止まない雨はない。
そして、過ぎ去らない台風はない。

次の日、昨日の荒れた天気が嘘かのように、
澄み渡った空が広がっていた。

星宮君にちゃんときくんだ、と決心してから、
ふわふわして上手く寝付けなかった私は、
いつもよりも早く起きてしまっていた。

どうせ、学校が開くのは朝の七時なんだから、
早く起きたとて、することはないけれど…

いつもは昇降口で会うはずの星宮君が、
今日はいなかった。

教室で待っているのかな、と思って、
教室に駆け足で行っても、そこにはいなかった。

五分経っても、十分経っても星宮君は現れなくて、
次第に不安になる。

(いや、十分経ってもこないだけでこんなに心配になるなんて…)

星宮君にちゃんと話しかけることだけを目的に早く学校に来た私は、
朝学習という目的をすっかり頭の奥底にしまっていた。

十五分が経った。

まだ現れない星宮君。
もう待つことに疲れた私は、机に顔を預け、
窓の外を眺めていることにした。


四月。
誰もいない教室で、一人、空は綺麗だなんて思いながら見つめていた。
一人でいることが、当たり前だった。
真面目とかいう仮面をかぶっていれば、
誰も私のことを気にも留めないと思っていた。

どうせ、陰キャだから、このクラスの「かげ」であろう。
目立たないでいよう。

そう思っていたのに、私の一人の世界には、
いつの間にか、たくさんの人が入ってきていた。

頭数だけ揃えればいいっていうわけじゃない。

たくさんの、人数というよりかは、
たくさんの、密度の高い人達に出会えた。

今までは、目を伏せてしまっていた、
違う種類の人たち。

私は、星宮君のおかげで、
五十嵐君とも、林さんとも、話をするようになった。
関わるようになった。

彼らの「いつもの」の一部になった。

友達、とかいう肩書きが欲しいわけじゃなくて、
ただ私は、人と繋がっていたいんだって気づくことができた。

星宮君が、なんで私に彼の過去を言いたくないのか、
別に、知らなくてもいい。

ただ、ききたい。
星宮君の言いたいことがあれば、私がきいてあげたい。

こんな私を、視線の中から拾ってくれて、
彼の『幼馴染』たちと関わらせてくれたから。

私も、星宮君の力になりたい。

なれるものなら、ね。


朝は、頭がスッキリしているのか、
空っぽの頭だからなのか、遠回りして、
いろんなことを考えすぎてしまう。

(今日も、悪い癖、発動してるな。)

たかが、数十分、教室に来ないだけのクラスメイトを待つ私。

(今日はもう、来ないのかな。)

そんな不安が頭をよぎった矢先、

バンッと教室の扉が勢いよく開いた。

「ごめんっ!今日、電車遅延して…
って、え、どうしたの?」

走ってきたのか、息を絶え絶えにした星宮君が、
私の方に歩み寄る。

「え、どうしたの?って何が…」

そう言いながら、生暖かい水が私の頬を伝うことに気づく。

「だって、下原さん、泣いて…」

「あ、いや、これは、なんでもないっ!」

なんで涙なんてでてくるのか、
まったく理解できなくて、急いで拭う。

泣いている私を心配そうに見つめる星宮君が、
席につきながら話しかける。

「その涙、甘い?しょっぱい?」

「え?」

急に涙の味を尋ねられて、星宮君の言葉を
頭の中でもう一度転がす。

(甘い…、しょっぱい…?)

拭っても、拭っても、止まない涙を
少しだけ舐めてみる。

「甘い…」

涙なんて、初めて味わった。
味なんてあるんだと、呆然としている私に星宮君は続ける。

「知ってた?涙って、感情によって味が変わるらしいよ。」

「え、そうなの?」

「うん。しょっぱい涙は、悔しい時、怒っている時の涙。
そして、甘い涙は…」

星宮君の解説が一旦止まる。

「ん?甘い涙は?」

私の涙が表している私の感情を見つけたくて、
星宮君に尋ねる。

「甘い涙は…」

少し顔を伏せて、星宮君が続ける。

「嬉しい時、の涙…」

(嬉しい、時…?)

