「恵太先生……!! バドミがしたいです……」
「略し方おかしいだろ」

 恵太は何か所かガットがほつれたラケットでシャトルを軽く叩く。
 シャトルはぽーん、と弧を描いてネットを越え、反対のコートに立つ浩介の胸のあたりでキャッチされた。

 我ながらナイスコントロール。

 恵太は昔からバドミントンが得意だった。誰に教わったわけでもない、おそらく才能だ。
 小さいころから才能の芽に気づき、花開くよう努力していればそれなりの成績は収められたのではないかと思っている。地区大会ベスト8ぐらいには。

「新もやろうぜ」

 浩介は体育館の壁にもたれて座る新にラケットを向ける。
 新は寒いのか、ジャージの上着の中に膝を入れて綺麗な三角形となっていた。おにぎりみたいだった。

「ぼく?」
「だってこいつ強いもん。二対一くらいでちょうどだよ」

 様子を伺うように顔をあげる新に、恵太は自信たっぷりに答える。

「いいぜ。かかってこいよ」

 新は笑みを浮かべて立ち上がると、コートに入り、浩介のとなりに並ぶ。
 学校指定の紺色のジャージは明らかにサイズオーバーで、太もものあたりまで裾がある。
 きっと、入学当初の想定よりも早めに成長が打ち止めになったのだろう。背が高い浩介と並ぶ新は浩介の弟のようにも見えた。

「それ萌え袖? かわいいじゃん」
「か、かわいくない!」

 新は恥ずかしいのか、慌てて長袖をめくるが、すぐにずり落ちてる。
 長袖から直接ラケットが生えている不思議な生き物が、腰をかがめてこちらを睨んでくるのが可笑しくて、恵太は笑った。

「いくぞ」

 浩介はシャトルから手を離し、打ち上げるようにラケットを振る。
 恵太は素早くシャトルの落下場所へステップを踏んで移動し、ラケットを構える。

 ここだ!

 恵太が打ち返したシャトルは、新と浩介のちょうど真ん中目掛けて飛んでいく。すると。

 ……コトン。

 新と浩介は床に転がったシャトルを見つめ、互いの顔を見あった。
 そんな二人を見て、恵太はニヤリと口角をあげた。

「「あれ……?」」

 新は浩介に遠慮して、浩介は新が打ち返すだろうと考えて、お互いに足が動いていなかった。
 
 それこそが、恵太の狙いだった。

「新ぁ……」
「いやいや、浩介のほうが近いでしょ!」

 浩介の非難めいた口調に、新はシャトルを拾いながら抗議する。

 ……ん?

 その光景に、ドヤ顔で鼻の穴を膨らませていた恵太は、にゅっと眉根を寄せる。

 まったく、と不満そうな口調とは反対に笑みをこぼしながら新はラケットを握りなおす。

「いくよ、佐和くん」
「お、おう……」

 新はラケットを振り上げ、シャトルを叩く。先ほどと同じように、恵太は二人の間を狙ってシャトルを打ち返すが、弾道はやや浩介の側にずれた。そのとき。

「浩介!」
「おけっ!」

 新の声かけにより、浩介が床を蹴り移動。運動靴の甲高い摩擦音を響かせながらラケットの落下地点に着くと、素早くラケットを振り下ろす。

 んんっ……?

 先ほどからの違和感に気を取られていると、すぐ目の前にシャトルが飛んできた。
 恵太は慌てて打ち返すと、シャトルはふわりと宙に浮かんだ。

 まずい、と思うと同時に浩介の「新! チャンス!」と短い雄たけびが聞こえる。

 シャトルは吸い込まれるように、新をめがけて落ちていく。
 新はぐっとラケットを強く握り、思い切り振りかぶる。

 ……コトン。

 しかし、ラケットは空を切り、シャトルは床に落下した。

「あ……」

 顔を真っ赤にしている新の横で、浩介は反対コートに立つ恵太より。さらに向こう側を見わたしながら呟く。

「新ぁ、お前どこまで飛ばしたんだよ」
「空振りしたんだよっ!」

 新のツッコミがさく裂したところで、授業の終わりを告げる笛が鳴った。





 体育館を出ると、動き回ったことで火照った身体を、冬の寒々した風が芯まで冷やす。
 恵太たちは身を縮こませ、そそくさと教室に戻り、制服に着替える。
 体操着の上にカッターシャツを着ることは禁じられている。

 カッターシャツの下に着ていいのは肌着のみ。Tシャツも、体操着も禁止。それが校則だ。理由は知らない。

 だが、カッターシャツの上からさらにブレザーを着込む今の時期に、そんなルールを守るやつはいない。
 浩介なんか、肌着とTシャツと着て、ついでに腹巻きまでつけている。(腹巻が校則違反かは微妙だが)

