけど、よくこの高校行くの許したよな、おまえの親」
仮入部期間を終えて、無事にバスケ部への本入部を果たした俺たちは、週に三日ある部活動に励みながら新しい高校生活を満喫している。
今はちょうど部活が終わり、一年生みんなで体育館のモップがけをしているところだ。
今年はマネージャー志望の女子が多かったと聞くが、それが誰の効果かは言わなくてもわかるだろう。
よって悠人は男子の先輩たちから拝まれることになっていたが、できればそれが長く続くことを俺は祈るばかりである。
中学のときもそうだったが、男が悠人の顔立ちをありがたがるのは、女子を誘いたいときだけだ。そのあとは悠人の独擅場になるため、感謝は次第に敵意に変わる。
そのせいで悠人は人見知りが激しくなったというか、もはやあれは人間不信に近い。
「あー、ね。なんでだろうね」
曖昧な返事をしながら隣でモップを動かす悠人に、俺の勘がピンと働いた。
「おまえ、俺になんか隠してるな?」
「隠してないよ」
「だったら俺の目を見ろ」
悠人は昔から都合の悪いことや隠し事があると目を逸らす癖がある。こういうときは逆に俺が悠人を凝視すると、根負けしたように白状するのがお決まりだ。
しばらくそうしていたら、ようやく悠人が降参した。
「……兄さんに、説得を協力してもらった、から」
「兄さんって、晴くん?」
晴くんこと三澄晴也は、現在日本でもトップクラス大学の医学部に通う悠人の兄だ。
この人の優秀さは自他ともに認めるもので、とにかく頭がいい。地頭がいい人って晴くんみたいな人なんだろうなと感動するほどに。
なのに気取ってなくて、俺には気のいい兄ちゃんみたいな人。
でも悠人にとっては昔から比較対象にされる人で、悠人の心が壊れた一因でもある。
といっても、晴くん自身よりも、晴くんと悠人を比べる二人の両親のほうが悪いと俺は思っているけれど。
晴くんは才能を頭脳に全振りした人だけど、悠人は勉強だけじゃなくて運動もできる。おじさんとおばさんにとっては頭さえ良ければいいのかもしれないが、息子の個性くらい認めて褒めてやれって話なのだ。
だから俺は、おじさんとおばさんは嫌いだ。悠人のことも晴くんのことも傷つけるから。
(でも悠人、晴くんとは微妙な関係じゃなかったっけ?)
親のせいでぎくしゃくしている兄弟は、たぶん互いのことを嫌ってはないけれど、気まずい関係であるのは間違いない。
悠人はずっと比較され続けてきたわけだし、そんな弟に晴くんは罪悪感を抱いていた。
「悠人が晴くんにお願いしたのか?」
「だって、夏生と離れたくなかったから」
「おま……」
バカだろこいつ、と俺は片手で自分の顔を覆う。俺と離れたくないからって、苦手な晴くんに協力をお願いして、嫌いな親を説得したのか。
「大馬鹿じゃん……」
「夏生はそう言うと思った。だから言いたくなかったのに」
図体はでかくて女子にはモテモテのくせに、俺の前だと子どものように拗ねる。昔から変わらないその姿に、俺はどうしても絆されてしまう。
「でも代わりに、大学は兄さんと同じとこ行けって言われた」
「T大!?」
悠人の学力なら行けるかもしれないが。
「マジかよ、俺行ける気しないんだけど」
「え?」
「ん?」
……ちょっと待て。俺は今何を言った?絶対言わなくていいことを言った気がする。
「夏生、今」
「待て。違う。今のは違う。無意識に出たもので」
「無意識に出るほど俺と一緒にいたいって思ってくれてたの?」
「なっ、んなわけねぇだろ!」
羞恥心が限界を突破しそうになった俺は、悠人から逃げるように全力疾走でモップがけをする。
途中先輩に「いつまでやってんだ!」と怒られたけれど、頭が冷えるまでやらせてほしい。なんで俺、あんなことを言ったんだ?
ちょっと前まで避けていたくせに。
幼なじみ離れしたほうがいいって、そう思っていたくせに。
(くそっ……幼なじみ離れできてないの、どっちだよ)
その日はご機嫌な悠人をあしらうのが大変だった。
*
高校生活もひと月を過ぎれば、なんとなく慣れてくる。
五月は中間考査があるので、成績を落とせない悠人と通学時間を利用して勉強している。
一年生の最初の中間考査は範囲が狭く、たぶん真面目に勉強しているのは俺たちを含めても半分以下だろう。バスケ部の先輩曰く、最初の中間考査はあまりに酷くなければ内申に響くこともないらしい。
だから校内は、六月にある文化祭――春高祭に向けてもう浮き足立った空気が流れていた。
多くの高校が秋に文化祭をやるなか、俺たちの通う春泉高校はなぜか春にある。
あれか、高校の名前に『春』があるからか?と俺は勝手に邪推しているが、本当のところは知らない。
「――というわけで、私たち一年三組は劇になりました~」
「え~、ダンスは?」
「他クラスと被って負けました~、じゃんけんに」
「じゃんけんかよ!」
文化祭実行委員が教壇に立ち、俺たちのクラスの出し物が劇になったことを報告している。候補は他にもう一つ巨大迷路があったが、あれは第三候補だったので、第二候補に収まった感じだ。
まあそうだろうな、と俺は内心で乾いた笑みを浮かべた。
第二候補の劇は、それだけ聞くとよくあるもので他クラスと被りそうだが、内容はたぶんどのクラスとも被らないようなものだった。きっとじゃんけんなんて必要なく決まったことだろう。
なにせ、かぐや姫とミスコン的なものを融合させたような劇だから。
「はーい、じゃあみんな、担当決めるよ~。劇の内容は覚えてるよね? かぐや姫のアレンジ版で、かぐや姫が出す無理難題を『一番の美女になった人』に変えて、求婚した男たちが女装して、一番の美女に変身できた人を観客に選んでもらいます。で、選ばれた人が最後かぐや姫と結ばれるって内容ね」
実行委員の説明に、クラスの男子たちが「マジか」「ノリで言っただけなのに」と口々に後悔し始めている。
俺は最初から劇には反対派だったので、ここはその場のノリで言い出した奴らに責任をとってもらって、尊い犠牲になってもらおう。
「夏生」
後ろの席にいる悠人が小声で話しかけてきた。
「なに?」
「夏生はだめだよ。裏方ね」
「当たり前だ。俺だって俺の女装なんか見たくねぇよ」
「違う。そういうことじゃない。でもいいや、一緒に裏方やろ」
何がそういうことじゃないのかはわからなかったが、俺は適当に頷いた。裏方ならもはやなんでもいい。
しかし俺のような男がいることを見越していたのか、やり手の実行委員はおもむろに大きな箱を取り出すと、にっこりと笑った。
「じゃ、男子はここに一列に並んで引いてってね~。当たりが五枚ありまーす。当たった人がもれなく求婚者役でーす!」
男子の阿鼻叫喚が教室中に響く。俺は逆に絶句して声も出なかった。
しかしなんだかんだいって乗り気な男子もいるのか、そいつらがさっそく列に並び始める。女子は完全に観客気分で面白がっており、三澄くんの女装ちょー見たいとか勝手なことを言っていた。
悠人を振り返ると、こちらも心なしか顔色が悪くなっている。
「なっちゃん、三澄、俺たちも引きに行こ~」
初日に言葉を交わしてから、なんやかんや仲良くしている柊が席を立ちながら手招きした。
俺も諦めて席を立つ。行くぞ、と悠人の頭を撫でれば、悠人も渋々と腰を上げる。
悠人に注目する女子の視線が痛い。別に自分に向けられているわけではないとわかっていても、近くにいると嫌でも余波を感じるので気にしないのも難しい。
俺たちが引くまでに五人分の『当たり』が出てくれるのが一番いいのだが、今のところ二枚しか当たりは出ていないようだ。
当たりたくない男子たちは、みんな同じ考えなのか、くじを引く順番を互いに譲り合っている。
残りものに福という名の当たりがあっても嫌なので、俺はずんずんと歩を進めた。
先にくじを引いて中身を確認している柊を横目に、俺も後に続いて箱の中に手を入れる。
「うわ、え~」
困ったような声を出したのは柊だ。まさか『当たり』を引いたのかと視線を移したら、肩を落とす柊と目が合った。なんともご愁傷様である。
でもおかげで、俺の心は軽くなった。まさか連続で当たりが出るはずもない。
「ありがとう柊、おまえの犠牲は無駄にしない!」
君に決めたぁ!と勝ち確のテンションでくじを引き、横にずれる。俺の次は悠人だ。いたってローテンションでくじを引いた悠人のそばに寄り、同時に紙を開く。
「ぶふっ。なっちゃんちょっと、マジか! 連続で当たり引くとかすごくない?」
「すごくないんだよなんでだよ……っ」
俺の手の中には『当たり』と書かれた紙がある。最悪でしかない。ちらりと見た悠人の紙は何も書かれていなくて白紙だった。
なのになぜか悠人は俺の当たり紙を見ながら、俺より呆然とした表情をしている。
出来心がむくっと生まれてしまった俺は、そんな悠人の紙と自分の手元にある紙をこっそり交換しようとした。だって女子も悠人の女装のほうが見たいだろ?
「槇くーん、見えてるよ~。不正するなら本番えっぐい女装させるけどいいの?」
「よくないです、すみませんでした」
すぐさま実行委員に見つかり注意を受ける。くそっ。なんて目敏い女子なんだ。そして悠人はなんでまだ固まったままなんだ。
仕方なく悠人を席まで連れていき、残りの一人が決まるまで成り行きを見守った。最後の当たり紙が引かれた時点でこのくじ引きの闘いは終わる。
あとは他の配役を決めたり、裏方を決めたり。求婚者役から逃れられた悠人は、裏方の衣装・メイク係になっていた。
おまえメイクできんの?と驚いた俺が訊けば、悠人はやったことないと即答する。やったことがないのに立候補するなんて大丈夫かと心配したが、なぜか悠人の意思は固かった。
こうして無事に春高祭に向けた諸々が決まったため、HRも少し早めに終了した。
本格的な準備は中間考査が終わってから始まるので、俺の意識はすぐに考査へと向かう。というより、女装する羽目になった現実から目を背けたいだけなのだが。
「部活も、テスト前一週間は休みになるんだっけ」
部活のために体育館へ向かう途中、悠人に何気なしに話を振る。
悠人は「そうだね」と返したあと、続けて何かを言おうと口を開きかけたが、それより先に誰かが悠人の名前を呼んだ。
二人一緒に振り向けば、そこには同じクラスの女子がいた。
「ごめんね、急に呼び止めて。部活行くところだった?」
「そうだけど、なに?」
悠人の返事は素っ気ない。
こいつは昔からそうだ。単に人見知りが発動しているせいだが、他の奴らにはこれがクールに見えるらしく、俺は毎度解せない気持ちになる。
だってたぶん、俺が悠人と同じ反応をすれば、どうせ愛想がないとか生意気とか言うに違いないのだ。イケメンはこれだから羨ましい。
「今ちょっといいかな? 話があって」
「ここで聞く」
「えー、と。それは……」
ちら、と女子が俺の顔を窺ってくる。
彼女は確か、そう、飯沼さんだ。いかにもおしゃれが好きそうな制服の着こなし方をしていて、ネイルが校則で禁止されていても、なんか透明の液体で爪の保護をしているとかなんとか、そんな話を友だちとしているのを聞いたことがある。
セミロングの髪はゆるく巻いてあって、ゆるふわのかわいい雰囲気がぶっちゃけ俺のタイプである。
けど彼女が醸し出す空気は、まるでこれから悠人に告白するような感じだ。俺はまさか、とそんな自分の勘を内心鼻で笑った。
入学してひと月半。いくら悠人がイケメンでも、知り合って間もなすぎるだろう。
でも飯沼さんが俺に退散してほしそうな空気は伝わってきた。ので、特にそれに抗う理由もない俺は、先に体育館に行くことに決める。
「じゃあ悠人、俺先に行ってるから。またあとで」
「……うん」
ものすごく不満そうな顔をされるが、俺は見なかったふりをした。
入学してから俺も悠人も、柊以外の新しい友だちをつくれていない。悠人の新しい交友関係を広げる機会は大切にしてやりたいと思う。
(俺もなぁ、もうちょっと女子と話せたらなぁ)
高校は三年間しかないのだ。この間に誰か好きな人を見つけてみたい思惑くらいはあった。
(俺も健全な男子高校生ですし? 恋だってしてみたいっていうか?)
誰に言うでもない言い訳を心の中に並べて、部室で練習着に着替え始める。
俺たちのクラスのHRが早く終わったおかげで、部室には俺一人だけだった。なのでふと視界に入ったロッカーの扉裏にある小さな鏡と、堂々と睨めっこをする。
背は一六九センチ。男子の平均あたり。けどまだ伸びしろはあると思っているので、特に悲嘆はしていない。
髪はもともと真っ黒だったが、幼く見えるのが嫌でミルクティ色に染めている。
俺は自分のこの顔をイケメンとは思っていないけど、キモイとも思っていない。いたって平凡で地味な顔だと思っている。
悠人のきりっとした涼しげな目元のように、何か印象に残るようなパーツが一つでもあったらよかったのに。
(はたしてこの顔と俺の世話焼き体質の両方を好きになってくれる女子はいるのか)
それが問題だ。俺自身は自分を世話焼きとは認識していなかったが、小学生の頃に散々言われたのでそうなのだろう。
でもまずは好きな人だよな~と呑気に考えていたとき、同じ一年生の筧が部室に入ってきた。
「おっつー。俺一番だと思ったのに、早いな」
「おー。HRが早く終わったんだよ。筧のクラスは春高祭の出し物決まった?」
「決まったけど揉めてる」
「は? どういう状況?」
決まっているなら揉める要素はないように思うのだが。
「俺のクラス、ダンスなんだけどさぁ、最初に決めてた曲じゃなくて別のがいいって、急に言い出した奴がいて」
「おまえんとこか! ダンス!」
俺が思わず叫ぶと、筧が戸惑ったような目を向けてきた。
「あ、ごめん。実は俺のクラスもダンスが第一候補だったんだけど、じゃんけんで負けたらしくて」
「ははっ、マジ? なんか悪いな」
「でも揉めてんだろ?」
「それだよ、ったく。ぶっちゃけなんでもいいわ俺は」
俺は着替えを済ませたが、部室を出ずに筧との雑談を続けた。そういえば部活でも何かやるのかなとか、俺のクラスの出し物のこととか、他愛ないことを。
「あ、それで思い出したけど、三澄は?」
筧が突拍子もなく訊ねてくる。なぜ俺のクラスの劇の話から悠人が出てきたのかは謎だったが、俺が「あいつメイク係に立候補してさ」と話したからだろうか。
「悠人なら女子に呼ばれてどっか行った。もうすぐ来るんじゃないか?」
「うわ、じゃあやっぱあれ、三澄なんだ」
俺が首を傾げると、二人しかいないのに筧が内緒話をするように耳元で答える。
「あいつ、告られてた」
「は?」
「俺の知らない女子だったけど、あの上履きの色は同じ一年生だな。ヤバくね?」
マジか、と俺は声にならない声で返した。筧の「ヤバイ」がどういう意味のヤバイなのかはわからないが、俺も同じようにヤバイとは思った。
(入学してひと月半で本当に告られるって、ヤバイだろ。あいつそんなイケメンなの?)
いや、悠人の顔が整っていることは昔から知っていたが、まさかそこまでのレベルとは思っていなかった。幼稚園の頃からずっと一緒だったせいか、感覚が少し麻痺しているのかもしれない。
「でもさ、たったひと月半で悠人の何がわかんの? 確かにいい奴ではあるけど」
けど、たったそれだけの期間で悠人のいいところ全部がわかるはずもないだろう。
「はあ? そこはあれだ、顔が良ければなんでもいいんだよ」
「なんでもって……え? 付き合いたいんだろ? なら性格だって……」
はっはーん、と筧がニヤついた笑みで肩を組んできた。着替え途中の筧は上半身裸だ。暑苦しいから離れてほしいという俺の願いは容赦なく無視された。
「三澄はあれだな? 人は中身も大事だって言う真面目なタイプだな?」
「それ真面目の部類に入るのか?」
俺としては常識の部類に入るのだが。
「甘いな。人ってのはもっと単純にできてんだよ」
「単純? たとえば?」
「たとえば……俺は胸のでかい子が好きだ!」
ガッといきなり筧に胸を掴まれる。しかも両手で。薄々感じてはいたが、こいつはたぶんアホだ。
悪ノリして「ちっさ」と笑ってくる筧の頭を全力で叩こうとしたとき。
「――何してんの?」
噂の悠人が部室の出入り口に佇んでいた。
美人の真顔は怖いと言うが、イケメンの真顔も同じくらい怖いと思う。恐怖を感じたのは俺だけではなかったらしく、筧の悪ノリしていた手もぴたりと止まっていた。
答えない俺たちに焦れたのか、悠人は大股で近寄ってくると、筧と俺の間に割って入ってくる。
「筧」
「お、おう」
「今度夏生に触れたら、さっきおまえが叫んでたこと全女子に言いふらすから」
「ぎゃーっごめんなさい! 二度と触りませんから許してください!」
筧が土下座しそうな勢いで謝る。悠人はそんな筧を虫けらでも見るような冷たい目で見下ろしていたが、俺の頭の中では疑問符が飛び交っていた。
(なんか知らねぇけど、めっちゃキレてねこいつ? なんで?)
悠人がキレるなんて珍しい。
基本的に悠人はあまり感情を表に出さないタイプだ。慣れた人に対しては笑うし拗ねるし甘えてくるけれど、筧とは出会ってまだ少しのはずなのに。
「いいから早く服着て。見苦しい」
「見苦しい!? イケメン辛辣すぎだろっ」
「夏生、俺も着替えるから待ってて。筧は早く出てって」
「でっ……槇! どうなってんのこのイケメン!? おまえの言うようにやっぱ性格大事だわ!」
はは、だろー。と適当に相槌を打っておく。
なおも筧に噛みつこうとする悠人の腕を引っ張って、落ち着かせるように頭を抱いてリズム良く撫でた。昔から悠人はこうすると安心するのか、怒っていても泣いていても、機嫌が悪くなっても、だいたいこれで機嫌を直す。なんともお手軽な奴である。
筧がシャツを着て部室を出て行くと、俺も悠人の頭を撫でる手をぱっと放した。
「ったく、おまえ無駄に喧嘩売るなよな。これから同じチームメイトになるんだぞ?」
「だから触らせたの?」
「は? 何が?」
「胸」
「あんなのただの悪ふざけだろ。てか俺が怒ろうとしたときにおまえが来て、タイミング失っただけだっつの」
ふーん、と悠人が納得のいってなさそうな返事をしながら着替え始める。
俺は手持ち無沙汰で、会話もそこで途切れてしまった。
なんとなくこの無言の時間が耐えられなくて、俺は必死に脳内で話題を探す。そしてふと、さっき筧と話していたことを思い出した。
「そういえば、さ。飯沼さんの話、なんだったんだ?」
着替えを終えて、最後にバッシュの紐を結んでいた悠人の手がぴくりと反応したのを、俺は見逃さなかった。
「なんでそんなこと訊くの?」
「なんでって、筧がさ、告白されてたって言うから。気になって」
「なんで気になったの?」
質問しているのは俺のはずなのに、なぜか悠人も質問で返してくる。なんでなんでと、やけに真剣な声のトーンが俺の喉をつかえさせた。
なんでなんてそんなの、特に深く考えて出た質問じゃない。
でも人間というのは、訊ねられたら反射的に答えを探そうとする生き物なのか、俺は頭の中で悠人の質問の答えを無意識に考えてしまっていた。
(なんで俺、気になったんだ? 悠人が告られんのなんて、それこそ中学でもあったのに)
そこで俺は、いや、と自分自身に反論する。
気になったのは別にこれが初めてではない。悠人が誰かに呼び出されるたび、気にしてはいた。一度だけ他の友だちと一緒に後をつけていったこともある。
あのときは、他の奴らは単なる好奇心で告白現場を見に行ったから、実際に悠人が告白されている場面を見て大いに盛り上がっていた。
そんななか一人だけ盛り上がれなかったのは、俺だ。
なぜか心臓が痛いくらい脈動して、一緒になって盛り上がる気分にはなれなかった。
どうしてそんな気持ちになったのかじっくり考察した結果、たぶん俺は、寂しかったのだろうと結論づけた。
だって悠人に彼女ができたら、もう俺とは一緒に帰れないし遊びにも行けなくなる。今までは大型犬のごとく俺に振っていた尻尾も、彼女優先になってしまえばそれもなくなるのだろうと想像した。
俺はきっと、そんな悠人を見られなくなるのが、寂しかったのだ。
でもさすがにもう、そんなわがままは言えない。というより、これまでだって一度も口にしたことはないけれど、思うことも許されないような気がして、俺は誤魔化すように笑った。
「そりゃ、あれだよ。悠人に彼女ができたら、お昼は柊と二人だなとか、まあ色々考えるだろ?」
「……そう」
心なしか悠人の返事が冷たい。
靴紐を結び終えて立ち上がった悠人が、ぐいっと俺の腕を引っ張ってきた。そのままロッカーに背中を押しつけられて、痛みに気を取られている隙に耳元で囁かれる。
「夏生の言うように、告白だったよ。――好きです、ってね」
耳にかかった悠人の吐息にびっくりして、俺は悠人を押しのけるようにして自分の手で耳を押さえた。
心臓がどくどくと脈打っている。あのときと同じだ。初めて悠人の告白現場を目撃した、あのときと。
悠人は俺の反応を見届けてから部室を出て行こうとして、ちょうどすれ違うように他の部員がやってくる。なに固まってんだ?と二年の先輩に声をかけられるものの、俺は曖昧な応答しか返せなかった。
耳に残る感触が、あまりにも生々しくて。
*
悠人がクラスメイトの女子から告白を受けて、数日。
中間考査まで一週間に迫ったため、どの部活も一斉に休部となり、俺は悠人と一緒にテスト勉強に励んでいた。
それはもう、数日前の出来事なんてなかったように。
なかったように振る舞っているのは俺のほうである。
だってずっと、悠人の吐息の感触が耳に残っている。こんなのはおかしいだろう。中学のときに悪ふざけで別の友だちにも同じことをされた記憶はあるが、そのときはこんなに引きずりはしなかった。
この意味を考えるのはなんとなく恐ろしくて、今は何か他のものに集中していたい。と思った矢先にテストが迫ってきたものだから、俺はすぐさまそれに飛びついた。
テスト勉強はいつも俺の家でやっている。
隣同士だから、どちらの家でやってもいいけれど、悠人の家はおじさんもおばさんも帰りが遅い。だから俺の家で勉強して、一緒に夕飯を食べるまでがいつのまにかテスト前の恒例となっていた。
まあ、その恒例も約半年ぶりなので、俺の母親は久しぶりに悠人が家に来たことを大層喜んでいたが。
「ね、夏生。この問題わかる?」
「どれ? うわ、英語じゃん。俺が英語苦手なの知ってるだろ? パス」
「パスしないで」
「え~」
テストの範囲はさっそく高校で習ったところが出てくるが、英語に関しては一部中学の応用問題が出されるらしい。
俺は文系科目が得意で、悠人は理系科目が得意だ。
都合良くお互いの得意科目が分かれた俺たちだが、残念なことに二人とも英語は苦手である。
悠人の家は医者家系なので、それで大丈夫かと発破をかけた中学のおせっかいな教師に悠人はこう言い返していた――「医者になるつもりはありませんから」。
それが親への反骨心だったのか、俺にはわからない。
「あ、この文法使えばいいんじゃね?」
「見せて」
悠人が俺の手元の教科書を覗こうと距離を詰めてくる。
俺の部屋にはベッドとローテーブル、あと本棚が置いてあるが、それくらいしか置けるスペースがないほどに狭い。
だから椅子なんて高尚なものは当然なく、二人ともラグの上に座っている。
何が言いたいかというと、椅子という仕切りがないせいで、悠人の肩が俺の肩に触れるくらい近くに寄ることができてしまうということだ。
今まではこの距離を意識なんてしなかったけど、なんでだろう、約半年ぶりの距離感だからか、俺の身体は変に強張った。
悠人からいい匂いがするのもよろしくない。こんな香り、中学のときは絶対にしていなかった。
爽やかな匂いだ。それでいて、奥にほんのりとエキゾチックな香りが隠されている。
「悠人おまえ、もしかして香水つけてる?」
「くさい?」
「いや、いい匂いだけど」
こいつ、つけてることは否定しなかった。いつからそんなおしゃれさんになったんだ。
「いい匂い? 夏生は好き?」
「……まあ、そうだな」
「ふうん」
なぜか悠人が口角を上げて俺を見下ろしてくる。途端に恥ずかしくなってきた。匂いが好きとか俺、変態くさくないか?もう二度と言わないでおこう。
「おまえが買ったの?」
羞恥心を逃がすために話を逸らす。
「うん、お年玉が貯まってたからね。春休みに買っておいたんだ」
「春休み? でも今初めて嗅ぐな?」
「初めてつけたから」
俺は再び首を傾げる。
「今日学校では?」
「つけてなかったよ」
「え? じゃあいつつけたんだよ」
「さっき。一度家に帰ったとき。チャンスかなって」
実は俺の家で勉強を始める前、悠人は一度自宅に寄っている。制服を私服に着替えて、必要な勉強道具だけを持って俺の家に来ているのだ。
つまり悠人は、私服に着替えたときに香水をつけたと言っているわけだ。
「え、なんで? もしかしてこのあと用事あった?」
「ないよ? 夏生と一緒にいる用事以外は」
「え?」
あれ?これは俺の感覚がおかしいのか?
単なる幼なじみと勉強するために、わざわざ香水なんてつけるものだろうか。俺は一人っ子だから、特に悠人がおしゃれを意識するような相手――姉や妹――なんてこの家にはいないのに。
「本当はもう少し早く試したかったんだけど、なんやかんや、チャンスに恵まれなくてさ」
「試す? って何を?」
「いいから。ほら、覚えて夏生」
「うわっ!?」
いきなり悠人の腕の中に閉じ込められて、俺の視界は真っ暗になる。
そのせいなのか、嗅覚が鋭敏になった。鼻腔いっぱいに悠人のつけている香水の匂いが充満して、鼓動が全身を叩き始める。
「悠人っ、なにすんだ」
「いいからいいから」
何が「いい」のかわからなくて、俺の混乱は極まっていた。
(つーかなんで俺、こんなドキドキしてんだよっ)
嗅ぎ慣れない香りを吸い込んだ影響だろうか。まるで悠人が知らない男のように感じられて、心が落ち着かない。
「ねえ夏生、知ってる?」
「……何を」
「人が最後まで覚えているのは、視覚でも味覚でもなくて、嗅覚――匂いなんだって」
「匂い?」
「うん。嗅覚はね、記憶との連動が最も強いらしいよ」
だからなんだよ?という俺の無言の問いを察したのか、悠人が続ける。
「離れてた間、俺思ったんだ。このまま夏生が、俺を忘れたらどうしようって」
「……いや、忘れねぇだろ。半年じゃ」
「俺は半年のつもりだったけど、夏生は俺が追いかけなきゃ一生離れるつもりだったんでしょ?」
図星をつかれて口を閉じた。確かにあのときの俺は、お互いに幼なじみ離れするいい機会だと思っていた。
「だからさ、考えたんだよね。もしこの先同じようなことが起きても、俺を忘れないでいてもらうためにはどうしたらいいんだろうって」
なんか話がおかしな方向にいっているような気がして、俺は悠人の背中を軽く叩く。言外に放せと言ったつもりだが、悠人は放す気がないようで逆に抱きしめられる強さが増した。
「まあ、俺は離れる気なんて全然ないけど、保険は大事でしょ? 離れてても俺のことを思い出して、思い出したら、やっぱり会いたくなってくれるかもしれないし?」
「わかった、わかったから、いったん放せ」
「まだだーめ。しっかり覚えて。俺、これからずっとこの香水つけるから。これね、人気のやつなんだって。だから色んなところで売ってるし、街中でこの香りを嗅ぐ機会もあるかもしれない。そのときにちゃんと俺を思い出せるように、これが俺の香りって、しっかり覚えてよ……夏生」
耳元で囁かれて、俺は死ぬかと思った。心臓がこれまでにないくらいぎゅうぅっと締めつけられる。
絶対おかしい。何がおかしいって、俺の心臓、絶対壊れた。なんで幼なじみに抱きしめられているだけでこんなにバクバクしているんだ。
「どう、覚えた?」
「お、覚えたっ。覚えたから放せ!」
「えー、本当に?」
「本当だっ」
「今度問題出してもいい?」
「却下だバカ!」
耐えきれなくなって悠人の腰を何度も叩いたら、さすがに痛かったようで、ようやく解放される。
俺はすぐさま悠人とは反対側に顔を向けた。今自分がどんな表情をしているかはわからないけれど、赤くなっているのは間違いない。
「――あ」
そこで悠人が間抜けな声を出すものだから、思わず振り返る。
「数Ⅰ持ってくるの忘れた」
「……じゃあ他のやるか?」
「いや、待って。取りに戻るよ」
「わざわざ?」
いくら家が隣といえども、もう一度帰るのは面倒だろう。今日は別の科目をやって、数学は明日やればいい。そう思って言ったのに、悠人は立ち上がった。
「夏生、数学でわからないところ教えてほしいんでしょ?」
「それはまあ……え、もしかして俺のため?」
驚いて訊ねると、むしろそれ以外にある?みたいな顔をされる。
「だったら余計にいいって。急いでないから」
「そうなの? 俺の代わりに保坂に訊いたりしない?」
「なんでここで柊?」
心底意味がわからなくてそう返すと、悠人がむくれたように唇を尖らせた。
「だって、学校だといつも保坂に訊くじゃん」
「そうだっけ?」
特に意識はしていなかったが、振り返ってみると確かに柊に訊いている自分がいた。
それに特別な意味はない。単に柊がよく後ろを振り返ってきては話しかけてくるから、そのついでに訊いているだけだ。
「ねえ、夏生は保坂のこと、どう思ってる?」
「別に、友だちだと思ってるけど」
「じゃあ俺と保坂、どっちが大事?」
「は?」
まさかそんな質問を投げられると思っていなかった俺は、一瞬きょとんとしたが、次の瞬間には吹き出していた。
「おまえは俺の彼女かよ」
「彼氏だよ」
「アホか。どっちも違うだろ」
悠人にしては珍しく冗談を言うなと思ったのに、俺の視線の先にある悠人の目は、俺の想像とは全然違った。
まるで何かを懇願するような、切実な瞳。あるいは縋るような、切ない瞳。
縫いとめられたようにその瞳から視線を逸らせなくなって、俺はごくりと唾を飲み込む。
今日の悠人は、何かがおかしい。
いや、きっとたぶん、本当はあの日からおかしかった。あの日――悠人がクラスメイトに告白された、あの日から。
飯沼さんの告白が、悠人の中の何かを刺激したのだろうか。
それとも筧にちょっかいをかけられる俺を見て、幼なじみをとられると思ったがゆえの奇行なのだろうか。
わからない。わかるのは、この距離感がおかしいということだけ。
俺はずっと、俺たちの距離感がおかしい自覚なんてなかった。以前の俺は悠人が抱きついてこようが、俺にべったりだろうが、特にそれをおかしいとは思っていなかった。
けど、俺が避けた半年の間に、俺は俺たちの距離が異様だったのだと認識させられてしまった。
気づいたきっかけは、友だちの何気ないひと言だ。
『最近一緒にいるとこ見てないけど、まあ、これが普通なんだよな。なんかおまえら見てるとこっちもバグるからさー』
普通、と俺は口の中で繰り返した。つまり今までの俺たちは普通じゃなかったということか。じゃあ普通とはなんなのか。
友だち同士の距離感ならわかる。俺にはそれなりに友だちがいたから。
でも幼なじみは悠人しかいない。だったら幼なじみとの〝普通の距離感〟って、いったいどの程度のものなんだ。
俺が悠人をますます避けるようになった、一因の出来事である。
だからきっと、今まではなんとも思っていなかったこの距離感も、おそらく普通ではないのだろう。
避けていた間に、俺は幼なじみの距離感というものを勉強した。俺たち以外に幼なじみを持つ奴らを、暇さえ見つけては観察した。
漫画だって読んだ。幼なじみものの。でもあれはだめだ。結局恋に発展しているから、距離感の参考にはならない。
――だから、これはおかしいだろう。
だってその漫画の山場と同じ状況になっている。
見つめ合っていた瞳が徐々に近づき、悠人の顔にピントが合わなくなった頃。
唇に、柔らかい感触が押しつけられた。
それからまた悠人の顔にピントが合ったとき、俺はその柔らかい感触の正体が悠人の唇だったのだとようやく理解する。
「彼氏に、してみる?」
悠人が上目遣いで窺ってくる。
それを見て、反射的に俺は。
「ふざけんな、おまえは犬で十分だ」
ぺしんと、悠人の頭を漫才のツッコミ役のように叩いたのだった。
第三章
(俺の馬鹿ぁーー!!)
悠人にキスされた直後、事態をすぐに飲み込めなかった俺は、ついふざけてしまった。
いやでもあれは俺だけが悪いとは思わない。いきなり人のファーストキスを奪った悠人も悪い。
(そうだよあいつ、俺の、ファっ、ファーストキス……!)
今さら腹が立ってきた。結局あのあとは母さんに夕飯に呼ばれたせいで有耶無耶になってしまったが、悠人はどういうつもりでキスなんかしてきたのだろう。もしこれが悪ふざけだったら、俺は百パー悪くない。そしてあいつが千パー悪い。
昨日の今日で顔を合わせづらいなと思った俺は、いつもより早めに家を出る。
いつもだって特に約束なんてしていないけれど、だいたい玄関を開けたら悠人が外で待っている。やめろと言っても聞かない悠人だから、これまでの俺は、仕方なく決まった時間に出るようにしていた。
が、今日は高校に進学して初めて、その暗黙の待ち合わせ時間を破ってみた。
破ってみたのだが……。
「おはよう、夏生。今日は寝癖がかわいいね」
「寝癖にかわいいもクソもあるかよ」
なぜかいつもと同じように玄関先で悠人が待っていた。
「おまえ、なんでいんの?」
「何年幼なじみやってると思ってるの。夏生の行動パターンなんてお見通しだよ」
「嘘だろ……」
朝からがっくりと肩を落とす。これじゃあ早起きした意味がない。寝癖だって直すのを惜しんだ意味がない。
家に舞い戻ったところで悠人はずっと待ち続けるのだろう。俺はため息をつくと、さっさと歩き出した。
悠人が追いかけるように俺の隣に並んできたので、びしっと言ってやる。
「いいか、返答次第では俺はまたおまえを避ける! 心して答えろよ!」
「うん、なに? キスしたこと?」
「キ……っ」
こいつ、平然とぶり返しやがった。おそらく顔が真っ赤になっているであろう俺とは対照的に、悠人はムカつくくらい涼しい顔だ。
(これだからイケメンは!)
どうせ悠人はそういうのに慣れているのだろう。俺が避けるまでは常に一緒にいたから悠人に彼女がいなかったことは知っているが、避けていた半年間については知らない。
ただ、その間も悠人が女子から告白を受けていたことは知っているので、そのうちの誰かと付き合っていた過去があっても不思議ではない。
と、そこで俺は思い出した。
「おまえ、飯沼さんは?」
「飯沼? 誰?」
「おまえに告白した同クラの女子だよ!」
マジかこいつ。自分に告白してきた女子の名前も覚えてないとかヤバくない?
