次の日、私は急いでコンビニでご飯を買っていた。本当だったら手作りでなにかつくってあげたいけれど、先に如月さんと話をしたかった。
……如月さんと私の出会いのきっかけのあのキャンパス。
あのキャンパスが次の日回収されていたってことは、如月さんのお母様が来ていたはずなんだ。何度も何度もループを繰り返している中でも、あのお通夜のとき以外、彼女を見かけたことがない。
……あの人の如月さんへの態度を変えない限りは、あと何回ループできるかわからない中、何度ループしても変わらないと思う。
だからふたり分のお弁当に、どうせお弁当は嵩増ししているからと、おにぎりもふたつ買い足して、急いで彼の住む高層マンションに向かった。
高層マンションの近くに、高そうな車が停まっているのが目に入った。ハンドルが右ハンドルだ。多分外車。私は胸騒ぎを覚えて、急いで如月さんの家の階に向かった。
珍しいことに、田畑さんが廊下に出ているのが目に留まった。
「おはようございます」
「あー……おはよう」
田畑さんは、明らかに如月さんの家の方角を見ていた。
「あのう……如月さんがなにか?」
「いや? 強烈なお母さんが来てるから、大丈夫か心配で様子見てる。警察を呼ぶほどでもないけれど、強烈だから。如月さん大丈夫かなと」
「今……今いるんですか?」
「そうそう」
どうも田畑さんは、如月さんのお母さんを知っているらしかった。
それにたまりかねた私は、如月さんの家のチャイムを必死で押し続けた。
「こーんーにーちーはー。きーさーらーぎーさーんー、いーまーすーかー!?」
ガンッガンッガンッと扉を叩く。それを田畑さんは「うわあ」という顔で見ていたものの、特に止めることがなかったので、それでかまわなかった。
私の騒音にか、とうとう扉が開いた。
「なんですか、あなたは。朝から騒々しい……!」
それは迫力のある美人だった。
長く豊かな髪をひとつのサイドテールにまとめ、タイトなワンピースを着こなしている。これが若作りに見えないのは、タイトなワンピースもきちんと自分に合う形を選んでいるからだろう。
私の記憶にあるのは、喪服のしおれている人だったけれど。化粧のひとつ、爪先ひとつとっても隙の見当たらない人。それが如月さんのお母様の第一印象だった。
それに慌てて如月さんが出てくる。
「ちょっと、母さん……! あ……」
「……こんにちは、如月さん」
「……ごめん」
「謝るところないじゃないですか」
私が笑いかけると、如月さんはまるで母親に悪戯がバレたかのような気まずそうな顔をして視線を逸らした……いや、これは。
自分の母親を私に会わせたくなかったから、気まずいんだろう。
お母様は目を吊り上げる。
「あなたいったいなに!? 朝から本当にうるさい……今は大和からちゃんと次の仕事の斡旋をしようとしていたところで」
「あ……斡旋?」
「そうよ。この子にテーマを与え、それで描いてもらう。現代美術は値段が変動するけれど、今のこの子だったら、山だって買える価値がある」
「山だって買える……」
もしも如月さんのことを全く知らなかった、ただ遊び半分で繰り返す一週間を貪っていた頃の私だったら「すごーい」とのたまいながら、「もっと描けばいいじゃないですか」と無責任なことを言って背中を押していただろう。
その背中を押したら最後、あの人がマンションの一室から飛び降りてしまうことを気にも留めずに。
そんな自分じゃなくてよかったと、私は心の底からほっとした。自分を許せなくなるところだった。
私はなんとか自分の中の言葉を摺り合わせて、吐き出す。
「……それは、本当に如月さんの望んだことですか?」
「そうよ。この子は絵が描けるんだから。でもこの子は絵しか描けない。だから私が管理しているのよ。美大には一応籍は置いてあるけどね。あそこは駄目ね。あそこの授業じゃこの子の才能は潰れてしまう。ただの凡才に成り下がってしまう。だから代わりに家を買ったのよ」
それは……。気付けば田畑さんは部屋に引っ込んでしまったものの、おそらくはいつ通報してもいいようにと、魚眼レンズでこちらを眺めて、飛び出せる準備はしているだろう。あの人は口調よりもよっぽどまともな人だから。
だけど。如月さんのお母さんは駄目だ。これだから……これだから如月さんは羽を剥かれたように、自分はなにもできないと追い詰めてしまった。
そうかもしれないけど。絵の天才で才能があって、それだけでずっと生きていけるのも間違いじゃないかもしれないけど。
「それって本当に……こんなところに閉じ込められて、生きてるって言えるんですか?」
きっと如月さんのお母様からしてみれば、私は鼻持ちならない、どこの馬の骨ともわからない高校生だろう。
そうだよ、私はなんでもないよ。
語れる夢も、なにかに打ち込む才能も、なにも持ってないよ。
でもそれがなに? どれだけ天才で才能が溢れている人でも、その才能だけ求められていたら、その本人はどうなってしまうの?