 だからこそ、着込むみんなに隠れるように体操着を脱ぐ新の姿が目に止まった。

 シャツの隙間からのぞく雪のような白い肌。
 余分な脂肪がなく、うっすらと浮き出た腹筋は男らしさとは違う、芸術的な美しさを感じる。

 そのまま視線をあげると、新と目があった。

「なに?」
「いや別に……」

 恵太は、若干ぷにっとしてきた自分のお腹をさすりながら首をふる。

「新は校則守っててえらいな」

 恵太はおもむろに腕をあげると、新はすぐにカッターシャツを羽織って、数歩後ろへ下がった。

「べつに。普通でしょ」
「お、おう……」

 所在なさげな腕はそのまま、恵太自身の頭の上へと着地した。

 髪質が固く、指がするりとすり抜ける自分の頭は、触り心地が良くなく、物足りなかった。







 新が教室登校を再開してもうすぐ1か月が経つ。

 初対面の人に対して刺々しい態度になってしまう新の謎の癖のせいでひと悶着、いや、ふた悶着くらいはあったが、今では新が教室にいる姿にもずいぶんと慣れた。

 だからこそ、体育館で感じた違和感が拭えない。


 なんで。

「なんで俺のことは苗字呼びで、浩介のことは呼び捨てなわけ? なんか距離あるっぽくない?」

 放課後。
 恵太は浩介の机に突っ伏しながら言葉を吐いた。
 浩介はスマホをいじりながら、心底どうでもよさそうに答える。

「距離あるんでしょ、実際」
「ないって。 ……あるのかな」
「知らん。急に弱気になるな」

 浩介は帰るぞ、とカバンを持って立ち上がる。
 恵太はプールの後のような重たい身体をひきずって後を追った。


 静かな廊下に二人の足音が重なる。そこに、新の姿はない。


 新は放課後はいつも図書室で勉強をして帰る。
 本人曰く、遅れを取り戻すためだというが、この間の中間テストではすでにクラス上位に名を連ねていた。
 それも、今のマインドで考えると一緒に帰りたくないからでは、と考えてしまう。
 まぁ、夜になればまた会うんだけど。それでも。

「まだ若干、バリア張られてるような気もするんだよなぁ」

 その証拠に、最近は頭を撫でようとすると避けられる。
 学校では前からそうだったが、夜の間でもだ。

 猫にエサをあげる間は、撫でさせてくれていたのに……。

 このナイーブな気持ちは新のもふもふの頭を撫でていないことによる禁断症状なのかもしれない。

「ATフィールド的な?」
「たぶんそう。エヴァ見たことないけど。それに結局、新が教室登校に戻った理由もわかんないし」

 最初のきっかけは足を痛めた恵太の荷物持ちだったが、恵太の足が治った今でも新は教室登校を続けている。
 だから、新がどうして教室登校に戻ろうと思ったか、恵太は分かっていなかった。

 浩介はちらっと恵太の顔を見て「まじか」とため息をついた。

「じゃあなんでお前は、新に教室登校させるまでしつこく絡んだんだよ」
「クラスメイトなんだから、教室に来てほしいって思うくらい普通だろ」
「普通ねぇ」

 浩介は大きくため息をつく。

「エヴァ見ろ。そしたらわかるから」

 浩介は投げやりに答えると、F1カーがピットインするように、そのままトイレへと入っていった。

「てきとー言いやがって」

 恵太はそのまま昇降口で靴をはき替えて浩介を待った。
 さびや凹みに歴史を感じるアルミ製の下駄箱。
 小さなとびらの真ん中にはコピー用紙をラミネートしただけのネームプレートが差し込まれている。
 恵太は新の下駄箱をみつけ、なんとなくネームプレートに印字された文字を指でなぞりながら読み上げる。

「南雲新、か」

 すると、こちらへ近づいてくる足音が聞こえ、恵太はさっと手を離した。

「荒牧先生」

 下駄箱の陰から現れた通りすがりの荒牧先生は、あたりを見回し首をかしげる。

「今、誰か呼んでた?」
「べ、べつに」

 恵太はとっさに目をそらす。
 だが、そんな恵太の態度に、荒牧先生は目を細めてにやりとほほ笑む。

「ふぅん……」
「なんすか?」
「冬なのに、春が来たか」
「は?」

 荒牧先生の意味不明な発言に口を開ける恵太。
 だが、そんな恵太に荒牧先生はいたずらっぽく語りかける。

「好きな人の名前ってのはね、理由がなくても呼んでみたくなるものなのよ」

 それだけ言うと、荒牧先生はふふっと笑って去っていった。
 と同時に、入れ違うようにして浩介がやってきた。

「荒牧先生すげーにやけてたけど」
「よくわかんないこと言われたわ」
「そういう時は」

 困り顔の恵太に対し、浩介は靴を地面に落とし、つま先で地面を蹴りながら答えた。

「笑えばいいと思うよ」






 猫の舌はざらざらとしていて、指の隙間などの肉が薄い箇所を舐められるとやすりで削られたようにひりひりする。
 だから、ちゅるちゅるするエサをあげる時はゆっくりとチューブを絞りつつ、猫の動きをコントロールするのだが……。

