「試しに繋いでみるってのは?」
俺は沈黙に耐えられず、口を開いた。
「繋ぎ間違えたら壊れてしまうんじゃぞ? お主、それでも試すか?」
ドスの効いたレヴィアの声に、俺はブルっと身を震わせる。
「いやっ……、そ、それは……」
間違えたら死亡確定なロシアンルーレットなど到底引けない。
「カーーーーッ! 電源さえ戻れば光る物はあるんじゃがなぁ!!」
レヴィアがバン! と操作パネルを叩いた。
「魔法……とかは?」
「海王星で魔法使えるなんてヴィーナ様くらいじゃ」
「そうだ! ヴィーナ様呼びますか?」
「……。なんて説明するんじゃ……? 『シャトル盗んで再起不能になりました』って言うのか? それこそ星ごと抹殺されるわい!」
恐ろし気に首を振るレヴィア。金髪が暗闇で揺れた気配がする。
「いやいや、ヴィーナ様は殺したりしませんよ」
「あー、あのな。お主が会ってたのは地球のヴィーナ様。我が言ってるのは金星のヴィーナ様じゃ」
「え? 別人ですか?」
「別じゃないんじゃが、同一人物でもないんじゃ……」
レヴィアの説明は全くもって意味不明だった。そもそも金星とはなんだろうか? 混沌とした疑問が渦巻く。
その時だった。
コォォーーーー。
何やら船体前方から音がし始めた。僅かに振動も伝わってくる。
「マズい……。大気圏突入が始まった……」
後ろからはスカイパトロール、前には大気圏、まさに絶体絶命である。命運を分ける時が近づいていた。
「ど、どうするんですか!?」
心臓がドクドクと速く打ち、冷や汗がにじんでくる。脈拍が耳朶を震わせる。
「なるようにしかならん。必ず時は来る……」
レヴィアは覚悟を決めたようにケーブルを持つと、静かに明るくなる瞬間を待った。長年生きてきた龍の威厳が戻ってきたように感じる。
確かに大気圏突入時には火の玉のようになる訳だから、その時になれば船内は明るくなるだろうが……それでは手遅れなのではないだろうか? だが、もはやこうなっては他に打つ手などなかった。二人の、我が星の幸運を信じるしかない。
徐々に大気との摩擦音が強くなっていく。船体を震わすガタガタという音が、次第に激しさを増す。
重苦しい沈黙の時間が続いた。漆黒の闇の中で、二人の祈りが交差する――――。
◇
いきなり船内が真っ赤に輝いた。紅蓮の光が漆黒の闇をいきなり引き裂く。
「うわっ!」
恐る恐る目を開けると目の前に『STOP』という赤いホログラムが大きく展開されていた。威圧的な文字が、宇宙空間に浮遊する。
「よっしゃー!」
レヴィアは嬉々としてケーブルに工具を当て、作業を開始する。その手捌きには数千年の経験が滲んでいた。
「見えさえすればチョチョイのチョイじゃ!」
軽口を叩きながら手早くケーブルを修復していくレヴィア。
その時だった――――。
パン! パン!
威嚇射撃弾がシャトルの周辺で次々とはじけた。閃光が|船体を包む。ついに実力行使が始まってしまった。
「ひぃぃぃぃ! レヴィア様ぁ!」
俺は真っ赤に輝く船内で間抜けな声を出す。この極限状況で、声が裏返ってしまう。
『くふふふ。頑張れ頑張れ』
急に若い女性の声が頭に響いた。優美で楽し気な声が、まるで風のように心の中を通り抜ける――――。
へ……?
俺は急いで辺りを見回してみるが、誰もいない。血の気が引く思いで、船室の隅々まで目を凝らす。
「だ、誰……?」
俺はキツネにつままれたように呆然としてしまう。
その悪戯っぽい声の主は、この危機的状況を楽しんでいるかのようだった。
赤い光の中で、見えない存在の気配が漂う。命懸けの逃走劇に、新たな謎が加わった瞬間だった。
「あ、あの……。今、誰かの声が……」
俺は恐る恐るレヴィアに聞いてみた。
「こんな時に何を言うとる! ホイ、できた! 行くぞ!」
どうやらレヴィアには聞こえていなかったようだ。
レヴィアはケーブルをしまい、バン! とパネルを閉める。
ブゥゥン!
