君が世界のすべてだった

   ◇

 夕方の六時、怜依は咲乃が入院している病院の中庭にいた。
 雨上がりということもあって、少し肌寒く感じる。昼間の雨は、夏を連れ去ったらしい。
 新城がしていたように、ベンチに座っていようかと思ったが、まだ濡れていて座れそうにない。
 軒下で来るかどうかわからない新城を待つ。ここでしか、新城に会えない気がしたから。
 冷えた風が吹き、怜依はくしゃみをした。

「ここでなにしてるの?」

 すると、新城の声がした。
 驚いているような、呆れているような、そんな表情をしてそこに立っている。

「新城を待ってた」
「まあ、そんなことだろうと思ったけど」

 新城はそう言いながら、怜依に小さなペットボトルを差し出した。どうやら自販機で買ってきてくれたらしい。

「……ありがとう」

 受け取ると、それが温かいことに気付いた。
 ホットココア。もう、それが自販機に並ぶ時期になっていたなんて。
 咲乃の時間が止まっていても、世界は変わらず時間が過ぎていることを残酷に感じた。
 新城は缶を開け、コーヒーを飲んでいる。
 呑気なものだ。こっちはそれどころではないのに。
 だけど、せっかくの温かい飲み物が冷えてしまってはもったいない。怜依は本題に入る前にココアを飲む。冷え始めていた身体に、ココアが沁みる。
 怜依がペットボトルから口を離すと、新城は歩き始めた。

「どこ行くの」

 逃げられると感じた怜依は、慌てて引き留めた。

「立ち話はしんどいでしょ」

 新城がそう言って建物に入っていくと、怜依はその背中を追いかけた。
 二人は人が少ない場所を探し、三人掛けのソファを見つけた。一人分の隙間を作って、両端に怜依と新城は座る。

「昨日の今日で俺を待ってたってことは、お手上げってこと?」
「ちが……」

 それを否定しようとしたけれど、結局答えを聞こうとしていたことに変わりはない。
 怜依は違うと言い切れなかった。

「……今日、学校で足立花那と、香田織寧に話を聞いてきた」
「へえ。なにかわかった?」

 わかったこともあれば、わからなくなったこともある。だから、できるなら、新城が知っていることをすべて話してほしい。
 でも、咲乃との約束がある以上、きっと新城は話さない。
 だったら、一番聞きたいことだけを聞くしかない。

「……二人が、お互いに好きってわけじゃないってことがわかった」

 新城の言葉が止まる。
 この反応は、肯定と受け取っていいのだろうか。
 でも、そうだとしたら、咲乃の反応の説明がつかない。あんなにも、新城のことが好きなように振る舞っていた理由。別れたくないと言った理由。
 いや、違う。あれは全部、演技だったんだ。

「……なんで、そんな嘘をついたの」

 まだ、新城は答えない。
 咲乃との約束を、ここまで誠実に守るような人だなんて、知らなかった。

「咲乃が起きたら、一緒に怒られるから。お願い、新城。全部話して」

 新城はまっすぐ前を見つめたまま、コーヒーを飲む。そしてズボンのポケットからスマホを取り出した。

「……和多瀬は、白雪のこれが誰のことを言っているのか、わかった?」

 新城からスマホを借りる。”これ”は、咲乃の裏アカ。

「昨日はすぐに切り上げたけど、今度はちゃんと、見てあげて」

 新城に言われて、遡れるだけ遡った。一番古い投稿は、去年の七月のものだった。そこから上にスクロールして、投稿を読み進める。

『一緒にいたいからって理由で高校決めちゃった』
『喜んでくれたってことは、迷惑じゃないってことだよね』
『絶対受かろう』
『いつから、一緒じゃないと不安を感じるようになったんだろ』
『ずっと隣にいてもいいって言ってもらえるように、頑張ろう』

 ああ、やっぱり。これは、私のことを言っていたんだ。
 咲乃が苦しんでいたことに気付けなかった自分を情けなく思う。

「白雪は、和多瀬に依存してたんだ」
「依存?」
「そう。和多瀬がいないと生きてけないってやつ」

 それは、私のほうだ。新城を選んだ咲乃は、違わないか。
 そう思ったけど、話の腰を折るわけにはいかない。
 怜依は反論したい思いを堪え、咲乃が残し続けた本音を見ていく。
 投稿は、七月から一気に今年の四月に飛んだ。

『いっぱい「好き」って言ってもらってるのに、私に言われてるわけじゃない気がしてくる』
『私が私をキライだから、信じたいのに信じれない』
『こんなにいっぱい暗いこと考えてるって知られたら、嫌われちゃう』
『でも、これも私』
『本当の私を知っても、嫌わないでくれるかな……なんて、都合よすぎるよね』
『こんな私、消えちゃえばいいのに』
『消えたい』

 その言葉を見た瞬間、手が止まった。
 咲乃がこんなに追い詰められていたなんて、知らなかった。あの笑顔の下で、たくさん泣いていたなんて。
 新城が『気付いてあげて』と言っていた理由を、今、理解した。

「……新城は、咲乃が苦しんでることを知ってたの?」

 画面から目を逸らしたくて新城を見ると、ちょうど缶コーヒーを飲み切ったようだった。

「んー……俺と白雪が出会ったきっかけは聞いてる?」
「駅で輩に絡まれてたところを助けてもらったって」
「うん、そう。駅で会った」

 本当なのかわからずに言うと、新城は頷いた。
 全部がウソのように思えていた中で、真実もちゃんとあったことに安心した。
 
「そのとき俺、困ってるのが白雪って気付かずに助けたんだよね。で、ナンパ野郎を追いやってから、そこにいたのが”天使の咲乃”ってことに気付いて。いい子ちゃんがこんなところでなにしてんのって言ったら、白雪は困ったような顔をした」

 怜依は、咲乃と花那が顔を合わせたときのことを思い出した。
 あのとき、花那はなんと言っていただろうか。あれが、花那の存在に怯えたわけではなく、言葉に反応していたのだとしたら。
 怜依が何度も言ってきた言葉が、咲乃にとって呪いになっていたことになる。
 まさか、誉め言葉で言っていたものが、咲乃を苦しめていたなんて、思いもしなかった。

「……タイミングが、悪かったんだと思う。ほら、上手く仮面が被れないタイミングってあるでしょ。そのときの白雪は、ちょうどそれだったんだ。で、いろいろ話してくうちに、白雪は、いい子でいることがつらいって零したんだ」

 言葉が出なかった。
 もうこれ以上聞きたくないとも思うのに、知らなければならないという義務感が、それをさせなかった。

「和多瀬、今どこまで読んだ?」
「え? あ、えっと、まだ四月……」
「もうちょい読み進めて」

 言われるがままに、スクロールする。

『またやっちゃった』
『どうしても試しちゃう』
『嫌われるようなことをしてるのに、笑って許してくれることに安心して、なにしてるんだろう』
『くだらない承認欲求のために好きな人を傷付ける私、本当に最低』

 怜依には、咲乃に傷付けられたという心当たりはなかった。だから、この言葉は違和感しかない。

「白雪は、和多瀬に嫌われるのを怖がってて。嫌われたら世界が終わるって言うくらい、和多瀬に依存してた」
「私はそれでもよかったのに……」
「和多瀬がよくても、白雪はよくなかったんだよ」

 そう言われて、怜依は言い返せなかった。
 文字ではあるけれど、咲乃が苦しんでいたことを知った今、それは一方通行な思いでしかないとわかってしまった。

「で、和多瀬だけに甘えるから苦しいんだってことで、俺との恋人ごっこを提案したってわけ」

 新城の話は唐突に完結した。怜依は呆気に取られてしまう。
 まだ、もっと話すことがあるはずだ。
 新城からおままごとのような関係を始めた理由とか。新城が咲乃の裏アカを知ってる理由とか。
 まだ、足りない。

「俺の話は終わりだよ、和多瀬。あとは白雪と直接話して」

 新城は言いながら、手を組んで身体を伸ばす。
 そう言われてしまっては、問い詰めることもできない。

「全部読んだ?」
「……まだ」

 新城が話してくれないなら、残された手がかりはこの投稿しかない。
 続きを読もうとスマホに目をやると、画面が真っ暗になっていた。新城に渡してロックを外してもらうと、最新の投稿に戻っていた。
 もう一度すべて遡るのは時間がかかりそうだ。
 一番知りたいのは、咲乃が誰に別れを迫られていたのか。
 それがわかりそうな九月まで戻した。

『私に彼氏ができたって言ったら、怒るかな』
『今度こそ、嫌われる?』
『でも、独り立ちするいいチャンス』
『強くなれるかな』
『ううん、強くなりたい』

 咲乃の言う、怜依を試すとはどういうことなのか、理解した。
 そして、咲乃が別れたくないと言っていた理由も。
 新城のことが好きだから、別れたくないって言ったわけじゃなかったんだ。

『最近、話せてない』
『やっぱり、間違ったかな』
『話せないの、しんどい』
『会いたい』
『でも、いつか、会うこともできなくなる日が来るだろうし』
『そのための時間なんだって思うことにしよう』

 怜依が咲乃を避けていたことで、咲乃を苦しめていたなんて。
 わかっていたら、素直に寂しいって言ったのに。
 そう思う反面、咲乃も一緒にいたいと思ってくれていたことに安心しているところもあった。

『私があの人を傷つけてるって言われた』
『彼氏なんて作ったから、いっぱい傷つけてるんだって』
『私もそう思う』
『別れろって言われた』
『それが正解なんだろうけど、まだ、それは選べない』
『まだ、私は強くなれてない』

 手が、止まった。
 そうだ、どうして忘れていたんだろう。
 咲乃は、誰かに新城との別れを迫られていたんだ。
 でもこれを見るに、それを言った人物は怜依が傷ついているからという理由で、新城と別れるように言っている。
 パズルのピースは揃っている。
 だけど、認めたくなくて、完成させられない。
 だって、それは、あまりにも残酷すぎる。