如月さんの才能が必要なのであって、如月さん本人はいらないの?
私はすっくとお母様を睨み付けた。
お母様は私の言葉を、冷たい顔で聞いていた。
この人がいったい、如月さんを金の卵と思っているのか、それとも大切な我が子と思っているのかはわからない。でも、今の生活は間違いなく如月さんの心身に悪い。だから、私は必死になって立ち向かうしかなかった。
しばらく私を冷たい顔で見ていたお母様は「大和」と如月さんに言う。
「この子借りるわね」
「……母さん、彼女を傷付けないで」
「あら、あなた誰かに対してそう言うの、初めてね」
お母様はそう言うと、すぐに玄関に出て靴を履きはじめた。ヒールの高いパンプスであり、この人がギャラリーのオーナーだということを思い出させた。
「いらっしゃい。私と大和の絆を見に」
「……如月さん」
私は置いていかないといけない如月さんのほうを見た。
如月さんは、お母様のほうをちらっと見た後、こちらに今にも泣き出しそうな顔をして伝えた。
「怖いことにはならないと思うから」
「……うん」
こうして、私は如月さんに挨拶を済ませてから、お母様と一緒にエレベーターで高層マンションを降りていった。高層マンション近くに停めていた外車に乗り込むと、ブルンとエンジン音を響かせて車は走り出した。
「どこに向かってるんですか?」
「ギャラリー。あの子の絵ばかり売っている」
それに言葉が出なかった。
如月さんの絵の値段はすごいらしいけれど、具体的な値段は見たことがない。やがて、真っ白な幾何学的な建物が見えてきた。
「ここがあの子のためのギャラリーよ。有名建築家に頼んで、デザインしてもらったの。あの子の絵で簡単に頼めたわ」
「……如月さんの絵で、ギャラリーを建てるお金が賄えるんですか?」
「ええ。あの子の才能はそれだけあるから。いらっしゃい」
見ているとだんだん不安になってくる傾斜のギャラリーの中は、案外普通だった。それでも。あの如月さんが描く躍動感ある自然がそこかしこに根付いて、流れる音楽と一緒に静止画は動いているように見えた。
「すごい……」
「ええ。あの子は大昔から不思議な才能があった。あの子は小さい頃から、物の色を正確に捉えることができたの」
そういえば、如月さんも前にそんなことを言っていたと思う。
私にはたった一色に見える色も、彼には何個も何個も違う色が重なって見えると。でも、それだったら、絵の具はどれだけあっても足りやしないだろう。
お母様は私をギャラリーの隅々まで案内してくれた。
「最初、幼稚園では絵を描かせるとき、あの子がいろんな色に塗り分けようとするのを止めたわ。それじゃ子供らしくない絵になると。でもあの子は無視して絵を描いた。これがあの子が描いた一番古い絵。私に持ち帰ってくれた初めての絵よ」
「……これは」
言葉を失った。
本来、最初に描いた絵は拙いから、ギャラリーにそんな絵を飾っていたら親馬鹿だと揶揄されてもしょうがないはずなのに。それでも如月さんが描いた絵は、有無を言わせない勢いがあった。
描いてあるのは幼稚園のグラウンドだろうけれど。私が保育園児だったときなんて、滑り台にブランコも、こんなに立体的に描けないのに。如月さんの描いた絵は既に立体的に絵が描かれていて、しかも光の加減で色合いが変わっているのをそのままクレヨンを塗り重ねて描いてある。この時点で既に、如月さんの絵は完成されていた。
私が呆気にとられている中、お母様は続ける。
「あの子はこの頃から才能があった。でも日本の公立小学校だったらあの子の才能を潰してしまうかもしれないから、学校を必死で探した」
たしかに公立校は平均点を育てるための学校だ。だから出る杭は打たれる。あれだけ才能がある人の絵も「子供らしくない」と無神経な先生に手を加えられてしまったら、あの繊細な神経の如月さんだったらすぐに筆を折ってしまっていただろう。
お母様は目をきらきらとさせていた。
「だから有名美大出身者が講師を務めている私立校を割り当てて、あの子に絵の才能を伸ばすように訴えた。あの子は中高と見事に才能を開花させ、そして美大にも合格したけれど……美大もまた、クソのようなカリキュラムしかなかった」
それに私は黙り込んでしまう。