私の感情と、この涙を照らし合わせてみる。

「ははっ。何それ?」

嬉しい時に流す涙なんてあるのかと、
星宮君の答えに思わず笑い出してしまう。

笑いだした私に表情が緩んだ星宮君。

「だよね。俺も今、下原さんみてて、なんか違う気がしてきた…」

「じゃあ、これは嬉し涙って呼ぶべきものってこと?」

いや、いっそのことそう思ってしまった方が、
楽なんだと思い至る。

「そういうことにしとく?」

「うん、そうする。」

私の言葉に、コクっと頷く。

「朝学習、涙のお話、でしたー。」

ニコッと笑った星宮君が棒読みで読み上げる授業題目に
再び笑いがとまらなくなった私。

さっきまで、もう来ないんじゃないかとか考えていたことが馬鹿馬鹿しく感じる。

「でもさ、泣くほどのことがあったんだったら、
話ぐらいは聞けるよ、俺。」

急に真面目なトーンで星宮君が言う。

じっと見つめてくるその視線に応えるように、
私は顔をあげる。

話ぐらいは聞く、
そう言っている星宮君こそ、自分のこと何も話してくれないじゃん。

少しだけ、昨日の夜の葛藤が心に戻ってくる。

これ以上、一人で考えても仕方がない。
割り切った私は、星宮君に伝えたかったことを話すことにする。

「あのさ…」

「うん。」

口を開けた私に、続きを促すように星宮君が相槌を打つ。

「昨日、というか、おととい…
星宮君に悪いことしたかなって気になって。」

「おととい?」

「そう。あの、五十嵐君と林さんと幼馴染なのかって聞いてしまったところ。」

あーね、と思い出したかのように、
星宮君は頷く。
それ以上何のリアクションも示さないから、私は言葉を続ける。

「いや、そもそも、
過去の話をしてくれって頼んだこともないし、
過去の話を聞きたいって思ったこともないけど、
急にあんなこと言ったら、失礼だったかなって。」

「失礼?」

「え、だって、星宮君が私には言ってなかったことを、
林さんとか、五十嵐君に聞いて、それを星宮君に言うって、
私だったら複雑かなって。」

「いや、そんなことないよ。
俺も、隠そうとは思ってなかったけど、ほら、
言うタイミングがなかっただけで。」

確かに、幼馴染なの?とか、聞くタイミングもないし、
わざわざ、幼馴染なんだ、って話を切り出すこともできない。

だけど、私は失礼なことをしたなら謝りたかった。

「でも、ごめんなさい。
星宮君の過去を変に詮索するような形になってしまって。」

頭を下げた、というか、無意識に俯いてしまった私に、

「いや、俺のほうこそ。
この間はなんで知ってるのかなって気になって、
変な態度とってしまって、ごめん。」

なんでかわからないけど、
星宮君の方が謝ってくる。

「いや、星宮君が謝ることじゃ…」

「この際さ、俺から俺の話、してもいい?」

謝るつもりだったのに、逆に謝られて困惑する私に、
星宮君がさらに私を困らせる台詞を吐く。

(話ぐらいなら聞く、って言ったの星宮君なんだけどね。)

いつの間にか、
話をする側から聞く側にまわらされた私は
星宮君の質問に、頷くしかなかった。

良かった、と一呼吸置いてから、星宮君は話し始める。

「俺さ、小学校から、あの二人とは一緒だったんだよね。
ってここは聞いてる?」

「うん、林さんから聞いてる。」

「そっか。じゃあ、親の都合でハンガリーに行ったってとこは、聞いた?」

「あ、五十嵐君がオーストリアとハンガリー、
どっちかわからないって言ってたよ。」

「五十嵐らしいや。俺が行ったのは、ハンガリーのインター。
そこに、小四から中二まで通ってたんだよね。」

「インター?」

知らない言葉が急に出てきて首を傾げる私。

「あ、ごめんごめん。インターナショナルスクール、略してインター。
だから、ハンガリー語、じゃなくて英語で授業だったんだ。」

「へぇー、初めて聞いた。」

「まぁ、一応、日本にもアメリカンスクール、的なものはあって、
英語で授業ってあるけどね。あ、そこはいいとして…」

(そこはいいとして、他に何が言いたいんだろう。)

星宮君が話したがっていることを掴み取れなくて、
続きを待つ。

「で、日本に帰ってきて、中三ね。
そのまま高校受験だったんだけど…」

心なしか、星宮君の顔に曇りがかかる。
知られたくない、っていうパートはここからなのかもしれない。

聞いてるだけの私が、無駄に緊張している。

「ま、インターからきた帰国子女ってことで、
最初は周りからチヤホヤされたんだけど、その先なんだよね。」

思い出したくないものを、一つ一つ思い出すように、
ゆっくりと言葉を探している星宮君。

「帰国子女っていう肩書きが無駄にのしかかってきて。
単に、英語が好きだから英語ができても、
『帰国子女だから、当たり前。』とか
『帰国子女だから、英語できてずるい。』って言われたり…」

(え、そんなことある?)

