死にたがりの僕が、幽霊の君とさよならするまで

「嘘つけ! いま隣見てたじゃねーか」
「そ、それは……」
「いるんだろ! ハル! ここに!」

 聖亜が怒鳴りながら、手をぶんぶん振り回している。
 渡り廊下を通る女子生徒たちが、逃げるように走り去っていく。

「ちょっ、聖亜! やめなよ!」
「うるせー! 出てこい! 隠れてないで姿を見せろ! ハル!」

 止めようとする僕を振り切り、聖亜が暴れている。
 聖亜が乱暴で口が悪いのはいつものことだけど……。
 どうしてハルに、こんなにこだわるんだろう。
 もしかして、殺されそうになったから、仕返ししようとしてるとか?

「幽霊に仕返しなんて……無理だよ」
「はぁ? 誰が仕返しするなんて言った!」

 聖亜の視線が僕に移って、にらみつけてくる。
 いつもだったら目をそらすところだけど、僕はその目に向かって言った。

「じゃあなんで、ハルにそんなにこだわるんだよ?」

 聖亜の視線が揺れて、すっと目をそらす。
 僕は思わず、聖亜の腕をつかんでいた。
 幽霊とは違う、あたたかい人間の感触。

「こっちに来て!」
「え、なにすん……」
「こっちにハルがいるから!」

 僕は聖亜の手を引いて、渡り廊下を進み、体育館に向かう。
 なんでこんなことしているんだろう。自分で自分がわからないけど……。
 なんとなくこれは、ハルのためでも、聖亜のためでもあるような気がしたんだ。
 聖亜はなにか言いたそうに口を開いたけど、なにも言わずに僕のあとをついてきた。
 体育館ではバスケ部が練習をしていた。
 ボールを弾ませる音や、部員たちのシューズの音が体育館に響いている。
 僕は聖亜から手を離し、ハルを捜した。
 今日は体育館に来る予定だったから、どこかにいるはずなんだけど……。

「あ……」

 僕は壁に寄りかかって座り、バスケ部の練習を見ているハルを見つけた。
 だけどハルに声をかけることができない。
 だってハルは――バスケをする部員たちを見ながら、涙をこぼしていたから。

 ハル……どうして?

 ハッと聖亜のことを思い出し、隣を見る。

「え……」

 そこで僕はさらに驚いた。
 ハルのいる壁のほうを見ながら、聖亜も涙を流していたから。

「せ、聖亜?」

 聖亜がビクッと肩を震わせ、僕を見る。

「どうしたの?」
「え?」
「涙……出てる」
「は?」

 声を上げた聖亜が、ごしごしと目元をこする。

「えっ、なに? なんで俺、泣いてんだ?」
「ハルのことが……見えたの?」
「見えるわけねーだろ? どこにいるんだよ、あいつ!」
「じゃあ、なんで泣いてるんだよ?」
「わっかんねーよ! 勝手に涙が出てきたんだから! くそっ!」

 僕は首をかしげる。
 聖亜の涙は、ハルの涙と関係ないんだろうか。
 聖亜は昔、バスケをやっていたから、そのころの嫌な思い出でも思い出したとか?
 そういえば聖亜がなんでバスケを辞めたのか、僕は理由を知らない。
 いやでも、聖亜はバスケなんて見ていなかった。
 僕が教えていないのに、まっすぐハルのいる方向を見て、涙をこぼしていたんだ。

「やっぱ俺、帰るわ」
「えっ」
「なんか……気分悪い」

 聖亜はそれだけ言うと、体育館から出ていってしまう。

「聖亜……」

 ピーッとホイッスルが鳴って、部員たちが集合した。
 これから練習試合がはじまるらしい。
 僕はこそこそと体育館の端を通って、ハルの隣に座った。
「ハル?」

 ハルがハッとした顔で僕を見る。

「どうして泣いてるの?」
「えっ、ボク、泣いてます?」

 聖亜と同じ反応だ。

「泣いてるよ。バスケ見て、なにか思い出した?」

 ハルは目元をこすってから、ぼそっとつぶやく。

「はい、なんとなくですけど」
「思い出したの!? もしかしてハル、バスケ部だったとか?」
「いえ、違うんです。こんなふうにバスケを見ていたことがあったなぁって……」
「バスケを見てた?」
「はい。すごくカッコいいなぁって思いながら見てました」