周回前に如月さんと同期の美大生に会ったことがある。今時、美大で油彩を取るのは、金持ちか既にパトロンがいる人でなかったら就職先がないからありえないと。転科が当たり前な中、自分で美大の授業料くらい稼げる如月さんは転科しなかったけれど……。
「事情はわかりましたけど、どうして如月さんはずっとあの家にいるんですか。大学は? 友達は? たしかに、あの人の才能はすごいです。すごいんですけど……あの人それ以外なにもないって思い詰めてます」
如月さんの才能は、簡単に潰されてしまうものだ。それを開花させて、見事に現代美術の最先端にまで育て上げたのは、お母様の才覚だろうけれど。でも。
如月さん本人の幸せは? たしかにお金は稼げる。彼の才能はずっと維持できる。でも……本当にそれだけなのだ。
私が何周も何周も重ねてきたけれど、その間、高層マンションに訪れた人はいなかった。あの人は自分の描きたい絵すら描けなくなってしまっていた。
それは本当に幸せなことなのか、私にはわからなかったんだ。
私の言葉に、お母様は私を睨んだ。
「あの子はまだわかってないんです。自分自身の才能を。あの子の才能は、周りを屈服させます。あの子が自分自身の才能を理解するまでは、私が徹底的に管理を」
「その管理方法が、多分間違ってるんだと思います……!」
とうとう私は我慢できずに叫んだ。それにお母様は眉間に深く皺をつくる。
それでも私は必死に抵抗しないといけなかった。
いったい。初めて出会った、初めてキャンパスを拾ったときから、如月さんは何度死なないといけなかったんだ。私が目を離した途端、別れた途端、あの人は高層マンションのベランダから飛び降りた……。
あの人はどうして死なないといけなかったの。それは、あの人はあの人の持っている孤独と向き合ってくれる人がいなかったからじゃないの。
私は何度やり直しても、あの人の芸術的な才能を半分も理解できてないと思う。あの人の絵が好きだけれど、あの人があの人の絵に飲まれて、苦しんで、自分自身を大切にできなくなるのは好きじゃない。
……一度だけ。あの人は一度だけ風景画以外の絵を描いたことがある。誰かの絵を描こうとしていた。如月さんに、あのときの絵を描きたいと思わせたい。
……売らない、自分のためだけの絵を、ちゃんと描かせてあげてほしい。
「あなたに大和のなにがわかるというの?」
「わかりません。私はあの人のことが好きだってこと以外なにもわかりません。あの人の絵が好きで、その絵で興味を持って会いに行って、最初はなんて意地悪な人だと思ったけど。でも。それでも理屈じゃないんです」
どう考えたって、好きになる相手を間違えている。でもきっと、如月さんには軽々しく言ってはいけない言葉で、未だに本人にぶつけたことがない。
私の唐突過ぎる告白には、さすがにお母様も驚いたように目を見開いたけれど、無視して私は必死に訴える。
ここで押し通さないと、きっと私は後悔する。
……もう何度も何度も、あの人の死亡ニュースなんか見たくない。
「一緒に出かけたり、一緒に話をしたり、本当にたまに笑ってもらったり。あの人が私のことを迷惑だと思っているかもしれない、帰ってくれと思ってるかもしれない、それでも好きなんです」
「……あなた、まさか大和のストーカー……?」
「でも法律は犯していません! 盗撮なんてしてませんし、盗聴器なんて付けてませんし、もし警察呼びたいならどうぞ。本当になんにも出てきませんから! ただ、お母様」
私は声を上げた。
押さないといけない。押し切らないといけない。ここで口を挟む暇を与えてはいけない。私は必死に口を動かしていた。
「如月さんから、どうか好きを奪わないでください」
あの高層マンションは、なにもない。
本当に絵を描くこと以外できない場所は不健全過ぎる。まずはあそこから降ろさないことには、きっと如月さんは何度だってマンションから飛び降りる。
私だって、そう何度も何度もあの人のニュースなんて見たくない。それは祈りだった。
お母様はしばらく黙っていた。私の言葉の羅列のなにが届いたのかはわからないけれど、ぽつんと尋ねてきたのだ。
「あの子の好きなものってわかるの?」
「如月さん、子供舌ですよ。オムライスとかピザとか、割とオーソドックスな味が好きで、手の込んだ料理は存外好きじゃありません」
