坂本冬海《さかもとふゆみ》。彼女は、同じ職場の事務員。
ほっそりとして髪を後ろに束ねて、化粧は薄い。目立たない風貌の女性を想像したそのままを具現化したような彼女は、その容姿の通りに大人しく無口。
私が四月に入社した後すぐに中途採用で入ってきた坂本さん。
新卒の私、中途採用の坂本さん。当然、坂本さんの方が、年上なのだが、同期の同性で同じ部署。
だが、席は遠く、仕事内容も被らないから、接点はない。
しかも、坂本さんは飲み会にも参加せずに、定時で帰ってしまう。なかなか話す機会は得られない。
男ばかりの部署で、坂本さんと仲良くしたい! そう私は常々思っていたのだ。
なんなら、ドラマでよく見る 給湯室でイケメン営業マンの噂話とか、昨日見たドラマの話なんかをちょこっとする関係になれたらなんて、思っている。
その彼女とたまたま一緒に研修に行くことになったのが今日。
法律の改定による新制度。それに対応するために、部署から二人選出されたのが、まだ新人でそれほど業務が忙しくない私と坂本さんだった。
こ、これは神が私に与えたチャンスだ!! ここで一気に距離を詰めて、仲良くなるのだ!!!
そう……そう思ってるのに、朝、研修センターの入り口で「おはよう」と声をかけてそれっきり。講義中に私語なんてできないし、少しも仲良くなるチャンスは訪れない。
笑顔の女性講師が、資料片手に熱弁しているのを、必死にメモするだけで時間は過ぎて、あっという間にランチの時間になってしまった。
研修先でのランチ! これは、最大のチャンスタイムだ。
同期で、同性、部署からたった二人だけの研修参加。
これで一緒にランチを食べないのであれば、どれだけギスギスした部署なんだよってことになる。坂本さんも無下に断ったりはしないだろう。
私から声をかければ、普段はさっさと一人で昼食に行ってしまうクール女子坂本さんも、あっさりと同意してくれた。
私は、スマホで調べて、坂本さんと二人で研修所の傍のファミレスへ。
スーツ姿の客がちらほら見えるのは、きっと同じ研修を受けていた他支店の人。
あまり周辺に選択肢は無さそうだったし、まあ、ここになるだろう。
適当に日替わりランチセットを頼んで、水を飲んで落ち着く。
「研修、疲れたね。座学なんて、久しぶり」
「ええ」
……沈黙が辛い。もう少し積極的に会話してほしい。
脳内の引き出しを懸命に引っ掻き回して会話を探す。ちょっとしたジョークで、空気を変えるのはどうだろう?
「坂本さん……出身は……青森?」
「違います。よく聞かれますが、津軽海峡とは一切縁がないですね」
眉間に皺を寄せる坂本さん。
違うんだ。坂本さんを見て、勝手に脳内であの曲が流れていたというのに。
でも、そうよね。
名前で色々言うのは、ジョークにならないかも。
私にしてみれば、軽い気持ちでの発言だけれど、坂本さんからすれば、上野発の夜行列車的な話は、ウンザリする話題かも。
これは、私が悪かった。
「研修、けっこう大変ですね。報告書を書かないと」
無難中の無難な話題。今日の研修の内容を振ってみる。
私達は、本日の研修内容をまとめて、必要なことは部署内で共有しなければならない。そのための資料を、私と坂本さんで後で作るのだ。
「そうですね……。ノートは一応とって、ポイントは抜き出していますが……」
坂本さんのノートには、綺麗な字が躍っている。
「そう……ええっと……」
まだ何か、話題になることは何かないか!
そう探る私の目に止まったのは、『コタロウ♡』と書かれたノートの隅の落書き。
え、コタロウ? コタロウって何?
「コタロウ……」
私のつぶやきに坂本さんは、ハッとする。
パタンとノートを閉じてしまった。
「コタロウ?」
「ああ。気にしないで下さい」
気にしないで下さいって、坂本さんは言うけれど、かなり気になる。
コタロウ……そんな名前のアイドルいたっけ? 俳優さん?
私の脳内の乏しいデータでは、コタロウ名の有名人もキャラも思い浮かばない。
ひょっとして、ペットの名前とか?
それなら、ぜひ知りたい!!
猫ならなお嬉しい。
日々、猫動画を検索して、猫様のお姿を探している猫好きの私。
会社の同僚と猫愛を語り合えるなんて、とっても幸せだ。
「ええっと、気になるのだけれど……」
「気にしないで下さい」
ううっ、プライベートは話したくないのかな、坂本さん。
悲しそうな表情を露骨に浮かべる私に、坂本さんは、一つため息をついて少しだけ折れてくれる。
「分かりました。では、三つだけ。三つだけ質問に答えてあげます」
「あ、じゃあ、それは『猫』ですか?」
「良いの? その質問で」
坂本さんが不敵な笑みを浮かべる。
……そうか。質問は三つだけ、猫かどうかを直接聞く質問では、猫ではなかった時が大変だ。
なんだか、ノリノリの坂本さん。
でも、これって、仲良くなるきっかけとしてとても良いのかも。
じゃあ……口を開きかけて、私は、躊躇《ちゅうちょ》する。
質問は、たった三つ。
例えば、「魚は好きですか?」と聞いて、「違います」だった時、コタロウが何なのか、可能性は無限に広がってしまう。
あ……いや、「魚が好き」でも、猫とは限らないではないか。
質問は、三つしかないのだから、『コタロウ』が何かを断定するには、しっかり考えなければ!!