「痛っ……!」

 今日何度目かのぺろぺろ攻撃を食らい、思わず大きな声を出すと猫は驚いてフェンスの向こうへと逃げてしまった。

「佐和くん、大丈夫?」
「全然大丈夫……」

 となりから心配そうな眼差しを向ける新に、恵太はひりひりと痛む手を撫でながら答える。

 いつもなら猫がエサを食べる姿に夢中なのに、今日はなんだか雑念が多い。……主に荒牧先生のせいだけど。

 たしかに新に対する感情は、浩介やほかの友だちに向ける感情とは違うと思う。
 まぁ、荒牧先生がいう好きではないけども。そもそも、新は男だし。
 
 恵太は横目で猫を愛でる新を観察する。
 あいかわらずふわふわの髪の毛は、初めて会ったころよりも少しだけ短くなっていて、前髪のベールに隠れていた新の目が良く見える。
 アーモンドのような形の目に、茶色がかった新の瞳。

 すると、新は恵太の視線に気づいて顔をあげた。

「なに?」
「べつに。南雲新くん」
「なんでフルネーム?」

 首をかしげる新に、恵太は吹きだす。

 こんな風にからかいたくなるような、世話を焼きたくなるような。
 そのとき、奏の姿が脳裏に浮かんだ。小さかった恵太の手を引いて歩く、奏の背中が。

 今では見る影もないな、と恵太がため息を漏らすと、ため息は白く曇り、夜風に混ざって消える。
 恵太は赤紫色のマフラーで口元を覆う。

「寒いな」
「そうだね」

 新が両腕で二の腕のあたりをさすりながら、ぽつりと呟く。恵太は辺りに散らばる猫たちを見回す。
 毛に覆われた猫たちはこれくらいの寒さは平気なのか、エサを食べたり、くつろいだり。中には大股をひらいて毛づくろいをしているものもいる。
 でも、秋の頃に比べると。

「最近、猫ちゃんたち少なくない?」
「言われてみれば。ちょびはいるけど」

 新にエサやりをはじめさせ、恵太をここに招いた鼻の下にちょび髭のような黒い模様がついた猫、通称ちょびは今日も変わらず顔をうずめるようにエサにがっついている。

「どこかあったかいところでもあるのかな」

 恵太は自分で言っておきながら、そんな場所はないだろうと思った。
 これから冬本番だ。
 今は平気でも、低気温の過酷な環境で猫のような小動物が生き延びるのは容易なことではない。
 それが自然の摂理だとしても、あんまりだ。

 残酷な未来を想像し、胸のうちを曇らせる恵太に対し、新はさらりと、それでいてきっぱりと言った。

「あるといいね」

 新の願いのこもった暖かい声を聞いて、恵太の脳内にはこたつやヒーターが設置され、猫たちがくつろぐ和室が想像できた。
 ぴんと身体を伸ばし、すやすやと心地よさそうに眠っている猫たちの姿を。

 そんな場所はあるわけない。
 
 でも、そんな場所があったらいいなと素直に思えた。願うことができた。……やっぱり。

「新って、いいやつだな」
「なに急に……。もう帰るよ」

 新は急に立ち上がり、猫が食べ終わった紙皿を途中何度か落としながら回収していく。
 恵太が手伝う間もなく片づけを終えると、新は一息ついて、恵太の方を向いた。

「おやすみ、佐和くん」

 やっぱり苗字呼びか。
 でも、昼間ほど違和感はなかった。

 猫にも人にも、適切な距離感がある。
 きっと、今の距離感が新にとって心地よいものなのだろう。だったら。

「まぁ、いいか」
「なにが?」

 なんでもない、と恵太は微笑みながら首を振る。

 初めて会った日、一人でエサをあげていたころの新を思い出すと、今のままでも十分に距離は縮んでいるだろう。

 そう思うと、恵太は違和感を無視できた。

「おやすみ、南雲新くん」
「だからなんでフルネーム?」

 新のツッコミに、恵太はケタケタと笑った。







 翌日の放課後。
 恵太は商店街を歩いていた。特に目的はない。ただ、まっすぐ帰るのもつまらなかった。

 新は今日も図書室で勉強だし、浩介は学校を休んでいる。
 体調不良と学校には伝えたらしいが、エヴァのテレビアニメを一気見しているとラインが入った。少しでも心配した気持ちを返してほしい。

