缶コーヒーに口をつけ、メガネ先輩が話を続ける。
「『へんなのー』と小学生低学年で言われていて以来。目立ちたがりの女子グループや男子グループに、笑いのネタを提供し続けてきた名前だ。スマホやパソコンの予測変換に出てこないのは当たり前、読めないのが当たり前。画数もやたら多くてな、テスト開始一分は氏名記入だけで終わる。
話を戻そう。入学式の後、私は職員室に呼び出された。一年時の担任が、生徒指導の教師でな。祖父と両親がしゃしゃり出てきた事で、校長まで巻き込む騒ぎとなった。名前は大事だの、アイデンティティがどうだの。私そっちのけで大討論会だ。
その途中。後ろの応接スペースで待機していた野上がパーテーションの上から、ひょっこり顔をだし。これまた笑顔で言ってのけた」
『おかしいなー。生徒の自主性を尊重するって、校訓に書いてあったけどなー。あ、おかしいといえば、もう一つあるんですけど。さっきから、メガネさん以外の人ばかりが好き勝手に話してますよね。高校に通うのはメガネさんでしょ。自主性うんぬん言うなら、メガネさんの話を聞くべきじゃないんですか?
そうそう。知ってます? 演劇部は、日常生活でも役名や部名で呼びあうんですよ。中学の時、俺はスマイルや王子先輩って呼ばれてました。本名に一文字もかすっていない呼び名でしたけど、ちゃんと俺だって理解されてました。だから、メガネさん本人が名乗りたい名前で、周りに知ってもらえばいいと思います。
それに。初対面の人だらけの中、注目されている中で、あんな堂々と言い切るなんて。なみの神経じゃできませんよー。経験積んだ役者さんでも、初舞台は緊張するって聞きますし。メガネさんは自分の意見をハッキリ言える、めちゃくちゃカッコよくてスゴイ人だなーって、俺は思いましたけどねー』
「それを聞いて、私は理解した。こいつは本物のバカだと。こいつは、いつ何時も自分に素直なヤツなのだと。真面目なイイ子を演じてきた私とは、真逆なヤツだと。
大口をたたいておきながら沈黙していた自分が、急にバカバカしくなってな。笑いだした私を見て、周りは不可解な顔をしていた。野上だけがきょとんとしていて、腹を抱えて笑ったものだ。笑い終えた後、私は言ってやったのさ。『私の名前はメガネだ。自主性を重んじるならば、校内では好きに名乗らせてもらおう』と。
クラスでも野上が『メガネさん』と連呼してくれたおかげで、私=メガネだと周知された。制服をキッチリ着ない事で、担任の興味も私から野上へ移った。
入学式に遅刻した理由は、演技の練習をしていたから。制服を着ない理由は、演技したいと思った時に動きにくいから。野上が演劇バカと気づくまで、時間はかからなかった。朝から晩まで好きな事に打ち込む姿は、青春そのものを体現しているようにも見えた。
二学期が始まってすぐの頃だ。放課後のチャイムが鳴ると同時に飛びだしていた野上が、教室に居残る事が多くなった。ただじっと、窓の外を見ていた。そんな姿が、数日続いた後。野上がまじめな顔をして、私に頭を下げたんだ。『メガネさ……メガネ先輩。同好会を作りたいので、俺に力を貸してくれませんか』と。
本名にわずらわされない高校生活を過ごせるのも、野上のおかげだ。面と向かって礼を言った事はないがな。一回ぐらいなら頼みをきいてやろうと、私は了承した。
メンバーが三人以上いないと同好会は作れない。決まっていたメンバーは野上とユキの二人だけ。時も場所も考えず、土下座して頼む野上に追い回され。演劇以外ポンコツの野上では、同好会維持は無理だと顧問に泣きつかれ。野上が好き勝手しないよう、見張り役が必要だと教師陣に迫られ。外堀を固められた私が三人目のメンバーになり、@homeができた。
野上に出会った事が、私の運の尽きだったわけだ。今後ヤツ以上のバカに出会う事は、そうそうないだろうな」
クスリと。
笑い声をもらし、メガネ先輩がほほえむ。
いつも冷静で、表情を変えないメガネ先輩。
そんなメガネ先輩さえ、笑顔に変えてしまうのだから。
やっぱりコウタ先輩は、笑顔の魔法使いだ。
「私が話せる事は以上だ」
「ありがとうございました!」
頭を下げたわたしを見て、メガネ先輩がプリントに向き直る。
わたしは制服を脱ぎ、赤いジャージに着替える。
「メガネ先輩。わたしも屋上で練習してきます!」
「気をつけてな」
トントン、トトトン!
屋上へ続く階段を、わたしはようせいのステップでのぼる。
昨日より今日。
今日より明日。
一つ、また一つ、新しい姿を知るたび。
とくんとくんと、鳴り響く音が大きくなって。
きゅうと胸がしめつけられて、息もできないぐらいに。
コウタ先輩だけでうめつくされていく、わたしの身体。
コウタ先輩が、ユキ先輩を好きでも。
わたしが知らない、他の人を好きでも。
とろとろに溶けだす、甘い甘い気持ちを。
見ないフリは、しない。
(……だからといって! 宇美ちゃんに貸してもらったマンガみたいには……あんなふうに、スラスラ言えるわけがないってば! はずかしくて、頭が真っ白になっちゃうってば!
うーん……れ、練習すれば言えるようになるかな……なるのかな……? す、す、す、す、す)
わたしが扉を開けるよりも早く。
屋上側から扉が開き、笑顔のコウタ先輩と目があった。
「モモちゃんの足音だと思ったんだー! 大当たりー!」
「すひゃい!」
「モモちゃん、カミカミ様がついてるよー。カミカミ様ー、カミカミ様ー。どうぞお帰りくださいー」
不意うちの登場に驚いた、わたしの返事は。
セリフをかんだ時に出てくる、カミカミ様(※コウタ先輩命名)だと思われたらしい。
にこにこ笑いながら、コウタ先輩がわたしの頭をなでる。
「こ、コウタ先輩。おはようございますっ」
「モモちゃん、おはようー!」
「あの、コウタ先輩」
「うん、モモちゃん」
「す……」
「す?」
コウタ先輩が笑いつつ、首をかしげる。
今は、まだ。
ムリムリムリムリ!
無理無理無理無理!
わたしは心臓が飛びだしそうなほど、ドキドキうるさい胸を押さえ。
両頬をチューリップよりも真っ赤に染めたまま、笑ってみせた。
「ストレッチ! 頭文字しりとりしながら、ストレッチしたいです!」
「オッケー! じゃあ、俺の番ね! “す”スタートだからー……鈴!」
「す、すみれ!」
「スイカ!」
「す、す、すいそう!」
「スイス!」
「いじわるです! す、す、すもも!」
コウタ先輩の横顔を見上げ、わたしは声にならない声でつぶやく。
──好き。
コウタ先輩。
もし、もしも。
言えるようになったら。
わたしの話を、聞いてくれますか?