 僕の頭に、同じような光景が浮かぶ。

「それって、児童公園のミニバスのゴールじゃない?」
「え?」
「僕も小学生のころ、見てたことがあるんだ。シュート決める姿を見て、すごいなぁって憧れてた」

 ハルの顔が明るく輝く。

「はい、そうです! たぶん公園のバスケットゴールです。それでボクも憧れてました。ボクもあんなふうになりたいって思ったんです!」
「それって……誰のこと?」

 僕の中では答えが見えていたけど、あえて聞いてみる。
 でもハルは困ったように首をかしげた。

「わからない。誰だろう。ボクの……大事な人だった気がします」

 ハルの……大事な人?
 僕はごくんと唾を飲む。
 ハルの大事な人が……聖亜?
「もう戻りましょう」

 ハルがそう言って立ち上がる。
 僕はそんなハルを見上げて言う。

「さっき、聖亜がここに来たんだ。僕が連れてきた」
「えっ?」

 ハルが嫌そうに顔を歪める。

「なんで連れてくるんですか? ボク、あの人嫌いだって言いましたよね?」
「聖亜にはハルが見えないはずなのに。あいつ、ハルのほうを見て……」

 僕は一度言葉を切ってから、思い切って続ける。

「泣いてたんだ。ハルと同じように」
「え……」

 ハルが僕を見下ろしたまま、固まっている。
 僕はゆっくり立ち上がり、ハルの前に立つ。

「ハルが公園で見た、バスケの上手かった人って……聖亜なんじゃないの?」

 ハルは黙っている。

「ハルの大事な人って……聖亜なんでしょ?」

 僕から顔をそむけると、ハルはしばらく考え込んで、再び僕のほうを見た。

「違います」
「でもっ……」
「あいつはユズにひどいことしたやつですよ! そんなやつが大事なわけないです!」

 ハルが真っ赤な顔で怒鳴る。

「そんなわけ絶対ないから! 絶対嫌だから! ユズを傷つけたやつが大事だなんて……絶対思わないから!」

 そう叫ぶと、ハルが体育館を飛び出していく。

「あっ、ハル! 待って!」

 僕の声が体育館に響き、バスケ部の連中が首をかしげる。
 だけどそんなことはどうでもいい。
 僕はハルを追いかけて、全力で走った。
 下校時刻を告げるチャイムが鳴る。
 その日、学校中を捜したけれど、ハルを見つけることはできなかった。

「……どこに行っちゃったんだよ、ハル」

 学校外へは出られないから、絶対敷地内にいるはずなんだけど。
 あきらめた僕は、ため息をつきながら学校をあとにする。
 空はもう真っ暗だ。
 部活も終わり、校舎の灯りも消えていく。
 暗くなった学校にひとりで佇んでいるハルのことを思うと、胸が締めつけられるように痛くなった。


 学校から家へ帰る途中に、小さな児童公園がある。
 さっき話題になった公園だ。
 街灯の灯りがぼんやりと灯るだけの、薄暗い公園に足を踏み入れる。
 滑り台やブランコ、ジャングルジムなどの遊具。
 小学生のころ、よく遊んでいた遊具が、やけに小さく見える。
 僕が大人になってしまったからだろう。
 いや、中身はたいして変わってない。背が少し伸び、見た目が大人に近づいただけだ。

 当てもなく歩き、ジャングルジムに手を触れる。
 そういえば学校のジャングルジムから、落ちたことがあったっけ。
 あのころから運動神経が鈍かった僕は、体格のいい男子にぶつかってよろけ、手を離してしまったんだ。
 やばい。落ちる。
 とっさに「たすけて!」と叫んだ僕に、手を差し伸べてくれたのは……。