起動音がして操縦パネルが青く光り、船室にも明かりがともった――――。
命の灯が戻ってきた瞬間に俺は安堵のため息をつく。
しかし、パン! パン! と、容赦ない威嚇射撃が再度船体を震わせた。
ひぃっ!
俺はこれから始まる逃走劇に胃がキリキリと痛んだ。
キィィィーーーーン!
甲高い音が響き、ゆっくりとエンジンに火が入る。船内に低周波振動が伝播していく。
『S-4237F、直ちに停船しなさい。繰り返す。直ちに停船しなさい』
スピーカーも復活し、スカイパトロールからの警告が響く。その無機質な声が、緊迫感を煽る。
「しつこいのう……」
レヴィアは画面をパシパシっと操作した。
『システムトラブル発生。救難を申請します。システムトラブル発生。救難を申請します』
スピーカーから機械音声が流れる。レヴィアは偽装した遭難信号を、宇宙空間に放ったのだ。
「まずは遭難を装うのが基本じゃな。そしてこうじゃ!」
レヴィアは舵をググっと向こうへと押し込む。それは海王星に真っ逆さまに落ちて行くルートだった。
へっ!?
俺は目を疑った。
通常、大気圏突入時には浅い角度で徐々に速度を落としながら降りていく。急角度で突入した場合、燃え尽きてしまうからだ。しかし、レヴィアの選んだルートは燃え尽きるルート、まさに自殺行為だった。焼失への一直線――――。
「レ、レヴィア様、燃え尽きちゃいませんか?」
声に震えが混じる。
「スカイパトロールから逃げきるにはこのルートしかない。奴らは追ってこれまい」
「そりゃ、こんな自殺行為、追ってこられませんが……、この船持つんですか?」
「持つ訳なかろう。壊れる前に減速はせねばならん」
レヴィアはキュッと口を結んだ。
俺は思わず天を仰ぐ。次から次へと起こる命がけの綱渡りに頭が痛くなる。燃え尽きるか、捕縛されるかのわずかな隙間――――。絶望的なルートしか残されていない現実が、重く圧かかる。
操縦パネルの隣には立体レーダーがあり、スカイパトロールの位置が赤く明滅している。彼らも燃え尽きルートを追いかけてきているようだ。追跡者たちの執念が、レーダー画面に輝いている。俺はただ、祈るようにそれを見つめた……。
「まだ追いかけてきますよぉ……」
「くっ! しつこい奴らじゃ……」
ヴィーン! ヴィーン!
警報が鋭い音を上げ、狭隘な船内に反響した。
『設計温度の上限を超えています。直ちに回避してください。設計温度の上限を超えています。直ちに回避してください』
「うるさい! そんなの分かっとるわい!」
レヴィアの操縦桿を握る手が震えた。
シャトルの前方が灼熱の赤色に輝き始める。大気との摩擦で船体が悲鳴を上げ、まるで太陽に突っ込んでいくかのような光景だった。巨大な流星と化した船体からは、オーロラのような光の帯が引かれていく。
それでも追っ手のスカイパトロールの姿はレーダーの画面に執拗に映り続ける。シャトルが燃え尽きるのが先か、彼らが諦めるのが先か――――。まさに地獄のチキンレースだった。
轟音が鼓膜を震わせる中、俺の鼻腔を焦げた臭いが襲う。制御パネルの警告音が耳障りな音を立て続けていた。
「奴らもヤバいはずなんじゃが……」
レヴィアは眉間にしわを寄せ、レーダーを凝視する。
ボン!