「和多瀬?」

 新城の心配するような声で、怜依は画面から目を逸らす。
 新城を捉えた瞳は、小さく揺れ動いている。

「めちゃくちゃ顔色悪いけど、大丈夫?」

 大丈夫なわけがない。

「ねえ、新城……咲乃を階段から落としたのって……」

 嫌だ、言いたくない。
 言ったら、認めたことになる。
 だけどもう、その可能性しか考えられない。

「……佑真なの?」

 新城は、応えなかった。
 容赦ない蝉時雨。
 日傘を差していても、体感温度が変わらない。こんな中歩くなんて、バカな選択をした。
 咲乃は、図書館を離れたことを後悔しながら、足を進める。
 駅の前を通りかかったとき、自販機を見つけて、駅に立ち寄った。
 水を買ってベンチに座ると、水を飲む。
 今年何度目かの、生き返るという感覚。去年よりも暑い夏は、嫌になってしまう。
 でも、去年よりは怜依とたくさん過ごすことができて、満足だ。
 スマホに残された怜依との思い出を見返す咲乃は、笑みを零す。
 カフェ巡り、夏祭り、花火、海。
 怜依は写真が苦手だけど、一緒であれば、写真を撮らせてくれる。だから、怜依の写真には、いつも自分が写っている。
 ぎこちない笑みを浮かべる怜依と、幸せそうに笑う自分。
 なんだか、スマホにしか幸せな時間が存在していないような気がしてきて、咲乃は自分の姿が消えるように、写真を拡大した。
 ずっと、怜依の笑顔だけが見ていたい。独り占めしていたい。
 そう思うのは、さっき、図書館で佑真と会い、怜依が佑真を優先したからだろう。
 同じ学年でなければわからない話があるのは、わかっている。だけど、自分といながら、知らない話をされるのは、面白くなかった。
 だから、用があるなんて嘘をついて、逃げてきた。
 私だけの、怜依ちゃんなのに。
 画面の仲の怜依を見つめながら、そんなことを思った自分を、恐ろしく感じた。

「ねね、君、ヒマ?」

 すると、見知らぬ男が二人、咲乃に声をかけた。
 咲乃は戸惑いの表情を浮かべて、二人を見る。

「これからカラオケ行くんだけどさ、一緒にどう?」

 彼らは少し年上に見える。前に立たれてしまい、逃げ場がない。
 こんなことになるなら、休憩しなければよかった。いや、逃げてこなければよかった。

「俺たちの奢りだし、遠慮しなくていいよ」
「ほら」

 男たちは咲乃の困惑など気にする様子を見せず、強引に手を伸ばした。
 咄嗟に手を引っ込めるけど、一人が咲乃の手首を掴む。抵抗してみても、男の力に敵うはずもなく、咲乃は無理矢理立たされる。

「あの、私、行かない……」

 咲乃が言っても、彼らは聞く耳を持たない。
 嫌だ、怖い、助けて。
 そう思っているのに、声が上手く出ない。
 進まないように足を踏ん張るも、引っ張られてしまっては、嫌でも足が前に出てしまう。
 助けて、怜依ちゃん。

「……なんだよ」

 そのとき、男が足を止めた。
 咲乃ではない、誰かに声をかけたらしい。
 誰がそこにいるのか、確かめようにも、彼らの背中が大きいせいで見えない。

「その子、嫌がってるように見えるけど」

 新たな男の声に、咲乃はますます怯えてしまう。
 今日は怜依といたのに、厄日だ。ほんの少し前の、癒しの時間に戻してほしい。

「お前には関係ないだろ」
「ヒーロー気取りかよ」

 男たちは、鼻で笑う。
 咲乃は少しだけ移動して、声をかけてきた人物を確認する。
 男越しに、目が合った。
 その綺麗な銀髪は、見たことがある。
 どこで見たんだっけ。

「……咲乃?」

 名前を呼ばれて、肩が跳ねる。
 やっぱり、この人と会ったことがあるんだ。
 でも、どこで? 私は、どこで銀髪のイケメンさんと出会ったの?
 その答えは気になったけど、それを知るよりも、彼らから逃げるほうが先だ。
 男の力が緩んでいる隙に、咲乃は彼の元に逃げる。彼の背中に隠れて、男たちと距離をとる。
 すると、男たちの舌打ちが聞こえた。

「なんだよ、男連れかよ」
「つまんねえの」

 案外あっさりと、男たちは去っていった。
 恐怖から解放されたことで、咲乃は大きく息を吐き出す。

「今日は一人? 和多瀬は?」

 彼は振り向いて言った。
 どうして、怜依の名前を知ってるのだろうと思うと同時に、咲乃は思い出した。
 この人が、怜依のクラスにいたことを。
 名前は確か、女の子たちがたくさん呼んでいた。

「……新城、隼人先輩」
「意外だな、俺の名前知ってたの?」

 前に、怜依が新城の周りで騒ぐ女子たちを睨んで、文句を言っていたから。
 なんて、本人に言えるはずもなく。
 咲乃は小さく頷いた。

「それで、いい子の咲乃ちゃんはこんなところでなにをしてたの?」

 いい子。
 いつもなら笑って流しているその言葉が、流せなかった。
 どうして、笑顔が作れない?
 はやく、ちゃんと応えないと変に思われる。
 怜依と同じクラスのこの人に気付かれたら、全部怜依にバレてしまう。
 そうやって焦るほど、上手く取り繕えなくなっていった。

「どした、大丈夫?」

 咲乃よりも背が高い新城は、心配そうに覗き込んでくる。綺麗な銀髪が揺れ動き、新城と目が合った。
 こんな優しい眼差しを、怜依以外から向けられたのは、いつぶりだろう。
 そのせいか、大丈夫じゃないと認めてしまい、視界が滲んだ。

「ちょ、え?」

 新城が戸惑いの声を出したことで、咲乃は自分が泣いていることに気付いた。
 止めようと思えば思うほど、涙が溢れ出る。

「……ごめんね」

 新城は小さな声で呟くと、咲乃の手を引いた。
 さっきと同様に手を引っ張られているのに、不思議と嫌な感じはしない。
 新城に連れてこられたのは、駅の目の前にある、オブジェの傍に設置されたベンチ。
 人目につくけれど、滅多に人が座らないような場所だ。
 咲乃が泣いた理由が気になるはずなのに、新城は黙って隣にいる。

「……聞かないんですか」
「ん? 話したいなら、聞くよ」

 新城の声は優しかった。
 どうして怜依は、新城のことを嫌っていたのだろう。
 怜依のことがわからなくなるほどに、その優しさは暖かかった。

「どうして、そんなに優しいんですか?」
「……笑わない?」

 少し恥ずかしそうにする新城を見て、咲乃は頷いた。

「俺、姉がいてさ。弱ってる女の子に優しくできない男はクソだって教え込まれたんだよね」

 学校ではたくさんの女子に囲まれ、騒がれているイケメンの裏側。
 それはあまりにも可愛らしくて、咲乃は思わず笑ってしまった。

「笑わないでって言ったのに」

 不服そうにする新城に、ますます笑ってしまう。
 だけど、次に気付いたときには、新城は柔らかく微笑んでいた。
 女子にもてはやされるだけあって、その破壊力は計り知れない。咲乃は、思わず目を逸らす。

「今の、誰にもヒミツね。特に和多瀬。アイツに知られたら、殺されそうだし」

 新城は立ち上がりながら言った。
 一人になることに対して不安を抱くが、新城を引き留めていいのか、迷った。
 迷惑かもしれない。そもそも、引き留めてどうする?
 でも、この人は話を聞いてくれるって。
 咲乃が迷っていると、新城が振り向いた。
 目が合ったことで、考えていることがすべて新城に伝わってしまったような気がした。
 そして、新城の優しさに甘えたくなってしまった。
 改めて新城を見ると、新城は「ん?」と柔らかい表情を浮かべる。

「……先輩は、いい子って褒め言葉だと思いますか?」
「まあ……普通はそうでしょ。違うの?」

 咲乃の質問に答えながら、また座った。
 やっぱりこの人は、ちゃんと話を聞いてくれる。
 それに安心して、咲乃は続きを話していく。

「昔は、嬉しかったんです。怜依ちゃんにいい子だねって言われるのが。それが自信にもなっていました。でも……」

 思い出すのは、小学六年生のときのこと。
 怜依が卒業した学校でも、上手くやっていけると思っていた。
 だけど、実際は違った。
 織寧がシャーペンをこっそり持ってきたときのこと。

『シャーペンは持ってきちゃダメなんだよ』

 正義感の塊のような存在になっていた咲乃は、当然のごとく指摘した。
 その途端、織寧の表情が歪んだ。

『……咲乃ちゃんって、いい子だよね』

 怜依にたくさん言われた言葉と同じもの。
 そのはずなのに、織寧の表情は咲乃を拒絶していたことで、それが褒め言葉として言われたのではないのだと感じた。
 自分は間違っていないのに、間違っているようにされてしまう空気感。
 あれは、今でも忘れられない。

「……いい子でいることが、常にいいこととは限らない」

 今なら、自分が楽しい空気に水を差したんだとわかる。
 たしかに、咲乃は正しかった。だけど、伝え方が正しかったとは思えない。
 だから、あのときの自分は間違っていたんだと、今でも思う。

「じゃあ、いい子って言われるのは嫌なんだ?」
「……怜依ちゃんに言われるのは、嫌じゃないです。怜依ちゃんは、褒め言葉として使ってくれるから」

 そう語る咲乃は、浮かない顔をしている。
 言葉と表情が、まるで合っていない。

「でも、いつ、手のひら返しをされるのか、わからなくて。私は、それが怖いんです」

 かつて、仲良くしていた織寧に、拒絶の眼を向けられたように。
 怜依も、咲乃を拒絶するかもしれない。
 いつか、その日が来るかもしれない。
 何度、怜依に好きだと言われても、その不安が拭えなかった。

「和多瀬が君を嫌うなんて、ありえないと思うけど」

 他人の言葉なんて、信用できない。
 だけど、勝手に頼って、否定するなんてできなくて、咲乃は曖昧な相槌を打つ。

「……怜依ちゃんは、いつも、なんでも笑って許してくれるんです。だから私、試すようなことばっかりしちゃって」

 どこまでだったら、許してくれる? これは? こんなことしたら、嫌いになる?
 そうやって、怜依に嫌われるラインを探している。
 そんな自分が、ずっと嫌いだ。

「私が怜依ちゃんに嫌われたのは、いっぱい、怜依ちゃんに迷惑をかけたからなんだって、理由がほしくて」

 それでも、怜依はまだ、咲乃を嫌っていない。
 ときどき佑真を優先することもあるけど、なによりも自分を優先してくれる。
 そのことに優越感を覚えている自分もまた、嫌いだった。