 久しぶりに訪れた商店街はひどく静かだった。

 子どもの頃、姉の奏とよくお菓子を買いに来ていた思い出の駄菓子屋はもうなかった。
 ほかを見わたしても営業中のお店よりも、シャッターが降りたままになっている店の方が圧倒的に多い。

 諸行無常だな、としみじみ物思いに耽る恵太だったが、道の先から妙に軽薄な声が聞こえてきた。

「どうぞー! 一時間千円! おさわり自由!」

 見れば、黒縁メガネをかけたスケベな顔つきの40代前後の男性が道行く人に声をかけまくっている。おそらく居酒屋か、いかがわしい店のキャッチだろう。
 ああいうのは無視一択。って、高校生の俺が声かけられるわけないか。

 それでも恵太はなるべく気配を殺してキャッチを通り過ぎる。しかし。

「そこの猫好きの少年!」

 キャッチの一声に、恵太は足を止めた。
 振り向くと、スケベ顔のキャッチとばっちり目があった。それでも一度、左右を見る。やはり、自分以外には誰もいない。

「え、俺?」

 なんでこの人、俺が猫好きだってわかったんだ?

 恵太が尋ねるよりも先に、垂れ下がった目尻に笑みを浮かべたキャッチは、するりと恵太の肩に腕を回し、耳元で秘め事を伝えるように囁く。

「ちょっと寄っていかない? うちの保護猫カフェに」
「保護猫カフェ?」

 聞きなれない言葉は脳内に入ってこずに、そのまま口から出た。
 そんな恵太に、キャッチは白い歯を見せて笑い、背中をとん、と押してすぐ横の雑居ビルへと入る。

 狭くて急な階段を上がると、アルミ製の無骨な扉のすぐ横に『保護猫カフェ にゃん処』と書かれた木製の看板が立てかけられていた。
 中に入ると、受付カウンターがあり、派手な金髪の女性が机に肘をついて待ち構えていた。

「どうも」
「カンちゃん、もっと愛想よくしてよ」

 カンちゃんと呼ばれる20代前半ほどの女性はギロリ、とキャッチを睨み、そっぽを向く。
 耳についたたくさんのピアスが遅れて揺れる。

「じゃ、まずは手を洗ってね」
「あ、はい……」

 キャッチのペースにのまれ、恵太は言われるがまま、洗面台の前に立つ。
 壁掛けの鏡の横には数年前のウイルス感染時にあちこちで見かけた、正しい手の洗い方が説明されたイラストが張られており、恵太はイラストの通りに丁寧に手を洗いながら、今の状況を整理していた。

 なんだよ、これ。

 怪しいキャッチに声をかけられ、入った店の受け付けはヤンキーギャル。
 その人たちに監視されながら手を洗う俺。

 なんだよこの状況……。っていうか、ここはなんだ?

 猫カフェなら聞いたことあるけど、保護猫カフェも初めて聞いた。
 でも、猫なんかどこにいない。あるのは受付に置かれた親指サイズの招き猫の焼き物だけ。

 その時。恵太の中で、ぴんと糸が張ったように閃いた。

 もしかして、これって、詐欺? もしくは犯罪に巻き込まれるパターン?
 特殊詐欺の受け子的な。どこかからどこかにあやしいなにかを運ぶ的な。

 犯罪に手を汚す可能性を考えながら、手だけはきれいになった恵太。
 
 心臓がバクバクと痛いほど暴れる中、ハンカチで手を拭うと、キャッチはお待たせしました、もったいぶりながらゆっくりと扉を開ける。

「それでは、どうぞー」
「うわぅ……」

 部屋に足を踏みいれると、目に入ってきた光景に、恵太は思わず声を漏らした。

 そこは和室を模した作りの小さな部屋で、ちゃぶ台の上に猫、下に猫。
 壁際に置かれた漆色の古びた味わいあるタンスの上に猫。
 開きっぱなしの引き出しの中に猫。
 柱の上にも猫。
 窓際にも猫。
 座布団の上にも猫。
 あっちにも猫。こっちにも猫。

 なんだここ、猫まみれじゃないか……。

「ここにいる子たちはね、元野良猫とか、やむを得ない事情で人と生活することができなくなった子たちなの。そういう子たちを保護して、大切に育てながら里親を探したりするのが保護猫カフェなのです」