「む、難しい」
「あきらめますか?」
フフンと勝ち誇った顔の坂本さん。
こ、これは坂本さんに一本取られたかも?
「あ、諦めない!!! 頑張って考えるから」
「頑張って下さい。期限は、今日中です」
「ええ!! 短い!! ええっと、ちゅ、チュールは好きですか?」
「チュールは……嫌いです」
チュール嫌いなんだ。なら、猫じゃあないか。
いや、待って、世の猫の中には、チュールが嫌いな猫もいる。
チュールが嫌い=猫ではない。
そういう図式は、存在しないのだ。
ぐぬぬぬ。一つ質問を損したかもしれない。
注文したランチセットを食べながら、私は考え続ける。
目の前の坂本さんは、悩み黙り込む私を前にして、楽しそうだ。
「美味しい! このアジフライ!!」
余裕の坂本さんは、ランチを堪能している。
だが、私はそれどころではない。おかしいな、同じアジフライを食べているはずなのに、味がしない。
アジフライがアジけない。いやいや、そんなダジャレを言っている場合ではない。
コタロウが何なのか、気になって仕方ない。
猫かどうかだけを断定するには、簡単だ。
肉球はあるか、ニャアと鳴くか、モフモフか、耳は三角か、そんなことを聞けば良いだろう。だが、コタロウがもし猫で無かったとしたら、それらの質問では、コタロウの正体を断定することができなくなってしまう。
肉球があるとしたら、犬、ハムスター、フェレット、アライグマ、猫とか。肉球が無かったとしたら、ウサギ、魚、鳥……わ、人間の可能性もある? 私が知らないだけで、やっぱりアイドルとかで『コタロウ』君は存在するかもしれない。
まずは、人間の可能性を減らすべきかも……いや、待って。「肉球……」言いかけて、私は黙る。
質問は、三つ。
一番目の猫決め打ちで、チュールは好きかと聞いた質問は、「嫌い」で撃沈して、意味のないものになってしまった。だから、後二つ。
もっと策を慎重に練って質問を考えなければ、また無駄に終わってしまう。
坂本さんの余裕の鼻歌。
こんちくしょう。
めちゃくちゃ難しいではないか。
知りたいのは、そのコタロウっていうのが、坂本さんにとって何なのかってこと。だから……
「一緒に住んでいる?」
「あら、良い質問ね。そうよ。一緒に住んでいます」
一緒に住んでる。
あ、じゃあ、坂本さんが定時で飲み会にも参加しないで帰ってしまうのは、そのコタロウに会うためなのかも。
真面目な坂本さんが、研修中にノートに『コタロウ♡』なんて落書きを書くくらいなんだから、とっても溺愛している対象。
とっても大切な存在なのだろう。
「質問は、あと一つね。どうする?」
いたずらっ子の表情の坂本さん。
「待って、ちょっとよく考えるから!!」
せめて後二つは、質問したかった。
最初の無駄撃ちチュールが本当に悔やまれる。
とにかく、二番目の質問で、それはアニメキャラとかアイドルとかではなくて、一緒に住むような身近な存在ということは分かった。
最後の質問は、どうしよう。
これだけで、『コタロウ』が何かを特定するには、どうしたら良いのだろう?
私は、質問を考えながら、坂本さんを観察してみる。
コタロウが身近な存在なのだったら、坂本さんを観察することで、コタロウの正体を推測できないだろうか……。
昨日のアニメでみた探偵のように、じっくり相手を観察することで、真実をあばくのだ。真実は一つなのだ!
……坂本さん。
真面目、大人しい、運動は……あまりしないイメージ。本は好きだよね、お昼休みに本を読んでいる姿は見たことがある。
女性だけれど一人で飲食店に入るくらいに、自立している。同じ部署の男性が、立ち食い蕎麦屋で坂本さんが昼食を取っているのを見かけたって言っていたけ。
その辺、カッコイイよね。男性だらけのところでも、しっかり一人で堂々としていられるなんて。
つい躊躇してしまう私には、ちょっと憧れてしまう存在だ。
後は、身なりもきちんとしている。ちゃんとアイロンをかけた服。
前に、自分でアイロンをかけているって、話してたなぁ……。
あ、じゃあ……一人暮らし? なら、コタロウは一緒に暮らしているのだらか、家族の可能性は低いか……。
コタロウ……一人暮らしの坂本さんの心の支え的な?
ますます気になる。
「あまりジロジロ見られると緊張しますよ」
「ああ、ごめんなさい。でも、最後の質問でコタロウを特定したいから」
「なるほど。コタロウにつながるヒントがないか私を観察していたのですね」
「そうなの。でも、難しくって」
「質問は、あと一つですものね……」
フム……。
坂本さんが、考え込む。
「一つだけ、ヒントを差し上げましょうか?」
「え、良いの!! ありがとう!」
「初めの質問が、あまりに無駄撃ちだったから」
「ううっ……」
どうやら、お情けがもらえるらしい。
「コタロウは……とっても」
「ほうほう」
「……とっても、可愛いです」
う……これって、ヒント?
それじゃあ、ちっとも分からない!!