「それ……私が食べさせていたものだわ」
それに私は破顔した。
……この人はたしかに間違っていた。この人は如月さんの才能を伸ばしたくって必死だったんだけれど、その才能を潰されないようにするあまりに、今度はあの人の人間性を見失いかけていた。
私のような本当にただの通りすがりの声が届いたのは、きっと私の矢継ぎ早の言葉がどこかで引っかかったからだ。
如月さんに、もうこれ以上死んで欲しくないなあ。
それだけを、私は祈りながら如月さんのマンションに帰っていった。
****
私はお母様に連れられ、もう一度だけ如月さんの部屋の玄関前に立っていた。
マンションの近くでは騒ぎは起こってなかった。つまりは、今は如月さんはマンションから飛び降りてない。
なにかあったらどうしよう。なにかあったらどうしよう。
私はドキドキしながら、「ただいま、大和?」と言うお母様の背中についていってリビングに入ったとき、濃い油絵の具の匂いを嗅いだ。
「お帰り……また来たの?」
「……如月さん。その絵」
「描きたいと思ったから。久し振りに、依頼以外の絵が描きたくなった」
そう言いながら描いていた絵を見て、驚いた。
既に地の絵の具を塗りたくられたから、下書きはほぼ見えなくなっている。絵の具をその上から何層も何層も重ねて塗っているため、まだおぼろげにしか完成像はわからないけれど。でもその絵は、私が前に見た下絵と同じ構図をしていた……一度だけ如月さんが描こうとしていた、風景画以外の絵だった。
そしてその絵は。どう見ても女子高生の絵だった。
「あら、これは」
お母様が声を上げるのに、如月さんが気まずそうにそっぽを向いた。私たちががなり合っている間、如月さんがなにを思っていたのかは知らない。でも。
指先が絵の具で染まってしまっている。パレットには何色も何色も混合した絵の具が載せてある。
「……君の絵が、描きたくなったんだ」
如月さんのぶっきらぼうな声が、私に突き刺さった。
小さい頃から、ぼんやりと頭に浮かんでいた。
海の光景。波の風景。流れる雲に青い空。その変哲のない景色の中に、鮮やかな誰かがいたような光景。
それが最初は誰だかわからなかった。
僕は漠然と、小さい頃から見ていたものを描きたくて、絵を描きはじめるようになったんだ。
もどかしいと思ったのは、僕の絵はどうも同年代と比べると「出来過ぎている」ようだった。光の当たる場所があれば、その光の下には影が落ちる。影の部分に色を塗ると、途端に注意されるのだ。
「それは年頃の絵らしくありませんよ」
幼稚園の先生は「よーく観察して描きましょう」という同じ口で「もっと幼稚園児らしい絵を描きましょう」と言った。
どうも周りの園児は、僕のように物には何色も色があって、それをいろいろ混ぜて色になっていることも、光の指した場所には影が落ちることも、ときどき建物や風景の中に空の色が混じり込むことも理解してないようだった。
僕の描く絵は、ただただ幼稚園の先生を困惑させていた。
僕の絵を見て喜んでくれたのは母さんだけだった。
「あなたは天才かもしれないわ!」
母さんは元々、美大出身のキュレーターであり、世界中の美術品の売買を行っていた。でも今はどこもかしこも不景気で、美術を正しく扱われないということが増えて悩んでいる中で、僕の才能を見つけたらしい。
幼稚園の先生たちの言葉で潰されかけたとき、母さんは怒った。
「あなた方はこの子の才能を潰す気ですか!? 今時これだけ描ける子はいないのに!」
「で、ですが……これでは他の子たちにも示しが……」
「他の子たちってなんですか!? 大和と他の子たちが違うからって、どうしてこの子の絵を他の子たちの低レベルに合わせないといけないんですか!」
「で、ですからぁ……」
今思っても、幼稚園の先生からしてみれば母さんはモンスタークレーマー以外の何者でもなかっただろう。なにかがひとつ飛び抜けた人間なんて育てたことのない人からしてみれば、他の子たちと示しが付かないと是正しようとするのが常だ。
でも、母さんがいなかったら僕は絵を続けられなかったと思う。
クレヨンで一生懸命考えて塗った絵を「こういうのはよくないよ」と先生に上から塗り重ねられていくとき、僕の心も黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗りつぶされたような気がしたから。