 そういうと、キャッチは近くにいた猫のあごを撫でる。

「そして、ここは猫ちゃんたちが人間との付き合い方を学ぶ場所でもあるの。だから、やさしくしてね」

 恵太はうなずくと、キャッチは鼻の下を伸ばし、にやりと笑った。
 すると、ヤンキーギャルのカンちゃんが部屋に入ってきてキャッチをちらりとみて通り過ぎる。

「池谷さん、また顔がスケベになってるよ」

 そういうと、カンちゃんは棚の上に上がって降りられなくなっていた子猫たちを手慣れた手つきで抱えて、床におろしていく。
 カンちゃんの胸元でゆれる名札には「カンナ」という名前と輪郭がねじれた猫の絵がマジックペンで書かれていた。

「なにスケベな顔って。誉め言葉?」

 言ってることも、やってることも素晴らしいことなのに、やたらと顔がスケベなこの人は池谷さんというらしい。
 ピンクの文字で「池谷」と書かれた名札も、なんだかいかがわしいものに思えてくる。

「今日はお客さん二人目ね」
「え」

 池谷さんの視線の先を見ると、別の高校の制服を着た男子が文字通り、猫にまみれていた。
 まったく気がつかなかった。

「どうも」
「うっす」

 挨拶を済ますと、池谷さんとカンちゃんはビニール袋からエサを掬い、皿に入れて二人に手渡す。

「おやつの時間だから。はい、これもって」

 恵太がカニカマやささみの干し肉などが入った皿を受け取るころには、猫たちは食べ物の気配に気づいて騒ぎ出していた。
 ズボンに爪を引っかけ、よじ登ろうとしてくる猫までいる。

「わかったから……!」

 恵太は皿を床に置くと、猫たちは頭を埋め、がつがつと食らいつく。
 他校の男子生徒は猫に覆われ、床で窒息している。

「野良猫の頃の名残でね、食い意地がすごいの。今度の食事がいつになるか分からないと思ってるから」

 そんな猫たちの姿を見て、池谷さんはつぶやく。
 その言葉で、ここにいる猫たちが、これまでどんな人生、いや猫生を歩んできたか想像でき、胸が痛んだ。

「まぁ、ここにいる限り、絶対に飢え死になんてさせないけどね」

 池谷さんはそういうと、再びおやつを皿に盛った。
 何気ない言葉だったが、池谷さんの覚悟のようなものを恵太は感じた。




 あっという間に一時間が経ったが、池谷さんは「初回サービス」と言ってお金を受け取ることはなかった。

「でも、売り上げが保護猫活動にもつながるから、バンバン宣伝してね」

 そういって池谷さんはお手製らしき連絡先を書いたポイントカードを渡してきた。
 ピンクの紙に「またのご来店、お待ちしてます♡」と書かれたカードはやっぱりいかがわしくて、恵太はすぐにブレザーの内ポケットにしまった。

 宣伝か。

 今度は新と一緒に来ようかな。新ならきっと喜ぶだろうし。

 そんなことを考えていると、池谷さんはまた恵太の肩に腕を回し、耳元で囁く。

「猫にはそういう、縁を結ぶ力があると思うの。縁を招くってね」
「縁を、招く」

 受付に座るカンちゃんは招き猫の焼き物の手に持ち、くいっと招くように動かす。

 そういうと、池谷さんは再びするりと恵太の肩に腕を回し、耳元で秘め事を伝えるように囁く。

「デートスポットとして使ってくれてもいいよ」
「でっ……」

 恵太は動揺し、言葉を詰まらせていると池谷さんはむふふと口を押さえて、目尻をぐにゃりと曲げる。

「あらぁ、かわいいところあるじゃない」


 池谷さんの笑顔は、やっぱりスケベだった。









「恵太、肩揉んで」

 風呂上がりにリビングへ行くと、ソファに奏が寝転びながらアイスのピノを食べていた。
 正確に言えば、腰を置く場所に横たわり、腕は床に落ち、背もたれに足を乗せてだらんと寝転んでいる。『卍』みたいだと思った。

「無理」

 恵太は奏をスルーし、冷蔵庫から昼間買った飲みかけの炭酸を取り出す。


 あるとき、いつものように忍び足で玄関へ向かうと、軒先に赤紫色のマフラーと一枚のメモが置かれていた。
 メモには「日付を越えるまでには帰ってくること」と母さんのシュッとした文字が書かれていた。