突如、右翼先端が爆発し、シャトルが大きく横揺れする。
「うわぁぁぁ!」「くぅっ!」
操縦パネルに大きく『WARNING』の文字が血のように赤く点滅を始め、機体の振動が激しさを増していく。
「レヴィア様、もうダメです! 減速! 減速しましょう!」
死の予感に背筋が凍った俺はレヴィアの腕を握った。ここで燃え尽きたら、すべてが終わってしまう。
しかし、レヴィアは俺の手を振り払った――――。
「黙っとれ! ここが勝負どころじゃ!」
その真紅の瞳は、刻々と上昇する温度計を睨み付けていた。
どんどん上がっていく温度……。制御パネルの数値はとっくに限界値を超えてレッドゾーンに突っ込んでいた。
冷や汗が背中を伝う。一度は死に、美奈先輩の導きで異世界に転生したこの命。もし、ここで再び命を落としたらまた美奈先輩の元へ戻れるのだろうか? いや、確か一度きりと告げられていたはず……。
くぅ……。
やはり死んだら終わりなのだ。それに、これは俺一人の問題ではない。愛するドロシーと、アンジューの仲間たちの未来がかかっている。こんな場所で、こんな形で命を散らすわけにはいかない。
俺は両手を強く握りしめ、心の底から祈った。神も仏も女神も美奈先輩も、どんな存在でもいい。ただ、この危機を乗り越えさせてくださいぃぃぃ!!
全身全霊を込めて祈った。今この瞬間、俺にできることはこれしかない。
「ヨシッ!」
突如、レヴィアの力強い声が轟いた――――。
直後、プラズマエンジンが最大出力の逆噴射で船内は割れんばかりの轟音で埋め尽くされる。
ぐはぁぁぁ……。
巨大な力でシートベルトが肋骨に食い込み、呼吸すら困難になった。
朦朧とする意識の中、レーダーに目を向けると、追跡者の影が進路を変えていくのが見えた。
ボシュッ!
衝撃と共に、視界が乳白色の靄に包まれる。高層雲に突入したのだ。だが、制御パネルの警告音は一向に収まらない。船体を包む熱は、周囲の雲を蒸散させながら、なお上昇を続けていた。
ボン! と、左翼先端が爆ぜ、火花を散らす。一瞬の閃光が雲を朱に染める。一難去ってまた一難。シャトルは制御を失い、狂ったように自転を始めた。
ひぃぃぃぃ!
絶叫が喉から絞り出される。
「うるさい、黙っとれ!」
レヴィアは両手で操縦桿を掴み、全身を操作に集中していた。金髪が宙を舞い、額には汗が光る。
やはり大気圏突入で逃げ切るというやり方は、無理があったのではないだろうか?
白銀の雲海の中をグルグルと回転しつづけ、目が回るを超え、意識が遠くなっていく中、不思議と心が澄んでいくのを感じた。目の前で、懐かしい記憶が走馬灯のように流れ始める。
石垣島の真っ白な砂浜で嬉しそうに笑うドロシー。彼女の笑顔は太陽より眩しかった。夕暮れ時、二人で剣の手入れをしながら交わした他愛もない会話。孤児院の古い木の床が軋む音。すべてが懐かしい。
まさか海王星上空で、こうして命を賭けることになるとは、誰が想像しただろう?
俺はキリモミしていく身体に翻弄されながら、深いため息をついた。
死の淵に立たされた俺は自問する。俺は正しくやれていただろうか――――?
チートという異常な力を得て、好き勝手な生活を送ってきた。ドロシーとの結婚、奪還含めてすべては俺の我儘な選択だったのでは? 自分の行動が、世界の歯車を狂わせてしまったのではないか? 後悔と自責の念が、回転する視界と共に心を締め付ける。
鉛のような重さの心を持て余していると、ふいに回転が緩やかになってくる。
あれ……?
