小さい頃から、ぼんやりと頭に浮かんでいた。
海の光景。波の風景。流れる雲に青い空。その変哲のない景色の中に、鮮やかな誰かがいたような光景。
それが最初は誰だかわからなかった。
僕は漠然と、小さい頃から見ていたものを描きたくて、絵を描きはじめるようになったんだ。
もどかしいと思ったのは、僕の絵はどうも同年代と比べると「出来過ぎている」ようだった。光の当たる場所があれば、その光の下には影が落ちる。影の部分に色を塗ると、途端に注意されるのだ。
「それは年頃の絵らしくありませんよ」
幼稚園の先生は「よーく観察して描きましょう」という同じ口で「もっと幼稚園児らしい絵を描きましょう」と言った。
どうも周りの園児は、僕のように物には何色も色があって、それをいろいろ混ぜて色になっていることも、光の指した場所には影が落ちることも、ときどき建物や風景の中に空の色が混じり込むことも理解してないようだった。
僕の描く絵は、ただただ幼稚園の先生を困惑させていた。
僕の絵を見て喜んでくれたのは母さんだけだった。
「あなたは天才かもしれないわ!」
母さんは元々、美大出身のキュレーターであり、世界中の美術品の売買を行っていた。でも今はどこもかしこも不景気で、美術を正しく扱われないということが増えて悩んでいる中で、僕の才能を見つけたらしい。
幼稚園の先生たちの言葉で潰されかけたとき、母さんは怒った。
「あなた方はこの子の才能を潰す気ですか!? 今時これだけ描ける子はいないのに!」
「で、ですが……これでは他の子たちにも示しが……」
「他の子たちってなんですか!? 大和と他の子たちが違うからって、どうしてこの子の絵を他の子たちの低レベルに合わせないといけないんですか!」
「で、ですからぁ……」
今思っても、幼稚園の先生からしてみれば母さんはモンスタークレーマー以外の何者でもなかっただろう。なにかがひとつ飛び抜けた人間なんて育てたことのない人からしてみれば、他の子たちと示しが付かないと是正しようとするのが常だ。
でも、母さんがいなかったら僕は絵を続けられなかったと思う。
クレヨンで一生懸命考えて塗った絵を「こういうのはよくないよ」と先生に上から塗り重ねられていくとき、僕の心も黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗りつぶされたような気がしたから。
きっと母さんは周りからはろくでもない人だったかもしれないけれど、僕にとっては大切な人だった。
母さんに勧められるがまま、小中高一貫の私学の学校に入学したら、僕の絵はそのまま褒められるようになった。
美術部で公募に出せば、それがすぐに入賞する。賞金ももらうようになり、いろんな美術系、芸術系の大学から「うちに来ないか?」の誘いを頻繁に受けるようになった。
僕は美大に行くための塾に通いながら、うきうきと絵を描いていた。
絵さえ描いていれば、それで満足できると思ったからだ。
でも。僕は絵を一生懸命描いていて、ときどき頭に浮かんだ海の風景と、見知らぬ女の子の年齢が、だんだん僕に近付いてくることに気が付いた。
小さな頃は大人に見えた彼女も、もしかすると同い年なのかもしれない。もしかするとどこかですれ違っているのかもしれない。
そう思ったけれど、会うことはできなかった。
なんとか思い出そうとしても、僕の白昼夢でしか見ない女の子が誰なのか、わからなかった。
****
僕の心が折れそうになったのは、僕が美大に入ってからだった。
僕のことをずっとプロデュースしていた母さんは、この頃くらいからひどく壊れていた。僕にずっとかかりっきりだった母さんに痺れを切らし、父さんはとうとう家を出て行った。母さんはそれを気にする素振りすら見せず「さあ、あなたはもう大学生になったんだし、成人したんだから、そろそろあなたの絵を世に売り出さなきゃ!」と僕の絵を売りはじめたのだ。
現代美術のキュレーター仲間に見せ、次々と僕の絵を売り出す。
僕が白昼夢の女の子に会いたさで描いた絵は、すごい勢いで値段が付けられていき、気付けば家一軒どころか、ビル一棟建ちそうな値段で売れていた。
僕が生きているだけで、すごい勢いで金が回っていく。そこから、だんだん僕の視界が濁りはじめていた。
僕にとって、世界に色が溢れているのは当たり前で、どうにかしてそれを写生して繋ぎ止めて、世界に真実の色としてさらけ出すのが僕の絵の描き方だったのに、世界が濁りはじめると、絵を塗っていく中でも、迷いが生じた。
母に言われるがままに完成させ、褒めそやされても、僕にはその絵が濁って見えるのだから、なにがそんなにいいのかがわからなくなっていた。
僕の絵はおかしい。僕の絵は間違ってる。僕の世界はおかしい。僕の世界がどんどん壊れていく。
だんだん、絵筆を取るのが嫌になり、食事もどんどん喉を通らなくなっていった。
なにも描けない。それだったらただ筆を折るだけで済んだのに。
描けたものの絵が歪んで見える。それを褒めちぎられていくのだから、僕はもう気が狂いそうになっていった。
母さんに頼まれた絵は、中途半端な出来だった。それが完成できる気がせず、もうこの絵を捨ててしまって、僕の人生も終わらせてやろうか。
そうじわり……と胸の奥から黒いものがしみ出してきたとき。
ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンッ。
まるで場違いで、空気を読まない扉を叩く音が響いた。
うるさいな、僕に悩む暇もくれないのか。イライラして「うるさい」と黙らせようとしたとき、扉を開いて驚いた。
中肉中背。セミロングの真っ直ぐに伸びた髪。白いシャツにロングスカート。