「随分……自分のことが嫌いなんだね」
「……嫌いですよ。怜依ちゃんが好きだって言ってくれる白雪咲乃を演じるようになったときから。自分のことなんて、大嫌い」

 咲乃の強い瞳で、遠くを見つめる。
 新城はその横顔から目が離せない。
「そんな……」

 新城はその続きを言わない。
 そんな、なんだろう。
 言葉を失ったのだろうか。それとも、そんなことで、と呆れているのだろうか。
 きっと、呆れている。自分でも、こんな話をされれば、似たような反応になるだろうから。
 そんなこと。咲乃が気にしていることは、他人からしてみれば、些細なこと。
 たった一度、悪いように言われただけ。友達に嫌われるのが怖いのは、私が弱いだけ。
 そんなこと、わかってる。
 わかっているけど、どうしようもない。
 誰もが気にしないようなことが、ずっと心に刺さったままで。織寧もきっと、あのときのやり取りを覚えていない。だから、あの翌日、なにもなかったかのように笑顔で挨拶をしてきた。
 それも、咲乃にとっては恐ろしかった。こうして笑っているけれど、いつまた、織寧にあの眼を向けられるのか。それに怯える日々を過ごしていた。
 嫌なら、苦しいなら、離れればいい。
 そう思ったけど、織寧との関係を切ったとして、怜依に尋ねられたとき、上手く説明できる自信がなかった。
 だから、どう接するのが正しいのかわからないのに、未だに織寧から離れることができない。
 織寧から“咲乃ちゃん”と呼ばれなくなったことに気付きながらも、ただ近くにいる。
 居心地は悪い。でも、怜依に怪しまれないようにするために、踏み込めない相手と友達のフリをする。
 これもきっと、新城には理解されないだろう。
 言ったところで、もう一度軽い言葉で片付けられてしまう。わかったフリをして、諭される。
 これなら、言わなきゃよかった。
 咲乃は新城の言葉に甘えたことを、後悔した。

「……大したことないのに、相談しちゃってごめんなさい。このことは、忘れてください」

 もう、この場から逃げてしまいたかった。
 だけど、新城の眼は逃がしてくれそうにない。心配しているのか、哀れんでいるのかわからないけれど、すべてを見透かすような瞳を向けられ、居心地が悪い。

「俺が忘れたら、どうなるの」
「どうって、別に……SNSの鍵アカで壁打ちみたいに本音を言うだけです」

 新城の顔は、同情しているように見えた。
 私を、可哀想だと思っている?
 だとしたら、ますます忘れてほしい。決して、哀れんでほしいわけではない。

「和多瀬に嫌われないように気を張って、また、今日みたいに限界まで我慢するの?」
「それは……」

 言い返せなかった。
 でも、わかったように言われて、ムカついた。

「俺に吐き出せば?」
「え……?」

 そんなこと辞めなよ、ムダだよって言われるのだと思っていたから、間抜けな声が出た。
 咲乃が困惑しているのに、新城はスマホを取り出して、操作している。

「一人で抱えるから、爆発するんだよ。だったら、誰かと共有すればいい」

 新城が言っていることが正しいとして。
 なぜ、新城がその役を申し出たのか。
 咲乃はそれがわからなかった。

「といっても、急に他人に言うのは難しいだろうから、まずはそのアカを教えて?」

 新城の柔らかい声に、自然と従っている自分がいた。
 教えても大丈夫だと判断したのはきっと、この人は否定してこないだろうという、漠然とした信頼感があったからだろう。

「……どうして、先輩はここまでしてくれるんですか?」

 新城からのフォローリクエストを許可しながら、尋ねる。

「んー……君が、姉と重なったから、かな」

 スマホから顔を上げると、新城は咲乃を見ていた。だけど、目が合っているように感じない。新城が、咲乃を通して誰かを見ているような気がした。
 新城を紳士な男に育てたであろう、新城の姉。
 話を聞いたとき、強い女性をイメージした。
 そんな彼女が、弱さの塊である自分と重なるなんて、ありえない。

「……姉は、恋人に依存気味だったらしくてさ。彼氏と別れてから、心を壊しちゃったんだよね」

 新城は話しにくそうにしながらも、教えてくれた。それだけ、咲乃の顔に気になって仕方ないと書いてあったからだ。
 咲乃は話させてしまったことに対して申し訳なく思いつつ、自分もその結末を迎える予感がして、恐ろしく思った。
 どんな言葉を返せばいい?
 悩んでいる間に、沈黙が流れる。

「まあ、そんなわけで、また誰かが自分を見失ってしまうのは見たくないなって思ったんだ。俺のエゴに付き合わせて、ごめんね?」

 咲乃は首を横に振ることしかできない。

「……あ」

 まだ言葉に迷っていたら、新城がなにかを思い出したような声を漏らした。
 その表情は、悪いことを考えているように見える。

「俺が急に君と関わるようになったら、和多瀬、怒るかな」

 心配ではなく、イタズラな顔。
 新城が楽しそうにするから、重く捉えているのがバカバカしく思えてくる。

「絶対、怒ると思います。だって、怜依ちゃんは先輩のこと」

 嫌いだから。
 それを正直に言っていいわけがないと、直前になって気付いた。
 でも、笑っているところを見るに、新城はそれに気付いているのだと思った。

「いっそのこと、付き合ってるフリしてみる?」
「え……」
「試してみようよ。和多瀬がどんな反応をするのか」

 そんなの、試さなくてもわかる。絶対嫌がるに決まっている。嫌がって、今度こそ嫌われて、離れていく。
 それがわかっていて、新城の提案に乗ることなんてできない。

「あとはまあ、和多瀬から卒業する練習」

 それを言うとき、新城は少しだけ真剣な眼をした。
 どうやら、全部おふざけで言っていたわけではないらしい。
 怜依から卒業。そんなの、永遠にできなくていい。
 だけど、このまま偽り続けていたら、そのうち限界が来て、新城が言う通り、壊れてしまうかもしれない。
 それも、怖かった。

「……でも私、先輩のこと好きなフリなんてできませんよ」
「そんなの簡単だよ。俺を和多瀬だと思えばいい。和多瀬に甘えるみたいに、俺に甘えてみ?」

 本当に、いいのかな。だって、怜依ちゃんに甘えるみたいにって、私、迷惑かけるかもしれない。そしたら、新城先輩だって嫌になって、離れていくでしょう?
 咲乃が不安に飲み込まれそうになっていると、新城はそっと咲乃の手を握った。新城の大きな手は、咲乃の手を包み込み、その温もりに安心した。

「大丈夫。俺は、君が要らないって言うまで、絶対に離れないよ」

 新城の言葉は強かった。
 それをまるごと信じてしまうほど、純粋ではない。だけど、信じたいと思った。

「……お願い、します」
「うん。よろしくね、白雪」

 新城は優しく微笑んだ。
 最初に“咲乃ちゃん”と呼んでいたはずなのに、今は苗字。
 これが、新城なりの距離の取り方だろうか。必要以上に近寄らない、という。
 これが新城の罠でも、選んだのは私なんだと思う覚悟ができていただけに、肩透かしを食らった気分だ。
 もしかすると、新城は怜依が言うほど、遊んでいないのかもしれない。
 新城に包まれた自分の手を見つめながら、そんなことを思った。
 新学期が始まるというのに、咲乃は寝不足だった。
 今日こそ、怜依に新城のことを話す。
 それを考えると、緊張と恐怖で上手く寝付けなかった。
 重たい身体を動かし、カーテンを開ける。すると、スマホにメッセージが届いた音がした。
 もしかして、怜依ちゃん?

『おはよう、白雪』

 新城からのDMだった。
 浮かれた気持ちが、一気に萎む。新城に失礼な反応だな、なんて冷静に考えながら、返信する。

『おはようございます』
『今日、一緒に学校行く?』

 手が止まる。
 新城と登校したら。そこを、怜依に見られたら。
 自分が話すよりも、ショックを与えてしまうかもしれない。

『今日は怜依ちゃんと行きます』
『了解。何時くらいに着きそう?』

 準備をする時間、怜依の家に向かう時間、そこから学校までかかる時間。ざっと見積もれば、今から1時間後くらいになりそうだ。

『8時過ぎくらいになると思います』
『わかった。それに合わせて行くから』

 新城のメッセージは、それで終わった。
 合わせてって、どうして? もしかして、怜依ちゃんと鉢合わせるつもり?
 話すことすら怖いのに、一緒にいるところを見せるなんて。
 そんなの、できるわけがない。

『どうするかは、白雪に任せるよ』

 咲乃が悩んでいるのを見透かしたようなタイミングで、追いメッセージが届いた。
 新城に声をかけるのも、かけないのも、咲乃次第。
 こんな雑に選択を迫られるなんて、思っていなかった。
 しかし悩んでいては、約束の時間に遅れてしまう。
 咲乃は考えるのをやめて、アプリを切り替えた。メッセージアプリを開き、怜依とのトークルームを開く。
 怜依に送るメッセージを打っていくが、どうにも納得がいかない。書いては消して、を繰り返してしまう。
 さっきまで新城とやり取りしていたことで、テンション感が迷子になっているらしい。
 一度、本音を吐き出したほうがいいのかもしれない。そう思って、アプリを切り替える。

『私に彼氏ができたって言ったら、怒るかな』
『今度こそ、嫌われる?』
『でも、独り立ちするいいチャンス』
『強くなれるかな』
『ううん、強くなりたい』

 一気に自分の中に溜まっていた言葉を文字にしたことで、少し冷静になった。
 そういえば、先輩も見れるんだっけ。
 でも、これを消したら、自分の言葉をなかったことにしてしまう。それは、したくなかった。
 ひとまず新城のことを考えるのをやめて、今一度、メッセージアプリを開く。
 私は、怜依ちゃんが好きな白雪咲乃。明るくて、優しい子。
 深呼吸をしながら、自分に言い聞かせた。

『怜依ちゃん、おはよう! 今日から学校だね!』

 大丈夫、ちゃんと白雪咲乃になれている。
 その文字列を見て、そう感じた。
 すると、怜依からスタンプが送られてきた。怜依が好きでよく使っている、猫のスタンプ。猫っぽい怜依によく似ていて、可愛らしいスタンプだ。
 それを見て、ようやく表情が緩んだ気がした。

『30分くらいしたら、怜依ちゃんの家に行くね!』

 それを送ると、準備を始めた。
 顔を洗って、制服に着替えると、髪の毛を整える。今日は綺麗に内巻きができて、少し気分が上がる。
 怜依には気付かれない程度に、メイクを施すと、自然と口角が上がった。
 うん、ちゃんと、白雪咲乃だ。

