先輩のパーカーの胸元に名札はついていない。わたしはとくんとくんとうるさい胸音を聞きながら、先輩にボールを渡した。
「ちょっと待ってね。えーと……」
先輩がパーカーのポケットをごそごそと手探りし、苺の包み紙につつまれたイチゴアメと、ピンク色の大文字で桃と書かれたキャンディーを取りだした。
「苺と桃、どっちがいい?」
「あ、え、えっと、も、桃が好きです」
「じゃあモモちゃんだ。モモちゃん、部活動楽しんでね!」
「あ、ありがとうございます!」
わたしの手のひらに桃のキャンディーを残し、先輩が夕陽の中に飛びこんでいく。
桃だから、モモちゃん。
わたしは淡いオレンジ色の夕陽で両頬を染めながら、桃のキャンディーを両手でそっと握った。
(……名前、聞いておけばよかったな……)
ちいさな後悔を胸に秘め。
わたしは閑散とし始めた渡り廊下を、早歩きで歩きだした。
***
「楽しそうな部活がたくさんあったねー」
「チアリーディング部にときめいちゃった。中学は文芸部だったし、高校からでも運動部っていけるのかなぁ」
「とりあえず仮入部してみたら? 渡辺さんも同じパターンみたいだよ。中学は美術部で、高校では演劇部に入るんだって話してた」
「あーあの、一番背が小さくて一番声が大きい渡辺さんかー。演劇部って文化系部活動で紹介されてたけど、どっちかっていうと運動部よりだもんね。私も仮入部から頑張ってみようかな」
「渡辺さん、演劇部に入るの?」
「うん。そうみたいだよ」
「……渡辺さん、知ってるのかなぁ」
「なにを?」
「演劇部は何度も全国大会に行ってるから……入部テストがあるんだって。お姉ちゃんの話だと、かなり厳しいらしいよ」
3.
わたしは制服から赤色の学年ジャージに着替え、耳の下で二本縛りにしていた髪を再度縛りなおした。スクールバッグを右肩にかけ、体育館シューズが入った巾着袋を持って教室を出る。
正門へ向かう昇降口から一度外へ出て、陸上コースと第一体育館と武道館を通り過ぎた先にあるのが第二体育館だ。
はっはっと跳ねる息を繰り返しながら、全速力で第二体育館へ向かう。肩にかけたスクールバッグが重い。左手首にかけた巾着袋が邪魔で走りにくい。言いたいことはやまやまだが、指定時間の四時までに辿り着かないと部活動に参加させてもらえない。わたしは四時四時四時と心の中で唱えながら、必死に足を前に出す。第二体育館の明かりが見えてきたのは、三時五十分だった。
ゼーハーヒューと声にならないものを吐きだしながら、わたしは第二体育館の昇降口でローファーを脱ぎ、体育館シューズへと履き替える。半円をかたどった横開きの扉をガラガラと開けると、目の前に広がっていたのは緑色の防球ネット。男子バスケットボール部と女子バスケットボール部が防球ネットを境に、それぞれ練習していた。そうっと横を通り抜け、わたしは人が集まっている舞台へ向かう。
「演劇部の見学希望ですか? 仮入部希望ですか?」
「仮入部希望です!」
「はい、分かりました。荷物置き場は舞台の右袖です」
「右袖ってなんですか?」
「観客から、つまりこちら側から見て、舞台の右側の端を右袖といいます。反対側は左袖です」
「ありがとうございます!」
舞台前で立っていた緑のジャージの三年生先輩に仮入部届をだすと、かわりに二十五番のゼッケンを渡され、Dグループに混じるよう指示された。
わたしは舞台へ続く短い階段を昇り、右袖にあった荷物置き場に巾着袋を入れたスクールバッグを置く。二十五番のゼッケンをジャージの上から被り、両紐を左右それぞれ結ぶ。先に並んでいたDグループの二十四番ゼッケンをつけた赤色ジャージに、ほっと一息をつく。
(良かった、一年生はわたしだけじゃなかった)
舞台上をよく観察してみると、AグループとBグループは三年生の緑色ジャージと二年生の青色ジャージが混じっている。CグループとDグループは赤色ジャージの一年生だけだった。女子率が圧倒的に高いが、ちらほらと男子生徒もいる。
黒のセーラー服に青いスカーフを結び、ショートカットにキリッとした眉が似合う二年生女子が舞台に上がってくる。後を追ってきた男性教師は、傾いた黒眼鏡を直し、ハンカチで汗を拭った。
「一年生の皆さん、こんにちは。演劇部【満開】部長の菅井千里です。二年生、三年生も時間通りに集まってくれてありがとう。こちらは顧問の高杉先生です。先生、一言お願いします」
「顧問の高杉です。顧問といっても名ばかりで、普段の練習は菅井部長に一任しています。皆さん、菅井部長の指示に従ってください。挨拶は以上です。菅井さん、あとは頼みました」
「ありがとうございました」
背筋を真っ直ぐ伸ばし、菅井先輩が高杉先生に深々と頭を下げる。高杉先生が舞台上から降りるまで見送り、向き直った菅井先輩の瞳には冷たい炎が宿っていた。
「我が演劇部は一軍と二軍に分かれています。一軍は舞台に立つ演者で構成され、第一体育館のステージと部室棟二階の部室を使用することができます。
みなさんは二軍です。二軍は基本的に基礎練習と雑務です。演者オーディションは一軍と二軍関係なく行いますが、二軍から上がるにはとても厳しいものです。まずは一軍に近いAグループをめざし、きっちり基礎練習を行ってください。
仮入部期間は一週間。三日後、それから一週間後にテストを行います。テストに落ちた方は残念ながら入部できません。それでは基礎練習表を配布します」