きっと母さんは周りからはろくでもない人だったかもしれないけれど、僕にとっては大切な人だった。
母さんに勧められるがまま、小中高一貫の私学の学校に入学したら、僕の絵はそのまま褒められるようになった。
美術部で公募に出せば、それがすぐに入賞する。賞金ももらうようになり、いろんな美術系、芸術系の大学から「うちに来ないか?」の誘いを頻繁に受けるようになった。
僕は美大に行くための塾に通いながら、うきうきと絵を描いていた。
絵さえ描いていれば、それで満足できると思ったからだ。
でも。僕は絵を一生懸命描いていて、ときどき頭に浮かんだ海の風景と、見知らぬ女の子の年齢が、だんだん僕に近付いてくることに気が付いた。
小さな頃は大人に見えた彼女も、もしかすると同い年なのかもしれない。もしかするとどこかですれ違っているのかもしれない。
そう思ったけれど、会うことはできなかった。
なんとか思い出そうとしても、僕の白昼夢でしか見ない女の子が誰なのか、わからなかった。
****
僕の心が折れそうになったのは、僕が美大に入ってからだった。
僕のことをずっとプロデュースしていた母さんは、この頃くらいからひどく壊れていた。僕にずっとかかりっきりだった母さんに痺れを切らし、父さんはとうとう家を出て行った。母さんはそれを気にする素振りすら見せず「さあ、あなたはもう大学生になったんだし、成人したんだから、そろそろあなたの絵を世に売り出さなきゃ!」と僕の絵を売りはじめたのだ。
現代美術のキュレーター仲間に見せ、次々と僕の絵を売り出す。
僕が白昼夢の女の子に会いたさで描いた絵は、すごい勢いで値段が付けられていき、気付けば家一軒どころか、ビル一棟建ちそうな値段で売れていた。
僕が生きているだけで、すごい勢いで金が回っていく。そこから、だんだん僕の視界が濁りはじめていた。
僕にとって、世界に色が溢れているのは当たり前で、どうにかしてそれを写生して繋ぎ止めて、世界に真実の色としてさらけ出すのが僕の絵の描き方だったのに、世界が濁りはじめると、絵を塗っていく中でも、迷いが生じた。
母に言われるがままに完成させ、褒めそやされても、僕にはその絵が濁って見えるのだから、なにがそんなにいいのかがわからなくなっていた。
僕の絵はおかしい。僕の絵は間違ってる。僕の世界はおかしい。僕の世界がどんどん壊れていく。
だんだん、絵筆を取るのが嫌になり、食事もどんどん喉を通らなくなっていった。
なにも描けない。それだったらただ筆を折るだけで済んだのに。
描けたものの絵が歪んで見える。それを褒めちぎられていくのだから、僕はもう気が狂いそうになっていった。
母さんに頼まれた絵は、中途半端な出来だった。それが完成できる気がせず、もうこの絵を捨ててしまって、僕の人生も終わらせてやろうか。
そうじわり……と胸の奥から黒いものがしみ出してきたとき。
ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンッ。
まるで場違いで、空気を読まない扉を叩く音が響いた。
うるさいな、僕に悩む暇もくれないのか。イライラして「うるさい」と黙らせようとしたとき、扉を開いて驚いた。
中肉中背。セミロングの真っ直ぐに伸びた髪。白いシャツにロングスカート。
僕が小さい頃から白昼夢で見続けている女の子が、僕の前に現れたのだ。
白昼夢で見ていた女の子は、もっと綺麗で儚くて、手を伸ばせば消えてしまいそうな印象があったけれど、目の前に現れた白昼夢の女の子の相田さんはやかましかった。
いきなり人の顔を見た途端に泣き出したと思ったら、「好きです!」と意味のわからないことを言い出したり。
かと思ったら、こちらの予定も無視して無理矢理マンションから連れ出そうとしたり。
土足で人のテリトリーに踏み込んできて、わめき散らして、かと思ったらこちらがなにかを見ていたりしたりしていた途端に黙り込んで、こちらの様子をずっと凝視してくる。そしてときどき何故か溜息をつき出す。
意味がわからなかった。
ストーカーにしてはあまりに謙虚な上に邪魔ではなく、ファンにしては口やかましくて人を前にして「どこがいいのか全然わからない」と好き勝手言ってくる。