「咲乃、今日はご飯食べる?」

 カバンを持って部屋を出ると、食器を洗っていた千早が聞いてきた。
 咲乃は壁に掛けられた時計に目をやる。怜依との待ち合わせ時間に間に合わせるには、あと十分で出なければならない。

「んー……野菜ジュースだけでいいかな」
「また? しっかりと朝ごはん食べないと、元気出ないよ?」
「……わかってる」

 咲乃は不満そうな顔をしつつ、千早から紙パックを受け取る。
 それ以上の小言は聞きたくなくて、すぐに紙パックを空にした。

「行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 千早の明るい声に見送られながら、玄関を開ける。
 空はどこまでも高く、青い。
 九月になって、すっかり秋めいてくると思っていたのに、まだ全然暑い。
 こんな中歩いて行くなんて憂鬱だ。でも、もうすぐ怜依に会える。
 その期待を胸に、咲乃は日向に出た。
 何年も通った、怜依の家までの道。
 今日はしっぽの短い猫とすれ違ったから、いい日かも。
 怜依の家に近付くにつれて、足が軽くなっていく。
 そして、着いたと同時に、玄関のドアが開いた。
 顔を出したのは、怜依だ。

「おはよ、怜依ちゃん」

 挨拶をしたのに、怜依は固まっている。

「怜依ちゃん?」
「ごめん、咲乃が可愛くて、別世界に行ってた」

 その返しは、いつもの怜依だった。
 咲乃は思わず笑みをこぼす。

「もう、怜依ちゃんったら。早く学校行こう、遅れちゃう」

 咲乃は怜依の背中を押す。
 ある程度進むと、怜依の背中から手を離した。
 新城とのことを話すなら、今だ。
 そう心に決めて、怜依の隣に立つ。

「怜依ちゃん、宿題終わった?」
「……一応?」
「すごい! 一週間前はいっぱい残ってたのに」

 咲乃の言葉に、怜依が気まずそうな顔をしたが、目を逸らす。
 言うなら、今。疑われないように、私は先輩が好きなんだと自分に言い聞かせる。

「怜依ちゃん、あのね、私……彼氏ができたの」
「……は?」

 怜依は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
 予想通りと言うべきか、期待通りと言うべきか。
 怜依が驚いてくれたことに、喜びが隠せない。
 それから、相手が新城であることを伝えたときも、怜依は想像通りの反応をした。
 だけど、別れろとは言わなかった。ただぎこちない笑顔で「よかったね」と、それだけ。
 怜依がそんなことを言うなんて、思わなかった。もっと嫌がって、別れなよって言うだろうって。
 でも実際は、そんなことなくて。
 咲乃は身勝手にも、ショックを受けていることに気付いた。自分で蒔いた種なのに。
 それでも、ここで喜ばないのは、おかしい話。
 咲乃はできるだけ自然に笑って見せた。
 それから学校に着き、佑真と合流すると、新城が昇降口にいることに気付いた。
 できることなら、怜依の前で新城の隣に立つことはしたくなかった。きっと、ボロが出るから。
 でも、今こうして目の前にいて、無視をするほうが怪しまれる。
 そう思った咲乃は、新城を呼ぶ。

「新城先輩!」

 咲乃が呼ぶと、新城は咲乃を見つけた。

「おはようございます」
「いや、おはようだけど……いいの?」

 新城は怜依に視線をやる。
 怜依は呆然と、そこに立っている。
 怜依がどんなふうに感じているのか、手に取るようにわかる。
 咲乃だって、怜依よりも新城を選ぶなんてこと、したくはなかった。

「……先輩のこと、無視できないですから。靴、履き替えてきますね」

 咲乃はそう言うと、一年の下駄箱に向かった。中靴に履き替えると、新城の元に戻る。
 怜依はまだ、動きそうにない。

「和多瀬に言ったんだ?」

 新城は欠伸を一つする。
 そんなに眠そうにするなら、無理に来なくてもよかったのに。
 そんな冷たいことを考えてしまう。

「……言いました」
「ん、そっか。お疲れ」

 新城は柔らかく微笑んだ。
 眠たそうに見えるのは、きっと気のせいではないだろう。
 なんだか、可愛らしく見えてくる。

「先輩って」
「隼人!」

 朝、弱いんですか?
 その質問は、耳によく届く高い声に掻き消された。

「おはよ、隼人」

 新城の隣に立った女子生徒を、咲乃は見たことがあるような気がした。

「花那……」

 新城は面倒そうな顔をした。
 下の名前を呼ぶなんて、随分と仲のいい人なんだろうな。でも、どうしてそんな顔をするんだろう?
 そんなことを考えていたら、花那と目が合った。
 ジロジロと見つめていたことに気付かれたのだろうか。その気まずさから、咲乃は視線を泳がせた。

「あれ? この子……そうだ、いい子のサクノちゃん。なんで隼人といるの?」

 “いい子”
 また、それ。
 いつもなら笑って流すところなのに、新城と話していたからか、上手に受け流せない。

「彼女だから」

 咲乃が戸惑っていることを察してか、新城が答えた。
 そんなに、当然のように答えるなんて、思っていなかった。
 新城に迷惑をかけていると思っていたけど、案外そんなことはないのかもしれないなんて考えていると、花那の纏う空気が変わっていることに気がついた。

「……へえ」

 さっきよりも少し低い声。
 花那は咲乃の頭の先から足先まで、じっくりと見る。値踏みされる瞬間は、いい気がしない。変な緊張感にも襲われ、咲乃は花那の顔が見れなかった。

「隼人、今度は随分とカワイイ子を選んだね」

 褒め言葉にしては、歪な表情だ。明らかに、咲乃を下に見ている。
 それに、新城に選ばれたわけでもないから、どう反応すればいいのか、わからない。
 すると、怜依が花那との間に割って入った。

「悪いけど、咲乃のほうが圧倒的に可愛いから」

 怜依の言葉は強かった。
 はっきりと言い返す怜依の背中に、咲乃は嬉しくて堪らなかった。

「あれ、いたんだ? サクノちゃんの騎士さん」

 花那の嘲笑う顔が見えるけど、怜依は応えない。
 だけど、怒っていることは、下駄箱に靴を入れる音でわかった。乱雑に入れられた靴は、お世辞にも揃っているとは言えない。

「咲乃、行こう」

 そして怜依に手を引かれ、二人はその場を離れた。
 怜依は、一切こちらを見ずに進んでいく。それどころか、咲乃がいることを忘れているのか、どんどんスピードが上がっていく。
 もう、校舎の外に出てしまう。

「怜依ちゃん、速いよ」

 外廊下に出たところで、怜依を呼び止めた。怜依の足の速さと合わず、少し呼吸が乱れる。
 呼吸を整える間、お互いになにも言わなかった。
 今さっきのことに対して、なにを言えばいい? どう感じているのが正解?
 新城と付き合うふりをしていくために、必死に頭を回転させる。

「私……新城先輩と付き合わないほうがいいのかな……」
「……咲乃は、どうしたいの?」

 怜依は優しく尋ねてくれる。
 間違っても、別れるように言う気はないらしい。
 怜依がそう言ってくれれば、すぐにでも関係を解消するのに。

「別れたくないよ。でも、私……」

 嘘で塗り固めて、その先はなにを言う? なにを、言えばいい?

「咲乃が別れたくないなら、別れなくていいよ」

 思い浮かばずにいると、怜依が先に言った。
 予想外すぎる言葉に、驚きが隠せない。

「いいの? 怜依ちゃん、イヤじゃない?」

 このまま先輩と恋人ごっこをしてても、嫌いにならない?
 怜依の目を見ると、怜依はゆっくりと目を逸らした。

「それは……だって、大好きな咲乃が新城に取られた気がして、寂しくって」

 怜依がそう感じてくれたことに安心したのか、表情筋が緩んだ気がした。

「咲乃が一番、可愛いからね」

 怜依は真剣な眼をして伝えてくれる。
 嘘偽りのない怜依の言葉で、マイナスの感情が消えていく。

「ありがとう、怜依ちゃん」

 それを口にしたときには、すっかり演技のことなんて忘れていた。
   ◇

 怜依に新城とのことを話して一週間。
 怜依からの連絡が来なくなった。
 一緒に登校することも、学校で顔を合わせることもない。
 咲乃の日常は、すっかり変わってしまった。

「咲乃、朝ご飯は?」
「……いらない」

 いつもの朝。千早の言葉。咲乃の返しだって、いつも通り。
 だけど、咲乃があまりにも暗い声で答えるから、千早は朝ご飯を食べないことに対して小言を言うことはなかった。

「咲乃、なにかあった?」
「……なんで?」

 咲乃の話したくないという気持ちが伝わったのか、千早は詳しく聞いてこない。

「……行ってきます」

 千早が戸惑っている隙に、咲乃は家を出た。
 数日前は軽い足取りで歩き進めた道。空を見る余裕だってあった。
 だけど、今はどこまでも変わらない灰色の道を見つめるだけだ。
 いよいよ、怜依に嫌われたのかもしれない。
 数えるほどしか一人で登校したことがなかったけれど、ここ数日でその回数を一気に重ねている。
 この寂しさに、慣れる日が来てしまうのだろうか。
 怜依と、同じ学校に通っているのに。
 そんなの、イヤだ。
 そう思っても、どうすればいいのかまったくわからない。

「随分と浮かない顔をしてるね」

 聞き覚えのある声が聞こえて、足が止まる。ゆっくりと視線を上げると、新城がそこにいた。
 一度家に送ってもらったことがあったけど、その一度で道を覚えていたらしい。

「……おはようございます」
「ん、おはよ」

 新城は咲乃の隣に立った。
 いつも怜依がいた、右側。
 怜依よりも背が高い新城が隣にいるのは、不思議な感覚だ。

「待ってたんですか?」
「どこかの誰かさんが見てられないくらい、落ち込んでたからね。彼氏としては放っておけないなあと思って」

 冗談なのか、本気なのかわからないトーン。
 だけど、咲乃を励まそうとしていることは確かだろう。

「ありがとう、ございます」

 そして二人は並んで歩き始めた。
 ずっと足元だけを見つめて歩いていたけれど、新城が隣にいるだけで、自然と顔が上がった。

「やっぱり、和多瀬と距離置かれたね」

 疑問形ではなく、言い切った。
 なぜ知っているのか、それは聞かなくてもわかる。
 昨夜の投稿を見たのだろう。
 咲乃は、それに応えられない。

「……あのアカウントのこと、怜依ちゃんに言わないでくださいね」
「なんで?」
「怜依ちゃんに知られたら、嫌われちゃうから」

 それ以外の理由があるのだろうかと思いながら、答える。

「白雪は、どうしてそんなに和多瀬に入れ込んでるの?」

 からかうのではなく、純粋な質問。新城は、怜依のどこがいいのか、理解できないらしい。
 そんな新城に怜依の好きなところを言ったところで、伝わらないだろう。

「……怜依ちゃんが好きだからですよ」

 だから、咲乃は納得してもらえないであろう理由に逃げた。

「だとしても、なにかきっかけとかあるでしょ」

 新城は自分が納得できる答えが返ってくるまで、諦めないつもりらしい。
 学校に着くまでの暇つぶしなら、誤魔化して、別の話題に移るけど、その様子もないから、適当にあしらうこともできない。

