6月19日 水曜日


 港に程近い住宅街の一角に隠れ家風のカフェがあった。日本家屋の外観、(いぶ)した木材の格子戸。その店の名前はスミカグラス鞍月(くらつき)。16歳の僕が初めて莉子と待ち合わせた場所だ。


(この店のメニュー、値段が高かったよね)


 今日、莉子を誘い出したのは僕だ。ましてや16歳ではなく26歳、いい歳の大人だ。莉子と食事の勘定を割るなんて恥ずかしい事はしたくない。財布の中身を確認する、マルシェでの売り上げがあり幾らか余裕はあった。


(指輪)


 財布の中には黒ずんでしまった銀のマリーゴールドの指輪が入っていた。


(10年前となにも変わらない)


 (いぶ)した木材の格子戸を開けると店内は落ち着いた色合いの北欧風に姿を変えた。ウォールナットの美しい木目、艶やかな手触りのテーブル、天井からはペンダントライトが暖色系の明かりを灯しアイボリーのカーテンが空調に揺れた。


(莉子)


 莉子は10年前2人で座ったウンベラータ(観葉植物)の隣のテーブルに腰掛けて文庫本を読んで待っていた。ウンベラータの背丈は高く天井まで伸びていた。


(莉子は変わったね)


 天窓から降り注ぐ光の中には思わず触れたくなる艶やかな黒髪。それは肩までのショートボブで頬は少し()け薄化粧に桜色の口紅を塗っていた。



カランカラン



「いらっしゃいませ」

「お席は」

「あ、待ち合わせなので」


 莉子は椅子から立ち上がるとお辞儀をした。


「ごめん、待った?」

「ちょっとだけ」


 レジスターの後ろの壁掛け時計は14:30だった。あの日と同じ30分の遅刻、また僕は莉子を待たせてしまった。


「ごめん」


 僕は曲がらない右脚を伸ばして椅子の背にもたれ掛かった。その動作に莉子の表情が一瞬(かげ)った。


「いらっしゃいませ」


 目の前にレモンの輪切りが浮かんだグラスが置かれおしぼりがセッティングされた。


「ご注文はいかがなさいますか?」


 莉子はメニューを開く事なくオーダーした。


BLOOMING TEA(ブルーミングティー)金花彩彩(きんかさいさい)をお願いします」

「かしこまりました」

BLOOMING TEA(ブルーミングティー)ってなんだっけ?」

「ジャスミン茶、大丈夫だったよね」

「あ、うん」

「工芸茶、思い出した?」

「あっ!マリーゴールドの花が入ったお茶!」

「そう、初めてここに来た時飲んだよね」

「そうだ、懐かしいな」


 グラスの氷が乾いた音を立てた。最初に口を開いたのは僕だった。


「驚いた」

「うん、びっくりした。蔵之介がいるなんて思わなかった」

「うちの婆ちゃんが陶器を集めていなかったらマルシェなんて行かないよ」

「そうなんだ」

「うん」

「不思議だね」

「不思議だね」

「私も記念品を探していなかったら出掛けていなかっ・・・た」


 莉子が言い淀み僕は左手の薬指に光るプラチナの指輪に言及した。


「莉子、結婚したんだ」

「・・・・」

「おめでとう」

「ありがとう、でもプロポーズはまだなの」

「そうなんだ、でもその人と結婚するんでしょ?」

「そう・・だと・・思う」


 僕は指を伸ばし莉子の額に触れた。


(酷い傷だ)


 初めて見た莉子の額の傷痕に胸が痛んだ。


「マルシェでこのおでこの傷をみて莉子だと思った」

「傷の事、知ってたの?」

「うん、マネージャーの遠藤さんから聞いたんだ」

「遠藤ちゃんが」


 莉子は前髪を指先で整え傷を隠した。


「辛かったよね、ごめん」

「そんな、謝らないでよ!蔵之介のせいじゃないわ!」


 互いの瞳に新聞配達のバイクに照らし出された瞬間が映った。


「僕が莉子さんを連れ出したからだ」

「私が蔵之介に会いに行ったからよ」


「お待たせしました」


 BLOOMING TEA(ブルーミングティー)工芸茶がテーブルに置かれ、ガラスのティーポットの中で黄色い(つぼみ)がほころび始めた。


「蔵之介の右脚の事、遠藤ちゃんから聞いて驚いた」

「遠藤さんは伝書鳩(でんしょばと)みたいだね」

「おしゃべりなだけよ」


 莉子は遠藤さんの無邪気な笑顔を思い出したのかふっと小さく口元を綻ばせた。そして床に投げ出した僕の右脚を見た。


「身体が麻痺(まひ)しちゃったんだよね?」

「右側だけだよ、それに指先は動くようになったよ」

「ごめんなさい」

「莉子さんのせいじゃないよ、僕が自転車のスピードを出したからだよ」

「ごめんなさい」

「謝らないで」

「本当にごめんなさい」


 ガラスのティーポットの花弁(はなびら)が開きジャスミン茶の香りが立ち上った。


 僕は莉子の薬指の指輪を手で覆い隠した。


「莉子、会いたかった」


 僕が10年前と同じようにその名を呼ぶと莉子の目に涙が浮かび頬を伝って流れ落ちた。


「私も会いたかった」


 重ねた手の温もりは昔のままだ。


(莉子)


 僕も目頭が熱くなりそれを隠すように手のひらを挙げた。


「・・・・え!?」


 それはまるで魔法のように莉子の薬指からプラチナの指輪が消えていた。僕は慌てて自分の手のひらの中を見て見たが影も形もなかった。よく見ると莉子の桜色のマニキュアも消えていた。




 ジャスミン茶の香りが立つ15:00、僕は10年の時を飛び越えた。