果たして、翌日、朝春はしっかりと体調を崩すことになった。

睡眠が足りないせいでアラームに気づかず寝坊して、朝食をとる時間もとれなかった。そのせいで血糖値はあがりきらず、高校にたどり着くころには大冒険を終えたあとくらいに疲弊していた。

「なつめっち、おはよー、って、顔色悪っ」

登校してすぐに自分の席まで来てくれた篠に驚かれ、朝春は情けない気持ちになる。

「……篠君、おはよう。ちょっと、調子悪くて……」
「わーわー、なつめっちは無理しちゃだめよ、まじで。やばかったら、すぐ保健室行きなね」
「……篠君、親みたい。でも、ありがとう」
「なつめっちの親は荷が重いっす。ま、今日は、とりあえずひとりでゆっくりしてて」

篠は哀れみの表情を浮かべ、ぽんぽんと朝春の背を軽く叩くと、すぐに朝春のもとを離れていった。あとでやってきた木澤も同じような対応をしてくれて、朝春は体調がすぐれないなか、二人に感謝する。

友達として心配はしてくれる。でも、必要以上にかまおうとしない。そのほどよい距離感がありがたかった。

月島は、始業のチャイムがなるぎりぎりに木原と時岡、あとは複数のクラスメイトの女子を引き連れて、教室に入ってきた。情けない朝春とは違って、いつもと変わらない輝きを放ちながら現れた彼の眩しさに、朝春は、昨日のことは夢だったのかもしれない、とぐったりしながら思った。

二限目まではなんとか耐えることができた朝春だったけれど、そこで限界がきて、三限目からは保健室で休むことにした。

朝春が、ふらふらの状態で保健室の扉を開けると、カヨさんは、「お。夏目君、待ってたわよ。来ないかと思って寂しかったくらい」なんて養護教諭らしからぬ言葉で迎えてくれて、朝春は「お邪魔します……」とだけ言い返してベッドに直行する。

三限目は数学で、四限目は政治経済だったはず。また家に帰ったらたっぷり復習をしなければならないけれど、とにかく今は体力の回復が最優先事項。午後からは戻れますように、と自分に願掛けをして、朝春はベッドに横たわり瞼を閉じた。


流氷の上に一匹の黒猫と並んで座っている。寒くはなかった。朝春はなぜか猫の言葉が分かって、猫の言葉で自分が熱中しているゲームの説明を熱心に行っている。そうしているうち氷がぐらぐらと揺れて、黒猫が怖がったから、朝春はその猫にクロゴマ、と呼びかけて自分の胸に抱き寄せた。……クロゴマ? 

夢から覚めるのは、いつも一瞬だ。

どれくらい眠っただろうか。

朝春が重たい瞼を押し上げると、見慣れた白い天井が目に入った。深く息を吸いこんで、瞬きを繰り返す。

うっすらとした消毒液の匂い。それからいつもはしない、爽やかなブーケのような香りがして、朝春が、あれ、と違和感を抱いたのと、「夏目」とすぐそばで声がしたのはほぼ同時だった。仰向けの状態で顔は動かさず目だけを声の方に向けると、夢で朝春といっしょに流氷にのっていた黒猫の飼い主――月島がいた。

「……な、んで。じゅ、ぎょう」

起き抜けだから、声が掠れしまう。朝春があわてて上体を起こそうとすると、「そのままでいいって」と月島に言われ、またシーツに背をつけた。

月島は、朝春のベッドの傍らで、指を前で組み、パイプ椅子に座っている。眩しい金色の髪に似合わず、どことなく晴れない表情を浮かべているように感じられて、朝春は戸惑った。

そもそも、どうして月島がここに。

「今、昼休みだから」
「そう、なんだね。よかった。ん……よかった、のかな?」
「体調どうなの。三限目からいなかっただろ」
「少し眠ったから、かなり、マシに。あ、もし、心配かけてしまってたなら、申し訳ないです……」
「いや、俺の方こそ。悪かった」
「へ?」
「俺が、昨日の晩、夏目に夜更かしさせたからじゃねーの」

月島がどうしてここにいるのかはうっすらと分かったが、まさか謝られるとは思わなかったので、朝春はぽかんとしてしまった。

今度こそ、上体をゆっくりと起こす。それから、首をふるふると大きく横へ振った。

確かに、体調を崩した原因は、睡眠不足だ。だけど、それは、月島が関わってこそいるものの、彼のせいではない。朝春の身体が弱すぎるのが悪いのだし、電話の途中で、月島に断って眠ることだって可能だったはずだ。それでも、朝春がそうできなかったのは、時間を気にする余裕もなく月島との電話に夢中になってしまったからで、そのくらい月島との会話が。

「楽し、かったから」
「え」
「俺、昨日みたいに電話でたくさん話すなんて今まで誰ともしたことなくて。電話したあとも、気持ちがはしゃいで、眠れないせいで夜更かしになっただけだから、月島君は謝らないでほしいというか……」

とにかく、月島が悪いわけではないということを分かってほしくて、普段の朝春だったら言わないようなことまで伝えてしまう。

言い切った瞬間に我に返り、恥ずかしくなった。俯きながら、ちらりと月島の方を上目にうかがうと、今度は月島の方がぽかんと口を開けていた。

「あの。……月島君?」
「楽しかったの?」
「え?……あ、うん。楽しかったです」
「ふぅん」
「俺の方は、月島君を少しでも楽しませられていたか分からないけど……」
「は? 俺の方は、楽しいに決まってるだろ」
「うん? 決まってる、の?」
「決まってはないけど、決まってんだよ」
「(……?)」