「……小学生のころ、私、お姉ちゃんが欲しかったんです。みんなが兄弟の話をする中で、一番憧れた存在だったから」
「それで、タイミングよく和多瀬が現れたんだ?」

 咲乃は頷く。
 同じ委員会になって、班分けも一緒になったとき、怜依に気に入られた。

『あなた、すっごく可愛いね』

 キラキラと輝かせる目は、同級生たちがアイドルのことを話す目に似ていた。
 自分がそれを向けられるとは思っていなくて、初めは戸惑った。困惑もしたし、変な人だとも思った。
 だけど、顔を合わせるたびに可愛がられて、咲乃は嬉しく感じるようになった。
 笑顔が可愛いと言われるから、たくさん笑うようになって。
 ”いいこと”をするとたくさん褒められるから、いい子を目指して。
 どこにでもいる少女が、怜依の言葉によって、怜依にとっての特別な子になっていった。

「お姉ちゃん、ね……姉ってそんなに憧れるもの?」

 実際に姉がいる新城は、理解できないと言わんばかりに呟いた。
 その表情は姉を鬱陶しく思っているようにも感じる。

「先輩は違うんですか?」
「まず、俺をいい駒としか思ってないでしょ? で、自分の思い通りにいかなかったら、俺のせいにされるでしょ? あんなの、理不尽の塊だよ」

 随分と酷い言いようだ。
 だけど、新城が姉を恨んでいるようには見えなかった。

「でもって、弱いところは絶対に見せない、強がり」

 咲乃は新城の姉が心を壊してしまったことを思い出した。
 きっと、本当に限界を迎えてしまうまで、彼女は助けを求められなかったのだろう。

「もっと俺たちに甘えてくれればいいのにって、思わない?」

 唐突に、同意を求められた。
 咲乃は怜依に甘えてほしいと思ったことはなく、反応に戸惑ってしまう。

「……ねえ、白雪。やめる?」

 新城は静かに提案した。
 やめるって、なにを?

「俺から提案しておいて、こんなこと言うのはずるいってわかってるんだけど……どんどん暗くなってく和多瀬も白雪も、見てられないから」

 新城との関係を解消すれば、すべて元通り?
 そんな簡単な話はないだろう。
 もう、元には戻れない。
 怜依だけがいればいい世界は、もう飛び出した。あとは、不格好でも、自由に飛べるようになるだけ。
 でも、まだ自力で飛べないから。

「……やめないです」

 新城は黙ってそれを受け入れる。

「あ、でも、先輩が嫌だったら」
「俺のことは気にしなくていいよ」

 そうは言うけれど、終わりを持ちかけられて、気にしないでいるなんて、不可能に近い。
 その戸惑いは、顔に現れる。

「俺が自分から首を突っ込んだことだしね。本当に気にしないで」

 咲乃は納得できなかったけど、頷くしかなかった。

   ◇

 新城とそんな会話をした放課後、一人で帰ろうとしたところを新城に呼び止められ、咲乃は新城と並んで下駄箱に向かう。

「朝もそうですけど、先輩、彼氏としてのスペック高くないですか」

 私たちは、ただの”ふり”なのに。
 人目があるから、それは言わなかった。

「最高の誉め言葉だね」

 新城は得意げに言う。
 咲乃は面白くなくて、新城から視線を逸らす。
 そのとき、怜依と目が合った。
 怜依だ。怜依が、いる。

「怜依ちゃん!」

 その喜びの勢いで、咲乃は怜依を呼んだ。
 駆け寄っても、怜依はどこにも行かない。

「ここでなにしてるの?」

 自然と、咲乃の声は明るくなる。怜依と話せることに対しての、喜びがまったく隠せていない。

「……咲乃を待ってた」
「私を待っててくれたの?」
「うん……」

 新城が言っていた、見ていられないくらい落ち込んでいる怜依を目の当たりにして、咲乃は言葉に迷う。
 すると、怜依が咲乃の手を握った。
 恐ろしいほどに冷たく、震えている。

「咲乃……一緒に帰ろ?」

 姉のように慕う怜依の、消えてしまいそうな声。
 新城が姉を強がりだと言っていた意味を、真に理解した気がした。
 この怜依を一人にしてはいけない。
 そう感じた咲乃は、振り返って新城を見る。
 新城はなにも言わないけど、自分たちの約束をなしにして、怜依を選んでもいいと言ってくれているように感じた。

「うん!」

 そして校門をくぐっても、咲乃の喜びは収まらない。

「怜依ちゃんと帰るの久しぶりで、嬉しいな」
「そうだね、私も嬉しい」

 怜依も喜んでくれている。
 怜依ちゃんも寂しいって思ってくれてたのかな。
 そう思うと、ますます嬉しくなる。
 私はまだ、いらない子じゃないんだ。
 その喜びに浸りながら怜依と話していると、ふと、怜依が表情を曇らせた。
 理由はすぐにわかった。新城の名を出したからだ。
 だけど、咲乃は気付いていないふりをしながら、会話を続ける。
 新城には触れないように。
 注意を払っているはずなのに、体育祭の練習では新城と関わることが多かったから、どうしても新城の話が出てしまう。
 こんな形で、怜依を傷付けるつもりはなかったのに。
 もう、本当に怜依といられないかもしれない。
 そんな予感がした。
 朝の登校は、当然のように別。学校で会っても、気付いているはずなのに、目を逸らされる。
 こんなの、考えなくてもわかる。
 怜依に避けられてるって。
 きっかけは、一緒に帰ったあの日だろう。咲乃が予感した終わりは、当たってしまったらしい。
 怜依との関係が終わった。
 でも、世界は変わらずに時を刻んでいる。
 咲乃が時を戻したいと願っても、止めてほしいと思っても、容赦なく進む。
 自分で蒔いた種なのだから、この結果は受け入れるしかない。
 頭ではわかっているけど、まだ心が受け止めきれない。
 眼前に広がるアスファルトのように、世界から色が消えてしまった気がする。
 隣に怜依がいれば、一気に世界は色付くのに。
 まだそう思ってしまう自分に、呆れてしまう。

「咲乃ちゃん」

 何度目かわからないため息をこぼしたとき、名前を呼ばれた。
 そこにいるのは、真剣な表情をした佑真。
 中学は一緒だったけど、家が近かったとは記憶していない。わざわざ家の近くまで来て、待ち伏せしていたのだろうか。

「おはよ、先輩」

 怜依との交流がある相手だから、咲乃は笑顔を作る。
 さっきまで無表情だったから、ちゃんと白雪咲乃になれているのか、不安になる。

「……おはよう」

 佑真は咲乃と目を合わせない。
 なにかを言いにくそうにしているのは、咲乃にもわかった。
 まさか、怜依になにかあったのだろうか。
 いや、それなら新城が教えてくれるはず。
 だったら、佑真がここにいる理由はなに?

「先輩?」

 咲乃の目を見て、また逸らす。
 思わず急かしたくなる気持ちを、必死に抑えた。

「……新城くんと別れなよ」

 もう夏も終わったというのに、一匹の蝉が懸命に鳴いているのが聞こえてきた。
 それよりも、佑真の声は小さく思えた。
 今、この人はなんて言ったの?

「怜依ちゃんのために、新城くんと別れてほしい。別れないなら、もう怜依ちゃんには近付かないで」

 一度話を始めると、抵抗心はなくなったらしい。
 佑真は真剣な眼をして言う。
 この人は、なにを見ているのだろう。
 怜依ちゃんに近付こうとしても、怜依ちゃんが避けているのが現状なのに。
 きっと、怜依が落ち込んでいる姿しか、目に映っていないのだろう。

「咲乃ちゃんのせいで、怜依ちゃんが苦しんでる」

 一気に、空気が薄くなった気がした。
 ずっと、気付いていながら、目を背けていたのに。
 今、佑真に現実を突きつけられるなんて。

「だから、どっちか選んでほしい」
「随分、勝手な選択肢だな」

 咲乃がなにも言えないでいると、別の声が答えた。
 新城の姿を見て、佑真はしまった、という表情をした。
 新城に面と向かって言う勇気はないらしい。

「……僕、先に行くね」

 佑真が去ると、咲乃は大きく息を吐き出した。
 緊張感からは解放されたはずなのに、上手く息ができている気がしない。

「大丈夫?」

 新城の優しい声に安心し、頷いた。
 だけど、佑真の言葉が頭にこびりついて、消えてくれない。
 自分のせいで、怜依が傷ついている。
 わかってはいたけど、他人に言われると罪悪感に押しつぶされそうになる。

「ねえ、白雪。今日、学校サボろっか」

 唐突な提案に驚き、新城を見ると、新城は楽しそうに笑っている。
 一瞬、咲乃を励ますために、わざと明るくしているように思った。でも、そのいたずらっ子のような顔が、演技には見えなかった。

「まだ暑いし、海でも行く?」

 そんな漫画みたいなことを言われると思っていなくて、咲乃は思わず笑ってしまう。
 前にも、こんなふうに笑わされたことがあったっけ。
 新城と話していると、重たく沈んでいく心が、一瞬で救われる。
 その居心地の良さに、いつまでも甘えていたい。
 ふと新城を見ると、柔らかい目をして咲乃の答えを待っている。
 思い切って甘えて、学校から、佑真から、逃げてしまう。
 それが微塵も悪くないと言われているようで、咲乃はその手を取りたくなった。
 だけど、どうしても怜依の存在が忘れられない。
 言葉を交わすことはなくなっても、毎日、見かける怜依。せめて姿だけでも、という気持ちがお互いに働いているのかもしれない。
 そんな中で、学校に行かなかったら。

「……学校に行かなかったら、怜依ちゃんが心配すると思うので、海はやめておきます」
「そっか」

 新城が背中を向ける間際、少し残念そうに見えたのは、気のせいだろうか。
 風船が萎んでいくように、新城の気持ちも小さくなってしまったような。

『咲乃ちゃんって、いい子だよね』

 あの日の織寧の声が、蘇る。
 すると、織寧の眼と新城の横顔が、重なった。
 私、また失敗した? 相手のことを考えず、“いい子”の選択をしてしまったの?