 いつからバレていたのだろう。

 隠せていたと思っていたことが、母さんからの愛情が、恵太はこっぱずかしく、にやつく口元を隠すようにマフラーを巻いた。

 その日から、夜の外出は親公認となり、奏とのアリバイ作りの契約は解除となった。


 恵太は首にかけたタオルで髪を拭きながら、ぼんやりとテレビに意識が向いた。

「クリスマスか」

 テレビでは奏が推しているアイドルがクリスマスの話題を口にしている。
 だから最近、恋人だのデートだの、よく耳にするのか、と恵太はひとりで納得した。

「姉ちゃんって彼氏いないの」
「いないけど」
「欲しくないの?」
「べつに」

 奏は付属の短い串をピノに刺し、そのまま天井にむかって腕を伸ばす。

「私はね、好きなものは全部ひとりで食べたいの」

 宝石を眺めるように奏はピノを照明にかざす。

「自分の好きなものは相手にも食べてほしいでしょ? だから、半分こにしたいって思える相手ができれば付き合うね。じゃないと太っちゃうし」

 そのまま、ひょいと口に運び、ん~、と満足そうに目を閉じる奏

 太るのは自分のせいだろ、と言いかけて恵太は首を振った。正論が人を救った試しなし。

「半分こね」

 俺だったら。

 恵太はなんとなく、カフェのテラス席のような場所を想像する。

 白いテーブルに置かれた、赤いパッケージの空想のピノ。
 串を頂点に刺すと、コーティングされたチョコの中からミルクアイスが覗く。

 恵太に持ち上げられたピノはまるでUFOのよう。黒い円盤型の飛行物体はただまっすぐと、向かいに座る人物の口へ運ばれていく。
 
 ……って。

「なんで新なんだよ」

 恵太は自身の妄想にツッコむ。
 恵太の対面に座り、口を開けて待っていたのは、もふもふ頭の新だった。

「ん? だれか名前言った?」

 無意識に声が漏れてたようで、奏はこちらへ顔を向ける。

「べつに……」
 
 はぐらかすような恵太の態度に、奏は目を細めてにやりとほほ笑む。
 
「好きな人の名前ってのはね、理由がなくても呼んでみたくなるものなのよ」
「なにそれ流行ってんの」

 奏はいたずらっぽく口をとがらせると、再びテレビの世界へともどっていった。

 ばかばかしい。
 新はただの友だちだ。それ以上でも、それ以下でも……。


──じゃあなんでお前は、新に教室登校させるまでしつこく絡んだんだよ。


 その時、浩介の言葉がどこからか聞こえた気がした。

 あのとき、浩介はそのままトイレに行ってしまった。

 なのに、記憶の中の浩介はその場で振り返り、恵太を見つめる。
 いい加減、気づけよって目で。

 
──恵太にとって、新が特別だからじゃねーの?


 瞬間、ドキリと心臓が跳ねた。

 ……いやいや、違うって!

 誰に対してかわからない言い訳を、恵太は心の中で叫ぶ。


 新はただのクラスメイトで。友だちで。猫のエサやり仲間で……。


 そのうち、恵太は初めて新と出会ったあの日の夜を思い出す。


 ちょびに導かれ、いや、池谷さんの言葉を借りれば、招かれて、偶然出会った保健室登校のクラスメイト。
 仲良くなったと思ったら、次の日には冷たくあしらわれて。
 かと思えば、また話せるようになって。

 猫みたいな新と一緒にエサをあげているうちに話すのが楽しくなって。
 でも、教室に来ない新のことが気になって。それから……。


 恵太の脳内は保健室へと切り替わる。

 階段で足を滑らせて、捻挫をしたあの日の保健室。

 新に倒れこまれ、ベッドで覆いかぶされた時のことが今更になって恵太の頬を紅潮させる。
 新の月光にも似た白い腕が伸び、恵太の頬をそっと撫でる。
 新は顔を近づけ、耳元でそっと囁く。


──恵太。


 名前を呼ばれ、恵太の身体は電流が走ったように硬直する。

 そんな恵太を新はふっと笑みを浮かべて見下ろす。獲物をみつけた、そんな目で。
 その目は、闇夜に浮かぶ猫の目によく似ていた。

 そのまま新はゆっくりと顔を近づける。
 ふわふわな前髪が恵太の鼻に触れ、二人の吐息がぶつかりあう。

 そして、新の薄い唇が恵太の唇に…………って。


「なに考えてんだ俺はっ?!」


 恵太は自身の妄想をかき消すようにタオルを床にたたきつけた。

「うるさいっ!」

 奏の怒声も、今の恵太には届かない。
 恵太はいまさら喉が渇いていたことを思い出し、シンクに置かれたジュースを一息に飲み切る。


 炭酸が抜けたジュースはのどが焼けるほど甘ったるかった。







 数日後。

 放課後を告げるチャイムが鳴ると、部活に行く人、友だちと駄弁る人、それぞれが蜘蛛の子を散らすように席を立った。
 その騒がしさに乗じて、恵太はこっそりと教室を出る。