「ああ、あの空気読めない人」
「空気? なんかあったのか?」
「だって、あの人に呼ばれたせいで夏生が他の男に触られたんだよ?」
「おいやめろ。変な言い方すんな。そしてあれは単なる悪ふざけだって言ったろ」
悠人の機嫌が途端に悪くなる。俺も朝からげんなりしたくないんだけど。
俺たちの家から最寄り駅までは十五分くらいで着く。いつもの駅前は通勤や通学でそれなりの人通りがあるが、今日は早めの時間に家を出たからか、まだスーツを着た通勤の人がちらほらと見えるだけで、人の気配は少なかった。
これなら話を続けても大丈夫だろうと判断し、俺は話題を元に戻す。
「飯沼さんに告られて、OKしたんじゃねぇの? なのに昨日の、アレとか、たとえ相手が同性でもやっちゃだめじゃね?」
俺はたぶんとても常識的なことを説いているはずなのに、なぜか悠人の機嫌はますます悪くなっていく。
悠人は怒ると無言になり、目で訴えてくるから厄介なのだ。なまじ顔が綺麗なぶん迫力が増して、奴の美貌を見慣れている俺でも怖いと思う。
「あー、だってほら、あれだろ。ああいうのは、好きな人とするもので……」
悠人が怖くて目を逸らしてしまったのは、俺の過去最大の過ちだったかもしれない。
ふっと顔に影がかかって、気づけば俺の唇はまた悠人によって奪われていた。
軽く触れるだけのキス。触れるだけなのに、悠人がやけにゆっくりと離れていくせいで、下唇だけ繋がったまま少しの間呆然と見つめ合ってしまう。
足は自然と止まっていた。
まだ改札に入ってはいない。
ようやく悠人の顔が全部視界に収まったとき、俺の脳が急速に情報処理を始めて、自分が何をすべきか答えを捻り出す。
悠人の腹に思いきり拳を入れた。
「て、めぇ……人の話聞けよ! バカなのか!? てかここどこだと思ってんだよ!」
「……っけほ。夏生、本気で殴るのは酷い」
「これが本気で殴らずにいられるか!?」
やっぱりバカだこいつ。頭はいいくせに、なんでこういうときはバカなんだ。
いくら俺が悠人に弱いと言っても、許せないことだってある。俺は悠人を待たずに先を進んだ。改札に定期券をかざして一人ホームへと向かう。
「待って、夏生。ねえ、これ見て」
「ふざけんな。今おまえの顔見たくない」
「俺の顔じゃなくて、これを見て」
走って追いついてきた悠人は、俺の眼前にスマホを突き出してきた。なぜかスマホは内カメラに設定されていて、画面の中には頬と耳を赤く染めた俺がいる。
自分でもなんとなくわかっていた事実を突きつけられて、スマホの画面を手で覆い隠した。
「なんなんだよ、おまえ。何がしたいわけ?」
「俺、告白断ってるよ。夏生の話もちゃんと聞いてる。聞いた上でキスした」
「はあ?」
「夏生は俺にキスされて、嫌悪感とかないんだね」
「嫌悪感……?」
俺の思考が停止する。
悠人の言うとおりだ。嫌悪感ってあれだろ。気持ち悪いと思うことだろ。相手が悠人だからなのか、今の俺の感情は嫌悪感とは無縁だ。
どちらかというと心拍数が上がっていて、ムカついてるのと同じくらい恥ずかしいような気持ちがある。
「夏生はなんで、俺にキスされて耳まで赤くしてるの?」
「っ……そりゃ、誰だって、されたらそうなんじゃねぇの」
「保坂でも?」
出た。また柊だ。悠人はなんで柊と比べたがるんだ。
でもバカ正直な俺は、訊かれたら考えてしまう。考えて想像して、うえっとなった。柊には悪いけど。
「前言撤回。ないわ」
「ほんと?」
悠人の顔が謎にきらきらと輝き出す。
「保坂とはキスできない?」
「無理。想像させんな」
「は……想像したの?」
輝いていた悠人の顔が、今度は急に真顔に戻った。一瞬で機嫌が変わりすぎだろ。情緒不安定かこいつ。
「保坂と想像すんのやめて。ムカつくから」
「おまえが訊いてきたんだろ!?」
頼むから早く電車来いよ、と俺は切実に祈る。この時間の電車内は人が少ないだろうから、しんと静かなはずだ。さすがの悠人も静寂の中でこんな話題は持ち出さないだろう。
俺の必死な祈りが届いたのか、目当ての電車がホームに入ってくる。
よしこれでこの話題は終わりだと言わんばかりに、俺は先頭を切って乗り込んだ。
空いている座席に腰を下ろすと、悠人も隣に座ってくる。
俺の狙いどおり、電車内はこれ以上ないくらい静かだった。ガタンゴトン、ガタンゴトン。電車が走る音だけはするけれど、それは車内の静寂を侵すものではない。
だというのに。
「ね、夏生。なんで俺とはキスできたの?」
このバカは、耳元とはいえ、そんなきわどいことを平気で訊ねてきた。
怒った俺は俊敏な動きで立ち上がると、悠人とは離れた席に座り直す。
しかしこれが無駄な抵抗であることは、やる前から頭では理解していた。案の定、悠人も俺の隣に座り直してくる。
「夏生にお願いがあるんだけど」
何事もなかったように口を開いた悠人を、俺は軽く睨みつけた。全然効いてなさそうなのが腹立たしい。
「なんで俺とのキスは嫌じゃなかったのか、俺がキスした意味も、考えてほしいんだ」
「はあ? 別に嫌じゃないとは言ってな――」
「でも顔、赤かった」
「あれは……っ」
「普通は好きでもない奴にキスされたら、赤くなんてならないよ」
また『普通』。何が普通かなんて俺にはわからない。わかるほど俺はキスの経験なんてないのだから。
そもそもの話、だったら人にキスしておいて涼しい顔をしているおまえはどうなんだ、と言ってやりたい。好きな人とキスをすれば顔が赤くなるのが『普通』なら、おまえは俺を好きでもないのにキスしたことになる。
(ふざけんな……っ)
やっぱりこれは絶交案件ではないだろうか。俺はちゃんと宣言した。答え次第によってはまた悠人を避けるからなと最初に告げている。
それを踏まえた上での回答が今までの会話なら、俺は今度こそ悠人から離れるべきなんじゃないのか。
(…………)
でも、その間に悠人がまた誰かと付き合うのかと考えてしまって、絶交を言い渡すつもりだった喉が固まってしまった。
悠人のあの柔らかい唇の感触を俺以外の奴も知っているのかと思うと、胸の底からモヤモヤとしたものが広がってくる。
俺が避けるまで、ずっと一緒だった幼なじみ。
楽しいときも辛いときも、悲しいときも嬉しいときも。
二人で分かち合ってきた。互いのことは互いが一番よく知っていた。
悠人の苦しみを解ってやれるのは、俺だけだったはずだ。
夏生、夏生、と昔はいつも俺の後ろを健気についてきたのに。
(ああ、なんでムカついてんのか、ちょっとわかったかも)
これはいつもの逆だ。俺の名前を必死に呼んで後をついてきた悠人が、キスや告白といった恋愛事は俺より先を行っている。
俺はきっと、それが嫌なのだ。
自分の傲慢さに気づいて、自嘲するように鼻で笑う。
(俺の知らない悠人がいるのは、俺の自業自得だろうが)
自分のプライドを守るために悠人を避けた、自分自身のせい。
あのときは悠人が悪いわけじゃないとわかっていても、悠人の口から出来レースを認める発言をされて、それが悔しかった。
悠人が試合に出ないと言って、もしそれで本当に俺がレギュラーに復帰してしまったら、俺もあのクソ親子と同じ卑怯な奴に成り下がる。悠人がそこまで考えてあの発言をしたわけじゃないとわかっていても、あのときの俺にはそれがどうしても許せなかった。
だから悠人を避けたのは、俺自身の勝手な都合だ。
今さらその間に悠人の身にあったことで腹を立てるのは、お門違いにも程があるだろう。
「……わかった」
「考えてくれるの?」
「ああ。考えればいいんだろ、考えれば」
「うん、ありがとう夏生!」
悠人が俺に何を望んでいるのか、今の俺には見当もつかない。
たった半年。されど半年。
一緒にいた期間より離れていた期間のほうが圧倒的に短いはずなのに、人の成長とはこうも早いものなのだろうか。
今は悠人とこれ以上何も話したくなくて、俺は瞼を閉じる。
寝たふりをする俺の頬にキスをしてくるのは昔からだけど、少し目を離した隙に、幼なじみは俺の理解が及ばない男になってしまったらしい。
それからというもの、悠人のべったり度が増した。
それはもう、俺が奴を避け始めた以前よりも、ずっと。
今日から一週間は中間考査のため、午前中はテスト三昧だが、午後には帰宅できる。俺は朝のギリギリまで暗記系を頭に詰め込むべく、英語の単語帳とひたすら睨めっこをしていた。
クラスメイトの大半が俺と同じように最後の追い込みをしているなか、俺の前の席の柊は単語帳でも教科書でもノートでもなく、呆れた眼差しで俺を――いや、俺たちを見ている。
「なっちゃんさぁ。好き勝手されてるけど、いいの?」
柊が指差したのは、俺を自分の膝に乗せて抱きついている悠人だ。記憶力のいい悠人は俺やクラスメイトと違って余裕綽々としており、柊と同様、特に教科書もノートも開いていない。
開かずに何をやっているかというと、ただただ俺を膝に乗せてにこにこしているだけである。
柊の言う「好き勝手」というのは、悠人がたまに俺の匂いを嗅ぐように背中に顔を押しつけてきたり、逆に悠人の匂いを覚えさせるように香水をつけたであろう自身の手首を俺の鼻に押し当ててきたりすることだろう。
邪魔と言えば邪魔だが、視界さえ塞がれなければどうでもいい。
「今の俺はそれどころじゃないんだ。一分一秒も惜しい」
「てか三澄のこの奇行はなんなの」
「俺が知るか」
悠人は宣言したとおりに毎日あの香水を身につけるようになり、俺にその香りを覚えさせるために一日一回はハグをしてくる。
最初は俺も抵抗したが、無意味だと理解してからは大人しくハグされることにした。そのほうがすぐに放してもらえるからだ。
こんなことで本当に悠人の思惑どおりになるのかは半信半疑だけれど、もう好きにしてくれというのが本音である。ぶっちゃけこれ以上悠人に振り回されたくない。
ちなみに、キスのことを考えてほしいと言ってきた悠人に、俺はいくらか猶予をもらうことに成功している。
なにせ学生の本分は勉強だからな。俺はキスよりも中間考査のほうに自分の脳を使いたい。
悠人は不満そうだったが、俺が留年したらどうしてくれる、と脅せば一発で許可が出た。いや、あいつの許可制なのもおかしな話だとは思うけれど。
そういうわけで、キスの件はいったん保留にして、俺はテストに全力を注いでいた。
「ねー、なっちゃん。今日のテスト終わったらさ、お昼から一緒に勉強しない?」
「しない」
柊の誘いを秒で断ったのは、俺じゃない。悠人だ。
「俺はなっちゃんに訊いたんだけど~?」
「夏生は俺と勉強するから無理」
「え~、俺も交ぜてよ~」
「嫌」
悠人の塩対応っぷりは相変わらずだ。入学してそろそろ二カ月が経つが、悠人はまだ俺以外には辛辣な対応をとる。
これは単純に悠人の人見知りが発揮されているのだが、ここで怖じ気づく奴は悠人とは仲良くなれない。
だから怖じ気づくことなく遠慮のない物言いで切り込む柊とは、たぶんそのうち仲良くなれるだろうと予想している。
「俺はいいぞ、柊。柊って物理得意なんだろ? 俺、どうしても一個わかんないとこあってさ。教えて」
「いいよ~」
「夏生。やだ。二人がいい」
「じゃあ俺に物理教えられんの、おまえ?」
俺がそう返すと、悠人は無言で俺を抱きしめる力を強めてきた。それ以上やられると胃の中の朝ご飯が逆流しそうだからやめてほしい。
「なになに~? 三澄、物理だめなの?」
「そ。こいつ自身はできるんだけど、物理に関しては俺の頭が悪すぎてこいつの説明じゃ全然わかんねぇんだよな」
「なるほどね。おっけ。俺頑張るから、代わりに古典教えて」
「任せろ」
悠人が俺の背中に額をぐりぐりと押しつけてくる。悠人なりの抗議なのだろうが、俺は聞くつもりはない。俺だって新しい友だちはほしいのだから。
「ねーねー。保坂たち、放課後勉強するってほんと?」
横から聞こえてきた声に、俺は単語帳から視線を上げてそちらを振り向く。女子が二人いた。一人は飯沼さんだ。そのことに俺はぎょっとする。
俺たちに声をかけてきたのは飯沼さんとは別の女子だが、飯沼さんは悠人に告白して振られたはずだ。
振られてもなお悠人のことが好きだと顔に書いてあるのは、素直に感心する。声をかけてきた女子――確か川西さん――の背に隠れるようにして佇んでいるけれど、飯沼さんの視線は悠人に釘付けである。まだ諦めていないのだろう。
「するよ~。するけどだめ」
「まだ何も言ってないんですけど」
柊と川西さんの会話が耳に入ってきて、俺は飯沼さんから二人に意識を戻した。
「どうせ一緒に~とか言うんでしょ?」
「わかってんじゃーん。じゃあいいでしょ?」
「だからだめだって。俺だって三澄に拒否られてなっちゃんのお情けでOKもらったのに、これ以上増えたら俺もだめになっちゃうじゃん」
ねー、と柊が同意を促してくる。俺としては別にどっちでもいいけれど、お腹に回る悠人の腕は力を増した。
というかこれ、力が増したとかのレベルじゃない。悠人の奴、俺のこと圧死させる気か?と疑いたくなるほど締めつけてくる。尋常じゃない拒絶の意思だ。
(まあ、確かに俺も――)
スッ、と飯沼さんを盗み見る。あからさまに恋してますという表情は、なんとなく俺の心をざわつかせた。
(あんまり大人数だと、勉強できなそうだしな)
俺が断ろうと口を開くより先に。
「ねーいいでしょ、槇くん。もっとクラスメイトとの交流図ろうよ?」
どうやら最終決定権は俺にあると勘違いした川西さんが、俺の腕をとって揺さぶってきた。
その瞬間、悠人が川西さんの手を叩き落とす勢いで振り払う。
「夏生に触らないで。嫌だって言ってるの、わかんないの?」
しーんと地獄のような沈黙が落ちた。これにはさすがの柊も驚いたのか、目を瞠っている。川西さんも振り払われたポーズのまま固まっていた。
誰も気づかないが、悠人はクールなわけじゃなく、本当に人見知りなのだ。
育った環境のせいで人を簡単には信用できない。そんな悠人と仲良くなるためには、確かに多少の強引さは必要だろう。
けれど、加減を見誤ると、こういう事故が起きるのである。
「あー、悪いけど、俺があんまり大人数で勉強するの好きじゃないんだ。悠人もそれ知ってて……。だからごめんけど、また別のとき誘って」
「わ、わかった! こっちもなんかごめんね。ちょっと強引だったよねーあははっ。じゃあまた別の機会に!」
川西さんが早口で捲し立てると、飯沼さんを連れて自席へと去っていく。俺はほっと胸を撫で下ろした。
「なっちゃん、やっさし~」
「……今のどこが? つか柊もごめんな? 変な空気にして」
「いんや? 俺は別にいいよ。俺も大人数での勉強は苦手だし、それに」
柊が俺を抱きしめている悠人を一瞥すると。
「あの子たち、あきらかに勉強が目的じゃなさそうだったし? ね、三澄」
悠人がふいっと視線を逸らす。彼女たちの目的がなんなのか、悠人も気づいていたようだ。だからあんなに拒絶したのだろうか。
「なっちゃんて、いつもそんな感じなの?」
「そんな? どんな?」
「自分を悪者にしても三澄を庇うの」
「は? 俺そんなことした?」
「うわ無自覚? なるほどなー。だから三澄も懐いたのかな」
俺は柊の言っている意味がわからなかったけど、悠人は読み取れたらしく、剣のある声で否定した。
「違う。夏生は誰にでもこう。だから俺がそばにいる」
「ふうん?」
俺を挟んで、二人にだけわかる会話をされる気まずさといったらない。おかげでせっかく頭の中に叩き込んでいた英単語を全部忘れてしまった。
俺は内心で悪態をつくと、数ページ前に戻って一から覚え直す。
しかし無情にも、一限目のテストが始まるチャイムが鳴った。
考査期間中は昼食の時間もとられないので、俺たちは昼食もとれるファミレスにやってきた。
高校に進学して初めて寄り道というものを体験している。
しかも、悠人以外の友だちも一緒に。
中学のときは、俺が悠人を避ける前は悠人と二人きりだったし、真面目だったので真っ直ぐ家に帰って俺の家で遊んでいたため、寄り道なんてしたこともなかった。
悠人を避けるようになってからも、俺は一人で帰っていた。単に家が同じ方向の友だちがいなかったというオチではあるが、悠人が女子と一緒に帰っているところを見たことはあった。
「俺ハンバーグセット。なっちゃんは?」
「ピザ食べたい」
「三澄は?」
「たらこパスタ」
「おっけ。みんなドリンクバーありでいいよね?」
サンキュ、とタッチパネルに注文を打ち込んでいく柊に礼を言う。
最近のファミレスはもうどこもタッチパネルで注文するのが当たり前になりつつある。店内には配膳を請け負うロボットもいて、つい数年前では考えられなかった光景に人間の技術すげぇと何度も興奮する。
席は向かい側に柊が座っていて、俺と悠人が隣同士だ。俺のほうが通路側にいたので、さっそくドリンクバーに行こうと席を立った。
「じゃあ俺ドリンクバー行ってくるけど、悠人はいつもの?」
「いつものだけど俺も行く」
「ん。柊は? 自分で選ぶ? 決まってるなら俺が持ってくるけど」
「じゃ~、お言葉に甘えてお願いしよっかな! 野菜ジュース氷ありで」
ぶはっと、俺は吹き出した。
「おまえ、野菜ジュースって。健康気にしてんの?」
「気にしてる気にしてる。だってほら、今も鋭い視線から胃を守ってる最中だからね」
野菜ジュースって胃に効くっけ?と不思議に思いながらも、俺は了解を返した。
学校に近いファミレスを選んだせいか、周りには同じ制服のグループがちらほらといる。
それから他愛ない話をしている間に注文した料理がやってきて、俺はピザにかける辛いソースを持ってくるのを忘れたことを思い出し、もう一度腰を浮かした。
が、悠人に腕を掴まれる。
「俺が持ってきてる」
「マジ? サンキュ、悠人」
頭を撫でてやると、悠人が頬を緩めた。今日はずっと仏頂面だったから、不意にこぼれるイケメンの微笑みの破壊力に柊が目をぱちくりとしている。
俺はというと、ぶっちゃけ慣れてしまっているので、特に驚きはしない。
「三澄さぁ、普段からそうやって笑ってればもっとモテるだろうに」
「柊もそう思う?」
「そりゃあねぇ。俺、三澄ほど顔の綺麗な奴って見たことねぇもん」
共感しながら何度も首を縦に振った。俺も悠人以上にかっこいい男を見たことがない。
まず顔のパーツが整いすぎてるんだよな。それが黄金比率で配置されていたら文句のつけようもないイケメンができあがるのは必然だろう。
でもまあ、顔がいいからって、人生イージーモードが約束されているわけじゃないんだって、俺は悠人を見ていて思った。
「別にモテ云々は措いといてもさ、こうやって笑ってたほうが、友だちだってもっとできると思うんだけどなぁ、俺は」
悠人の両頬を軽く引っ張って、無理やり口角を上げてみる。悠人はされるがままだ。こいつは肌の感触まで綺麗でちょっとムカついた。
「俺は夏生がいればそれでいいよ。他はいらない」
「そういうこと言ってるから道を間違えるんだよおまえは」
「間違えてないけど。もしかして高校のこと言ってる?」
ぎくっと肩を揺らす。無意識に今の言葉が出てしまうほど、実は俺は過去を後悔していた。
俺の変な意地のせいでこいつを今の高校に来させてしまったのは、俺の中に小さな罪悪感としてこびりついているのだ。
「そんなの夏生が気にすることじゃない。俺が自分で選んだんだよ。後悔なんてしてない」
「でもおまえ、そのせいで大学……」
「それも込みで俺が選んだ道だよ。俺が夏生の隣にいること、そんなにおかしい? 間違ってる?」
急に必死さを滲ませる悠人を、俺は「待て待て待て」と押さえる。
ハンバーグを食べながら様子を見ていた柊が、何気なしにこぼした。
「なんか痴話喧嘩見てるみたい。三澄ってなっちゃんが絡むと面白いよね」
「面白がるなよ」
「それよりほら、二人とも。せっかくのご飯が冷めちゃうよ? 今は食べたら」
柊の言うことは一理あるので、いったん俺たちは食事に集中することにした。
俺はファミレスに来るとだいたいピザかハンバーグ系を頼む。そして俺がピザを注文すると、決まって悠人はパスタを注文するのだ。
俺はいつものようにピザを一切れだけ悠人の皿に分ける。
すると、悠人はフォークで綺麗に巻いたパスタを俺の口元まで運んできた。口を開けて咀嚼すれば、中でたらこ味が広がる。大葉も一緒に入っていたらしく、爽やかな風味も相俟ってうまい。
やっぱピザとパスタの組み合わせは最高だなと思っていたとき、目の前から突き刺さる視線に気づいた。
「どうした、柊? おまえもピザ食べる?」
「いや……今流れるように『あーん』したね?」
「あーん……?」
なんだそれ、とすぐに言葉の情報処理ができなかった俺は、一拍置いてから意味を理解した。
「は!? 違ぇよ! 今のどこが『あーん』だよ!?」
「えー……全方位どこからどう見てもそうだったよ。ね、三澄?」
話を振られた悠人が舌打ちする。
「余計なこと言わないでほしいんだけど」
「おまっ……わかっててやってたのか!?」
「その前に俺への舌打ち酷くない? 差別はんたーい」
俺の顔は今絶対に熱を持っている。まだ夏前のはずなのに、急激に顔だけ温度が爆上がりしたから間違いない。
だって「あーん」ってあれだろ?カップルがイチャつくときにするやつだろ?そんで目撃しちゃった奴が「バカップルかよ」とか「リア充爆発しろ」とか影で言うやつだろ?
俺が悠人とそんなことするわけないだろ!
「やべぇ。今まで全然気づいてなかった。これからはあれ、なしな」
「なんで? 別にいいじゃん。誰も気にしないよ」
「おまえ俺とバカップルに見られてもいいのか!?」
「そんなのウェルカムだよ」
「ウェルカム!? おまえいくら英語が苦手でもその使い方はねぇぞ!」
とにかくもう二度としないと内心で自分自身に誓いを立てて、俺はピザをたいらげた。本当にしないのか、と窺うように悠人が何度か俺の口元にパスタを運んできたが、俺はその全てに顔を逸らす。
ピザを食べるといつもパスタを食べたくなるために悠人とシェアしていたが、変な誤解を生むわけにはいかないのだ。
(いや、でもちょっと待てよ?)
過去を振り返ると、俺がピザを頼むとき、悠人はいつもパスタを頼んでいた。
だから俺は「悠人がパスタ好きでラッキー」なんて呑気なことを思っていたけれど、もしかしてそういうわけでもなかったのかもしれない。
「なあ、悠人」
「なに? やっぱりパスタほしい? あーん」
「違う。あーんしない。じゃなくて、おまえまさか、パスタそこまで好きじゃない?」
悠人が目をぱちくりと瞬く。
「好きだよ?」
「本当に? でもそのわりに、俺がピザ頼むときしか頼まなくね?」
「うん。夏生にあーんができるから、好きだよ」
「は……」
事もなげに言い放った悠人に、柊は野菜ジュースを吹きこぼしていた。俺は俺で言葉が出てこない。
「いつもは俺の世話焼いてる夏生が、このときだけは俺に世話焼かせてくれるから」
「はっ?」
「俺の手から餌付けされてもぐもぐしてる夏生、かわいいんだよね」
「は、ああ!?」
なんだそれ。ふざけんな。恍惚とした顔でそんな話するんじゃねぇ。羞恥心から思わず拳を出しそうになる衝動を必死に押さえる。
「おまえっ、俺のことペットか何かだと思ってたのか!?」
「なんでそうなるの? ペットにキスはしないよ」
「ぶふっ」
今度は俺が盛大に噴き出した。でも俺は都合良く飲み物なんて飲んでいなかったので、柊には悪いけど唾飛ばした。
その柊も、俺の唾より悠人の爆弾発言のほうが衝撃的だったのか、真偽を問うような瞳を俺に向けてくる。
「違う、違うんだ柊。ほっぺ! ほっぺにキスな。ほら、家族同士でやるだろ? 俺と悠人ってもはや家族みたいなもんだからさ、昔の癖でつい! な!」
「はあ? ほっぺも嘘じゃないけど、く――」
「おまえはいったん黙れ!」
悠人の口を俺の手で強制的に塞ぐ。
他にこの会話を聞かれていないか、俺は周囲を見回して確認した。他の客も自分たちの会話に夢中だったようで、誰もこっちを見ていないことには心底安堵する。
そうなると、問題は。
「なっちゃん、ちゅーしたの?」
はわわ。みたいな反応をしながら柊が自分の口元に両手を持っていく。
「だからほっぺな」
「俺、三澄の片想いだと思ってたんだけど、実は二人付き合ってたの?」
「だからほっぺな! なんでそんなとこまで話が飛躍した?」
俺が勘弁してくれと願いながら否定すると、柊がしれっと答えた。
「だって二人の距離感って、傍から見てるとそんな感じだよ?」
「どんな感じだよ……」
「三澄が好き好きアピールしてて、なっちゃんはそれを『仕方ないなぁ』って受け入れてる感じ」
マジか。開いた口が塞がらない。
これは非常にまずい展開だ。中学のときの二の舞になる予感がする。
「言っとくけど、俺たちそういうのじゃないから」
「男同士だから?」
「いや、男同士全般のそれを否定するわけじゃなくて、俺と悠人だから『ない』って言ってんだよ」
ここで口を塞いでいる悠人が何か反論しようとする気配を感じとって、俺は自分の手に力を込めた。
「悠人は彼女いたから。誤解しないでやって」
「え、そうなの?」
めちゃくちゃびっくりなんだけど、みたいな顔で柊が悠人をチラ見する。
「そんな意外か?」
「俺が三澄の顔しか知らなかったら意外でもないけど……短期間とはいえ、クラスメイトとして接したじゃん? だったら意外としか思わないよ」
ここで悠人が俺の指を噛んできた。甘噛みではあったけれど、驚いた拍子に悠人の口を解放してしまう。
「夏生、それ中学のときのこと言ってるよね? あれは――」
悠人がその続きを話し出す前に、俺は席を立った。
柊からは困惑の眼差しを、悠人からは縋るような眼差しを受けながら、俺は自分でもへたくそかと思う言い訳を並べ立てる。
「と、とにかく、今日は勉強しに来たんだろ。俺ちょっとトイレ行ってくるから、俺が戻ってきたら勉強するぞ。いいな!」
このときどうして逃げたのか、俺はたぶん気づいていながら、気づいていないふりをした。
第四章(悠人視点)
「――で、三澄の弁解は?」
夏生が逃げるようにトイレに行ってしまった背中を追いかけようとしたら、保坂にそう問われて足を止める。
にこにこと笑うこの男のことを、俺は信用していない。
無視して追いかけようとしたら、トドメのように保坂が切り込んでくる。
「今追いかけるのは選択肢としてナンセンスじゃない? なっちゃんが一人になりたいの、わからないの?」
その物言いにはイラッとした。まるで自分のほうが夏生のことを理解してますと言いたげだ。
しかも夏生の前ではただのヘラヘラした男を演じておいて、俺と二人きりになった途端に不穏さを滲ませてくるなんて絶対に性格が悪い。
本当はこんな奴の言葉に従うのは癪だけど、俺としても夏生に嫌われるようなことはしたくない。
仕方なく席に戻って、残りのパスタを咀嚼する。目の前の奴と会話をしたくない意思表示でもあった。
けど保坂という男は、人が食事をしていてもお構いなしに話しかけてくる人種のようだ。
「で、三澄の弁解は? なっちゃんにキスしたの、ほんとなんでしょ?」
「おまえに関係ない」
「わ~、敵意丸出し~」
ニヤつく笑みが鬱陶しい。夏生はなんでこんな男と友だちになろうとしているんだ。こいつのように腹の中で何を考えているかわからないような奴は、真っ直ぐで優しい夏生には似合わない。
「俺、おまえのこと嫌い」
「おっと、はっきり言うね?」
「普段は気さくに振る舞ってるくせに腹の内を見せないような奴に、夏生は裏切られた」
そいつこそ、夏生が俺から離れていった元凶の男。
親の力で夏の最後の大会で夏生からレギュラーを奪った、一生許さない男だ。
こいつは……保坂は、その男に似ている。見た目ではなく、どことなく漂う雰囲気が。
「え~、そんなこと言われてもなぁ。俺、その裏切り男じゃないよ? むしろ俺はなっちゃんのこと気に入ってるのに」
「気に入らなくていい。ちょっかい出すな」
パスタを完食した俺は、ちらちらとトイレのある方へ視線をやる。夏生はまだ戻ってこない。
俺の視線に気づいたらしい保坂が、なぜか苦笑した。
「三澄はほんと、なっちゃんが好きだねぇ」
「好きじゃない」
「……ん? いや、俺に散々敵意向けておいて、今さら否定しなくても」
「違う。本当に、好きじゃない」
好きなんて言葉じゃ表せないくらい、執着している自覚がある。
愛しているも違う。いや、どうだろう。愛しているのほうが近いかもしれない。
俺は夏生が大好きで、大嫌いで、愛おしくて、憎くもある。
俺が嘘を言っていないと理解したために保坂が混乱している間に、夏生がトイレから戻ってきた。
そのあとは本当に夏生の宣言どおり勉強会が始まって、俺を含めた誰もさっきの会話を蒸し返さない。
帰り道、無言で隣を歩く夏生をじっと見つめる。
俺の視線がうるさかったのか、夏生の家の前で分かれる直前、夏生が「見すぎ。また明日」と言って頬をほんのりと赤らめた。
正直無理な相談なので、俺は頷くことなく「また明日」と返事をする。
家の鍵で自宅に入り、誰もいない暗い家の電気をつける。「ただいま」なんて挨拶は、もう何年口にしていないだろう。「行ってきます」も同様だ。
二階にある自室へ直行すると、俺は着替えるのも惜しんでベッドにダイブする。
目を閉じれば、いつだって夏生の姿が瞼の裏に蘇る。
最近はそこに、夏生の唇の感触も思い出す。
「やっとここまで来たんだ。誰にも邪魔はさせない」
そう、やっと、夏生に意識してもらえている。幼なじみとしてではなく、友だちとしてでもなく、俺の望んだ新しい形として。
ここに来るまで長かったと思うのは、比例して俺の夏生を想う期間もそれだけ長いということだ。
あれはまだ、小学二年生の頃。
夏生と出会ってから三年目の秋の頃に、俺は夏生に向ける自分の執着心に気づいた――。
そもそも俺と夏生は、家が隣同士ではあるけれど、出会ったのは幼稚園の年長のときだった。
そのタイミングで今の家に引っ越してきたのが俺の三澄家である。
小さい頃の俺は泣き虫で、身体は小さく見た目も女の子に間違えられることが多かった。
逆にどこまでも好奇心旺盛で活発な夏生は、そんな俺を『守るべき存在』として認定したらしかった。
人見知りの俺は、最初は夏生ともまともに話せない子どもだったのを覚えている。
それでも夏生は俺のペースに合わせて、根気強く話しかけ続けてくれた。
小学校に上がる頃には、俺の世界はもう夏生一色だったように思う。家が隣だから必然的に登校班も一緒で、帰りも一緒に帰った。一年生のときは幸いなことにクラスも同じだったから、俺はずっと夏生にひっついていた。
夏生も特にそれを嫌がる様子はなく、まるで弟のように俺をかわいがってくれた。
けれど、二年生に進級すると、夏生も小学校というコミュニティに慣れたからか、俺以外の友だちと遊ぶようになる。
しかも進級と同時にクラスが離れた俺たちは、登下校でしか会えなくなっていた。昼休みに夏生に会いに行っても、夏生はいつも他の友だちと校庭へ遊びに行ったあとだった。
――夏生は、俺のお兄ちゃんじゃないの?
今思えばバカらしいけれど、当時の俺は本気でそう思っていたのだ。
夏生は俺のお兄ちゃんなのに、どうして他の子と遊ぶのか。なんで俺を置いていくのか。俺とずっと一緒にいてくれるって言ったのは嘘だったのか。
悲しくて辛くて。でも子どもだったからこの感情の置きどころがわからなくて、俺は夏生のことが大嫌いになった。
――俺だけの夏生じゃないなら、いらない。大っ嫌い。
ふてくされた俺は相当面倒だったと思う。学校にも行きたくないと駄々をこね、毎朝迎えにくる夏生を困らせた。
そんな調子だったから、当然勉強なんて身が入らない。成績の落ちていく俺を、特に父さんは厳しく叱った。
俺には三つ年の離れた兄がおり、この兄がとかく優秀で、両親は兄にばかり目をかけていた。そんな兄と比べられることも多くなり、テストは満点でないと無視される。満点でも褒められることはなく、ようやく視線を合わせてもらえるだけ。
――誰も俺のことなんて、見てくれない。
家に帰りたくなくなった俺は、夏生と家の前まで帰ったあと、家に入るふりをして、公園に避難することが多くなった。
近くの公園はブランコと滑り台しかない小さな公園だったから、遊びにくる親子も少ない。一人になりたいときにちょうどいい場所だったのだ。
でもそのせいで、変な大人に目をつけられてしまった。男は中肉中背で、一人なの?お母さんは?とやたらと猫撫で声で話しかけてくる。
子ども心に恐怖を感じたが、家にまでついてこられたらどうしようという気持ちが勝り、俺は動けずにいた。
その代わり男の質問には一切答えず、無言を貫き通す。
男の手が俺の頭へと伸び、肩に触れてきて、頬をするりと撫でられたとき、背筋がゾッとした。カタカタと身体が震え出し、そのせいで足に力が入らず逃げることもできない。
助けを呼ぶために声を出そうにも、引きつれて空気しか吐き出せなかった。
男の手がどんどん下がっていき、ますます身体が強張っていったとき。
『なにしてんだてめーっ!』
夏生が男に勢いよく飛び蹴りをかました。
それは思いの外男にダメージを負わせたらしく、男が立ち上がろうとしている隙をついて夏生が俺の手を掴むと、引っ張って連れ出してくれる。
二人とも無我夢中で走った。とにかく走って、走って、息が苦しいなんて弱音も忘れるくらい必死に公園から遠ざかる。
俺たちの家が見えても、夏生は手を離さなかった。
俺はあんな目に遭っても家に帰るのが嫌で、夏生の手を振り払おうとした。
でも、案外夏生の握力は強く、振り解けない。
放してほしくて抵抗する俺の腕を、夏生はまた強く引っ張った。
でも夏生が連れていったのは、俺の家じゃなく夏生の家だ。
夏生が「ただいま。悠人と部屋にいるから入ってこないでね」と誰かに向かって雑に話すのを、俺は手を引かれながら聞く。相手はたぶん夏生のお母さんだろう。
夏生の部屋に入るのは久しぶりだった。
最後に入ったのはいつだったか。そんなに経っていないように思うのに、ずいぶん昔のことのようにも感じる。
ベッドの上には漫画が散らかっている。
ぼーっと夏生の部屋を見るとはなしに見ていた俺だったけど、油断したところにまた軽く腕を引かれて体勢を崩す。
床に転ぶと思ったのに、転ぶ前に夏生が抱きとめてくれた。
お礼を言わなきゃと思うのに、やっぱり声は出てこない。
いや、違う。声なんて、そういえば最後に出したのはいつだっただろう。
『――ごめん』
俺を抱きしめたまま、夏生が震える声で言った。
『ごめん、悠人。ごめんっ』
なんで夏生が謝っているのか、俺は最初わからなかった。
ただただぼーっと夏生の謝る声と、夏生の体温を感じる。
さっきの見知らぬ男に触られたときは気持ち悪くて仕方なかったのに、夏生の温もりは不思議と心地好く感じて、今さらながら自分の身体が冷えていたことに気づいた。
『ごめんなあっ、悠人。一人にして、ごめんな……っ』
そのとき、氷のように冷え固まっていた俺の心に、ぴしりとヒビが入った。
そうだよと、夏生への文句が溢れ出してくる。
だって夏生が俺を置いていったのだ。夏生が俺を一人にした。ずっと一緒にいるって言ったくせに、夏生が俺を一人にしたから、俺はずっと寂しかった。
これまで口にできなかった不満が少しずつ、少しずつ、俺の心から湧き出てくる。
『あの変な奴に何もされなかったか? 怪我は? お、俺、逃げてきちゃったけど、捕まえたほうがよかったのかなっ……?』
夏生の肩もガタガタと震えていた。きっと夏生も怖かったのだ。それでも俺を助けてくれた。
『ごめんなっ、悠人。悠人の様子がおかしいって、俺、気づいてたのに。ちゃんと聞いてやらなくてごめんなっ。俺、新しい友だちと遊んでばっかで、悠人のこと、気にしてやれなくて、ごめん……っ』
心に入っていたヒビが、ついに一直線に繋がり、盛大な音を立てて割れる。
泣きながら謝る夏生を見て、俺の我慢は限界を越えた。
今さら謝ってくるなんてと、怒りにも似た感情が爆発する。
『ほんとだよ! 夏生のバカ! 俺を一人にしないって言ったのに酷いよ! なんで俺を一人にしたの。俺っ、夏生のこと、ずっと待ってたのに……!』
割れた氷の心の中から、本当の心が現れる。
もう自分でも覚えてないときをきっかけに、俺は自分の心を凍らせることで守っていたのだろうと思う。
夏生が他の友だちを優先したとき。俺と遊んでくれなくなったとき。父さんに怒られたとき。失望されたとき。兄さんと比べられて、出来損ないだと叩かれたとき。母さんに無視されて、俺の存在が不安定になったとき。
少しずつ、少しずつ、俺は心を凍らせていった。凍らせれば凍らせるほど、何が起きても辛くなくなっていったから。
でもその代わりに、何も楽しくなくなった。
『夏生が言ったのに! ずっと一緒って! 俺には夏生だけなのにっ』
『うん。俺が言った。ごめん。もう絶対、一人にしないから』
互いに互いを強く抱きしめ合って、俺は何度も夏生に怒りをぶつけて、夏生は何度も俺に謝っていた。
本当は夏生が何も悪くないことくらい、俺もわかっていた。むしろ変質者から助けてくれた夏生には感謝するのが正解だとも理解していた。
けど、正解って、誰にとっての正解?
このときの俺の正解は、どんな手段を使ってでも夏生を取り戻すことだった。
ゆっくりと疎遠になり始めた幼なじみに、もう一度自分の許に戻ってきてもらうことが何よりも大事なことだったのだ。
(父さんと母さんはいらない。夏生がいてくれるだけで、俺の心はこんなにもあったかくなるんだ)
これが、俺が夏生への執着を自覚した瞬間である。
まだ恋も知らない幼い子どもが、どうにかして大切な幼なじみを引きとめようとした出来事であり、夏生がなんだかんだ俺に甘くて弱いことを学んでしまった、夏生にとってはかわいそうな出来事でもある。
それからの夏生は、本当に俺のそばにいてくれた。
登下校はもちろん一緒だし、昼休みも俺のクラスまで来てくれて、一緒に遊んだり本を読んだりした。
夏生の他の友だちがサッカーやドッヂボールに誘ってきても、俺が拒むような素振りを見せれば夏生も断ってくれた。
この関係が健全でないことは、小学校高学年くらいになればさすがの俺も理解する。ただ理解したからといって、俺が考えを改めることはなかった。
夏生も別に俺と一緒にいる時間を退屈にしている様子はなく、なんなら夏生自身が「悠人といるのが一番気楽で楽しい」とこぼしていたくらいだ。
そんな俺たちだったから、中学に上がってからも変わらず互いのそばにいた。
中学では、小学生のとき唯一夏生と一緒にいられなかったバスケの時間も共有したくて、生徒全員が必ず部活動に入る校風を逆手にとってバスケ部に入部した。
この頃にはもう、周りも俺たちをニコイチで捉えることが多くなり、誰も俺たちの関係に口を挟まなくなっていたのが俺は嬉しかった。
でも俺が成績を落とせば親が夏生を悪く言うので、今までは親への反抗としてあまりしてこなかった勉強を、中学からはちゃんと頑張るようになった。
するとどうなるか。昔から顔を褒められることの多かった俺は、女子からの視線を多く浴びるようになる。
これが全然嬉しくない。むしろ鬱陶しい。夏生と一緒に話していても女子が横から口を挟んできたり、次第に俺の隣にいる夏生を邪険にしたりする女子も現れた。
小学校低学年の頃は、頼りないとか、女の子っぽいとか、そう言って俺のことなんか見向きもしなかったくせに。
背が伸びて勉強ができるようになってバスケを始めただけで、俺という人間は特に変わってもいないのに、手のひらを変えたようにすり寄ってくる連中が気持ち悪くて仕方なかった。
おかげで俺の人見知りは加速した。
『三澄ってさ、いっつも女子の告白断ってるけど、好きな子でもいんの?』
俺が女子からの呼び出しを受けて戻ってきて、夏生にちゃんと告白を断ったよと報告していたときのことだ。
夏生が『律儀に報告すんなよ』と微妙な顔をすると、近くの席に座っていたクラスメイトが話しかけてきた。
でも俺はこれまでそいつと仲良く話した記憶もないので、答えることなく夏生を後ろから抱きしめる。告白してきた女子がなかなか強引な子で、断ったら無理やり俺の腰に抱きついてきてしばらく追い縋られたのだ。
そうして精神的に参っていた俺は、夏生の肩に顔を埋めて、夏生の匂いを感じることで回復を図っていた。
『無視かよ。つーか前から思ってたけど、おまえらの距離感おかしくね? 幼なじみにしても異常。もしかして三澄と槇ってできてんの?』
……できてる?俺と夏生が?
