きのう通りすぎたコンビニはここしかなくて、入店と同時に瀀を見つけてしまった。客がいなくて暇なのか、しゃがんで棚の整理をしている。青いユニホームを着た瀀が巧を見上げ、ぽかんと口を開けた。
「まじで来た」
「店員さん、ここのおすすめなに?」
わざとらしいくらいにかっと笑ってやると、瀀は立ち上がって腰をぐっと伸ばした。
「よそと品揃え変わんねーと思いますけど」
店内には巧しか客がおらず、ワンオペなのか奥にいるのかは知らないが、表に出ている店員は瀀しかいない。チェーン店特有のBGMは軽快で、コンビニは朝でも夜でも同じ装いで気軽だった。店を回りはじめた瀀に、巧は続いた。
「なんか飲む?」
「え?」
「部活帰りだろ? 喉渇いてない?」
奢ってくれるのだろうか。瀀のもてなしにラッキー、とサイダーを手に取ると、瀀はそれを受け取った。
「まいどー」
と彼はレジまで持っていったので、やられたと巧は追いかけた。
「ずりーよ!」
「なにがだよ」
瀀はカウンターに入り、ぴっ、とバーコードを読み取ってポケットから小銭を出すと、さっさと支払ってしまう。
「……ずりー」
「だからなにが」
中学卒業したてのくせに瀀はやっぱりおとなびている部分があって、だけど年相応の幼さもあるから喉がぴりぴりする。コーラみたいに存在感が強くなくて、だけどキリンレモンみたいに爽やかでもない。ちょうど今、手に渡されたサイダーみたいないいとこ取りな感じ。
「もう上がるから、ちょっと待ってて」
「いいの?」
「あんたしつこいんだもん。参りました」
瀀はお手上げとでもいうように息を吐き、奥のスタッフルームに消えた。店内のBGMは、やっぱり弾むみたいに軽やかな音楽を奏でていた。
巧が外で待っていると、制服に着替えた瀀が裏手から現れた。やっぱりネクタイは締めていない。
「おい浅野、ネクタイ締めろ」
山センの口調を真似てみる。
「似てねえー」
瀀は目を細めて口を開けて笑った。こういういとけない表情に、小四の瀀の面影がある。ふたりで歩き出したが、どこに向かうのだろう。
「どこ行くの?」
「どこって駅でしょーが」
「え、帰んの?」
「なに期待してんだよ、連日ファミレスとか金死ぬわ」
きょうもファミレスに行こうとはさすがに言わないが、すぐに帰るとかむなしすぎる。
「なあ、瀀」
「なに?」
聞いてもいいのか、と一瞬ためらったが、今から話そうと思っているような話題を、瀀は巧には濁さない気がした。てきとうにごまかしたり、ひとを傷つけないためにつく嘘さえ。
「今ってさ、ばあちゃんとふたりで住んでんの? 母ちゃんは?」
「ああ、たまーに来てるよ、あのひとは」
とても気軽な話題をしゃべるみたいに、なんでもないように瀀は言った。あのとき、瀀の母親はどうしていたのだろう。だけどそこは聞きづらくて、ちらりと瀀をうかがう。
「まあ、自由人のくせに精神的に弱いひとだしね。つか、弱いの隠したくて自由にしてんのかもな」
抑揚のない口調で、すでに納得しているような言葉に、巧の腹が黒ずむのを抑えられなかった。自由ってなんだろう。選択肢が少ないこと? 逆に多いこと? ひょっとして選べること? それとも選択しなくても楽に生きられること? 選択ってストレスだし傷つくけど、だから自由じゃないとはとうてい思えない。
奥歯を噛んでいたら口蓋までにじっていたようで痛かった。それをさえぎるようにサイダーの蓋を開けると、ぷしゃっとこぼれて驚いてもあとの祭だ。手が濡れ、しかたないから片手ずつ制服でてきとうにふく。
「あーあー、なにやってんの」
「うー、べたべたする」
ふいた手を振っていたら、ペットボトルの中身が揺れた。またこぼしてしまいそうでもったいなくて、やっと口をつける。ひと口飲むと喉が渇いていたことに今さら気づき、炭酸の刺激が心地よくごくごく飲んだ。喉の渇きがいったん落ち着いてペットボトルに蓋をして気づく。瀀は巧が落ち着くまで立ち止まっていたが、来た道をじっと見つめていたのだ。その視線が射抜くように鋭い気がして、巧は首をかしげた。
「瀀?」
「行くよ」
「え?」
瀀に左手を取られ、ぐいぐい引っ張られる。もっとゆっくり歩いて瀀と話したいのに、ずんずん進んでいくせいで話すこともままならない。左手が、やけにじわじわ熱を持ちはじめた。手汗、と気づき、気になるのは汗をかいているからだと思って、だからなんで気になるのかもわからない。どくどくと心臓の音が早くなるのは、早足のせいだと思った。