「ヨッシャー! 我にかかればこんなもんよ!」
レヴィアの勝鬨が、俺の暗い思考を打ち砕いた。
緩やかに回転が止まり、シャトルの姿勢が安定してくる。制御パネルの警告音も弱まり、温度計の数値が徐々に下降線を辿っていた。
ボシュッ! という湿った空気の膜を突き破るような音と共に、シャトルは雲海から顔を出す。
突如として、蒼穹の世界が眼前に広がった――――。
果てしない水平線が弧を描き、碧玉のような青い表面が太陽の光を受けて輝いていた。
おぉぉぉぉ……。
思わず息を呑む。眼下に広がる海王星の広大な界面は、まるで永遠を湛えているかのように静かに横たわっている。
追跡者の影はもう見えない。レヴィアの破天荒な選択と卓越した操縦技術が、俺たちを死地から救い出してくれたのだ。さすが数千年生きた龍、ただものではなかった。
ふと、心の中で澱んでいた思考が晴れていく。よく考えればこの事態は、単に俺の我儘が引き起こしたものではない。世界に長年積み重なっていた歪みが、俺という存在を契機として一気に表面化しただけなのだ。
悩む時間は終わった。ここまで来たからには、この綻びかけた世界を正す使命を全うするしかない。俺の選択が正しかったかどうかは、これからの行動で証明されるのだから。
世界の理を越えて命懸けでやって来た海王星。この蒼潮の惑星で、ヌチ・ギとの決着をつけるのだ。俺は握り締めた拳に決意を込めた。
シャトルは静かに、大気の海を泳ぐように飛び続ける。陽の光を受けて輝く雲海が、俺たちの行く手を祝福するかのように、優しく道を開いていった――――。
◇
溟濛とした闇が洞窟を満たし、火山の息吹だけが時折、石壁を震わせている。宮崎の活火山の中腹に隠された神殿で、ドロシーは独り、愛する者たちの帰還を待っていた。
厳然と佇む古の神殿の幾重にも刻まれた繊細な彫刻たちを、モニターの青い光がチラチラと照らしている。
ドロシーは一人寂しく画面を眺めていた。
二人が向かったという場所は海王星――――。
別の星へ行くと言ってポッドに入ってしまった二人。なぜ、ポッドに入ると他の星へと行けるのか皆目見当はつかないが、ユータは全て分かっているようだった。
空間を自在に裂くドラゴンの姿。そして、ドラゴンの難解な言葉を理解し、共に戦うユータ。彼らは今や、人知を超えた領域へと踏み出している。
「帰ってきたら全部教えてもらうんだから……」
ドロシーは頬を膨らませ、テーブルに肘をつく。それでも不満げな声音の奥には、深い愛情と信頼が潜んでいた。
ピチョン……、ピチョン……。
洞窟の奥深くから、水滴の落ちる音が微睡みを誘う。かつてリリアン王女と訪れた思い出の神殿。あの日の清々しい空気が、今は不気味な緊張に満ちていた。
テーブルに額を付け、ドロシーはまるでジェットコースターのような今日の出来事を反芻する。自分が攫われ、ユータ、アバドン、レヴィアに助けられた瞬間。しかし待ち受けていた戦乙女との戦い。そして、ヌチ・ギが叫んだ世界を焼き尽くすという狂気の言葉――――。
まるで神話の一頁のような出来事が、確かな現実として心に刻まれている。この神殿こそが、世界の命運を決する最前線。ポッドに横たわる二人の身体を守ることが、人類の未来を左右する。そしてその重責は、今まさに自分の双肩にかかっているのだ。
孤児院で育った十八歳の少女が、まさか世界の命運を握るような立場に立つとはとても想像できなかった。
日々の糧を得て、愛する人と共に暮らすことだけを夢見てきたどこにでもいる女の子。しかし世界は、そんな牧歌的な傍観を許さなかった。
ユータと共に生きることを選んだ時から、覚悟はしていたはずなのに――――。
想像をはるかに超える重圧が、今、ドロシーの肩に圧し掛かっていた。
「ふぅ……、ビックリしちゃうわよね……」
囁くような独り言が、静寂の中に溶けていく。幽遠な闇の向こうで、運命の歯車が音もなく回り続けていた。
ヌチ・ギたちの猛威に抗うすべを持たぬ非力な自分に何ができるのか? 彼らの放つ異形の力を、この身一つで防ぐことなど到底できない。神殿には幾重もの結界が張り巡らされているはずだが、それとていつまでも持ちこたえられるとは思えない。