そんなわけねぇだろ、と夏生が否定している声は耳に届いた。でも俺の中でそいつの言葉はなぜかひどく反響する。
ここでいう『できてる』というのは、俺と夏生が恋人の関係にあるということだろう。
(夏生が、俺の恋人?)
脳天を突き抜けるような衝撃を受けた。
今まで男同士だからと視野にも入れていなかった概念が、そいつの発言で俺の中にぽっと芽生えてしまった。
――本当に、かわいそうな夏生。
そいつが余計なことさえ言わなければ、俺はもしかしたら、まだ夏生を手放すことができたかもしれないのに。
そいつが俺の中に燻り続けていた感情に名前を与えなければ、夏生に好きな人ができても、俺はまだ許せたかもしれないのに。
(そっか。俺、夏生の全部を、俺のものにしたいんだ)
友だちとしての夏生も、幼なじみとしての夏生も、恋人としての夏生も、全部。
小さい頃、いつも俺を助けてくれたヒーロー。俺に甘くて弱い、愛おしいヒーロー。
いつも何かが足りなかった。
どんなに夏生のそばにいても、夏生を抱きしめても、いつも何か物足りないと感じていた。その感情が爆発しそうになるとき、俺は必ず夏生を腕の中に閉じめて、夏生が怒り出すまで力いっぱい抱きしめてやり過ごしていた。そうすれば夏生の匂いが肺の中に広がって、少しは満たされたような気持ちになれたから。
でも、このどうしようもない衝動には、ちゃんと名前があったのだ。
その名前を認識した途端、俺はひどく夏生に触れたくなって、埋めていた顔を横に向けて夏生の首筋に自分の唇を強く押し当てた。
驚いた夏生が反射的に椅子から立ち上がり、真っ赤な顔で俺を凝視してくる。
いつもより目を丸く見開いて、何をされたのかわかっているようでわかっていない様子の夏生を見て、俺の心は仄暗い歓喜に震えた。
『夏生、急に立ち上がってどうしたの?』
『どうしたって、今おまえがっ』
『俺が、なに?』
俺が確信犯的に微笑むと、夏生は逆に口を閉ざした。自分がされたことを口にしようとして、口にすることの恥ずかしさに気づいたのだろう。
(ああ、かわいい……)
俺のしたことで動揺し、戸惑い、顔を赤く染める夏生がかわいくて仕方ない。昔はあんなにかっこいいと思っていたのに、俺のせいで慌てふためく夏生を見るのは気分がいい。
もっと、もっと見たい。
もっと色んな夏生を見せてほしい。
こんなに一緒にいたのにまだ俺の知らない夏生がいた事実が、悔しいけれど愉しいと思った。
その日から俺は、夏生に怪しまれない程度の速度でゆっくりと触れ合いを増やしていった。
俺が夏生に触れても当たり前のように受け入れてくれるように仕上げるのは、意外と難しくはなかった。もともと夏生は俺に甘い。俺が少し弱った顔で首を傾けるだけで、夏生は渋々俺を受け入れる。それを何回か繰り返せば、夏生もいつしかそれを当然と思うようになっていった。
その過程で周りの奴らから揶揄われようが、俺にとってはどうでもいい。
どうせそういう奴らは俺への妬みや嫉みから噂しているだけで、真実なんて二の次なのだ。俺のイメージが崩れれば満足で、逆にそれが俺にとってはいい女子避けになってくれていてありがたいと思っていることには気づかない。
(必死に俺との関係を否定してる夏生もかわいいけど、それも中学までかな)
このときの俺は、とにかく夏生がかわいくてかわいくて浮かれていて、高校に進学したら今度はどう俺を意識させようかと画策していたところだった。
だからまさか、中学もあと半年で卒業というときに、自分があんな大きな失態を犯してしまうなんて夢にも思っていなかったのだ――。
(あのときは本当に焦ったなぁ。夏生んとこのおばさんには一生感謝しなきゃ)
夏生が秘密にしていた進路を俺に教えてくれたのは、夏生のお母さんである。一応おばさんのために弁明しておくと、おばさんは何も悪くなくて、俺がただ鎌を掛けただけ。
おばさんは俺の家庭環境のことも知っているから、夏生と同じで俺に甘く、もう一人の母のような存在でもある。
そういう意味でも感謝はしているけれど、夏生のご両親には、もうずっと別のことで感謝していた。だってあの二人がいなければ、槇夏生という尊い存在は産まれなかったのだ。俺が夏生の次に、この世界で好きな人たちである。
(……テストが終わったら、夏生はキスのこと、ちゃんと考えてくれるかな)
いや、きっと考えてくれるだろう。夏生は変なところで律儀だから。そんなところもかわいいのだけど、夏生の魅力は俺だけが知っていればいい。
(大好きだよ、夏生。だからこそ、俺以外を見る夏生が大嫌い。愛おしくて、食べちゃいたいくらいなのに、そうさせてくれない夏生が憎らしい)
こんな感情、好きなんてひと言では片付けられない。
そんなきらきらしい感情ではない。
そろそろ夏生がこの気持ちを受け止めてくれないと、今にも暴走してしまいそうなのだ。暴走してしまったら、俺自身夏生に何をするかわからない。
(だから早く、早く、俺のところに堕ちてきてよ、夏生――)
俺はもう、とっくに手遅れなんだから。
第五章
高校生になって初めての中間考査が終わると、校内は春高祭一色になった。
考査が終わってもう三日が経つけれど、当日までの最後の授業は、どのクラスも春高祭の準備に当てられている。
それでも間に合いそうにないクラスなんかは、放課後も使って準備に勤しんでいるようだ。
他にも部活で何か出し物をする場合は、そちらの準備もある。俺が所属しているバスケ部は、空き教室を借りてバスケカフェという名の休憩所を提供するのが毎年の恒例のようで、必要な物は使い回しているためそこまで準備も大変ではないらしい。
ちなみに、一応バスケカフェなので、教室に作った手作りゴールにシュートを決められれば飲食代は無料になる。
というわけで、不運にもクラスの出し物で『求婚者役』に選ばれてしまった俺は、劇の練習のせいで部活練には行けないでいた。
「三澄くんの女装、ちょっと見てみたかったよねー」
「ねー。でも本人絶対やってくれなそうだけど」
「それな」
机と椅子を後ろに寄せた教室で役者陣が稽古をしているなか、空いているスペースで大道具係がせっせと劇に使う小物などを作っているのだが、その女子の会話が出番待ちの俺の耳に入ってくる。
噂されている悠人本人は、衣装・メイク係なので教室にはいない。あいつはその中でもメイク係を勝ち取ったらしく、当日までにメイクの練習さえしておけばいいようで、部活練に行っている。
「でもさー、マジでイケメンだし、かっこいい格好とかのほうが見たかった」
「文化祭の醍醐味だもんね。執事とか」
「吸血鬼とか」
「ギャルソンもいい」
「医者とかスーツも」
「見たいッ。それだけで絶対稼げるッ」
さすが悠人。存在しているだけで誰かに夢を与えられるなんて、イケメンは恐ろしい。
もし本当に悠人が春高祭でそんな格好をして目立てば、一気に悠人への告白挑戦者は増えるに違いない。
「でも本人めっちゃ塩じゃん?」
「わかる~。マジで女子にも男子にも塩だよね。うちのクラスで一番かわいい飯沼さん振ったらしいし」
「あれ本当なんだ?」
そこでなんとなく居たたまれなくなった俺は、彼女たちから距離をとるべくさりげなく窓際へ移動した。
おかげで会話は聞こえなくなったが、代わりに彼女たちの視線が突き刺さってきた。
何を言われているのだろう。わからないけれど、なんとなく想像もついてしまう。
(絶対俺が邪魔とか、そんなところだろうな)
中学でもそうだった。
悠人の態度は誰が見てもわかりやすい。性別に関係なく塩対応の悠人が、唯一微笑む相手。それが俺だ。
そこから俺と悠人がどういう関係なのか探る奴らが現れ、俺たちが幼なじみだと知る。
だからか~と納得されて、じゃあ自分も長く関係を築けば笑ってもらえるかも、と希望を見出した女子たちによる悠人へのアプローチは、なかなかに強引なものが多かった。
悠人との関係を築くためには、確かに多少の強引さは必要だ。けれど引き際を弁えていないと、悠人を怒らせる結果になりかねない。
いつだったか、全然振り向く気配のない悠人に焦れた女子の一人が、それを俺のせいにしたことがある。
『三澄くんだって彼女ほしい年頃なんだから、幼なじみなら察してあげなよ』
なんで俺がそんなことを言われなきゃいけないんだと、ムカついた衝動のままお望みどおりにしてやろうとしたら、敏感にそれを察知した悠人が原因を突き止めてキレた。
『俺は夏生以外いらない。勝手に俺の気持ちを語るな!』
以来、俺と悠人が実は付き合っているみたいな噂が流れ、さすがにそれは事実無根だと否定しても、特に周りの男子どもが俺たちを夫婦だなんだと囃し立てるようになった。
(おかげで俺も中学三年間は、彼女どころか好きな子もできなかったっていうね)
またあれが繰り返されるのはごめんだ。
悠人の隣に俺がいるのを否定されるのも嫌だし、恋ができないのも嫌だ。
(ああ違う。その前に俺、キスの意味だっけ? 考えなきゃいけないんだった)
テスト期間中はなんとか見逃してもらえたが、終わった今、悠人からたまに送られてくる圧は俺を妙に焦らせる。
――キスの意味なんて、本当にあるのだろうか。
涼しい顔で人のファーストキスを奪ったあいつは、まさか俺に嫌がらせでもしたかったのだろうか。
それとも復讐か。ずっと一緒にいると言ったくせに中学の最後で避けた俺に対する、遅ればせながらの復讐。
(復讐がキスって……はっ、嫌な男だな)
窓ガラスに反射する自分の姿に気づき、視線は自然と唇に移った。
特に艶やかでもかわいくもない、薄い唇。
対して悠人の唇は俺よりやや厚いからか、色っぽい感じがした。それに柔らかい。
と、そこまで考えて、窓に映る自分の顔がいつのまにか火照っていることに気づいた。
(いや……いやいや! なんでここで真っ赤になってんの俺! これじゃまるで、俺が――)
俺が、なんだろう。ドクンと心臓が変な音を立てて跳ねた。
一度不規則な音を知覚してしまったら、そのあとに続く異様な加速度で脈動する心臓を見て見ぬふりはできない。
なんだ。なんなんだ、これは。
唇が離れた瞬間の、悠人の流し目が脳内にフラッシュバックする。
――〝夏生〟
耳の奥に息を吹き込むような悠人の声が蘇ってきて、俺は咄嗟に自分の耳を塞いだ。
「――ん。なっちゃん!」
そのとき肩を揺さぶられて、大げさに驚いた俺は一歩後ずさる。
「なっちゃん、次出番だけど。大丈夫? どうしたの?」
同じ求婚者役のハズレくじを引いた柊が、目を丸くして俺を見つめていた。
おかげで急に現実を取り戻した俺は、取り繕うように笑う。
「ご、ごめん。なんでもない。呼んでくれてありがとな、柊」
「それは別にいいけど……なんか顔赤くない? 熱?」
柊の手が俺へと伸びてくる。悠人の真剣な眼差しが頭の中に浮かんだ瞬間、俺は反射的に柊の手首を掴んでいた。
俺たちの間に気まずい沈黙が落ちる。
(……しまった。やらかした)
あからさまに拒絶してしまった自分の行動を後悔する。
柊は強引なようでいて引き際も心得ており、あまり人の悪い噂もしないので、一緒にいて居心地のいい友だちなのだ。できれば良好な関係を保っていたかったのに、今のは百パー感じが悪かった。
「ごめん、柊。今のは違くてっ」
「大丈夫大丈夫。そんな顔しなくてもわかってるって。なっちゃん慌てすぎ」
「……怒ってないのか?」
「こんなんで怒らないよ~。俺のほうこそ軽率に触ろうとしてごめんね?」
柊は本当に気にしていないようで、にこにこと笑っている。頑張れ~と応援してくれる柊に安堵して、俺は稽古に加わった。
「――そっかぁ。案外なっちゃんも……似た者同士だったか」
そんな柊の呟きには、気づくこともなく。
*
春高祭の準備期間中は、悠人のほうが早く部活も終わるため、いつも俺の終わりをあいつが待っていてくれる。
先に帰ればと素っ気なく伝えても、悠人は首を横に振るだけだ。
あれから俺は、律儀にキスの意味を寝る前に考えているのだが、いまだに答えを見つけられていない。
いや、本当に見当がついていないのかと問われれば、首を縦に振るのは難しい。
俺の中では〝嫌がらせ〟もしくは〝復讐〟の線が濃厚だからだ。
ただそれを悠人に答えないのは、俺が認めたくないからに他ならない。というより、復讐でキスってなんだ。ムカつくだろ。復讐をするにしたって、もっと他にやりようはあったはずだ。これなら殴られたほうがまだマシだった。
(もしかして、悠人もそれがわかってたから、キスを選んだのか?)
俺は今、劇の稽古の合間に柊と買い出しに来ていた。
なんでも小道具で足りないものがあるから、出番待ちで暇な俺たちに御鉢が回ってきた次第だ。
学校から電車で十五分のところにちょうど良さそうな商業ビルがあるため、そこで探してこいとの命令を受け、息抜きがてら店を回っている。
「百均には売ってなかったね~」
「だな。次どこ行く?」
「どこ行こうね。雑貨売ってるとこでも回る? てかこれ、見つけられる気がしないんだけど~」
「同じく」
普段あまり買い物をしない男二人に買い出しをさせたのは、たぶん人選ミスだと思う。
俺も柊も、とりあえず探してみて、見つからなかったときは潔く諦めて戻ろうという話で互いに合意していた。
「――あ。なっちゃん、見てあそこ」
「なに?」
「あれって三澄じゃない?」
柊の指差す方へ視線を向ければ、やたらと女子の客が多い店の中に悠人がいた。
メイク係の悠人は、各々メイクの練習だけはするように言われているらしいが、準備期間中は特にすることもないからと部活に行っているはずである。
それがなぜ、こんなところにいるのか。
よくよく観察してみれば、その店はメイク道具やら化粧水やらと、コスメ商品を売っているところのようだった。
「もしかして、メイク係も今日は調達に来てるとか?」
「かもな」
確かに学校の周辺にある大きな商業ビルは、ここしかない。ここで買い出しするのが一番便利と言えば便利で、だから俺たち以外にも同じ制服姿をちらほらと見かけている。
でも、メイク道具は女子の誰かが持っているものを使うような話をしていたのに。
「そういえばさー、三澄、なっちゃんのメイク係に立候補したんだって?」
俺の心臓がドキッと跳ねる。
そうなのだ。メイク係は悠人を含めて三人いるのだが、誰より早く俺の担当をすると言って聞かなかったらしい。
「んで、逆に女子は三澄にメイクしてもらいたいって希望して、撃沈したんだってね」
「ああ、らしいな……」
その結果、悠人は男子専属のメイク係になったと聞いた。
ただ、これまでメイクなんてしたこともない男がいきなり大丈夫なのかと、俺はずっと心配している。
それを本人に訊ねたところ、実は今日、俺の家で練習の成果を見ることになった。
「せっかくだし、三澄に声かけてく?」
ここで気づかぬふりをするのもおかしいかなと考えた俺は、柊の提案に頷いた。
男二人でコスメショップに入るのは勇気が要ったが、悠人は一人で来ているのだ。それが俺の背中を押したけれど、俺たちが悠人との距離を縮めていた途中、ふっと悠人の横に並ぶ女子がいた。
――飯沼さんだ。
彼女が悠人に向けて微笑むのを見た瞬間、俺の足が止まる。
「なっちゃん? 行かないの?」
柊が俺を振り向いて、振り向いたあと、まるで驚いたように目を瞠った。
それからすぐ悠人たちを一瞥して、二人が俺たちに気づいていないのを確認すると、俺の腕を軽く引っ張ってUターンする。
俺は柊に引かれるがまま、人気の少ないエレベーターホールへと連れられた。
「あのさ、ごめん。触れてほしくない話題かもしれないけど、もう訊いてもいい?」
俺がうんともすんとも答える前に、柊がずばりと口を開く。
「なっちゃん、三澄のこと、好きだよね?」
「……そりゃ、幼なじみだしな」
「違うよ。俺がそういう意味で訊いてないことくらい、なっちゃんもわかってるんでしょ、本当は」
ああ、わかっている。わかっているからこそ、答えたくないのだ。
だってそれを認めてどうなる?認めたって、この想いはどこにも行けない。
本当は薄々気づいていた。自分の中に芽生える苛立ちや、モヤモヤが、どういう種類のものかなんて。
とっくに気づいていた。
だから離れようとしたのだ。悠人との約束を破ってまで。
破ってでも俺が離れたいと思うちょうどいい言い訳が、不意に転がり込んできたから。
一枚一枚花びらが落ちて、隠されていた雌しべが顕わにされるように。
俺の嘘を一枚一枚剥がされて、とうとう真実が露わになる。
誰にも暴かれたくなかった。誰にも気づいてほしくなかった。
自分自身でさえ、気づきたくはなかったもの。
だって、気づいてしまったら、嘘を全て剥がされてしまったら、もう隠すことなんてできないから。
隠せない想いを、悠人はどう思うだろう。
俺が一番怖いのは、悠人から離れることじゃない。悠人に気持ち悪いと思われて嫌われることだ。
「ごめん、柊。俺帰るわ」
「え、なっちゃ――」
「ほんとごめんっ」
まだ買い出しの途中で、まだ劇の練習だって残っている。
それでも今は、色んな衝撃のせいで集中できないだろう。
がむしゃらに走って帰りの電車に飛び込んだ俺は、座席に座ると、呼吸を整えながら強く瞼を閉じた。
家について自分の部屋へ直行すると、制服も脱がずにベッドに倒れる。
かろうじて悠人に先に帰った旨のメッセージだけ入れて、俺は深呼吸を繰り返した。
いつから悠人への気持ちに変化が生じたかなんて、もう覚えていない。
そもそも自覚したのがいつだったのかも覚えていないのだ。
いや、自覚しないようにしていたから、今だってまだ悠人への気持ちに名前を付けたことはない。
付けてしまったら最後、俺はこれまで散々悠人を困らせてきた女子たちと同じ存在になるだろう。俺は悠人だけは困らせたくない。
(ほんっと最悪だ……やらかした)
これまで生きてきたなかで、最大級の失態である。
明日はクラスのみんなへの謝罪と、柊への謝罪、そして柊への口止めが俺の任務になりそうだ。
(悠人が俺とは違うって、わかってたはずなのに)
悠人は俺に執着するけれど、それは子どもの独占欲と似ている。
たとえば、ある日妹が産まれて、親がめっきり自分に構ってくれなくなったときのお兄ちゃんみたいな。
悠人の家は少し特殊で、本来なら注がれるはずだった両親の愛はなく、兄とも気まずい関係だ。そんな幼い悠人に、たぶん俺が初めて親愛の情を捧げた。
そのせいで悠人は俺に執着しているが、それは俺の執着とは根本が違う。
誰だって親に変な目で見られるのは気持ち悪いだろ?だからきっと、悠人も俺にそんな感情は望まない。
その証拠に、あいつは中学のときに彼女をつくっている。
たまたま帰り道に女子と二人で歩いている悠人を俺は見かけた。あの悠人がだ。俺以外とは打ち解けようともしなかった悠人が、俺以外の同性と二人きりだったとしても珍しいのに、それが女子となるとなおのこと稀である。
つまりはそういうことなのだろうと、俺は瞬時に悟った。
(慎重に、ずっと慎重に、隠してきたのに……っ)
幾重にも嘘を重ねて。自分でも嘘が嘘とわからないくらいに。
なのに、女子と二人きりでいる悠人を見て、驚くほど簡単にその嘘が剥がれ落ちてしまった。
(柊、だいぶ驚いてたな。そりゃそうだよな)
とりあえず明日のことを考えなければ。柊は簡単に言いふらすような男じゃないとは思っているが、万が一は想定しておくべきだろう。
明日はいつもより早く起きて、暗黙の待ち合わせ時間を無視して悠人より先に登校する。それで朝一番に、柊と話をしよう。もとい口止めをすることになるが、そのときどう誤魔化すかが重要だ。
明日を思って深いため息を吐き出したとき、部屋の扉が勝手に開いた。
「あ、夏生いた」
「悠人!? おま、なんでここにっ」
突然の悠人の登場にびっくりして、俺は勢いよく上半身を起こす。
「だって約束してたでしょ? メイクの成果」
「でも俺、今日は中止にって……」
確認のためにスマホのメッセージ画面を呼び出すが、確かにそこには今日の約束のキャンセルを伝える俺のメッセージが残っていた。
その下に小さく既読の文字も見えるため、悠人が見ていないわけでないことは一目瞭然だ。
「てか、そもそも帰ってくんの、早くね?」
俺が悠人にメッセージを送ったのは、自分の家に着いてからだ。その頃はおそらく、悠人もまだ商業ビルから学校に戻ってきたあたりじゃないだろうか。もし商業ビルに長居していたとしても、学校のほうが俺の家には近いため、ビルから直接帰ってきたとしても時間が合わない。
「それがさ、今日メイク道具の調達してたんだけど、そこで保坂と会って」
心臓がひゅっと縮んだ。まさか柊の奴、あのあと悠人に接触したのか。
「保坂が、夏生が体調不良で先に帰ったって言うから、俺も慌てて帰ってきたんだ」
「しゅ、柊が? そう言ったのか?」
「そうだよ。そしたら電車に乗ってるときに夏生からもメッセが来て……体調はもう大丈夫なの?」
悠人がベッドのそばで膝をつく。熱を測ろうとしたのか、伸びてきた手を俺は大人しく受け入れた。
「熱はないね。風邪とかじゃなさそう?」
「あ、ああ。まあ」
「腹痛とか?」
「あー、そんな感じ。でももう大丈夫だから」
「ほんとに?」
こくりと頷く。実際はどこも痛くないし、体調だって悪くはない。強いて言うなら心臓が痛いけれど、これは病気でもなんでもないとわかっている。
「ふーん、そっか。それなら――」
すると、途端に悠人の纏う雰囲気がガラリと変わった。
直前まで俺を心配してくれていたはずなのに、今はなぜか不機嫌な様子が伝わってくる。
「ねえ、なんで体調悪いの、俺より先に保坂が知ってんの?」
「……は?」
「俺より先に保坂に連絡するって、おかしくない?」
「いや、だって柊とは、一緒にいた、し」
悠人が右膝をベッドに乗り上げてきた。
ぐっと距離が縮まって、俺は少しだけ仰け反る。
「一緒にいた? あのビルに?」
「そうだよ。俺たちも買い出しに行かされてたから」
「……じゃあもしかして、夏生も見た?」
どくり。心臓が急激に収縮したせいで、強烈な痛みに締めつけられる。
見たって、何を?そんな白々しいことを、今までならきっと言えていた。
でも、せっかく纏った嘘を剥がされてしまった今、下手に取り繕おうとすると声が掠れるような気がしてならない。
悠人の視線がじっと突き刺さる。
永遠にも思える無言の攻防だったが、この沈黙を先に破ったのは悠人だった。
「夏生の体調が大丈夫なら、メイク、させてくれない?」
脈絡のない申し出に、俺は意表をつかれたように目を瞬く。
「ね、いいでしょ?」
「……わかった」
追及されたくないことを追及されるよりはマシだと考えた俺は、悠人のお願いを了承した。
促されるまま俺が床に座ると、逆に悠人がベッドに上がって胡座をかく。
悠人はビニール袋をひっくり返して、メイク道具を並べた。どれも新品かと思いきや、中には使用済みのものもある。
俺の前髪をクリップで留めながら、悠人が教えてくれる。
「安心して。新品じゃないやつは、俺にしか使ったことないから」
「どういう意味?」
「練習で俺の顔にメイクはしたけど、他の誰かには使ってないってこと。ほら、メイク道具は女子のを借りるって話、夏生も聞いてるでしょ?」
ああ、と俺は浅く頷いた。だから今日コスメショップに悠人がいたことに驚いたのだ。
「でもそれってさ、他の女子に触れたものを、夏生にも使うってことでしょ?」
「だとしてもその言い方はやめろよ。なんか俺が変態みたいじゃん」
「逆だよ」
「逆?」
「俺が許せないのは、夏生に俺以外が触れること」
さらりと告げられて、びっくりした俺は目の前の悠人を凝視してしまう。
何も喋れずにいる俺をどう思ったのか、悠人は特に気にせずメイクを始めた。
正直に言って、俺には全くメイクの知識はない。悠人が俺の顔に何を塗っているのかもわからないまま、肌に触れる悠人の手に意識が集中しないよう気合を入れる。
「メイクも同じ。ねえ、夏生。想像してみて。もし俺以外がメイクするってなったら、誰かとこの距離で近づくことになるんだよ」
それがどうしたというのだろう。悠人以外なら、別に誰と近くなろうが俺の心臓は平穏を保っていられる。
むしろ悠人のほうが俺の平穏を掻き乱す。
「こんなに近い距離でさ、夏生の顔を見つめ続けるなんて、許せると思う?」
メイクの途中だというのに、顎に手を添えられて、目を合わせられる。
お互いにお互いの瞳の中に映る自分を認識できるくらい、距離が近い。
ともすれば鼻息が肌に触れそうで、心拍数が恐ろしいことになっていた。
「目、閉じて」
悠人の指示に従って瞼を伏せる。
次は半分開いて、と本格的なメイクをされている雰囲気が伝わってきて、こいつ本当に勉強したんだなとなんとはなしに思う。
やがて悠人が道具を置いて、満足そうに頷いた。
「うん、いいね。かわいい」
悠人が手鏡を目の前にかざしてくれたので、俺はメイクをした自分とそこで初めて対面した。
「夏生はあんまり主張の激しい顔じゃないから、メイクするとだいぶ変わるでしょ? メイク映えする顔だよね」
「悪かったな、地味顔で」
「悪くないよ。俺は夏生の顔好きだもん。なんならもっと……そうだな、誰も見向きしないような顔でもよかった」
それはつまりぶさいくってことか?と思いながら、俺は首を傾げる。なんでぶさいくのほうがいいんだ。引き立て役なんて必要ないほど、悠人の顔は整っているだろうに。
「……そうすれば、誰も夏生の魅力に気づかないよね」
「え? なんか言ったか?」
俺が考え事をしているときに悠人が何かを呟いたものだから、聞こえなかった俺は確認するが、悠人はなんでもないと首を横に振る。
「それより、仕上げがあるから。少しだけ顔を上げて」
「ん」
スティック状の何かを手に持った悠人が、それを俺の唇に塗った。
たぶん口紅だろう。もしくはリップ。今は色つきのリップなんかもあるから、俺にはどれが口紅でどれがリップなのか、違いはよくわからないけれど。
「夏生、んぱってして」
「んぱ……?」
「こう」
言葉だけじゃわからなかったが、悠人のやるとおり上下の唇を擦り合わせる。
いったい何色のものを塗ったのか、ぶっちゃけ怖くて訊けない。鮮やかな赤色だったら泣く。似合わない自信しかない。
「わー……これ、春高祭でみんなに見せるのか」
「え、そんなヤバイ?」
「うん、ヤバイ」
マジかよ、と俺は眉根を寄せた。だから女装なんてしたくなかったのに。
可能なら今からでも悠人と替わりたい。
「本当に……ヤバイね。変な男に目を付けられそう」
「……悠人?」
やたらと近くで凝視されるから、メイクの出来栄えを見ているのかと思ったのに、徐々に近づいてきた悠人の顔がついにフレームアウトした。
ふに、とマシュマロみたいな感触に唇が包まれて、俺は目を瞠る。
悠人の顔が視界に収まるくらいまで離れたとき、悠人の口がさっきより桜色に色づいていることに気づいてしまった。
その意味を理解した瞬間、俺の顔から火が噴いた。
「夏生、キスの意味、考えてくれた?」
「おまっ……今それ訊くか!?」
「訊いちゃだめなの? じゃあ口紅、何色塗ったかわかる?」
悠人が自分の唇を差してにんまりと笑う。なんなんだ、こいつは。どんだけ俺に嫌がらせしたいんだ。
俺を辱めるためだけにやっているのなら、体を張りすぎだろう。
「おまえ、飯沼さんといい感じなんじゃねぇの? だったら俺にこんなことすんなよっ」
「まさか。今日のは向こうが勝手についてきただけだよ」
「でも仲良さそうに喋ってただろ」
「そんなことないと思うけど…………待って。え?」
「なんだよ」
珍しく瞳を揺らす悠人につっけんどんな態度をとってしまったあとに、俺も自分の失言に遅れて気づいた。
無意識に立ち上がり、ここが自分の部屋だということも忘れて逃げようとする。が、その前に悠人に腕を掴まれて叶わない。
「今の、ヤキモチ?」
「ち、違う」
「違うの? でも俺も、夏生と保坂が喋ってるの、ヤキモチ焼いてる」
「は? 柊に?」
あいつはただの友だちだ、と言い募ろうとして、俺は気づいた。悠人のそれは幼なじみをとられるかもしれないという焦りからくるもので、決して恋愛云々の話ではない。
(じゃあ俺も、それを装えば、まだ誤魔化せるか?)
嘘を剥がされて、剥き出しになってしまった俺の心に、また嘘を重ねよう。そうすれば散ってしまった花も、元の綺麗な姿を取り戻せるかもしれない。
「別に、柊はただの友だちで、俺の幼なじみはおまえだけだ。焼く必要なんてない」
「……じゃあ夏生も、焼く必要なんてないよ」
「ははっ、だよな」
自分で言っておきながら、どうしてもうまく笑えない。
嘘で自分の心を守るとき、俺はいつも血を吐くような痛みを感じている。だからきっと俺の心を守る花は、血のように鮮烈な赤だろうと思っている。
「キスの意味」
「まだ言うか」
「期限、決めていい?」
期限?と訊き返すと、悠人がやけに真剣な面差しで首肯した。
「春高祭が終わるまでに、答えを聞かせてよ」
「そんな言わせたいわけ?」
復讐でキスしたんだろと、そんなわかりきったことを、俺に。
「言わせたいんじゃない。気づいてほしいんだ」
「気づく、か。おまえの気持ちに?」
自嘲するように問いかけた。
「……もしかして、もう気づいてる?」
ああ、気づいてる。そう答えたら、もう悠人とはこれまでのようにはいられないのだろうか。自業自得とはいえ、嫌がらせでされるキスがこんなにも虚しいものだなんて知らなかった。
それでも俺は意気地なしだから、悠人と離れたいと思っていても、離れたくないとも思っていて、嫌われたかもしれないとわかっているのに、嫌われたくないと足掻いてしまう。
だから。
「まだ、なんにもわかんね」
「……そう」
嘘をまた一つ、重ねる。
でも悠人が一瞬だけ眉尻を下げて捨てられた仔犬のような顔になったので、俺は自分の選択をミスったのだろうかと不安になった。
微笑みを浮かべた悠人が、両腕を大きく開く。
「じゃ、今日の分。おいで」
そんな悠人に対して俺はというと、ぐっと喉に空気を詰まらせた。
前に悠人が匂いがどうのこうのと言ってから続いている、ハグタイムだ。
これにもどんな意味があるのかいまいち理解しきれていないが、悠人の腕の中に合法的に閉じ込めてもらえるチャンスは逃したくないと、今日も俺の身体は素直に吸い寄せられていく。
もうお馴染みとなった香りが、鼻腔を抜けていく。
俺にとってこの香りは、もはやただの香水ではない。悠人の香りだ。脳はそう認識してしまった。
「これからはさ、朝にハグするのもいいよね」
「なんで」
「前に気づいたんだ。こうしてると、俺の匂いが夏生に移るの。そういうの、なんかよくない?」
よくない。全然よくない。胸がきゅうっと切なくなる。
悠人、おまえそれ、どんな顔で言ってる?
おまえが何をしたいのか、俺にはもうわからない。
昔は悠人のことならだいたいわかったのに、今の悠人の心が俺には全く理解できない。
だってそれは、まるでマーキングみたいじゃないか。普通は復讐したいほど嫌いな相手に、そんなことはしない。
(俺たちって、なんなんだろうな)
悠人の腕の中は、幸福と絶望、両方の味がする。
世間的には『幼なじみ』で『友だち』なのだろうけれど、心情的にはどちらも当てはまらない。
俺は邪な気持ちがあるし、悠人が俺に復讐したいと思っているなら、やはりそれはどちらにも当てはまらない。
お互いにそう思っていないなら、はたして俺たちの関係性はなんと答えるのが正解なのか。
そしてこれから〝何〟になろうとしているのか。
(昔みたいに、ただ純粋に、笑い合えていられたらよかったのにな)
裏切ってごめんと、悠人に聞こえないよう口の中で呟いた。
*
ついに春高祭当日がやってきた。
春高祭自体は二日間開催されるが、俺たちのクラスが体育館で劇をするのは一日目だけだ。おかげで俺は朝から女装しなければならない。
ちなみに、部活のバスケカフェの店番はクラスの劇が終わってから入っていて、俺がクラスで女装すると知った先輩たちに「そのままの格好で接客しろ。面白いから」と言われてしまった。地獄である。
その代わり二日目はほぼ自由なので、まあ、よしとしよう。
クラスの劇は、最初はかぐや姫に求婚する男役なので、衣装もそれに合わせたものを着る。
が、劇の途中で早着替えはできても、メイクができるほど俺たちはプロじゃない。ので、口紅以外のメイクは先にやってしまうことになっていた。
「うわ~、三澄くん、メイクうま。え、もしかしてもともとやってた?」
男にもともとやってたという質問はどうなんだと思ったが、今の時代、それも珍しいものではないのだろう。
悠人のメイクの腕がうますぎるせいで、俺はメイクをしているところを人に囲まれるという羞恥プレイにひたすら耐えている。
「メイク好きなの?」
「気が散る。話しかけないで」
「あ、ごめん」
「でもほんとすごーい……私もやってほしかったなぁ」
「黙って」
さすが悠人。さっきから塩対応がすぎる。
ただ、悠人にとっては残念なことに、このクラスの女子は逞しく、この塩対応が逆にいいと最近では喜ばれている節がある。
なんでもチャラい男より浮気しなさそうだからいいのだとか。
まあ確かに、悠人が浮気なんて想像もつかない。小さい頃から好きなものには一途な悠人だ。俺が誕生日プレゼントにあげたブランド物でもなんでもないシャーペンを、どうやら大層気に入ったらしく、いまだに使い続けているのがいい証拠だろう。
「ん、いいよ夏生。目開けて」
その言葉を合図にゆっくりと瞼を押し上げると、予想以上に人に囲まれていて肩をびくつかせた。
悠人が鏡を見せてきたので、俺は自分の仕上がりを容赦なく確認させられたが、なるほどこれは女子が騒ぐわけだ。
俺の顔なのに全然俺じゃない。悠人のすごいところは、たぶんこのメイクなら、男の格好でも女の格好でも合うだろうと思えるところだ。
「すごーい! 槇くんいい感じ!」
「かわいい!」
「今の男の格好もいいけど、女装した姿が楽しみすぎる!」
わっと一斉にクラスメイトが寄ってきて、俺はどう反応を返そうかと困惑する。
すると、俺の視界にすっと悠人の背中が割り込んできた。
「夏生は見世物じゃない。減る。散って」
「「「は~い」」」
どうやら庇ってくれたらしい。その背中を見上げて、あれ、と思う。
いつのまにこんなに大きくなっていたのだろう。
「保坂、次」
「はいは~い。俺のこともかわいくしてね」
「無理」
次は柊のメイクに入るらしい。辛辣な悠人の返事に柊はツボったようだ。ゲラゲラと笑う柊を見下ろす悠人の目は、控えめに言っても氷のようだった。
「『――わたくしは、わたくしより美しい者と結婚いたします!』」
舞台以外の照明が落とされた体育館に、かぐや姫の美しい声が響いた。
よく知る童話と違うセリフに、体育館中からどっと笑いが沸き起こる。「かぐや姫面食いかよ」「なにそのパターン」。席は満席ではないものの、それなりに埋まっていた。
俺は少し前に舞台袖にはけており、ちょうど早着替えを済ませたところだ。仕上げに口紅を塗って、女になる。
ここからは童話なんて完全無視の、五人の男たちによる『美しさ』決定戦である。
今さら思っても遅いけれど、なんで美しさを競うのに女装なんだろうという疑問が沸いてくる。
かぐや姫がステージの後ろに控えると、上座と下座の両方から女装した求婚者役の男たちが登場した。
その瞬間の会場のどよめきは、かぐや姫のセリフのときを優に越えていた。
マイクを持ったかぐや姫が、拳を握って説明する。
「では会場にお越しの皆々様、こちらに揃う五人の中から皆様の思う美女を選んでください。投票は挙手制です。多くの票を獲得した求婚者が、めでたくこのわたくし、かぐや姫と結婚できます! さあ『あなたの票が姫の結婚相手を決める!』どうそ!」
最後に宣伝文句をノリノリで叫んだかぐや姫のおかげで、会場の盛り上がりは最高潮に達していた。
俺たち求婚者役の五人は、打合せどおりステージを降りると、思い思いに体育館に並ぶ椅子の間を闊歩した。
至る所から視線が飛んでくる。生まれてこの方これほど注目を浴びたことはない。
「うわヤバ。マジで男じゃん」
「うそ? 見えないんだけど」
「かわいくない?」
「え~、今の子とさっきの子で迷う~」
色んな声が俺の耳に入ってくる。これを喜んでいいのかは微妙なところだが、概ね俺への評価は悪くはなさそうだ。
ちなみに劇はかぐや姫という昔話を扱っているが、求婚者役たちの女装衣装は現代に染まりきっている。
そのためクラスメイトの誰かがこぼしたように、完全にプチミスコンというか、ミスターコンというか、そんな感じの様相を呈していた。
五人がステージに戻ってくると、かぐや姫が再びマイクを握った。
「皆様、お気に入りの子は決まりましたか? では投票を始めまーす!」
こんなノリノリのかぐや姫がいていいのだろうか。ツッコミどころが満載すぎる劇だが、これも文化祭の醍醐味なのだと思うことにする。
俺は目立ちたくないので――というかこれで選ばれて嬉しい男はいるのか?――気持ち他の四人より一歩下がる。
まず一人目の投票が始まった。五人の中で一番ごつい体格の男子バレー部員だ。上がる手の少なさに「なんでだよ!」と本人がお客さんに向かってツッコミを入れている。
続けて二人目の吹奏楽部員は、もう少し票が集まり、三人目は柊だった。
柊はなかなか色っぽい女性に変身しているので、俺の予想では柊が勝ってくれるはずだ。
「おおー! これはなかなかに多いですね!」
かぐや姫も興奮している。ただ、だんだん姫のキャラ崩壊が激しくなっている気がするのは俺だけか。
「みんなありがと〜。結婚できたら盛大に祝ってね〜」
なぜ柊までそんなにノリがいいのだろう。マジでやめてほしい。俺そこまでノれないんだけど。
「では四人目……おっとガクッと下がりましたー! ドンマイです!」
やめろ姫。キャラ崩壊とか言ってる場合じゃない。あまりにストレートすぎるひと言に四人目の男が本気でショックを受けている。
「では次が最後のエントリー! はたして槇姫は保坂姫を超えるのか!?」
超えるのか、じゃないんだよ姫!あとで覚えてろよこのヤロウ!