 廊下を早歩きで駆け抜け、階段を一段飛ばしで降りていく。

 昇降口までたどり着き、一息ついて顔をあげると下駄箱の前に浩介が立っていた。

 こいつ、いつのまに……。

 目を泳がせる恵太に、浩介は呆れた様子で告げる。

「なーんでお前がATフィールド展開してんだよ」
「し、してねえ……」
「ぶぇっくしょんっ……!!」

 冬の朝の凍った霜のように、くしゃみとともに発せられた飛沫がキラキラと飛び散る。
 鼻水を垂らす浩介は、よく見れば目が赤く腫れている。風邪でも引いたのだろうか。

 そこへ、新がやってきた。

「佐和くん、今日一緒にかえ……」
「悪いっ! ちょっと用事があってさ、またな!」

 恵太は新と目もあわさず、一目散に学校を飛び出した。

 校門を抜けて道に出ると、足に違和感があった。
 昇降口で慌てて靴を履いたせいで、靴紐が解けてしまっている。
 恵太はしゃがんで靴紐を結ぶ。しかし、気が動転していたせいか、靴紐は変な形に絡まってしまった。

 絡み、か。

 浩介は絡んだままの靴ひもを見つめ、大きなため息をついた。

 ほんと。


 なにやってんだ、俺。





「それ、完全に好きでしょ」

 はっきりと三橋に言われ、恵太は硬直していると、手に持っていたねこじゃらしを子猫にはたき落とされた。

 先に話を聞こうか、と尋ねてきたのは三橋だった。
 他校の男子生徒である三橋はいつもここ、保護猫カフェにゃん処にいた。
 
 猫を撫で、子猫と遊び、みんなにおやつをあげて帰る。

 誠実に猫と触れ合い、愛でる姿に、恵太はいつしか三橋に心を許していた。
 それに、浩介と違い、いつも一緒にいないからこそ、できる話もある。

 恵太は三橋のやさしさに甘えるように、新に対する心の揺らぎや、自分の気持ちのわからなさを伝えた。

 相手が新であるということ。男であることを隠して。

 だが、それにしても、こうもばっさり結論付けられると、恵太はいやいやと首を振りたくなる。

「いや、たしかにほかの友だちよりも特別感はあるけど。なんかほら、おと……」
「おと?」
 
 口からこぼれそうになった弟というワードをぎりぎりで引っ込める。
 
「年下の兄弟的な。妹的な感じというか」

 いや、どうやら妹はクソらしいからな。えーと……。
 恵太は床に寝転び、おもちゃの魚をガシガシと噛む子猫を指さす。

「猫を愛でる感じというか。なんかそういう、かわいい感じで、守りたい感じで、だから、恋愛感情かっていわれるとわかんないというか……」

 しどろもどろになりながら自分の気持ちを言語化する恵太に、猫のトイレ掃除をしていたカンちゃんが「じゃあさ」と声をかける。

「その子とエッチなこと想像できる?」
「えっ……」

 カンちゃんのド直球な質問に、なぜか恵太以上に三橋は目を白黒させて、顔を赤らめる。
 
 そんな三橋のそばで、恵太は口を真横に結んで天井を見上げる。


 もう、しちゃいました……。


 懺悔するように、心の中で唱える恵太。

 すると、恵太の脳内に改変された保健室の思い出が流れてくる。

 保健室のベッドに押し倒され、名前を呼ばれた直後。

 想像上の新はおもむろにシャツのボタンをはずしていく。
 体育の後、着替える時に目に焼き付いた白く透明な新の肌。恵太は新の肉体に引き寄せられるように手を伸ばす。
 互いの鼓動が、体温が伝わってくるほどの距離まで近づき、恵太は、新の唇にそっと……。