「ほら、時間!! ランチの時間が終わってしまいますよ!!」
とっくの昔に食べ終えていた坂本さんが、次の講義の時間が近いことを警告してくれる。
そうだった。すっかり忘れていたけれども、私は今、部署を代表して、坂本さんと二人で研修に来ているのだった。
研修の内容を、レポートとして提出しなければならないのだ。
私は、慌ててアジフライを口に放り込む。
本当に……コタロウってなんなのだろう。
研修センターでの午後の講義は、四人ほどのグループに分かれて、午前中の内容をお客様に見立てた相手に説明するロールプレイング。
私と坂本さん、それから、別支店の初めて会う男性社員が二人。
「……というように、この制度によって、請求書の様式が変更になります。詳しくは……」
お客様役の私に向かって、よどみなく説明する坂本さん。グループの皆で感動する。
「すごいよ。朝の講義で聞いた内容より分かりやすかった」
「本当に。理解できていなかったことが、なるほどねって頭に入ってきた」
皆、手放しで坂本さんを褒める。
ふふん。坂本さんはすごいのだ。私は、自分が褒められたように嬉しくなる。
当の坂本さんは、照れているのか「いえ、そんなことないです」なんて小さな声で言って俯いてしまった。
「次は木下さんお願いします」
「わ、私!?」
すっかり忘れていたが、私もやらなくてはならない。
お客役は、坂本さん。それを、男性社員二人が、先ほどと同じように客観的に見守って、どうだったかを論じる。
「ええっと、この商品の請求書ですが……」
しどろもどろを絵に描いて、さらに完璧に仕上げたような私の説明。
坂本さんは、静かに聞いてくれる。
「っと、ええっと」
「これは……こっちの用紙になるっていうことですか?」
説明に詰まった私に、お客役の坂本さんが助け舟を出してくれる。
「はい、そうです。この用紙を使いまして……」
おかげでなんとか無事にこなせた。
「木下さん、まだまだ理解不足って感じだよね」
「でも、話し方は丁寧で分かりやすかった」
二人の男性社員が、感想を述べる。
うん。その通り。反論の余地はない。こんな坂本さんのように助け舟を出してくれるお客様なんて、そんな希少動物は、いれば天然記念物に指定したいくらいだ。
本番で、本当にお客様に説明しなければならなくなった時のために、もう少し頑張って勉強する必要があるだろう。
「大丈夫よ。私は、前の仕事で営業職だったから説明慣れしていただけ。新人でこれだけ出来るなら、木下さんは優秀よ」
少し落ち込む私に、坂本さんがそう言って励ましてくれる。
ふうん。坂本さん、前職は営業だったんだ。
「じゃあ、なんで普通の事務に?」
第一線の営業の方が、今の仕事より稼げそうだ。
それに、坂本さんなら、営業でもちゃんとやっていける。
「残業が多くって大変だったの。定時に帰りたくって。今の仕事の方が、自分で時間をコントロールしやすいし……あ、今の質問は、三つ目には入れないから安心して」
そうだった。まだ、三つの質問の途中だった。
危ない。何の気なしに三つの質問を使い切って、コタロウの正体が分からないままになるところだった。
てか、前職は営業だったんだ。残業が嫌で今の職場に……。それは、可愛いコタロウのため? なら、コタロウと一緒に住み始めたのは、その転職した辺り……かな? じゃあ、まだ一年も経っていないんだ。
ならば、コタロウはやっぱり人間の家族ではなさそうだ。
コタロウが弟とかならば、そもそも残業が多い営業職は避けるだろう。
やっぱり、猫の可能性が高くなってない?
坂本さんの使っているペンケース、猫柄だし。これは、猫好きでしょう!
私があれこれ考えている内に、男性社員二人のロールプレイングが始まる。
私達二人の説明を聞いていたからか、卒なくこなしている。
こうやって、次々と互いに説明の練習をすることで、お客様に実際に説明する練習をさせるという意味だけではなく、理解を深める狙いがあるのだろう。
この恥ずかしい小芝居……いやいや、ローププレイングは、それなりに意味のある学習法なのだ。
「大変良かったです」
お前、絶対聞いていなかっただろう! という感想をのたまう私。
その横で、坂本さんが、メモした内容を述べる。
「ええっと、請求書をお渡しするときに、向きがお客様の方になっていなかった点が、ちょっとだけ残念でしたが、全体的に無難にまとまっていて、理解度が高いのだなって思いながら聞いていました」
メモを取っていたペンも、猫柄だ。
はい! もう、猫好き確定。
あ、じゃあさ、コタロウは、やっぱり猫。それが真実でしょう!!
ふむ。落ち着いて情報をまず整理してみよう。
まず、コタロウは、坂本さんと一緒に住んでいる。一緒に住んでから、一年以内。転職してきてからと考えれば、半年くらい? そして、可愛い。坂本さんが、溺愛している。チュール嫌い。
坂本さんは、定時に帰るために転職までした。これは、たぶんコタロウと過ごすため。そして、猫柄の文具を愛用しているから猫派に違いない。
うんうん。これ、確定でしょ!!
そうに違いない。
「坂本さん、しっかりしているね」
男性社員の一人が、感心している。
「本当だよね。ウチの息子の嫁にほしいくらいだよ」
わ、セクハラ? えっと、自分の嫁ではないから、ギリセーフ? いや、アウト?
五十代くらいの男性社員から漏れた発言。
「残念。彼氏いますから」
坂本さんの口から、気になる言葉が返される。
彼氏、いるんだ。
え、じゃあ、もう猫で確定って思っていたのに話は変わってくる。
コタロウが、同棲中の彼氏だったとしたら?