「先輩、あの……」

 新城の背中にかけた声は、震えていた。
 その表情も、トラウマが過ぎったこともあり、怯えている。
 振り向いた新城と、目が合う。

「そんな顔しないでよ」

 新城の声色を聞いて、怒っていないことはわかった。
 だけど、不安が消えてくれない。

「でも、私……」

 また、誰かの楽しい気持ちを壊してしまった。
 自分の発言がきっかけで空気が凍ってしまう恐ろしさを、知っているのに。
 私はまた、正しいだけの選択をした。
 自分の学習能力の低さに嫌気がさす。

「嫌なことがあっても逃げない。その選択ができたことを、誇るべきだと俺は思うけど。たとえその理由が、和多瀬だとしてもね」

 新城は柔らかく微笑んだ。
 まるで、今のままでいいと言ってもらえたような気分。
 本当に、私は私のままでいいの?
 不穏な空気にならなかったことも、こうして咲乃自身を全部肯定されたことも、嬉しすぎて、言葉にならない。

「でも、本当にいいの? アイツ、また学校でいろいろ言ってくるかもよ?」

 咲乃は佑真の表情、言葉を思い出す。
 たくさん溜め込んで、投げられた思い。
 あれをもう一度ぶつけられるのは、正直怖い。
 だけど、咲乃には大丈夫だと確信できる理由があった。

「……たぶん、大丈夫です。相田先輩も、私と同じだから」

 咲乃と同じで、怜依に嫌われたくないから。
 それだけの理由で、きっと佑真は学校では接触してこない。
 咲乃はそう確信していた。

「……そう。でも、もしなにかあったら、すぐに頼ってね。守るから」

 新城が真剣な眼差しで言うから、それが中途半端な優しさではないのだと感じた。
 私たちは、ニセモノなのに。

「ありがとうございます」

 新城には頼りすぎないようにしよう。
 そう思いながら、咲乃は笑顔を返した。

   ◆

 あの日をきっかけに、佑真から睨まれることが増えた。
 人がいない場所ですれ違えば、まだ別れないの?なんて言ってきて。
 新城には甘えないで解決しようと思っていたけど、徐々に小さなストレスが蓄積されていった。

『別れろって言われた』
『それが正解なんだろうけど、まだ、それは選べない』
『まだ、私は強くなれてない』

 いつものように、SNSに吐き出して、気持ちを整える。
 私のままでいいと言ってくれる先輩と、まだ離れたくない。
 気付けば、そんなふうに思うようになっていた。

「白雪、大丈夫?」

 佑真と会った朝以来、新城は毎日迎えに来てくれるようになった。
 それは、SNSの投稿についてだとすぐにわかった。

「大丈夫ですよ」

 強がりでもなんでもなかった。
 だけど、新城は信じてくれていないのか、心配そうな顔をやめない。

「本当に、大丈夫なんです。私には先輩が、味方がいるんだって思ったら、本当に」
「……そっか」

 新城は納得のいかない様子のまま、そうこぼした。
 どれだけ新城の存在に救われているのか、ちゃんと伝わっていないんだろうな。
 そう思うと、もどかしくて仕方なかった。
 そして校門に近くなると、そこに佑真がいることに気付いた。
 その姿を見ると、新城はすぐに敵意を向ける。それなのに、佑真は怯まない。

「先輩、少し話してきますね」

 新城が引き留めようと手を伸ばす前に、咲乃は新城から離れた。
 そして佑真の後ろをついて行くと、外の非常階段に着いた。
 二人の間に流れる沈黙は重たすぎて、咲乃には話の切り出し方がわからない。

「そろそろ、答えは出た?」

 風が葉を揺らす音が耳に届く。もう、秋がやって来るのだろうか。まだ暑いのに。
 なんて、余計なことを思いながら、佑真の質問の答えを考える。

「僕は、怜依ちゃんにずっと笑っていてほしいんだ。そのためには、咲乃ちゃんがそばにいないとダメなんだよ。わかってるでしょ?」

 そんなの、わかんないよ。
 わからないけど、咲乃の中で答えは決まっている。
 咲乃は、怜依も新城も諦めたくなかった。

「……何度言われたって、私の意思は変わらない」

 咲乃は佑真を睨む。
 予想外の反応だったからか、佑真が動揺したのが見える。

「私は、私の好きな人と過ごしたい。その願いを、先輩に邪魔される筋合いはないから」

 咲乃はそう言い切って、階段を降りていく。
 すると、佑真に左手を掴まれた。
 そんな答え、認めない。
 佑真の瞳はそう言っているようだった。
 穏やかな佑真はもういない。
 咲乃は佑真を恐ろしく思った。

「離して!」

 そして佑真の手を勢いよく振りほどくと、咲乃はバランスを崩した。

「あ……!」

 落ちる。
 咲乃も佑真もそう感じた。
 お互いに手を伸ばすけれど、空を掴んだだけ。
 佑真の絶望したような顔を見ながら、咲乃は思った。

 これは、私が怜依ちゃんを傷つけてきた罰だ。
 ごめんね、怜依ちゃん。

 そして咲乃は意識を失った。
 咲乃を階段から突き落としたのは、佑真かもしれないと気付いて、数日。
 怜依は、まだ佑真に話を聞くことができていなかった。
 咲乃を苦しめた奴を許さないと思っていたはずなのに、どれだけ時間が経っても、真実を受け止める勇気が出ない。
 だけど、いつまでも立ち止まってはいられない。
 覚悟を決めた怜依は、放課後、文系クラスの教室に向かった。
 和やかな雰囲気の中で殺気立っているから、怜依だけがこの空間に馴染んでいない。

「あれ、和多瀬さん?」

 誰もが怜依を避けてできた道を進んでいると、名前を呼ばれた。
 それによって、怜依は現実に引き戻された。
 目の前しか見えていなかった視野が広がり、お手洗いから戻ってくる莉帆の姿を見つける。

「寄田さん……」

 なにも知らない莉帆はいつも通りで、怜依は息ができた気がした。
 どうやら、とてつもない緊張感に支配されていたらしい。

「ここにいるなんて珍しいね。どうしたの?」
「えっと……」

 佑真を探している。
 正直にそう言えばいいのに、理由を聞かれたら答える自信がなくて、怜依は言葉に困った。
 そのとき、スマホにメッセージが届いた。

『咲乃が目を覚ましました』

 千早からだった。
 それを見て、怜依の中で迷いなんてなくなった。
 逸る気持ちを抑え、瞼を開いた奥から、強い眼差しが現れる。

「佑真、いる?」
「相田くんなら、今日は休みだけど……」

 怜依の雰囲気が変わったことに気付き、莉帆は少し戸惑いを見せる。
 だけど、怜依はそれに気付かない。

「そっか。ありがとう」

 怜依の目には、怜依を引き留めようとする莉帆の姿も、写っていなかった。
 怜依は踵を返して昇降口に向かう。
 その途中、銀髪が視界の端にちらついた。
 新城が窓際の席で帰り支度をしている。
 そういえば、今日は学校に来ていたんだっけ。

「新城」

 新城のそばに行き、怜依は腕を掴んだ。

「え、なに」

 唐突な出来事に、新城はなにが起きているのか理解できていなかった。
 だが、そんなものお構いなしに、怜依は新城の腕を引っ張る。

「咲乃が目を覚ました」

 すべてを理解したような顔をし、新城は席を立った。
 笑い声が響く廊下を、二人は重い顔をして進む。

「アイツとは、話した?」
「……まだ」
「そっか」

 新城はそれだけしか言わなかった。
 臆病だと呆れたり、バカにしたりすると思っていただけに、拍子抜けしてしまう。

「……なに」
「いや、バカにされると思ってたから」
「和多瀬の中で、俺はどれだけクズになってんの?」

 新城はそう言いながら、外靴に履き替える。
 きっと、新城は思っていたような人ではない。それはもう、怜依もわかっている。
 だけど、自分の不甲斐なさはなにか言われるだろうと思っていた。

「しないよ、そんなこと。俺だって、信じてた人に裏切られてたってわかっても、認められないだろうし」

 咲乃はきっと、新城のこういうところに心を許したんだろうな。
 怜依はそんなことを思いながら、中靴を靴箱に入れた。
 そして校門をくぐると、新城は右へ、怜依は左に身体を向けた。

「病院、こっちでしょ?」
「佑真を連れて行こうと思って」

 それを聞いて、新城は心底嫌そうな顔をした。

「うわ、なにそれ……超カオス空間じゃん……」

 それは、怜依にも想像できる。だから、佑真を連れていくのは今日ではなくてもいいと思う節もある。
 でも、佑真のことに気付いていながら、それを隠して咲乃と会うことは難しそうで。
 そういうわけで、たとえ地獄の時間を過ごすことになろうと、佑真を連れていくしかなかった。

「先に咲乃のところに行ってていいよ」
「いや、一緒に行くよ。で、怒られるから」

 それは、怜依にいろいろ話したことに対して言っているのだろう。
 内緒にするという約束を破らせたことを、今さらながらに申し訳なく思った。

「……ありがとう」

 謝罪の言葉が喉元まで出かかったけど、それよりもこっちのほうがふさわしいと思った。
 新城は小さく口角を上げ、佑真の家がある方向に歩き始めた。
 お互いに無言のままで、少しずつ賑やかな世界から乖離していく。
 その無言の時間が、怜依を緊張で支配していった。
 佑真の家に着き、チャイムを鳴らす指は、震えていた。

