莉子との待ち合わせを忘れた日、部活動に行くと当たり前の事だが僕はまだ補欠選手で先輩の蹴り損ねたボールを追いかけ回していた。この数日後に僕は図書館であみだくじを作った。あみだくじの《《あたり》》は莉子に初めての口付けを強請(ねだ)るもので莉子は顔を赤らめながら言った。


「サッカーの先発メンバーに選ばれたらね!」


 その後、練習の甲斐あって僕はチームのオフェンス(攻撃)メンバーに抜擢された。僕の力量を軽んじていた莉子は8月1日の土曜日に開催された花火大会の堤防に腰掛けて初めて口付けを交わす事となる。


(この時はもう7月30日の莉子の誕生日がすぎている)


 何気ない会話で莉子の誕生日を聞き出しマリーゴールドの指輪を買って早々にプレゼントすればあの8月22日の事故は起こらない。


(明日、莉子の誕生日を聞き出そう)


 僕は携帯電話の起床アラームを6:00にセットした。




ピピ ピピピ ピピ ピピピッ




 携帯電話のアラーム音で目が覚めた。時刻は6:00。枕元の携帯電話の機種がiPhone5である事を確認した。僕は今日も10年前にいた。安堵の息が漏れた。


「おはよう」

「あら、珍しい早いわね」

「爆睡した〜」

「あんた最近サッカー頑張ってるからね。合宿で疲れたんじゃないの?」

「なに、合宿って合宿は8月だよ?」

「8月って寝ぼけてるの?あんた合宿行ってたじゃない」


 僕は慌てて携帯電話で日付を確認した。


(8月、7日・・・8月7日!)

「母さん、今日って何曜日?」

「あ〜何曜日だっけ、新聞紙見てご覧なさいよ」

「金曜日」

「そうそう、金曜日!あんたが家にいると曜日感覚が狂っちゃうわ」


(莉子の誕生日も花火大会も部活動の合宿も全部終わってる!)


「資源ごみ出さなきゃ!あんたも手伝いなさい」

「う、うん」


 僕は8月3日の月曜日から2泊3日でサッカー部の合宿に参加していた。7日の部活動は休みで8日土曜日は他校との練習試合が行われる予定だった。


(・・・けれど練習試合は雨で延期になった)


 僕は携帯電話で週間天気予報を確認した。明日の天気予報は、雨。


(雨、ゲリラ豪雨に注意)


 練習試合は延期、僕はバスに乗って莉子が受験勉強をしている図書館に行った。そして莉子の誕生日を知って慌てて指輪を買いに行った。


(今日、今日指輪を買いに行けばきっとなにかが変わる!)


 僕はTシャツとジーンズに着替え、百貨店が開店する時間を心待ちにし壁掛け時計を睨んでいた。


「なに、あんた怖い顔して」

「母さん、僕買い物に行ってくる」

「あら、部活動はどうしたの」

「休み!」

「婆ちゃんから貰ったお年玉あるよね、キャッシュカード頂戴」

「なに、そんなに高い物買うの?」


 母親は茶箪笥の引き出しからキャッシュカードを取り出した。


「あんたゲーム買ったからもう10,000円くらいしか入ってないわよ」

「・・・10,000円」

「10,000円全部使っちゃ駄目よ」

「分かった」


 そうだ、僕のキャッシュカードの残高は10,000円、この金額は同じだ。


「なに、彼女にプレゼントでもするの?」

「なに言ってるの!」

「母さん知ってるのよぉ、落ち着いたお嬢さんよね」


 母親は含み笑いでソファに座る僕の顔を見下ろした。


(こんな会話はなかった)

「なに、笑わないでよ!」

「いやぁね、色気付いちゃって」

「うるさいな!もう!」




 9:45

 百貨店のシャッターが開く頃だ。僕は自転車に(またが)り先を急いだ。商店街を抜け銀行のATMで10,000円を引き出し財布に入れた。慌てた僕は青色点滅信号で横断歩道を渡ろうとして右折してきた自動車にクラクションを鳴らされた。


(危なかった)


 今、僕はあの8月22日を回避しようともがいているがその前に僕が交通事故に遭う可能性もあるのかもしれない。自転車置き場から百貨店までの道のりを一目散に走った。油蝉(あぶらぜみ)の鳴き声が公園の木立から降り注いで来た。


(今日、今日指輪を買って莉子に渡せば事故は起こらない!)


 自動扉の向こうは空調が効き首筋を伝う汗を抑えてくれた。鏡に映った僕の顔は興奮で赤らんでいた。周囲を見渡した僕はマリーゴールドの指輪を買ったショーケースへと向かった。


(この人だ、間違いない)


 そこには色白で面長、黒髪を高い位置でまとめた見知った顔の販売員が立っていた。黒い天鵞絨(ビロード)に並べられたアクセサリー、僕はマリーゴールドの指輪を探した。


(・・・・ない?)


 一気に体温が上がり汗が滲んだ。その様子に気付いた販売員が声を掛けて来た。


「なにかお探しですか?」

「シルバーの指輪を探しているんです」

「シルバーですとこちらになります」


 示されたその場所にも目当ての指輪は並んでいなかった。


「ここで買ったんです!このお店で買ったんです!」

「以前、当店でお買い求め頂いたのでしょうか?」

「あ、ごめんなさい!違います!今から買うんです!」

「どのようなデザインをお探しですか?」


 僕は花弁(はなびら)が細かく重なったマリーゴールドのモチーフをメモ帳にボールペンで書いて説明した。すると販売員の表情は明るくなり奥から分厚いカタログを取り出して来た。


「お客さまがお求めになられているデザインはこちらでしょうか?」


 そこには莉子の誕生日プレゼントとして買い求めたマリーゴールドの指輪の写真があった。僕の目は輝いた。


「これです!この指輪です!」

「こちらは明日の入荷になりますがご予約されますか?」

「あし・・・た、明日ですか?」

「はい、こちらのシリーズは明日の入荷となります」

「明日」


 愕然とした。この指輪を購入する日付は8月8日から変えようがない。僕はいっその事違う指輪を買おうかと考えたがそれでは全く違う未来が訪れるかもしれないとその案は却下した。


「分かりました。予約します」

「かしこまりました、こちらの伝票にお名前と電話番号をご記入下さい」


 雲行きが怪しくなって来た。明日の天気は雨に違いない。僕はバスに乗りあの百貨店でマリーゴールドの指輪を買うのだ。


(・・・・あ、でも10,000円札は僕の財布の中だ)


 雨で延期になった練習試合、部活動を終えた僕が図書館と自宅と百貨店を右往左往する必要がなくなった。


(なにかが違う)


 少しずつ、ほんの数分づつ未来は変わっていた。そう思っていた。



ーーーーなに、これ



 けれど帰宅した僕は自室のカレンダーを見て立ち尽くした。8月22日の欄に赤いマジックペンで星印が記入されていた。これはもう回避出来ないのだろうか、あの夜の衝撃を思い出した僕は痛む筈のない右脚に鈍痛を感じた。