コタロウと会う時間を作るために、残業のない仕事を選び、一緒に住んでいる。チュールは嫌い。
何ら矛盾はない。
ええい!! どっちなんだ。
猫か彼氏か!!
真実は、まだ分からないようだ。
いよいよ、禁断のあの質問、「コタロウは猫?」を繰り出す時か?
いやいや、それでNOだった時のダメージが大きすぎる。
私が勝手に猫か彼氏の二択と考えているだけで、NOだったとしたら、また真実は謎のままになってしまう。そうよ……チュールが嫌いで、一緒に住んでいる可愛い奴。カメとかの可能性だってある。猫好きがカメを飼っている可能性だって捨てきれない。
もう少し、もう少しだけ考えるべきだ。
ええっと、猫……可愛い、悪戯好き、モフモフ、お目々がクリクリ、肉球お手々。尻尾があって夜行性。
この中で、彼氏にありえない条件って、肉球と尻尾だけ?? それだって、もしかしたらコスプレ好きの彼氏で、耳とか尻尾とか時々つけている可能性もゼロではない。
私の想像の中で、猫系可愛い妄想彼氏像がドンドン出来上がっていく。
「にゃあ」
脳内の完璧猫系彼氏が、甘い声でにゃあと鳴いて微笑む。
……良いな……私もそんな彼氏欲しい。
じゃなくって。だめだ。妄想をさく裂している場合ではない。
私の脳内で、猫と彼氏とカメのコタロウがグルグル回っている。
「ああ、もう!! 何でこんなに難しいの!!」
「ようやくやる気になったのですね!! 素晴らしいです!!」
突然声をかけられて、びっくりして振り返れば、本日の研修の講師が後ろに立っていた。い、いつの間に!!
「心配していたのですよ。この教室で一番ぼーっとして聞いておられたから」
にこやかに、割と辛辣なことを女講師は言う。
だが、反論はない。私は、本日ずっと坂本さんとコタロウのことを考えていた。
「難しく考えなくって大丈夫ですよ。わからない時は、基本に立ち返って、じっくり情報を整理して。順を追って考えれば良いんです。ほら、他の方を観察して学んだことだってあるでしょう?」
「……なるほど」
女講師は、今回の研修について言っているのだろう。だが、一理ある。
基本に立ち返って、もう一度坂本さんを見つめる。
あ、あれ……背中についているのって……。
坂本さんは本日、紺色のスーツを着ている。
その紺色のスーツの背中に、一本の毛がついている。
「分かった!! 分かりましたよ!! 先生!!」
「そう!! 素敵!! 良かったわ!!」
女講師もとっても喜んでくれる。
だが、もちろん私の分かったのは、坂本さんのコタロウの正体。
研修の内容? そんなのは、家帰ってから死に物狂いで勉強するから何とかなるだろう。たぶん。
今は、坂本さんのコタロウの正体が優先だ。
しっかり者の坂本さん。だから、出かける前に鏡でチェックして、取ってきたのだろうが、背中は見逃したのだろう。
そう、猫を飼っている者ならば、皆知っている。
猫を飼えば、ウール百パーセントだろうが、カシミヤ百パーセントだろうが、全ての衣類は、猫毛混《ねこげこん》になるのだ。
あの茶色い五センチメートルほどのピンとした白い毛。
猫毛に違いない。
カメにあんな毛は生えていない。人間彼氏のコタロウが銀髪の素敵猫系彼氏の可能性は……ありえないこともないが、人間の毛は、あんな毛質ではないだろう。たぶん。
猫好きで猫グッズを持っているなら、犬の可能性も低いはず。
だって、『コタロウ♡』ってつい落書きしてしまうくらいに溺愛しているならば、ワンコのグッズに買い替えるでしょ。猫グッズと同様に犬グッズも世にあふれている。買い替えるのは、簡単なはずだ。
これは、堂々と、ハッキリと、この名探偵、木下千早《きのしたちはや》の目の前に真実が現れたと言い切って良いだろう。
真実は、やはり一つなのだ!!
研修が無事に終わって、皆が片づけを始める。
同じグループだった男性社員達は、早々に帰ってしまった。
私は、文房具を猫柄のペンケースにしまう坂本さんに話しかける。
「坂本さん、最後の質問。いい?」
私の言葉に、坂本さんがニコリと微笑む。
「もちろんです」
私は、大きく息を吸って、最後の質問を坂本さんにする。
「コタロウは、猫ですか?」
私の最後の質問を聞いて坂本さんが笑顔になる。
その笑顔は、とてもまぶしかった。
「違いますね」
え、ち、違うの?
絶対猫だと思ったのに!
「坂本さん? 猫じゃないの?」
「違いますね」
「じゃあ、じゃあカメ?」
「カメ?」
坂本さんが、フフッと声を出して笑う。
「まさか他に迷っているのが、カメだとは思ってもみませんでした」
どうやらカメでもないらしい。
え、じゃあ……やっぱり猫系彼氏?