相田さんは本当に訳のわからない生き物過ぎて、僕はどうして小さい頃から彼女のことを繰り返し白昼夢で見続けていたのか、訳がわからなくなった。
マンションに帰り、依頼品の完成のために筆を勧めた。本当だったらあと少しだけ乾燥させてから手を加えたいけれど、間に合わないと判断して、油絵具の中に乾燥促進剤を混ぜながら塗り重ねていく。
絵を描いていたら、ときどき目の前の絵だけでなく、他の絵を描きたくなることがある。
僕は急に目の前に現れた相田さんが何者なのかわからないが。海でこちらの横顔を凝視していたことを思い出した。
潮風の中に、彼女が付けている柑橘系の制汗剤の匂いが溶け込んだ。その匂いはひどくこそばゆくて、僕の気持ちを浮足立たせた。
小さい頃から見ていた白昼夢の正体は年下の子で、なんでここに押しかけて来たのかわからないけれど、上目遣いでこちらをじっと見ていた、笑顔でも真顔でもない不思議な色を帯びた表情は、手が空いていたら切り取りたくてたまらないものだった。
どうにか依頼品を完成させたあと、僕は手を洗い、エプロンを一旦椅子に引っかけると、ペットボトルを傾けた。
ふいにまだ真っ白な新しいキャンパスを目に留める。
木炭を摘まむと、本当に当たりだけを書き込んで、寝袋にくるまった。今日はさっさと眠って、絵を完成させたかったんだ。
****
夢を見た。どうも夢の中で、僕は何度も何度も相田さんに暴言を吐いているようだった。
彼女は一瞬怯んだり、泣き出しそうに顔を歪めるけれど、それでも噛みついてくるし、逃げ出すことがない。
僕からしてみると、きっと余計なお世話だと思ったんだろう。実際に、今の僕ももし相田さんを小さい頃から繰り返し繰り返し夢で見ていなかったら、きっと全く同じ反応をしていただろうから、彼女がなにをそんなに躍起になっているのかさっぱりわからず、見守ることしかできなかった。
でも。ときどき気持ちがポキンと折れて、なにもかもが嫌になって投げ出したくなることだってある。
普段の僕はそこまで気持ちを追い込まないけれど、絵を書き連ね、今まで見えていた色彩が急になりを潜めてなにも見えなくなったときは、もう死ぬしかないと思ってベランダの手すりに手をかけていた。
でも。不思議なことに。
相田さんが来た時には、急に見えなくなった、見えて当たり前だった色彩が戻ってきていた。
母さんでも駄目で、母さん越しに依頼してくるクライエントでも駄目で、数少なく大学でしゃべっている友達にすら、このことは言えなかったのに。もちろん、相田さんにだって言っていない、こんなこと。
彼女の周りは発光して見えて、それを筆でなぞればちゃんと色づいて見えた。
だから僕は、やっと呼吸の仕方を思い出せたんだ。
相田さんと母さんが揉めはじめたとき、僕はどちらの味方をすればいいのかがわからなかった。
母さんはきっと、昔から見えていたはずの僕の色が見えなくなったと言ったら、僕の絵を売ることに熱を傾けていた母さんが、突然に壊れてしまう恐れがあって言えなかった。
いや、違う。
捨てられてしまうかもしれないと思ったら、怖くて言えなかった。
絵を書き加えることも、絵を「違う」と言い切ることもない人は、母さん以外に知らなかったから。
相田さんは、僕に色を取り戻してくれた人。彼女からしてみると、母さんは諸悪の根源のように見えているみたいだった。違うんだ、僕が隠しているのが駄目だったんだ。
ふたりが揉めてどこかに行っている間、僕は昨日当たりだけ描いた絵に、必死で色を乗せていた。
彼女の周りは光り輝いていた。何気ない日常、なんの変哲もないものすらも、それこそ道端に佇んでいる草も、石も、きらめいて息づいていた。
ただ僕が見た白昼夢の子だからじゃない。ただ僕を「好き」と言ったからじゃない。
絵を描けなくなっていた僕すらも、彼女は追いかけてくれたからだ。
この浮足だったり、沈んだり、足が軽くなったり、胸がキシキシと言ったり。それが恋っていうんだったらきっとつらい。
でも、一度知ってしまったら、もう知らなかった頃には戻れない。
言葉で伝えるのが下手くそな僕は、絵を描いて伝える以外に、気持ちを伝える方法が思いつかなかった。