レヴィアから託されたのはただ一つ、火山の噴火を引き起こすボタン。しかし、この切り札は本当に効果を発揮するのだろうか? 炎の海と化すことを厭わぬ彼らに、劇的に効くとは思えない。もちろんレヴィアの仕組んだ噴火なのだ。直撃させれば致命傷となるかもしれないが――――。火口に誘い込み、動きを止める。そんな都合の良い機会など、自分一人でどうすれば作り出せるというのか。
ドロシーは立ち上がると、迷いに揺れる心を振り払うように両手で頬を叩いた。
「私だけなんだから、頑張らなくっちゃ!」
キュッと口を結ぶと腕を組み、ブンブンと首を振るドロシー。銀髪が揺れる――――。
世界の未来と、愛するユータのために必死に思考を巡らせていく。
その時だった。突如として大地が咆哮を上げた。
激震が神殿を揺るがし、パラパラと洞窟の上の方から破片が降り注ぐ――――。
「キャーーーー!」
ドロシーは悲鳴を上げながら椅子に縋りついた。足下の大地が、怒りに震えているかのようだ。
「ドラゴン! 出てこいっ! そこにいるのは分かってんだ!」
火口を取り巻く外輪山の頂から、容赦なき声が轟く。
モニターの映像が自動的に拡大され、ヌチ・ギの姿が浮かび上がる。その背後には五人の戦乙女が峻厳な面持ちで控えていた。
ついに来てしまった――――。
ドロシーは震える手で頭を抱え込む。
心の底から恐れていた瞬間がやってきた。世界の命運を決する防衛線の火蓋が、今まさに切られようとしている。しかし、武器は火山の噴火ボタンだけ。まさに絶体絶命だった。
「どうしよう……」
囁きが、虚空に消えていく。
しかし――――。
今この時、最後の砦に立つのは自分なのだ。誰も代わりはいない。
「おい! 無視するなら火山ごと吹き飛ばすぞ! ロリババア!」
ヌチ・ギの嘲罵が、冷たい風と共に神殿に降り注ぐ。
ドロシーは深く息を吐くと、凛然と立ち上がる。迷いを捨て、覚悟を決めた瞬間だった。今こそ、自分にできることを――――。
「あら、ヌチ・ギさん。美女さんをたくさん引き連れてどうしたんですか?」
火口の上に浮かび上がったドロシーのホログラムは、毅然とした態度で問いかけた。
「おい、小娘! お前に用なんかないんだ! さっさとドラゴンを出せ!」
苛立ちを滲ませる声が、火口内に反響する。
「んーーーー、ドラゴン……ですか? どちら様ですかねぇ?」
ドロシーは平静を装いながら、必死に時を稼ぐ。震える指先を、相手に悟られまいと懸命に抑え込む。
「何をとぼけてるんだ! レヴィアだ! レヴィアを出せ!」
「んーーーー、レヴィア様……ですね。少々お待ちください……」
ドロシーは席を離れ、静寂に包まれたポッドへと足を向けた。
ガラスカバーの向こうで横たわるユータの安らかな寝顔。その姿に胸が締め付けられる。ドロシーはそっと指先でガラスカバーをなでた――――。
震える瞬きの向こうで、想いが溢れそうになる。
あとどれくらいで帰ってくるのかは分からない。だが、一分一秒でも引き延ばす。それが今できる自分の全てだった。
ドロシーは深く息を吐き出し、覚悟を固める。
「私、がんばる……ね」
囁くような声で告げ、キュッと口を結ぶと小さな拳をブンブンと振った。
席に戻ったドロシーは、声に力を込めて告げる。
「えーとですね……。レヴィア様は今、お忙しい……という事なんですが……」
「何が忙しいだ! ならこのままぶち壊すぞ!」
絶体絶命の危機。胃を抉るような痛みに耐えながら、ドロシーは深く息を吸った。
「ヌチ・ギさんは戦乙女さん作ったり、すごい賢い方ですよね?」
ドロシーは頑張って優しげな口調でにこやかに声をかける。
「いきなり……何だ?」
「私、とーってもすごいって思うんです」
「ふん! 褒めても何も出んぞ!」
「でも、私、とても不思議なんです」
「……、何が……言いたい?」
ヌチ・ギの表情が怪訝に歪む。
「ヌチ・ギさんはこの世界を火の海にするって言ってましたね」
「それがどうした?」