俺は恨めしい目をテンションの高いかぐや姫に向ける。なぜ名前を口にした。しかも姫はおまえだ、俺たちじゃない。
俺は期待せずに前を見据えた。
「おおっと、これは――!?」
「――あ、かぐや姫に出てた子じゃん」
クラスの劇が終わり、先輩の言いつけどおり女装した格好のままバスケカフェで接客をしていたら、見知らぬ男子グループに声をかけられた。
「惜しかったねー。あとちょっとで結婚できたのに」
そう、結果は俺の予想どおり、柊が勝った。あの色気には並大抵の女でも敵わないだろう。
「でも俺は君のほうがよかったよ~」
「おまえそれナンパじゃん」
「え、男いけたん?」
「だってマジで女子にしか見えんくない?」
確かに、と三人分の視線に晒される。そこは頷くな、否定しろ。同じ男ならわかるだろ、全く嬉しくないことくらい。
「俺君に投票したんだよね~。だからまけてよ」
「おまえそれずりーぞ」
「あちらでゴール決めれば無料になりますんで、ガンバッテクダサーイ」
適当に褒められた俺は適当に相手をする。
「ぶはっ、振られてやんの」
「えー、かなしー」
「他にご用がないなら失礼シマース」
「冷たーい」
悪いが俺は柊のようになんでもかんでもノれるタイプじゃない。
さっさとナンパ集団の許から下がった俺は、布で区切られたバックヤードに避難し先輩に文句を吐き出した。
「俺着替えていいですか!? さっきから変な客に絡まれるんですけど!」
「まーまー。おまえのクラスの劇、かなり話題になってっから仕方ねえって」
「それとこれとは別ですよね」
「いいじゃん。二位だったんだろ? 確かにかわいいよ」
「嬉しくないっす」
だったら先輩が女装しますかと迫ったら、呼び込み用の看板を持たされた。
「……なんすか、これ」
「接客しなくていいから、これで客連れてこい。十人連れてきたら終わっていいから」
「え、マジっすか」
「俺に二言はない!」
なんだその決めゼリフ。かっこいいなオイ。ただそのかっこいいセリフも、俺の頭を撫でながら言うのはやめてほしい。先輩だろうと容赦なく振り払った。
「あれ、そういえば悠人ってどこ行きました?」
「あいつには今俺のご飯をパシらせてる」
前言撤回。全くかっこよくないわ、この先輩。
「にしても遅いな? もし見かけたら早くしろって言っといて」
「覚えてたら言っときまーす」
まあ、たぶん覚えてないだろうけど、と内心で付け足した。
というか後輩をパシらせるなと文句を言いたい。
(まあいいや。悠人見つけたら、そのままサボるか)
上下関係はそこまで堅苦しくなくフレンドリーな部活なので、たぶんサボってもそこまで怒られはしないだろう。
それに、とりあえず今日中に十人の客を捕まえればいいのだから、間に休憩を挟んだところで問題はないはずだ。
「あれー、なっちゃんじゃん。まだ着替えてなかったの?」
適当に校舎を出て中庭をうろついていたら、柊と鉢合わせた。
あのプチミスコンの優勝者兼かぐや姫の結婚相手に選ばれたのに、結局かぐや姫に月に逃げられた不憫な男だ。
「嫁さんに逃げられた求婚者じゃん。そっちこそこんなとこで何してんの? 嫁探し?」
「普通に文化祭回ってるだけだよ。かぐや姫に逃げられたのは同じでしょ〜」
柊が唇を尖らせる。ははっ、と思わず笑ってしまった。
柊はすでに制服に着替えており、メイクも落としているようだ。
「いいな。俺も早く着替えたいしメイク落としたい」
「発言が仕事終わりのOLだね」
「好きで言ってねぇ」
柊は俺が手に持っている看板を見て、俺がここにいる理由を察したらしい。一応経緯を教えたら、どうせ暇だからと言って一緒についてくる。
「おまえ、他の友だちとかいいの?」
「んー、みんな店番とかで時間合わなくってさ〜。そういうなっちゃんこそ、三澄はどうしたの?」
「悠人は部活の先輩にパシられ中」
あの三澄が?と柊は意外そうに笑った。まあ気持ちはわかる。あいつは年上だろうと変わらず塩対応だ。
でもどうやら先輩のほうが上手だったのか、パシられる代わりに店番の時間を減らしてやろうという交換条件に悠人は乗ったらしかった。
「あいつチョロすぎだよな」
「でもなっちゃんも同じような条件で呼び込み引き受けたんでしょ?」
そのとおりすぎて俺は押し黙った。返す言葉もない。
苦戦すると思っていた呼び込みは、柊のおかげで予想外に順調にいった。
俺の呼び込んだ客のほとんどが女子だったことから、柊の見た目については察してほしい。普段は悠人も一緒にいるせいであまり目立たないが、実は柊もイケメンの部類に入る。
悠人がクール担当なら、柊は色気担当。だから女装した姿もあんなに色っぽかったのだろう。
「そういえばなっちゃん、うちの高校のジンクス知ってる?」
「知らねぇけど、どうせあれだろ。後夜祭で告ると永遠の愛になるとかそんなところだろ」
「ははっ。知らないのに当たってる」
「そういうのってだいたい相場が決まってるよな」
うちの高校の後夜祭は二日目にある。つまり明日。明日は告白する生徒が続出しそうだなと、俺はため息をついた。
「でもそのジンクスのせいで、モテる人は順番待ちとかできちゃうらしいよー。そういう人には、みんな前日から告るんだって」
「なんだそれ。ジンクスの意味あんの?」
「さあね~。でも三澄とか、まさに順番待ちされそうじゃない?」
柊が意味深長な視線を流してくる。
ああ、せっかくあの日の質問から逃げられたと思ってたのに、どうやら柊は逃がす気なんてなかったようだ。
――〝なっちゃん、三澄のこと、好きだよね?〟
そんなことを訊いて、柊はどうしたいのだろう。
そんなことを確かめたって、柊にはなんの得にもならないだろうに。
「これはさ、俺の独り言なんだけどね?」
脈絡もなく柊が口火を切る。
「実は俺、高校来る前に幼なじみに振られててさ~」
「え」
独り言だと前置きされたのに、その衝撃的な内容に俺はつい反応してしまった。
柊はそんな俺を一瞥するけど、すぐに前方へ視線を戻す。
「幼なじみって、友だちより距離近いじゃん? それがある意味よくないよね。近すぎて見えないの、自分の気持ち。相手に恋人ができて初めて、見えなかったものが見えちゃったって感じでさ」
柊は明るく話そうとしているが、遠くを見つめる眼差しは俺なんかじゃ計り知れないような切なさに満ちている。
「見えてなかったなら、いっそのことずっと見えなければよかったのに。何度もそう思った。思ったから、本当に見えないようにしたんだ」
柊の足が止まる。突然だったせいで俺のほうが少し先で止まり、俺は柊を振り返った。
「俺、直前で進路変えたんだよね。あいつと違う高校にした」
見えないように、というのは、要するに物理的に見ない場所を選んだということらしい。
「逃げたんだよ、俺。なっちゃんみたいにね」
優しい微笑みが、これほど寂しげに見えるのは初めてだ。
柊の声は俺を責めていない。ただただ、自分と同じ過ちを犯そうとしている相手を、心底心配するような声音だった。
「なっちゃんも、逃げてきたんだよね? ここに」
俺は答えない。答えられない。
「でも、三澄が追いかけてきてくれたんだよね?」
ああ、そうだ。悠人が追いかけてきたから、俺はまた三年間、気づかぬふりをし続ける日々が始まるのかと、絶望にも似た思いを抱いた。
でもそう思った俺はバカだ。そんな思いを抱いてしまった時点で、もう気づかないふりなんてできるはずもないのに。
本当はもうとっくに、気づいてしまっているのに。
「今度はさ、なっちゃんが追いかける番じゃない?」
「……柊は、なんで俺の背中を押すんだ?」
一瞬だけきょとんとした柊が、ふっと笑みをこぼした。今度の笑みは、寂しくも悲しくもない、優しさに溢れた笑みだった。
「そりゃ決まってるよ。なっちゃんが俺みたいだったから。もう一人の俺には、幸せになってほしくてね」
「別に俺、もう一人のおまえじゃねぇし、幸せになるとも限らねぇよ? 悠人のあれは刷り込みみたいなもんで、だから……」
だから?と柊が続きを強請るように首を傾げてくる。
開き直った俺は頭をがしがしと掻きながら答えた。
「だから、俺のとは違う」
「じゃああれ、いいの?」
「あれ?」
柊が俺の後ろを指差す。校舎と校舎の間。建物の陰になっているそこは、体育館の裏よりも有名な告白スポットだ。バスケ部の先輩がそう教えてくれた。
その陰の中に男女が二人いる。米粒とまではいかないけど、消しゴムくらいの大きさに見えるほど離れたところだったので、俺はその男女が誰なのかぱっと見た感じではわからなかった。
しかしすぐに男のほうが誰なのか気づく。悠人だ。
スタイルのいいシルエットだけでも間違いないとは思うけど、制服のズボンにバスケ部員がお揃いで着ているTシャツが見えたから、俺は確信を持った。
悠人と対面している女子は知らない。見えないのではなく、本当に知らない人だ。
「あー、たぶんあれ、先輩だね」
「マジ?」
俺の隣に並んだ柊が、遠くにピントを合わせるように眉根を寄せながら言った。
「つか、なにこのタイミング。おまえまさか知ってたの?」
「そのまさかなんだよね~。たまたま三澄が呼び出されてるところ聞いちゃってさ。たぶん大丈夫だとは思ったけど、なっちゃんがちゃんとしないから三澄が取られちゃうかも! って焦って焦って」
「いや、なんで柊が焦ってんだよ?」
俺はつい苦笑してしまう。俺と自分を重ねるにしても、お人好しがすぎるだろう。
「ふ……おまえ、思ったよりバカだったんだな」
「えー、なっちゃんに言われたくなーい」
「男同士で気持ち悪いとか言わないし」
「それねー。言ってほしかった?」
俺の瞳を覗き込んでくる柊に、俺は眉尻をへたりと下げる。
「ああ、言ってほしかった」
「自虐的だなぁ」
それは仕方ない。自虐的にもなるというものだ。
気づいたらたった一人が特別になっていて、その特別が同性で、同性同士を見る世間の目を知ってしまったら、あいつを巻き込みたくないと思うのが一般的な心理だろう?
だって多様性の時代だと謳われていても、やっぱりまだ世間は白い目で俺のような人間を見るから。
いや、見ると、思っていたんだ。
だから――。
「言ってくれないと、俺、柊を世間代表にしちまうじゃんっ」
声が勝手に震え出す。喉元に熱いものが込み上げてきて、それが鼻の奥まで刺激するからやってられない。
俺は泣き虫なんかじゃないはずなのに、目の奥からじわじわと涙が滲んでくる。
「もう、何が正解かわかんねぇよっ」
「うん、そうだね。正解がわかってたら、俺も振られてなかっただろうしね。――いいよ、俺を世間の代表にしちゃいなよ。なっちゃんは深く考えすぎなんだって」
「でも、巻き込みたくない……っ」
「三澄は巻き込んでほしそうだったけど?」
それは違う、と俺は激しく首を横に振った。
「あいつにとって俺は家族の代わりだ。あの執着だって、母親を取られたくない子どもと同じで、そういうのじゃない」
そういうのじゃないと自分に言い聞かせないと、俺の心は簡単に勘違いしてしまいそうになる。
勘違いで突っ走るわけには、いかないのだ。
「失敗できないんだ、これだけは」
悠人に嫌われることだけが、俺が唯一恐れていることだ。
たとえ悠人と離れることになっても。悠人が俺以外の誰かを一番に選ぶとしても。
優しい声で俺を呼んで、優しい手で俺に触れて、優しい瞳で俺を見つめてくれていた悠人に、拒絶されるのだけがひどく怖い。
臆病でもなんでもいい。あいつに嫌われたら生きていけないのは、俺のほうなのだ。
「やっぱり俺、無理だ。だって悠人、俺に復讐してる。言ったら絶対嫌われる」
「復讐? なにそれなっちゃん、どういう――」
「夏生!」
するとそのとき、離れた場所にいたはずの悠人がいつのまにか俺の腕を引いていた。
油断していた俺は驚いて、タイミングも最悪だったせいで反射的に悠人の手を振り払ってしまう。
目を見開いた悠人と、視線がぶつかる。
「夏生……?」
「あ、ごめっ」
「夏生、泣いてるの?」
目尻から零れた小さな雫を、悠人は目敏く見つけてしまったらしい。
俺を自分の背に隠して、柊を鋭く睨む。
「おまえが泣かしたの、保坂」
「さあ、どうだろうね?」
ギリッ、と悠人から歯ぎしりのような音が聞こえてきた。
一触即発のような空気が流れたのに慄いたのは、俺である。俺は別に柊に泣かされていないし、俺のせいで二人が険悪になるのは嫌だ。
「悠人、違うんだ。これは俺が勝手に泣いただけで……てかおまえ、あっちで告白されてなかった?」
「は? 今そんなことどうでもいいよ。なんで保坂を庇うの?」
「庇ってるんじゃなくて、柊はむしろ慰めてくれてたっていうか」
俺が言い募れば言い募るほど、悠人の眉間のしわが険しくなっていく。
「慰めてたってなに? なんで保坂が? なんかあったなら、なんで俺に言ってくれないの?」
悠人が俺の両腕を掴んでくる。思いの外力が強くて、俺は痛みに眉根を寄せた。
そのせいで俺の手から看板が滑り落ちてしまい、柊が拾ってくれる。
「あのさ、三澄。少しは落ち着いたら? そうやって一方的に責めるから、なっちゃんは何も言えないんじゃないの?」
「っおまえに夏生の何がわかるんだよ! たった数カ月の関係で知ったような口利くな!」
悠人の怒鳴り声が中庭に響いた。周囲にいた他の生徒たちも注目し始めて、さすがの俺もまずいと我に返る。
「悠人、ちょっと声抑えろ。みんなこっち見てるから」
「見てるからなに? 周りの目のせいで、夏生は俺に何も言ってくれないんじゃんっ」
「は……?」
その瞬間、俺の顔からサッと血の気が引いた。悠人の言葉の意味するところを、頭より先に心が理解してしまった。
追い打ちをかけるように悠人が続ける。
「気づいてるよ、俺。でも夏生は気づいてない。ううん、気づかないふりしてる。でもそれって全部周りのせいでしょ? 周りから俺を守ろうとしてるからでしょ?」
「おまえ、なんでっ……」
「わかるよ。言ったじゃん、何年幼なじみやってると思うの?」
指先が凍ったように冷えていく。
ずっと慎重に、慎重に、隠してきたものだった。
それがまさか、本人にバレていたかもしれないなんて、そんなの……。
「周りのせいで夏生が俺を拒むなら――俺がどんなに頑張っても気づかないふりを続けようとするなら、もう周りなんていないところに連れてっていいっ? そしたらちゃんと俺と向き合ってくれる?」
「向き合う、て……」
悠人が急に腕を引っ張ってくる。色々な衝撃で身体に力が入らない俺は、悠人に連れられるまま校舎に入り、誰もいない空き教室に押し込められた。
振り返り様、悠人に抱きしめられる。
「キスの意味、答えを教えてよ。夏生」
春高祭が終わるまでに、と約束していたそれを、悠人が今強請る。
本当は有耶無耶にしてはぐらかすつもりだったのに、悠人に俺の想いがバレていたかもしれない焦燥感を募らせていたところに嗅ぎ慣れた匂いに包まれてしまったせいで、安堵感からぽろりと口を滑らせてしまった。
「復讐だと、思ってた」
「復讐? なんで? 俺が夏生に復讐することなんてないよ!」
「だって俺が、約束破ったから。約束破って、おまえから離れようとしたから」
すると、悠人がばっと身体を放し、俺と視線を合わせてくる。
「そうだよ、だから俺はキスした! 復讐なんかじゃなくて、ああでもしないと夏生が一生俺と向き合ってくれないと思ったから!」
必死な形相で言い募る悠人に、俺は目を点にする。
だって今、復讐じゃないと、こいつはそう言ったのか?
「おまえ、俺に怒ってるんじゃねぇの……?」
「怒ってるよ! 俺から離れようとしたのは怒ってる。でもそれがあったから、俺もただ押すだけじゃだめだって気づいたんだ」
俺が話の途中で逃げないようにだろうか、悠人がしっかりと俺の手を握り込んでくる。
「俺が無理やり自覚させるだけじゃなくて、夏生自身に俺と向き合ってもらわなきゃだめなんだって、気づいた。じゃないと、夏生はまたいつか、周りを気にして俺から離れようとする気がしたんだ」
そんな俺を俺自身が想像できてしまって、悠人の読みが当たっていることに申し訳なさを覚える。
「ねえ夏生、大好きだよ。これは刷り込みじゃない。幼なじみとしてでもない。キスしたいほうの、大好きだよ。だからキスした。これでキスの意味、ちゃんとわかってくれた?」
悠人の俺を見る目があまりにも情熱的で、俺の引いていた血の気がどんどん戻ってくる。
俺はいったいいつから、こんな目で悠人に見つめられていたのだろう。自分のことでいっぱいいっぱいだった俺は、ずっと気づけずにいた。
「それでも周りが気になるなら、俺が夏生の目も耳も塞いであげる。俺しか見えないようにするし、俺の声しか聞こえないようにするよ」
「……物理的に?」
「物理的にしていいの? それなら喜んで夏生を独り占めするけど」
「冗談だバカ」
そう言うと、悠人が少しだけ残念そうに唇を尖らせる。
俺はしばらくそんな悠人の顔を見つめて、その顔のどこにも嘘がないことに気づくと、ぽつりと口を開いた。
「なあ、悠人。俺、おまえのこと、本当に好きだよ」
悠人がすぐさま俺に抱きついてこようとする気配を察して、俺はそれをいったん止める。
「本当に、好きなんだ。だから、中学のときみたいに、俺はいいけど、おまえをあんな晒し者みたいにしたくない」
「俺は別に構わない。夏生が俺といてくれるなら、晒し者にはならないよ」
だってさ、と悠人が仄かに笑う。
「晒し者って、恥をかいた人のことでしょ? 俺、夏生への気持ちを恥だなんて思ったこと、一度もないもん。夏生は俺を想うこと、恥ずかしいって思う?」
「なっ、思うわけないだろ、絶対!」
「ふはっ。よかった」
ぎゅうっと悠人に温もりに包まれて、俺は我知らずほっと息をついた。
ずっと無意識のうちに張っていた力が、抜けたような感覚がする。
「は~、ヤバイ、ほんと嬉しい。やっと夏生が俺を見てくれた」
「……なんか、悪いな」
「全然! 最悪高校三年間は見積もってたから、俺。むしろこんなに早く夏生が折れてくれて嬉しいくらい」
だいぶ長期戦を覚悟していたらしい悠人の心の内を知って、俺はなんだか居たたまれなくなる。
俺のほうは逆にまた三年間どう逃げ切ろうかと考えていたくらいなので、これは悠人には秘密にしておいたほうがよさそうだと判断した。
「てか、俺がおまえのこと、その、そう想ってるって、いつから気づいてたんだよ?」
悠人は気づいていたのに、俺はそれを知らずに一人で空回ってたなんて、なんとも恥ずかしい話だ。今さらその羞恥心が襲ってくる。
「ああ、それね。夏生が俺を避けてたときだよ」
あのときに?
予想もしていなかった答えに、俺は唖然とした。だってあのときは悠人とほぼ顔を合わせていなかったはずなのに。
「ほら、前にさ、夏生が俺と女子が歩いてるところを見たって言ってたでしょ?」
「……まあ」
「そう、それ! その顔!」
いきなり両頬を掴まれてそう叫ばれた俺は、何がそれなのかわからず困惑する。
「あれね、実は夏生に好意を寄せてた女の子を諦めさせるために、ちょ~っとハニートラップ的なことをしてたときだったんだけど」
「は? ハニー……え?」
「まあそれはいいとして。そこを偶然夏生に見られちゃったとき、夏生が相手の女の子のこと、ものすごい形相で睨んだの。ギラギラに嫉妬した目でね。俺それ見て、ほんと、めちゃくちゃ興奮した……」
「いやちょっと待て?」
ツッコミたいところがたくさんあるぞ。
「俺に好意寄せてた女の子ってなに? ハニートラップって? てか俺、そんな睨んでた?」
次から次へと質問する俺を厭うことなく、むしろ嬉しそうに悠人が答える。
「夏生って面倒見いいし、明るいから、夏生が思ってる以上に実はモテてるんだよ」
「そうなの?」
「でも全部俺が追い払ってた。俺がちょっといい顔するだけで、みんな俺に乗り換えるの。そんな軽薄な奴らに誰が夏生を渡すと思う? 思わないよね?」
いや俺に同意を求めんな。
てかマジかよ。俺がモテなかったの、こいつのせいだったの?
「あ、ハニートラップっていっても安心して? 俺、普段が塩対応なせいか、微笑むだけで評判よかったから。手も繋いだことないよ」
「おまえ……マジか」
「マジだよ。本当は微笑むのも面倒だったけど、頑張ってよかったぁ。これでわかってくれた? 中学のは誤解だってことと、俺がどれだけ夏生にしか興味がないか」
「そうだな……さすがにわかった」
「ふふっ」
悠人がぐりぐりと顔を寄せてきて甘えてくる。
こいつの執着心を完全に舐めていたと思いながらも、それに喜んでしまっている自分に気づいてしまえば、俺の執着心も負けてないなと小さく笑みをこぼした。
「ね、夏生」
「なに?」
「今日から俺たち、恋人でもあるんだよね?」
「あー、まあ、そうなる、かな」
「そうだよ! 夏生は俺の彼氏! だからもう、よそ見はしないでね?」
こちらを窺うように悠人が瞳を揺らす。
俺は今まで一度もよそ見なんてしたことはないけれど、不覚にもそう言われてきゅんとしてしまったので、悠人の頭を撫で回してから額にキスをした。
「はいはい、おまえだけ見てるよ。これからもずっとな」
「~~っ夏生大好き!」
でもなんで額なの!と文句を垂れる悠人と、賑わう文化祭の輪の中に戻っていった。
エピローグ
晴れて付き合い始めた俺と悠人だが、特に大きく変わったところはない。
なにせ今までもほとんど一緒にいたため、誰も俺たちの関係性に変化があったことなんて気づかなかった。
たった一人を除いては。
「なっちゃーん。この人、さすがにそろそろどうにかしてよ~」
俺の背中を押してくれた柊だけは、俺と悠人の変化を知っている。
昼休みの今、悠人は相変わらず俺を自分の膝の上に乗せて抱きついているのだが、夏休みに髪を染めようか悩んでいると言う柊が俺の髪色を見ようと触れた瞬間、ハエ叩きの勢いでその手を振り払った。
「三澄ぃ、先に言っておくけど、俺夏休みは友だちと遊びたいんだよね~」
「勝手に遊べば?」
「俺の友だち枠にはなっちゃんも三澄も入ってるけどいいの?」
「だめ。無理。そもそも友だちじゃない」
「わ~、ほんとなっちゃん以外には辛辣~」
柊はそう言うが、俺的には案外悠人も柊には心を開き始めているような気がする。
「なっちゃーん。俺とも遊んでよ~」
「俺はいいぞ。柊いつ空いてる?」
「えーやった! さすがなっちゃん」
「夏生!? なんで!? 夏休みはずっと俺と一緒じゃないの!?」
んなわけないだろ。俺だって一人の時間がほしいときもある。悠人には内緒だが、秋の悠人の誕生日プレゼントを買うために、初めてバイトなるものに挑戦してみようとも思っているのだ。
「俺この日空いてるよ~」
「だめ。その日は俺とデート」
いや、そんな予定入れた覚えないけど。なぜか俺じゃなくて悠人が断っている。
「んじゃ、この日は?」
「その日も俺とデート」
「この日!」
「デート!」
「なっちゃん!」
「夏生!」
二人して俺に振らないでほしい。別に三人で遊ぶくらいいいじゃんと俺は思うのだが、悠人は気に入らないようだ。
仕方ない。さすがにこれでは柊がかわいそうだ。実際柊のおかげで悠人に想いを告げられた面もあるので、お礼はしたいと思っていたのだ。
俺は最終奥義を繰り出すことに決めて、悠人の耳元で囁いた。
「柊と三人で遊ぶ日、二人きりになれない代わりに、泊まりに来ていいから」
「えっ!」
もう何度も俺の家に泊まりに来たことのある悠人だが、今の関係になってからはまだない。
目を丸くしてしばらく俺を見つめていた悠人が、すっと真面目な顔になって柊へ視線を移した。
「――保坂、この日は?」
「空いてるけど」
「じゃあこの日だ。この日だけ、許してやる」
「えっ、いいの? やっぱなしはナシだよ?」
「おまえもこの日は死ぬ気で来いよ。事故に遭っても来いよ」
「事故に遭ったらさすがに行かないかな……」
柊がドン引きしながら答えた。
そんな二人に俺は吹き出す。
また耐える日々が繰り返されると思っていただけに、こうして何も隠すことなく笑い合える幸せを噛みしめる。
昼休みが終わるチャイムが鳴って、みんなが授業の準備を始める。
悠人が席に戻れるよう立ち上がった俺は、椅子から腰を上げようとしている悠人の髪をくしゃくしゃと撫で回した。
「どうしたの?」
「んー、いや、かっこいいなと思って」
「……!?」
すると、悠人が正面から盛大に飛びついてきた。幻の尻尾が見える。
「俺も大好きだよ、夏生!」
「声がでけぇ!」
クラス中の視線が俺たちに集まったのは、言うまでもない。
俺には幼稚園の頃から知っている幼なじみがいる。
顔良し頭良し、運動神経も良しのいわゆるパーフェクトボーイ。小学校でも中学校でも、とにかく女子からモテまくって、大人もちやほやするレベルの男だ。
同級生の中では成長が早かったからか、背も高く落ち着いた雰囲気のあるあいつは、中学に上がった頃にはよく年上に間違えられることもあった。
それでも俺は、本当はあいつが泣き虫だって知っている。必死に「夏生、待って」と後ろからついてくるあいつを、俺はどうにも放っておけなかった。
たとえ、俺の好きな子があいつを好きになっても。
親にあいつのほうがしっかりしていると比べられても。
友だちによくあんな完璧な奴とつるめるよなと憐れられても。
夏生がいいのだと言って伸ばされるあいつの手を、俺は振り払えなかった。
けど、中学最後の部活の大会。
バスケ部に入っていた俺たちは、一緒にレギュラーになって大会で勝とうと約束していた。
それなのに、選ばれたのはあいつだけ。俺はベンチの補欠。
大会で活躍するあいつをベンチから眺めていたら、俺の中の何かがぷつっと切れた音がした。
俺を頼るあいつはもういないんだって、俺がいなくてもあいつはもう平気なんだって、心が理解してしまったのだ。
だからあいつ――三澄悠人のいない高校を、選んだはずのに。
「……悠人、なんでおまえ、ここにいんの?」
桜が満開を迎えるハレの日。
胸に期待と希望を抱いて参加した入学式で、俺が今一番見たくない男の顔が視線の先にある。
少しだけくせっ毛の黒い髪が風に乱れても、その澄ましたような真顔は少しも崩れていない。俺を見て驚いた様子がないということは、悠人は俺がこの高校にいることを知っていたということになる。
ここを受験したことは、誰にも伝えていなかったはずだ。
親にだって口止めした。他の仲のいい友だちにだって言わなかった。
家から遠いここは、同中の人間だってほとんどいないはずなのだ。
(なのになんで、一番離れたかったおまえがいんだよ……!)
睨みつければ、悠人が無表情のまま静かに答える。
「なんでって、夏生がここにいるから」
ああ、最悪だ。またこれまでの繰り返しが始まる。それが嫌だから悠人と違う高校に行きたかったのに、なんでおまえは来ちまったんだ。
「それより夏生、髪染めたんだね」
「それよりじゃねぇよ……っ」
「似合ってる。夏生みたいにきらきらしてて、きれいな色」
「人の話聞けよおまえ。ほんとなんで、おまえがいんだよっ。おまえがいたら意味ねぇじゃん」
思わずその場でしゃがみ込むと、体育館に向かっていた他の新入生たちの視線がちらほらと突き刺さった。
「うん、夏生は嫌がるだろうなって、わかってたよ」
「わかってたなら来んなよ」
「でも俺、夏生がいないとだめだから」
嘘つけ、と声にならない声で反論する。俺がいなくても、悠人はどこでだってやっていける。俺はそれを知っている。
また三年間、劣等感にまみれた日々が始まるのかと思うと、俺はしばらくその場を動けずにいた。
第一章
人は欲しいときほど探しものを見つけられないように、避けたいときほど避けられない運命にあるのかもしれない。
体育館で式が終わったあと、新入生たちは掲示板に貼り出された紙に書かれた自分のクラスへ各々向かった。
もちろん俺の名前も三組のところで見つけたので、俺がこれから向かうべきクラスは一年三組である。
この学校は学年が若い一年生の教室が最上階に当たる四階にあり、学年が上がるごとに階数は下がっていく。若いのだから階段が多くても平気だろ、という学校側の無言の圧力を感じる配置には文句も言いたくなるけれど、俺が教室に向かうのが憂鬱なのはそれが理由ではない。
これまた一年生を示す赤色のラインが入った上履きでわざとらしく音を立てながら、俺は階段を上っていく。
怒りのような、やるせなさのような、そんな自分でもよくわからない苛立ちを階段にぶつけているのだが、不思議そうな同級生の視線には気づいていないふりをした。
「夏生」
「…………」
「ねえ、どうせ一緒のクラスなんだから、一緒に行こうよ」
そう、俺の心がこんなにも荒ぶっているのは、まさかの悠人と同じクラスだったからだ。
俺の名字は『槇』。悠人の名字は『三澄』。同じま行の名字なせいで、悠人の名前をわざわざ探そうとしなくても、同じクラスであることはすぐにわかってしまった。
「ねえ、夏生」
すでに賑やかな三組の教室へ足を踏み入れる。その後ろを悠人がついてくるが、無視して黒板に貼られた席順を確認した。
「あ、俺と夏生、また前後だね」
予想はしていたが、悠人の言葉に舌打ちする。名字の弊害はこういうときにもあって、大抵新学期のクラスの席順は五十音順なのが憎たらしい。
さっさと自分の席に座って、先生が来るまで寝たふりでもしよう。そう考える。どうせこのあとは簡単なオリエンテーションを聞いて終わりで、特に授業という授業もない。
俺の席は、ま行以降の名字が少ないせいか、一番廊下に近い列の前から二番目だった。
一番目の席にはすでに知らない男子生徒が座っている。ダークブラウンの髪をマッシュの形に整えた、垢抜けた感じの男だ。
せっかく前後の席なのだし、後ろの席の奴とは仲良くする気もないので、ちゃんと挨拶をしようと声をかけたとき。
「夏生、俺が先」
前の席の奴が振り向いてくれたのに、俺とそいつの間に悠人の顔がどんと割り込んできた。ムカついて悠人の顔を横へ押しのけながら自己紹介する。
「俺、槇夏生。一年間よろしく」
俺の強引な「よろしく」に、相手は目をぱちくりと瞬いたあと、俺に邪険にされている悠人をチラ見する。
何かを逡巡するような気配を滲ませた相手だが、案外早く考えることを放棄したようで、俺に向かってにっこりと笑顔を見せてきた。
「こちらこそよろしく。俺は保坂柊真。柊でいいよ~」
見事に悠人を無視した返しに、俺は思いきり噴き出した。
「柊な。俺も夏生でいいよ。おまえ面白いな」
「じゃあ『なっちゃん』にしよ。え? どのへんが面白かった?」
「なっちゃんは嫌なんだけど……いやだってほら、な?」
俺が悠人を一瞥すると、その視線だけで俺の言いたいことを理解したらしい。柊は「あ~」と言いながら頬を掻いた。
「だってなんか、面倒くさそうだったから?」
ぶはっ、とまた噴き出してしまう。柊はなかなかいい性格をしていそうだと、この短時間で把握する。
俺に顔を押しのけられたままの悠人は、そんな俺たちの会話が面白くないのか、柊を睨んでいた。
まあ、面白くないのは当然か。俺は悠人を無視しているし、柊は初対面なのに「面倒くさい」と言い放ったのだから。
でもだからこそ、俺は柊を気に入った。
悠人のことをそう評価する人間は稀だ。その証拠に、教室にぞくぞくと集まってくるクラスメイトたち――特に女子――は、みんな一度は必ず悠人を凝視している。
正確には、悠人の顔を。
ひそひそと話す女子の会話は聞こえてこないけれど、彼女たちの瞳が恋する乙女のように輝いているところを見れば、何を話しているのかなんて簡単に想像がつくというものだ。
はあ、と俺はわざとらしいため息を吐いた。
悠人の顔を押しのけていた手を、奴の頬から顎へ移動させる。そして無理やり柊の方を向かせて女子からは見えないようにすれば、俺は悠人の噂をしている女子たちを軽く睨んだ。女子たちが慌てて視線を逸らしていく。
実は中学のとき、悠人はストーカー被害に遭っている。またああいうのはごめんだ。
女子に釘を刺したあと、俺は柊に向けて口を開いた。
「こいつは三澄悠人。愛想ないのは人見知りのせい。慣れればまあ、たぶん大丈夫」
「たぶんなの?」
「たぶんなの」
「ははっ、了解。んじゃよろしく~、悠人」
柊がへらりと笑って挨拶するが、悠人は品定めするような目で柊を見下ろすだけで何も応えない。俺が窘めるように悠人の名前を呼んでようやく、悠人は挨拶を返した。
「……よろしく。でも名前じゃなくて名字で呼んで」
「おっけおっけ。三澄ね。みーちゃん?」
悠人が心底嫌そうに顔を歪める。綺麗な顔が歪むとなかなかの迫力だが、柊は特にダメージを負っている感じはなさそうでハートが強いと思った。
「ごめんって~。ちゃんと三澄って呼ぶから、そんな怖い顔しないでよ」
「夏生のことも名字で呼んで」
「え、なっちゃんも? でも本人は了承してくれたよ?」
「いやしてねぇよ?」
むしろ嫌だと言った覚えしかないのだが。
なるほど。なんとなく柊のキャラを掴み始めてきた気がする。今まで周りにいなかったタイプだ。
「ところで、なっちゃんと三澄は同中? 知り合いっぽいよね」
「あー、まあ、そうだな」
「それだけじゃない。俺たち幼なじみだから。家も隣同士で、幼稚園からずっと一緒。おまえとは年季が違う」
なぜか悠人が張り合うように答えた。
しかも俺と柊の間にいたくせに、わざわざ俺の背後に回って、後ろから抱きつきながらだ。俺は意味がわからず硬直した。なんだこの距離感は。
確かに中学二年までの俺たちなら、この距離感もおかしくはなかった。悠人はいつだって俺にべったりだったし、俺もそれを受け入れていた。悠人が泣き虫なだけじゃなく、寂しがり屋であることも知っていたからだ。
けど中学最後の約半年間、俺は悠人を避けていた。
夏の最後の大会で生じた確執には、悠人も気づいていたはずだ。だから必要以上に俺に近寄ってこなかった。
なのに、なんで昔の距離感に戻っているのか。
鬱陶しくて振り払おうとするが、悠人もまた放さないとばかりに力を込めてくる。
「ふ~ん、幼なじみねぇ。なんか俺には、三澄が一方的に片想いしてるようにしか見えないけどねぇ」
「はあ? 片想いって、俺も悠人も男だぞ?」
「そこはあれだよ、ものの喩え的な。ね、三澄?」
柊の視線が俺を飛び越えて悠人にいく。俺から悠人の表情は見えないけれど、悠人が柊を敵認定したであろうことは雰囲気で察せられた。
「片想いじゃない。両想い」
「バカか悠人。おまえも変な悪ノリすんな」
悠人の頭を軽く叩く。普段は冗談なんて言わない奴なのに、どうして今の冗談には乗ったのか謎だ。
けれど、一番のバカは自分だろう。少し前まで避けていたはずの幼なじみを、どうして俺は強く拒絶しないのか。
この三組の担任だという教師がやってきて、オリエンテーションが始まったあとも、俺の意識は背中に集中していた。
どうしてなんて、本当はわかっている。
徹底的に避けなければ避けられないほど、俺は三澄悠人という男に弱いからだ。
悠人の寂しそうな顔や困った顔にすこぶる弱い。それは幼い頃に植え付けられた条件のように、悠人のそんな顔を見てしまうと反射的に受け入れ態勢をとってしまう。
(それもこれも、全部悠人ん家のせいだっつの!)
あいつの家庭環境は少々複雑なのだ。そのせいで、俺は嫌いになりたい幼なじみのことを完全には放っておけない。
(つーか誰だってそうだろ。嵐の夜に子犬が捨てられてたら、なんとかしなきゃって思うだろ!)