瀀の体は、あのころとはちがって痩せっぽちではなく、だけど筋肉質でもない。痩せ気味には見えるけれど、ひょろひょろでもない。制服の下に隠された体なんて見たことがないし、どんな肌質で皮膚で、どんな色かも巧には想像もつかなかった。なのに、指がごつごつたくましく、自分とはちがう体を持つべつの人間だということはやすやすとわからせる。もう、小四のあの子はいないということを。
すぐに駅までたどり着いてしまったので、はっきりとおもしろくなかった。ぱっと手を離されたとき自分の手がすかすかしたので、手のひらを握ったり開いたりする。
「三年」
とつぜん、瀀が言った。
「傷害事件で三年の実刑。あいつには接近禁止令も出てる。たぶん今は、どっかの施設にいると思う」
駅構内を歩きながら、瀀はまるで連絡事項のように平坦な声で巧に話した。
「うちの母親は、あいつともともと籍は入れてなかった。勘当同然で家出してあいつと暮らしてたらしいから、あのひとはよほどのことがなけりゃ実家には寄りつかない」
「瀀……」
名前を呼んで、だけどじゃあ、どう答えたらいいのかわからなかった。たった三年? あれだけのことをしておいて? それだけですむの? 考えていたら、腹の底がぐらぐら煮えたぎりそうなほど熱くなる。ふーっと息を吐くと、頭までかっかしてきて、胸もとのシャツを握った。
「頼むから、俺のバイト先には来ないで」
きっぱりとした拒絶に、今度はなにも考えられなくなる。
「来るならせめて家にして。あそこなら、あの男も知らない」
巧は驚いて目がしばたく。
「あのコンビニは、ばあちゃんの病院が近いからバイトしてるだけ。あんたがわざわざ、あのアパートの近くに来る必要ない」
「え、え? 病院?」
「今、入院してんの」
「入院⁉︎ 大丈夫なのかよそれ!」
「あーもう声でかいな」
瀀は眉をひそめ、腕を組みながら体を少し後ろに引いた。だけどすぐ、頬をゆるめ、巧を見る。
「だからお願い、コウちゃん」
そう言って、瀀は思い出の瓶からひと粒の飴玉を味わう表情をした。巧は飴玉なんてすぐにがりがり粉々に噛みつぶしてしまうのに、瀀はじっくりねぶるように優しく舐める。だったらせめてこの瞬間だけはじっくり食べていたかったのに、瀀は「じゃあ」とさっさと改札に向かおうとする。巧は瀀の手をつかみ、今度は離すまいと引き止めた。
「瀀、ライン交換しよ。な?」
「え? 俺スマホ持ってねえよ?」
「は?」
がん、と頭にたらいでも落ちてきた気分だった。
「嘘だろまじか……」
「嘘じゃないよまじだよ、家電あるし未成年は手続きめんどくせえし」
「スマホくらい持とうよ!」
「やだよ、『くらい』じゃないっしょ。金かかるもん、無理」
がんがん、とふたつくらいたらいが落ちてきたような衝撃を受けた。スマホを持っていないということではなく、「くらい」と言った自分に。
バイト、ということは、瀀は自分で働いてお金を稼いでいて、その中から支払うつもりでいる。巧はまだ労働なんてしたことがなく、スマホ代も親に「ありがとう」とは思っていても「自分が支払うもの」とは考えてもいないし遠いところにあった。コンビニの店員にしたところで、年が近そうな店員がいたとしてもただ「店員」で、それが同じ高校生なんて考えたことがない。きょうだってあそこに瀀がいるから行った、というだけで「働く場所」に行くというより遊びの延長線上。
瀀は昔から、巧とはちがうプロセスを経てここにいる。
「そんなショック受けんでも」
「ちがう。オレはオレの甘さにムカついてんの」
ばつが悪くて、巧はうつむいた。すると「はは」と笑い声が聞こえて顔を上げる。瀀は鞄をごそごそ漁り、ノートとシャーペンを出した。一年生だから真新しいノートで、高校生なら百均で見かけるようなシンプルな文房具はふつうなのに、胸が締めつけられたように苦しくなる。
そのノートにシャーペンでなにやら書いた瀀は、びりっと雑にちぎって巧に差し出した。反射的に受け取ると、住所と電話番号が書いてある。
「俺ん家の住所と電話番号」
巧は渡された紙をじって見つめたあと、顔を上げて瀀を見た。瀀は今、どんな飴玉を舐めているのだろう。
「じゃあ帰る。先輩も気をつけて」
