ピピ ピピピ ピピ ピピピッ


 携帯電話のアラーム音で目が覚めた。


「いーーっぽん、にーーーほん、さーんぼん」


 夏の夜、僕の足は自転車のペダルを踏み国道の高架橋を潜っていた。


「よーーーんほん、ごーーーーほん」


 一本道を時速18kmで疾走する自転車は夏の草の匂いを連れて市街地を抜けた。あぁ、なんという事だろう。僕はこの夜へと時を飛び越えた。通り過ぎる電柱の本数を数える莉子、その意味は分かっていた。


「なに、なに数えてるの」

「電柱、電柱の数を数えてるの」


 僕の背中に掴まった莉子の明るく優しい声色に胸が締め付けられた。


「なんで?」


 目頭が熱くなりオレンジの街灯が滲んで見えた。


「電柱が1本増えると家から遠くなるでしょ」

「うん」

「その分2人だけの秘密が増えているみたいでドキドキする」

「2人だけの秘密」

「ドキドキしない?」

「そうだね」


 18歳の無邪気な莉子、僕はこの笑顔を奪ってしまうのか。


「莉子、交番だよ降りて」


 目前にパトカーが停まった小さな交番が見えた。


「うわっ、やばい!」


 莉子は慌てて自転車のキャリアから降り、僕の隣を何事も無かったかの様に歩いた。交わす言葉は違えど僕たちはあの黄色点滅信号の交差点へと向かっていた。


「お巡りさんが居るかと思った」

「居なかったね」

「居なかった、良かった」


 莉子は「未成年だとバレたら家に連絡が行くから冷や冷やしたよ」と笑った。そうだよ莉子、僕たちのこの逃避行は地方局のニュースで報道されるんだよ。


「もう着く?」

「もうそこまで、もう少し行ったら見えるよ」


 莉子を乗せた自転車は煌々(こうこう)と明るいコンビニエンスストアの前でペダルを止めた。


「どうしたの?」

「トイレ行きたくなっちゃった」

「あ、私も行く」


 僕はほんの数分時間を遅らせた。莉子がコンビニエンスストアでお菓子の陳列棚を吟味し始めた。トイレを借りたお礼になにか買うのだろう。


(入ってる)


 僕はその隙に財布を取り出して中身を確認した。財布の中には銀色のマリーゴールドの指輪が入っていた。26歳の僕が時間を飛び越えている間に16歳の僕が指輪を百貨店で買い求めていた。


「チョコレート買ってきた」

「莉子、お金持ってたの」

「なんとジーンズのポケットに100円玉が2枚!」

「手品みたいだね」


 莉子はストロベリー味のウエハースチョコレートを手にご満悦だ。


「はい、蔵之介にもあげる」

「甘いんでしょ」

「甘いの苦手だった?」

「いちご味は苦手かも」

「なんで?」

「人工的な味がするから」

「もう、細かい事言わないで食べて!」


 僕の口の中にウエハースチョコレートの甘酸っぱい味が広がった。


「まだ遠いの?」

「あのバスターミナルを曲がったら港だよ」


 交差点の向こうにバスターミナルがあった。僕たちが渡る道路の信号機は黄色点滅、新聞配達のバイクは赤色点滅信号の一時停止を無視して交差点に進入した。僕は息を大きく吸って深く吐いた。


「あれ?蔵之介自転車に乗らないの?」

「ちょっとお尻が痛くなっちゃった」

「遠かったもんね」

「莉子が重かったから」

「ひ、ひどくない!?それ!」


 あと2分、新聞配達のバイクの白いライトがあの路地を曲がって来る。


「あれ?交差点渡らないの?」

「ちょっと待って」


 あと1分。


 黄色点滅信号がその瞬間までのカウントダウンを告げるように規則正しく点いたり消えたりを繰り返していた。


 あと50秒、40秒、30秒、遠くからバイクの排気音が聞こえて来た。20秒、10秒、9、8、7、6、5、4、3、2、1、白いライトが僕と莉子を照らした。