悠人の顔さえ見なければ離れられると思ったのに、同じ高校、同じクラス、さらには席も前後とくれば、顔を合わせないようにするほうが至難の業だ。
それでも思い描いた青春を過ごすため、俺は悪足掻きのようにオリエンテーションが終わって帰っていいという担任からの許可が出た途端、教室を飛び出した。
いくら地元から離れた高校を選んだとはいえ、一人暮らしは当然許されず、実家から通っている。それはおそらく悠人も同じだ。
となると、片道約一時間半、悠人と帰るのは避けたい。
なんなら幼なじみであることも、本当はバレたくなかったのに。
電車で通学しているので、校門から徒歩十分の最寄駅まで駆け抜ける。
「よし、三分のに間に合ったな。これならあいつも追いつけないだろ」
「そうでもない。俺の五十メートル走のタイム忘れた?」
「忘れるかよ、六秒……は!? 悠人!?」
普通に受け答えしてしまったが、隣にはいつのまにか悠人がいた。しかもこっちは走ったせいで呼吸も乱れているというのに、悠人は涼しい顔である。こういうところがムカつくのだ。
「おまっ、ふざけんな。なんで追ってきた?」
「一緒に帰ろうと思って」
「帰りたくないからダッシュ決めたんだよ、空気読め!」
悠人がしょんぼりと眉尻を下げる。だからその顔をやめろというんだ。ついつい頭を撫でて慰めたくなってしまうではないか。
(昔はこいつ、本当に泣き虫で、転べば泣くし、かくれんぼで見つけてもらえなくても泣くし、俺が風邪で幼稚園休むだけで泣いてたんだよな)
そのたびに大丈夫だからと頭を撫でてあやしていた。頭を撫でればすぐに泣き止むのがかわいかった。
でも俺が悠人に対して甘くなったのは、小学校に上がってからのことだ。
あんなに泣き虫だった悠人が、途端に泣かなくなった時期があった。最初は特に気にしていなかったけれど、たまたま公園の滑り台の陰で一人泣いている悠人を見つけて、そこで初めて、俺は悠人の抱える闇を知ったのだ。
幼なじみなのに全然気づいてやれなかった罪悪感が、俺を悠人に激甘な人間にした。
とにかく悠人を甘やかすようになったのだが、それがよくなかった。
悠人は俺に前より懐き、なんでも俺の真似をするようになったのだ。
俺がやるゲームをやり、俺の持っている文房具とお揃いのものを買い、俺がスポーツ少年団に入れば悠人も入りたがった。
しかしまだ子どもだった俺たちは、親の賛成がないと何もできない。悠人の両親は悠人がバスケを始めることには反対で、泣く泣く悠人は諦めた。
と思ったのだが、それが俺も含めた周りの思い違いだったらしいと気づかされたのは、悠人が中学の部活で迷わずバスケを選んだときである。
もちろん俺もバスケ部に入部した。というか、俺がバスケ部に入ったから悠人はバスケを選んだのだろう。なにせ入部届を出す前に「夏生はバスケ部だよね?」と確認されたから。
うちの中学は文武両道だったから、生徒は必ず部活に入ることが求められていたのだ。これには学歴至上主義の悠人の両親も反対などできず、悠人は楽しそうに部活をやっていた。
でも、そんな俺よりバスケ歴の短い男が、あっという間に俺より上達して、最後の大会ではエースとして出場し、一方俺はレギュラー落ちなんて、こんなに屈辱的で恥ずかしいことがあるだろうか?
しかもその大会の前、悠人は俺のプライドをズタズタにしたんだ。
「おまえ、俺がおまえを避ける理由、わかってるよな?」
三年間の平穏を勝ち取るために強めの口調で問いただしたとき、運悪く電車がホームに入ってきてしまった。
仕方ないので近くのドアから乗り込む。当然悠人も後に続いたが、話の途中だったので追い払うことも逃げることもできず、俺はドア付近に佇んだ。
俺の正面に立った悠人が、俺が逃げるのを防ぐためか、制服の袖を掴んでくる。
「俺がレギュラーとったから?」
「ちっげぇよ。俺がそんなことで怒るほど器の小せぇ奴だと思ってたわけ?」
「ち、違うよ。思ってない。思ってないけど、あの大会からじゃん、夏生が俺を避けるようになったの」
なるほど、夏の大会が原因だってことはわかってても、ピンポイントの理由はわかってなかったのか。
その無神経さに苛立てばいいのか、何も言わずに避けた俺自身も反省すべきなのか。
「それともなに? 引退前に夏生に告白しようとしてた女子を、さりげなく牽制したこと? それに気づいて怒ったの?」
「そう牽制……って、はあ!? 牽制!? なにしてくれてんのおまえ!?」
「なんだ、違うのか」
「おまっ、開き直ってんじゃねぇよ!」
なにそれ初耳なんだけど。
女子の視線はいっつも悠人がかっ攫うせいで、俺は中学時代、モテたためしがない。それどころか誰かに告白されたこともない。
「人の青春をなんだと思ってんの?」
「俺と青春すればいいじゃない。高校でもバスケ、続けるでしょ?」
イラッとした俺はつい口を滑らせてしまった。
「やんねぇよ。おまえとは絶対違う部活にする」
「なんで?」
「なんでじゃない。おまえと同じ部活は二度としない。忘れたとは言わせねぇからな。おまえ、あの大会でレギュラー落ちした俺に何言ったか、本当に覚えてねぇの?」
いつまでも袖を掴まれたままは癪だったので、振り払ってそう訊ねた。
諦めずに再び伸ばされる手も、直前で叩き落とす。
「俺が夏生に……? あ、もしかして『夏生がいないなら俺もレギュラーから外してもらう』?」
「それだバカ」
人がどれだけバスケのために努力してきたか知りながら、悠人はそう言い放ったのだ。ふざけている。あのとき悠人を殴らなかった俺を誰か褒めてほしい。
それまで俺は、自分よりバスケ歴が短いくせに自分よりうまくなっていく悠人に確かに焦りを感じていた。
けれど、だからこそいいライバルだと思っていたのだ。切磋琢磨できる、いいライバルだと。
「なのにおまえは違った。そんな言葉が軽々しく出てくるなんて、俺のこと舐めすぎだろ。チームメイト全員にも失礼だった」
「それで怒ってたの……」
「そうだよ。何も言わずに避けた俺も悪かったからこうして話したけど、わかったらもう話しかけてくんな。俺はおまえとバスケはしない」
これで話は終わりだと言わんばかりに、俺は隣の車両に移ろうとした。
が、すぐさま悠人に腕を掴まれる。電車内のため強い抵抗ができないのがもどかしい。
「わかった。じゃあ俺、バスケやめる」
「人の話聞いてたか!?」
つい反射的に大声を出してしまって、大量の見知らぬ目が一斉に俺に向けられた。居たたまれなくなって俺より背の高い悠人の陰に身を隠す。
しかしそれは失敗だった。悠人を盾にした俺を、これ幸いとドア側に追い詰めた悠人は、ドアに両手をついてまるで檻の中に閉じ込めるように逃げ道を塞いできた。
「俺がやめるから、夏生はバスケ続けなよ」
「はあ?」
「だって夏生、バスケ好きでしょ」
そりゃあ好きだ。だからミニバスから始めて中学まで続けた。
でもそれは、悠人にも言えることだと俺は知っている。
「おまえ、それで俺が喜んで頷くと思ってんの?」
「だってこれしかわかんないよ。どうしたら俺のこと避けないでくれる? あのときのこと、確かに失言だった。ごめん。俺はただ夏生と一緒に試合に出たかっただけなんだ。一緒じゃなきゃ意味がなかったから」
俺の肩に顔を埋めてきた悠人は、でっかいワンコのようだった。尻尾も耳も垂れ下がっている。
(だから、俺はおまえのそれに弱いんだよ……っ)
今までなら「おーよしよし」と撫でて機嫌をとっていたけれど、悠人の柔らかい黒髪に触れるべきか否か、俺は逡巡する。
夏の大会前。最後の大会。あのときは傷ついたしショックも受けた。
でも悠人を避けていた約半年の間に、俺の怒りが徐々に下降気味だったのは否めない。
(怒りって持続しないって言うもんな)
はあ、とため息を吐き出した。
「おまえ、中学のときに俺をそっとしておいたの、わざとだろ」
俺が悠人のことをよく知っているように、悠人も俺のことをよく知っている。俺があまり怒りの感情を持ち続けられないことを、悠人は見抜いていた。
そして俺の怒りを収めるのに何が有効かも、こいつは理解しているのだ。
だから俺が悠人を避けていた半年間、こいつは一度も自分から俺に接触してこなかった。
「……うん。だって夏生、いつもそうでしょ。喧嘩したときは頭を冷やす時間が必要で、頭が冷えたあとなら、ちゃんと俺の話聞いてくれるよね」
ああそうだ。悔しいことに当たっている。そして俺の頭が冷えたタイミングを窺うのが、こいつは異様にうまいのだ。
「でも今回は全然冷えてくれる気配がなくて、正直焦った。俺に内緒で高校決めたの知ったときは、本格的に嫌われたかもって」
「そうだよ。だからもう――」
「やだっ」
ぐりぐりぐり。悠人が俺の肩に頭を擦りつけて攻撃してくる。
「ちょ、地味に痛ぇって」
「ねえ、本当にごめん。俺が夏生のこと大好きなの知ってるでしょ。そんな夏生と一緒に出たくて、つい言っちゃっただけなんだ。お願い、許してよ」
なんとも恥ずかしい奴だ。そういうのを臆面もなく言えちゃうのが悠人の厄介なところであり、かわいいところなのだろう。図体は全くかわいくないけれど。
(……結局悠人の奴、あの言い訳はしなかったな)
実は俺は、自分がレギュラーから落とされた本当の理由を知っている。
実力不足ではなかった。ただ、俺と同じポジションを争っていた奴の親が、コーチをしていた。そしてそいつは、俺と同じ三年生。
いわゆる大人の事情というものが介入したと気づくのに、時間はかからなかった。誰もが陰で噂をしたけれど、誰もがコーチを恐れて口にしなかった。
そんななか、悠人だけが反抗心を見せたのだ。俺が出ないなら自分も出ないと、チームのエースが大人に刃向かおうとした。
俺が本当に怒ったのは、悠人にそんなことを言わせてしまった自分自身にと、たとえ俺のためだったとしてもそれで俺が喜ぶと思った悠人への失望の、半々である。
同時に怖くなった。このままじゃきっと、俺のせいで悠人をだめにしてしまうんじゃないかと思って。
だからこの機会に別々の高校に進学して、お互いに幼なじみ離れするのがいいかもしれないと考えたのだ。
これが今回の喧嘩の全容。俺の悠人への怒りがずっとは継続しなかったのも、これが原因だ。
悠人がもしコーチのことを言い訳に出してきたら、俺も俺の思いを全て打ち明けて、全力で離れようとしたけれど。
結局今回の喧嘩も、俺が折れることになりそうだ。
「あーもう、わかったよ。俺の負け。もう避けない」
「本当!?」
「ほんと。ただし、条件がある」
俺の肩に埋めていた顔を勢いよく上げた悠人が、満面の笑みを一瞬にして曇らせた。本当にワンコのようにわかりやすい奴である。
「おまえはバスケを続けること。おじさんとおばさん、バスケならもう文句言わないだろ?」
「言わないけど……どうせ成績が落ちたら言ってくるよ」
「だったら落とすな」
「えー」
「俺も一緒に勉強するから」
「それなら頑張る」
悠人の家は、父・母・兄と、全員が医療関係者だ。父母にいたっては医者であり、兄は医大生。そのせいで悠人も昔から医者になる道を歩むよう求められており、その過度なプレッシャーが幼い悠人の心を壊した。
悠人が俺にべったりなのは、その時期、悠人のそばにいたのが俺だったからだろう。
「……頑張れ。またおまえがああならないように、バスケは続けろ」
暗に逃げ道をなくすな、と伝える。
悠人が心を壊したとき、悠人には勉強しかなかった。それが全てだった。
百点満点中九十五点以上でないと褒めてくれないような家で、それが全てだったときの地獄を考えたことがあるか?俺はない。
だから悠人の事情を知ったとき、あまりの衝撃と怒りで悠人を誘拐したのは懐かしい思い出だ。
まあ、誘拐といっても、俺も子どもだったから誘拐の真似事――悠人を俺の家に連行してお泊まり会したいと親に駄々をこねた――みたいなことしかしていないが。
バスケを始めた悠人が徐々に新しい居場所を築いていくのを見たとき、俺は本当に安堵したのだ。
「夏生」
「なに」
「ふふ、大好き」
「知ってる。それ刷り込みな」
冷めた調子で返すのに、悠人には全く効いていないらしい。
「ね、仲直りしたから、夏生もバスケするよね?」
大型犬のように幻の尻尾を振って訊ねてくる悠人に、俺は完全に白旗を上げる。
「はいはい、しますよ」
だから俺は、悠人のお願いに弱いのだ。
第二章
「つーかさぁ、今さらだけど、よくこの高校行くの許したよな、おまえの親」
仮入部期間を終えて、無事にバスケ部への本入部を果たした俺たちは、週に三日ある部活動に励みながら新しい高校生活を満喫している。
今はちょうど部活が終わり、一年生みんなで体育館のモップがけをしているところだ。
今年はマネージャー志望の女子が多かったと聞くが、それが誰の効果かは言わなくてもわかるだろう。
よって悠人は男子の先輩たちから拝まれることになっていたが、できればそれが長く続くことを俺は祈るばかりである。
中学のときもそうだったが、男が悠人の顔立ちをありがたがるのは、女子を誘いたいときだけだ。そのあとは悠人の独擅場になるため、感謝は次第に敵意に変わる。
そのせいで悠人は人見知りが激しくなったというか、もはやあれは人間不信に近い。
「あー、ね。なんでだろうね」
曖昧な返事をしながら隣でモップを動かす悠人に、俺の勘がピンと働いた。
「おまえ、俺になんか隠してるな?」
「隠してないよ」
「だったら俺の目を見ろ」
悠人は昔から都合の悪いことや隠し事があると目を逸らす癖がある。こういうときは逆に俺が悠人を凝視すると、根負けしたように白状するのがお決まりだ。
しばらくそうしていたら、ようやく悠人が降参した。
「……兄さんに、説得を協力してもらった、から」
「兄さんって、晴くん?」
晴くんこと三澄晴也は、現在日本でもトップクラス大学の医学部に通う悠人の兄だ。
この人の優秀さは自他ともに認めるもので、とにかく頭がいい。地頭がいい人って晴くんみたいな人なんだろうなと感動するほどに。
なのに気取ってなくて、俺には気のいい兄ちゃんみたいな人。
でも悠人にとっては昔から比較対象にされる人で、悠人の心が壊れた一因でもある。
といっても、晴くん自身よりも、晴くんと悠人を比べる二人の両親のほうが悪いと俺は思っているけれど。
晴くんは才能を頭脳に全振りした人だけど、悠人は勉強だけじゃなくて運動もできる。おじさんとおばさんにとっては頭さえ良ければいいのかもしれないが、息子の個性くらい認めて褒めてやれって話なのだ。
だから俺は、おじさんとおばさんは嫌いだ。悠人のことも晴くんのことも傷つけるから。
(でも悠人、晴くんとは微妙な関係じゃなかったっけ?)
親のせいでぎくしゃくしている兄弟は、たぶん互いのことを嫌ってはないけれど、気まずい関係であるのは間違いない。
悠人はずっと比較され続けてきたわけだし、そんな弟に晴くんは罪悪感を抱いていた。
「悠人が晴くんにお願いしたのか?」
「だって、夏生と離れたくなかったから」
「おま……」
バカだろこいつ、と俺は片手で自分の顔を覆う。俺と離れたくないからって、苦手な晴くんに協力をお願いして、嫌いな親を説得したのか。
「大馬鹿じゃん……」
「夏生はそう言うと思った。だから言いたくなかったのに」
図体はでかくて女子にはモテモテのくせに、俺の前だと子どものように拗ねる。昔から変わらないその姿に、俺はどうしても絆されてしまう。
「でも代わりに、大学は兄さんと同じとこ行けって言われた」
「T大!?」
悠人の学力なら行けるかもしれないが。
「マジかよ、俺行ける気しないんだけど」
「え?」
「ん?」
……ちょっと待て。俺は今何を言った?絶対言わなくていいことを言った気がする。
「夏生、今」
「待て。違う。今のは違う。無意識に出たもので」
「無意識に出るほど俺と一緒にいたいって思ってくれてたの?」
「なっ、んなわけねぇだろ!」
羞恥心が限界を突破しそうになった俺は、悠人から逃げるように全力疾走でモップがけをする。
途中先輩に「いつまでやってんだ!」と怒られたけれど、頭が冷えるまでやらせてほしい。なんで俺、あんなことを言ったんだ?
ちょっと前まで避けていたくせに。
幼なじみ離れしたほうがいいって、そう思っていたくせに。
(くそっ……幼なじみ離れできてないの、どっちだよ)
その日はご機嫌な悠人をあしらうのが大変だった。
*
高校生活もひと月を過ぎれば、なんとなく慣れてくる。
五月は中間考査があるので、成績を落とせない悠人と通学時間を利用して勉強している。
一年生の最初の中間考査は範囲が狭く、たぶん真面目に勉強しているのは俺たちを含めても半分以下だろう。バスケ部の先輩曰く、最初の中間考査はあまりに酷くなければ内申に響くこともないらしい。
だから校内は、六月にある文化祭――春高祭に向けてもう浮き足立った空気が流れていた。
多くの高校が秋に文化祭をやるなか、俺たちの通う春泉高校はなぜか春にある。
あれか、高校の名前に『春』があるからか?と俺は勝手に邪推しているが、本当のところは知らない。
「――というわけで、私たち一年三組は劇になりました~」
「え~、ダンスは?」
「他クラスと被って負けました~、じゃんけんに」
「じゃんけんかよ!」
文化祭実行委員が教壇に立ち、俺たちのクラスの出し物が劇になったことを報告している。候補は他にもう一つ巨大迷路があったが、あれは第三候補だったので、第二候補に収まった感じだ。
まあそうだろうな、と俺は内心で乾いた笑みを浮かべた。
第二候補の劇は、それだけ聞くとよくあるもので他クラスと被りそうだが、内容はたぶんどのクラスとも被らないようなものだった。きっとじゃんけんなんて必要なく決まったことだろう。
なにせ、かぐや姫とミスコン的なものを融合させたような劇だから。
「はーい、じゃあみんな、担当決めるよ~。劇の内容は覚えてるよね? かぐや姫のアレンジ版で、かぐや姫が出す無理難題を『一番の美女になった人』に変えて、求婚した男たちが女装して、一番の美女に変身できた人を観客に選んでもらいます。で、選ばれた人が最後かぐや姫と結ばれるって内容ね」
実行委員の説明に、クラスの男子たちが「マジか」「ノリで言っただけなのに」と口々に後悔し始めている。
俺は最初から劇には反対派だったので、ここはその場のノリで言い出した奴らに責任をとってもらって、尊い犠牲になってもらおう。
「夏生」
後ろの席にいる悠人が小声で話しかけてきた。
「なに?」
「夏生はだめだよ。裏方ね」
「当たり前だ。俺だって俺の女装なんか見たくねぇよ」
「違う。そういうことじゃない。でもいいや、一緒に裏方やろ」
何がそういうことじゃないのかはわからなかったが、俺は適当に頷いた。裏方ならもはやなんでもいい。
しかし俺のような男がいることを見越していたのか、やり手の実行委員はおもむろに大きな箱を取り出すと、にっこりと笑った。
「じゃ、男子はここに一列に並んで引いてってね~。当たりが五枚ありまーす。当たった人がもれなく求婚者役でーす!」
男子の阿鼻叫喚が教室中に響く。俺は逆に絶句して声も出なかった。
しかしなんだかんだいって乗り気な男子もいるのか、そいつらがさっそく列に並び始める。女子は完全に観客気分で面白がっており、三澄くんの女装ちょー見たいとか勝手なことを言っていた。
悠人を振り返ると、こちらも心なしか顔色が悪くなっている。
「なっちゃん、三澄、俺たちも引きに行こ~」
初日に言葉を交わしてから、なんやかんや仲良くしている柊が席を立ちながら手招きした。
俺も諦めて席を立つ。行くぞ、と悠人の頭を撫でれば、悠人も渋々と腰を上げる。
悠人に注目する女子の視線が痛い。別に自分に向けられているわけではないとわかっていても、近くにいると嫌でも余波を感じるので気にしないのも難しい。
俺たちが引くまでに五人分の『当たり』が出てくれるのが一番いいのだが、今のところ二枚しか当たりは出ていないようだ。
当たりたくない男子たちは、みんな同じ考えなのか、くじを引く順番を互いに譲り合っている。
残りものに福という名の当たりがあっても嫌なので、俺はずんずんと歩を進めた。
先にくじを引いて中身を確認している柊を横目に、俺も後に続いて箱の中に手を入れる。
「うわ、え~」
困ったような声を出したのは柊だ。まさか『当たり』を引いたのかと視線を移したら、肩を落とす柊と目が合った。なんともご愁傷様である。
でもおかげで、俺の心は軽くなった。まさか連続で当たりが出るはずもない。
「ありがとう柊、おまえの犠牲は無駄にしない!」
君に決めたぁ!と勝ち確のテンションでくじを引き、横にずれる。俺の次は悠人だ。いたってローテンションでくじを引いた悠人のそばに寄り、同時に紙を開く。
「ぶふっ。なっちゃんちょっと、マジか! 連続で当たり引くとかすごくない?」
「すごくないんだよなんでだよ……っ」
俺の手の中には『当たり』と書かれた紙がある。最悪でしかない。ちらりと見た悠人の紙は何も書かれていなくて白紙だった。
なのになぜか悠人は俺の当たり紙を見ながら、俺より呆然とした表情をしている。
出来心がむくっと生まれてしまった俺は、そんな悠人の紙と自分の手元にある紙をこっそり交換しようとした。だって女子も悠人の女装のほうが見たいだろ?
「槇くーん、見えてるよ~。不正するなら本番えっぐい女装させるけどいいの?」
「よくないです、すみませんでした」
すぐさま実行委員に見つかり注意を受ける。くそっ。なんて目敏い女子なんだ。そして悠人はなんでまだ固まったままなんだ。
仕方なく悠人を席まで連れていき、残りの一人が決まるまで成り行きを見守った。最後の当たり紙が引かれた時点でこのくじ引きの闘いは終わる。
あとは他の配役を決めたり、裏方を決めたり。求婚者役から逃れられた悠人は、裏方の衣装・メイク係になっていた。
おまえメイクできんの?と驚いた俺が訊けば、悠人はやったことないと即答する。やったことがないのに立候補するなんて大丈夫かと心配したが、なぜか悠人の意思は固かった。
こうして無事に春高祭に向けた諸々が決まったため、HRも少し早めに終了した。
本格的な準備は中間考査が終わってから始まるので、俺の意識はすぐに考査へと向かう。というより、女装する羽目になった現実から目を背けたいだけなのだが。
「部活も、テスト前一週間は休みになるんだっけ」
部活のために体育館へ向かう途中、悠人に何気なしに話を振る。
悠人は「そうだね」と返したあと、続けて何かを言おうと口を開きかけたが、それより先に誰かが悠人の名前を呼んだ。
二人一緒に振り向けば、そこには同じクラスの女子がいた。
「ごめんね、急に呼び止めて。部活行くところだった?」
「そうだけど、なに?」
悠人の返事は素っ気ない。
こいつは昔からそうだ。単に人見知りが発動しているせいだが、他の奴らにはこれがクールに見えるらしく、俺は毎度解せない気持ちになる。
だってたぶん、俺が悠人と同じ反応をすれば、どうせ愛想がないとか生意気とか言うに違いないのだ。イケメンはこれだから羨ましい。
「今ちょっといいかな? 話があって」
「ここで聞く」
「えー、と。それは……」
ちら、と女子が俺の顔を窺ってくる。
彼女は確か、そう、飯沼さんだ。いかにもおしゃれが好きそうな制服の着こなし方をしていて、ネイルが校則で禁止されていても、なんか透明の液体で爪の保護をしているとかなんとか、そんな話を友だちとしているのを聞いたことがある。
セミロングの髪はゆるく巻いてあって、ゆるふわのかわいい雰囲気がぶっちゃけ俺のタイプである。
けど彼女が醸し出す空気は、まるでこれから悠人に告白するような感じだ。俺はまさか、とそんな自分の勘を内心鼻で笑った。
入学してひと月半。いくら悠人がイケメンでも、知り合って間もなすぎるだろう。
でも飯沼さんが俺に退散してほしそうな空気は伝わってきた。ので、特にそれに抗う理由もない俺は、先に体育館に行くことに決める。
「じゃあ悠人、俺先に行ってるから。またあとで」
「……うん」
ものすごく不満そうな顔をされるが、俺は見なかったふりをした。
入学してから俺も悠人も、柊以外の新しい友だちをつくれていない。悠人の新しい交友関係を広げる機会は大切にしてやりたいと思う。
(俺もなぁ、もうちょっと女子と話せたらなぁ)
高校は三年間しかないのだ。この間に誰か好きな人を見つけてみたい思惑くらいはあった。
(俺も健全な男子高校生ですし? 恋だってしてみたいっていうか?)
誰に言うでもない言い訳を心の中に並べて、部室で練習着に着替え始める。
俺たちのクラスのHRが早く終わったおかげで、部室には俺一人だけだった。なのでふと視界に入ったロッカーの扉裏にある小さな鏡と、堂々と睨めっこをする。
背は一六九センチ。男子の平均あたり。けどまだ伸びしろはあると思っているので、特に悲嘆はしていない。
髪はもともと真っ黒だったが、幼く見えるのが嫌でミルクティ色に染めている。
俺は自分のこの顔をイケメンとは思っていないけど、キモイとも思っていない。いたって平凡で地味な顔だと思っている。
悠人のきりっとした涼しげな目元のように、何か印象に残るようなパーツが一つでもあったらよかったのに。
(はたしてこの顔と俺の世話焼き体質の両方を好きになってくれる女子はいるのか)
それが問題だ。俺自身は自分を世話焼きとは認識していなかったが、小学生の頃に散々言われたのでそうなのだろう。
でもまずは好きな人だよな~と呑気に考えていたとき、同じ一年生の筧が部室に入ってきた。
「おっつー。俺一番だと思ったのに、早いな」
「おー。HRが早く終わったんだよ。筧のクラスは春高祭の出し物決まった?」
「決まったけど揉めてる」
「は? どういう状況?」
決まっているなら揉める要素はないように思うのだが。
「俺のクラス、ダンスなんだけどさぁ、最初に決めてた曲じゃなくて別のがいいって、急に言い出した奴がいて」
「おまえんとこか! ダンス!」
俺が思わず叫ぶと、筧が戸惑ったような目を向けてきた。
「あ、ごめん。実は俺のクラスもダンスが第一候補だったんだけど、じゃんけんで負けたらしくて」
「ははっ、マジ? なんか悪いな」
「でも揉めてんだろ?」
「それだよ、ったく。ぶっちゃけなんでもいいわ俺は」
俺は着替えを済ませたが、部室を出ずに筧との雑談を続けた。そういえば部活でも何かやるのかなとか、俺のクラスの出し物のこととか、他愛ないことを。
「あ、それで思い出したけど、三澄は?」
筧が突拍子もなく訊ねてくる。なぜ俺のクラスの劇の話から悠人が出てきたのかは謎だったが、俺が「あいつメイク係に立候補してさ」と話したからだろうか。
「悠人なら女子に呼ばれてどっか行った。もうすぐ来るんじゃないか?」
「うわ、じゃあやっぱあれ、三澄なんだ」
俺が首を傾げると、二人しかいないのに筧が内緒話をするように耳元で答える。
「あいつ、告られてた」
「は?」
「俺の知らない女子だったけど、あの上履きの色は同じ一年生だな。ヤバくね?」
マジか、と俺は声にならない声で返した。筧の「ヤバイ」がどういう意味のヤバイなのかはわからないが、俺も同じようにヤバイとは思った。
(入学してひと月半で本当に告られるって、ヤバイだろ。あいつそんなイケメンなの?)
いや、悠人の顔が整っていることは昔から知っていたが、まさかそこまでのレベルとは思っていなかった。幼稚園の頃からずっと一緒だったせいか、感覚が少し麻痺しているのかもしれない。
「でもさ、たったひと月半で悠人の何がわかんの? 確かにいい奴ではあるけど」
けど、たったそれだけの期間で悠人のいいところ全部がわかるはずもないだろう。
「はあ? そこはあれだ、顔が良ければなんでもいいんだよ」
「なんでもって……え? 付き合いたいんだろ? なら性格だって……」
はっはーん、と筧がニヤついた笑みで肩を組んできた。着替え途中の筧は上半身裸だ。暑苦しいから離れてほしいという俺の願いは容赦なく無視された。
「三澄はあれだな? 人は中身も大事だって言う真面目なタイプだな?」
「それ真面目の部類に入るのか?」
俺としては常識の部類に入るのだが。
「甘いな。人ってのはもっと単純にできてんだよ」
「単純? たとえば?」
「たとえば……俺は胸のでかい子が好きだ!」
ガッといきなり筧に胸を掴まれる。しかも両手で。薄々感じてはいたが、こいつはたぶんアホだ。
悪ノリして「ちっさ」と笑ってくる筧の頭を全力で叩こうとしたとき。
「――何してんの?」
噂の悠人が部室の出入り口に佇んでいた。
美人の真顔は怖いと言うが、イケメンの真顔も同じくらい怖いと思う。恐怖を感じたのは俺だけではなかったらしく、筧の悪ノリしていた手もぴたりと止まっていた。
答えない俺たちに焦れたのか、悠人は大股で近寄ってくると、筧と俺の間に割って入ってくる。
「筧」
「お、おう」
「今度夏生に触れたら、さっきおまえが叫んでたこと全女子に言いふらすから」
「ぎゃーっごめんなさい! 二度と触りませんから許してください!」
筧が土下座しそうな勢いで謝る。悠人はそんな筧を虫けらでも見るような冷たい目で見下ろしていたが、俺の頭の中では疑問符が飛び交っていた。
(なんか知らねぇけど、めっちゃキレてねこいつ? なんで?)
悠人がキレるなんて珍しい。
基本的に悠人はあまり感情を表に出さないタイプだ。慣れた人に対しては笑うし拗ねるし甘えてくるけれど、筧とは出会ってまだ少しのはずなのに。
「いいから早く服着て。見苦しい」
「見苦しい!? イケメン辛辣すぎだろっ」
「夏生、俺も着替えるから待ってて。筧は早く出てって」
「でっ……槇! どうなってんのこのイケメン!? おまえの言うようにやっぱ性格大事だわ!」
はは、だろー。と適当に相槌を打っておく。
なおも筧に噛みつこうとする悠人の腕を引っ張って、落ち着かせるように頭を抱いてリズム良く撫でた。昔から悠人はこうすると安心するのか、怒っていても泣いていても、機嫌が悪くなっても、だいたいこれで機嫌を直す。なんともお手軽な奴である。
筧がシャツを着て部室を出て行くと、俺も悠人の頭を撫でる手をぱっと放した。
「ったく、おまえ無駄に喧嘩売るなよな。これから同じチームメイトになるんだぞ?」
「だから触らせたの?」
「は? 何が?」
「胸」
「あんなのただの悪ふざけだろ。てか俺が怒ろうとしたときにおまえが来て、タイミング失っただけだっつの」
ふーん、と悠人が納得のいってなさそうな返事をしながら着替え始める。
俺は手持ち無沙汰で、会話もそこで途切れてしまった。
なんとなくこの無言の時間が耐えられなくて、俺は必死に脳内で話題を探す。そしてふと、さっき筧と話していたことを思い出した。
「そういえば、さ。飯沼さんの話、なんだったんだ?」
着替えを終えて、最後にバッシュの紐を結んでいた悠人の手がぴくりと反応したのを、俺は見逃さなかった。
「なんでそんなこと訊くの?」
「なんでって、筧がさ、告白されてたって言うから。気になって」
「なんで気になったの?」
質問しているのは俺のはずなのに、なぜか悠人も質問で返してくる。なんでなんでと、やけに真剣な声のトーンが俺の喉をつかえさせた。
なんでなんてそんなの、特に深く考えて出た質問じゃない。
でも人間というのは、訊ねられたら反射的に答えを探そうとする生き物なのか、俺は頭の中で悠人の質問の答えを無意識に考えてしまっていた。
(なんで俺、気になったんだ? 悠人が告られんのなんて、それこそ中学でもあったのに)
そこで俺は、いや、と自分自身に反論する。
気になったのは別にこれが初めてではない。悠人が誰かに呼び出されるたび、気にしてはいた。一度だけ他の友だちと一緒に後をつけていったこともある。
あのときは、他の奴らは単なる好奇心で告白現場を見に行ったから、実際に悠人が告白されている場面を見て大いに盛り上がっていた。
そんななか一人だけ盛り上がれなかったのは、俺だ。
なぜか心臓が痛いくらい脈動して、一緒になって盛り上がる気分にはなれなかった。
どうしてそんな気持ちになったのかじっくり考察した結果、たぶん俺は、寂しかったのだろうと結論づけた。
だって悠人に彼女ができたら、もう俺とは一緒に帰れないし遊びにも行けなくなる。今までは大型犬のごとく俺に振っていた尻尾も、彼女優先になってしまえばそれもなくなるのだろうと想像した。
俺はきっと、そんな悠人を見られなくなるのが、寂しかったのだ。
でもさすがにもう、そんなわがままは言えない。というより、これまでだって一度も口にしたことはないけれど、思うことも許されないような気がして、俺は誤魔化すように笑った。
「そりゃ、あれだよ。悠人に彼女ができたら、お昼は柊と二人だなとか、まあ色々考えるだろ?」
「……そう」
心なしか悠人の返事が冷たい。
靴紐を結び終えて立ち上がった悠人が、ぐいっと俺の腕を引っ張ってきた。そのままロッカーに背中を押しつけられて、痛みに気を取られている隙に耳元で囁かれる。
「夏生の言うように、告白だったよ。――好きです、ってね」
耳にかかった悠人の吐息にびっくりして、俺は悠人を押しのけるようにして自分の手で耳を押さえた。
心臓がどくどくと脈打っている。あのときと同じだ。初めて悠人の告白現場を目撃した、あのときと。
悠人は俺の反応を見届けてから部室を出て行こうとして、ちょうどすれ違うように他の部員がやってくる。なに固まってんだ?と二年の先輩に声をかけられるものの、俺は曖昧な応答しか返せなかった。
耳に残る感触が、あまりにも生々しくて。
*
悠人がクラスメイトの女子から告白を受けて、数日。
中間考査まで一週間に迫ったため、どの部活も一斉に休部となり、俺は悠人と一緒にテスト勉強に励んでいた。
それはもう、数日前の出来事なんてなかったように。
なかったように振る舞っているのは俺のほうである。
だってずっと、悠人の吐息の感触が耳に残っている。こんなのはおかしいだろう。中学のときに悪ふざけで別の友だちにも同じことをされた記憶はあるが、そのときはこんなに引きずりはしなかった。
この意味を考えるのはなんとなく恐ろしくて、今は何か他のものに集中していたい。と思った矢先にテストが迫ってきたものだから、俺はすぐさまそれに飛びついた。
テスト勉強はいつも俺の家でやっている。
隣同士だから、どちらの家でやってもいいけれど、悠人の家はおじさんもおばさんも帰りが遅い。だから俺の家で勉強して、一緒に夕飯を食べるまでがいつのまにかテスト前の恒例となっていた。
まあ、その恒例も約半年ぶりなので、俺の母親は久しぶりに悠人が家に来たことを大層喜んでいたが。
「ね、夏生。この問題わかる?」
「どれ? うわ、英語じゃん。俺が英語苦手なの知ってるだろ? パス」
「パスしないで」
「え~」
テストの範囲はさっそく高校で習ったところが出てくるが、英語に関しては一部中学の応用問題が出されるらしい。
俺は文系科目が得意で、悠人は理系科目が得意だ。
都合良くお互いの得意科目が分かれた俺たちだが、残念なことに二人とも英語は苦手である。
悠人の家は医者家系なので、それで大丈夫かと発破をかけた中学のおせっかいな教師に悠人はこう言い返していた――「医者になるつもりはありませんから」。
それが親への反骨心だったのか、俺にはわからない。
「あ、この文法使えばいいんじゃね?」
「見せて」
悠人が俺の手元の教科書を覗こうと距離を詰めてくる。
俺の部屋にはベッドとローテーブル、あと本棚が置いてあるが、それくらいしか置けるスペースがないほどに狭い。
だから椅子なんて高尚なものは当然なく、二人ともラグの上に座っている。
何が言いたいかというと、椅子という仕切りがないせいで、悠人の肩が俺の肩に触れるくらい近くに寄ることができてしまうということだ。
今まではこの距離を意識なんてしなかったけど、なんでだろう、約半年ぶりの距離感だからか、俺の身体は変に強張った。
悠人からいい匂いがするのもよろしくない。こんな香り、中学のときは絶対にしていなかった。
爽やかな匂いだ。それでいて、奥にほんのりとエキゾチックな香りが隠されている。
「悠人おまえ、もしかして香水つけてる?」
「くさい?」
「いや、いい匂いだけど」
こいつ、つけてることは否定しなかった。いつからそんなおしゃれさんになったんだ。
「いい匂い? 夏生は好き?」
「……まあ、そうだな」
「ふうん」
なぜか悠人が口角を上げて俺を見下ろしてくる。途端に恥ずかしくなってきた。匂いが好きとか俺、変態くさくないか?もう二度と言わないでおこう。
「おまえが買ったの?」
羞恥心を逃がすために話を逸らす。
「うん、お年玉が貯まってたからね。春休みに買っておいたんだ」
「春休み? でも今初めて嗅ぐな?」
「初めてつけたから」
俺は再び首を傾げる。
「今日学校では?」
「つけてなかったよ」
「え? じゃあいつつけたんだよ」
「さっき。一度家に帰ったとき。チャンスかなって」
実は俺の家で勉強を始める前、悠人は一度自宅に寄っている。制服を私服に着替えて、必要な勉強道具だけを持って俺の家に来ているのだ。
つまり悠人は、私服に着替えたときに香水をつけたと言っているわけだ。
「え、なんで? もしかしてこのあと用事あった?」
「ないよ? 夏生と一緒にいる用事以外は」
「え?」
あれ?これは俺の感覚がおかしいのか?