ばいばい、と彼は続け、改札口を通った。定期をぴっとかざし、下り線の方に向かって歩いていく。もうあのころみたいに、靴底をたったと鳴らす足音はしなかった。
「まじで来た」
「店員さん、ここのおすすめなに?」
わざとらしいくらいにかっと笑ってやると、瀀は立ち上がって腰をぐっと伸ばした。
「よそと品揃え変わんねーと思いますけど」
店内には巧しか客がおらず、ワンオペなのか奥にいるのかは知らないが、表に出ている店員は瀀しかいない。チェーン店特有のBGMは軽快で、コンビニは朝でも夜でも同じ装いで気軽だった。店を回りはじめた瀀に、巧は続いた。
「なんか飲む?」
「え?」
「部活帰りだろ? 喉渇いてない?」
奢ってくれるのだろうか。瀀のもてなしにラッキー、とサイダーを手に取ると、瀀はそれを受け取った。
「まいどー」
と彼はレジまで持っていったので、やられたと巧は追いかけた。
「ずりーよ!」
「なにがだよ」
瀀はカウンターに入り、ぴっ、とバーコードを読み取ってポケットから小銭を出すと、さっさと支払ってしまう。
「……ずりー」
「だからなにが」
中学卒業したてのくせに瀀はやっぱりおとなびている部分があって、だけど年相応の幼さもあるから喉がぴりぴりする。コーラみたいに存在感が強くなくて、だけどキリンレモンみたいに爽やかでもない。ちょうど今、手に渡されたサイダーみたいないいとこ取りな感じ。
「もう上がるから、ちょっと待ってて」
「いいの?」
「あんたしつこいんだもん。参りました」
瀀はお手上げとでもいうように息を吐き、奥のスタッフルームに消えた。店内のBGMは、やっぱり弾むみたいに軽やかな音楽を奏でていた。
巧が外で待っていると、制服に着替えた瀀が裏手から現れた。やっぱりネクタイは締めていない。
「おい浅野、ネクタイ締めろ」
山センの口調を真似てみる。
「似てねえー」
瀀は目を細めて口を開けて笑った。こういういとけない表情に、小四の瀀の面影がある。ふたりで歩き出したが、どこに向かうのだろう。
「どこ行くの?」
「どこって駅でしょーが」
「え、帰んの?」
「なに期待してんだよ、連日ファミレスとか金死ぬわ」
きょうもファミレスに行こうとはさすがに言わないが、すぐに帰るとかむなしすぎる。
「なあ、瀀」
「なに?」
聞いてもいいのか、と一瞬ためらったが、今から話そうと思っているような話題を、瀀は巧には濁さない気がした。てきとうにごまかしたり、ひとを傷つけないためにつく嘘さえ。
「今ってさ、ばあちゃんとふたりで住んでんの? 母ちゃんは?」
「ああ、たまーに来てるよ、あのひとは」
とても気軽な話題をしゃべるみたいに、なんでもないように瀀は言った。あのとき、瀀の母親はどうしていたのだろう。だけどそこは聞きづらくて、ちらりと瀀をうかがう。
「まあ、自由人のくせに精神的に弱いひとだしね。つか、弱いの隠したくて自由にしてんのかもな」
抑揚のない口調で、すでに納得しているような言葉に、巧の腹が黒ずむのを抑えられなかった。自由ってなんだろう。選択肢が少ないこと? 逆に多いこと? ひょっとして選べること? それとも選択しなくても楽に生きられること? 選択ってストレスだし傷つくけど、だから自由じゃないとはとうてい思えない。
奥歯を噛んでいたら口蓋までにじっていたようで痛かった。それをさえぎるようにサイダーの蓋を開けると、ぷしゃっとこぼれて驚いてもあとの祭だ。手が濡れ、しかたないから片手ずつ制服でてきとうにふく。
「あーあー、なにやってんの」
「うー、べたべたする」
ふいた手を振っていたら、ペットボトルの中身が揺れた。またこぼしてしまいそうでもったいなくて、やっと口をつける。ひと口飲むと喉が渇いていたことに今さら気づき、炭酸の刺激が心地よくごくごく飲んだ。喉の渇きがいったん落ち着いてペットボトルに蓋をして気づく。瀀は巧が落ち着くまで立ち止まっていたが、来た道をじっと見つめていたのだ。その視線が射抜くように鋭い気がして、巧は首をかしげた。
「瀀?」
「行くよ」
「え?」
瀀に左手を取られ、ぐいぐい引っ張られる。もっとゆっくり歩いて瀀と話したいのに、ずんずん進んでいくせいで話すこともままならない。左手が、やけにじわじわ熱を持ちはじめた。手汗、と気づき、気になるのは汗をかいているからだと思って、だからなんで気になるのかもわからない。どくどくと心臓の音が早くなるのは、早足のせいだと思った。