「はい」

 インターフォンの向こうから聞こえて来たのは、女性の声。

「あの、和多瀬です。佑真、いますか?」
「怜依ちゃん? ちょっと待ってね」

 そこで通話は切れ、怜依はドアから少し離れて息を吐き出した。
 だけど、まだ緊張からは解放されない。
 心臓がここにいるぞと主張していて、うるさい。

「和多瀬、大丈夫?」

 後ろに控えていた新城に声をかけられて、怜依は一人ではないことを思い出した。
 それだけで、少し気が楽になった。

「……大丈夫」

 怜依がそう返したのと同時に、ドアが開いて、佑真が姿を現した。

「怜依ちゃん、どうしたの?」

 いつものように声をかけてくる佑真。
 怜依はそれを気持ち悪いと感じた。
 まだ、隠すつもりなのだろうか。
 その苛立ちをぶつけるより先に、佑真は怜依の後ろにいる新城に気付き、一気に顔色を悪くした。

「なん、で……」
「和多瀬が、お前が犯人だって気付いたから?」

 新城が答えると、佑真は家に逃げ込むために、ドアを開けた。

「佑真!」

 だけど、怜依が佑真の腕を掴んだことで、それは叶わなかった。
 佑真の表情は酷く歪んでいく。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 責め立てる思いは、繰り返し謝る佑真にぶつけてもいいのか、怜依は迷ってしまった。
 今までの時間が、佑真に対しての同情心を煽ってくる。

「……それ、私に言うべきことじゃないよね」
「え……」
「咲乃、起きたって」

 怜依は千早とのトーク画面を、佑真に見せる。
 すると、佑真は静かに、ドアノブから手を離した。
 佑真と怜依が並び、その後ろを新城が歩く。
 咲乃が目を覚ましたという、とても嬉しいニュースを受け取ったとは思えないほど、空気が重い。

「……あの、怜依ちゃん……」

 その沈黙に、佑真が耐えきれずに怜依に声をかけるが、怜依は反応を示さない。
 佑真は視線を泳がし、そのまま俯いた。

「なんで、あんなことしたの」

 怜依の声は酷く冷たかった。
 佑真が横を向いても、怜依は前から視線を動かさない。

「あ、あんなことって……?」
「咲乃を階段から落としたんでしょ?」

 佑真のとぼけた言い草に苛立ち、怜依の声からますます抑揚がなくなる。

「ち、違う!」

 佑真が慌てて否定したことで、怜依は佑真を一瞥する。
 この期に及んで否定するなんて。
 そう思ったけど、悪あがきをしているようには見えなかった。

「落としてないんだ、本当に……」

 語尾が萎み、佑真は視線を落とす。

「……でも、僕のせいで咲乃ちゃんが怪我をしたのは、間違いない」

 佑真が、認めた。
 信じたくなかったのに。嘘だって思いたかったのに。

「僕はただ、怜依ちゃんのために」
「私のため?」

 怜依が強い声で遮ると、佑真は肩をビクつかせた。
 怜依を捉える瞳は揺れ動いていて、怜依のほうが悪いことをしているような気にさせられる。
 どうして、まだ被害者のような反応をするんだろう。
 怜依には理解できなかった。
 いろいろな感情が渦巻いて、怜依は佑真を睨む。

「私のために、咲乃に怪我させたの?」
「違う、そうじゃなくて……怜依ちゃんがずっと元気なかったから、咲乃ちゃんが戻ってきてくれたら、また笑ってくれるって思ったんだ。だから、新城くんと別れてって言ったのに、咲乃ちゃんは嫌だって言うから……」

 怜依は、佑真がなにを言っているのかわからなかった。
 いや、わかりたくなかった。
 怜依は咲乃の幸せが最優先だから、自分の欲は押さえ込んでいたけれど。
 もし。
 もし、自分の思うままに、咲乃に新城と別れるように言って、咲乃が頷かなかったら。
 自分が佑真の立場になっていたかもしれない。
 そう思うと、恐ろしくて仕方なかった。

「僕は本当に、咲乃ちゃんが怪我をすればいいなんて思ってなかったんだ」

 佑真の眼は、信じてほしいと訴えている。
 それを信じて、次はなにを願うのだろう。
 許しを乞うつもりだろうか。

「……なんで、ずっと言わなかったの?」
「それは」
「私が気付かなかったら、ずっと黙ってるつもりだった?」

 佑真の言葉を遮った怜依は、佑真を睨む。
 怜依が閉じ込めていた言葉たちは、溢れ出して止まらない。

「気付かれなければ許されるとでも思ってたの? あと、佑真、咲乃のお見舞いに来てたよね? なにを思って、あそこにいたの?」

 矢継ぎ早に言葉を並べていくうちに、怜依の声には、絶対に許さないという思いが入り込んでいった。
 それを感じ取ったのか、佑真は言葉を失っている。

「ねえ、黙ってないでなにか言ってよ、佑真」
「落ち着け、和多瀬」

 新城の声で、怜依は佑真が見えていなかったことに気付いた。
 佑真は今にも泣きそうに顔を歪めている。
 なんで、佑真がそんな表情をするの? それだけは、絶対に違うでしょ?
 怜依の中で、苛立ちは増すばかり。

「病院、着いたから」

 新城に言われて視線を上げると、咲乃が入院している病院が目の前にあった。
 怜依は大きく深呼吸をする。
 こんな気持ちで、咲乃に会いたくない。
 咲乃が目を覚ましたことに、めいいっぱい喜んでいたい。
 だけど、怒りを鎮めることが精一杯だった。
   ◇

 咲乃の病室にたどり着くと、怜依は右手でノックをする。
 ドアの向こうから聞こえて来たのは、千早の声ではなかった。
 それを聞いた瞬間、怜依は勢いよくドアを開けた。部屋には千早はいなくて、咲乃だけがいた。

「あ、怜依ちゃん!」

 咲乃は身体を起こしてベッドに座っている。それも、怜依がずっと見たかった笑顔を浮かべて。
 咲乃だ。咲乃が、本当に。
 込み上げてきた涙を隠すように、怜依は咲乃に抱き着いた。

「怜依ちゃん、苦しいよ」

 戸惑い、笑う咲乃。
 ずっと、ずっと待っていた。
 怜依はゆっくりと咲乃から離れる。
 本当に、咲乃がここにいることを確かめるように、怜依は左手で咲乃の頬に触れた。

「寝すぎだよ、咲乃……」

 咲乃は、満面の笑みを見せる。

「ごめんね、怜依ちゃん」

 怜依の言葉に、咲乃が応える。
 これは夢じゃない、現実なんだ。
 怜依はもう一度、咲乃を抱き締める。
 改めて強い力で抱き着かれながら、咲乃と新城は目が合った。

「新城先輩も来てくれたんですね」
「うん。まあ、俺だけじゃないんだけど」

 新城はそう言って、背後に視線を送った。
 最後に、佑真が病室に足を踏み入れる。
 佑真の姿を見て、咲乃の表情が固まった。

「あの……」

 佑真が声を発すると、怜依は咲乃から離れた。
 その顔には、もう喜びは残っていない。
 怜依が佑真を睨んだことで、部屋の空気は重くなる。

「相田先輩も来てくれたんだね、ありがとう」

 そんな中で、咲乃の明るい声が響く。
 声はいつもの調子だけど、咲乃は無理をしている。
 真実を知った今、それは容易にわかった。

「咲乃、思ってないことは言わなくていいよ」
「え……」

 怜依の冷たい声に、咲乃は動揺を見せる。そして、すぐに新城の顔を見た。
 咲乃の顔から、笑顔の仮面が消える。

「怜依ちゃんに、言ったんですか」
「……ごめん」

 新城は短く謝るだけで、詳しくは言わなかった。
 室内は、本格的に静寂に支配されていく。
 まだ整理がついていない怜依。どのように振る舞えばいいのかわからない咲乃。謝りたくても言い出せない佑真。そして、ひたすらに黙る新城。
 まさに状況は混沌と化している。

「……怜依ちゃんは、どこまで知ってるの?」

 ひとまず、寝ていたときの状況を把握したい咲乃が言った。

「咲乃がいつも無理をしてて、新城と付き合うふりをして、佑真に脅されてたってところまで、かな」

 それはつまり、ほとんど知っているということ。
 咲乃はますます、振る舞い方がわからなくなっていく。それどころか、顔色が悪い。

「和多瀬、ちょっと外に出よう」

 それに気付き、怜依が咲乃に声をかけるよりも先に、新城が言った。
 だけど、怜依は素直に新城の言うことに従うことはできなくて、心配そうに咲乃を見る。
 咲乃は固まって動かない。

「でも……」
「いいから、はやく」

 新城は怜依の手首を掴むと、引きずるようにして病室を出た。
 まだ咲乃と話すこと、話したいことがたくさんあるのに。

「新城、どうして」

 怜依が抗議しようとすると、新城は右手の人差指を自分の唇に当てた。
 それを見ると、思わず声を止めてしまった。

「なんで白雪が和多瀬に知られたくなかったのか、忘れた?」

 怜依は首を横に振る。
 咲乃がずっと知られたくないと思っていた理由。
 それはおそらく、怜依に嫌われたくないから。

「……でも私、咲乃のこと嫌いになんてなってない」

 咲乃の本音を知ってなお、怜依が咲乃に対してそんな感情を抱いた瞬間はない。
 だから、こうして外に連れ出されたことが納得いかない。

「和多瀬がそれを言って解決するなら、こんなことにはなってないんじゃない?」

 新城は冷静に言った。
 そう言われてしまうと、返す言葉がない。
 それでも納得いかなくて、なにか言い返そうと考えているとき、怜依は佑真が廊下にいないことに気付いた。
 佑真と咲乃が二人きりになっている。
 すぐにでも病室に戻らないといけないような気がして、怜依は踵を返すが、これもまた新城に邪魔をされた。

「もう、なんで」
「和多瀬がいたら、あの二人も話しにくいでしょ」

 さっきから、新城の正論が刺さって仕方ない。
 それもまた面白くなくて、怜依は不貞腐れた様子で壁に背中を預けている。
 すると、新城はドアを少しだけ開けた。
 入るなと言われたばかりなのに、どうしてそんなことをするのか、わからなかった。

「あの、咲乃ちゃん……本当に、ごめんなさい」

 廊下の多方面から会話が聞こえてくる中で、病室から佑真の声が聞こえた。
 新城がドアを開けたのは、二人の様子を盗み聞きするためらしい。
 それを理解して、怜依は聞き耳を立てる。

「許さない」

 十分に間を取って、咲乃の冷たい声が聞こえた。
 咲乃のことを知ってこなければ、これが本当に咲乃の声なのか、疑っていたことだろう。
 それほどに、聞いたことのない声のトーンだった。