「聖亜……」

 宙に浮く体。目に映る青い空。
 落ちていく僕に、必死な表情で手を差し伸べる聖亜。
 でもその手は僕に届かなくて。

「落ちて骨折して、救急車で大学病院に運ばれたんだっけ」

 情けない黒歴史に、ははっと乾いた笑いがもれる。

 でも――あのときの聖亜は必死だった。
 必死に僕を助けようとしてくれた。
 かくれんぼのときもそうだった。
 僕を助けにきてくれたのは、聖亜だけだった。
 ふと視線を動かすと、薄暗い街灯の横に、古いバスケットゴールがあるのが見えた。
 子どもが使う、ミニバスのゴールだ。
 僕はジャングルジムから手を離し、足を動かす。
 そして小さいころいつも立っていた木の下で、立ち止まった。

「ここで……聖亜を見てたんだ」

 もう一度視線を動かし、まわりを見まわす。
 真っ暗な公園。夜風で頭の上の木の枝が揺れ、はらはらと枯葉が落ちてくる。
 僕は舞い落ちる枯葉を見つめながら思い出す。
 あのころ、こんなふうに木の葉が……いや違う。あれは桜の花びらだった。
 春風が吹き、桜の花びらが舞い散るこの場所で、僕は聖亜がバスケをする姿を見ていた。
 誰かと一緒に――。

「あれは……誰だったんだ?」

 まだ幼かった、小学校三年生か二年生くらいの記憶。
 めったに見かけない子だった。でも何度か見たことはあった。
 僕より背が低くて、華奢で、かわいらしい男の子だった。
 その子は聖亜がシュートを決めるたび、手を叩いて大げさに喜んだ。

『すごい! すごい! カッコいい!』

 そして僕のそばで、幸せそうにつぶやいたんだ。

『僕もあんなふうになりたいなぁ……』って。

 頭に手を当て、くしゃくしゃと伸ばしっぱなしの髪をかき回す。

「くそっ、思い出せない。誰だったんだ、あの子は……」

 でもきっと、聖亜ならわかるはず。
 僕は顔を上げると、走り出した。
 公園を飛び出し、聖亜の家に向かって。
 聖亜の家は今日も薄暗く、物音ひとつしない。でも二階に電気がついている。
 僕はインターホンを押してみる。しかし反応がない。
 だけどあきらめず、何度も押し続ける。
 やがてカチャッと鍵が開く音がして、ドアが開いた。

「しつこい」

 出てきた聖亜は僕が口を開く前に、めちゃくちゃ不機嫌顔で言った。

「あ、聖亜。あの……」
「俺、具合悪いって言っただろ? 顔見せんな! カスが!」
「ごめん。でもどうしても聞きたいことがあって……」
「嫌だ。帰れ!」
「ハルのことなんだ!」

 僕の声に聖亜が、閉めようとしたドアを止める。

「聖亜が答えてくれるまで、帰らないから!」

 聖亜は面倒くさそうに「ちっ」と舌打ちをすると、閉めかけたドアを開いた。

「入れよ」

 意外と素直に入れてくれることに驚きつつ、僕は「お邪魔します」と言って靴を脱ぐ。
 家の中は真っ暗だった。
 玄関に散らかった靴や傘からはじまり、廊下にも部屋の入り口にも、ごちゃごちゃと物が置きっぱなしになっている。
 どことなく嫌な匂いが漂い、一階にあるはずのキッチンも使われている様子がない。

「お、お父さんは……今日もいないの?」

 背中を向けている聖亜が、もう一度舌打ちをして答える。

「知ってるんだろ? 親父がどこにいるか」
「え……」
「女のところに行ったきり、帰ってこねーんだよ」

 聖亜が廊下にある段ボール箱を蹴飛ばしながら進む。

「じゃあずっと、聖亜はひとりで?」
「あんな親父、べつにいなくてもいい。仕事は上手くいってるらしくて、金だけは息子の口座に入れてくれるし」

 そのわりに家の中が荒れ放題なのは、聖亜がちゃんと『生活』していないからだろう。
 僕はなにも言えないまま、階段を上っていく聖亜のあとに続く。
 二階に着くと、聖亜は自分の部屋に入って言った。
「で? 俺に聞きたいことってなんだよ」