「そ、それは……、すごい頭悪い人のやり方なんですよね」
ドロシーは心臓が口から出るような思いで、いまだかつて口にしたことのないような挑発に踏み切った。
「……」
ヌチ・ギはただの鑑賞用の小娘だと見下していたドロシーから挑発されたことに、頭が追い付いて行かなかった。
「だって本当に賢かったら人一人殺さず、この世界を活性化できるはずですから」
全力で作り笑いをするドロシー。
「知った風な口を利くな!」
ヌチ・ギは怒りに震えた。しかし、その奥に僅かな動揺が見える。ドロシーはそれを見逃さなかった。
「つまり……。活性化というのは口実に過ぎないんです。単に戦乙女さんたちで人殺しを楽しみたいんです」
ヌチ・ギは黙り込み、憤怒の色を深めていく。
「私、あなたに捕まって戦乙女さんたちのように操られそうになったから良く分かるんです。戦乙女さんは皆、心では泣いてますよ」
「だったら何だ! お前が止められるのか? ただの小娘が! もう一度裸にして吊るしてやる!!」
ヌチ・ギの咆哮が、火口に響き渡る。
時間稼ぎももう限界だった。ドロシーは覚悟を決めた――――。
「戦乙女さん達、辛いですよね。人殺しの道具にされて、心が引き裂かれそうですよね……。うっ……うっ……」
声が嗚咽に変わり、ドロシーの頬を熱い涙が伝う。この世界の理不尽さが、胸の奥を抉っていく。
「何言ってるんだ! 止めろ!」
ヌチ・ギの怒号が響く中、ドロシーは涙に濡れた顔を上げ、決意に満ちた声を振り絞った。
「戦乙女の皆さん、聞いてください。私、これから、この基地の秘密を皆さんに教えちゃいます!」
震える声が次第に力強さを帯びていく。
「ヌチ・ギさんに火口に入られてしまうと、この基地、すごくヤバいんです。ヌチ・ギさんは絶対に火口に入れるなとレヴィア様に厳命されているんです。絶対です。わかりますか? 絶対です!」
「は? 何を言っている!?」
ヌチ・ギの困惑した声が宙を舞う。一体ドロシーが何をしたいのか皆目見当がつかなかったのだ。なぜ基地の弱点を戦乙女教えるのか、ヌチ・ギの思考は混迷に沈む――――。
戦乙女たちの間に、静かな波紋が広がる。五人は無言の視線を交わし、何かが通じ合うように見えた。
直後、褐色の肌を持つ戦乙女が素早くヌチ・ギを羽交い締めにする。その瞳には、解き放たれた意志の光が宿っていた。
「レヴィアを殲滅せよとの命令を果たします」
その声には、長く封印されていた自らの意思が滲んでいた。
「お、おい、何するんだ!? 止めろ!」
混乱と狼狽に彩られた叫びが響く。物理攻撃無効で最大限のパワーを持たせた戦乙女が本気を出すと、さすがのヌチ・ギでも腕を振り払えない。
「命令を果たします」「命令を果たします」
残る四人の戦乙女たちも呼応するように唱和し、ヌチ・ギの四肢を固定する。そして一斉に、運命の火口へと飛翔した――――。
「放せーーーー!」
絶叫が火口に木霊する。
ドロシーの震える指が赤いボタンを探り当てた。
「あなた……私は、間違ってない……よね?」
問いかけは虚しく宙に消えるのみ。
うっうっう……。
涙で滲む視界の中、ドロシーは指先に決意の力を込めた――――。
ガチッ!
重い機械音が響き渡る。瞬間、神殿内の無数のモニターが一斉に紅く染まり、『EMERGENCY』の文字が不吉な輝きを放つ。古代の龍の咆哮を思わせる重厚なサイレンが、神殿の壁を震わせた。
「ごめん……なさい……」
懺悔の言葉は、か細い吐息のように零れ落ちる。ドロシーはテーブルに突っ伏し、肩を震わせた。
刹那――――。
大地が軋むような轟音を上げ、眠りし火山が目覚めた。鮮烈な紅蓮の柱が空を引き裂き、天を焦がす。
灼熱のマグマは容赦なくヌチ・ギと気高き戦乙女たちの姿を飲み込んだ。彼女たちの最期の叫びは、噴火の轟音に掻き消されていく――――。
まばゆいばかりの深紅の柱は空へと伸び続ける。それは解放の象徴であり、同時に永遠に消えることのない贖罪の印だった。
「戦乙女さんたち……ごめんなさい……うわぁぁぁ!」
初めて人を手にかけてしまった――――。