「彼氏……さん?」
おずおずと聞いてみるが、当然のことながら「さあ、どうでしょうね」とはぐらかされて、坂本さんは答えてくれない。
「坂本さん、意地悪だ」
「だって、三つの質問、終わったんですよ」
そうだけれど……。
シュンとする私の頭を、撫でてくれる坂本さん。
「そんなの、これからお話している内に、なんとなく分かりますよ」
「仲良くしてくれるの?」
「当たり前でしょ? 同期なんだし、こんなに面白い子、なかなかいませんし」
面白い子っていうところには、ちょっとひっかかるが、どうやら当初の目的は果たせたらしい。
ほっそりとして髪を後ろに束ねて、化粧は薄い。目立たない風貌の女性を想像したそのままを具現化したような彼女は、その容姿の通りに大人しく無口。
私が四月に入社した後すぐに中途採用で入ってきた坂本さん。
新卒の私、中途採用の坂本さん。当然、坂本さんの方が、年上なのだが、同期の同性で同じ部署。
だが、席は遠く、仕事内容も被らないから、接点はない。
しかも、坂本さんは飲み会にも参加せずに、定時で帰ってしまう。なかなか話す機会は得られない。
男ばかりの部署で、坂本さんと仲良くしたい! そう私は常々思っていたのだ。
なんなら、ドラマでよく見る 給湯室でイケメン営業マンの噂話とか、昨日見たドラマの話なんかをちょこっとする関係になれたらなんて、思っている。
その彼女とたまたま一緒に研修に行くことになったのが今日。
法律の改定による新制度。それに対応するために、部署から二人選出されたのが、まだ新人でそれほど業務が忙しくない私と坂本さんだった。
こ、これは神が私に与えたチャンスだ!! ここで一気に距離を詰めて、仲良くなるのだ!!!
そう……そう思ってるのに、朝、研修センターの入り口で「おはよう」と声をかけてそれっきり。講義中に私語なんてできないし、少しも仲良くなるチャンスは訪れない。
笑顔の女性講師が、資料片手に熱弁しているのを、必死にメモするだけで時間は過ぎて、あっという間にランチの時間になってしまった。
研修先でのランチ! これは、最大のチャンスタイムだ。
同期で、同性、部署からたった二人だけの研修参加。
これで一緒にランチを食べないのであれば、どれだけギスギスした部署なんだよってことになる。坂本さんも無下に断ったりはしないだろう。
私から声をかければ、普段はさっさと一人で昼食に行ってしまうクール女子坂本さんも、あっさりと同意してくれた。
私は、スマホで調べて、坂本さんと二人で研修所の傍のファミレスへ。
スーツ姿の客がちらほら見えるのは、きっと同じ研修を受けていた他支店の人。
あまり周辺に選択肢は無さそうだったし、まあ、ここになるだろう。
適当に日替わりランチセットを頼んで、水を飲んで落ち着く。
「研修、疲れたね。座学なんて、久しぶり」
「ええ」
……沈黙が辛い。もう少し積極的に会話してほしい。
脳内の引き出しを懸命に引っ掻き回して会話を探す。ちょっとしたジョークで、空気を変えるのはどうだろう?
「坂本さん……出身は……青森?」
「違います。よく聞かれますが、津軽海峡とは一切縁がないですね」
眉間に皺を寄せる坂本さん。
違うんだ。坂本さんを見て、勝手に脳内であの曲が流れていたというのに。
でも、そうよね。
名前で色々言うのは、ジョークにならないかも。
私にしてみれば、軽い気持ちでの発言だけれど、坂本さんからすれば、上野発の夜行列車的な話は、ウンザリする話題かも。
これは、私が悪かった。
「研修、けっこう大変ですね。報告書を書かないと」
無難中の無難な話題。今日の研修の内容を振ってみる。
私達は、本日の研修内容をまとめて、必要なことは部署内で共有しなければならない。そのための資料を、私と坂本さんで後で作るのだ。
「そうですね……。ノートは一応とって、ポイントは抜き出していますが……」
坂本さんのノートには、綺麗な字が躍っている。
「そう……ええっと……」
まだ何か、話題になることは何かないか!
そう探る私の目に止まったのは、『コタロウ♡』と書かれたノートの隅の落書き。
え、コタロウ? コタロウって何?
「コタロウ……」
私のつぶやきに坂本さんは、ハッとする。
パタンとノートを閉じてしまった。
「コタロウ?」
「ああ。気にしないで下さい」
気にしないで下さいって、坂本さんは言うけれど、かなり気になる。
コタロウ……そんな名前のアイドルいたっけ? 俳優さん?
私の脳内の乏しいデータでは、コタロウ名の有名人もキャラも思い浮かばない。
ひょっとして、ペットの名前とか?
それなら、ぜひ知りたい!!
猫ならなお嬉しい。
日々、猫動画を検索して、猫様のお姿を探している猫好きの私。
会社の同僚と猫愛を語り合えるなんて、とっても幸せだ。
「ええっと、気になるのだけれど……」
「気にしないで下さい」
ううっ、プライベートは話したくないのかな、坂本さん。
悲しそうな表情を露骨に浮かべる私に、坂本さんは、一つため息をついて少しだけ折れてくれる。
「分かりました。では、三つだけ。三つだけ質問に答えてあげます」
「あ、じゃあ、それは『猫』ですか?」
「良いの? その質問で」
坂本さんが不敵な笑みを浮かべる。
……そうか。質問は三つだけ、猫かどうかを直接聞く質問では、猫ではなかった時が大変だ。
なんだか、ノリノリの坂本さん。
でも、これって、仲良くなるきっかけとしてとても良いのかも。
じゃあ……口を開きかけて、私は、躊躇《ちゅうちょ》する。
質問は、たった三つ。
例えば、「魚は好きですか?」と聞いて、「違います」だった時、コタロウが何なのか、可能性は無限に広がってしまう。
あ……いや、「魚が好き」でも、猫とは限らないではないか。
質問は、三つしかないのだから、『コタロウ』が何かを断定するには、しっかり考えなければ!!