単なる幼なじみと勉強するために、わざわざ香水なんてつけるものだろうか。俺は一人っ子だから、特に悠人がおしゃれを意識するような相手――姉や妹――なんてこの家にはいないのに。
「本当はもう少し早く試したかったんだけど、なんやかんや、チャンスに恵まれなくてさ」
「試す? って何を?」
「いいから。ほら、覚えて夏生」
「うわっ!?」
いきなり悠人の腕の中に閉じ込められて、俺の視界は真っ暗になる。
そのせいなのか、嗅覚が鋭敏になった。鼻腔いっぱいに悠人のつけている香水の匂いが充満して、鼓動が全身を叩き始める。
「悠人っ、なにすんだ」
「いいからいいから」
何が「いい」のかわからなくて、俺の混乱は極まっていた。
(つーかなんで俺、こんなドキドキしてんだよっ)
嗅ぎ慣れない香りを吸い込んだ影響だろうか。まるで悠人が知らない男のように感じられて、心が落ち着かない。
「ねえ夏生、知ってる?」
「……何を」
「人が最後まで覚えているのは、視覚でも味覚でもなくて、嗅覚――匂いなんだって」
「匂い?」
「うん。嗅覚はね、記憶との連動が最も強いらしいよ」
だからなんだよ?という俺の無言の問いを察したのか、悠人が続ける。
「離れてた間、俺思ったんだ。このまま夏生が、俺を忘れたらどうしようって」
「……いや、忘れねぇだろ。半年じゃ」
「俺は半年のつもりだったけど、夏生は俺が追いかけなきゃ一生離れるつもりだったんでしょ?」
図星をつかれて口を閉じた。確かにあのときの俺は、お互いに幼なじみ離れするいい機会だと思っていた。
「だからさ、考えたんだよね。もしこの先同じようなことが起きても、俺を忘れないでいてもらうためにはどうしたらいいんだろうって」
なんか話がおかしな方向にいっているような気がして、俺は悠人の背中を軽く叩く。言外に放せと言ったつもりだが、悠人は放す気がないようで逆に抱きしめられる強さが増した。
「まあ、俺は離れる気なんて全然ないけど、保険は大事でしょ? 離れてても俺のことを思い出して、思い出したら、やっぱり会いたくなってくれるかもしれないし?」
「わかった、わかったから、いったん放せ」
「まだだーめ。しっかり覚えて。俺、これからずっとこの香水つけるから。これね、人気のやつなんだって。だから色んなところで売ってるし、街中でこの香りを嗅ぐ機会もあるかもしれない。そのときにちゃんと俺を思い出せるように、これが俺の香りって、しっかり覚えてよ……夏生」
耳元で囁かれて、俺は死ぬかと思った。心臓がこれまでにないくらいぎゅうぅっと締めつけられる。
絶対おかしい。何がおかしいって、俺の心臓、絶対壊れた。なんで幼なじみに抱きしめられているだけでこんなにバクバクしているんだ。
「どう、覚えた?」
「お、覚えたっ。覚えたから放せ!」
「えー、本当に?」
「本当だっ」
「今度問題出してもいい?」
「却下だバカ!」
耐えきれなくなって悠人の腰を何度も叩いたら、さすがに痛かったようで、ようやく解放される。
俺はすぐさま悠人とは反対側に顔を向けた。今自分がどんな表情をしているかはわからないけれど、赤くなっているのは間違いない。
「――あ」
そこで悠人が間抜けな声を出すものだから、思わず振り返る。
「数Ⅰ持ってくるの忘れた」
「……じゃあ他のやるか?」
「いや、待って。取りに戻るよ」
「わざわざ?」
いくら家が隣といえども、もう一度帰るのは面倒だろう。今日は別の科目をやって、数学は明日やればいい。そう思って言ったのに、悠人は立ち上がった。
「夏生、数学でわからないところ教えてほしいんでしょ?」
「それはまあ……え、もしかして俺のため?」
驚いて訊ねると、むしろそれ以外にある?みたいな顔をされる。
「だったら余計にいいって。急いでないから」
「そうなの? 俺の代わりに保坂に訊いたりしない?」
「なんでここで柊?」
心底意味がわからなくてそう返すと、悠人がむくれたように唇を尖らせた。
「だって、学校だといつも保坂に訊くじゃん」
「そうだっけ?」
特に意識はしていなかったが、振り返ってみると確かに柊に訊いている自分がいた。
それに特別な意味はない。単に柊がよく後ろを振り返ってきては話しかけてくるから、そのついでに訊いているだけだ。
「ねえ、夏生は保坂のこと、どう思ってる?」
「別に、友だちだと思ってるけど」
「じゃあ俺と保坂、どっちが大事?」
「は?」
まさかそんな質問を投げられると思っていなかった俺は、一瞬きょとんとしたが、次の瞬間には吹き出していた。
「おまえは俺の彼女かよ」
「彼氏だよ」
「アホか。どっちも違うだろ」
悠人にしては珍しく冗談を言うなと思ったのに、俺の視線の先にある悠人の目は、俺の想像とは全然違った。
まるで何かを懇願するような、切実な瞳。あるいは縋るような、切ない瞳。
縫いとめられたようにその瞳から視線を逸らせなくなって、俺はごくりと唾を飲み込む。
今日の悠人は、何かがおかしい。
いや、きっとたぶん、本当はあの日からおかしかった。あの日――悠人がクラスメイトに告白された、あの日から。
飯沼さんの告白が、悠人の中の何かを刺激したのだろうか。
それとも筧にちょっかいをかけられる俺を見て、幼なじみをとられると思ったがゆえの奇行なのだろうか。
わからない。わかるのは、この距離感がおかしいということだけ。
俺はずっと、俺たちの距離感がおかしい自覚なんてなかった。以前の俺は悠人が抱きついてこようが、俺にべったりだろうが、特にそれをおかしいとは思っていなかった。
けど、俺が避けた半年の間に、俺は俺たちの距離が異様だったのだと認識させられてしまった。
気づいたきっかけは、友だちの何気ないひと言だ。
『最近一緒にいるとこ見てないけど、まあ、これが普通なんだよな。なんかおまえら見てるとこっちもバグるからさー』
普通、と俺は口の中で繰り返した。つまり今までの俺たちは普通じゃなかったということか。じゃあ普通とはなんなのか。
友だち同士の距離感ならわかる。俺にはそれなりに友だちがいたから。
でも幼なじみは悠人しかいない。だったら幼なじみとの〝普通の距離感〟って、いったいどの程度のものなんだ。
俺が悠人をますます避けるようになった、一因の出来事である。
だからきっと、今まではなんとも思っていなかったこの距離感も、おそらく普通ではないのだろう。
避けていた間に、俺は幼なじみの距離感というものを勉強した。俺たち以外に幼なじみを持つ奴らを、暇さえ見つけては観察した。
漫画だって読んだ。幼なじみものの。でもあれはだめだ。結局恋に発展しているから、距離感の参考にはならない。
――だから、これはおかしいだろう。
だってその漫画の山場と同じ状況になっている。
見つめ合っていた瞳が徐々に近づき、悠人の顔にピントが合わなくなった頃。
唇に、柔らかい感触が押しつけられた。
それからまた悠人の顔にピントが合ったとき、俺はその柔らかい感触の正体が悠人の唇だったのだとようやく理解する。
「彼氏に、してみる?」
悠人が上目遣いで窺ってくる。
それを見て、反射的に俺は。
「ふざけんな、おまえは犬で十分だ」
ぺしんと、悠人の頭を漫才のツッコミ役のように叩いたのだった。
第三章
(俺の馬鹿ぁーー!!)
悠人にキスされた直後、事態をすぐに飲み込めなかった俺は、ついふざけてしまった。
いやでもあれは俺だけが悪いとは思わない。いきなり人のファーストキスを奪った悠人も悪い。
(そうだよあいつ、俺の、ファっ、ファーストキス……!)
今さら腹が立ってきた。結局あのあとは母さんに夕飯に呼ばれたせいで有耶無耶になってしまったが、悠人はどういうつもりでキスなんかしてきたのだろう。もしこれが悪ふざけだったら、俺は百パー悪くない。そしてあいつが千パー悪い。
昨日の今日で顔を合わせづらいなと思った俺は、いつもより早めに家を出る。
いつもだって特に約束なんてしていないけれど、だいたい玄関を開けたら悠人が外で待っている。やめろと言っても聞かない悠人だから、これまでの俺は、仕方なく決まった時間に出るようにしていた。
が、今日は高校に進学して初めて、その暗黙の待ち合わせ時間を破ってみた。
破ってみたのだが……。
「おはよう、夏生。今日は寝癖がかわいいね」
「寝癖にかわいいもクソもあるかよ」
なぜかいつもと同じように玄関先で悠人が待っていた。
「おまえ、なんでいんの?」
「何年幼なじみやってると思ってるの。夏生の行動パターンなんてお見通しだよ」
「嘘だろ……」
朝からがっくりと肩を落とす。これじゃあ早起きした意味がない。寝癖だって直すのを惜しんだ意味がない。
家に舞い戻ったところで悠人はずっと待ち続けるのだろう。俺はため息をつくと、さっさと歩き出した。
悠人が追いかけるように俺の隣に並んできたので、びしっと言ってやる。
「いいか、返答次第では俺はまたおまえを避ける! 心して答えろよ!」
「うん、なに? キスしたこと?」
「キ……っ」
こいつ、平然とぶり返しやがった。おそらく顔が真っ赤になっているであろう俺とは対照的に、悠人はムカつくくらい涼しい顔だ。
(これだからイケメンは!)
どうせ悠人はそういうのに慣れているのだろう。俺が避けるまでは常に一緒にいたから悠人に彼女がいなかったことは知っているが、避けていた半年間については知らない。
ただ、その間も悠人が女子から告白を受けていたことは知っているので、そのうちの誰かと付き合っていた過去があっても不思議ではない。
と、そこで俺は思い出した。
「おまえ、飯沼さんは?」
「飯沼? 誰?」
「おまえに告白した同クラの女子だよ!」
マジかこいつ。自分に告白してきた女子の名前も覚えてないとかヤバくない?
「ああ、あの空気読めない人」
「空気? なんかあったのか?」
「だって、あの人に呼ばれたせいで夏生が他の男に触られたんだよ?」
「おいやめろ。変な言い方すんな。そしてあれは単なる悪ふざけだって言ったろ」
悠人の機嫌が途端に悪くなる。俺も朝からげんなりしたくないんだけど。
俺たちの家から最寄り駅までは十五分くらいで着く。いつもの駅前は通勤や通学でそれなりの人通りがあるが、今日は早めの時間に家を出たからか、まだスーツを着た通勤の人がちらほらと見えるだけで、人の気配は少なかった。
これなら話を続けても大丈夫だろうと判断し、俺は話題を元に戻す。
「飯沼さんに告られて、OKしたんじゃねぇの? なのに昨日の、アレとか、たとえ相手が同性でもやっちゃだめじゃね?」
俺はたぶんとても常識的なことを説いているはずなのに、なぜか悠人の機嫌はますます悪くなっていく。
悠人は怒ると無言になり、目で訴えてくるから厄介なのだ。なまじ顔が綺麗なぶん迫力が増して、奴の美貌を見慣れている俺でも怖いと思う。
「あー、だってほら、あれだろ。ああいうのは、好きな人とするもので……」
悠人が怖くて目を逸らしてしまったのは、俺の過去最大の過ちだったかもしれない。
ふっと顔に影がかかって、気づけば俺の唇はまた悠人によって奪われていた。
軽く触れるだけのキス。触れるだけなのに、悠人がやけにゆっくりと離れていくせいで、下唇だけ繋がったまま少しの間呆然と見つめ合ってしまう。
足は自然と止まっていた。
まだ改札に入ってはいない。
ようやく悠人の顔が全部視界に収まったとき、俺の脳が急速に情報処理を始めて、自分が何をすべきか答えを捻り出す。
悠人の腹に思いきり拳を入れた。
「て、めぇ……人の話聞けよ! バカなのか!? てかここどこだと思ってんだよ!」
「……っけほ。夏生、本気で殴るのは酷い」
「これが本気で殴らずにいられるか!?」
やっぱりバカだこいつ。頭はいいくせに、なんでこういうときはバカなんだ。
いくら俺が悠人に弱いと言っても、許せないことだってある。俺は悠人を待たずに先を進んだ。改札に定期券をかざして一人ホームへと向かう。
「待って、夏生。ねえ、これ見て」
「ふざけんな。今おまえの顔見たくない」
「俺の顔じゃなくて、これを見て」
走って追いついてきた悠人は、俺の眼前にスマホを突き出してきた。なぜかスマホは内カメラに設定されていて、画面の中には頬と耳を赤く染めた俺がいる。
自分でもなんとなくわかっていた事実を突きつけられて、スマホの画面を手で覆い隠した。
「なんなんだよ、おまえ。何がしたいわけ?」
「俺、告白断ってるよ。夏生の話もちゃんと聞いてる。聞いた上でキスした」
「はあ?」
「夏生は俺にキスされて、嫌悪感とかないんだね」
「嫌悪感……?」
俺の思考が停止する。
悠人の言うとおりだ。嫌悪感ってあれだろ。気持ち悪いと思うことだろ。相手が悠人だからなのか、今の俺の感情は嫌悪感とは無縁だ。
どちらかというと心拍数が上がっていて、ムカついてるのと同じくらい恥ずかしいような気持ちがある。
「夏生はなんで、俺にキスされて耳まで赤くしてるの?」
「っ……そりゃ、誰だって、されたらそうなんじゃねぇの」
「保坂でも?」
出た。また柊だ。悠人はなんで柊と比べたがるんだ。
でもバカ正直な俺は、訊かれたら考えてしまう。考えて想像して、うえっとなった。柊には悪いけど。
「前言撤回。ないわ」
「ほんと?」
悠人の顔が謎にきらきらと輝き出す。
「保坂とはキスできない?」
「無理。想像させんな」
「は……想像したの?」
輝いていた悠人の顔が、今度は急に真顔に戻った。一瞬で機嫌が変わりすぎだろ。情緒不安定かこいつ。
「保坂と想像すんのやめて。ムカつくから」
「おまえが訊いてきたんだろ!?」
頼むから早く電車来いよ、と俺は切実に祈る。この時間の電車内は人が少ないだろうから、しんと静かなはずだ。さすがの悠人も静寂の中でこんな話題は持ち出さないだろう。
俺の必死な祈りが届いたのか、目当ての電車がホームに入ってくる。
よしこれでこの話題は終わりだと言わんばかりに、俺は先頭を切って乗り込んだ。
空いている座席に腰を下ろすと、悠人も隣に座ってくる。
俺の狙いどおり、電車内はこれ以上ないくらい静かだった。ガタンゴトン、ガタンゴトン。電車が走る音だけはするけれど、それは車内の静寂を侵すものではない。
だというのに。
「ね、夏生。なんで俺とはキスできたの?」
このバカは、耳元とはいえ、そんなきわどいことを平気で訊ねてきた。
怒った俺は俊敏な動きで立ち上がると、悠人とは離れた席に座り直す。
しかしこれが無駄な抵抗であることは、やる前から頭では理解していた。案の定、悠人も俺の隣に座り直してくる。
「夏生にお願いがあるんだけど」
何事もなかったように口を開いた悠人を、俺は軽く睨みつけた。全然効いてなさそうなのが腹立たしい。
「なんで俺とのキスは嫌じゃなかったのか、俺がキスした意味も、考えてほしいんだ」
「はあ? 別に嫌じゃないとは言ってな――」
「でも顔、赤かった」
「あれは……っ」
「普通は好きでもない奴にキスされたら、赤くなんてならないよ」
また『普通』。何が普通かなんて俺にはわからない。わかるほど俺はキスの経験なんてないのだから。
そもそもの話、だったら人にキスしておいて涼しい顔をしているおまえはどうなんだ、と言ってやりたい。好きな人とキスをすれば顔が赤くなるのが『普通』なら、おまえは俺を好きでもないのにキスしたことになる。
(ふざけんな……っ)
やっぱりこれは絶交案件ではないだろうか。俺はちゃんと宣言した。答え次第によってはまた悠人を避けるからなと最初に告げている。
それを踏まえた上での回答が今までの会話なら、俺は今度こそ悠人から離れるべきなんじゃないのか。
(…………)
でも、その間に悠人がまた誰かと付き合うのかと考えてしまって、絶交を言い渡すつもりだった喉が固まってしまった。
悠人のあの柔らかい唇の感触を俺以外の奴も知っているのかと思うと、胸の底からモヤモヤとしたものが広がってくる。
俺が避けるまで、ずっと一緒だった幼なじみ。
楽しいときも辛いときも、悲しいときも嬉しいときも。
二人で分かち合ってきた。互いのことは互いが一番よく知っていた。
悠人の苦しみを解ってやれるのは、俺だけだったはずだ。
夏生、夏生、と昔はいつも俺の後ろを健気についてきたのに。
(ああ、なんでムカついてんのか、ちょっとわかったかも)
これはいつもの逆だ。俺の名前を必死に呼んで後をついてきた悠人が、キスや告白といった恋愛事は俺より先を行っている。
俺はきっと、それが嫌なのだ。
自分の傲慢さに気づいて、自嘲するように鼻で笑う。
(俺の知らない悠人がいるのは、俺の自業自得だろうが)
自分のプライドを守るために悠人を避けた、自分自身のせい。
あのときは悠人が悪いわけじゃないとわかっていても、悠人の口から出来レースを認める発言をされて、それが悔しかった。
悠人が試合に出ないと言って、もしそれで本当に俺がレギュラーに復帰してしまったら、俺もあのクソ親子と同じ卑怯な奴に成り下がる。悠人がそこまで考えてあの発言をしたわけじゃないとわかっていても、あのときの俺にはそれがどうしても許せなかった。
だから悠人を避けたのは、俺自身の勝手な都合だ。
今さらその間に悠人の身にあったことで腹を立てるのは、お門違いにも程があるだろう。
「……わかった」
「考えてくれるの?」
「ああ。考えればいいんだろ、考えれば」
「うん、ありがとう夏生!」
悠人が俺に何を望んでいるのか、今の俺には見当もつかない。
たった半年。されど半年。
一緒にいた期間より離れていた期間のほうが圧倒的に短いはずなのに、人の成長とはこうも早いものなのだろうか。
今は悠人とこれ以上何も話したくなくて、俺は瞼を閉じる。
寝たふりをする俺の頬にキスをしてくるのは昔からだけど、少し目を離した隙に、幼なじみは俺の理解が及ばない男になってしまったらしい。
それからというもの、悠人のべったり度が増した。
それはもう、俺が奴を避け始めた以前よりも、ずっと。
今日から一週間は中間考査のため、午前中はテスト三昧だが、午後には帰宅できる。俺は朝のギリギリまで暗記系を頭に詰め込むべく、英語の単語帳とひたすら睨めっこをしていた。
クラスメイトの大半が俺と同じように最後の追い込みをしているなか、俺の前の席の柊は単語帳でも教科書でもノートでもなく、呆れた眼差しで俺を――いや、俺たちを見ている。
「なっちゃんさぁ。好き勝手されてるけど、いいの?」
柊が指差したのは、俺を自分の膝に乗せて抱きついている悠人だ。記憶力のいい悠人は俺やクラスメイトと違って余裕綽々としており、柊と同様、特に教科書もノートも開いていない。
開かずに何をやっているかというと、ただただ俺を膝に乗せてにこにこしているだけである。
柊の言う「好き勝手」というのは、悠人がたまに俺の匂いを嗅ぐように背中に顔を押しつけてきたり、逆に悠人の匂いを覚えさせるように香水をつけたであろう自身の手首を俺の鼻に押し当ててきたりすることだろう。
邪魔と言えば邪魔だが、視界さえ塞がれなければどうでもいい。
「今の俺はそれどころじゃないんだ。一分一秒も惜しい」
「てか三澄のこの奇行はなんなの」
「俺が知るか」
悠人は宣言したとおりに毎日あの香水を身につけるようになり、俺にその香りを覚えさせるために一日一回はハグをしてくる。
最初は俺も抵抗したが、無意味だと理解してからは大人しくハグされることにした。そのほうがすぐに放してもらえるからだ。
こんなことで本当に悠人の思惑どおりになるのかは半信半疑だけれど、もう好きにしてくれというのが本音である。ぶっちゃけこれ以上悠人に振り回されたくない。
ちなみに、キスのことを考えてほしいと言ってきた悠人に、俺はいくらか猶予をもらうことに成功している。
なにせ学生の本分は勉強だからな。俺はキスよりも中間考査のほうに自分の脳を使いたい。
悠人は不満そうだったが、俺が留年したらどうしてくれる、と脅せば一発で許可が出た。いや、あいつの許可制なのもおかしな話だとは思うけれど。
そういうわけで、キスの件はいったん保留にして、俺はテストに全力を注いでいた。
「ねー、なっちゃん。今日のテスト終わったらさ、お昼から一緒に勉強しない?」
「しない」
柊の誘いを秒で断ったのは、俺じゃない。悠人だ。
「俺はなっちゃんに訊いたんだけど~?」
「夏生は俺と勉強するから無理」
「え~、俺も交ぜてよ~」
「嫌」
悠人の塩対応っぷりは相変わらずだ。入学してそろそろ二カ月が経つが、悠人はまだ俺以外には辛辣な対応をとる。
これは単純に悠人の人見知りが発揮されているのだが、ここで怖じ気づく奴は悠人とは仲良くなれない。
だから怖じ気づくことなく遠慮のない物言いで切り込む柊とは、たぶんそのうち仲良くなれるだろうと予想している。
「俺はいいぞ、柊。柊って物理得意なんだろ? 俺、どうしても一個わかんないとこあってさ。教えて」
「いいよ~」
「夏生。やだ。二人がいい」
「じゃあ俺に物理教えられんの、おまえ?」
俺がそう返すと、悠人は無言で俺を抱きしめる力を強めてきた。それ以上やられると胃の中の朝ご飯が逆流しそうだからやめてほしい。
「なになに~? 三澄、物理だめなの?」
「そ。こいつ自身はできるんだけど、物理に関しては俺の頭が悪すぎてこいつの説明じゃ全然わかんねぇんだよな」
「なるほどね。おっけ。俺頑張るから、代わりに古典教えて」
「任せろ」
悠人が俺の背中に額をぐりぐりと押しつけてくる。悠人なりの抗議なのだろうが、俺は聞くつもりはない。俺だって新しい友だちはほしいのだから。
「ねーねー。保坂たち、放課後勉強するってほんと?」
横から聞こえてきた声に、俺は単語帳から視線を上げてそちらを振り向く。女子が二人いた。一人は飯沼さんだ。そのことに俺はぎょっとする。
俺たちに声をかけてきたのは飯沼さんとは別の女子だが、飯沼さんは悠人に告白して振られたはずだ。
振られてもなお悠人のことが好きだと顔に書いてあるのは、素直に感心する。声をかけてきた女子――確か川西さん――の背に隠れるようにして佇んでいるけれど、飯沼さんの視線は悠人に釘付けである。まだ諦めていないのだろう。
「するよ~。するけどだめ」
「まだ何も言ってないんですけど」
柊と川西さんの会話が耳に入ってきて、俺は飯沼さんから二人に意識を戻した。
「どうせ一緒に~とか言うんでしょ?」
「わかってんじゃーん。じゃあいいでしょ?」
「だからだめだって。俺だって三澄に拒否られてなっちゃんのお情けでOKもらったのに、これ以上増えたら俺もだめになっちゃうじゃん」
ねー、と柊が同意を促してくる。俺としては別にどっちでもいいけれど、お腹に回る悠人の腕は力を増した。
というかこれ、力が増したとかのレベルじゃない。悠人の奴、俺のこと圧死させる気か?と疑いたくなるほど締めつけてくる。尋常じゃない拒絶の意思だ。
(まあ、確かに俺も――)
スッ、と飯沼さんを盗み見る。あからさまに恋してますという表情は、なんとなく俺の心をざわつかせた。
(あんまり大人数だと、勉強できなそうだしな)
俺が断ろうと口を開くより先に。
「ねーいいでしょ、槇くん。もっとクラスメイトとの交流図ろうよ?」
どうやら最終決定権は俺にあると勘違いした川西さんが、俺の腕をとって揺さぶってきた。
その瞬間、悠人が川西さんの手を叩き落とす勢いで振り払う。
「夏生に触らないで。嫌だって言ってるの、わかんないの?」
しーんと地獄のような沈黙が落ちた。これにはさすがの柊も驚いたのか、目を瞠っている。川西さんも振り払われたポーズのまま固まっていた。
誰も気づかないが、悠人はクールなわけじゃなく、本当に人見知りなのだ。
育った環境のせいで人を簡単には信用できない。そんな悠人と仲良くなるためには、確かに多少の強引さは必要だろう。
けれど、加減を見誤ると、こういう事故が起きるのである。
「あー、悪いけど、俺があんまり大人数で勉強するの好きじゃないんだ。悠人もそれ知ってて……。だからごめんけど、また別のとき誘って」
「わ、わかった! こっちもなんかごめんね。ちょっと強引だったよねーあははっ。じゃあまた別の機会に!」
川西さんが早口で捲し立てると、飯沼さんを連れて自席へと去っていく。俺はほっと胸を撫で下ろした。
「なっちゃん、やっさし~」
「……今のどこが? つか柊もごめんな? 変な空気にして」
「いんや? 俺は別にいいよ。俺も大人数での勉強は苦手だし、それに」
柊が俺を抱きしめている悠人を一瞥すると。
「あの子たち、あきらかに勉強が目的じゃなさそうだったし? ね、三澄」
悠人がふいっと視線を逸らす。彼女たちの目的がなんなのか、悠人も気づいていたようだ。だからあんなに拒絶したのだろうか。
「なっちゃんて、いつもそんな感じなの?」
「そんな? どんな?」
「自分を悪者にしても三澄を庇うの」
「は? 俺そんなことした?」
「うわ無自覚? なるほどなー。だから三澄も懐いたのかな」
俺は柊の言っている意味がわからなかったけど、悠人は読み取れたらしく、剣のある声で否定した。
「違う。夏生は誰にでもこう。だから俺がそばにいる」
「ふうん?」
俺を挟んで、二人にだけわかる会話をされる気まずさといったらない。おかげでせっかく頭の中に叩き込んでいた英単語を全部忘れてしまった。
俺は内心で悪態をつくと、数ページ前に戻って一から覚え直す。
しかし無情にも、一限目のテストが始まるチャイムが鳴った。
考査期間中は昼食の時間もとられないので、俺たちは昼食もとれるファミレスにやってきた。
高校に進学して初めて寄り道というものを体験している。
しかも、悠人以外の友だちも一緒に。
中学のときは、俺が悠人を避ける前は悠人と二人きりだったし、真面目だったので真っ直ぐ家に帰って俺の家で遊んでいたため、寄り道なんてしたこともなかった。
悠人を避けるようになってからも、俺は一人で帰っていた。単に家が同じ方向の友だちがいなかったというオチではあるが、悠人が女子と一緒に帰っているところを見たことはあった。
「俺ハンバーグセット。なっちゃんは?」
「ピザ食べたい」
「三澄は?」
「たらこパスタ」
「おっけ。みんなドリンクバーありでいいよね?」
サンキュ、とタッチパネルに注文を打ち込んでいく柊に礼を言う。
最近のファミレスはもうどこもタッチパネルで注文するのが当たり前になりつつある。店内には配膳を請け負うロボットもいて、つい数年前では考えられなかった光景に人間の技術すげぇと何度も興奮する。
席は向かい側に柊が座っていて、俺と悠人が隣同士だ。俺のほうが通路側にいたので、さっそくドリンクバーに行こうと席を立った。
「じゃあ俺ドリンクバー行ってくるけど、悠人はいつもの?」
「いつものだけど俺も行く」
「ん。柊は? 自分で選ぶ? 決まってるなら俺が持ってくるけど」
「じゃ~、お言葉に甘えてお願いしよっかな! 野菜ジュース氷ありで」
ぶはっと、俺は吹き出した。
「おまえ、野菜ジュースって。健康気にしてんの?」
「気にしてる気にしてる。だってほら、今も鋭い視線から胃を守ってる最中だからね」
野菜ジュースって胃に効くっけ?と不思議に思いながらも、俺は了解を返した。
学校に近いファミレスを選んだせいか、周りには同じ制服のグループがちらほらといる。
それから他愛ない話をしている間に注文した料理がやってきて、俺はピザにかける辛いソースを持ってくるのを忘れたことを思い出し、もう一度腰を浮かした。
が、悠人に腕を掴まれる。
「俺が持ってきてる」
「マジ? サンキュ、悠人」
頭を撫でてやると、悠人が頬を緩めた。今日はずっと仏頂面だったから、不意にこぼれるイケメンの微笑みの破壊力に柊が目をぱちくりとしている。
俺はというと、ぶっちゃけ慣れてしまっているので、特に驚きはしない。
「三澄さぁ、普段からそうやって笑ってればもっとモテるだろうに」
「柊もそう思う?」
「そりゃあねぇ。俺、三澄ほど顔の綺麗な奴って見たことねぇもん」
共感しながら何度も首を縦に振った。俺も悠人以上にかっこいい男を見たことがない。
まず顔のパーツが整いすぎてるんだよな。それが黄金比率で配置されていたら文句のつけようもないイケメンができあがるのは必然だろう。
でもまあ、顔がいいからって、人生イージーモードが約束されているわけじゃないんだって、俺は悠人を見ていて思った。
「別にモテ云々は措いといてもさ、こうやって笑ってたほうが、友だちだってもっとできると思うんだけどなぁ、俺は」
悠人の両頬を軽く引っ張って、無理やり口角を上げてみる。悠人はされるがままだ。こいつは肌の感触まで綺麗でちょっとムカついた。
「俺は夏生がいればそれでいいよ。他はいらない」
「そういうこと言ってるから道を間違えるんだよおまえは」
「間違えてないけど。もしかして高校のこと言ってる?」
ぎくっと肩を揺らす。無意識に今の言葉が出てしまうほど、実は俺は過去を後悔していた。
俺の変な意地のせいでこいつを今の高校に来させてしまったのは、俺の中に小さな罪悪感としてこびりついているのだ。
「そんなの夏生が気にすることじゃない。俺が自分で選んだんだよ。後悔なんてしてない」
「でもおまえ、そのせいで大学……」
「それも込みで俺が選んだ道だよ。俺が夏生の隣にいること、そんなにおかしい? 間違ってる?」
急に必死さを滲ませる悠人を、俺は「待て待て待て」と押さえる。
ハンバーグを食べながら様子を見ていた柊が、何気なしにこぼした。
「なんか痴話喧嘩見てるみたい。三澄ってなっちゃんが絡むと面白いよね」
「面白がるなよ」
「それよりほら、二人とも。せっかくのご飯が冷めちゃうよ? 今は食べたら」
柊の言うことは一理あるので、いったん俺たちは食事に集中することにした。
俺はファミレスに来るとだいたいピザかハンバーグ系を頼む。そして俺がピザを注文すると、決まって悠人はパスタを注文するのだ。
俺はいつものようにピザを一切れだけ悠人の皿に分ける。
すると、悠人はフォークで綺麗に巻いたパスタを俺の口元まで運んできた。口を開けて咀嚼すれば、中でたらこ味が広がる。大葉も一緒に入っていたらしく、爽やかな風味も相俟ってうまい。
やっぱピザとパスタの組み合わせは最高だなと思っていたとき、目の前から突き刺さる視線に気づいた。
「どうした、柊? おまえもピザ食べる?」
「いや……今流れるように『あーん』したね?」
「あーん……?」
なんだそれ、とすぐに言葉の情報処理ができなかった俺は、一拍置いてから意味を理解した。
「は!? 違ぇよ! 今のどこが『あーん』だよ!?」
「えー……全方位どこからどう見てもそうだったよ。ね、三澄?」
話を振られた悠人が舌打ちする。
「余計なこと言わないでほしいんだけど」
「おまっ……わかっててやってたのか!?」
「その前に俺への舌打ち酷くない? 差別はんたーい」
俺の顔は今絶対に熱を持っている。まだ夏前のはずなのに、急激に顔だけ温度が爆上がりしたから間違いない。
だって「あーん」ってあれだろ?カップルがイチャつくときにするやつだろ?そんで目撃しちゃった奴が「バカップルかよ」とか「リア充爆発しろ」とか影で言うやつだろ?
俺が悠人とそんなことするわけないだろ!
「やべぇ。今まで全然気づいてなかった。これからはあれ、なしな」
「なんで? 別にいいじゃん。誰も気にしないよ」
「おまえ俺とバカップルに見られてもいいのか!?」
「そんなのウェルカムだよ」
「ウェルカム!? おまえいくら英語が苦手でもその使い方はねぇぞ!」
とにかくもう二度としないと内心で自分自身に誓いを立てて、俺はピザをたいらげた。本当にしないのか、と窺うように悠人が何度か俺の口元にパスタを運んできたが、俺はその全てに顔を逸らす。
ピザを食べるといつもパスタを食べたくなるために悠人とシェアしていたが、変な誤解を生むわけにはいかないのだ。
(いや、でもちょっと待てよ?)
過去を振り返ると、俺がピザを頼むとき、悠人はいつもパスタを頼んでいた。
だから俺は「悠人がパスタ好きでラッキー」なんて呑気なことを思っていたけれど、もしかしてそういうわけでもなかったのかもしれない。
「なあ、悠人」
「なに? やっぱりパスタほしい? あーん」
「違う。あーんしない。じゃなくて、おまえまさか、パスタそこまで好きじゃない?」
悠人が目をぱちくりと瞬く。
「好きだよ?」
「本当に? でもそのわりに、俺がピザ頼むときしか頼まなくね?」
「うん。夏生にあーんができるから、好きだよ」
「は……」
事もなげに言い放った悠人に、柊は野菜ジュースを吹きこぼしていた。俺は俺で言葉が出てこない。
「いつもは俺の世話焼いてる夏生が、このときだけは俺に世話焼かせてくれるから」
「はっ?」
「俺の手から餌付けされてもぐもぐしてる夏生、かわいいんだよね」
「は、ああ!?」
なんだそれ。ふざけんな。恍惚とした顔でそんな話するんじゃねぇ。羞恥心から思わず拳を出しそうになる衝動を必死に押さえる。
「おまえっ、俺のことペットか何かだと思ってたのか!?」
「なんでそうなるの? ペットにキスはしないよ」
「ぶふっ」
今度は俺が盛大に噴き出した。でも俺は都合良く飲み物なんて飲んでいなかったので、柊には悪いけど唾飛ばした。
その柊も、俺の唾より悠人の爆弾発言のほうが衝撃的だったのか、真偽を問うような瞳を俺に向けてくる。
「違う、違うんだ柊。ほっぺ! ほっぺにキスな。ほら、家族同士でやるだろ? 俺と悠人ってもはや家族みたいなもんだからさ、昔の癖でつい! な!」
「はあ? ほっぺも嘘じゃないけど、く――」
「おまえはいったん黙れ!」
悠人の口を俺の手で強制的に塞ぐ。
他にこの会話を聞かれていないか、俺は周囲を見回して確認した。他の客も自分たちの会話に夢中だったようで、誰もこっちを見ていないことには心底安堵する。
そうなると、問題は。
「なっちゃん、ちゅーしたの?」
はわわ。みたいな反応をしながら柊が自分の口元に両手を持っていく。
「だからほっぺな」
「俺、三澄の片想いだと思ってたんだけど、実は二人付き合ってたの?」
「だからほっぺな! なんでそんなとこまで話が飛躍した?」
俺が勘弁してくれと願いながら否定すると、柊がしれっと答えた。
「だって二人の距離感って、傍から見てるとそんな感じだよ?」
「どんな感じだよ……」
「三澄が好き好きアピールしてて、なっちゃんはそれを『仕方ないなぁ』って受け入れてる感じ」
マジか。開いた口が塞がらない。
これは非常にまずい展開だ。中学のときの二の舞になる予感がする。
「言っとくけど、俺たちそういうのじゃないから」
「男同士だから?」
「いや、男同士全般のそれを否定するわけじゃなくて、俺と悠人だから『ない』って言ってんだよ」
ここで口を塞いでいる悠人が何か反論しようとする気配を感じとって、俺は自分の手に力を込めた。
「悠人は彼女いたから。誤解しないでやって」
「え、そうなの?」
めちゃくちゃびっくりなんだけど、みたいな顔で柊が悠人をチラ見する。
「そんな意外か?」
「俺が三澄の顔しか知らなかったら意外でもないけど……短期間とはいえ、クラスメイトとして接したじゃん? だったら意外としか思わないよ」
ここで悠人が俺の指を噛んできた。甘噛みではあったけれど、驚いた拍子に悠人の口を解放してしまう。
「夏生、それ中学のときのこと言ってるよね? あれは――」
悠人がその続きを話し出す前に、俺は席を立った。
柊からは困惑の眼差しを、悠人からは縋るような眼差しを受けながら、俺は自分でもへたくそかと思う言い訳を並べ立てる。
「と、とにかく、今日は勉強しに来たんだろ。俺ちょっとトイレ行ってくるから、俺が戻ってきたら勉強するぞ。いいな!」
このときどうして逃げたのか、俺はたぶん気づいていながら、気づいていないふりをした。
第四章(悠人視点)
「――で、三澄の弁解は?」
夏生が逃げるようにトイレに行ってしまった背中を追いかけようとしたら、保坂にそう問われて足を止める。
にこにこと笑うこの男のことを、俺は信用していない。
無視して追いかけようとしたら、トドメのように保坂が切り込んでくる。
「今追いかけるのは選択肢としてナンセンスじゃない? なっちゃんが一人になりたいの、わからないの?」
その物言いにはイラッとした。まるで自分のほうが夏生のことを理解してますと言いたげだ。
しかも夏生の前ではただのヘラヘラした男を演じておいて、俺と二人きりになった途端に不穏さを滲ませてくるなんて絶対に性格が悪い。
本当はこんな奴の言葉に従うのは癪だけど、俺としても夏生に嫌われるようなことはしたくない。
仕方なく席に戻って、残りのパスタを咀嚼する。目の前の奴と会話をしたくない意思表示でもあった。
けど保坂という男は、人が食事をしていてもお構いなしに話しかけてくる人種のようだ。
「で、三澄の弁解は? なっちゃんにキスしたの、ほんとなんでしょ?」
「おまえに関係ない」
「わ~、敵意丸出し~」
ニヤつく笑みが鬱陶しい。夏生はなんでこんな男と友だちになろうとしているんだ。こいつのように腹の中で何を考えているかわからないような奴は、真っ直ぐで優しい夏生には似合わない。
「俺、おまえのこと嫌い」
「おっと、はっきり言うね?」
「普段は気さくに振る舞ってるくせに腹の内を見せないような奴に、夏生は裏切られた」
そいつこそ、夏生が俺から離れていった元凶の男。
親の力で夏の最後の大会で夏生からレギュラーを奪った、一生許さない男だ。
こいつは……保坂は、その男に似ている。見た目ではなく、どことなく漂う雰囲気が。
「え~、そんなこと言われてもなぁ。俺、その裏切り男じゃないよ? むしろ俺はなっちゃんのこと気に入ってるのに」
「気に入らなくていい。ちょっかい出すな」
パスタを完食した俺は、ちらちらとトイレのある方へ視線をやる。夏生はまだ戻ってこない。
俺の視線に気づいたらしい保坂が、なぜか苦笑した。
「三澄はほんと、なっちゃんが好きだねぇ」
「好きじゃない」
「……ん? いや、俺に散々敵意向けておいて、今さら否定しなくても」
「違う。本当に、好きじゃない」
好きなんて言葉じゃ表せないくらい、執着している自覚がある。
愛しているも違う。いや、どうだろう。愛しているのほうが近いかもしれない。
俺は夏生が大好きで、大嫌いで、愛おしくて、憎くもある。
俺が嘘を言っていないと理解したために保坂が混乱している間に、夏生がトイレから戻ってきた。
そのあとは本当に夏生の宣言どおり勉強会が始まって、俺を含めた誰もさっきの会話を蒸し返さない。
帰り道、無言で隣を歩く夏生をじっと見つめる。
俺の視線がうるさかったのか、夏生の家の前で分かれる直前、夏生が「見すぎ。また明日」と言って頬をほんのりと赤らめた。
正直無理な相談なので、俺は頷くことなく「また明日」と返事をする。
家の鍵で自宅に入り、誰もいない暗い家の電気をつける。「ただいま」なんて挨拶は、もう何年口にしていないだろう。「行ってきます」も同様だ。
二階にある自室へ直行すると、俺は着替えるのも惜しんでベッドにダイブする。
目を閉じれば、いつだって夏生の姿が瞼の裏に蘇る。
最近はそこに、夏生の唇の感触も思い出す。
「やっとここまで来たんだ。誰にも邪魔はさせない」
そう、やっと、夏生に意識してもらえている。幼なじみとしてではなく、友だちとしてでもなく、俺の望んだ新しい形として。
ここに来るまで長かったと思うのは、比例して俺の夏生を想う期間もそれだけ長いということだ。
あれはまだ、小学二年生の頃。
夏生と出会ってから三年目の秋の頃に、俺は夏生に向ける自分の執着心に気づいた――。
そもそも俺と夏生は、家が隣同士ではあるけれど、出会ったのは幼稚園の年長のときだった。
そのタイミングで今の家に引っ越してきたのが俺の三澄家である。
小さい頃の俺は泣き虫で、身体は小さく見た目も女の子に間違えられることが多かった。
逆にどこまでも好奇心旺盛で活発な夏生は、そんな俺を『守るべき存在』として認定したらしかった。
人見知りの俺は、最初は夏生ともまともに話せない子どもだったのを覚えている。
それでも夏生は俺のペースに合わせて、根気強く話しかけ続けてくれた。
小学校に上がる頃には、俺の世界はもう夏生一色だったように思う。家が隣だから必然的に登校班も一緒で、帰りも一緒に帰った。一年生のときは幸いなことにクラスも同じだったから、俺はずっと夏生にひっついていた。
夏生も特にそれを嫌がる様子はなく、まるで弟のように俺をかわいがってくれた。
けれど、二年生に進級すると、夏生も小学校というコミュニティに慣れたからか、俺以外の友だちと遊ぶようになる。
しかも進級と同時にクラスが離れた俺たちは、登下校でしか会えなくなっていた。昼休みに夏生に会いに行っても、夏生はいつも他の友だちと校庭へ遊びに行ったあとだった。
――夏生は、俺のお兄ちゃんじゃないの?