僕が小さい頃から白昼夢で見続けている女の子が、僕の前に現れたのだ。
海の光景。波の風景。流れる雲に青い空。その変哲のない景色の中に、鮮やかな誰かがいたような光景。
それが最初は誰だかわからなかった。
僕は漠然と、小さい頃から見ていたものを描きたくて、絵を描きはじめるようになったんだ。
もどかしいと思ったのは、僕の絵はどうも同年代と比べると「出来過ぎている」ようだった。光の当たる場所があれば、その光の下には影が落ちる。影の部分に色を塗ると、途端に注意されるのだ。
「それは年頃の絵らしくありませんよ」
幼稚園の先生は「よーく観察して描きましょう」という同じ口で「もっと幼稚園児らしい絵を描きましょう」と言った。
どうも周りの園児は、僕のように物には何色も色があって、それをいろいろ混ぜて色になっていることも、光の指した場所には影が落ちることも、ときどき建物や風景の中に空の色が混じり込むことも理解してないようだった。
僕の描く絵は、ただただ幼稚園の先生を困惑させていた。
僕の絵を見て喜んでくれたのは母さんだけだった。
「あなたは天才かもしれないわ!」
母さんは元々、美大出身のキュレーターであり、世界中の美術品の売買を行っていた。でも今はどこもかしこも不景気で、美術を正しく扱われないということが増えて悩んでいる中で、僕の才能を見つけたらしい。
幼稚園の先生たちの言葉で潰されかけたとき、母さんは怒った。
「あなた方はこの子の才能を潰す気ですか!? 今時これだけ描ける子はいないのに!」
「で、ですが……これでは他の子たちにも示しが……」
「他の子たちってなんですか!? 大和と他の子たちが違うからって、どうしてこの子の絵を他の子たちの低レベルに合わせないといけないんですか!」
「で、ですからぁ……」
今思っても、幼稚園の先生からしてみれば母さんはモンスタークレーマー以外の何者でもなかっただろう。なにかがひとつ飛び抜けた人間なんて育てたことのない人からしてみれば、他の子たちと示しが付かないと是正しようとするのが常だ。
でも、母さんがいなかったら僕は絵を続けられなかったと思う。
クレヨンで一生懸命考えて塗った絵を「こういうのはよくないよ」と先生に上から塗り重ねられていくとき、僕の心も黒いクレヨンでぐちゃぐちゃに塗りつぶされたような気がしたから。
きっと母さんは周りからはろくでもない人だったかもしれないけれど、僕にとっては大切な人だった。
母さんに勧められるがまま、小中高一貫の私学の学校に入学したら、僕の絵はそのまま褒められるようになった。
美術部で公募に出せば、それがすぐに入賞する。賞金ももらうようになり、いろんな美術系、芸術系の大学から「うちに来ないか?」の誘いを頻繁に受けるようになった。
僕は美大に行くための塾に通いながら、うきうきと絵を描いていた。
絵さえ描いていれば、それで満足できると思ったからだ。
でも。僕は絵を一生懸命描いていて、ときどき頭に浮かんだ海の風景と、見知らぬ女の子の年齢が、だんだん僕に近付いてくることに気が付いた。
小さな頃は大人に見えた彼女も、もしかすると同い年なのかもしれない。もしかするとどこかですれ違っているのかもしれない。
そう思ったけれど、会うことはできなかった。
なんとか思い出そうとしても、僕の白昼夢でしか見ない女の子が誰なのか、わからなかった。
****
僕の心が折れそうになったのは、僕が美大に入ってからだった。
僕のことをずっとプロデュースしていた母さんは、この頃くらいからひどく壊れていた。僕にずっとかかりっきりだった母さんに痺れを切らし、父さんはとうとう家を出て行った。母さんはそれを気にする素振りすら見せず「さあ、あなたはもう大学生になったんだし、成人したんだから、そろそろあなたの絵を世に売り出さなきゃ!」と僕の絵を売りはじめたのだ。
現代美術のキュレーター仲間に見せ、次々と僕の絵を売り出す。
僕が白昼夢の女の子に会いたさで描いた絵は、すごい勢いで値段が付けられていき、気付けば家一軒どころか、ビル一棟建ちそうな値段で売れていた。
僕が生きているだけで、すごい勢いで金が回っていく。そこから、だんだん僕の視界が濁りはじめていた。
僕にとって、世界に色が溢れているのは当たり前で、どうにかしてそれを写生して繋ぎ止めて、世界に真実の色としてさらけ出すのが僕の絵の描き方だったのに、世界が濁りはじめると、絵を塗っていく中でも、迷いが生じた。
母に言われるがままに完成させ、褒めそやされても、僕にはその絵が濁って見えるのだから、なにがそんなにいいのかがわからなくなっていた。
僕の絵はおかしい。僕の絵は間違ってる。僕の世界はおかしい。僕の世界がどんどん壊れていく。
だんだん、絵筆を取るのが嫌になり、食事もどんどん喉を通らなくなっていった。
なにも描けない。それだったらただ筆を折るだけで済んだのに。
描けたものの絵が歪んで見える。それを褒めちぎられていくのだから、僕はもう気が狂いそうになっていった。
母さんに頼まれた絵は、中途半端な出来だった。それが完成できる気がせず、もうこの絵を捨ててしまって、僕の人生も終わらせてやろうか。
そうじわり……と胸の奥から黒いものがしみ出してきたとき。
ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンッ。
まるで場違いで、空気を読まない扉を叩く音が響いた。
うるさいな、僕に悩む暇もくれないのか。イライラして「うるさい」と黙らせようとしたとき、扉を開いて驚いた。
中肉中背。セミロングの真っ直ぐに伸びた髪。白いシャツにロングスカート。
僕が小さい頃から白昼夢で見続けている女の子が、僕の前に現れたのだ。