2.
 @home(アット・ホーム)の主な練習場所は、特別棟4階の地学準備室・廊下+屋上。
 他の準備室へ入らないことを条件に、メガネ先輩が丸々借りたらしい。

 さすがです、メガネ先輩!と思っていた矢先。

「中間・期末テストで赤点の場合、即刻(そっこく)活動停止にする」宣言を聞き、わたしはヒュンッと背筋を伸ばした。

 ***

「モモ。活動していいぞ」
「ありがとうございますっ!」

 わたしが提出した小テストは、無事にパス。
 ユキ先輩の小テストもパス。
 コウタ先輩がさしだした小テストを見て、メガネ先輩のメガネが光る。

野上(のがみ)。江戸幕府の第三代将軍の名前」
石川(いしかわ)ごんざぶろう!」
「違う」
「えー……あー……うーん……?」
「徳川家光(いえみつ)だ」
「メガネ先輩。徳川なんちゃらって名前、多くないですか? 似た名前ばっかりで覚えられないんですよね」
「勧誘用寸劇。ようせいの初セリフ」
「『ここが魔法の国ね! どんなステキなものがあるのかしら!』」
「江戸幕府の第三代将軍の名前」
「徳川……徳川……徳川さぶろうだいじん!」
「家光だ。頭に叩きこみながら雑巾(ぞうきん)がけしてこい」
「いえっさー! いえみつ、いえみつ、いえみーつ‼︎」

 パーカーを脱ぎ、ネクタイをほどき、ワイシャツを脱ぎ。
 白いTシャツとランニングシューズ姿のコウタ先輩が、廊下へ飛びだしていく。
 コウタ先輩にとっては、雑巾がけも体幹(たいかん)トレーニング。
 楽しそうな声が地学(ちがく)準備室から遠ざかる。

「モモ。演劇以外はマネするな。絶対にだ」

 メガネ先輩が、小テスト用紙を長机に置く。
 コウタ先輩の名前が書かれた小テストは十五点(五十点満点)。
 ギラリと光ったメガネを見て、わたしは首を縦に振った。

 コウタ先輩。
 将軍の名前より、ようせいのセリフのほうが長いです。

「会議に出てくる。ユキ、モモを頼むぞ」

 こくりとうなずくユキ先輩。
 わたしも笑顔で手を振る。
 メガネ先輩が扉を閉め、コウタ先輩の声が小さくなる。
 シーンとした空気に、わたしの口角(こうかく)がひくひくと動いた。

(……きまずいです、メガネ先輩! ユキ先輩、今日もバツ印(話しません)です! と、とりあえず座って落ちつけ、わたし!)

 わたしは入口に近いイスに腰をおろし、薄い冊子を取りだす。
 コウタ先輩オススメの中から全員で選び、メガネ先輩が寸劇用に書き直してくれた台本。
 魔法の国を訪れたようせいが、お姫様と王子様を巻き込んで騒ぎを起こすコメディ、『ようせいのたからもの』。
 記念すべき一回目は、まさかの主役(ようせい)だった。

(『ピッタリな役だよ!』って、コウタ先輩は言ってくれたけれど……『長くないぞ』って、メガネ先輩も言ってくれたけれど……。じ、時間がみ、短くても……しゅ、主役はめだつよね……。セリフを忘れないようにしなきゃ……)

 高校受験当日より、ずっとずっと緊張(きんちょう)する。
 わたしは蛍光(けいこう)ペンを引いたセリフを声にださず、口だけパクパク動かす。

「『お宝の合図かしら? きっと、ステキなものに違いないわ!』」

 隣のパイプイスが、カタンと音を立てる。
 お花畑みたいな、いい匂い。
 台本から顔を上げたわたしの頬を、ユキ先輩の細い指がつついた。

「ゆゆゆユキ先輩⁈」

 飛び上がりそうなほど驚いたわたしに向かい。
 ユキ先輩が両手を顔の前で合わせ、ごめんなさいのポーズ。

 ふわふわ、サラサラ、つやつや、キラキラ。
 女の子のカワイイを、全部持っているユキ先輩。
 わたしが二年生になっても、ユキ先輩には絶対なれないと思う。

 ……ツキン。
 あ、また。
 嫌な音がした。

 ユキ先輩がノートを持ち、手書きのイラストを指す。
 両頬に指を当てたウサギ+『うるせぇ、ハゲ。こっち見んな♡』のセリフつき。
 わたしが好きな【毒舌(どくぜつ)ウサちゃん】にそっくり。