言われた当事者でもないのに、私の方がイライラしてくる。

「俺さ、髪の色明るいじゃん?」

自分の髪を触りながら、星宮君が続ける。

それは、私も気づいてたことだから、
コクン、と頷く。

「あぁ、下原さんにも、言われたことあったね。
これ、俺が水泳やってるからなんだよね。
ほら、プールの水で、色素が薄くなるってやつ。」

ああ、なるほど、と無意識に顔が動く。

「それもさ、『帰国子女、ってかハーフなんじゃね?』、
『帰国子女だからって髪染めていいのかよ』って変なイチャモンつけられてさ。」

「いや、ちょっと待って。」

「どうした?」

「さっきから聞いてたら、星宮君が中学校で会った人たち、
みんな非常識だよ。人を傷つける、ってことの重さがわかってない…」

星宮君の話を聞いていて、
居た堪れなくなった私は感情をコントロールすることができなかった。

「だって、意味わかんないよ。
全部『帰国子女だから…』とか言ってきて。
そんなの全然関係ないのにっ!
英語できても、英語頑張ってるからだし、
髪の色が明るかったって、そんなの個性じゃんっ!」

いつの間にか、拳を握りしめていた私を見て、
星宮君が目を丸くする。

「私、肩書きばっかりで人を判断するような人、
そんな人にだけはなりたくない。」

星宮君が過去に出会ってきた人たちを思うと、
目の前にいる星宮君より、全然私の方が怒っていた。

悔しかった。

評価されない、ことよりも、
理不尽な言葉を浴びせられないといけないことが、辛かった。

そして、そのことを星宮君に思い出させた自分に腹が立った。

謝る、どころの話じゃない。

辛いことを思い出させるほど、
自分が最低な人間になってしまったと、本気で落ち込む。

「ハハッ。」

ふと顔を上げると、
目の前にいる星宮君は、笑っていた。

(え、何が面白いの?)

戸惑う私を見て、星宮君が目をこすりながら言う。

「いや、俺さ、過去の話聞いてると、
めっちゃ被害者って感じがしてさ。
我ながら、恥ずかしいやって思って。」

「全然、恥ずかしくないよ!
むしろ、星宮君に色々言ってきた人たちの方が、恥を知るべきだよ。」

冷静な星宮君とは違って、苛立つ私。

「でも、下原さんは、違ったね。」

「え?」

何が言いたいのか、全くわからなくて、
顔を上げる。

「だって、『星宮君、かわいそう。辛い思いをしてきたね。』
みたいな、被害者と話す感じじゃなくて、むしろ怒ってるじゃん。」

「いや、怒ってなんか…」

「うんうん。怒ってはいないけど、怒ってるんだよね。
俺の代わりに。」

「星宮君の、代わり?」

「そう、あの時、俺も意味のわからないことばっか言われて、
悔しかったし、何か言い返すべきかもって言葉を探してた。
でも、諦めたんだよね。ヘラヘラ笑って流した方が楽かもって。」

(あ、私と一緒だ。笑って、誤魔化せば、楽なんだって思ってる。)

「でも、そんなことなかった。
全然、楽じゃなかった。やっぱり、人間、楽しくない時に
うまく笑えないんだよね。」

嬉しい時に涙は出るのにね、と星宮君が付け加える。

「だから、今、下原さんに話、できて良かった。
俺の代わりに、怒ってくれて、ありがとう。」

どこか涼しげな顔で、星宮君は笑う。

お礼を言われることなんて、何もできていないと私は首を横に振る。
どんな言葉をかけるべきか、まだわかっていない私に
星宮君は続ける。

「あと、今日の朝学習、全然勉強できなくてごめん。」

「…っそんなの、全然いいよっ。」

「え、全然いいの?」

皮肉った口調で尋ねてくる星宮君。

彼の目をまっすぐに見つめて、私は言う。

「私こそ、話してくれて、ありがとう。」

秘密の共有、ってほど大袈裟じゃないけど、
少しでも星宮君のことを知れて良かった。

そんな思いでいっぱいの私に、
目の前の星宮君は、ふっと笑って

「お互い様、だね。」

なんて言ってくる。

そんな星宮君の柔らかい笑顔を見つめていて、
斜め前の席から、隣の席になったからなのか、
いつもよりも星宮君の存在が近く感じた。