世界のためとはいえ、その底なしの罪悪感がドロシーを蝕む。
轟々と続く噴火は、まるで天の怒りのよう。真紅の溶岩と黒煙が天空を覆い尽くし、世界が崩れ落ちる予兆のようにすら見えた。
硫黄の匂いが鼻をつく中、ドロシーはガックリと神殿の床に膝をつく――――。
彼女の目の前で、五人の乙女たちは紅蓮の炎の中へと消えていった。レヴィアの周到な準備により、彼女たちの誇るべき加護も、マグマの灼熱には耐えられなかったようだ。
ズン! ズン! と止めどなく続く衝撃に神殿が揺れ、壁に亀裂が走り、破片が落ちては転がっていく。
神殿が倒壊の危険すらある中、ドロシーは動くことができなかった。
「うっうっうっ……ごめんなさいぃぃ……うわぁぁ!」
涙が止まらない。戦乙女たちの清々しさすら感じさせる最期の表情が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。世界の存続か、五つの命か──そんな残酷な選択を、彼女はしなければならなかったのだ。
罪の意識が全身を覆い、ドロシーは床に突っ伏して嗚咽を漏らす。世界を救うための必要な犠牲だと、頭では理解している。でも、心が追いつかなかった。
神殿に響く悲痛な泣き声は、まるで魂そのものが引き裂かれるような痛みを帯びていた。その響きは、いつまでも薄暗い神殿の空間に漂い続けた……。
重力に導かれるように、シャトルは海王星の深淵へと滑り落ちていく。船体が軽く震え、風切り音が響く中、窓の外には果てしない青みがかった世界が広がっていた。
船内では、レヴィアが無骨な工具を手に取り、器用に爆発で損傷した主翼の応急処置に没頭していた。彼女の手際の良さは、幾度となく危機を乗り越えてきた経験の証だった。
「もう少しじゃ、ここを繋ぎ合わせれば……」
レヴィアの呟きが聞こえた瞬間、ボウッという鈍い音が船内に響き渡る。自動操縦のシャトルは海王星の界面に突入したのだ。
窓の外には青い海も空もない。代わりに目に飛び込んでくるのは、朦朧とした霞のような雲の層。暴風に揺さぶられながら、シャトルは深みへと沈んでいく。
「地球の海を思い出しますね」
ユータの言葉に、レヴィアは微かに頷いた。確かに、透明な海水が上から見ると青く見えるのと同じ原理だった。
はるか彼方の太陽の光は、徐々にその存在感を失っていく。
深淵から闇が迫ってくる――――。
作業を終えたレヴィアは鋭い目つきで前照灯のスイッチを入れ、さらなる深部への航行を続けた。
やがて船の周りを舞う無数の白い輝きが目に入った。吹雪のように激しく渦巻く光の粒は、フロントガラスにパチパチと当たりながら煌めきながら周りを過ぎていく。
「これ、何だかわかるか?」
レヴィアの口元に浮かぶ悪戯っぽい笑みに、俺は首を傾げる。
「え? 雪じゃないんですか?」
「はっはっは! ダイヤモンドじゃよ」
「ダ、ダイヤ!?」
いきなり告げられた宝石の名前に、俺はポカンと口を開けたままフロントガラスをのぞきこむ。
「取ろうとするなよ、外は氷点下二百度じゃ。手なんか出したら即死じゃ」
「だ、出しませんよ!」
慌てて否定するユータだが、心は揺れていた。目の前で舞い踊る煌びやかなダイヤの吹雪。一つでも持ち帰ることができれば、ドロシーの指に輝く指輪に仕立てられるのに――――。
だが、ここでふと考えこむ。海王星の物質である宝石を、デジタルの世界へと持ち込むすべなどあるのだろうか? VRのゲームプレイヤーが、VR空間に持ってるものを持ち込めないように、この目の前にあるダイヤを自分の星へと持ち込むことは不可能に思えた。
俺は常識の通用しない別世界に来てしまったことを改めて実感させられ、思わず首を振る。
無数のダイヤモンドは、シャトルの周りで煌めきながら、永遠の饗宴を続けていた。
◇
やがて吹雪の向こうにチラチラと灯りが見えてきた。シャトルは緩やかに減速しながら、そちらへと近づいていく。
「ヨシ! やってきたぞぉ!」
レヴィアはグッとこぶしを握った。その瞳には、懐かしさと誇りが混ざり合って見える。