「む、難しい」
「あきらめますか?」
フフンと勝ち誇った顔の坂本さん。
こ、これは坂本さんに一本取られたかも?
「あ、諦めない!!! 頑張って考えるから」
「頑張って下さい。期限は、今日中です」
「ええ!! 短い!! ええっと、ちゅ、チュールは好きですか?」
「チュールは……嫌いです」
チュール嫌いなんだ。なら、猫じゃあないか。
いや、待って、世の猫の中には、チュールが嫌いな猫もいる。
チュールが嫌い=猫ではない。
そういう図式は、存在しないのだ。
ぐぬぬぬ。一つ質問を損したかもしれない。
注文したランチセットを食べながら、私は考え続ける。
目の前の坂本さんは、悩み黙り込む私を前にして、楽しそうだ。
「美味しい! このアジフライ!!」
余裕の坂本さんは、ランチを堪能している。
だが、私はそれどころではない。おかしいな、同じアジフライを食べているはずなのに、味がしない。
アジフライがアジけない。いやいや、そんなダジャレを言っている場合ではない。
コタロウが何なのか、気になって仕方ない。
猫かどうかだけを断定するには、簡単だ。
肉球はあるか、ニャアと鳴くか、モフモフか、耳は三角か、そんなことを聞けば良いだろう。だが、コタロウがもし猫で無かったとしたら、それらの質問では、コタロウの正体を断定することができなくなってしまう。
肉球があるとしたら、犬、ハムスター、フェレット、アライグマ、猫とか。肉球が無かったとしたら、ウサギ、魚、鳥……わ、人間の可能性もある? 私が知らないだけで、やっぱりアイドルとかで『コタロウ』君は存在するかもしれない。
まずは、人間の可能性を減らすべきかも……いや、待って。「肉球……」言いかけて、私は黙る。
質問は、三つ。
一番目の猫決め打ちで、チュールは好きかと聞いた質問は、「嫌い」で撃沈して、意味のないものになってしまった。だから、後二つ。
もっと策を慎重に練って質問を考えなければ、また無駄に終わってしまう。
坂本さんの余裕の鼻歌。
こんちくしょう。
めちゃくちゃ難しいではないか。
知りたいのは、そのコタロウっていうのが、坂本さんにとって何なのかってこと。だから……
「一緒に住んでいる?」
「あら、良い質問ね。そうよ。一緒に住んでいます」
一緒に住んでる。
あ、じゃあ、坂本さんが定時で飲み会にも参加しないで帰ってしまうのは、そのコタロウに会うためなのかも。
真面目な坂本さんが、研修中にノートに『コタロウ♡』なんて落書きを書くくらいなんだから、とっても溺愛している対象。
とっても大切な存在なのだろう。
「質問は、あと一つね。どうする?」
いたずらっ子の表情の坂本さん。
「待って、ちょっとよく考えるから!!」
せめて後二つは、質問したかった。
最初の無駄撃ちチュールが本当に悔やまれる。
とにかく、二番目の質問で、それはアニメキャラとかアイドルとかではなくて、一緒に住むような身近な存在ということは分かった。
最後の質問は、どうしよう。
これだけで、『コタロウ』が何かを特定するには、どうしたら良いのだろう?
私は、質問を考えながら、坂本さんを観察してみる。
コタロウが身近な存在なのだったら、坂本さんを観察することで、コタロウの正体を推測できないだろうか……。
昨日のアニメでみた探偵のように、じっくり相手を観察することで、真実をあばくのだ。真実は一つなのだ!
……坂本さん。
真面目、大人しい、運動は……あまりしないイメージ。本は好きだよね、お昼休みに本を読んでいる姿は見たことがある。
女性だけれど一人で飲食店に入るくらいに、自立している。同じ部署の男性が、立ち食い蕎麦屋で坂本さんが昼食を取っているのを見かけたって言っていたけ。
その辺、カッコイイよね。男性だらけのところでも、しっかり一人で堂々としていられるなんて。
つい躊躇してしまう私には、ちょっと憧れてしまう存在だ。
後は、身なりもきちんとしている。ちゃんとアイロンをかけた服。
前に、自分でアイロンをかけているって、話してたなぁ……。
あ、じゃあ……一人暮らし? なら、コタロウは一緒に暮らしているのだらか、家族の可能性は低いか……。
コタロウ……一人暮らしの坂本さんの心の支え的な?
ますます気になる。
「あまりジロジロ見られると緊張しますよ」
「ああ、ごめんなさい。でも、最後の質問でコタロウを特定したいから」
「なるほど。コタロウにつながるヒントがないか私を観察していたのですね」
「そうなの。でも、難しくって」
「質問は、あと一つですものね……」
フム……。
坂本さんが、考え込む。
「一つだけ、ヒントを差し上げましょうか?」
「え、良いの!! ありがとう!」
「初めの質問が、あまりに無駄撃ちだったから」
「ううっ……」
どうやら、お情けがもらえるらしい。
「コタロウは……とっても」
「ほうほう」
「……とっても、可愛いです」
う……これって、ヒント?
それじゃあ、ちっとも分からない!!
