「えっ!? こんな貴重なもの頂いちゃっていいんですか!?」

 俺は思わず叫んでしまう。

「お主はなぁ……、これから多難そうなんでな。ちょっとした応援じゃ」

 レヴィアはナイフを畳むと俺に差し出した。俺を見つめるその真紅の瞳に、深い慈愛を感じる。

「あ、ありがとうございます」

 うやうやしく受け取ると、レヴィアはニッコリと笑い、俺の肩をポンポンと叩いた。

「じゃ、元気での!」

 レヴィアは俺に軽く手を振りながら、空間の裂け目に入っていく。

「お疲れ様でした!」

 知恵と力を併せ持つ偉大なるドラゴンの優しさに心から感謝し、俺は頭を下げる。

 すると、レヴィアは振り返ってニヤッと笑った。

「今晩はのぞかんから、あの娘とまぐわうなら今晩が良いぞ、キャハッ!」

「まぐわいません! のぞかないでください!」

 俺は真っ赤になった。なぜそんな余計なことを言うのか。

「カッカッカ! 冗談のわからん奴じゃ、おやすみ~」

 笑い声を響かせながら、空間の裂け目はツーっと消えていった。

「全くもう!」

 俺は渋い顔をしながら、いいように振り回されてしまう自分のふがいなさに首を振った。


       ◇


 ふぅ……。

 俺はバタフライナイフをランプに照らして眺めてみる。鈍く金属光沢を放つそれは、カチッと開くと青白い光を纏い、美しくその姿を浮かび上がらせた。

「ほう……」

 俺は試しに壁を斬ってみる――――。

 何の手ごたえもなくスーッと斬れていき、その斬れ目を広げたら外が見えた。

 あちこち斬ってみたがどこも簡単に斬れて、それでも斬られたものはつながったままである。確かにこれは凄い。

 試しに腕を斬ってみたが――――。なんと腕の断面が見えるのに痛くもなく、指先は普通に動いたのだ。単に断面が見えるだけという不思議な状況に俺は首を傾げた。そして放っておくと自然と切れ目は消えていく。なんとも不思議なアーティファクトである。こんなことは魔法でもできないのだ。ある意味、この世界が仮想現実空間である証拠と言えるかもしれない。

「ふぅ……」

 俺はナイフをしまい、椅子を並べてその上に寝転がった。

「今日はいろいろありすぎたな……」

 自然と脳裏に浮かんでくるのはドロシーとのキス――――。

 熱く濃密なキス……思い出すだけでドキドキしてしまって俺は思わず顔を覆った。

 しかし……、ドロシーの安全を考えるなら俺とは距離を取ってもらうしかない。

『大いなる力には大いなる責任が伴う』

 院長の言葉が俺の頭の中でぐるぐると回った。これから俺の人間離れした力が多くの問題を引き起こすだろう。もう逃げる以外ない。そんな逃避行にドロシーを連れて行けるわけがないのだ。

 はぁぁぁぁ……。

 深く重いため息が漏れる――――。

 やるせない思いの中、徐々に気が遠くなり……、そのまま睡魔に流されて行った。


        ◇


 翌朝、曙光(しょこう)が差し込む店内で、山のようにある食べ残しやゴミの山を淡々と処理しながら、俺は深い思考の海に沈んでいた。この店の行く末、そしてドロシーとの関係をどうすべきか、心の中で激しい葛藤が渦巻いていた。

 武闘会とは言え、貴族階級である勇者を叩きのめせば貴族は黙っていないだろう。この世界では平民は常に貴族の下でなければならないのだ。その冷酷な現実が、重い鉛のように胸に圧し掛かる。何らかの罪状をこじつけてでも俺を罪人扱いするに違いない。そう考えると、やはり逃げるという選択肢しか残されていないように思えた。

 リリアンが味方に付いてくれたとしても、王女一人ではこの根深い階級社会の構図は変えられまい。事前に彼女の騎士にでもなって貴族階級に上がっていれば別かもしれないが……、そんな生き方は俺の本質とかけ離れている。世界最強となって圧倒的な自由を得たはずなのに、檻に閉じ込められるようなものだ。

 結論は重く、しかし明確だった。店は閉店。ドロシーは解雇せざるを得ない。その決断が、胸を締め付けるように痛んだ。

 ヌチ・ギや王国の追手から逃げ続ける危険な逃避行に、十八歳の女の子を連れまわすなんてありえないのだ。どんなに大切だとしても、いや、大切だからこそここは身を引くしかない。その決意が、心を引き裂く――――。

 悶々(もんもん)としながら手を動かしていると、階段を降りてくる足音が聞こえた。振り返ると、そこにはまだ眠そうな表情のドロシーがいた。

「あ、ド、ドロシー、おはよう!」

 昨晩の熱いキスを思い出して、思わずぎこちない声になる。心臓が高鳴り、言葉が詰まりそうになった。

「お、おはよう……なんで私、二階で寝てたのかしら……」

 ドロシーは伏し目がちに聞いてくる。どうやら昨晩の記憶が無いようだった。

「なんだか飲み過ぎたみたいで自分で二階へ行ったんだよ」

 嘘をつくような気がして胸が痛むが、今はこれが最善だと自分に言い聞かせる。

「あ、そうなのね……」

 どうも記憶がないらしい。キスしたことも覚えていないようだ。その事実に、安堵と失望が入り混じる複雑な感情が胸に渦巻いた。