「先輩にいろいろ言われて、本当に嫌だったし、あそこで先輩と話してなかったら、こんなことにはならなかった」

 咲乃の本音すぎる言葉。
 それを聞いて、怜依はいろいろなことを思った。
 これは、たしかに自分がいては話しにくいだろう、とか。
 いつから、こんな咲乃の本音を聞かなくなったのだろう、とか。
 自分が抱いている感情のはずなのに、この感情にどんな名前がつくのか、まったくわからない。

「……でも、許す」
「え……」

 その声を漏らしたのは、佑真だけではなかった。
 怜依も、咲乃がそう続けたのは聞き間違いだと思った。

「白雪咲乃は優しい子だから。優しさの塊みたいな子だから。私は許したくないけど、怜依ちゃんが好きな私は、先輩のこと許せる子だから」

 ああ、ここまで。
 これほどまで、私は咲乃を追い詰めていたんだ。
 咲乃が本当の声を押し殺してしまうくらい。
 そう思うと、自分が咲乃に伝えてきた言葉の重さを思い知らされてしまった。
 違うよ、咲乃。違うの。
 私は、貴方にそんな我慢をしてほしくて、貴方に伝えてきたわけじゃない。

「だから、私は」
「許さなくていいよ、咲乃」

 怜依は黙っていられず、咲乃の言葉を遮った。
 怜依が唐突に乱入したことで、咲乃と佑真は驚いて怜依を見ている。
 だけど、怜依はそんな二人を気にせず、咲乃に近寄った。

「私がどう思うかなんて、考えなくていい。咲乃は、許したくないんでしょ? だったら、許さなくていい。佑真は、それだけのことをしたんだから」

 振り向くと、佑真の後ろで文字通り頭を抱えている新城がいる。
 まだ、乱入するべきタイミングではなかったらしい。
 でも、身体が勝手に動いてしまったのだから、どうしようもない。

「でも怜依ちゃん、いいの?」

 咲乃は不安そうに怜依を見上げる。

「いいって、なにが?」
「だって、相田先輩は、怜依ちゃんの友達で……私が許さなかったら、二人は気まずくなるでしょ?」

 そこまで考えて、咲乃は許す選択をしたのか。
 どこまで、この子は自分の気持ちを無視するのだろう。
 それがまた、怜依は悲しかった。

「……そもそも、私だって佑真のこと許してないから」
「そう、なの……?」
「当然だよ。咲乃を傷付けた時点で、絶対に許さない」

 怜依のそれがとどめとなり、佑真は言葉を失っている。
 無慈悲だとしても、もう、前のように佑真と過ごすことは、怜依にはできそうになかった。
 だから、怜依は佑真には声をかけない。

「……ごめんね、咲乃ちゃん。本当に、ごめんなさい」

 この空間が耐えきれなくなったのか、佑真は頭を下げて謝ると、そのまま病室を駆け出していった。
 三人になっても、室内の空気は重たいまま。
 咲乃の目の前で佑真との縁を切るような態度を取ったのは、間違ったのかもしれない。
 これでは、咲乃が自分を責めてしまう。
 怜依は自分の感情を優先しすぎたことを後悔した。

「咲乃、ごめん」

 静かな空間に、怜依の言葉が置かれる。
 怜依に謝られると思っていなかった咲乃は、動揺を見せる。

「なんで、怜依ちゃんが謝るの……?」
「だって……全部私のせいだから」

 咲乃は小さく首を横に振った。

「違う……違うよ、怜依ちゃん……」

 咲乃の瞳が、涙で潤んでいく。
 その表情を見ていると、胸が締め付けられて仕方ない。
 咲乃にこんな顔をさせている原因は、間違いなく自分なんだ。
 そう思うと、今までのすべての言動に後悔の念を感じてしまう。

「……私が、咲乃も佑真も追い詰めた。私がもっと二人のことを見ていたら、こんなことにはならなかった」

 もっと咲乃のことをよく見ていたら。
 咲乃が本音を覆い隠して笑うことはなかった。
 もっと佑真のことをよく見ていたら。
 佑真が咲乃に意地悪を言うこともなかった。
 この悲しい事故を起きたのは、咲乃のせいでも、佑真のせいでもない。
 私のせいだ。

「だから、ごめん。今までも、たくさん苦しめてごめん」

 自分には泣く資格はない。
 そうわかっているのに、涙が頬を伝った。
 怜依は右手の甲で涙を拭う。
 すると、咲乃が怜依を抱き締めた。
 それは咲乃にしては強い力で、怜依は少し苦しかった。

「怜依ちゃんのせいじゃないよ」

 咲乃はそう言うと、怜依から離れた。
 その瞳は力強くて、目が離せない。

「絶対に、怜依ちゃんのせいじゃない」

 励ますための言葉とは少し違うように感じた。
 でも、一番の原因は私だ。
 そう言いたくても、言わせてもらえない雰囲気だ。

「これは、私が弱くって新城先輩に頼ったから起きたことなの。怜依ちゃんは、なにも悪くない」

 なにも?
 そんなわけない。
 私にだって、悪いところはあった。
 そのせいで、二人を苦しめて来たんだから。
 それを正さない限り、この悲しみは連鎖してしまう。
 だから、そんなふうに肯定しないで。

「怜依ちゃんは、私にいっぱい嬉しいことを言ってくれた。たくさん可愛がってくれた。私は、嬉しかったよ。それを、全部悪かったみたいに言わないで」

 咲乃は寂しそうに瞳を揺らす。

「お願い、怜依ちゃん。そんなに自分を責めないで?」

 ほかでもない、咲乃がそう言うから、怜依の中で罪悪感のようなものが徐々に小さくなっていった。

「……咲乃も、自分が全部悪いって思わなくてもいいからね」

 咲乃がこの言葉を受け取ってくれなかったのは、その顔を見れば容易にわかった。
 怜依の言葉に対して、こんな反応を見せたのは初めてだ。
 いつも、嬉しそうに笑っていて、それに癒されていたのに。
 もしかして、ずっと、こういう言葉は聞きたくなかった?

「咲乃……?」

 咲乃が苦しむ姿を目の当たりにして、声が震えた。
 だって、これだと、今までのすべてが間違っていたことになる。
 でも、ついさっき、咲乃は嬉しかったって。
 なにを信じて、なにを言えばいいのか、どんどんわからなくなっていく。

「……ごめん、怜依ちゃん。それは、難しい話かな」

 咲乃は困ったように笑みを浮かべた。

「どうして?」

 咲乃はすぐには答えず、視線を落とす。
 ここで聞かなかったら、いつまでも咲乃の本当の言葉を聞けない気がして、問い詰めたくなっている自分がいる。
 でも、これは急かしたってどうしようもない。
 咲乃が話したいと思えるタイミングを待たなければ。
 そうわかっているのに、無言の時間がやけに長く感じる。

「白雪、ゆっくりで大丈夫だよ」

 新城が咲乃に声をかけたことで、怜依は咲乃の顔色が悪いことに気付いた。
 怜依が無言でいたことが、咲乃にとって、圧になっていたらしい。
 新城は咲乃に寄り添うと、咲乃をベッドに座らせた。
 私は、咲乃のなにを見ているのだろう。
 これで咲乃のことが大切だなんて、笑えてくる。

「……私、怜依ちゃんといないときの自分が、好きになれないの。みんなの顔色を窺って、否定されないように振る舞って。自分でそうしているはずなのに、楽しそうにしているみんなと本当に笑えていない私を比べて、惨めに思って。そばに人がいるのに、孤独でいるような気がして。私、なにしてるんだろうって思うことも多かった」

 咲乃の表情が本当に苦しそうで、怜依は咲乃を励ます言葉を必死に考えた。
 だけど、どれも間違っているような気がして、黙って話を聞くことができない。
 すると、咲乃の大きな瞳から涙が落ちた。
 あまりにも綺麗に流れたから、怜依はそれから目が離せない。

「怜依ちゃんがたくさん好きだって言ってくれてるのに、自分を好きになれないことも苦しかった」

 自分の純粋な思いが咲乃を苦しめているなんて、知らなかった。
 笑顔の下に、それだけの涙が隠されていたなんて、知らなかった。
 私が、気付かないといけなかったのに。
 でも、後悔しているだけでは意味がない。
 咲乃が苦しんでいると気付けた今、できることを。

「……私は、どんな咲乃でも好きだよ」

 どうしてこんな薄っぺらいような言葉しか言えないんだ。
 もっと、もっと咲乃を救えるような言葉がきっと、この世には存在しているはずなのに。
 私は、それを知らない。

「ありがとう、怜依ちゃん」

 咲乃が涙を拭って微笑むから、怜依はこの言葉でも咲乃を救うことができたんだって思った。

「でもね、これは私の問題なんだ」

 だけど、違った。
 怜依の言葉では、咲乃を救うことはできない。
 そう感じる眼だ。
 いつの間に、こんなに強くなったんだろう。
 新城といたから? じゃあ、もう、私はいらない?
 そんな不安がよぎった。

「私がどう感じるかの問題なの」

 言葉だけじゃない。今、怜依にできることはなにもない。
 そう言われた気がした。
 力になりたいのに、なにもできないなんて、もどかしすぎる。

「それでね、怜依ちゃん……私が、自信を持って怜依ちゃんの隣に立てるって思えるまで、待っててくれる?」

 さっきまでの強い瞳と打って変わって、その表情には不安が滲んだ。
 それを見ていると、怜依はとんでもない勘違いをしたことに気付いた。
 信じて待つことも、重要な役目。私は、咲乃が安心して戻ってこれる居場所でいよう。
 怜依はそう思った。

「……わかった。いつまでも、待ってる」

 怜依はそっと咲乃の涙の痕に触れた。
 咲乃はくすぐったそうに笑う。
 それが本当に可愛らしくて、いつもの咲乃に見えた。

「でも、長すぎたら大人しくしてられないかも」
「ええ、そんなあ」

 戸惑いながらも、冗談だってわかっているからか、咲乃はクスクスと笑う。
 こんなふうに笑えるなら、きっと、大丈夫だ。

「……じゃあ、咲乃も起きたばっかりで休みたいだろうし、もう帰るね」

 怜依は名残惜しそうに言った。
 そして、咲乃はどこか寂しそうな表情を浮かべる。
 だけど、すぐに表情を切り替えた。

「うん、またね」

 怜依は咲乃に手を振り返し、二人を残して病室を後にした。