私は茫然と、如月さんの絵を見ていた。
海を一緒に眺めていたときの、私は。こんな顔をしていたのか。びっくりするほど発光していて、まるで初恋にのぼせ上がったような絵で気恥ずかしいけれど。この人がこんな絵をくれるなんて思ってもいなかったので、私は如月さんを思わず眺めていた。
お母様はというと、もうなにも言う気はないようだった。
ただ諦めたように、「スケジュール調整するから。大学に戻るか、このままやめるか考えておいてちょうだいね」とだけ言い残して、立ち去っていった。
お母様は存外、如月さんのことを考えていて、思っているよりもずっと柔軟な人だった。そのことにほっとしながら、私は如月さんに振り返った。
「……どうして、この絵を」
「なんかずっと、君を見ていた気がするから」
「え? だって。私たちこの間会ったばかりですよね?」
「これは母さんにも言ったことないけど。僕はずっと君のことを夢で見続けていたから」
それに私は思わず目を見開く。
……私は気付いたらずっとループの中に閉じ込められていた。どうしてこんな目にと思いながら繰り返し続けて、試しにいろいろしていたら、如月さんに会うことができたけれど。
前に美月にSF関連の本を読ませてもらったとき、タイムループについて供述があった。何度も何度もやり直して繰り返した世界は、ただ捨てられるんじゃなくって、何度もやり直しているほうに括り付くんだと。
タイムループでくるくると繰り返した世界は螺旋状になって進み、少しずつ変わっていくのだと。その中で、前のループ、私の中では終わってしまった世界が、稀に次のループの中で情報として残るのだと。
もしかすると私が何度も何度も繰り返していく内に、如月さんは夢として見ていたのかもしれない。私が何度もやり直したことが、少しは彼の中に残っていたのだとしたら……それは幸せなことだと思う。
私はもう一度描かれた絵を見た。
「……私にしては綺麗過ぎますよ」
「知ってるよ。思い出なんて美化されるじゃないか。写真で撮ってもそれそのものにはならないし、絵を描いても輝きが足されるし」
「なんでですか。本物見てよくそんなこと言えますね」
「でも、それが君じゃないか」
思わず喉を詰まらせた。
そのあと、如月さんは「あー……」と声を出した。
「……君は口うるさいし、わがままだし、ストーカーだし……君はさんざん僕のことをどこがいいのかわからないって言うけれど、僕だってそっくりそのまま返すよ。君のどこがいいのかちっともわからない」
「なんだとこのヤロー。陰険メガネ」
「君本当に罵倒のセンスのカケラもないな。でも僕は君がいいんだよ……そんな君が、いいんだ」
そこまで言って、如月さんは押し黙ってしまった。
それに私の胸はキューンと鳴った。
このへそ曲がりで口も態度も悪過ぎる人にしては、あまりにもストレートな言葉だったからだ。
「えへぇ……」
「なんだその反応」
「私、如月さんのそういうところ、結構好きですよ」
「……訳わかんない」
「私だって同じですよ……お願いですから」
私は描いてくれたキャンパスの縁を撫でた。さっきまで描いていたのだから、当然ながらまだ絵は乾いていない。それを見ながら私は如月さんに振り返った。
「お願いですから、一緒にいてくださいよ。あなたが苦しいっていうの、私も一緒になんとか考えますから」
「……うん」
「私も学校に戻りますから。それでもあなたに会いに行きますから……ああ、そうだ」
そういえば、どのループの中でもしていなかった。私はスマホを取り出して、アプリを見せた。
「アプリのID教えてください」
アプリのIDを交換して、一緒に話そうと語らった。
普通はもっと最初にやることなのに、出会いも馴れ初めも普通じゃなかった私たちでは、なかなか考えが及ばなかったことだ。
あれだけ気が遠くなるほど繰り返された七日間をひたすら繰り返す日々は、唐突に終わりを迎えた。
私は図書館で美月に本を選んでもらいながら、閲覧席にもたれかかる。
「どうしたの晴夏ちゃん。元気ない?」
「元気ないって訳じゃないんだけどね。ねえ、美月はSFに詳しい?」
「SF小説はそこそこ読んでいると思うけど、ものすごく詳しい訳じゃないよ。でもどうしたの?」
「うーんとね、同じ時間帯を繰り返す話ってあるじゃない」