今思えばバカらしいけれど、当時の俺は本気でそう思っていたのだ。
夏生は俺のお兄ちゃんなのに、どうして他の子と遊ぶのか。なんで俺を置いていくのか。俺とずっと一緒にいてくれるって言ったのは嘘だったのか。
悲しくて辛くて。でも子どもだったからこの感情の置きどころがわからなくて、俺は夏生のことが大嫌いになった。
――俺だけの夏生じゃないなら、いらない。大っ嫌い。
ふてくされた俺は相当面倒だったと思う。学校にも行きたくないと駄々をこね、毎朝迎えにくる夏生を困らせた。
そんな調子だったから、当然勉強なんて身が入らない。成績の落ちていく俺を、特に父さんは厳しく叱った。
俺には三つ年の離れた兄がおり、この兄がとかく優秀で、両親は兄にばかり目をかけていた。そんな兄と比べられることも多くなり、テストは満点でないと無視される。満点でも褒められることはなく、ようやく視線を合わせてもらえるだけ。
――誰も俺のことなんて、見てくれない。
家に帰りたくなくなった俺は、夏生と家の前まで帰ったあと、家に入るふりをして、公園に避難することが多くなった。
近くの公園はブランコと滑り台しかない小さな公園だったから、遊びにくる親子も少ない。一人になりたいときにちょうどいい場所だったのだ。
でもそのせいで、変な大人に目をつけられてしまった。男は中肉中背で、一人なの?お母さんは?とやたらと猫撫で声で話しかけてくる。
子ども心に恐怖を感じたが、家にまでついてこられたらどうしようという気持ちが勝り、俺は動けずにいた。
その代わり男の質問には一切答えず、無言を貫き通す。
男の手が俺の頭へと伸び、肩に触れてきて、頬をするりと撫でられたとき、背筋がゾッとした。カタカタと身体が震え出し、そのせいで足に力が入らず逃げることもできない。
助けを呼ぶために声を出そうにも、引きつれて空気しか吐き出せなかった。
男の手がどんどん下がっていき、ますます身体が強張っていったとき。
『なにしてんだてめーっ!』
夏生が男に勢いよく飛び蹴りをかました。
それは思いの外男にダメージを負わせたらしく、男が立ち上がろうとしている隙をついて夏生が俺の手を掴むと、引っ張って連れ出してくれる。
二人とも無我夢中で走った。とにかく走って、走って、息が苦しいなんて弱音も忘れるくらい必死に公園から遠ざかる。
俺たちの家が見えても、夏生は手を離さなかった。
俺はあんな目に遭っても家に帰るのが嫌で、夏生の手を振り払おうとした。
でも、案外夏生の握力は強く、振り解けない。
放してほしくて抵抗する俺の腕を、夏生はまた強く引っ張った。
でも夏生が連れていったのは、俺の家じゃなく夏生の家だ。
夏生が「ただいま。悠人と部屋にいるから入ってこないでね」と誰かに向かって雑に話すのを、俺は手を引かれながら聞く。相手はたぶん夏生のお母さんだろう。
夏生の部屋に入るのは久しぶりだった。
最後に入ったのはいつだったか。そんなに経っていないように思うのに、ずいぶん昔のことのようにも感じる。
ベッドの上には漫画が散らかっている。
ぼーっと夏生の部屋を見るとはなしに見ていた俺だったけど、油断したところにまた軽く腕を引かれて体勢を崩す。
床に転ぶと思ったのに、転ぶ前に夏生が抱きとめてくれた。
お礼を言わなきゃと思うのに、やっぱり声は出てこない。
いや、違う。声なんて、そういえば最後に出したのはいつだっただろう。
『――ごめん』
俺を抱きしめたまま、夏生が震える声で言った。
『ごめん、悠人。ごめんっ』
なんで夏生が謝っているのか、俺は最初わからなかった。
ただただぼーっと夏生の謝る声と、夏生の体温を感じる。
さっきの見知らぬ男に触られたときは気持ち悪くて仕方なかったのに、夏生の温もりは不思議と心地好く感じて、今さらながら自分の身体が冷えていたことに気づいた。
『ごめんなあっ、悠人。一人にして、ごめんな……っ』
そのとき、氷のように冷え固まっていた俺の心に、ぴしりとヒビが入った。
そうだよと、夏生への文句が溢れ出してくる。
だって夏生が俺を置いていったのだ。夏生が俺を一人にした。ずっと一緒にいるって言ったくせに、夏生が俺を一人にしたから、俺はずっと寂しかった。
これまで口にできなかった不満が少しずつ、少しずつ、俺の心から湧き出てくる。
『あの変な奴に何もされなかったか? 怪我は? お、俺、逃げてきちゃったけど、捕まえたほうがよかったのかなっ……?』
夏生の肩もガタガタと震えていた。きっと夏生も怖かったのだ。それでも俺を助けてくれた。
『ごめんなっ、悠人。悠人の様子がおかしいって、俺、気づいてたのに。ちゃんと聞いてやらなくてごめんなっ。俺、新しい友だちと遊んでばっかで、悠人のこと、気にしてやれなくて、ごめん……っ』
心に入っていたヒビが、ついに一直線に繋がり、盛大な音を立てて割れる。
泣きながら謝る夏生を見て、俺の我慢は限界を越えた。
今さら謝ってくるなんてと、怒りにも似た感情が爆発する。
『ほんとだよ! 夏生のバカ! 俺を一人にしないって言ったのに酷いよ! なんで俺を一人にしたの。俺っ、夏生のこと、ずっと待ってたのに……!』
割れた氷の心の中から、本当の心が現れる。
もう自分でも覚えてないときをきっかけに、俺は自分の心を凍らせることで守っていたのだろうと思う。
夏生が他の友だちを優先したとき。俺と遊んでくれなくなったとき。父さんに怒られたとき。失望されたとき。兄さんと比べられて、出来損ないだと叩かれたとき。母さんに無視されて、俺の存在が不安定になったとき。
少しずつ、少しずつ、俺は心を凍らせていった。凍らせれば凍らせるほど、何が起きても辛くなくなっていったから。
でもその代わりに、何も楽しくなくなった。
『夏生が言ったのに! ずっと一緒って! 俺には夏生だけなのにっ』
『うん。俺が言った。ごめん。もう絶対、一人にしないから』
互いに互いを強く抱きしめ合って、俺は何度も夏生に怒りをぶつけて、夏生は何度も俺に謝っていた。
本当は夏生が何も悪くないことくらい、俺もわかっていた。むしろ変質者から助けてくれた夏生には感謝するのが正解だとも理解していた。
けど、正解って、誰にとっての正解?
このときの俺の正解は、どんな手段を使ってでも夏生を取り戻すことだった。
ゆっくりと疎遠になり始めた幼なじみに、もう一度自分の許に戻ってきてもらうことが何よりも大事なことだったのだ。
(父さんと母さんはいらない。夏生がいてくれるだけで、俺の心はこんなにもあったかくなるんだ)
これが、俺が夏生への執着を自覚した瞬間である。
まだ恋も知らない幼い子どもが、どうにかして大切な幼なじみを引きとめようとした出来事であり、夏生がなんだかんだ俺に甘くて弱いことを学んでしまった、夏生にとってはかわいそうな出来事でもある。
それからの夏生は、本当に俺のそばにいてくれた。
登下校はもちろん一緒だし、昼休みも俺のクラスまで来てくれて、一緒に遊んだり本を読んだりした。
夏生の他の友だちがサッカーやドッヂボールに誘ってきても、俺が拒むような素振りを見せれば夏生も断ってくれた。
この関係が健全でないことは、小学校高学年くらいになればさすがの俺も理解する。ただ理解したからといって、俺が考えを改めることはなかった。
夏生も別に俺と一緒にいる時間を退屈にしている様子はなく、なんなら夏生自身が「悠人といるのが一番気楽で楽しい」とこぼしていたくらいだ。
そんな俺たちだったから、中学に上がってからも変わらず互いのそばにいた。
中学では、小学生のとき唯一夏生と一緒にいられなかったバスケの時間も共有したくて、生徒全員が必ず部活動に入る校風を逆手にとってバスケ部に入部した。
この頃にはもう、周りも俺たちをニコイチで捉えることが多くなり、誰も俺たちの関係に口を挟まなくなっていたのが俺は嬉しかった。
でも俺が成績を落とせば親が夏生を悪く言うので、今までは親への反抗としてあまりしてこなかった勉強を、中学からはちゃんと頑張るようになった。
するとどうなるか。昔から顔を褒められることの多かった俺は、女子からの視線を多く浴びるようになる。
これが全然嬉しくない。むしろ鬱陶しい。夏生と一緒に話していても女子が横から口を挟んできたり、次第に俺の隣にいる夏生を邪険にしたりする女子も現れた。
小学校低学年の頃は、頼りないとか、女の子っぽいとか、そう言って俺のことなんか見向きもしなかったくせに。
背が伸びて勉強ができるようになってバスケを始めただけで、俺という人間は特に変わってもいないのに、手のひらを変えたようにすり寄ってくる連中が気持ち悪くて仕方なかった。
おかげで俺の人見知りは加速した。
『三澄ってさ、いっつも女子の告白断ってるけど、好きな子でもいんの?』
俺が女子からの呼び出しを受けて戻ってきて、夏生にちゃんと告白を断ったよと報告していたときのことだ。
夏生が『律儀に報告すんなよ』と微妙な顔をすると、近くの席に座っていたクラスメイトが話しかけてきた。
でも俺はこれまでそいつと仲良く話した記憶もないので、答えることなく夏生を後ろから抱きしめる。告白してきた女子がなかなか強引な子で、断ったら無理やり俺の腰に抱きついてきてしばらく追い縋られたのだ。
そうして精神的に参っていた俺は、夏生の肩に顔を埋めて、夏生の匂いを感じることで回復を図っていた。
『無視かよ。つーか前から思ってたけど、おまえらの距離感おかしくね? 幼なじみにしても異常。もしかして三澄と槇ってできてんの?』
……できてる?俺と夏生が?
そんなわけねぇだろ、と夏生が否定している声は耳に届いた。でも俺の中でそいつの言葉はなぜかひどく反響する。
ここでいう『できてる』というのは、俺と夏生が恋人の関係にあるということだろう。
(夏生が、俺の恋人?)
脳天を突き抜けるような衝撃を受けた。
今まで男同士だからと視野にも入れていなかった概念が、そいつの発言で俺の中にぽっと芽生えてしまった。
――本当に、かわいそうな夏生。
そいつが余計なことさえ言わなければ、俺はもしかしたら、まだ夏生を手放すことができたかもしれないのに。
そいつが俺の中に燻り続けていた感情に名前を与えなければ、夏生に好きな人ができても、俺はまだ許せたかもしれないのに。
(そっか。俺、夏生の全部を、俺のものにしたいんだ)
友だちとしての夏生も、幼なじみとしての夏生も、恋人としての夏生も、全部。
小さい頃、いつも俺を助けてくれたヒーロー。俺に甘くて弱い、愛おしいヒーロー。
いつも何かが足りなかった。
どんなに夏生のそばにいても、夏生を抱きしめても、いつも何か物足りないと感じていた。その感情が爆発しそうになるとき、俺は必ず夏生を腕の中に閉じめて、夏生が怒り出すまで力いっぱい抱きしめてやり過ごしていた。そうすれば夏生の匂いが肺の中に広がって、少しは満たされたような気持ちになれたから。
でも、このどうしようもない衝動には、ちゃんと名前があったのだ。
その名前を認識した途端、俺はひどく夏生に触れたくなって、埋めていた顔を横に向けて夏生の首筋に自分の唇を強く押し当てた。
驚いた夏生が反射的に椅子から立ち上がり、真っ赤な顔で俺を凝視してくる。
いつもより目を丸く見開いて、何をされたのかわかっているようでわかっていない様子の夏生を見て、俺の心は仄暗い歓喜に震えた。
『夏生、急に立ち上がってどうしたの?』
『どうしたって、今おまえがっ』
『俺が、なに?』
俺が確信犯的に微笑むと、夏生は逆に口を閉ざした。自分がされたことを口にしようとして、口にすることの恥ずかしさに気づいたのだろう。
(ああ、かわいい……)
俺のしたことで動揺し、戸惑い、顔を赤く染める夏生がかわいくて仕方ない。昔はあんなにかっこいいと思っていたのに、俺のせいで慌てふためく夏生を見るのは気分がいい。
もっと、もっと見たい。
もっと色んな夏生を見せてほしい。
こんなに一緒にいたのにまだ俺の知らない夏生がいた事実が、悔しいけれど愉しいと思った。
その日から俺は、夏生に怪しまれない程度の速度でゆっくりと触れ合いを増やしていった。
俺が夏生に触れても当たり前のように受け入れてくれるように仕上げるのは、意外と難しくはなかった。もともと夏生は俺に甘い。俺が少し弱った顔で首を傾けるだけで、夏生は渋々俺を受け入れる。それを何回か繰り返せば、夏生もいつしかそれを当然と思うようになっていった。
その過程で周りの奴らから揶揄われようが、俺にとってはどうでもいい。
どうせそういう奴らは俺への妬みや嫉みから噂しているだけで、真実なんて二の次なのだ。俺のイメージが崩れれば満足で、逆にそれが俺にとってはいい女子避けになってくれていてありがたいと思っていることには気づかない。
(必死に俺との関係を否定してる夏生もかわいいけど、それも中学までかな)
このときの俺は、とにかく夏生がかわいくてかわいくて浮かれていて、高校に進学したら今度はどう俺を意識させようかと画策していたところだった。
だからまさか、中学もあと半年で卒業というときに、自分があんな大きな失態を犯してしまうなんて夢にも思っていなかったのだ――。
(あのときは本当に焦ったなぁ。夏生んとこのおばさんには一生感謝しなきゃ)
夏生が秘密にしていた進路を俺に教えてくれたのは、夏生のお母さんである。一応おばさんのために弁明しておくと、おばさんは何も悪くなくて、俺がただ鎌を掛けただけ。
おばさんは俺の家庭環境のことも知っているから、夏生と同じで俺に甘く、もう一人の母のような存在でもある。
そういう意味でも感謝はしているけれど、夏生のご両親には、もうずっと別のことで感謝していた。だってあの二人がいなければ、槇夏生という尊い存在は産まれなかったのだ。俺が夏生の次に、この世界で好きな人たちである。
(……テストが終わったら、夏生はキスのこと、ちゃんと考えてくれるかな)
いや、きっと考えてくれるだろう。夏生は変なところで律儀だから。そんなところもかわいいのだけど、夏生の魅力は俺だけが知っていればいい。
(大好きだよ、夏生。だからこそ、俺以外を見る夏生が大嫌い。愛おしくて、食べちゃいたいくらいなのに、そうさせてくれない夏生が憎らしい)
こんな感情、好きなんてひと言では片付けられない。
そんなきらきらしい感情ではない。
そろそろ夏生がこの気持ちを受け止めてくれないと、今にも暴走してしまいそうなのだ。暴走してしまったら、俺自身夏生に何をするかわからない。
(だから早く、早く、俺のところに堕ちてきてよ、夏生――)
俺はもう、とっくに手遅れなんだから。
第五章
高校生になって初めての中間考査が終わると、校内は春高祭一色になった。
考査が終わってもう三日が経つけれど、当日までの最後の授業は、どのクラスも春高祭の準備に当てられている。
それでも間に合いそうにないクラスなんかは、放課後も使って準備に勤しんでいるようだ。
他にも部活で何か出し物をする場合は、そちらの準備もある。俺が所属しているバスケ部は、空き教室を借りてバスケカフェという名の休憩所を提供するのが毎年の恒例のようで、必要な物は使い回しているためそこまで準備も大変ではないらしい。
ちなみに、一応バスケカフェなので、教室に作った手作りゴールにシュートを決められれば飲食代は無料になる。
というわけで、不運にもクラスの出し物で『求婚者役』に選ばれてしまった俺は、劇の練習のせいで部活練には行けないでいた。
「三澄くんの女装、ちょっと見てみたかったよねー」
「ねー。でも本人絶対やってくれなそうだけど」
「それな」
机と椅子を後ろに寄せた教室で役者陣が稽古をしているなか、空いているスペースで大道具係がせっせと劇に使う小物などを作っているのだが、その女子の会話が出番待ちの俺の耳に入ってくる。
噂されている悠人本人は、衣装・メイク係なので教室にはいない。あいつはその中でもメイク係を勝ち取ったらしく、当日までにメイクの練習さえしておけばいいようで、部活練に行っている。
「でもさー、マジでイケメンだし、かっこいい格好とかのほうが見たかった」
「文化祭の醍醐味だもんね。執事とか」
「吸血鬼とか」
「ギャルソンもいい」
「医者とかスーツも」
「見たいッ。それだけで絶対稼げるッ」
さすが悠人。存在しているだけで誰かに夢を与えられるなんて、イケメンは恐ろしい。
もし本当に悠人が春高祭でそんな格好をして目立てば、一気に悠人への告白挑戦者は増えるに違いない。
「でも本人めっちゃ塩じゃん?」
「わかる~。マジで女子にも男子にも塩だよね。うちのクラスで一番かわいい飯沼さん振ったらしいし」
「あれ本当なんだ?」
そこでなんとなく居たたまれなくなった俺は、彼女たちから距離をとるべくさりげなく窓際へ移動した。
おかげで会話は聞こえなくなったが、代わりに彼女たちの視線が突き刺さってきた。
何を言われているのだろう。わからないけれど、なんとなく想像もついてしまう。
(絶対俺が邪魔とか、そんなところだろうな)
中学でもそうだった。
悠人の態度は誰が見てもわかりやすい。性別に関係なく塩対応の悠人が、唯一微笑む相手。それが俺だ。
そこから俺と悠人がどういう関係なのか探る奴らが現れ、俺たちが幼なじみだと知る。
だからか~と納得されて、じゃあ自分も長く関係を築けば笑ってもらえるかも、と希望を見出した女子たちによる悠人へのアプローチは、なかなかに強引なものが多かった。
悠人との関係を築くためには、確かに多少の強引さは必要だ。けれど引き際を弁えていないと、悠人を怒らせる結果になりかねない。
いつだったか、全然振り向く気配のない悠人に焦れた女子の一人が、それを俺のせいにしたことがある。
『三澄くんだって彼女ほしい年頃なんだから、幼なじみなら察してあげなよ』
なんで俺がそんなことを言われなきゃいけないんだと、ムカついた衝動のままお望みどおりにしてやろうとしたら、敏感にそれを察知した悠人が原因を突き止めてキレた。
『俺は夏生以外いらない。勝手に俺の気持ちを語るな!』
以来、俺と悠人が実は付き合っているみたいな噂が流れ、さすがにそれは事実無根だと否定しても、特に周りの男子どもが俺たちを夫婦だなんだと囃し立てるようになった。
(おかげで俺も中学三年間は、彼女どころか好きな子もできなかったっていうね)
またあれが繰り返されるのはごめんだ。
悠人の隣に俺がいるのを否定されるのも嫌だし、恋ができないのも嫌だ。
(ああ違う。その前に俺、キスの意味だっけ? 考えなきゃいけないんだった)
テスト期間中はなんとか見逃してもらえたが、終わった今、悠人からたまに送られてくる圧は俺を妙に焦らせる。
――キスの意味なんて、本当にあるのだろうか。
涼しい顔で人のファーストキスを奪ったあいつは、まさか俺に嫌がらせでもしたかったのだろうか。
それとも復讐か。ずっと一緒にいると言ったくせに中学の最後で避けた俺に対する、遅ればせながらの復讐。
(復讐がキスって……はっ、嫌な男だな)
窓ガラスに反射する自分の姿に気づき、視線は自然と唇に移った。
特に艶やかでもかわいくもない、薄い唇。
対して悠人の唇は俺よりやや厚いからか、色っぽい感じがした。それに柔らかい。
と、そこまで考えて、窓に映る自分の顔がいつのまにか火照っていることに気づいた。
(いや……いやいや! なんでここで真っ赤になってんの俺! これじゃまるで、俺が――)
俺が、なんだろう。ドクンと心臓が変な音を立てて跳ねた。
一度不規則な音を知覚してしまったら、そのあとに続く異様な加速度で脈動する心臓を見て見ぬふりはできない。
なんだ。なんなんだ、これは。
唇が離れた瞬間の、悠人の流し目が脳内にフラッシュバックする。
――〝夏生〟
耳の奥に息を吹き込むような悠人の声が蘇ってきて、俺は咄嗟に自分の耳を塞いだ。
「――ん。なっちゃん!」
そのとき肩を揺さぶられて、大げさに驚いた俺は一歩後ずさる。
「なっちゃん、次出番だけど。大丈夫? どうしたの?」
同じ求婚者役のハズレくじを引いた柊が、目を丸くして俺を見つめていた。
おかげで急に現実を取り戻した俺は、取り繕うように笑う。
「ご、ごめん。なんでもない。呼んでくれてありがとな、柊」
「それは別にいいけど……なんか顔赤くない? 熱?」
柊の手が俺へと伸びてくる。悠人の真剣な眼差しが頭の中に浮かんだ瞬間、俺は反射的に柊の手首を掴んでいた。
俺たちの間に気まずい沈黙が落ちる。
(……しまった。やらかした)
あからさまに拒絶してしまった自分の行動を後悔する。
柊は強引なようでいて引き際も心得ており、あまり人の悪い噂もしないので、一緒にいて居心地のいい友だちなのだ。できれば良好な関係を保っていたかったのに、今のは百パー感じが悪かった。
「ごめん、柊。今のは違くてっ」
「大丈夫大丈夫。そんな顔しなくてもわかってるって。なっちゃん慌てすぎ」
「……怒ってないのか?」
「こんなんで怒らないよ~。俺のほうこそ軽率に触ろうとしてごめんね?」
柊は本当に気にしていないようで、にこにこと笑っている。頑張れ~と応援してくれる柊に安堵して、俺は稽古に加わった。
「――そっかぁ。案外なっちゃんも……似た者同士だったか」
そんな柊の呟きには、気づくこともなく。
*
春高祭の準備期間中は、悠人のほうが早く部活も終わるため、いつも俺の終わりをあいつが待っていてくれる。
先に帰ればと素っ気なく伝えても、悠人は首を横に振るだけだ。
あれから俺は、律儀にキスの意味を寝る前に考えているのだが、いまだに答えを見つけられていない。
いや、本当に見当がついていないのかと問われれば、首を縦に振るのは難しい。
俺の中では〝嫌がらせ〟もしくは〝復讐〟の線が濃厚だからだ。
ただそれを悠人に答えないのは、俺が認めたくないからに他ならない。というより、復讐でキスってなんだ。ムカつくだろ。復讐をするにしたって、もっと他にやりようはあったはずだ。これなら殴られたほうがまだマシだった。
(もしかして、悠人もそれがわかってたから、キスを選んだのか?)
俺は今、劇の稽古の合間に柊と買い出しに来ていた。
なんでも小道具で足りないものがあるから、出番待ちで暇な俺たちに御鉢が回ってきた次第だ。
学校から電車で十五分のところにちょうど良さそうな商業ビルがあるため、そこで探してこいとの命令を受け、息抜きがてら店を回っている。
「百均には売ってなかったね~」
「だな。次どこ行く?」
「どこ行こうね。雑貨売ってるとこでも回る? てかこれ、見つけられる気がしないんだけど~」
「同じく」
普段あまり買い物をしない男二人に買い出しをさせたのは、たぶん人選ミスだと思う。
俺も柊も、とりあえず探してみて、見つからなかったときは潔く諦めて戻ろうという話で互いに合意していた。
「――あ。なっちゃん、見てあそこ」
「なに?」
「あれって三澄じゃない?」
柊の指差す方へ視線を向ければ、やたらと女子の客が多い店の中に悠人がいた。
メイク係の悠人は、各々メイクの練習だけはするように言われているらしいが、準備期間中は特にすることもないからと部活に行っているはずである。
それがなぜ、こんなところにいるのか。
よくよく観察してみれば、その店はメイク道具やら化粧水やらと、コスメ商品を売っているところのようだった。
「もしかして、メイク係も今日は調達に来てるとか?」
「かもな」
確かに学校の周辺にある大きな商業ビルは、ここしかない。ここで買い出しするのが一番便利と言えば便利で、だから俺たち以外にも同じ制服姿をちらほらと見かけている。
でも、メイク道具は女子の誰かが持っているものを使うような話をしていたのに。
「そういえばさー、三澄、なっちゃんのメイク係に立候補したんだって?」
俺の心臓がドキッと跳ねる。
そうなのだ。メイク係は悠人を含めて三人いるのだが、誰より早く俺の担当をすると言って聞かなかったらしい。
「んで、逆に女子は三澄にメイクしてもらいたいって希望して、撃沈したんだってね」
「ああ、らしいな……」
その結果、悠人は男子専属のメイク係になったと聞いた。
ただ、これまでメイクなんてしたこともない男がいきなり大丈夫なのかと、俺はずっと心配している。
それを本人に訊ねたところ、実は今日、俺の家で練習の成果を見ることになった。
「せっかくだし、三澄に声かけてく?」
ここで気づかぬふりをするのもおかしいかなと考えた俺は、柊の提案に頷いた。
男二人でコスメショップに入るのは勇気が要ったが、悠人は一人で来ているのだ。それが俺の背中を押したけれど、俺たちが悠人との距離を縮めていた途中、ふっと悠人の横に並ぶ女子がいた。
――飯沼さんだ。
彼女が悠人に向けて微笑むのを見た瞬間、俺の足が止まる。
「なっちゃん? 行かないの?」
柊が俺を振り向いて、振り向いたあと、まるで驚いたように目を瞠った。
それからすぐ悠人たちを一瞥して、二人が俺たちに気づいていないのを確認すると、俺の腕を軽く引っ張ってUターンする。
俺は柊に引かれるがまま、人気の少ないエレベーターホールへと連れられた。
「あのさ、ごめん。触れてほしくない話題かもしれないけど、もう訊いてもいい?」
俺がうんともすんとも答える前に、柊がずばりと口を開く。
「なっちゃん、三澄のこと、好きだよね?」
「……そりゃ、幼なじみだしな」
「違うよ。俺がそういう意味で訊いてないことくらい、なっちゃんもわかってるんでしょ、本当は」
ああ、わかっている。わかっているからこそ、答えたくないのだ。
だってそれを認めてどうなる?認めたって、この想いはどこにも行けない。
本当は薄々気づいていた。自分の中に芽生える苛立ちや、モヤモヤが、どういう種類のものかなんて。
とっくに気づいていた。
だから離れようとしたのだ。悠人との約束を破ってまで。
破ってでも俺が離れたいと思うちょうどいい言い訳が、不意に転がり込んできたから。
一枚一枚花びらが落ちて、隠されていた雌しべが顕わにされるように。
俺の嘘を一枚一枚剥がされて、とうとう真実が露わになる。
誰にも暴かれたくなかった。誰にも気づいてほしくなかった。
自分自身でさえ、気づきたくはなかったもの。
だって、気づいてしまったら、嘘を全て剥がされてしまったら、もう隠すことなんてできないから。
隠せない想いを、悠人はどう思うだろう。
俺が一番怖いのは、悠人から離れることじゃない。悠人に気持ち悪いと思われて嫌われることだ。
「ごめん、柊。俺帰るわ」
「え、なっちゃ――」
「ほんとごめんっ」
まだ買い出しの途中で、まだ劇の練習だって残っている。
それでも今は、色んな衝撃のせいで集中できないだろう。
がむしゃらに走って帰りの電車に飛び込んだ俺は、座席に座ると、呼吸を整えながら強く瞼を閉じた。
家について自分の部屋へ直行すると、制服も脱がずにベッドに倒れる。
かろうじて悠人に先に帰った旨のメッセージだけ入れて、俺は深呼吸を繰り返した。
いつから悠人への気持ちに変化が生じたかなんて、もう覚えていない。
そもそも自覚したのがいつだったのかも覚えていないのだ。
いや、自覚しないようにしていたから、今だってまだ悠人への気持ちに名前を付けたことはない。
付けてしまったら最後、俺はこれまで散々悠人を困らせてきた女子たちと同じ存在になるだろう。俺は悠人だけは困らせたくない。
(ほんっと最悪だ……やらかした)
これまで生きてきたなかで、最大級の失態である。
明日はクラスのみんなへの謝罪と、柊への謝罪、そして柊への口止めが俺の任務になりそうだ。
(悠人が俺とは違うって、わかってたはずなのに)
悠人は俺に執着するけれど、それは子どもの独占欲と似ている。
たとえば、ある日妹が産まれて、親がめっきり自分に構ってくれなくなったときのお兄ちゃんみたいな。
悠人の家は少し特殊で、本来なら注がれるはずだった両親の愛はなく、兄とも気まずい関係だ。そんな幼い悠人に、たぶん俺が初めて親愛の情を捧げた。
そのせいで悠人は俺に執着しているが、それは俺の執着とは根本が違う。
誰だって親に変な目で見られるのは気持ち悪いだろ?だからきっと、悠人も俺にそんな感情は望まない。
その証拠に、あいつは中学のときに彼女をつくっている。
たまたま帰り道に女子と二人で歩いている悠人を俺は見かけた。あの悠人がだ。俺以外とは打ち解けようともしなかった悠人が、俺以外の同性と二人きりだったとしても珍しいのに、それが女子となるとなおのこと稀である。
つまりはそういうことなのだろうと、俺は瞬時に悟った。
(慎重に、ずっと慎重に、隠してきたのに……っ)
幾重にも嘘を重ねて。自分でも嘘が嘘とわからないくらいに。
なのに、女子と二人きりでいる悠人を見て、驚くほど簡単にその嘘が剥がれ落ちてしまった。
(柊、だいぶ驚いてたな。そりゃそうだよな)
とりあえず明日のことを考えなければ。柊は簡単に言いふらすような男じゃないとは思っているが、万が一は想定しておくべきだろう。
明日はいつもより早く起きて、暗黙の待ち合わせ時間を無視して悠人より先に登校する。それで朝一番に、柊と話をしよう。もとい口止めをすることになるが、そのときどう誤魔化すかが重要だ。
明日を思って深いため息を吐き出したとき、部屋の扉が勝手に開いた。
「あ、夏生いた」
「悠人!? おま、なんでここにっ」
突然の悠人の登場にびっくりして、俺は勢いよく上半身を起こす。
「だって約束してたでしょ? メイクの成果」
「でも俺、今日は中止にって……」
確認のためにスマホのメッセージ画面を呼び出すが、確かにそこには今日の約束のキャンセルを伝える俺のメッセージが残っていた。
その下に小さく既読の文字も見えるため、悠人が見ていないわけでないことは一目瞭然だ。
「てか、そもそも帰ってくんの、早くね?」
俺が悠人にメッセージを送ったのは、自分の家に着いてからだ。その頃はおそらく、悠人もまだ商業ビルから学校に戻ってきたあたりじゃないだろうか。もし商業ビルに長居していたとしても、学校のほうが俺の家には近いため、ビルから直接帰ってきたとしても時間が合わない。
「それがさ、今日メイク道具の調達してたんだけど、そこで保坂と会って」
心臓がひゅっと縮んだ。まさか柊の奴、あのあと悠人に接触したのか。
「保坂が、夏生が体調不良で先に帰ったって言うから、俺も慌てて帰ってきたんだ」
「しゅ、柊が? そう言ったのか?」
「そうだよ。そしたら電車に乗ってるときに夏生からもメッセが来て……体調はもう大丈夫なの?」
悠人がベッドのそばで膝をつく。熱を測ろうとしたのか、伸びてきた手を俺は大人しく受け入れた。
「熱はないね。風邪とかじゃなさそう?」
「あ、ああ。まあ」
「腹痛とか?」
「あー、そんな感じ。でももう大丈夫だから」
「ほんとに?」
こくりと頷く。実際はどこも痛くないし、体調だって悪くはない。強いて言うなら心臓が痛いけれど、これは病気でもなんでもないとわかっている。
「ふーん、そっか。それなら――」
すると、途端に悠人の纏う雰囲気がガラリと変わった。
直前まで俺を心配してくれていたはずなのに、今はなぜか不機嫌な様子が伝わってくる。
「ねえ、なんで体調悪いの、俺より先に保坂が知ってんの?」
「……は?」
「俺より先に保坂に連絡するって、おかしくない?」
「いや、だって柊とは、一緒にいた、し」
悠人が右膝をベッドに乗り上げてきた。
ぐっと距離が縮まって、俺は少しだけ仰け反る。
「一緒にいた? あのビルに?」
「そうだよ。俺たちも買い出しに行かされてたから」
「……じゃあもしかして、夏生も見た?」
どくり。心臓が急激に収縮したせいで、強烈な痛みに締めつけられる。
見たって、何を?そんな白々しいことを、今までならきっと言えていた。
でも、せっかく纏った嘘を剥がされてしまった今、下手に取り繕おうとすると声が掠れるような気がしてならない。
悠人の視線がじっと突き刺さる。
永遠にも思える無言の攻防だったが、この沈黙を先に破ったのは悠人だった。
「夏生の体調が大丈夫なら、メイク、させてくれない?」
脈絡のない申し出に、俺は意表をつかれたように目を瞬く。
「ね、いいでしょ?」
「……わかった」
追及されたくないことを追及されるよりはマシだと考えた俺は、悠人のお願いを了承した。
促されるまま俺が床に座ると、逆に悠人がベッドに上がって胡座をかく。
悠人はビニール袋をひっくり返して、メイク道具を並べた。どれも新品かと思いきや、中には使用済みのものもある。
俺の前髪をクリップで留めながら、悠人が教えてくれる。
「安心して。新品じゃないやつは、俺にしか使ったことないから」
「どういう意味?」
「練習で俺の顔にメイクはしたけど、他の誰かには使ってないってこと。ほら、メイク道具は女子のを借りるって話、夏生も聞いてるでしょ?」
ああ、と俺は浅く頷いた。だから今日コスメショップに悠人がいたことに驚いたのだ。
「でもそれってさ、他の女子に触れたものを、夏生にも使うってことでしょ?」
「だとしてもその言い方はやめろよ。なんか俺が変態みたいじゃん」
「逆だよ」
「逆?」
「俺が許せないのは、夏生に俺以外が触れること」
さらりと告げられて、びっくりした俺は目の前の悠人を凝視してしまう。
何も喋れずにいる俺をどう思ったのか、悠人は特に気にせずメイクを始めた。
正直に言って、俺には全くメイクの知識はない。悠人が俺の顔に何を塗っているのかもわからないまま、肌に触れる悠人の手に意識が集中しないよう気合を入れる。
「メイクも同じ。ねえ、夏生。想像してみて。もし俺以外がメイクするってなったら、誰かとこの距離で近づくことになるんだよ」
それがどうしたというのだろう。悠人以外なら、別に誰と近くなろうが俺の心臓は平穏を保っていられる。
むしろ悠人のほうが俺の平穏を掻き乱す。
「こんなに近い距離でさ、夏生の顔を見つめ続けるなんて、許せると思う?」
メイクの途中だというのに、顎に手を添えられて、目を合わせられる。
お互いにお互いの瞳の中に映る自分を認識できるくらい、距離が近い。
ともすれば鼻息が肌に触れそうで、心拍数が恐ろしいことになっていた。
「目、閉じて」
悠人の指示に従って瞼を伏せる。
次は半分開いて、と本格的なメイクをされている雰囲気が伝わってきて、こいつ本当に勉強したんだなとなんとはなしに思う。
やがて悠人が道具を置いて、満足そうに頷いた。
「うん、いいね。かわいい」
悠人が手鏡を目の前にかざしてくれたので、俺はメイクをした自分とそこで初めて対面した。
「夏生はあんまり主張の激しい顔じゃないから、メイクするとだいぶ変わるでしょ? メイク映えする顔だよね」
「悪かったな、地味顔で」
「悪くないよ。俺は夏生の顔好きだもん。なんならもっと……そうだな、誰も見向きしないような顔でもよかった」
それはつまりぶさいくってことか?と思いながら、俺は首を傾げる。なんでぶさいくのほうがいいんだ。引き立て役なんて必要ないほど、悠人の顔は整っているだろうに。
「……そうすれば、誰も夏生の魅力に気づかないよね」
「え? なんか言ったか?」
俺が考え事をしているときに悠人が何かを呟いたものだから、聞こえなかった俺は確認するが、悠人はなんでもないと首を横に振る。
「それより、仕上げがあるから。少しだけ顔を上げて」
「ん」
スティック状の何かを手に持った悠人が、それを俺の唇に塗った。
たぶん口紅だろう。もしくはリップ。今は色つきのリップなんかもあるから、俺にはどれが口紅でどれがリップなのか、違いはよくわからないけれど。
「夏生、んぱってして」
「んぱ……?」
「こう」
言葉だけじゃわからなかったが、悠人のやるとおり上下の唇を擦り合わせる。
いったい何色のものを塗ったのか、ぶっちゃけ怖くて訊けない。鮮やかな赤色だったら泣く。似合わない自信しかない。
「わー……これ、春高祭でみんなに見せるのか」
「え、そんなヤバイ?」
「うん、ヤバイ」
マジかよ、と俺は眉根を寄せた。だから女装なんてしたくなかったのに。
可能なら今からでも悠人と替わりたい。
「本当に……ヤバイね。変な男に目を付けられそう」
「……悠人?」
やたらと近くで凝視されるから、メイクの出来栄えを見ているのかと思ったのに、徐々に近づいてきた悠人の顔がついにフレームアウトした。
ふに、とマシュマロみたいな感触に唇が包まれて、俺は目を瞠る。
悠人の顔が視界に収まるくらいまで離れたとき、悠人の口がさっきより桜色に色づいていることに気づいてしまった。
その意味を理解した瞬間、俺の顔から火が噴いた。
「夏生、キスの意味、考えてくれた?」
「おまっ……今それ訊くか!?」
「訊いちゃだめなの? じゃあ口紅、何色塗ったかわかる?」
悠人が自分の唇を差してにんまりと笑う。なんなんだ、こいつは。どんだけ俺に嫌がらせしたいんだ。
俺を辱めるためだけにやっているのなら、体を張りすぎだろう。
「おまえ、飯沼さんといい感じなんじゃねぇの? だったら俺にこんなことすんなよっ」
「まさか。今日のは向こうが勝手についてきただけだよ」
「でも仲良さそうに喋ってただろ」
「そんなことないと思うけど…………待って。え?」
「なんだよ」
珍しく瞳を揺らす悠人につっけんどんな態度をとってしまったあとに、俺も自分の失言に遅れて気づいた。
無意識に立ち上がり、ここが自分の部屋だということも忘れて逃げようとする。が、その前に悠人に腕を掴まれて叶わない。
「今の、ヤキモチ?」
「ち、違う」
「違うの? でも俺も、夏生と保坂が喋ってるの、ヤキモチ焼いてる」
「は? 柊に?」
あいつはただの友だちだ、と言い募ろうとして、俺は気づいた。悠人のそれは幼なじみをとられるかもしれないという焦りからくるもので、決して恋愛云々の話ではない。
(じゃあ俺も、それを装えば、まだ誤魔化せるか?)