前から回ってきた基礎練習表を見て、わたしはぎょっとした。
「ちょっと待ってね。えーと……」
先輩がパーカーのポケットをごそごそと手探りし、苺の包み紙につつまれたイチゴアメと、ピンク色の大文字で桃と書かれたキャンディーを取りだした。
「苺と桃、どっちがいい?」
「あ、え、えっと、も、桃が好きです」
「じゃあモモちゃんだ。モモちゃん、部活動楽しんでね!」
「あ、ありがとうございます!」
わたしの手のひらに桃のキャンディーを残し、先輩が夕陽の中に飛びこんでいく。
桃だから、モモちゃん。
わたしは淡いオレンジ色の夕陽で両頬を染めながら、桃のキャンディーを両手でそっと握った。
(……名前、聞いておけばよかったな……)
ちいさな後悔を胸に秘め。
わたしは閑散とし始めた渡り廊下を、早歩きで歩きだした。
***
「楽しそうな部活がたくさんあったねー」
「チアリーディング部にときめいちゃった。中学は文芸部だったし、高校からでも運動部っていけるのかなぁ」
「とりあえず仮入部してみたら? 渡辺さんも同じパターンみたいだよ。中学は美術部で、高校では演劇部に入るんだって話してた」
「あーあの、一番背が小さくて一番声が大きい渡辺さんかー。演劇部って文化系部活動で紹介されてたけど、どっちかっていうと運動部よりだもんね。私も仮入部から頑張ってみようかな」
「渡辺さん、演劇部に入るの?」
「うん。そうみたいだよ」
「……渡辺さん、知ってるのかなぁ」
「なにを?」
「演劇部は何度も全国大会に行ってるから……入部テストがあるんだって。お姉ちゃんの話だと、かなり厳しいらしいよ」
3.
わたしは制服から赤色の学年ジャージに着替え、耳の下で二本縛りにしていた髪を再度縛りなおした。スクールバッグを右肩にかけ、体育館シューズが入った巾着袋を持って教室を出る。
正門へ向かう昇降口から一度外へ出て、陸上コースと第一体育館と武道館を通り過ぎた先にあるのが第二体育館だ。
はっはっと跳ねる息を繰り返しながら、全速力で第二体育館へ向かう。肩にかけたスクールバッグが重い。左手首にかけた巾着袋が邪魔で走りにくい。言いたいことはやまやまだが、指定時間の四時までに辿り着かないと部活動に参加させてもらえない。わたしは四時四時四時と心の中で唱えながら、必死に足を前に出す。第二体育館の明かりが見えてきたのは、三時五十分だった。
ゼーハーヒューと声にならないものを吐きだしながら、わたしは第二体育館の昇降口でローファーを脱ぎ、体育館シューズへと履き替える。半円をかたどった横開きの扉をガラガラと開けると、目の前に広がっていたのは緑色の防球ネット。男子バスケットボール部と女子バスケットボール部が防球ネットを境に、それぞれ練習していた。そうっと横を通り抜け、わたしは人が集まっている舞台へ向かう。
「演劇部の見学希望ですか? 仮入部希望ですか?」
「仮入部希望です!」
「はい、分かりました。荷物置き場は舞台の右袖です」
「右袖ってなんですか?」
「観客から、つまりこちら側から見て、舞台の右側の端を右袖といいます。反対側は左袖です」
「ありがとうございます!」
舞台前で立っていた緑のジャージの三年生先輩に仮入部届をだすと、かわりに二十五番のゼッケンを渡され、Dグループに混じるよう指示された。
わたしは舞台へ続く短い階段を昇り、右袖にあった荷物置き場に巾着袋を入れたスクールバッグを置く。二十五番のゼッケンをジャージの上から被り、両紐を左右それぞれ結ぶ。先に並んでいたDグループの二十四番ゼッケンをつけた赤色ジャージに、ほっと一息をつく。
(良かった、一年生はわたしだけじゃなかった)
舞台上をよく観察してみると、AグループとBグループは三年生の緑色ジャージと二年生の青色ジャージが混じっている。CグループとDグループは赤色ジャージの一年生だけだった。女子率が圧倒的に高いが、ちらほらと男子生徒もいる。
黒のセーラー服に青いスカーフを結び、ショートカットにキリッとした眉が似合う二年生女子が舞台に上がってくる。後を追ってきた男性教師は、傾いた黒眼鏡を直し、ハンカチで汗を拭った。
「一年生の皆さん、こんにちは。演劇部【満開】部長の菅井千里です。二年生、三年生も時間通りに集まってくれてありがとう。こちらは顧問の高杉先生です。先生、一言お願いします」
「顧問の高杉です。顧問といっても名ばかりで、普段の練習は菅井部長に一任しています。皆さん、菅井部長の指示に従ってください。挨拶は以上です。菅井さん、あとは頼みました」
「ありがとうございました」
背筋を真っ直ぐ伸ばし、菅井先輩が高杉先生に深々と頭を下げる。高杉先生が舞台上から降りるまで見送り、向き直った菅井先輩の瞳には冷たい炎が宿っていた。
「我が演劇部は一軍と二軍に分かれています。一軍は舞台に立つ演者で構成され、第一体育館のステージと部室棟二階の部室を使用することができます。
みなさんは二軍です。二軍は基本的に基礎練習と雑務です。演者オーディションは一軍と二軍関係なく行いますが、二軍から上がるにはとても厳しいものです。まずは一軍に近いAグループをめざし、きっちり基礎練習を行ってください。
仮入部期間は一週間。三日後、それから一週間後にテストを行います。テストに落ちた方は残念ながら入部できません。それでは基礎練習表を配布します」
前から回ってきた基礎練習表を見て、わたしはぎょっとした。