「あるねえ。タイムループとかタイムリープとかいろいろ言われているSFジャンルのひとつね」
私も結局のところ、あの日々がなんだったのかよくわからないし、なんで巻き込まれたのかすらわからないけれど。
なんとなく聞いてみる。
「それってさあ、タイムループが途切れる原因ってあるの?」
「うーんと、たとえば同じ一日をひたすら繰り返すのがいきなり終わるとか?」
「そこまで短いのもあるんだ……うん、そういうの」
「そうだねえ……書きたいテーマにもよるから、原因究明して解決するタイプの話もあれば、なんの説明もなく唐突にはじまって唐突に終わるパターンもあるよ」
「ふーん……」
「でもねえ、あくまでタイムループって、話の中のギミックのひとつで、結局は話のテーマにはならないと思うんだよねえ」
読書家の美月の中では理屈はあるんだろうけれど、今の私にはなにがなにやらさっぱりだった。
「ところでえ、私はいきなり晴夏ちゃんが美大の受験勉強はじめたことのほうが驚いているんだけど。なにがあったの?」
「うーんと、ギャラリストになりたいから、イチから美術の勉強がしたくて」
「ぎゃらりすと……?」
「画商と言えばいいのかな」
私は如月さんの絵を頭に思い浮かべた。
「知り合いの絵描きがあまりにも描きたくないものばかり描かされるから、いっそのこと仕切ろうかと思って」
「仕切るって……商売?」
「画商のお母様だけだったら、潰されちゃうと思ったから」
その話を聞いていた美月は、ポカンとしてから呟いた。
「……最近サボってた理由って、それ?」
「あはははは、そうかも」
結局はそこで話は途切れた。
美月に探してもらったのは美大のデザインコースの受験のあれこれ。私が絵を描く訳ではないけれど、デッサンがある程度できないとスタートラインにすら立てないのだから、頑張るしかないのだ。
お父さんがある程度理解は示してくれたけれど、お母さんを説得するのにはだいぶ骨が折れた。
頑張ろう。私は自然とそう自分を励ましていた。
****
如月さんと遊びに行くことは増えた。
あれだけ高層マンションから出てこなかった人が、本当にたまにだったら向こうから誘ってくれるようになったのには驚いた。
人がそこそこ捌けている喫茶店で、ふたりでお茶を飲む。
「ふうん……相田さんも美大か。後輩になるの?」
「そうなりますかね……私、美術方面はあまりに普通過ぎるんで、学科勝負にはなりますが」
「でも学科と実技は点数が半々だったから、どちらもしておくことに越したことはないけれど」
「そうですかねえ……」
如月さんは意外と嫌味を言わずに真面目に答えてくれた。私の話を聞いていた如月さんは、じぃーっと私を見た。
「僕が絵を描いてるから、美大に行こうとしたの?」
「というより、きっかけかもしれません。うちの親も絵を描いてましたし。絵を描く人をサポートしたいってなったら、画商くらいしか進路が思いつかなかったんです」
私の言葉に、如月さんはじぃーっとメガネ越しに私を見てきた。
「無理はしてない?」
「してないですね。さっきも言った通り、私の進路が決まったのは成り行きですから。まずは美大に合格しないとどうにもなりませんし」
「……そう。頑張って」
「はいっ」
私が頷くと、如月さんは少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
ずっと頑なだった表情は、気付けばときどき緩むようになった。それが少しだけ嬉しい。
お茶を飲み終わったあと、ふたりでなんとはなしに歩く。ふいに如月さんに手を伸ばされ、手を繋ぐ。普段絵を描き続けている彼の指先は、筆豆ができるほどに固くボコッとしていた。
「次はどうしようか」
「如月さんの見たいものでいいですよ」
「僕ばかりだけれど。君は?」
「そうですねえ……ラベンダーの時期に植物園に行きたいです」
「そう……わかった」
本当の本当に。
七日間のタイムループに紛れ込んで、いつまで経っても終わらない無限ループに飽き飽きしなかったら。
思い付きで学校をさぼって出かけなければ。
目の前にキャンパスが落ちてこなかったら。きっと今の気持ちも知らないままだった。
今は如月さんがいる。今は私といる。
もう、それだけで今は幸せだった。
<了>