嘘を剥がされて、剥き出しになってしまった俺の心に、また嘘を重ねよう。そうすれば散ってしまった花も、元の綺麗な姿を取り戻せるかもしれない。
「別に、柊はただの友だちで、俺の幼なじみはおまえだけだ。焼く必要なんてない」
「……じゃあ夏生も、焼く必要なんてないよ」
「ははっ、だよな」
自分で言っておきながら、どうしてもうまく笑えない。
嘘で自分の心を守るとき、俺はいつも血を吐くような痛みを感じている。だからきっと俺の心を守る花は、血のように鮮烈な赤だろうと思っている。
「キスの意味」
「まだ言うか」
「期限、決めていい?」
期限?と訊き返すと、悠人がやけに真剣な面差しで首肯した。
「春高祭が終わるまでに、答えを聞かせてよ」
「そんな言わせたいわけ?」
復讐でキスしたんだろと、そんなわかりきったことを、俺に。
「言わせたいんじゃない。気づいてほしいんだ」
「気づく、か。おまえの気持ちに?」
自嘲するように問いかけた。
「……もしかして、もう気づいてる?」
ああ、気づいてる。そう答えたら、もう悠人とはこれまでのようにはいられないのだろうか。自業自得とはいえ、嫌がらせでされるキスがこんなにも虚しいものだなんて知らなかった。
それでも俺は意気地なしだから、悠人と離れたいと思っていても、離れたくないとも思っていて、嫌われたかもしれないとわかっているのに、嫌われたくないと足掻いてしまう。
だから。
「まだ、なんにもわかんね」
「……そう」
嘘をまた一つ、重ねる。
でも悠人が一瞬だけ眉尻を下げて捨てられた仔犬のような顔になったので、俺は自分の選択をミスったのだろうかと不安になった。
微笑みを浮かべた悠人が、両腕を大きく開く。
「じゃ、今日の分。おいで」
そんな悠人に対して俺はというと、ぐっと喉に空気を詰まらせた。
前に悠人が匂いがどうのこうのと言ってから続いている、ハグタイムだ。
これにもどんな意味があるのかいまいち理解しきれていないが、悠人の腕の中に合法的に閉じ込めてもらえるチャンスは逃したくないと、今日も俺の身体は素直に吸い寄せられていく。
もうお馴染みとなった香りが、鼻腔を抜けていく。
俺にとってこの香りは、もはやただの香水ではない。悠人の香りだ。脳はそう認識してしまった。
「これからはさ、朝にハグするのもいいよね」
「なんで」
「前に気づいたんだ。こうしてると、俺の匂いが夏生に移るの。そういうの、なんかよくない?」
よくない。全然よくない。胸がきゅうっと切なくなる。
悠人、おまえそれ、どんな顔で言ってる?
おまえが何をしたいのか、俺にはもうわからない。
昔は悠人のことならだいたいわかったのに、今の悠人の心が俺には全く理解できない。
だってそれは、まるでマーキングみたいじゃないか。普通は復讐したいほど嫌いな相手に、そんなことはしない。
(俺たちって、なんなんだろうな)
悠人の腕の中は、幸福と絶望、両方の味がする。
世間的には『幼なじみ』で『友だち』なのだろうけれど、心情的にはどちらも当てはまらない。
俺は邪な気持ちがあるし、悠人が俺に復讐したいと思っているなら、やはりそれはどちらにも当てはまらない。
お互いにそう思っていないなら、はたして俺たちの関係性はなんと答えるのが正解なのか。
そしてこれから〝何〟になろうとしているのか。
(昔みたいに、ただ純粋に、笑い合えていられたらよかったのにな)
裏切ってごめんと、悠人に聞こえないよう口の中で呟いた。
*
ついに春高祭当日がやってきた。
春高祭自体は二日間開催されるが、俺たちのクラスが体育館で劇をするのは一日目だけだ。おかげで俺は朝から女装しなければならない。
ちなみに、部活のバスケカフェの店番はクラスの劇が終わってから入っていて、俺がクラスで女装すると知った先輩たちに「そのままの格好で接客しろ。面白いから」と言われてしまった。地獄である。
その代わり二日目はほぼ自由なので、まあ、よしとしよう。
クラスの劇は、最初はかぐや姫に求婚する男役なので、衣装もそれに合わせたものを着る。
が、劇の途中で早着替えはできても、メイクができるほど俺たちはプロじゃない。ので、口紅以外のメイクは先にやってしまうことになっていた。
「うわ~、三澄くん、メイクうま。え、もしかしてもともとやってた?」
男にもともとやってたという質問はどうなんだと思ったが、今の時代、それも珍しいものではないのだろう。
悠人のメイクの腕がうますぎるせいで、俺はメイクをしているところを人に囲まれるという羞恥プレイにひたすら耐えている。
「メイク好きなの?」
「気が散る。話しかけないで」
「あ、ごめん」
「でもほんとすごーい……私もやってほしかったなぁ」
「黙って」
さすが悠人。さっきから塩対応がすぎる。
ただ、悠人にとっては残念なことに、このクラスの女子は逞しく、この塩対応が逆にいいと最近では喜ばれている節がある。
なんでもチャラい男より浮気しなさそうだからいいのだとか。
まあ確かに、悠人が浮気なんて想像もつかない。小さい頃から好きなものには一途な悠人だ。俺が誕生日プレゼントにあげたブランド物でもなんでもないシャーペンを、どうやら大層気に入ったらしく、いまだに使い続けているのがいい証拠だろう。
「ん、いいよ夏生。目開けて」
その言葉を合図にゆっくりと瞼を押し上げると、予想以上に人に囲まれていて肩をびくつかせた。
悠人が鏡を見せてきたので、俺は自分の仕上がりを容赦なく確認させられたが、なるほどこれは女子が騒ぐわけだ。
俺の顔なのに全然俺じゃない。悠人のすごいところは、たぶんこのメイクなら、男の格好でも女の格好でも合うだろうと思えるところだ。
「すごーい! 槇くんいい感じ!」
「かわいい!」
「今の男の格好もいいけど、女装した姿が楽しみすぎる!」
わっと一斉にクラスメイトが寄ってきて、俺はどう反応を返そうかと困惑する。
すると、俺の視界にすっと悠人の背中が割り込んできた。
「夏生は見世物じゃない。減る。散って」
「「「は~い」」」
どうやら庇ってくれたらしい。その背中を見上げて、あれ、と思う。
いつのまにこんなに大きくなっていたのだろう。
「保坂、次」
「はいは~い。俺のこともかわいくしてね」
「無理」
次は柊のメイクに入るらしい。辛辣な悠人の返事に柊はツボったようだ。ゲラゲラと笑う柊を見下ろす悠人の目は、控えめに言っても氷のようだった。
「『――わたくしは、わたくしより美しい者と結婚いたします!』」
舞台以外の照明が落とされた体育館に、かぐや姫の美しい声が響いた。
よく知る童話と違うセリフに、体育館中からどっと笑いが沸き起こる。「かぐや姫面食いかよ」「なにそのパターン」。席は満席ではないものの、それなりに埋まっていた。
俺は少し前に舞台袖にはけており、ちょうど早着替えを済ませたところだ。仕上げに口紅を塗って、女になる。
ここからは童話なんて完全無視の、五人の男たちによる『美しさ』決定戦である。
今さら思っても遅いけれど、なんで美しさを競うのに女装なんだろうという疑問が沸いてくる。
かぐや姫がステージの後ろに控えると、上座と下座の両方から女装した求婚者役の男たちが登場した。
その瞬間の会場のどよめきは、かぐや姫のセリフのときを優に越えていた。
マイクを持ったかぐや姫が、拳を握って説明する。
「では会場にお越しの皆々様、こちらに揃う五人の中から皆様の思う美女を選んでください。投票は挙手制です。多くの票を獲得した求婚者が、めでたくこのわたくし、かぐや姫と結婚できます! さあ『あなたの票が姫の結婚相手を決める!』どうそ!」
最後に宣伝文句をノリノリで叫んだかぐや姫のおかげで、会場の盛り上がりは最高潮に達していた。
俺たち求婚者役の五人は、打合せどおりステージを降りると、思い思いに体育館に並ぶ椅子の間を闊歩した。
至る所から視線が飛んでくる。生まれてこの方これほど注目を浴びたことはない。
「うわヤバ。マジで男じゃん」
「うそ? 見えないんだけど」
「かわいくない?」
「え~、今の子とさっきの子で迷う~」
色んな声が俺の耳に入ってくる。これを喜んでいいのかは微妙なところだが、概ね俺への評価は悪くはなさそうだ。
ちなみに劇はかぐや姫という昔話を扱っているが、求婚者役たちの女装衣装は現代に染まりきっている。
そのためクラスメイトの誰かがこぼしたように、完全にプチミスコンというか、ミスターコンというか、そんな感じの様相を呈していた。
五人がステージに戻ってくると、かぐや姫が再びマイクを握った。
「皆様、お気に入りの子は決まりましたか? では投票を始めまーす!」
こんなノリノリのかぐや姫がいていいのだろうか。ツッコミどころが満載すぎる劇だが、これも文化祭の醍醐味なのだと思うことにする。
俺は目立ちたくないので――というかこれで選ばれて嬉しい男はいるのか?――気持ち他の四人より一歩下がる。
まず一人目の投票が始まった。五人の中で一番ごつい体格の男子バレー部員だ。上がる手の少なさに「なんでだよ!」と本人がお客さんに向かってツッコミを入れている。
続けて二人目の吹奏楽部員は、もう少し票が集まり、三人目は柊だった。
柊はなかなか色っぽい女性に変身しているので、俺の予想では柊が勝ってくれるはずだ。
「おおー! これはなかなかに多いですね!」
かぐや姫も興奮している。ただ、だんだん姫のキャラ崩壊が激しくなっている気がするのは俺だけか。
「みんなありがと〜。結婚できたら盛大に祝ってね〜」
なぜ柊までそんなにノリがいいのだろう。マジでやめてほしい。俺そこまでノれないんだけど。
「では四人目……おっとガクッと下がりましたー! ドンマイです!」
やめろ姫。キャラ崩壊とか言ってる場合じゃない。あまりにストレートすぎるひと言に四人目の男が本気でショックを受けている。
「では次が最後のエントリー! はたして槇姫は保坂姫を超えるのか!?」
超えるのか、じゃないんだよ姫!あとで覚えてろよこのヤロウ!
俺は恨めしい目をテンションの高いかぐや姫に向ける。なぜ名前を口にした。しかも姫はおまえだ、俺たちじゃない。
俺は期待せずに前を見据えた。
「おおっと、これは――!?」
「――あ、かぐや姫に出てた子じゃん」
クラスの劇が終わり、先輩の言いつけどおり女装した格好のままバスケカフェで接客をしていたら、見知らぬ男子グループに声をかけられた。
「惜しかったねー。あとちょっとで結婚できたのに」
そう、結果は俺の予想どおり、柊が勝った。あの色気には並大抵の女でも敵わないだろう。
「でも俺は君のほうがよかったよ~」
「おまえそれナンパじゃん」
「え、男いけたん?」
「だってマジで女子にしか見えんくない?」
確かに、と三人分の視線に晒される。そこは頷くな、否定しろ。同じ男ならわかるだろ、全く嬉しくないことくらい。
「俺君に投票したんだよね~。だからまけてよ」
「おまえそれずりーぞ」
「あちらでゴール決めれば無料になりますんで、ガンバッテクダサーイ」
適当に褒められた俺は適当に相手をする。
「ぶはっ、振られてやんの」
「えー、かなしー」
「他にご用がないなら失礼シマース」
「冷たーい」
悪いが俺は柊のようになんでもかんでもノれるタイプじゃない。
さっさとナンパ集団の許から下がった俺は、布で区切られたバックヤードに避難し先輩に文句を吐き出した。
「俺着替えていいですか!? さっきから変な客に絡まれるんですけど!」
「まーまー。おまえのクラスの劇、かなり話題になってっから仕方ねえって」
「それとこれとは別ですよね」
「いいじゃん。二位だったんだろ? 確かにかわいいよ」
「嬉しくないっす」
だったら先輩が女装しますかと迫ったら、呼び込み用の看板を持たされた。
「……なんすか、これ」
「接客しなくていいから、これで客連れてこい。十人連れてきたら終わっていいから」
「え、マジっすか」
「俺に二言はない!」
なんだその決めゼリフ。かっこいいなオイ。ただそのかっこいいセリフも、俺の頭を撫でながら言うのはやめてほしい。先輩だろうと容赦なく振り払った。
「あれ、そういえば悠人ってどこ行きました?」
「あいつには今俺のご飯をパシらせてる」
前言撤回。全くかっこよくないわ、この先輩。
「にしても遅いな? もし見かけたら早くしろって言っといて」
「覚えてたら言っときまーす」
まあ、たぶん覚えてないだろうけど、と内心で付け足した。
というか後輩をパシらせるなと文句を言いたい。
(まあいいや。悠人見つけたら、そのままサボるか)
上下関係はそこまで堅苦しくなくフレンドリーな部活なので、たぶんサボってもそこまで怒られはしないだろう。
それに、とりあえず今日中に十人の客を捕まえればいいのだから、間に休憩を挟んだところで問題はないはずだ。
「あれー、なっちゃんじゃん。まだ着替えてなかったの?」
適当に校舎を出て中庭をうろついていたら、柊と鉢合わせた。
あのプチミスコンの優勝者兼かぐや姫の結婚相手に選ばれたのに、結局かぐや姫に月に逃げられた不憫な男だ。
「嫁さんに逃げられた求婚者じゃん。そっちこそこんなとこで何してんの? 嫁探し?」
「普通に文化祭回ってるだけだよ。かぐや姫に逃げられたのは同じでしょ〜」
柊が唇を尖らせる。ははっ、と思わず笑ってしまった。
柊はすでに制服に着替えており、メイクも落としているようだ。
「いいな。俺も早く着替えたいしメイク落としたい」
「発言が仕事終わりのOLだね」
「好きで言ってねぇ」
柊は俺が手に持っている看板を見て、俺がここにいる理由を察したらしい。一応経緯を教えたら、どうせ暇だからと言って一緒についてくる。
「おまえ、他の友だちとかいいの?」
「んー、みんな店番とかで時間合わなくってさ〜。そういうなっちゃんこそ、三澄はどうしたの?」
「悠人は部活の先輩にパシられ中」
あの三澄が?と柊は意外そうに笑った。まあ気持ちはわかる。あいつは年上だろうと変わらず塩対応だ。
でもどうやら先輩のほうが上手だったのか、パシられる代わりに店番の時間を減らしてやろうという交換条件に悠人は乗ったらしかった。
「あいつチョロすぎだよな」
「でもなっちゃんも同じような条件で呼び込み引き受けたんでしょ?」
そのとおりすぎて俺は押し黙った。返す言葉もない。
苦戦すると思っていた呼び込みは、柊のおかげで予想外に順調にいった。
俺の呼び込んだ客のほとんどが女子だったことから、柊の見た目については察してほしい。普段は悠人も一緒にいるせいであまり目立たないが、実は柊もイケメンの部類に入る。
悠人がクール担当なら、柊は色気担当。だから女装した姿もあんなに色っぽかったのだろう。
「そういえばなっちゃん、うちの高校のジンクス知ってる?」
「知らねぇけど、どうせあれだろ。後夜祭で告ると永遠の愛になるとかそんなところだろ」
「ははっ。知らないのに当たってる」
「そういうのってだいたい相場が決まってるよな」
うちの高校の後夜祭は二日目にある。つまり明日。明日は告白する生徒が続出しそうだなと、俺はため息をついた。
「でもそのジンクスのせいで、モテる人は順番待ちとかできちゃうらしいよー。そういう人には、みんな前日から告るんだって」
「なんだそれ。ジンクスの意味あんの?」
「さあね~。でも三澄とか、まさに順番待ちされそうじゃない?」
柊が意味深長な視線を流してくる。
ああ、せっかくあの日の質問から逃げられたと思ってたのに、どうやら柊は逃がす気なんてなかったようだ。
――〝なっちゃん、三澄のこと、好きだよね?〟
そんなことを訊いて、柊はどうしたいのだろう。
そんなことを確かめたって、柊にはなんの得にもならないだろうに。
「これはさ、俺の独り言なんだけどね?」
脈絡もなく柊が口火を切る。
「実は俺、高校来る前に幼なじみに振られててさ~」
「え」
独り言だと前置きされたのに、その衝撃的な内容に俺はつい反応してしまった。
柊はそんな俺を一瞥するけど、すぐに前方へ視線を戻す。
「幼なじみって、友だちより距離近いじゃん? それがある意味よくないよね。近すぎて見えないの、自分の気持ち。相手に恋人ができて初めて、見えなかったものが見えちゃったって感じでさ」
柊は明るく話そうとしているが、遠くを見つめる眼差しは俺なんかじゃ計り知れないような切なさに満ちている。
「見えてなかったなら、いっそのことずっと見えなければよかったのに。何度もそう思った。思ったから、本当に見えないようにしたんだ」
柊の足が止まる。突然だったせいで俺のほうが少し先で止まり、俺は柊を振り返った。
「俺、直前で進路変えたんだよね。あいつと違う高校にした」
見えないように、というのは、要するに物理的に見ない場所を選んだということらしい。
「逃げたんだよ、俺。なっちゃんみたいにね」
優しい微笑みが、これほど寂しげに見えるのは初めてだ。
柊の声は俺を責めていない。ただただ、自分と同じ過ちを犯そうとしている相手を、心底心配するような声音だった。
「なっちゃんも、逃げてきたんだよね? ここに」
俺は答えない。答えられない。
「でも、三澄が追いかけてきてくれたんだよね?」
ああ、そうだ。悠人が追いかけてきたから、俺はまた三年間、気づかぬふりをし続ける日々が始まるのかと、絶望にも似た思いを抱いた。
でもそう思った俺はバカだ。そんな思いを抱いてしまった時点で、もう気づかないふりなんてできるはずもないのに。
本当はもうとっくに、気づいてしまっているのに。
「今度はさ、なっちゃんが追いかける番じゃない?」
「……柊は、なんで俺の背中を押すんだ?」
一瞬だけきょとんとした柊が、ふっと笑みをこぼした。今度の笑みは、寂しくも悲しくもない、優しさに溢れた笑みだった。
「そりゃ決まってるよ。なっちゃんが俺みたいだったから。もう一人の俺には、幸せになってほしくてね」
「別に俺、もう一人のおまえじゃねぇし、幸せになるとも限らねぇよ? 悠人のあれは刷り込みみたいなもんで、だから……」
だから?と柊が続きを強請るように首を傾げてくる。
開き直った俺は頭をがしがしと掻きながら答えた。
「だから、俺のとは違う」
「じゃああれ、いいの?」
「あれ?」
柊が俺の後ろを指差す。校舎と校舎の間。建物の陰になっているそこは、体育館の裏よりも有名な告白スポットだ。バスケ部の先輩がそう教えてくれた。
その陰の中に男女が二人いる。米粒とまではいかないけど、消しゴムくらいの大きさに見えるほど離れたところだったので、俺はその男女が誰なのかぱっと見た感じではわからなかった。
しかしすぐに男のほうが誰なのか気づく。悠人だ。
スタイルのいいシルエットだけでも間違いないとは思うけど、制服のズボンにバスケ部員がお揃いで着ているTシャツが見えたから、俺は確信を持った。
悠人と対面している女子は知らない。見えないのではなく、本当に知らない人だ。
「あー、たぶんあれ、先輩だね」
「マジ?」
俺の隣に並んだ柊が、遠くにピントを合わせるように眉根を寄せながら言った。
「つか、なにこのタイミング。おまえまさか知ってたの?」
「そのまさかなんだよね~。たまたま三澄が呼び出されてるところ聞いちゃってさ。たぶん大丈夫だとは思ったけど、なっちゃんがちゃんとしないから三澄が取られちゃうかも! って焦って焦って」
「いや、なんで柊が焦ってんだよ?」
俺はつい苦笑してしまう。俺と自分を重ねるにしても、お人好しがすぎるだろう。
「ふ……おまえ、思ったよりバカだったんだな」
「えー、なっちゃんに言われたくなーい」
「男同士で気持ち悪いとか言わないし」
「それねー。言ってほしかった?」
俺の瞳を覗き込んでくる柊に、俺は眉尻をへたりと下げる。
「ああ、言ってほしかった」
「自虐的だなぁ」
それは仕方ない。自虐的にもなるというものだ。
気づいたらたった一人が特別になっていて、その特別が同性で、同性同士を見る世間の目を知ってしまったら、あいつを巻き込みたくないと思うのが一般的な心理だろう?
だって多様性の時代だと謳われていても、やっぱりまだ世間は白い目で俺のような人間を見るから。
いや、見ると、思っていたんだ。
だから――。
「言ってくれないと、俺、柊を世間代表にしちまうじゃんっ」
声が勝手に震え出す。喉元に熱いものが込み上げてきて、それが鼻の奥まで刺激するからやってられない。
俺は泣き虫なんかじゃないはずなのに、目の奥からじわじわと涙が滲んでくる。
「もう、何が正解かわかんねぇよっ」
「うん、そうだね。正解がわかってたら、俺も振られてなかっただろうしね。――いいよ、俺を世間の代表にしちゃいなよ。なっちゃんは深く考えすぎなんだって」
「でも、巻き込みたくない……っ」
「三澄は巻き込んでほしそうだったけど?」
それは違う、と俺は激しく首を横に振った。
「あいつにとって俺は家族の代わりだ。あの執着だって、母親を取られたくない子どもと同じで、そういうのじゃない」
そういうのじゃないと自分に言い聞かせないと、俺の心は簡単に勘違いしてしまいそうになる。
勘違いで突っ走るわけには、いかないのだ。
「失敗できないんだ、これだけは」
悠人に嫌われることだけが、俺が唯一恐れていることだ。
たとえ悠人と離れることになっても。悠人が俺以外の誰かを一番に選ぶとしても。
優しい声で俺を呼んで、優しい手で俺に触れて、優しい瞳で俺を見つめてくれていた悠人に、拒絶されるのだけがひどく怖い。
臆病でもなんでもいい。あいつに嫌われたら生きていけないのは、俺のほうなのだ。
「やっぱり俺、無理だ。だって悠人、俺に復讐してる。言ったら絶対嫌われる」
「復讐? なにそれなっちゃん、どういう――」
「夏生!」
するとそのとき、離れた場所にいたはずの悠人がいつのまにか俺の腕を引いていた。
油断していた俺は驚いて、タイミングも最悪だったせいで反射的に悠人の手を振り払ってしまう。
目を見開いた悠人と、視線がぶつかる。
「夏生……?」
「あ、ごめっ」
「夏生、泣いてるの?」
目尻から零れた小さな雫を、悠人は目敏く見つけてしまったらしい。
俺を自分の背に隠して、柊を鋭く睨む。
「おまえが泣かしたの、保坂」
「さあ、どうだろうね?」
ギリッ、と悠人から歯ぎしりのような音が聞こえてきた。
一触即発のような空気が流れたのに慄いたのは、俺である。俺は別に柊に泣かされていないし、俺のせいで二人が険悪になるのは嫌だ。
「悠人、違うんだ。これは俺が勝手に泣いただけで……てかおまえ、あっちで告白されてなかった?」
「は? 今そんなことどうでもいいよ。なんで保坂を庇うの?」
「庇ってるんじゃなくて、柊はむしろ慰めてくれてたっていうか」
俺が言い募れば言い募るほど、悠人の眉間のしわが険しくなっていく。
「慰めてたってなに? なんで保坂が? なんかあったなら、なんで俺に言ってくれないの?」
悠人が俺の両腕を掴んでくる。思いの外力が強くて、俺は痛みに眉根を寄せた。
そのせいで俺の手から看板が滑り落ちてしまい、柊が拾ってくれる。
「あのさ、三澄。少しは落ち着いたら? そうやって一方的に責めるから、なっちゃんは何も言えないんじゃないの?」
「っおまえに夏生の何がわかるんだよ! たった数カ月の関係で知ったような口利くな!」
悠人の怒鳴り声が中庭に響いた。周囲にいた他の生徒たちも注目し始めて、さすがの俺もまずいと我に返る。
「悠人、ちょっと声抑えろ。みんなこっち見てるから」
「見てるからなに? 周りの目のせいで、夏生は俺に何も言ってくれないんじゃんっ」
「は……?」
その瞬間、俺の顔からサッと血の気が引いた。悠人の言葉の意味するところを、頭より先に心が理解してしまった。
追い打ちをかけるように悠人が続ける。
「気づいてるよ、俺。でも夏生は気づいてない。ううん、気づかないふりしてる。でもそれって全部周りのせいでしょ? 周りから俺を守ろうとしてるからでしょ?」
「おまえ、なんでっ……」
「わかるよ。言ったじゃん、何年幼なじみやってると思うの?」
指先が凍ったように冷えていく。
ずっと慎重に、慎重に、隠してきたものだった。
それがまさか、本人にバレていたかもしれないなんて、そんなの……。
「周りのせいで夏生が俺を拒むなら――俺がどんなに頑張っても気づかないふりを続けようとするなら、もう周りなんていないところに連れてっていいっ? そしたらちゃんと俺と向き合ってくれる?」
「向き合う、て……」
悠人が急に腕を引っ張ってくる。色々な衝撃で身体に力が入らない俺は、悠人に連れられるまま校舎に入り、誰もいない空き教室に押し込められた。
振り返り様、悠人に抱きしめられる。
「キスの意味、答えを教えてよ。夏生」
春高祭が終わるまでに、と約束していたそれを、悠人が今強請る。
本当は有耶無耶にしてはぐらかすつもりだったのに、悠人に俺の想いがバレていたかもしれない焦燥感を募らせていたところに嗅ぎ慣れた匂いに包まれてしまったせいで、安堵感からぽろりと口を滑らせてしまった。
「復讐だと、思ってた」
「復讐? なんで? 俺が夏生に復讐することなんてないよ!」
「だって俺が、約束破ったから。約束破って、おまえから離れようとしたから」
すると、悠人がばっと身体を放し、俺と視線を合わせてくる。
「そうだよ、だから俺はキスした! 復讐なんかじゃなくて、ああでもしないと夏生が一生俺と向き合ってくれないと思ったから!」
必死な形相で言い募る悠人に、俺は目を点にする。
だって今、復讐じゃないと、こいつはそう言ったのか?
「おまえ、俺に怒ってるんじゃねぇの……?」
「怒ってるよ! 俺から離れようとしたのは怒ってる。でもそれがあったから、俺もただ押すだけじゃだめだって気づいたんだ」
俺が話の途中で逃げないようにだろうか、悠人がしっかりと俺の手を握り込んでくる。
「俺が無理やり自覚させるだけじゃなくて、夏生自身に俺と向き合ってもらわなきゃだめなんだって、気づいた。じゃないと、夏生はまたいつか、周りを気にして俺から離れようとする気がしたんだ」
そんな俺を俺自身が想像できてしまって、悠人の読みが当たっていることに申し訳なさを覚える。
「ねえ夏生、大好きだよ。これは刷り込みじゃない。幼なじみとしてでもない。キスしたいほうの、大好きだよ。だからキスした。これでキスの意味、ちゃんとわかってくれた?」
悠人の俺を見る目があまりにも情熱的で、俺の引いていた血の気がどんどん戻ってくる。
俺はいったいいつから、こんな目で悠人に見つめられていたのだろう。自分のことでいっぱいいっぱいだった俺は、ずっと気づけずにいた。
「それでも周りが気になるなら、俺が夏生の目も耳も塞いであげる。俺しか見えないようにするし、俺の声しか聞こえないようにするよ」
「……物理的に?」
「物理的にしていいの? それなら喜んで夏生を独り占めするけど」
「冗談だバカ」
そう言うと、悠人が少しだけ残念そうに唇を尖らせる。
俺はしばらくそんな悠人の顔を見つめて、その顔のどこにも嘘がないことに気づくと、ぽつりと口を開いた。
「なあ、悠人。俺、おまえのこと、本当に好きだよ」
悠人がすぐさま俺に抱きついてこようとする気配を察して、俺はそれをいったん止める。
「本当に、好きなんだ。だから、中学のときみたいに、俺はいいけど、おまえをあんな晒し者みたいにしたくない」
「俺は別に構わない。夏生が俺といてくれるなら、晒し者にはならないよ」
だってさ、と悠人が仄かに笑う。
「晒し者って、恥をかいた人のことでしょ? 俺、夏生への気持ちを恥だなんて思ったこと、一度もないもん。夏生は俺を想うこと、恥ずかしいって思う?」
「なっ、思うわけないだろ、絶対!」
「ふはっ。よかった」
ぎゅうっと悠人に温もりに包まれて、俺は我知らずほっと息をついた。
ずっと無意識のうちに張っていた力が、抜けたような感覚がする。
「は~、ヤバイ、ほんと嬉しい。やっと夏生が俺を見てくれた」
「……なんか、悪いな」
「全然! 最悪高校三年間は見積もってたから、俺。むしろこんなに早く夏生が折れてくれて嬉しいくらい」
だいぶ長期戦を覚悟していたらしい悠人の心の内を知って、俺はなんだか居たたまれなくなる。
俺のほうは逆にまた三年間どう逃げ切ろうかと考えていたくらいなので、これは悠人には秘密にしておいたほうがよさそうだと判断した。
「てか、俺がおまえのこと、その、そう想ってるって、いつから気づいてたんだよ?」
悠人は気づいていたのに、俺はそれを知らずに一人で空回ってたなんて、なんとも恥ずかしい話だ。今さらその羞恥心が襲ってくる。
「ああ、それね。夏生が俺を避けてたときだよ」
あのときに?
予想もしていなかった答えに、俺は唖然とした。だってあのときは悠人とほぼ顔を合わせていなかったはずなのに。
「ほら、前にさ、夏生が俺と女子が歩いてるところを見たって言ってたでしょ?」
「……まあ」
「そう、それ! その顔!」
いきなり両頬を掴まれてそう叫ばれた俺は、何がそれなのかわからず困惑する。
「あれね、実は夏生に好意を寄せてた女の子を諦めさせるために、ちょ~っとハニートラップ的なことをしてたときだったんだけど」
「は? ハニー……え?」
「まあそれはいいとして。そこを偶然夏生に見られちゃったとき、夏生が相手の女の子のこと、ものすごい形相で睨んだの。ギラギラに嫉妬した目でね。俺それ見て、ほんと、めちゃくちゃ興奮した……」
「いやちょっと待て?」
ツッコミたいところがたくさんあるぞ。
「俺に好意寄せてた女の子ってなに? ハニートラップって? てか俺、そんな睨んでた?」
次から次へと質問する俺を厭うことなく、むしろ嬉しそうに悠人が答える。
「夏生って面倒見いいし、明るいから、夏生が思ってる以上に実はモテてるんだよ」
「そうなの?」
「でも全部俺が追い払ってた。俺がちょっといい顔するだけで、みんな俺に乗り換えるの。そんな軽薄な奴らに誰が夏生を渡すと思う? 思わないよね?」
いや俺に同意を求めんな。
てかマジかよ。俺がモテなかったの、こいつのせいだったの?
「あ、ハニートラップっていっても安心して? 俺、普段が塩対応なせいか、微笑むだけで評判よかったから。手も繋いだことないよ」
「おまえ……マジか」
「マジだよ。本当は微笑むのも面倒だったけど、頑張ってよかったぁ。これでわかってくれた? 中学のは誤解だってことと、俺がどれだけ夏生にしか興味がないか」
「そうだな……さすがにわかった」
「ふふっ」
悠人がぐりぐりと顔を寄せてきて甘えてくる。
こいつの執着心を完全に舐めていたと思いながらも、それに喜んでしまっている自分に気づいてしまえば、俺の執着心も負けてないなと小さく笑みをこぼした。
「ね、夏生」
「なに?」
「今日から俺たち、恋人でもあるんだよね?」
「あー、まあ、そうなる、かな」
「そうだよ! 夏生は俺の彼氏! だからもう、よそ見はしないでね?」
こちらを窺うように悠人が瞳を揺らす。
俺は今まで一度もよそ見なんてしたことはないけれど、不覚にもそう言われてきゅんとしてしまったので、悠人の頭を撫で回してから額にキスをした。
「はいはい、おまえだけ見てるよ。これからもずっとな」
「~~っ夏生大好き!」
でもなんで額なの!と文句を垂れる悠人と、賑わう文化祭の輪の中に戻っていった。
エピローグ
晴れて付き合い始めた俺と悠人だが、特に大きく変わったところはない。
なにせ今までもほとんど一緒にいたため、誰も俺たちの関係性に変化があったことなんて気づかなかった。
たった一人を除いては。
「なっちゃーん。この人、さすがにそろそろどうにかしてよ~」
俺の背中を押してくれた柊だけは、俺と悠人の変化を知っている。
昼休みの今、悠人は相変わらず俺を自分の膝の上に乗せて抱きついているのだが、夏休みに髪を染めようか悩んでいると言う柊が俺の髪色を見ようと触れた瞬間、ハエ叩きの勢いでその手を振り払った。
「三澄ぃ、先に言っておくけど、俺夏休みは友だちと遊びたいんだよね~」
「勝手に遊べば?」
「俺の友だち枠にはなっちゃんも三澄も入ってるけどいいの?」
「だめ。無理。そもそも友だちじゃない」
「わ~、ほんとなっちゃん以外には辛辣~」
柊はそう言うが、俺的には案外悠人も柊には心を開き始めているような気がする。
「なっちゃーん。俺とも遊んでよ~」
「俺はいいぞ。柊いつ空いてる?」
「えーやった! さすがなっちゃん」
「夏生!? なんで!? 夏休みはずっと俺と一緒じゃないの!?」
んなわけないだろ。俺だって一人の時間がほしいときもある。悠人には内緒だが、秋の悠人の誕生日プレゼントを買うために、初めてバイトなるものに挑戦してみようとも思っているのだ。
「俺この日空いてるよ~」
「だめ。その日は俺とデート」
いや、そんな予定入れた覚えないけど。なぜか俺じゃなくて悠人が断っている。
「んじゃ、この日は?」
「その日も俺とデート」
「この日!」
「デート!」
「なっちゃん!」
「夏生!」
二人して俺に振らないでほしい。別に三人で遊ぶくらいいいじゃんと俺は思うのだが、悠人は気に入らないようだ。
仕方ない。さすがにこれでは柊がかわいそうだ。実際柊のおかげで悠人に想いを告げられた面もあるので、お礼はしたいと思っていたのだ。
俺は最終奥義を繰り出すことに決めて、悠人の耳元で囁いた。
「柊と三人で遊ぶ日、二人きりになれない代わりに、泊まりに来ていいから」
「えっ!」
もう何度も俺の家に泊まりに来たことのある悠人だが、今の関係になってからはまだない。
目を丸くしてしばらく俺を見つめていた悠人が、すっと真面目な顔になって柊へ視線を移した。
「――保坂、この日は?」
「空いてるけど」
「じゃあこの日だ。この日だけ、許してやる」
「えっ、いいの? やっぱなしはナシだよ?」
「おまえもこの日は死ぬ気で来いよ。事故に遭っても来いよ」
「事故に遭ったらさすがに行かないかな……」
柊がドン引きしながら答えた。
そんな二人に俺は吹き出す。
また耐える日々が繰り返されると思っていただけに、こうして何も隠すことなく笑い合える幸せを噛みしめる。
昼休みが終わるチャイムが鳴って、みんなが授業の準備を始める。
悠人が席に戻れるよう立ち上がった俺は、椅子から腰を上げようとしている悠人の髪をくしゃくしゃと撫で回した。
「どうしたの?」
「んー、いや、かっこいいなと思って」
「……!?」
すると、悠人が正面から盛大に飛びついてきた。幻の尻尾が見える。
「俺も大好きだよ、夏生!」
「声がでけぇ!」
クラス中の視線が俺たちに集まったのは、言うまでもない。