田畑さんに呼ばれた管理人さんが、程なく扉を開けてくれた。
私も田畑さんも慌てて着いていくと、そこで如月さんが倒れているのが見えた。田畑さんは慣れた様子で「君、冷蔵庫から栄養ゼリー持ってきてあげて」と言われた。
私はこの間見せてもらった通り、栄養ゼリーの蓋を開けて持っていくと、管理人さんも田畑さんもすっかりと慣れた様子で「如月さん、如月さん。栄養摂らせますよ」とひと言添えてから、栄養ゼリーの先を口に入れた。
途端に、如月さんは「ジュウウウウウウウ……」とひどい音を立てて飲み干してしまった。栄養ゼリーのパッキンは、あっという間にぺったんこになってしまう。
それから不機嫌な顔で起き上がると、私の顔を見た途端に「チッ」と舌打ちをした。
この人ほんっとうに失礼だな!?
さすがに私は腹が立ってきて、思わず「フンッ」とそっぽを向いてしまったけれど、田畑さんは冷静に如月さんを諭す。
「如月くん、このファンの子がいなかったら、今頃救急車で病院に運ばれてたんじゃないの? 様子おかしいって気付いたこの子がうちに助け求めに来たんだけど」
それを指摘したら、管理人さんも頷く。
「不摂生は本当に祟りますからね。それじゃあ、またなにかありましたら」
そう言って管理人さんも立ち去り、田畑さんも家に帰ってしまった。
ふたりだけ残された中、如月さんはあぐらをかいて座った。私も隣で正座をする。つるつるしたフローリングは少々冷える。
「……なんでまた来たんだ、君は」
「だって。如月さん、もしかしてスランプなんじゃないかって思って」
「……君に僕のなにがわかるんだよ」
彼は吐き出した。
「君からしてみれば、僕はただ芸術量産してりゃいいだけかもしれないが。僕は一枚絵を描き上げるのに、どれだけ胃液を吐いて、血反吐を流しているか知らないだろ! 知らない奴らは適当なことばかり言うさ! 金になるとわかった途端に揉み手をするし、金にならないとわかったら逆に、『好きなことばかりできて生活できるなんてすごいね』って。ふざけるなよ、僕は一日をどれだけ絵に費やしているかわかってるのかよ!?」
その言葉は悲痛だった。
天才って言うのは簡単だ。だって、その人を天才だって持ち上げて祭り上げてしまえば、自分はできない、そこまで努力できないって諦められるから。でもその天才って人の大半は、人生の半分以上を天才たらしめているものに使っている。
私はお父さんが広告イラストレーターだから、かろうじて彼の苦しみの輪郭を理解できるけれど、きっと彼の叫びが全く届かない人だっているだろう。
天才が孤独になってしまうのは、周りが勝手に高見に祭り上げてしまって、誰も同じ土俵に入って話をしてくれないからだ。
でも。私はなんとか口を開いた。
「なら、私と一緒に遊びに行きませんか」
「……なんで」
「スランプなんでしょう? 昨日とおんなじでまたキャンパスが真っ白で。でも真っ白なキャンパスばかり眺めていたら、いつまで経っても絵は完成しないじゃないですか」
「……君、高校生でしょう? 学校サボってて大丈夫なの?」
「ええっと……」
如月さんが初めて、こちらをじぃーっと見た。
今までさんざん悪態をついて、睨んできた人が。珍しくこちらをメガネ越しでじぃーっと凝視してくるから反応に困る。
まさか言えない。
どうせあと四日でリセットされるし、出席日数だってリセットされるから替わらないだろうなんて。考えた末。
「私、基本的に元気なんで。一週間学校休んだくらいじゃ、出席日数足りなくって留年ってことにはなりませんよ」
「そう」
「どこ行きたいですか、どこにでも行きますよ」
私が声をかけると、如月さんは無表情でこちらを見た。さすがに三日間も押しかけ続けたせいか、この人は私に対してどう反応すべきか迷っているようだった。
「……僕、今絵が描けないけど」
「知ってますけど」
「君、僕の絵を見て届けに来たんじゃない」
「そうですね」
「……絵が描けなくなった僕にもう一度描かせたいの?」
その言葉に、私は喉を詰まらせた。
これは、回答を間違えたら追い出される奴だ。如月さんもさすがに私が倒れているところを田畑さんや管理人さんを呼んで助けたから、悪意がないのは伝わったみたいだけど。
私は「んーとんーと……」と首を捻った。
「私のお父さん、会社で絵を描いている仕事をしています」
「うん?」
「大変みたいで、納期前になったらなかなか帰ってこられないときもあります。でもお父さんは気分転換に絵を描くことはあっても、仕事は絶対に家に持ち帰らない人なんで、会社で具体的になにをやっているかは私も知りません」
如月さんは私を探るようにじろじろ見ている。
でも追い出そうとしないってことは、まだ聞いてくれる気があるんだ。そうほっとしながら、言葉を続けた。
「多分仕事を家でしてたら、もっと煮詰まるんじゃないかと思いまして。外に出て、酸素入れ替えましょう。ここからの景色も素敵ですけれど、街で感じ取ったものも取り入れられたら、もっと素敵な絵になると思いますから……どうでしょうか?」
「……そうだね」
ようやっと如月さんは口を開いた。
「でも僕、外なんて画材屋と美術館くらいしか行かないけど」
「そこからですかあ……あーあーあーあー……なんか探しに行きましょう」
こうして私は如月さんと、スランプ脱却のために、どこかに出かけることになったんだ。
私も田畑さんも慌てて着いていくと、そこで如月さんが倒れているのが見えた。田畑さんは慣れた様子で「君、冷蔵庫から栄養ゼリー持ってきてあげて」と言われた。
私はこの間見せてもらった通り、栄養ゼリーの蓋を開けて持っていくと、管理人さんも田畑さんもすっかりと慣れた様子で「如月さん、如月さん。栄養摂らせますよ」とひと言添えてから、栄養ゼリーの先を口に入れた。
途端に、如月さんは「ジュウウウウウウウ……」とひどい音を立てて飲み干してしまった。栄養ゼリーのパッキンは、あっという間にぺったんこになってしまう。
それから不機嫌な顔で起き上がると、私の顔を見た途端に「チッ」と舌打ちをした。
この人ほんっとうに失礼だな!?