やがて、吹雪の向こうに巨怪な漆黒の箱が姿を現した。箱といっても一キロはあろうかという巨大構造物だ。そしてその上方からもくもくと蒸気を噴き上げている。
無骨な壁面には幾何学模様の継ぎ目に光の帯が走り、まるで生命の鼓動のように明滅を繰り返していた。
さらに、その巨大構造物は無数連なっており、まるで永遠の闇を駆ける巨大な蒸気機関車のように見える。
「これが……、サーバー……ですか?」
俺はその異形の存在に息を呑んだ。
「そうじゃ、これが『ジグラート』。コンピューターの詰まった塊じゃ」
「こ、これが全部コンピューター!?」
眼前に広がる建造物は、まるで超高層ビル群が密集した街を思い起こさせる。しかも、それが奥に幾つも連なって彼方まで続いているのだ。
「これ一つで地球一つ分じゃ」
レヴィアの言葉に思わずため息をついた。闇に連なる巨大構造物群。それは無限の可能性を秘めたリアルな世界の集合体だった。
「あー、ちょうどこれ、これがお主のふるさと、日本のある地球のサーバーじゃ」
「え!? これが日本!?」
思わずシートから身を乗り出してしまった。目の前の漆黒の構造物の中に、前世の自分の人生が詰まっていたのだ。両親との温かな食卓、友人との笑い声が響く教室、サークルで女神様と踊ったダンスホール――――全ての思い出がここで展開された。そして、今もなおみんなはここで生きているのだろう。
「パパ……ママ……みんな……」
かすれた声が漏れる。この中で今頃両親は何をしているだろう? 友人たちは元気だろうか? あの日、急にこの世を去った自分のことを、みんなどう思っているのだろう?
みんなだけじゃない、愛したゲームの世界も、夢中になった漫画の数々も、眩しく輝くアイドルたちも、この中で永遠の命を紡いでいる。俺の魂を形作った全てが、この無骨な巨大構造物の中で息づいている。
目の前の巨大な建造物は、もはや無骨な箱ではなく、俺の全てを包み込んだ故郷そのものだった。
懐かしさと切なさが胸を締め付ける――――。
思わず頬を熱い滴が伝い落ちた。
「何を泣いとるんじゃ! 本番はコレからじゃぞ、気を引き締めんかい!」
眉をひそめるレヴィアの言葉に、ユータは涙を拭いながら静かに頷いた。
「す、すみません。ちょっと昔を思い出しちゃって」
レヴィアはふぅとため息をつく。
「行きたいのか?」
「そ、そうですね……。日本、大好きですから……」
涙を拭いながら言葉を紡ぐユータに、レヴィアは優しい微笑みを浮かべる。
「そのうち行く機会もあるじゃろ。お主はヴィーナ様とも懇意だしな」
「そう……ですね。でも……」
俺は遠い記憶を辿り……、目を伏せた。
「もう、転生して十六年ですよ。みんな俺のことなんか忘れちゃってますよ」
俺は首を振った。
「はっはっは、大丈夫じゃ。日本の時間でいったらまだ数か月じゃよ」
レヴィアは豪快に笑い飛ばした。
「えっ!? まさか……時間の速さが違うんですか?」
唖然としている俺に、レヴィアは得意げに説明を始める。
「そりゃ、うちの星は人口が圧倒的に少ないからのう。日本の地球に比べたらどんどんシミュレーションは進むぞ」
目から鱗が落ちる思いだった。同じ計算力なら、処理すべき人々の数が少ない方が時間の進みが速くなる――――。当たり前の話だった。
「なるほど! 楽しみになってきました!」
脳裏に、懐かしい顔が次々と浮かぶ。両親の温かな笑顔、友人たちの賑やかな声。彼らに自分の無事を、そしてドロシーとの結婚を伝えたい。しかしその前に――――。
俺は拳をギュッと握りしめた。
ヌチ・ギを倒さねば――――。
世界の平穏を取り戻さなければ全ては始まらない。
ゴォォォォーーーー!
エンジン音が盛大に響き渡った。レヴィアは操縦桿を押し込み、エンジンを景気よく逆噴射していく。
「そろそろじゃぞ」
減速するシャトルの窓外に、ジグラートの巨体が迫ってくる。漆黒の壁面に走る無数の光の筋が、決戦の時を告げているかのようだった。
「ドロシー……。待っててね……」
俺はキュッと口を結び、その幻想的な巨大構造物を見上げた。