「ほら、時間!! ランチの時間が終わってしまいますよ!!」
とっくの昔に食べ終えていた坂本さんが、次の講義の時間が近いことを警告してくれる。
そうだった。すっかり忘れていたけれども、私は今、部署を代表して、坂本さんと二人で研修に来ているのだった。
研修の内容を、レポートとして提出しなければならないのだ。
私は、慌ててアジフライを口に放り込む。
本当に……コタロウってなんなのだろう。
研修センターでの午後の講義は、四人ほどのグループに分かれて、午前中の内容をお客様に見立てた相手に説明するロールプレイング。
私と坂本さん、それから、別支店の初めて会う男性社員が二人。
「……というように、この制度によって、請求書の様式が変更になります。詳しくは……」
お客様役の私に向かって、よどみなく説明する坂本さん。グループの皆で感動する。
「すごいよ。朝の講義で聞いた内容より分かりやすかった」
「本当に。理解できていなかったことが、なるほどねって頭に入ってきた」
皆、手放しで坂本さんを褒める。
ふふん。坂本さんはすごいのだ。私は、自分が褒められたように嬉しくなる。
当の坂本さんは、照れているのか「いえ、そんなことないです」なんて小さな声で言って俯いてしまった。
「次は木下さんお願いします」
「わ、私!?」
すっかり忘れていたが、私もやらなくてはならない。
お客役は、坂本さん。それを、男性社員二人が、先ほどと同じように客観的に見守って、どうだったかを論じる。
「ええっと、この商品の請求書ですが……」
しどろもどろを絵に描いて、さらに完璧に仕上げたような私の説明。
坂本さんは、静かに聞いてくれる。
「っと、ええっと」
「これは……こっちの用紙になるっていうことですか?」
説明に詰まった私に、お客役の坂本さんが助け舟を出してくれる。
「はい、そうです。この用紙を使いまして……」
おかげでなんとか無事にこなせた。
「木下さん、まだまだ理解不足って感じだよね」
「でも、話し方は丁寧で分かりやすかった」
二人の男性社員が、感想を述べる。
うん。その通り。反論の余地はない。こんな坂本さんのように助け舟を出してくれるお客様なんて、そんな希少動物は、いれば天然記念物に指定したいくらいだ。
本番で、本当にお客様に説明しなければならなくなった時のために、もう少し頑張って勉強する必要があるだろう。
「大丈夫よ。私は、前の仕事で営業職だったから説明慣れしていただけ。新人でこれだけ出来るなら、木下さんは優秀よ」
少し落ち込む私に、坂本さんがそう言って励ましてくれる。
ふうん。坂本さん、前職は営業だったんだ。
「じゃあ、なんで普通の事務に?」
第一線の営業の方が、今の仕事より稼げそうだ。
それに、坂本さんなら、営業でもちゃんとやっていける。
「残業が多くって大変だったの。定時に帰りたくって。今の仕事の方が、自分で時間をコントロールしやすいし……あ、今の質問は、三つ目には入れないから安心して」
そうだった。まだ、三つの質問の途中だった。
危ない。何の気なしに三つの質問を使い切って、コタロウの正体が分からないままになるところだった。
てか、前職は営業だったんだ。残業が嫌で今の職場に……。それは、可愛いコタロウのため? なら、コタロウと一緒に住み始めたのは、その転職した辺り……かな? じゃあ、まだ一年も経っていないんだ。
ならば、コタロウはやっぱり人間の家族ではなさそうだ。
コタロウが弟とかならば、そもそも残業が多い営業職は避けるだろう。
やっぱり、猫の可能性が高くなってない?
坂本さんの使っているペンケース、猫柄だし。これは、猫好きでしょう!
私があれこれ考えている内に、男性社員二人のロールプレイングが始まる。
私達二人の説明を聞いていたからか、卒なくこなしている。
こうやって、次々と互いに説明の練習をすることで、お客様に実際に説明する練習をさせるという意味だけではなく、理解を深める狙いがあるのだろう。
この恥ずかしい小芝居……いやいや、ローププレイングは、それなりに意味のある学習法なのだ。
「大変良かったです」
お前、絶対聞いていなかっただろう! という感想をのたまう私。
その横で、坂本さんが、メモした内容を述べる。
「ええっと、請求書をお渡しするときに、向きがお客様の方になっていなかった点が、ちょっとだけ残念でしたが、全体的に無難にまとまっていて、理解度が高いのだなって思いながら聞いていました」
メモを取っていたペンも、猫柄だ。
はい! もう、猫好き確定。
あ、じゃあさ、コタロウは、やっぱり猫。それが真実でしょう!!
ふむ。落ち着いて情報をまず整理してみよう。
まず、コタロウは、坂本さんと一緒に住んでいる。一緒に住んでから、一年以内。転職してきてからと考えれば、半年くらい? そして、可愛い。坂本さんが、溺愛している。チュール嫌い。
坂本さんは、定時に帰るために転職までした。これは、たぶんコタロウと過ごすため。そして、猫柄の文具を愛用しているから猫派に違いない。
うんうん。これ、確定でしょ!!
そうに違いない。
「坂本さん、しっかりしているね」
男性社員の一人が、感心している。
「本当だよね。ウチの息子の嫁にほしいくらいだよ」
わ、セクハラ? えっと、自分の嫁ではないから、ギリセーフ? いや、アウト?
五十代くらいの男性社員から漏れた発言。
「残念。彼氏いますから」
坂本さんの口から、気になる言葉が返される。
彼氏、いるんだ。
え、じゃあ、もう猫で確定って思っていたのに話は変わってくる。
コタロウが、同棲中の彼氏だったとしたら?
コタロウと会う時間を作るために、残業のない仕事を選び、一緒に住んでいる。チュールは嫌い。
何ら矛盾はない。
ええい!! どっちなんだ。
猫か彼氏か!!