瀀の体は、あのころとはちがって痩せっぽちではなく、だけど筋肉質でもない。痩せ気味には見えるけれど、ひょろひょろでもない。制服の下に隠された体なんて見たことがないし、どんな肌質で皮膚で、どんな色かも巧には想像もつかなかった。なのに、指がごつごつたくましく、自分とはちがう体を持つべつの人間だということはやすやすとわからせる。もう、小四のあの子はいないということを。
すぐに駅までたどり着いてしまったので、はっきりとおもしろくなかった。ぱっと手を離されたとき自分の手がすかすかしたので、手のひらを握ったり開いたりする。
「三年」
とつぜん、瀀が言った。
「傷害事件で三年の実刑。あいつには接近禁止令も出てる。たぶん今は、どっかの施設にいると思う」
駅構内を歩きながら、瀀はまるで連絡事項のように平坦な声で巧に話した。
「うちの母親は、あいつともともと籍は入れてなかった。勘当同然で家出してあいつと暮らしてたらしいから、あのひとはよほどのことがなけりゃ実家には寄りつかない」
「瀀……」
名前を呼んで、だけどじゃあ、どう答えたらいいのかわからなかった。たった三年? あれだけのことをしておいて? それだけですむの? 考えていたら、腹の底がぐらぐら煮えたぎりそうなほど熱くなる。ふーっと息を吐くと、頭までかっかしてきて、胸もとのシャツを握った。
「頼むから、俺のバイト先には来ないで」
きっぱりとした拒絶に、今度はなにも考えられなくなる。
「来るならせめて家にして。あそこなら、あの男も知らない」
巧は驚いて目がしばたく。
「あのコンビニは、ばあちゃんの病院が近いからバイトしてるだけ。あんたがわざわざ、あのアパートの近くに来る必要ない」
「え、え? 病院?」
「今、入院してんの」
「入院⁉︎ 大丈夫なのかよそれ!」
「あーもう声でかいな」
瀀は眉をひそめ、腕を組みながら体を少し後ろに引いた。だけどすぐ、頬をゆるめ、巧を見る。
「だからお願い、コウちゃん」
そう言って、瀀は思い出の瓶からひと粒の飴玉を味わう表情をした。巧は飴玉なんてすぐにがりがり粉々に噛みつぶしてしまうのに、瀀はじっくりねぶるように優しく舐める。だったらせめてこの瞬間だけはじっくり食べていたかったのに、瀀は「じゃあ」とさっさと改札に向かおうとする。巧は瀀の手をつかみ、今度は離すまいと引き止めた。
「瀀、ライン交換しよ。な?」
「え? 俺スマホ持ってねえよ?」
「は?」
がん、と頭にたらいでも落ちてきた気分だった。
「嘘だろまじか……」
「嘘じゃないよまじだよ、家電あるし未成年は手続きめんどくせえし」
「スマホくらい持とうよ!」
「やだよ、『くらい』じゃないっしょ。金かかるもん、無理」
がんがん、とふたつくらいたらいが落ちてきたような衝撃を受けた。スマホを持っていないということではなく、「くらい」と言った自分に。
バイト、ということは、瀀は自分で働いてお金を稼いでいて、その中から支払うつもりでいる。巧はまだ労働なんてしたことがなく、スマホ代も親に「ありがとう」とは思っていても「自分が支払うもの」とは考えてもいないし遠いところにあった。コンビニの店員にしたところで、年が近そうな店員がいたとしてもただ「店員」で、それが同じ高校生なんて考えたことがない。きょうだってあそこに瀀がいるから行った、というだけで「働く場所」に行くというより遊びの延長線上。
瀀は昔から、巧とはちがうプロセスを経てここにいる。
「そんなショック受けんでも」
「ちがう。オレはオレの甘さにムカついてんの」
ばつが悪くて、巧はうつむいた。すると「はは」と笑い声が聞こえて顔を上げる。瀀は鞄をごそごそ漁り、ノートとシャーペンを出した。一年生だから真新しいノートで、高校生なら百均で見かけるようなシンプルな文房具はふつうなのに、胸が締めつけられたように苦しくなる。
そのノートにシャーペンでなにやら書いた瀀は、びりっと雑にちぎって巧に差し出した。反射的に受け取ると、住所と電話番号が書いてある。
「俺ん家の住所と電話番号」
巧は渡された紙をじって見つめたあと、顔を上げて瀀を見た。瀀は今、どんな飴玉を舐めているのだろう。
「じゃあ帰る。先輩も気をつけて」
ばいばい、と彼は続け、改札口を通った。定期をぴっとかざし、下り線の方に向かって歩いていく。もうあのころみたいに、靴底をたったと鳴らす足音はしなかった。