さすがに私は腹が立ってきて、思わず「フンッ」とそっぽを向いてしまったけれど、田畑さんは冷静に如月さんを諭す。
「如月くん、このファンの子がいなかったら、今頃救急車で病院に運ばれてたんじゃないの? 様子おかしいって気付いたこの子がうちに助け求めに来たんだけど」
それを指摘したら、管理人さんも頷く。
「不摂生は本当に祟りますからね。それじゃあ、またなにかありましたら」
そう言って管理人さんも立ち去り、田畑さんも家に帰ってしまった。
ふたりだけ残された中、如月さんはあぐらをかいて座った。私も隣で正座をする。つるつるしたフローリングは少々冷える。
「……なんでまた来たんだ、君は」
「だって。如月さん、もしかしてスランプなんじゃないかって思って」
「……君に僕のなにがわかるんだよ」
彼は吐き出した。
「君からしてみれば、僕はただ芸術量産してりゃいいだけかもしれないが。僕は一枚絵を描き上げるのに、どれだけ胃液を吐いて、血反吐を流しているか知らないだろ! 知らない奴らは適当なことばかり言うさ! 金になるとわかった途端に揉み手をするし、金にならないとわかったら逆に、『好きなことばかりできて生活できるなんてすごいね』って。ふざけるなよ、僕は一日をどれだけ絵に費やしているかわかってるのかよ!?」
その言葉は悲痛だった。
天才って言うのは簡単だ。だって、その人を天才だって持ち上げて祭り上げてしまえば、自分はできない、そこまで努力できないって諦められるから。でもその天才って人の大半は、人生の半分以上を天才たらしめているものに使っている。
私はお父さんが広告イラストレーターだから、かろうじて彼の苦しみの輪郭を理解できるけれど、きっと彼の叫びが全く届かない人だっているだろう。
天才が孤独になってしまうのは、周りが勝手に高見に祭り上げてしまって、誰も同じ土俵に入って話をしてくれないからだ。
でも。私はなんとか口を開いた。
「なら、私と一緒に遊びに行きませんか」
「……なんで」
「スランプなんでしょう? 昨日とおんなじでまたキャンパスが真っ白で。でも真っ白なキャンパスばかり眺めていたら、いつまで経っても絵は完成しないじゃないですか」
「……君、高校生でしょう? 学校サボってて大丈夫なの?」
「ええっと……」
如月さんが初めて、こちらをじぃーっと見た。
今までさんざん悪態をついて、睨んできた人が。珍しくこちらをメガネ越しでじぃーっと凝視してくるから反応に困る。
まさか言えない。
どうせあと四日でリセットされるし、出席日数だってリセットされるから替わらないだろうなんて。考えた末。
「私、基本的に元気なんで。一週間学校休んだくらいじゃ、出席日数足りなくって留年ってことにはなりませんよ」
「そう」
「どこ行きたいですか、どこにでも行きますよ」
私が声をかけると、如月さんは無表情でこちらを見た。さすがに三日間も押しかけ続けたせいか、この人は私に対してどう反応すべきか迷っているようだった。
「……僕、今絵が描けないけど」
「知ってますけど」
「君、僕の絵を見て届けに来たんじゃない」
「そうですね」
「……絵が描けなくなった僕にもう一度描かせたいの?」
その言葉に、私は喉を詰まらせた。
これは、回答を間違えたら追い出される奴だ。如月さんもさすがに私が倒れているところを田畑さんや管理人さんを呼んで助けたから、悪意がないのは伝わったみたいだけど。
私は「んーとんーと……」と首を捻った。
「私のお父さん、会社で絵を描いている仕事をしています」
「うん?」
「大変みたいで、納期前になったらなかなか帰ってこられないときもあります。でもお父さんは気分転換に絵を描くことはあっても、仕事は絶対に家に持ち帰らない人なんで、会社で具体的になにをやっているかは私も知りません」
如月さんは私を探るようにじろじろ見ている。
でも追い出そうとしないってことは、まだ聞いてくれる気があるんだ。そうほっとしながら、言葉を続けた。
「多分仕事を家でしてたら、もっと煮詰まるんじゃないかと思いまして。外に出て、酸素入れ替えましょう。ここからの景色も素敵ですけれど、街で感じ取ったものも取り入れられたら、もっと素敵な絵になると思いますから……どうでしょうか?」
「……そうだね」
ようやっと如月さんは口を開いた。
「でも僕、外なんて画材屋と美術館くらいしか行かないけど」
「そこからですかあ……あーあーあーあー……なんか探しに行きましょう」
こうして私は如月さんと、スランプ脱却のために、どこかに出かけることになったんだ。