「こりゃ完全に好きだな」

 カンちゃんの声で我に返った恵太は、頭を抱えてうずくまる。
 
 これが新を避ける原因だった。

 最近、新を見かけるたびにこんな妄想が、脳内に勝手に流れ込んでくる。

 そのたびに、猛烈な自己嫌悪に陥った。
 
「実際どうなの? 脈あり?」
「……ないと思います。完全に俺のこと友だちだと思ってる」
「あー、それはご愁傷様だ」

 カンちゃんは恵太に手を合わせて拝むと、猫たちの排せつ物が入ったビニール袋をもって部屋を出ていった。

「なんなんだよ……」

 恵太は自分のしっぽを膨らませるイメージでカンちゃんをにらみつけると、となりで苦い顔をしている三橋に気づいた。

「どうした?」
「うん……」

 佐和には悪いけどさ、と三橋はこめかみをぽりぽりと搔きながら続ける。

「友だちに好きって言われても、こっちは友だちとしか思えないからさ。どうすればいいかわかんないんだよな」

 胸のあたりがぐっ、と痛んだ。
 うまく呼吸ができず、恵太はゆっくりと全身の空気を抜くように息を吐いた。

 好きでしょと言われると否定したくなるし、うまくいかないだろうと言われると傷つく。

 そんな自分の不安定さも、恵太は嫌になってしまう。

「もしかして、経験ある感じ?」
「あるよ。中学の時だけど」

 三橋はぼそりと言葉をこぼす。

「悪いことしたな」
「え?」

 三橋ははぐらかすように笑うが、少しすると、静かに口を開いた。

「そいつ、男だったんだよ」

 膝の上に座る猫をそっと撫でて続ける。

「俺、受け止められなくてひどいこと言ったんだ。直接じゃないけど。でも、そういう雰囲気とか、態度に出ちゃってたのかもしれない。それから、あいつが俺から距離とって、話さなくなって、そのまま……」

 後悔の念をはらんだ表情を浮かべる三橋に、恵太はなにも言えなかった。

 三橋から語られる過去は、今の恵太が恐れる未来そのものだった。

 自分が新を想うことや、想いを伝えることで、新との友情にひびが入ることがなによりも怖かった。
 そして、新がまた教室に来なくなる未来も、容易に想像できてしまう。
 
 新が教室に来れるようになった喜びを。
 俺や浩介と楽しそうに笑う新の笑顔を。

 恵太は奪ってしまうことが、嫌だった。

 しかし、三橋は湿った空気を切り替えるように、短く息を吐いた。

「でもさ、よくよく考えたら、人が人を好きになってるだけだもんな。男女の恋愛となにも変わんねえよ」

 人が、人を好きになる。

 恵太は、それぞれがイソギンチャクのような触手を絡ませた、二つの『人』という漢字を思い出した。
 あの気持ちの悪い、現代アートのような漢字たちが脳裏に浮かび、恵太はぷっ、と吹きだす。

「え、今笑うところ?」

 戸惑う三橋が可笑しくて、恵太はちがうちがう、と肩を震わせた。

 そのうち、気持ちが軽くなっていくのを感じた。

「そうかもな」

 そのとき、のれんをくぐって池谷さんが戻ってきた。
 一人なところを見るに、今日も客引きは失敗に終わったらしい。
 どう考えても、スケベな顔のせいだと思う。

「さっさと帰りな。さみしき若人たちよ」

 もう一時間経ったのか。

 ぷんすか苛立つ池谷さんに追い出されるように、恵太と三橋はにゃん処を後にした。





 狭い階段を降りて外へ出ると、空は夕空と夜空が混ざった色をしていた。
 冬の夜の、凍てつく風が鼻の先をしびれさせる。

 身を縮める三橋に、恵太はおもむろに口を開く。

「さっきの、話してくれてありがとう」

 自分の後悔をだれかに伝えることには、それなりに勇気がいる。
 ましてや、誰かにとって自分が悪役になった話ならなおのことだ。

 恵太が新のことを打ち明けたのと同じように、
 いつも一緒にいないからこそ、話をしてくれたのかもしれないが、恵太にはそれがたまらなく嬉しかった。

「おう」

 ニカっと笑う三橋を見て、三橋を好きになる理由がわかる気がした。

 人が、人を好きになる。か。

 気づけば、喉の奥のあたりにずっと詰まっていた岩のようななにかが無くなっていた。
 すーっと冷たい風が吹き抜け、恵太の身体はそのまま浮いてしまうそうだった。

 新に会いたいな。

 自分の気持ちを素直に認めると、恵太は体温がぐっと上がるのを感じる。

「え」

 そのとき、三橋は目を細め、道の向こうを気にしているのに気付いた。

 恵太は三橋が見つめる先へ視線を動かすと、そこには新の姿があった。

「えぇ!? あ……」
「新?」

 先にその名前を呼んだのは、恵太ではなく三橋だった。

「え、新のこと知ってるの?」

 恵太の問いに三橋が答えるよりも先に、新は踵を返して歩き出す。

「おい! 待てよ新!」

 恵太が呼びかけるも、新は立ち止まらず走り去ってしまった。

「どういう……」

 事態が飲み込めずに立ち尽くす恵太。

 しかし、走り去る新を見つめる三橋の表情から、恵太はある可能性を感じた。


──友だちに好きって言われても、こっちは友だちとしか思えないからさ。


──そいつ、男だったんだよ。


「もしかして……」

 恵太の声が、力なく地面に転がり落ちる。

 猫は縁を招く不思議な生き物。しかし、こんな縁まで招くなんて。





 恵太は制服についた猫の毛をつまみ、息をのんだ。