五月初旬の昼休みの屋上は、じょじょに暑さが増してきている。給水タンクの裏だと日陰のおかげでまだひんやりしているが、日向となるとけっこう厳しいものがある。太陽の光ってこんなに圧倒的だったか、と敵うはずもないのに日の光を睨み上げた。
「おまえ、試験勉強してる?」
 巧は弁当箱に目をやり、から揚げを食べたあと、白米をがばっとすくって口のなかに入れる。から揚げオン白米の組み合わせは、だれがなんと言おうと最強だと思う。
「まあ、ぼちぼち」
 瀀はソースがたっぷり染み込んだコロッケパンをがぶりと噛んで咀嚼した。嚥下のたび、喉仏が上下に動く。他人の喉なんてじっくり見ることはあまりないが、人間の体ってこんなに生ものっぽかっただろうかと、まるでものめずらしい物体でも眺めるみたいにじろじろ覗いてしまった。瀀はいつ喉仏が出て、いつ声変わりしたんだろう。いつ体が大きくなって、どれくらいから手の甲がごつごつ骨ばったのか。そういうことを考えると、胃のあたりがざわざわ騒ぐ。
「なんだよその顔。てきとうに勉強するって」
 その顔と言われてもどの顔かわからない。ただ、食事の手が止まっていたのはわかる。
「つかさ、豆柴とオオカミどこ行った?」
「はい? ここは動物園じゃないんですが」
 瀀は、意味不明だとという顔をした。
「ほら、小野寺と岸」
「あー、葉次と朔ね」
 はいはい、と瀀は納得したようで、時間差で笑っている。
「さあ、コンビニでも行ったんじゃない?」
「あ、そう」
 三人組は昼休みに屋上にいることが多いという情報を得て(ふたりとはラインも交換した)、巧もときどきお邪魔していた。今は試験休みで部活もなく、昼練もない。体育館で遊びでやるのはあり、という暗黙の了解があるが、遊びと本気の明確なちがいとは。甚だ疑問だった。
「おまえきょう暇?」
「いやー、多忙っすね」
「そろそろ瀀ん家遊びに行きたいんだけど」
「話聞いてる? 多忙っつってんじゃん」
 瀀はペットボトルの蓋を開け、ごくごくと飲む。ラベルには麦茶と書かれてあり、昔瀀と麦茶の回し飲みしたことを思い出した。
「おまえの多忙は信用できん」
「いや、きょうのはまじ」
「え?」
「ばあちゃんの見舞い行くんだよ。着替え持ってったり持って帰ったり。な? 多忙だろ?」
 コロッケパンを食べ切った瀀は、空になった袋をビニール袋にぽんと入れた。
 見舞い、と考えながら、残った弁当に箸をつけた。卵焼きをひと口、それから白米をがっつり頰ばった。卵焼きが少ししょうゆっ辛くて、やけにご飯が進む。瀀の祖母も、こんなふうに瀀に弁当をつくったのだろうかと想像した。。食事もきっとつくっていただろうし、そのなかで味が濃かったり薄かったり、したのだろうか。
「瀀のばあちゃんってどんなひと?」
「どんなって言われても」
 瀀はペットボトルの蓋を回してゆるめたり締めたりといじりながら、給水タンクに頭をあずける。
「優しくて、厳しくて、理不尽で、人間っぽいひと、かなあ」
 よくわかんねえや。と瀀は瞼を下ろす。優しくて厳しくて理不尽で人間っぽい、最後に残ったきんぴらごぼうをしゃくしゃく噛みながら、頭のなかで反芻する。
 今朝、この弁当を巧に渡した母は、「毎朝弁当きついよ」とため息をついた。毎日つくれなんて言ってねえよ、といわれのない当てこすりをされたようで巧までイラつき、だけど夜になって、ごちそーさま、と彼女に弁当箱を差し出すと、空になったのを確認して「あしたはなに入れようか」とご機嫌になる。食事ひとつ取っても、「野菜食べないと」と、ちょっとむっとして言われたりもする。
 きんぴらごぼうを何度も噛んだ。味がしっかり染みていて、おいしかった。瀀がちゃんと「いただきます」を言う理由が、わかった気がした。
「ばあちゃん、早く退院するといいな」
「……そうだね」
 間があったので、眠たいのかな、と思った。すると、マナーモードのスマホが着信を報せる。「バスケしよーぜ」と丹羽からのラインだった。瀀をちらりと見やると目を閉じたままで、ほんとに寝たのかな、と下からうかがうように覗き込む。瀀の目がとつぜん開き、びっくりしたみたいに目をまばたかせた。
「なに、どうかした?」
 瀀の声が低くて、出っ張った喉仏を思い出し、巧は少しだけ体を引いてしまう。
「いや、バスケ誘われてさ……」
「ああ、行って来なよ。俺は寝てる」
 瀀の目がふたたび閉じたので、薄そうな瞼を巧は見つめた。目の際の少し上に、かすかに二重の線があって、睫毛は長くも短くもない。頬骨くらいのところにちょんとある点みたいなほくろも、鼻のかたちもすっと通っていてきれいであることも今さら気づいた。
前髪と刈り込んだところにかかる横髪がさらさら揺れ、飾りっけのない三つの小さなピアスがときどき光った。癖のない髪も今ごろになって、へえー、という発見があったり、これは各方面からなんやかんや言われるほどには目立つだろうよ、という確信もあった。瀀はなんとなくそっけなく見えるのに、どこか華がある。
 初夏の風が、雑草の青くさいにおいを運んできた。このにおいをかぐと条件反射で暑くなる手前のわくわくした気持ちを運ぶ。それも相まってか、巧は知らないうちに瀀に手を伸ばしていて、あと数センチで触れる。というときだった。
「なに? うるせえなあ」
 目は開いてないのにどうしてわかったのだろう。とつぜん制された気分で驚き、鼓動がひとつ暴れた。
「なんも言ってねえよ」
 動揺が表れないよう、巧は平静を装って答えた。
「あんたの気配がうるさいの」
「失礼にもほどがあるだろ」
 瀀は目を閉じたまま、手のひらをひらひら振って、「早く行きな」と言う。「じゃあ行くわ」と答え、巧は弁当箱を鞄に入れて立ち上がった。給水タンクの影から日向に出ると、かっと照る太陽に見破られた気分になっていたたまれない。おまえの所業を知っているぞ、とおてんとさまに注意をほどこされたような。
 瀀に触りたいって、なんの違和感なく思った。顔でも頭でもどこでも。
 屋上のドアを開け、校内のざわめきを耳にしたとき、かすかにほっとしていた。