 聖亜の部屋も、ひどい散らかりようだった。
 床には脱ぎっぱなしの衣類や漫画やゲーム、テーブルの上には食べ終わった弁当やカップラーメンの容器や空のペットボトル、部屋の隅にはゴミ袋がいくつか積まれている。
 そういえば聖亜の部屋に来たのは何年振りだろう。
 小さいころは、もっと綺麗だったはず。きっとお母さんがいたからだ。

 聖亜は乱れたベッドの上に座って、僕を見る。
 そのそばにはぐしゃぐしゃに丸められた用紙があり、『進路希望調査書』という文字がわずかに見えた。
 僕はなんとか座れそうな場所に腰を下ろすと、率直に聞いた。

「小さいころ、近所の公園で聖亜がバスケやってたとき、僕と一緒に見てた男の子、誰?」
「は?」

 聖亜が顔をしかめる。
 僕は身を乗り出して続ける。

「僕が覚えてるのは春なんだけど。桜が散る公園で、聖亜を見ていた男の子がいたはずなんだ。僕、その子が『ハル』だと思ってる」

 聖亜の顔がさらに歪む。

「聖亜は知ってるんだろ? その子が誰かって」
「知らねーよ」
「嘘だ!」

 僕は立ち上がり、聖亜の前に近づく。

「聖亜はなにか隠してるよね? ほんとは知ってることあるくせに、言おうとしない」

 聖亜が面倒くさそうに、顔をそむける。
 僕はそんな聖亜の肩を、両手でつかんだ。

「知ってることあるなら教えてよ! ハルが知りたがってるんだ、自分のことを。それを思い出せないと、ハルは成仏できないんだ!」
「成仏?」

 にらむようにこっちを見た聖亜が、僕の手を振り払う。

「成仏なんかしなけりゃいいだろ! てか、成仏ってなんだよ! 消えちまうのか? だったらこのまま学校にいればいいじゃねーか!」

 聖亜の視線が僕とぶつかる。
 ああ、聖亜も同じなんだ。最初のころの僕と同じで、幽霊の気持ちが全然わかってない。
「でもハルは……僕以外、誰にも見えないんだ」

 僕の声に、聖亜が動きを止める。

「誰にも声が届かず、誰にも触れることができない。僕たちが帰ったあとも、真っ暗な校舎にたったひとりで残らなくちゃいけない。話し相手もいなくて、寂しくて、それがいつまで続くのかもわからなくて、明るい未来もない」

 聖亜がごくんと唾を飲んだのがわかった。

「だからハルは……成仏することを望んでる」
「でもそんなことしたら……」

 そこで一度言葉を切ってから、聖亜が絞り出すような声で言った。

「そいつ、消えちまうんだろ?」

 部屋の中が静まり返る。
 僕はうつむいてしまった聖亜に向かって聞く。

「聖亜は……ハルにいなくなってほしくないの?」

 聖亜はなにも答えない。
 僕は膝をつき、聖亜の顔をのぞき込むようにして尋ねた。

「ハルって……誰なの?」
「……知らねぇ」
「ハルは聖亜のこと、大事な人って言ったんだよ?」

 聖亜がハッと顔を上げる。
 僕はその目を見つめて言う。

「ハルはバスケをしている聖亜を見て、カッコいいって思ってたんだ。自分もあんなふうになりたいって……」

 僕だって、そう思ってた。
 聖亜は僕の憧れだった。
 手を伸ばし、聖亜の腕をぐっとつかむ。

「だから教えてよ! ハルって誰……」

 僕はそこで言葉を切った。

「聖亜?」

 聖亜が僕の手を振り払い、背中を向ける。
 涙でぐしゃぐしゃになった顔を、腕でこすりながら。

「聖亜……あの……」
「……ってくれ」
「え?」
「帰ってくれ。頼むから」

 僕の聞いたことのない、か細い声が部屋に響く。

「お前に見られたくないんだよ……こんな顔」

 ぐすぐすと洟をすすっている聖亜の背中を見つめてから、僕は立ち上がった。

「うん、わかった。でも話せるようになったら話してほしい」

 聖亜の背中が震えている。

「僕、待ってるから」

 それだけ言うと部屋を出て、静かにドアを閉めた。