真実は、まだ分からないようだ。
いよいよ、禁断のあの質問、「コタロウは猫?」を繰り出す時か?
いやいや、それでNOだった時のダメージが大きすぎる。
私が勝手に猫か彼氏の二択と考えているだけで、NOだったとしたら、また真実は謎のままになってしまう。そうよ……チュールが嫌いで、一緒に住んでいる可愛い奴。カメとかの可能性だってある。猫好きがカメを飼っている可能性だって捨てきれない。
もう少し、もう少しだけ考えるべきだ。
ええっと、猫……可愛い、悪戯好き、モフモフ、お目々がクリクリ、肉球お手々。尻尾があって夜行性。
この中で、彼氏にありえない条件って、肉球と尻尾だけ?? それだって、もしかしたらコスプレ好きの彼氏で、耳とか尻尾とか時々つけている可能性もゼロではない。
私の想像の中で、猫系可愛い妄想彼氏像がドンドン出来上がっていく。
「にゃあ」
脳内の完璧猫系彼氏が、甘い声でにゃあと鳴いて微笑む。
……良いな……私もそんな彼氏欲しい。
じゃなくって。だめだ。妄想をさく裂している場合ではない。
私の脳内で、猫と彼氏とカメのコタロウがグルグル回っている。
「ああ、もう!! 何でこんなに難しいの!!」
「ようやくやる気になったのですね!! 素晴らしいです!!」
突然声をかけられて、びっくりして振り返れば、本日の研修の講師が後ろに立っていた。い、いつの間に!!
「心配していたのですよ。この教室で一番ぼーっとして聞いておられたから」
にこやかに、割と辛辣なことを女講師は言う。
だが、反論はない。私は、本日ずっと坂本さんとコタロウのことを考えていた。
「難しく考えなくって大丈夫ですよ。わからない時は、基本に立ち返って、じっくり情報を整理して。順を追って考えれば良いんです。ほら、他の方を観察して学んだことだってあるでしょう?」
「……なるほど」
女講師は、今回の研修について言っているのだろう。だが、一理ある。
基本に立ち返って、もう一度坂本さんを見つめる。
あ、あれ……背中についているのって……。
坂本さんは本日、紺色のスーツを着ている。
その紺色のスーツの背中に、一本の毛がついている。
「分かった!! 分かりましたよ!! 先生!!」
「そう!! 素敵!! 良かったわ!!」
女講師もとっても喜んでくれる。
だが、もちろん私の分かったのは、坂本さんのコタロウの正体。
研修の内容? そんなのは、家帰ってから死に物狂いで勉強するから何とかなるだろう。たぶん。
今は、坂本さんのコタロウの正体が優先だ。
しっかり者の坂本さん。だから、出かける前に鏡でチェックして、取ってきたのだろうが、背中は見逃したのだろう。
そう、猫を飼っている者ならば、皆知っている。
猫を飼えば、ウール百パーセントだろうが、カシミヤ百パーセントだろうが、全ての衣類は、猫毛混《ねこげこん》になるのだ。
あの茶色い五センチメートルほどのピンとした白い毛。
猫毛に違いない。
カメにあんな毛は生えていない。人間彼氏のコタロウが銀髪の素敵猫系彼氏の可能性は……ありえないこともないが、人間の毛は、あんな毛質ではないだろう。たぶん。
猫好きで猫グッズを持っているなら、犬の可能性も低いはず。
だって、『コタロウ♡』ってつい落書きしてしまうくらいに溺愛しているならば、ワンコのグッズに買い替えるでしょ。猫グッズと同様に犬グッズも世にあふれている。買い替えるのは、簡単なはずだ。
これは、堂々と、ハッキリと、この名探偵、木下千早《きのしたちはや》の目の前に真実が現れたと言い切って良いだろう。
真実は、やはり一つなのだ!!
研修が無事に終わって、皆が片づけを始める。
同じグループだった男性社員達は、早々に帰ってしまった。
私は、文房具を猫柄のペンケースにしまう坂本さんに話しかける。
「坂本さん、最後の質問。いい?」
私の言葉に、坂本さんがニコリと微笑む。
「もちろんです」
私は、大きく息を吸って、最後の質問を坂本さんにする。
「コタロウは、猫ですか?」
私の最後の質問を聞いて坂本さんが笑顔になる。
その笑顔は、とてもまぶしかった。
「違いますね」
え、ち、違うの?
絶対猫だと思ったのに!
「坂本さん? 猫じゃないの?」
「違いますね」
「じゃあ、じゃあカメ?」
「カメ?」
坂本さんが、フフッと声を出して笑う。
「まさか他に迷っているのが、カメだとは思ってもみませんでした」
どうやらカメでもないらしい。
え、じゃあ……やっぱり猫系彼氏?
「彼氏……さん?」
おずおずと聞いてみるが、当然のことながら「さあ、どうでしょうね」とはぐらかされて、坂本さんは答えてくれない。
「坂本さん、意地悪だ」
「だって、三つの質問、終わったんですよ」
そうだけれど……。
シュンとする私の頭を、撫でてくれる坂本さん。
「そんなの、これからお話している内に、なんとなく分かりますよ」
「仲良くしてくれるの?」
「当たり前でしょ? 同期なんだし、こんなに面白い子、なかなかいませんし」
面白い子っていうところには、ちょっとひっかかるが、どうやら当初の目的は果たせたらしい。