「ユキ先輩。これ、毒舌ウサちゃん……ですか? トークアプリのスタンプの……」

 もしかしたら。
 ユキ先輩と話すキッカケになるかもしれない。
 わたしはユキ先輩の正面へ向き直る。
 ユキ先輩がこくこくとうなずき、スマートフォンを取りだす。
 見せてくれた待ち受け画面は、毒舌ウサちゃんのカレンダー。

「やっぱり! わたしも好きです、毒舌ウサちゃん!」
[カワイイ見た目とセリフのギャップがいいよね]
「分かります! 『世界で一番き・ち・く〜🎵』とか『なんだゴラァ、目つぶしするぞ☆』とか!」
[セリフのせいで送れないスタンプ、たくさんあるよね。でも、新作がでるとついつい買っちゃう]
「わたしもです! ユキ先輩、イラスト上手ですね!」
[ありがとう。今日はね、画面をじーっと見て描いたの。見ないで描くとコレ]

 細い指が示す、ページ下。
 クマらしき形に棒線(ぼうせん)が引かれ、『〇〇先生の授業、眠いー』のフキダシ。
 わたしが吹きだすと、ユキ先輩が別のページを開いた。

[モモちゃんのスクールバッグに、毒舌ウサちゃんのマスコットキーホルダーがついてたから。モモちゃんも好きだと思ったの。
 ごめんね。私と二人きりで、きまずかったでしょ。コウタやメガネ先輩みたいにできなくて、ごめんね。
 私、初日にモモちゃんを泣かせちゃったから。こわい先輩って思われたかなって、話しかけにくいって思われたかなって。
 本当は、口で言わなくちゃいけないんだけど。今の私、声を出すのがダメな日があるんだ。だから、文章でごめんね。
 モモちゃんが、ユキ先輩って呼んでくれて。私、とても嬉しかったの。ありがとう。
 モモちゃん。主役だからどうしよう、セリフを忘れたらどうしようって。気持ちがあせっちゃうの、すごく良く分かる。
 私とコウタは同じ中学で、演劇部仲間。中三の時、全国大会にでたんだ。コウタは個人のすごい賞をとった天才だけどね。基本的な事は、私もやってきたから。
 私でよければ、私が知っている事でよければ、モモちゃんに教えてあげられる。
 だから、モモちゃん。私と一緒に、練習しない?]

 綺麗な字で書かれた文章。
 わたしは一文字ずつ目で追い、台本を抱きしめる。

 わたしにないものを、望んでも手に入らないものを。
 ユキ先輩がたくさん持っていることは、変わらない。
 コウタ先輩がユキ先輩を名前で呼ぶことも、ユキ先輩がコウタ先輩を名前で呼ぶことも。
 ユキ先輩がコウタ先輩とおにあいなことも、変わらない。
 わたしの胸の奥で、ツキンツキンと嫌な音がすることも。
 きっと、これからも。
 何度も、何度も、あると思う。

 それでも。
 バツ印(話しません)なのに、話しかけてくれて。
 会って数日しか()たないわたしを、気にかけてくれて。
 @home(アット・ホーム)に入会したからこそできた、大事な先輩の一人。

「ユキ先輩! ご指導よろしくお願いしますっ!」

 わたしは立ち上がり、勢いよく頭を下げる。
 おそるおそる顔を上げると、ユキ先輩の大きな瞳がひとまわり大きくなって。
 ささやき声よりも小さな声で、ユキ先輩が笑った。

[モモちゃん。屋上に行ってみない?]
「行きたいです! 中学は立ち入り禁止だったので、どんな場所かなってわくわくしてたんです!」
[秘密の場所も教えてあげる。コウタとメガネ先輩には内緒ね]
「わぁ! すっごく楽しみです!」

 ユキ先輩に続き、わたしは地学(ちがく)準備室を出る。
 吹きこんできた春風が、ぎすぎすしたきまずさを軽やかに運び去っていった。