妙な沈黙が生まれる。保健室の扉の向こうから、複数の生徒のはしゃぎ声が聞こえてきた。

「……まあ、分かんねえか」

月島が、朝春に言っているでもなさそうな声量で呟いて、渋い表情でわずかに口角をあげる。

「てか、もう昼だけど、腹減ってねえの?」
「へ?」
「お腹」
「あ、お腹は、朝から何も食べてないせいで、逆にもう全く空いてないかも」
「夏目、昼はいつも購買でパン買って食ってるイメージだから、一応、昨日のお詫びもかねて、パン買ってきたんだけど」
「え? えー……どうしよう。月島君に、パンを買わせてしまった……でも、ごめん、本当に今、お腹は空いてないかな」
「水分ならいけそう? 朝から何も食べてないなら、何かしら身体に入れた方ほうがいいんじゃね」

うろたえるほかない朝春に向かって、月島が何かを差し出てくる。りんご味のパックジュースだった。

保健室のベッドで飲食するなんて、カヨさんに怒られてしまうかもしれないけれど、今、室内にカヨさんはいないようだし、月島が差し出してきたものを拒むわけにはいかない。お礼を言って、受け取る。買わせてしまったのだから早く飲まなければ、と謎の焦燥感が生まれて、朝春はそそくさとストローをさして、口までもっていく。

しかし、焦りすぎていたからか、パックを持つ握力を間違えて、くわえる前に大噴射させてしまった。口から首元にかけて、りんごジュースに泣かれる。

「わっ」

いまどき、小学生でもしないような大失敗。焦ると碌なことがないってことは、焦っているときには気づかないものだ。

「うわあ……」

取り乱すことしかできない朝春に対して、月島は、椅子から尻を浮かせ、身体をよせて、あろうことか、自分の制服の袖のところで躊躇いなく朝春の濡れたところを拭いてきた。

月島の俊敏さに、朝春は全くついていけなかった。

ただ、予想もしない月島の行動に驚き、ジュースを零したことによる動揺は瞬殺される。

朝春はすべての動作を停止して、彼を見た。そうしている間も、月島は平然と、朝春の失敗の処理にあたり、一通り拭き終えてから、もう濡れたところがないかを点検する最後の仕上げのように、制服の袖ではなく彼自身の指で、朝春の顎から首にかけて触れてきた。

背骨とはまた別の、朝春自身も知らなかった、頭からお腹の下までを貫く芯のようなもの。それがじんと痺れるような生まれて初めての感覚に鼓動を奪われそうになる。月島の指の腹の温度はやけに熱っぽくて、朝春は、自分が自分ではなくなるような心細さを覚えた。

月島は、朝春の肌を指でなぞり、親指の先で朝春の唇に触れて、それから。こちらが、息をのむ間もなく、ふに、と押した。もう何が何だか分からず、朝春は、されるがままだった。

まさか、口の中に指を入れる気だろうか。こういうことは、人気者の世界ではフツウのことなんだろうか。どきどきしてしまうのは、おかしいことなんだろうか。

朝春の頭が混乱を極めかけたところで、月島の指は朝春の唇からあっさりと離れていき、彼は、またゆっくりとパイプ椅子に座り直した。

「夏目ってさあ」

呆気にとられる朝春を、月島は、探りをいれるような表情で数秒間見つめたあと、首を傾げた。

「……かわいいってよく言われるだろ」
「……そんなの、言われたこと、ない」
「まじか」
「……ま、まじ」
「なんか、夏目に「まじ」って言葉、似合わねえな」
「あ、お恥ずかしながら、今初めて使いました……」
「フハ。まじか」
「まじ、だよ」
「これで、二回目ってこと?」
「う、うん。ま、まじ」
「三回目だな」

月島の柔らかな笑顔に、自分と彼との間にある空気が和んでいくのを感じる。そのおかげで、朝春も、なんとか微笑みを浮かべることができるくらいには、調子を取り戻す。心臓の音は、ばくばくとうるさくて、背中にじんわりと変な汗までかいているけれど、月島に気づかれることさえなければ、かまわないと思った。

今度こそ、零さないように気をつけながら、りんごジュースを一口飲む。その間も月島は、じっと朝春の方を見てきた。

彼に、視線を返す。

「……月島君は、かっこいい」

自分の意思とは関係なく、言葉が朝春の口を衝いて出る。あわてて、「って、よく言われてるよね」と付け加えた。

月島は、ベッドの方に、背を屈めるようにしてわずかに身体を近づけて、「それ、夏目も思ってくれてんの」と朝春に問うた。

「うん」

逡巡することなく、朝春は頷く。恥ずかしかった。でも、本当だったから、うん、で合っている。

ふぅん、と、月島は、朝春には何を考えているのか読み取れない難解な表情で、目を伏せる。

「ま、まじ、ですよ」
「まじですか」
「まじ。……それと、遅れたけど、袖、ごめんね。ジュースで汚れたと思う……」
「別にいい。俺が勝手にしたことだし。危うく暴走しかけたし」

あっさりと朝春を許して意味深長なことを付け加えた月島は、自分の制服の袖を鼻のところまでもっていき、すんすんと匂いを嗅いだあと、にわかに破顔した。

「でも、まじで、りんごの甘酸っぱい匂い」

それが、月島に恋する人たちに対して申し訳なさすら覚えるほどの眩しさだったから、「……ま、まじ、かあ」、朝春は、不意にときめいて、慣れない言葉で返事をするのでやっとだった。